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2024/12/31

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 林檎

 

Waringo

[やぶちゃん注:左下方に、花が二つ、描かれてある。] 

 

りんご  文林卽果

     來禽

     【和名利宇古宇

林檎   今利牟五】

 

 【初從河中浮來有文林卽

  拾得種之因以爲名云云】

[やぶちゃん字注:異名筆頭、及び、最後の割注にある「文林卽」は、孰れも「文林郎」の誤記か誤刻。訓読文では訂した。]

 

本綱林檎樹似柰而二月開粉紅花子亦如柰而差圓六

七月熟卽柰之小而圓者其味酸澀卽梣【一名楸子】也其類

多金【林檎】紅【林檎】水【林檎】𮔉【林檎】黑【林檎】皆以色味立

名有冬月再實者林檎熟時晒乾研末㸃湯服甚差謂之

[やぶちゃん字注:「差」は引用の誤りか、誤刻で、「美」である。訓読文では、訂した。]

林檎麨若林檎樹生毛䖝埋蠶蟻于下或以洗魚水澆之

[やぶちゃん字注:「蠶」は、原文では、最上部が「先先」になったものだが、表示出来ないので、通用字で示した。「蟻」は「蛾」の誤り、又は、誤刻。訓読文では、訂した。]

卽止皆物性之妙也

林檎【酸甘温】 下氣消痰治霍亂肚痛消渴者宜食之

 多食令人好𪾶或生瘡癤其子食之令人煩心

古今醫統云收貯法林檎毎百顆內取十顆椎碎入水前

[やぶちゃん注:最後の「前」は「煎」の誤記か誤植。訓読文では訂した。]

 候冷內缸中浸滿爲度宻封缸口久留佳

△按林檎花葉類海棠花莟紅色開則白帶微紅似海棠

 花而小其實有窪溝如繩痕徐熟半青半紅味淡甘微

 酸脆美今病人口中凋乾好吃之如實熱消渴者不害

 虛熱煩渴者生冷物不宜食

 

   *

 

りんご  文林郞果《ぶんりんらうくわ》

     來禽《らいきん》

     【和名、「利宇古宇《りうこう》」。

林檎   今、「利牟五《りんご》」。】

 

 【初め≪黃≫河の中より、浮き來たりしを、

  文林郞と云ふ人、有りて、拾ひ得て、之

  れを、種う。因りて、以つて、名を爲す

  と云云《うんぬん》。】

[やぶちゃん注:最後の割注の「云」「人」の漢字は送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『林檎《りんきん》の樹、「柰《だい》」に似て、二月に粉紅《うすべに》≪の≫花を開く。子《み》も亦、「柰」ごとくにして、差《やゝ》、圓《まろ》く、六、七月、熟す。卽ち、柰の小《せう》にして、圓《まろ》き者なり。其の味、酸《すぱ》く、澀(しぶ)き者は、卽ち、「梣《しん》」【一名、「楸子《しうし》」。】なり。其の類《るゐ》、多し。「金」【林檎。】・「紅《こう》」【林檎。】・「水《すい》」【林檎。】・𮔉《みつ》【林檎。】・「黑《くろ》」【林檎。】、皆、色・味を以つて、名を立つ。冬月、再び實(み)のる者、有り。林檎、熟する時、晒乾《さらしほ》し、研《けん》し、末《みがき》≪な≫して、湯に㸃じて、服す。甚だ、美なり。之れを「林檎麨《りんごしやう》」と謂ふ。若《も》し、林檎の樹、毛䖝を生ぜば、蠶蛾《かいこが》を下に埋(うづ)み、或いは、魚を洗《あらひ》らる水を以つて、之れを澆《そそ》げば、卽ち、止《やむ》。皆、物性《ぶつせい》の妙なり。』≪と≫。

『林檎【酸甘、温。】』『氣を下《くだ》し、痰を消《けし》、霍亂・肚痛《はらいた》を治す。消渴《しやうけつ》[やぶちゃん注:口が渇き、小便が近い症状。私と同じ糖尿病のこと。]の者、宜しく、之れを食ふべし。』≪と≫。

『多≪く≫食へば、人をして、𪾶《ねむる》ことを好み、或いは、瘡癤《さうせつ》[やぶちゃん注:吹き出物。]を生ず。其の子《み》、之れを食へば、人をして煩心《はんしん》[やぶちゃん注:心臓が激しく悶え、苦しむこと。]せしむ。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『收貯(たく《は》)ふ法。林檎、百顆《ひやくくわ》毎《ごと》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]の內、十顆を取りて、椎(つ)き碎(くだ)き、水に入《いれ》、煎《せんじ》、冷《ひゆ》るを候《まち》て、缸《かめ》[やぶちゃん注:水を入れる大きな甕。]の中に內(い)れて、浸《ひたし》滿《みち》るを、度《たびたび》爲《な》し、宻《みつ》に缸の口を封ず。久《ひさしく》留《とど》めて、佳なり』≪と≫。

△按ずるに、林檎《りんご》の花・葉、海棠に類《るゐ》す。花・莟、紅色、開けば、則ち、白≪に≫微紅を帶ぶ。海棠の花に似て、小《ちさ》し。其の實、窪(くぼ)き溝《みぞ》、有り、繩《なは》の痕(あと)のごとし。徐(やや)、熟して、半《なかば》、青く、半、紅《あかく》、味、淡甘≪にして≫、微《やや》、酸《すぱく》、脆《もろ》く、美《うまき》なり。今、病人の口中、凋(ねば)り、乾《かはく》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、好《このん》で、之れを、吃《こ》ふ。實熱にして消渴のごときなる者は、害、ああらず。虛熱にして、煩渴《はんかつ》[やぶちゃん注:激しい渇き。]の者は、生《なま》≪の≫冷《つめたき》物、宜《よろ》しく、食すべからず。

 

[やぶちゃん注:前々項以降、相応の覚悟をしてこれを電子化しているのだが、思いの外、すっきりと出来そうなことが、早速、判ってきた。それは、東洋文庫訳の「本草綱目」の引用の頭の「林檎」に割注で、『バラ科ワリンゴ』とあったからである。これは、漢字表記「和林檎」なのだが、実は、このワリンゴは中国原産なのである。

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ属ワリンゴ Malus asiatica Nakai (1915)

である。当該ウィキのシノニム(synonym)をそのまま掲げておく。

Malus domestica var. asiatica (Nakai) Ponomar. (1991)

Malus domestica var. rinki (Koidzumi) Ohle (1986)

Malus dulcissima var. asiatica (Nakai) Koidz. (1934)

Malus dulcissima var. rinki (Koidz.) Koidz. (1916)

Malus matsumurae Koidz. (1909)

Malus prunifolia var. rinki (Koidz.) Rehder (1915)

Malus pumila var. rinki Koidz. (1913)

Pyrus matsumurae (Koidz.) Cardot (1918)

Pyrus ringo K.Koch (1869)

以上は主なもので、まだ他にもある。「維基百科」では、同種は「花紅」で立項し、異名を「沙果」(河北)・「文林郎果」(「本草綱目」)・「文林果」・「林檎」を挙げてある。

――♡いやいや! 地獄で仏の気分だね♡

気持ちよく、当該ウィキを引く(注記号はカットした。不要と判断した箇所は予告せずに省略した。下線・太字は私が附した)。『和林檎』は『ジリンゴ(地林檎)ともよばれる。春に白から薄ピンク色の花をつけ』、『黄色から赤色の果実が実る。中国原産であり、古くから栽培されて果実が利用されてきた。また』、『日本にも導入され、少なくとも鎌倉時代以降には栽培され』、『果実が食用や供え物として利用されていた。古くは本種が「リンゴ(林檎)」とよばれていたが、セイヨウリンゴの導入・普及とともにワリンゴ栽培は減少し、それに伴ってセイヨウリンゴがリンゴとよばれるようになった』。『葉は単葉。托葉は早落性、披針形、長さ』三~五『ミリメートル』、『縁に鋸歯があり、先は尖鋭形。葉柄は長さ』一・五~五『センチメートル』、『有毛』である。『葉身は卵形から楕円形』五~十一×四~五・五センチメートル、『基部は円形から広楔形、葉縁には鋸歯があり、先端は鋭頭から鋭尖頭、葉裏には密に毛があり、葉表は最初は有毛であるが』、『後に無毛』となる。『花期は』四~五『月』で、『短枝の先端に』四~七個から十個の『花からなる散形状の花序がつく。苞は早落性、披針形、有毛、先端は鋭尖形。花柄は長さ』一・五~二センチメートル、『密に毛がある。花は直径』三~四センチメートル、『花托に密に毛がある。萼片は三角形から披針形、長さ』四~五ミリメートル、『花托より』、『わずかに長く、両面に密に毛があり、縁は全縁、先端は尖鋭形。花弁は白色から』、『ややピンク色、倒卵形から長楕円形、長さ』〇・八~一・三センチメートル、『基部は短い爪状、先端は丸い。雄しべは』十七~二十『本、長さは不等で花弁より短い。花柱は』四~五『本、雄しべより長く、基部に綿毛がある。子房下位、子房は』四、五『室、中軸胎座で各室は』二『個の胚珠を含む』。『果期は』七~九『月。熟すと』、『果皮は黄色から赤色、直径』三・五~五センチメートル、『卵形から亜球形であり、基部が凹んでいる。果柄は長さ』一・五~二・五センチメートル、『軟毛がある。萼片は残存する。果肉には甘みもあるが、酸味や渋味が強い。貯蔵性は低い』。中国原産であり、おもに中国北部から東部に分布する。日当たりの良い斜面から平地の砂質土壌に生育する。朝鮮半島や日本にも導入され、古くから栽培されている』。さらに、ゲノム解析からは、カザフスタンなどに分布する Malus sieversii が中国北部に運ばれ、シベリアリンゴ Malus baccata と交雑することでワリンゴが生まれたと考えられている。一方で、 Malus sieversii (和名無し)『は西へも運ばれ、ヨーロッパで Malus sylvestris と交雑することでセイヨウリンゴ(現在の一般的な意味での「リンゴ」=セイヨウリンゴ Malus domestica 『が生まれた』★。

以下、「人間との関わり」の項。

『ワリンゴは、中国で「林檎」と表記されていた。中国では、「林檎」は遅くとも』六『世紀』(魏晋南北朝時代の混乱期を経て、世紀末に隋が統一した時期)『の本草書に記されており、この名は』(☞)『果実を食べに鳥が集まることを示す「来禽」に由来するともされる。特に中国北部から東北部で』、『果実利用のため』、『古くから栽培され、果実の形や色、大きさ、成熟期が異なるさまざまな栽培品種が作出された。しかし』、十九『世紀半ばにセイヨウリンゴが中国に導入され、下記の日本と同様に、現在では商業的に生産されている「リンゴ」のほとんどはセイヨウリンゴとなっている。中国では、現在』、『ワリンゴは「花や「沙果」、「文林郎果」と表記され、セイヨウリンゴは「苹果」や「蘋果」と表記されることが多い』。

一方、『日本における「林檎」の初出は』、『平安時代中頃』(承平年間(九三一年~九三八年)編纂)『の漢和辞典である』「和名類聚鈔」『であり、「カラナシ(カリン)に似て小さい実をつけるもの」とし、読みを「利宇古宇(りうこう/りうごう/りんごう)」としている。中世以降はリンキ、リンキン、リンゴの読みも見られるようになり、近世になるとリンゴの読みが一般的となった』。但し、「和名類聚鈔」は漢和辞典に過ぎず、『この時代に実際にワリンゴが日本で栽培されていたか否かは定かではない』。

しかし、『鎌倉時代の公家である藤原定家による』「明月記」の嘉禎元』(一二三五)年『の記に「庭樹林檎」とあり、少なくとも鎌倉時代には日本でも栽培されるようになったと考えられている。また、室町時代前期の』「庭訓往來」『や室町時代後期の』「尺素往來」(往来物は平安末期から明治初期にかけて編集・使用された一種の初歩教科書の総称で、当初は手紙の模範文例集であったが、近世に至って項目も多様化して、寺子屋の教科書となった)『にも記述があり、菓子(果物)の』一『つとして「林檎」が挙げられている。戦国大名である浅井長政による貰い受けた林檎に対する礼状が残っており、また』、『公家の山科言経』(ことつね)『による』「言經卿記」の天正一九(一五九一)年六月の記に、『林檎一盆が送られた』という『記述があることから、室町末期には上流階級では贈答などに用いられる果物であったことを示している』。

『江戸時代には、ワリンゴはさらに一般化し、東北地方から九州まで一部の地域で栽培されるようになったと考えられている』。十七『世紀』(「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年である)『の黒川道祐』(元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)は医者で歴史家。京都在住)『の書には』、「六月『下鴨納涼祭には売店が出てウナギの蒲焼やマクワウリ、桃、林檎が売られる」との記事があり、京都庶民の夏の果物となるほど普及していた』。『また天明』七(一七八七)年六『月、天明の大飢饉で困窮した民衆が京都御所に嘆願に集まった(御所千度参り)際に、後桜町上皇が皇室に献上されていた林檎』三『万個を民衆に下賜したとの記録がある。また』、『これに倣って』、『光格天皇が幕府と掛け合って二条城の米を放出させ、これらの行為が後の皇室敬慕、尊王思想につながったともされる。日本においては果期がお盆と重なるため、供え物としても利用されていた』。

『明治時代になると、日本政府はリンゴ属の別種である Malus domestica の苗木を大量に欧米から導入し、全国に配布した。Malus domestica の栽培が拡大するにつれ、林檎(ワリンゴ)の栽培は激減した。当初、Malus domestica はセイヨウリンゴ、オオリンゴ、トウリンゴ、苹果(へいか)などとよばれたが、単にリンゴと呼ばれることが多くなり、それに伴って』、『それまでの「リンゴ」はワリンゴまたはジリンゴとよばれるようになった』とある。

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「林檎」([075-17b]以下)のパッチワークである。必要があろうから、引用しておく(一部の表記に手を加えた)。

   *

林檎【宋開寶】 校正【併入拾遺文林郞果】

 釋名 來禽【法帖】文林郞果【藏器曰文林郞生渤海間云其樹從河中浮來有文林郞拾得種之因以爲名珣曰文林郞南人呼爲榲桲是矣時珍曰案洪玉父云此果味甘能來衆禽於林故有林禽來禽之名又唐髙宗時紀王李謹得五色林檎似朱柰以貢帝大恱賜謹爲文林郞人因呼林檎爲文林郞果又述征記云林檎實佳美其榲桲微大而狀醜有毛而香闗輔乃有江南甚希據此則林檎是文林郞非榲桲矣】

 集解【志曰林檎在處有之樹似柰皆二月開粉紅花亦如柰而差圓六月七月熟頌曰亦有甘酢二種白者早熟而味脆美酢者差晚須爛熟乃堪噉今醫家乾之入治傷寒藥謂之林檎散時珍曰林檎卽柰之小而圓者其味酢者卽楸子也其類有金林檎紅林檎水林檎蜜林檎黑林檎皆以色味立名黑者色似紫柰有冬月再實者林檎熟時晒乾研末㸃湯服甚美謂之林檎麨僧賛寧物類相感志云林檎樹生毛蟲埋蠶蛾於下或以洗魚水澆之卽止皆物性之妙也】

 氣味酸甘温無毒思【邈曰酸苦平濇無毒多食令人百脈弱志曰多食發熱及冷痰澀氣令人好唾或生瘡癤閉脈其子食之令人煩心】主治下氣消痰治霍亂肚痛【大明】消渴者宜食之【蘇頌】療水糓痢洩精【孟詵】小兒閃癖【時珍】

 附方【舊三】水痢不止【林檎半熟者十枚水二升煎一升并林檎食之【食醫心鏡】】小兒下痢【林檎構子同杵汁任意服之【子母秘録】】小兒閃癖【頭髮豎黃瘰㾧瘦弱者乾林檎脯研末和醋傅之【同上】】

 東行根主治白蟲蚘蟲消渴好唾【孟詵】

   *

「文林郞果」上記の「本草綱目」には、三名の語る故事が記されてあるが、時代が明確に記されてある二番目の時珍の語るそれを見るに、初唐の第三代高宗(在位:六四九年~六八三年)の時、紀王であった李謹が、既存の林檎の「朱柰」(しゅだい)に似た、五色の林檎を献貢したところ、高宗は、大いに悦んで、李謹に「文林郎」の位を賜った。因って、それ以後、「林檎」を「文林郎果」と称するようになった、とある。

「林檎麨《りんごしやう》」「麨」は「麦焦がし・はったい粉(こ)」を意味する。以上のような処理をした粉末が似ていたからであろう。中文検索を掛けたが、現在は作られていないようである。

「古今醫統」複数回、既出既注。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 柰

 

Dai

 

からなし 頻婆【梵言】

 

【音耐】

 

 

本綱柰江南雖有而北國最豊作脯食之【苦寒有小毒】與林檎

[やぶちゃん注:「雖」は、原本では、「グリフウィキ」のこれに近いが、(へん)の貫く「口」が、もう一つある奇体な字体で、表示出来ない。通用字で示した。]

一類二種樹實皆似林檎而大有赤白青三色白者爲素

柰赤者爲丹柰【一名朱柰】青者爲綠柰皆夏熟

又有冬柰冬熟子帶碧色【凉州有之】

 

   *

 

からなし 頻婆《ひんば》【梵言。】

 

【音「耐(タイ)」。】

 

 

「本綱」に曰はく、『柰《だい》は、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]にも有ると雖《いへども》、北國《ほくこく》には、最も豊《おほ》し。脯《ほしもの》と作《なし》、之れを食ふ【苦、寒。小毒、有り。】林檎と、一類、二種なり。樹・實、皆、林檎に似て、大なり。赤・白・青、三色、有り。白≪き≫者を、「素柰《そだい》」と爲し、赤き者、「丹柰《たんだい》」【一名、「朱柰《しゆだい》」。】と爲し、青き者を「綠柰《りよくだい》」と爲す。皆、夏、熟す。』≪と≫。

『又、「冬柰《とうだい》」、有り。冬、熟す。子《み》、碧色《みどりいろ》を帶ぶ【凉州[やぶちゃん注:現在の甘粛省。]、之れ、有り。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:前の「菴羅果」の項の最後の注で、中央アジア原産であるサクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica としたが(東洋文庫訳では、そっちも、こっちも、割注で「セイヨウリンゴ」に同定している)、その最後で、私は中国のリンゴの野生種の祖先として、

新疆野蘋果 Malus sieversii

を挙げ、英文の同種のページに於いて、その種が、セイヨウリンゴ Malus domestica の主な祖先であると断定されていることを示した結果、どうも、附和雷同的に「セイヨウリンゴ」でケリをつけるのが、厭になった。寧ろ、「菴羅果」の注で示した、中国原産、或いは、中国に分布する古いリンゴ類の孰れかである、とするのが、最も良心的であると考える。かと言って、ここに列挙される「素柰」・「丹柰」=「朱柰」・「綠柰」・「冬柰」を中文検索をしても、種名は、全く掛かってこないので、同定比定は不可能である。されば、これを以って、あっさりと注を終わることとする。逃げ? フフフ……いや、そうじゃないさ……だって――次の項はね、……「林檎」……なんだゼ?!?…………

 ただ、最後に、良安が勝手に「柰」につけた訓、「からなし」は、先行する「和漢三才圖會卷第八十六 果部 果部[冒頭の総論]・種果法・收貯果」で示した注を再掲しておく。現代中国語では、バラ科モモ亜科ナシ連ナシ(リンゴ)亜連リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica を指すが、宋代の「柰」は広義のリンゴ(リンゴ属)に留めておくのがよかろう。なお、この漢字は本邦では、まず、別にリンゴ属ベニリンゴ Malus beniringo を指す。小学館「日本大百科全書」によれば、葉は互生し、楕円形、又は、広卵形で、縁(へり)に細かな鋸歯(きょし)がある。四~五月、太く短い花柄の先に、白色、又は、淡紅色の花を上向きに開く。この形状から別名「ウケザキカイドウ」(受咲海棠)とも呼ぶ。楕円形のリンゴに似た果実が垂れ下がる。先端に宿存萼(しゅくそんがく:花が枯れ落ちた後になっても枯れずに残っている萼のこと)があり、十月頃、紅色、又は、黄色に熟す。本州北部原産で(従って、ここでの「柰」としては無効)、おもに盆栽にするが、切り花にも用いる。日当りのよい肥沃な砂質壌土を好み、寒地でよく育つ、とある。ところが、実は、この漢字、また、別に、日本では「からなし」(唐梨)と訓じ、一般名詞では赤い色をした林檎を指す以外に、面倒なことに、バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensisの異名としても通用しているのである(但し、カリンの中文ウィキ「木瓜(薔薇科)」の解説(非常に短い)には、この「柰」の字は載っていないし、前に出した「植物名實圖考(道光刻本)」の「第三十二卷」の「木瓜」の解説にも「柰」の字は使われていないから、「柰」には中国語としてはカリンの意はないと考えてよかろう)。ネット上でも、「柰」の字の示す種、或いは、標準和名や通称名・別名が、ごちゃごちゃになって記載されており、甚だ混乱錯綜してしまっている。――ダメ押しで、再度、中文検索サイト三箇所で旧漢名・ラテン語学名で検索したが、新しい発見は、なかった……。

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「菴羅果」([075-16b]以下)のパッチワークである。必要があろうから、引用しておく(一部の表記に手を加えた)。

   *

【别録下品】

 釋名 頻婆【音波言時珍曰篆文柰字象子綴於木之形梵謂之頻婆今北人亦呼之猶云端好也】

 集解【弘景曰柰江南雖有而北國最豐作脯食之不宜人林檎相似而小俱不益人士良曰此有三種大而長者爲柰圓者爲林檎皆夏熟小者味澀爲梣秋熟一名楸子時珍曰柰與林檎一類二種也樹實皆似林檎而大西土最多可栽可壓有白赤靑三色白者爲素柰赤者爲丹柰亦曰朱柰靑者爲綠柰皆夏熟凉州有冬柰冬熟子帶碧色孔氏六帖言凉州白柰大如兎頭西京雜記言上林苑紫柰大如升核紫花青其汁如漆著衣不可浣名脂衣柰此皆異種也郭義恭廣志云西方例多柰家家收切暴乾爲脯數十百斛以爲蓄積謂之頻婆粮亦取柰汁爲䜴用其法取熟柰納瓮中勿令蠅入六七日待爛以酒醃痛拌令如粥狀下水更拌濾去皮子良久去淸汁傾布上以灰在下引汁盡劃開日乾爲末調物甘酸得所也劉熈釋名載柰油以柰擣汁塗繒上暴燥取下色如油也今闗西人以赤柰楸子取汁塗器中暴乾名果單是矣味甘酸可以饋遠杜恕篤論云日給之花似柰柰實而日給零落虛僞與真實相似也則日給乃柰之不實者而王羲之帖云來禽日給皆囊盛爲佳果則又似指柰爲日給矣木槿花亦名日及或同名耳】

  氣味苦寒有小毒多食令人肺壅臚脹有病人尤甚【别錄曰思邈曰酸苦寒濇無毒時珍案正要云頻婆甘無毒】主治補中焦諸不足氣和脾治卒食飽氣壅不通者擣汁服【孟詵】益心氣耐飢【千金】生津止渴【正要】

   *]

2024/12/30

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 菴羅果

 

Mango

 

てんぢくなし  菴摩羅迦果

        香蓋

菴羅果

         此種未有於此

アン ロウ コウ

 

本綱菴羅果出西域梨及柰之類也葉似茶葉實似棃

[やぶちゃん字注:最後の「棃」は「梨」の異体字。]

五六月熟色黃色七夕前後已堪噉味甘温果中極品【多食亦無害】

 

   *

 

てんぢくなし  菴摩羅迦果《アンマラカクワ》

        香蓋《かうがい》

菴羅果

         此の種、未だ、此《ここ》に有らず。

アン ロウ コウ

 

「本綱」に曰はく、『菴羅果《あんらくわ》、西域の出づ。梨《なし》、及び、柰《だい》の類《るゐ》なり。葉、茶の葉に似て、實《み》、棃《なし》に似《にる》。五、六月に熟して、色、黃色なり。七夕《たなばた》の前後、已《すで》に、噉《くら》ふに堪《たへ》たり。味、甘、温。果中《くだものちゆう》の極品《ごくひん》≪なり≫【多食しても、亦、害、無し。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科マンゴー属マンゴー Mangifera indica

である。「維基百科」の同種「芒果樹」も見られたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『檬果・芒果』英語『Mango』、『別名で、菴羅(あんら)、菴摩羅(あんまら)ともいう。マンゴーの栽培は古く、紀元前のインドで始まっており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教では、マンゴーは万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身とされている』。『日本語のマンゴーは、英語の mango から、さらには、ポルトガル語の manga、マレー語(現代マレーシア語・インドネシア語でも同じ)の mangga、タミル語』(南インドのタミル人の言語)『の』『マーンカーイ』『から伝わった』。『漢字表記の「芒果(現代中国語拼音: mángguǒ)」は、マレー語の mangga もしくは他の東南アジアの言語からの直接の音写である』。『仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、サンスクリットの』本種を意味する『āmra(アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科』Anacardiaceae『のアムラタマゴノキ』(アムラ卵の木)アムラノキ属『 Spondias pinnata 』『を意味する amra(アムラ)との混同が見られる』。『原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されている。そのうち、単胚性(一つの種から一個体繁殖する)の種類はインドのアッサム地方からチッタゴン高原(ミャンマー国境付近)辺りと考えられ、多胚性(一つの種から複数の個体が繁殖する)の種類はマレー半島辺りと考えられている。インドでは』四千『年以上前から栽培が始まっており、仏教の経典にもその名が見られる。現在では』五百『以上の品種が栽培されている。インド・メキシコ・フィリピン・タイ・オーストラリア・台湾が主な生産国で、日本では』、『沖縄県・宮崎県・鹿児島県・和歌山県・熊本県で主にハウス栽培されている』。『マンゴーの木は常緑高木で、樹高は』四十『メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により』、『差がある。枝の先端に萌黄色の複総状花序を多数付ける。花は総状花序と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助けるクロバエ科』(有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目ヒツジバエ(羊蠅)上科クロバエ(黒蠅)科 Calliphoridae)『などのハエを引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、ミツバチ』(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis )『にとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている(日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている)。果実は系統によって長さ』三~二十五『センチ、幅』一・五~十五『センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。果皮は緑色から黄色、桃紅色などと変異に富むが、果肉は黄橙色をしていて多汁。果皮は強靱(きょうじん)で』、『やや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟すると濃厚な甘みを帯び、松脂に喩えられる独得の芳香を放つ』。『マンゴーはウルシオール』(Urushiol)『に似た「マンゴール」』(Mangol)『という接触性皮膚炎(かゆみ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため』、『注意が必要である。痒みを伴う湿疹などのかぶれ症状は』、『食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある』(私は、二十四年前の四十三の時、伊豆高原を散策中にウルシの葉に触れ、ウルシかぶれが起動してしまった。その時に調べたら、マンゴーもウルシオールと似たマンゴールを含むとあった。マンゴーは私の好物だったが、それ以来、口にしていない(因みに青マンゴーというのをお食べになったことはあるか? あれはとっても上品で美味しいですぞ!)『熟した実を中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、ジュース・ラッシー・ピューレ・缶詰・ドライフルーツなどにも加工される。香港では果肉またはピューレにゼラチン・砂糖・生クリームなど、ほかの材料を合わせたマンゴー・プリンが有名である。そのほか、ムース・ケーキ・シャーベット・スムージー・グミなどの洋生菓子も盛んに作られている。また、未熟果を塩漬け・甘酢漬け・チャツネにする。東南アジアでは未熟果に唐辛子入りの砂糖塩につけて食したり、炒め物などの料理に使用したりする』。『栄養面では、特にカロテンが豊富で、ビタミンAやビタミンCが多く、抗酸化作用が効果が期待できる。また』、『葉酸も含まれ、貧血や口内炎予防もなる』。『地域によってはパパイヤのようにマンゴーの未熟果実を野菜として、おやつとして食する文化が一般的である。タイとベトナムでは緑色の未熟果実が庶民のおやつとして食べられている。これには塩をつけて食べる。ほとんど甘みはなく、未熟な果実の鮮烈な酸味と歯ごたえを楽しむ。台湾では小ぶりのマンゴーの未熟果実を丸ごとシロップ漬けにしたおやつが食べられている。インドではマンゴーの未熟果実を乾燥させ』、『粉末にしたものはアムチュールと呼ばれ、酸味付けのスパイスとして使用される。ガラムマサラにアムチュールを加えた複合スパイスはチャットマサラと呼ばれ、インド料理では広く使用される』。以下、「種類」の項は、一部を除き、不要と判断してカットする。『インドは世界最大のマンゴー生産国』である。『台湾語で「ソァイアー」(檨仔)と呼ばれる』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「菴羅果」([075-15b]以下)のパッチワークである。短いので、引用しておく(一部の表記に手を加えた)。

   *

菴羅果【宋開寶】

 釋名 菴摩羅迦果【出佛書】香盖【時珍曰菴羅梵音二合者也菴摩羅梵音三合者也華言淸淨是也】

 集解【志曰菴羅果樹生若林檎而極大宗奭曰西洛甚多梨之類也其狀似梨先諸梨熟七夕前後已堪噉色黃如鵞梨纔熟便鬆軟入藥亦希時珍曰按一統志云菴羅果俗名香盖乃果中極品種出西域亦柰類也葉似茶葉實似北梨五六月熟多食亦無害今安南諸畨亦有之】

 氣味 甘温無毒【士良曰酸微寒志曰動風疾凡天行病及食飽後俱不可食同大蒜辛物食令人患黃病主治食之止渴開寶主婦人經脈不通丈夫營衞中血脈不行久食令人不飢士良】

  主治渴疾煎湯飮【士良】

   *

「梨《なし》」先行する「梨」で注した通り、中国で「梨」と言った場合は、双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ホクシヤマナシ(北支山梨)変種チュウゴクナシ(中国梨)Pyrus ussuriensis var. culta(シノニム: Pyrus × bretschneideri Pyrus bretschneideri )である。本邦の「梨」であるナシ属ヤマナシ(山梨)変種ナシ Pyrus pyrifolia var. culta ではないので、注意が必要。

「柰《だい》」これは、マクロ的には、日中ともに、中央アジア原産であるサクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica ととって、一応は、よいだろう。「維基百科」の「蘋果」で同種を掲げている。そこでは、『中国に於ける説では、「リンゴ」を表わす「蘋果」という語は、サンスクリット語を起源し、最初期には「頻婆」と称し、後に漢語に借用され、「平波」が併用されるようになり、明代の万暦年間(一五七三年~一六二〇年)の農書「群芳譜・果譜」の中に「蘋果」の詞条があって、「蘋果(ひんくわ)は、北の地方に出づ。燕・趙の者、尤も佳し。接ぐに、林檎の體(たい)を用ふ。樹身、聳直《しやうちょく》し、葉は靑く、林檎に似て大にして、果は、梨のごとくして、圓滑たり。生(わか)きは靑く、熟せば、則ち、半紅・半白、或いは、全て紅、光潔にして愛玩すべく、香は、數步に聞ゆ」(ここにある三文字「味甘松」は私には訓読出来なかった。この「甘松」とは、一属一種のマツムシソウ目スイカズラ科 Nardostachys Nardostachys jatamansi で、香りがよく、味も甘いもので、薫香・香水・漢方薬にも用いられることが記されてはある。「維基百科」の「甘松」を見られたい)。「未だ熟さざる者、食へば、棉の絮(わた)のごとく、熟し過ぐれば、又、沙(すな)の爛(ただ)れたるやうに、食ふに堪へず、惟(た)だ、八、九分、熟したる者、最も佳(よ)し。」とある。中国の農業・果樹の歴史に関する多くの専門家は、これが中国語で「蘋果」という言葉を使用した最初のものであると認識している。中国自生の蘋果属は、古代には「柰」(ダイ)または「林檎」と称した』として、時珍の「本草綱目」の本「柰」と、「和漢三才圖會」の次の「林檎」の引用する記事を引いてある。しかし、下方の「野生祖先」の項では、中国のリンゴの野生種の祖先として、「新疆野蘋果 Malus sieversii を掲げている(リンク先は中文の独立ページ)。これは、英文の同種のページを見ても、この種が、セイヨウリンゴ Malus domestica の主な祖先であると断定しているのである。

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 山樝子

 

Sanzasi

 

さんざし    赤爪子◦鼠樝

        山裏果◦猴樝

山樝子   棠梂子◦茅樝

        朹子  羊梂

唐音      繫梅

  サンツアヽ ツウ

 

本綱山樝子生山中而味似樝子故名之世俗作山査者

誤矣査【音槎】水中浮木與樝字何關有二種而相同

一種小者樹髙數尺葉有五尖椏間有刺三月開五出小

 白花實有赤黃二色肥者如小林檎小者如指頭九月

 熟小兒采而賣之閩人取熟者去皮核搗和糖蜜作爲

 樝糕以充果物其核狀如牽牛子黑色甚堅

[やぶちゃん字注:「糕」は、原本では、(へん)が「禾」となっているが、誤刻と断じて、訂した。]

一種大者樹髙𠀋餘花葉皆同伹實稍大而色黃綠皮濇

 肉虛爲異爾初甚酸澀經霜乃可食

氣味【酸冷】消食積補脾治小腸疝氣産後兒枕痛

 唐本草雖有赤𤓰後人不知卽此也自朱丹溪始著山

 樝之功而後遂爲要藥能尅化飮食若胃中無食積脾

 虛不能運化不思食者多服之則反尅伐脾胃也煑老

 雞硬肉入山樝子數顆卽易爛則其消肉積之功可推

 

   *

 

さんざし    赤爪子《せきさうし》◦鼠樝《そさ》

        山裏果《さんりくわ》◦猴樝《こうさ》

山樝子   棠梂子《たうきうし》◦茅樝《ばうさ》

        朹子《きうし》  羊梂《やうきう》

唐音      繫梅《けいばい》

  サンツアヽ ツウ

 

「本綱」に曰はく、『山樝子は山中に生じて、味、「樝子(こぼけ)」に似たる。故《ゆゑ》、之れ≪を≫名づく。世俗、「山査」と作《つく》るは、誤れり。「査」【音「槎《サ》」。】は、水中の浮木《うきぎ》≪にして≫、「樝」の字と、何ぞ、關(あつか)らん[やぶちゃん注:何らの関係もない。]。二種、有《あり》て、相同《あひおな》じ。』≪と≫。

『一種、小なる者、樹の髙さ、數《す》尺。葉、五《いつつ》≪の≫尖(とが)り、有り。椏《また》の間《あひだ》、刺《とげ》、有り。三月、五出《ごしゆつ》の小白花≪を≫開く。實《み》、赤・黃の二色、有り。肥《こえ》たる者、小《ちさ》き林檎のごとく、小き者、指の頭《かしら》≪の≫ごとし。九月に熟す。小兒、采《とり》て、之れ≪を≫賣る。閩人《びんじん》、熟する者を取り、皮《かは》・核《さね》を去り、搗《つき》て、糖蜜に和(ま)ぜ、「樝糕《さこう》」≪を≫作-爲(つく)り、以つて、果物(くだもの)に充《あ》つ。其の核《さね》の狀《かたち》、「牽牛(あさがほ)」の子《み》のごとく、黑色、甚《はなはだ》、堅し。』≪と≫。

『一種、大なる者、樹の髙さ、𠀋餘。花・葉、皆、同じ。伹《ただし》、實《み》、稍《やや》、大にして、色、黃綠。皮、濇《しぶく》、肉、虛《きよ》するを、異と爲《す》るのみ。初《はじめ》は、甚《はなはだ》、酸《すぱく》澀《しぶ》≪きも≫、霜を經て、乃《すなはち》、食ふべし。』≪と≫。

『氣味【酸、冷。】食積《しよくせき》[やぶちゃん注:食べたものが胃に停滞して起こる「胃もたれ」や、腹部の膨張感、便秘・下痢・腹痛などの症状を指す。]を消し、脾を補《おぎなひ》、小腸の疝氣・産後の兒--痛(《じちんつう》/あとはら《いた》)[やぶちゃん注:「後腹」「あとばら」「児腹痛」とも。出産したあと、特に腹痛を伴う場合を言う。]を治す。』≪と≫。

『「唐本草」に、『赤𤓰《せきくわ》』、有《ある》と雖《いへども》、後人《こうじん》、卽ち、此《これ》なるを、知らざるなり。朱丹溪より、始《はじめ》て山樝の功、著《あきらか》にす。而して後《のち》、遂に、要藥と爲《な》≪れり≫。能《よ》く、飮食を尅化《こくくわ》[やぶちゃん注:「消化」に同じ。]し、若《も》し、胃中に、食積《しよくしやく》[やぶちゃん注:「食ひ痞(つか)え」。]、無≪きに≫、脾、虛《きよ》して、運化《うんくわ》、能《あた》はず、食《くふ》を思はざる者≪は≫、多《おほく》、之≪れを≫服する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、反《かへり》て、脾胃を尅伐《こくばつ》す[やぶちゃん注:損なう。]。老《おいたる》雞《にはとり》≪の≫硬き肉を煑《にる》≪には≫、山樝子、數顆《すくわ》、入るれば、卽ち、爛(たゞ)れ易し。則ち、其の肉積《にくしやく》を消《けす》の功、推《お》すべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「山樝子」は、基本は、

双子葉植物綱バラ目バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『山査子』。『別名では、サモモ』(早桃:但し、この語は第一義でバラ科モモ亜科スモモ属モモ Prunus persica の中で、果実が、夏、最も早く出てくる在来品種の総称であり、よろしくない。)『ともよばれる。中国中南部の原産。日本には江戸時代』の享保一九(一七三四)年『に中国から薬用の樹木として小石川御薬園に持ち込まれて、その後は庭木や盆栽として栽培されている』(「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年の成立であるから、渡来以前で、良安の評言がないのも頷ける。)『中国植物名は野山楂(やさんざ)。中国では、漢名を山樝(さんざ)としたので、音読して和名ができ』、『「山査子」と書かれた』。『英語名でホーソーン(Hawthorn)というが、ホーは』「垣根」を意味する古い英語 haga に由来し、ソーンは棘を意味する』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』一・五~三『メートル』『になり、枝分かれをして、小枝には短枝が変形した長さ』二~八『ミリメートル』『の刺がある。葉は長さ』三~八ミリメートル『の倒卵形で、基部は楔型、葉縁に粗い鋸歯があり、葉の上部は浅く』三~五『裂する』。『花期は春』の四~五月頃で、『新葉と共に枝先に白い』五『花弁の花を咲かせる。花は、独特な爽快な甘い香りがする。果実は球形の偽果で、秋に黄色から赤色に熟して目立つ。果実の頂は窪んで萼が残存したまま熟し、特異な匂いで、酸味があって食用になる』。『庭木や盆栽として、花や果実が鑑賞されている。実生、挿し木、取り木などで繁殖できる。樹勢は強健で、寒地にも耐えるため』、『栽培しやすい』。『熟すると』、『赤くなる果実は生薬になり、山査子(さんざし)とよばれる。果実酒、ドライフルーツなどの用途がある。果実が黄色に熟するものをキミノサンザシ』(黄実山査子:品種 Crataegus cuneata f. lutea :江戸時代中期に漢方植物として渡来している)『という』。『果実(偽果)には、オレアノール酸』、『フラボノイドのクエルシトリン・クエルセチン、タンニンのクロロゲン酸を含むほか、豊富なビタミンCも含んでいる。オレアノール酸やクエルセチンは利尿作用があると言われている。果実の赤や黄色の色素はカロテン(プロビタミンA)によるもので、体内に入り消化されるとビタミンAに変化する』。『サンザシや近縁のオオミサンザシ』(大実山査子: Crataegus pinnatifida :中国・モンゴル原産。中国原産。漢方植物としてサンザシと同じ享保一九(一七三四)年に朝鮮半島経由で日本に渡来した。)『の干した果実は、生薬名で山査子』・(☞)『山楂子(さんざし)といい、健胃、整腸、消化吸収を助ける作用があると考えられている。秋』九~十月頃、『完熟前の果実を採取して核を取り除き、天日で乾燥して作られる。漢方としては高血圧、健胃効果があるとされ』「加味平胃散」(かみへいいさん)・「啓脾湯」(けいひとう)『などの漢方方剤に使われる』。『民間では、食べ過ぎでも』、『油ものや肉を消化してくれる薬草として用いられ、健胃、消化、軽い下痢に』『服用する用法が知られている。二日酔いや食あたりに同様の煎じ汁を飲むのもよいと言われている』。『近縁種のセイヨウサンザシ』(西洋山査子:Crataegus oxyacantha :ヨーロッパ原産。明治中期に輸入された。)『の果実や葉は、ヨーロッパではハーブとして心悸亢進、心筋衰弱などの心臓病に使われる』。『果実は生食もできるが、完熟しても』、『酸味が強く、そのままでは食べにくい。生の果実は、種子を取り除いて』『果実酒にすることができる。味は甘酸っぱく、一部の中華料理店などでは、中国酒として提供されている。獣肉や魚肉を煮て調理する際に、サンザシ果実を数個入れて煮ると、肉が柔らかくなる』(☜)。『果実を輪切りにして日干しした山査子片を』二、三『個ほどカップに入れて、砂糖や蜂蜜を加えて熱湯を注いで、酸味と芳香を楽しむ飲用の仕方もある』。『果実を潰して、砂糖や寒天などと混ぜ、棒状に成形して乾燥させたものが多い。中国では、「山査子餅」(シャンジャーズビン)』(英語:『Haw flakes)という円柱状に成形した後、薄くスライスして』十『円玉のような形状にしたものも多く、酢豚の様な料理に入れる場合もある』。『ほかにも、果実をそのまま種子抜きして乾燥させ』、『麦芽糖などでコーティングしたものもあり、この場合に限り』、『含有成分から厚生省認可基準「ビタミンC含有栄養機能食品」にあたり表記ができる』。『中国では「山楂餅」のほか、「山楂糕」(シャンジャーガオ)という平たい羊羹状の菓子も作られている。中国ではこの菓子を酢豚の酸味付けに使うこともある』。『また中国では全体に大きい種のオオサンザシを生食用に栽培していて、竹串などに刺して、糖蜜や蜂蜜、飴をかけた「冰糖葫芦」(ビンタンフール)という、りんご飴の様な駄菓子も街角で売られている』とあった。

 但し、「跡見群芳譜(樹木譜 サンザシ)」で、『中国では、オオサンザシ・オオミサンザシ・サンザシなどの果実、根・葉を山樝』(サンサ:shānzhā)『と呼び』、『薬用にする(〇印は正品)』として(以下、学名を斜体にするために引用符を外した)

〇サンザシ Crataegus cuneata(野山樝・南山樝)

Crataegus hupehensis(湖北山樝・猴樝子)

Crataegus kansuensis(甘肅山樝)

〇オオサンザシ(コサンザシ) Crataegus pinnatifida(山樝)

〇オオミサンザシ Crataegus pinnatifida var. major(山裏紅・大山樝・北山樝・紅果・酸梅子)

・アカサンザシ Crataegus sanguinea(遼寧山樝・遼山樝)

Crataegus scabrifolia(雲南山樝・雲樝・山林果)

・ワリンゴ Malus asiatica(花紅・沙果・林檎・文林郎果)

・ヒメリンゴ(イヌリンゴ・マルバカイドウ)Malus prunifolia(楸子・海棠果)

Malus yunnanensis(シノニム: Eriolobus yunnanensis ;滇地海棠)

を挙げておられる。

 日本では、生薬サンザシは サンザシ又はオオミサンザシの偽果をそのまま又は縦切若しくは横切したものである(第十八改正日本薬局方)。』

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「山樝」([075-13a]以下)のパッチワークである。

「樝子(こぼけ)」この良安の附した「こぼけ」は非常にまずい。そもそも、良安が評言を附していないのは、この「山樝」は本邦にはないと踏んだからこそである。それは、正しかった。「サシ」とルビすればよかったのだ。「本草綱目」中の漢名植物名は、総てを、音読みにすればよかっただけのことなのだ。しかし、自身がオリジナルにパーツワーク引用をやっている拍子に、彼は、ついつい、訓読みを附してしまう致命的なミスを、今までなんどもヤラかしているのである。しかも、さらに悪いことに、本邦では、「こぼけ」=「小木瓜」は、既に「木𤓰」以降で、さんざん示してきた、

本邦に自生する、一般に日本語で言う「ボケ」、則ち、日本固有種で中国には自生しない、

クサボケChaenomeles japonica の異名

なのである。

 では、本当は、この「樝子」(サシ)とは何か? 「百度百科」の「樝子」が、答えて呉れた。拼音で「zhā zǐ」(ヂァー・ヅウ)、中国固有種(チベット)で、現在も本邦には自生しない、

ボケ属マボケ(真木瓜)Chaenomeles cathayensis

なのである。

『世俗、「山査」と作《つく》るは、誤れり。「査」【音「槎《サ》」。】は、水中の浮木《うきぎ》≪にして≫、「樝」の字と、何ぞ、關(あつか)らん。』この時珍のツッコミは、退場願うレベルの誤りである。大修館書店の「廣漢和辭典」に、「査」は第一義で、『しらべる【しらぶる】。「検査」「調査」』で、確かに、第二義で、『いかだ。水中の浮木。=槎・楂。』とある。第三義で、『ほしいまま。』、第四義で、『木をきる。=茬。』であるが、第五義には、★『木の名さんざし。こぼけ。⇒苴・樝』★とあるのである(以下略)。この『こぼけ』というのは、種名ではなく、総称としての「小さなボケの木」の意に過ぎず、クサボケを指している訳ではない(同辞書は正確な種名を示すところまでは至っていない)。序でに、先行する「樝子」で、「本草綱目」を引いて、『木桃《ぼくたう》[やぶちゃん注:「樝子」の異名。]は、乃《すなはち》、木𤓰《ぼけ》なり。酸《すぱく》、澀《しぶ》き者なり。小にして、木𤓰より、色、微《やや》黃≪にして≫、蒂《へた》・核《さね》、皆、粗し。核の中の子《たね》、小《ちさ》く圓《まろ》きなり。木𤓰、酸香《さんかう》≪に≫して、性、脆く、木桃は、酢澀《すしぶ》にして、渣(かす)、多く、故《ゆゑ》、之れを「楂」と謂ふ』とあるから、「渣」も見ておくと、第一義に、やはり『いかだうきき。』とある。その後、第二義で、『。粗末な門。』とあって、しかし、第三義で、やっぱり、★『木の名さんざし。こぼけ。樝の俗字。』★とあるのである。

『一種、小なる者、樹の髙さ、數《す》尺。葉、五《いつつ》≪の≫尖(とが)り、有り。椏《また》の間《あひだ》、刺《とげ》、有り。三月、五出《ごしゆつ》の小白花≪を≫開く。實《み》、赤・黃の二色、有り。肥《こえ》たる者、小《ちさ》き林檎のごとく、小き者、指の頭《かしら》≪の≫ごとし。九月に熟す』この種(恐らくは中国種とは思う)まで同定する力は、私には、ない。悪しからず。或いは、その中に当該種があるかもしれない情報を紹介すると、先に示した「跡見群芳譜(樹木譜 サンザシ)」で、中国に分布するサンザシ属と思われるものを拾うと(既に示したものはカットする。分布は独自に調べた種もある)、

Crataegus chungtienensis(中甸山樝)

・品種キミノサンザシ Crataegus chungtienensis f. lutea(シノニム:Crataegus cuneata f. xanthocarpa

・ダフリアサンザシ Crataegus dahurica(北東アジア産)

Crataegus hupehensis(湖北山樝・猴樝子:山西・河南・陝西・兩湖・江蘇・浙江・江西・四川産)

・エゾサンザシ Crataegus jozana

Crataegus kansuensis(甘肅山樝:河北・山西・陝甘・貴州・四川産)

・オオバサンザシ(アラゲアカサンザシ)Crataegus maximowitzii(毛山樝:北海道根室・朝鮮・遼寧・吉林・黑龍江・樺太・シベリアに分布)

・オオサンザシ変種オオミサンザシ Crataegus maximowitzii var. major(山裏紅・大山樝・北山樝・紅果・酸梅子)

・オオミサンザシ変種ホソバサンザシ Crataegus maximowitzii var. psilosa(無毛山樝・長毛山樝:朝鮮・遼寧・吉林・黑龍江産)

・アカサンザシ Crataegus sanguinea(遼寧山樝・遼山樝:河北・遼寧・吉林・黑龍江・内蒙古・新疆産)

・アカサンザシ変種 Crataegus sanguinea var. glabra(光葉遼寧山樝)

Crataegus scabrifolia(雲南山樝・雲樝・山林果)

Crataegus wattiana(瓦特山樝)

Crataegus wilsonii(華中山樝:陝甘・兩湖・浙江・四川・貴州・雲南産)

も候補となろう。

「閩人《びんじん》」「閩」は現在の福建省を中心とした古名。

「樝糕《さこう》」前で引用した中の「山楂糕」(シャンジャーガオ)であろう。

「牽牛(あさがほ)」これは日中ともに、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil で問題ない。

『一種、大なる者、樹の髙さ、𠀋餘。花・葉、皆、同じ。伹《ただし》、實《み》、稍《やや》、大にして、色、黃綠。皮、濇《しぶく》、肉、虛《きよ》するを、異と爲《す》るのみ。初《はじめ》は、甚《はなはだ》、酸《すぱく》澀《しぶ》≪きも≫、霜を經て、乃《すなはち》、食ふべし。』無同定力。同前。

「唐本草」蘇恭(そきょう 五九九年~六七四年:「蘇敬」とも称する。隋滅亡の直前に生まれ、初唐の官人となった。本草学者でもあった)が高宗の命により、長孫無忌(ちょうそんむき)らとともに、陶弘景が「神農本草經」を元として成した「本草經集注」の誤りなどを正して補正・完成させた、「唐本草」全二十巻。

「赤𤓰《せきくわ》」不詳。

「朱丹溪」東洋文庫訳の後注に、『朱震亨(しんこう)(一二八一~一三五八)。脾胃を補って元気にするのが治病の要であると説いた。元代のすぐれた医者である。李杲(りこう)の肺胃論を受けつぎ、それに他の学派の説をも入れて自己の説を大成した。』とある。「李杲」は金・元医学の四大家の一人とされる医師李東垣(一一八〇年~一二五一年)。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る))の「食物本草」。これは、明代の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。]

2024/12/29

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 榅桲

 

Marumero

 

まるめろ  俗云末留女呂

       蠻語乎

榅桲

 

本綱榅桲乃榠樝之類其樹如林檎花白綠色實大於林

檎而狀醜有毛性温其氣芬馞【馞音孛香氣也】名榅桲此與林

檎相似而二物也

氣味【酸甘微温】 温中下氣消食除心閒酸水

 不宜多食秘大小腸聚胸痰壅血脉

△按榅桲近頃蠻人將來于長﨑而今畿內𠙚𠙚有之其

 樹花實皆合本草註伹葉大於林檎而圓薄柔其實不

 如林檎多結也蠻人用沙糖𮔉煑食之呼名加世伊太

 云能治痰嗽

 

   *

 

まるめろ  俗、云ふ、「末留女呂《まるめろ》」。

       蠻語か。

榅桲

 

「本綱」に曰はく、『榅桲《オンボツ》は、乃《すなはち》、榠樝《めいろ/カリン》の類《るゐ》≪なり≫。其の樹、林檎(りんご)のごとく、花、白綠色。實、林檎より、大にして、狀《かたち》、醜(みに)くゝ、毛、有り。性、温《をん》≪に≫して、其の氣《かざ》、芬馞《ふんほつ》たり【「馞」、音、「孛《ホツ》」。「香氣」なり。】。「榅桲」と名づく。此れ、林檎と相似《あひに》て《✕→れども》、二物《にぶつ》なり。』≪と≫。

『氣味【酸甘、微温。】』『中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方の「脾胃」。]を温め、氣を下《くだ》し、食を消《しやう》し、心閒《しんかん》の酸水《さんすい》を除く。』≪と≫。

『宜(よろ)しく、多く食すべからず。大小腸を秘《ひ》し[やぶちゃん注:所謂、「便秘」である。]、胸の痰を聚《あつ》め、血脉《けつみやく》を壅《ふさ》ぐ。』≪と≫。

△按ずるに、榅桲は、近頃、蠻人《ばんじん》、長﨑より將來す。而今《じこん》[やぶちゃん注:今も。]、畿內、𠙚𠙚《しよしよ》、之れ、有り。其の樹・花・實、皆、「本草≪綱目≫」の註に合《がつす》。伹《ただし》、葉、林檎より大にして、圓《まろく》、薄《うすく》、柔≪らか≫。其の實、林檎の多《おほく》結《むすぶ》がごとくならざるなり。蠻人、沙糖𮔉《さとうみつ》を用《もちひ》て、煑て、之れを食《くふ》。呼んで、「加世伊太《カセイタ》」と名づく。云はく、『能く、痰・嗽《せき》を治す。』と。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。下線は私が附した)。漢字表記は『榲桲・木瓜』。ポルトガル語は『marmelo』。『マルメロ属はマルメロの』一『属』一『種で構成されている。中央アジア原産』である。『ポルトガル語』のそれは、『本来』、『マルメロは果実の名で』あって、『樹はマルメレイロ(marmeleiro)という。英語名はクインス(quince)。別名「セイヨウカリン」』ともいう(但し、以下に示すように、和名「セイヨウカリン」はマルメロとは異なる種である)。『果実はバラ科のカリン』前項の「文冠花」を見よ)『によく似ており』、『栽培が盛んな長野県諏訪市など一部の地域では「かりん」と呼ばれる』。『また、「木瓜」の字を当てられることもある。しかし、セイヨウカリン、カリン』(ナシ亜連 セイヨウカリン(西洋花梨)属セイヨウカリン Mespilus  germanica 『ボケ(木瓜)はいずれも別属である』。『学名(属名)のもとになったのは、ギリシャ南方の地中海に浮かぶクレタ島で、この島の古代都市シドニア(Cydonia)が』、『その名の由来である』。『マルメロ属( Cydonia )はマルメロの』一『属』一『種で構成されているが、カリン属( Pseudocydonia )とは、カナメモチ』(要黐)『属( Photinia )と共に非常に近縁である。そのほか、セイヨウカリン属( Mespilius )、ボケ属( Chaenomeles )、リンゴ属 ( Malus )、ナシ属( Pyrus )などとも、詳細な系統関係は不明ではあるが』、『バラ科』Rosaceae『の中では比較的近く、同じナシ亜連』Pyrinae『に含まれる』。『ほかの多くの作物と同様に、現在』、『栽培されているマルメロは歴史上』一千『年以上にわたり、優良な果実をつける個体を選んで交配されてきたものである。しかし、互いに性質が似通っていく集団の中で』、『交配が繰り返された結果、遺伝的に多様性が失われてゆき、温暖化した冬に適応したり、進化した病虫害から身を守る力が損なわれたりする』虞れ『が指摘されている。そのため、栽培マルメロの祖先にあたる原産地のマルメロは、将来の交配に必要な遺伝的多様性を保っているため、保護する必要があるという主張もある』。『原産地は中央アジアの、コーカサス山脈(アルメニアやトルクメニスタン)とイラン(ペルシャ)である。日本へは、江戸時代にポルトガル船によって長崎へ伝来した。マルメロは、カリンよりもやや涼しい場所が栽培適地である。原産地は夏が暑く、冬の寒さが厳しいところで、毎年の最高気温が』摂氏七『度未満の日が』二『週間以上ある土地でないと、よく花が咲かない。世界でマルメロが最も多い国はトルコで、世界生産量の』四『分の』一『を占めている。日本では主に長野県で栽培される』。『樹皮は灰褐色で縦筋があり』、『滑らかで、成木になると』、『次第に鱗片状に剥がれるが、まだら模様にはならない。一年枝は赤褐色で、灰色の毛に覆われる。葉は互生、長さは』七~十二『センチメートル』、『 幅』六~九センチメートル『で』、『白い細かな毛で覆われている』。『花期は春(』四~五『月)で』、『カリンよりも遅く、葉が出た後に花が咲き、大きさは』五センチメートル、『色は白っぽいピンクで』五『枚の花弁がある』。『果実(ナシ状果)は偽果』(花托(萼など花の要素がついている茎の部分)など、子房(雌しべにおいて胚珠を包んでいる部分)以外に由来する構造が、大部分を占めている果実のことを指す)『で、熟した果実は明るい黄橙色で洋ナシ型をしており』、『長さ』七~十二センチメートル、『幅』六~九センチメートル『である。リンゴやセイヨウナシの果実よりも大きくなり、ゴツゴツとしている。果実はカリンに似るが、未熟な果実は緑色で熟すと黄色になり、表面は灰色から白色の軟毛で覆われている。果実は渋くて硬く、生食には向かない』。『冬芽は円錐形や卵形で、枝と同色である。枝先に仮頂芽がつき、枝には側芽が互生する。葉痕は三角形で、維管束痕が』三『個つく』。『果実は芳香があるが』、『強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食はできないが、カリンより果肉はやわらかく、同じ要領で果実酒、蜂蜜漬けや砂糖漬け、ジャムなどが作れる。成熟果の表面には軟毛が少し残っている場合があるので、よく落としてから切って調理する。白い果肉を十分に加熱すると、鮮やかなルビー色に変わる』。『マーマレードは、マルメロの砂糖漬けが語源であるという(』但し、『他に諸説あり)。江戸時代、南蛮伝来のマルメロから作られたジャムを使った南蛮菓子「加勢以多」は、熊本藩主細川家御用達となり、朝廷や幕府にも献上された』。『イギリスでは、生で食べられる甘い果物が』十九『世紀に普及するまでは、どの家庭の台所にもマルメロの実があったといわれる。また』、『地中海沿岸では、古典時代からマルメロが料理や文化の風景の中にあり、現代でも甘い料理や塩気のきいた料理に使われている』。『マルメロの花言葉は、「幸福」「魅惑」といわれて』おり、『「愛の糧」にも例えられ、ギリシャ神話で英雄パリスが女神アフロディーテに捧げた黄金のリンゴは、マルメロの実を指している。アタランテとヒッポメネスが戦った際、ヒッポメネスに与えられた黄金のリンゴもマルメロと言われている。紀元前』六〇〇『年ごろの古代ギリシャの都市アテネでは、婚礼の夜に新婦にマルメロの実を食べさせると、気立てがよく』、『口臭や声がよい妻になると信じられていた。古代ローマ人は寝室の芳香剤としてマルメロの実を置き、ルネッサンス美術では情熱・忠誠・豊穣の象徴になった』。『現代のギリシャでも、伝統的なウェディング』・『ケーキにマルメロの実が使われている。マルメロの実が媚薬になるという俗説は、部屋に置くと』、『強い芳香があることから生まれたのではないかといわれている』とあった。

「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「榅桲」([075-12b]以下)のパッチワークである。比較的、短いので、引用する(一部の表記に手を加えた)。

   *

【音温孛宋開寶】

 釋名【時珍曰榅桲性温而氣馞故名馞音孛香氣也】

 集解【志曰榅桲生北土似樝子而小頌曰今闗陜有之沙苑出者更佳其實大抵類樝但膚慢而多毛味尤甘其氣芬馥置衣笥中亦香藏器曰樹如林檎花白綠色宗奭曰食之須淨去浮毛不爾損人肺花白色亦香最多生蟲少有不蛀者時珍曰榅桲蓋榠樝之類生於北土者故其形狀功用皆相彷彿李珣南海藥錄言闗中謂林檎為爲榅桲按述征記云林檎佳美榅桲微大而狀醜有毛其味香闗輔乃有江南甚希觀此則林檎榅桲蓋相似而二物也李氏誤矣】

 氣味酸甘微温無毒【士良曰發毒熱秘大小腸聚胸中痰壅澀血脈不宜多食瑞曰同車螯食發疝氣】主治温中下氣消食除心間酸水去臭辟

 衣魚【開寶】去胸膈積食止渴除煩將臥時噉一兩枚生

 熟皆宜【蘇頌多宗奭曰臥時噉此太 亦痞塞胃脘也】主水瀉腸虚煩熱散

 酒氣並宜生食【李珣】

 木皮主治搗末傅瘡【蘇頌】

   *

「加世伊太《カセイタ》」ウィキの「加勢以多」によれば(注記号はカットした)、『加勢以多(かせいた)とは、マルメロ羹』(かん)『を餅粉で作った種で』挟んだ『熊本県の南蛮菓子。利休七哲の一人細川三斎好みとも言われ、熊本藩細川家の献上品として知られたが明治に入って』、『一旦』、『消失し』たが、『第二次大戦後に復刻された』。『「かせいた」という名は、ポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ( caixa da marmelada「マルメラーダの箱」という意味)」が由来とされている。マルメラーダとはマルメロのピュレと砂糖を煮詰めた羊羹状の固形食品で、同様の食品はスペインではメンブリージョ』( Membrillo )『と呼ばれ、今日でも一般的に食されている。「加勢以多」の名称は近代になって復刻された商品名でもあるが、古文書などの史料では「加勢以多」の他に「かせいた」「かせ板」「加世以多」「加世伊多」などの表記が見られる』。『加勢以多は』十七『世紀頃から熊本藩主を中心に銘菓として用いられ、正徳年間』(一七一一年~一七一六年)『より』、『幕府への献上品に加えられている。当初は宇土半島で栽培されていたマルメロを使用していたが、寛政』四(一七九二)年の『雲仙岳の爆発により発生した津波(島原大変肥後迷惑)によって、肥後のマルメロ生産は壊滅状態となった。マルメロは寒冷な気候を好む植物のため』、『肥後国での栽培は』、『もともと』、『難しく、災害からの復興が軌道に乗らず』、『安定供給が難しくなった。加勢以多を国元産物として献上していた熊本藩は、領主御用の限定品として管理した。一方、入手の難しいマルメロの代替物としてカリンを使う、加勢以多と同じ製法の菓子が「梨糕」などの表記でいくつもの料理書に掲載されている』。『明治に入り、献上品としての用途がなくなった加勢以多は作られなくなり、熊本県でのマルメロ生産も目的を喪失して途絶えてしまった』が、『戦後になり、熊本市の菓子店山城屋が、マルメロの代用にカリンを材料として加勢以多を復元した。復刻された加勢以多は短冊形にカットされており、江戸時代には無かった九曜紋』(くようもん)『が刻印されていた。山城屋は』一九九五『に廃業したが』、一九九八年に』「お菓子の香梅(こうばい)」が、『再復刻し、デザインを踏襲して販売している』とある。

 最後に。私は「榲桲」というと、芥川龍之介の「將軍」のラストの台詞を思い出すのを、常としている。「將軍」は、伏字が多量にあり、復元されていない(原稿が残っていない)ため、何時か、推定復元をしようと考えているが、未だ、踏み切ることが出来ないでいる。新字新仮名で甚だ、不満であるが、「青空文庫」のそれをリンクさせておく。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 榠樝

 

Karin

 

[やぶちゃん注:左下に寸胴型の二個の果実が描かれてある。]

 

くはりん  蠻樝 瘙樝

      木李 木棃

榠樝

       【俗云久波利牟

       𤓰梨字乎】

       【別有外國花櫚

        木與此不同】

[やぶちゃん字注:「瘙」は、原本では、「グリフウィキ」のこれの(やまいだれ)中の「虫」の上部を(癶:はつがしら)にしたものだが、表示出来ないので、「瘙」とした。因みに、この漢字は「肌に生じた瘡(かさ)」を指す。カリンの実がデコボコするのを、喩えたものだが、厭な漢字(感じ)である。]

 

本綱榠樝木葉花實酷類木𤓰伹比木𤓰大而黃色辨之

惟看蔕間別有重蔕如乳者爲木𤓰无此則榠樝也味酸

可以浸酒去痰煑汁服治霍亂轉筋之功與木𤓰不甚遠

△按榠樝可壓可種嫩時有刺大者髙一二𠀋葉似海棠

 而大有細鋸齒春葉稀閒開五出淡紅花秋結實團長

 三寸許如小𤓰黃青色味酸而木冬熟則帶微甘絞汁

 和生薑汁及砂糖練名𤓰梨膏云治痰嗽

 

   *

 

くはりん  蠻樝《ばんさ》 瘙樝《さうさ》

      木李《ぼくり》 木棃《ぼくり》

榠樝

       【俗、云ふ、「久波利牟《くはりん》」。

       「𤓰梨《かり》」の字か。】

       【別に、外國の花櫚木(くはりん

        《ぼく》)有≪るも≫、此れと

        同じからず。】

 

「本綱」に曰はく、『榠樝《めいさ》は、木・葉・花・實、酷(はなは)だ、「木𤓰《ぼくか》」に類《るゐ》す。伹《ただし》、木𤓰に比すれば、大にして、黃色≪なり≫。之≪れを≫辨≪ずるには≫、惟《ただ》、蔕(へた)の間《あひだ》を看(み)よ。≪又、≫別に、重≪い≫蔕《へた》≪に≫乳《ちち》のごとくなる者、有るを、「木𤓰」と爲《なし》、此《これ》、无《なき》≪は≫、則ち、「榠樝」なり。味、酸《すぱし》。以つて、酒に浸《ひた》すべし。痰を去る。煑汁、服すれば、霍亂・轉筋《こむらがへり》を治するの功、「木𤓰」と、甚《はなは》≪だには≫、遠《とほ》からず。』≪と≫。

△按ずるに、榠樝は、壓(さ)すべし、種(う)ふ[やぶちゃん注:ママ。]べし。嫩《わか》き時、刺《とげ》、有り。大なる者、髙さ、一、二𠀋。葉、「海棠」に似て、而《しか》も、大《おほき》く、細《こまか》なる鋸齒、有り。春、葉、稀《まれ》の閒《あひだ》、五出《ごしゆつ》の淡紅花を開く。秋、實を結≪び≫、團長《まろなが》≪にして≫三寸許《ばかり》、小≪さき≫𤓰《うり》のごとし。黃青色。味、酸《すぱく》して、木(しがしが)せり。冬、熟すれば、則《すなはち》、微甘《びかん》を帶ぶ。汁《しる》を絞《しぼり》て、生薑《しやうが》の汁、及《および》、砂糖≪と≫和(ま)ぜて、練《ねり》て、「𤓰梨膏(くはり《かう》)」と名づく。云はく、『痰・嗽《せき》を治す。』と。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱バラ目バラ科シモツケ(下野)亜科Spiraeoideaeナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットし、下線は私が附した。必要を認めないと判断した箇所は指示せずに省略している)。『カリン(花梨・花櫚・榠樝』)』は、『中国から日本へ渡来した薬用にもされる果樹で、果実は同』亜『科のマルメロ』(榲桲:マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga 。因みに、次項は、まさに「榅桲」である)『とよく似る。その果実は石細胞』(既出既注だが、再掲すると、(せきさいぼう:stone cell:厚壁異型細胞(こうへきいけいさいぼう:英語:sclereid:スクレレイド)の一種当該ウィキによれば、『ほとんどの植物において、耐久性のある層の小さな束を形成する、高度に肥厚し、木化した細胞壁を持つスクレレイマ』(Sclerenchyma)『細胞の縮小した形態で』、『細胞壁にリグニン、スベリン、ペントサン、結晶化したセルロース、シリカ』(プラント・オパール)『などの物質が蓄積し』、『石のように硬くなったもの。細胞壁が厚く発達し』、『木に近い状態に変化(木化)しており、細胞自体は死んでいる場合が多い』。『通常』、『石細胞は植物の皮などに存在し、野菜や果物の皮の部分に多く存在するが、ナシ』・『グアバ』(英語: guava。フトモモ目フトモモ科バンジロウ(蕃石榴)属グアバ(バンジロウ)Psidium guajava 。同属には約百種がある)・『マルメロなどは』、『果肉に多くの石細胞を蓄積している。植物の表面に存在する石細胞の役割は組織を固くし保護するためといわれているが、ナシの果肉に存在する石細胞の役割はよく分かっていない』とあった))『が多く含まれるため』、『硬く生食はできないが、カリン酒や砂糖漬け、のど飴などの原料に使われる。別名、カラナシ』。『和名「カリン」は、材の木目が三味線の胴や竿、座卓に使われる唐木の花櫚(読みは「かりん」、花梨とも書く)』(マメマメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属(又は、シタン属)ヤエヤマシタン(八重山紫檀) Pterocarpus vidalianus )『に似ているので名づけられたものである』。『 カリンの属名 Pseudocydonia は偽のマルメロを意味する』。『別名で、カラナシ』(唐梨)、『カリントウ』(花林糖)、『アンランジュ(安蘭樹)、またはアンラジュ(菴羅樹)ともよばれる。「菴羅」はマンゴー』(ムクロジ目ウルシ科マンゴー属マンゴー Mangifera indica )『の別名だが、古い時代の日本では誤訳によりカリンを指す場合がある。長野県諏訪地方で、「かりん」と称するものはマルメロのことであり、導入時にカリンとマルメロを間違えたことにより、現代も』、『その呼称でよばれている』。『果実は生薬名を和木瓜(わもっか)という。ただし』、『和木瓜をボケやクサボケとする人もあるし、カリンを木瓜(もっか)とする人もいるが、木瓜はボケの果実である。なお、日本薬局方外生薬規格においてカリンの果実を木瓜として規定していることから,日本の市場で木瓜として流通しているのは実はカリン(榠樝)である』。『中国語では』「爾雅」にも記載がある「木瓜」を標準名とする』(中文ウィキの同種の「木瓜(薔薇科)」を見よ)。『他に「榠樝」(めいさ)、「榠楂」(』「圖經本草」『)、木李(』「詩經」『)、「木瓜海棠」、「光皮木瓜」、「香木瓜」、「梗木瓜」、「鉄脚梨」、「万寿果」などの名称がある。「木瓜」は他にボケ類やパパイア』(アブラナ(油菜)目パパイア科パパイア属パパイア Carica papaya )『(「番木瓜」の略)を意味し』得る』。『かつてボケ属 Chaenomeles とする説もあったが、ドイツの植物学者カミロ・カール・シュナイダー』(Camillo Karl Schneider (一八七六年~一九五一年)『が』一『属』一『種のカリン属 Pseudocydonia を提唱し、分子系統で確認された。 カリン(属)に最も近縁なのはマルメロ属( Cydonia ) とカナメモチ』(要黐)『属 ( Photinia ) であり、それに次ぐのがナシ亜連』Pyrinae『の他の属で、かつて属していたボケ属のほか、リンゴ属、ナシ属などがある。マルメロ』『は同科別属(』一『属』一『種)の植物で、果実も似ているが「カリン」と称するのは正しくない。マルメロの葉の縁には細鋸歯がない』。『なお、漢名の「木瓜」や「万寿果」をもってパパイア科パパイア属のパパイア(番木瓜、乳瓜)と混同される場合があるが、全くの別種である』。『また、マメ科』Fabaceae『のカリン(花梨)とは和名が同じであるが、全くの別種である(近縁でもない)』。『原産は中国東部で、陝西省、山東省、湖北省、江西省、安徽省、江蘇省、浙江省、広東省、広西チワン族自治区などに分布する。日本では』、『東北地方以南の本州、四国、九州で植栽されている。日本への伝来時期は不明であるが、江戸時代に中国から渡来したといわれる説もある。主に植栽として栽培され、適湿地でよく育ち、耐寒性がある』。『落葉広葉樹の小高木から中高木。成木の樹皮はなめらかで、緑色を帯びた茶褐色をしており、不規則に表面が鱗片状に剥がれ落ちた痕が雲紋状となる。一年枝は赤褐色で無毛である』。『葉は互生し、長さ』三~八『センチメートル』『の倒卵形ないし楕円状卵形で、先は尖り基部は円く、葉縁に細鋸歯がある。しばしば、冬でも葉が展開しているものも見られる。葉質は堅くしっかりしている。秋には黄葉し、黄色系の染まることが多いが、赤色や紫褐色がかることもあり、色彩は変化に富んでいる』。『花期は』三~五『月頃で、新葉とともに』五『枚の花弁からなる白や淡紅色の花を枝先に咲かせる』。『果実は大型のナシ状果で、長さ』十~十五センチメートル『の楕円形または倒卵形で、紅葉する』十~十一『月に黄色に熟す。未熟な実は表面に褐色の綿状の毛が密生する。熟した果実は落葉後も枝に残るもの多く、トリテルペン化合物』(TriterpeneC30H48)『による芳しい香りを放ち、収穫した果実を部屋に置くと部屋じゅうが香りで満たされるほどである。このため中国では「香木瓜」とも呼ばれる。果肉は固く、渋くて石細胞が多いため、生食はできない』。『冬芽は枝に互生し、半円形で小さく、褐色の芽鱗』二~四『枚に包まれている。冬芽わきの葉痕は上向きの半円形で維管束痕は』三『個ある』。『混同されやすい果実が良く似たマルメロは、イラン、トルキスタン原産といわれ、果実は球形で表面にビロード状の綿毛が密生しているが、カリンは洋ナシ型で綿毛はなく、表面がつるりとしているので見分けがつく』。『涼しい気候を好むことから、日本では長野県など甲信越や東北地方のほか、四国などでも多く栽培される。生長速度は速く日なたを好む性質で、土壌の質は選ばず』、『適湿地であれば栽培でき、根は深く張る。栽培では、植栽適期は』十二~三『月とされており、剪定』も同期『に行って、施肥を』十一『月に行うものとされている』。『長野県諏訪市、箕輪町や香川県まんのう町で栽培が盛んであり、カリンの里がある』。『中』『国では陝西省白河県で栽培が盛んであり、「白河木瓜」が中国の地域ブランド(地理標志保護産品)に指定されている。他に山東省臨沂市でも栽培が盛んである』。『庭木にされるほか栽培も行われている。果実は』十~十一『月ごろに出回り、よい香りがするが』、『固くて酸味が強いので生食には適さず、砂糖漬けやハチミツ漬け、コンポート、果実酒などにして果樹として利用される。果実を加熱すると渋みは消え、果肉は鮮やかな赤色に変わる』。果実酒や砂糖漬けにしたものは咳止めに効果があるといわれ[15]、また果実に含まれる成分が咳や痰など喉の炎症に効くとされることから、のど飴に配合されていることもある』。『春に咲く薄紅色の花や、香りの良い大きな果実、個性のある幹肌は愛でられて庭木にされる。葉つきはあまり密ではなく』、『緑陰を楽しむ樹種ではないが、果実は収穫しやすく、落葉後は幹肌を楽しむことができる。花・果実とも楽しめ、さらに樹皮・新緑・紅葉が非常に美しいため』、『家庭果樹として最適である』。以下、「薬用」の項。『果実は榠樝(めいさ)と称して薬用にする。土木瓜(どもっか)、和木瓜(わもっか)とも称する。秋』九~十『月ころに、黄変する前の未熟果で淡緑色のものを採集して、輪切りにしたもの陰干して調製し生薬とする。中国では、約』二千『年前から漢方薬として使われてきた』。『民間療法で咳止め、吐き気に利用し、榠樝を』一『日量』三~五『グラム、水』四百『ccに入れて煎じて』三『回に分けて服用する用法が知られる。中国では酔い覚まし、痰切り、順気、下痢止めの効用があるとされている。咳止め、疲労回復にはカリン酒を毎日』、『のむとよいといわれている。ハチミツ漬けを』一『日』二~三『回、小さじ一杯程度を湯に溶いて飲むのもよい。痰が絡むような咳に良いといわれており、服用する者の体質は問わないとされている。のど薬として「カリンのど飴」というものも市販されている』。『果実に含まれるリンゴ酸やクエン酸には、鉄分の吸収を促進する作用があるといわれ、疲労回復に役立つと考えられている。種子にはわずかにアミグダリン』(amygdalin:C20H27NO11『を含んでおり、消化管内で腐敗発酵の防止に役立ち、吸収後は中枢神経に作用して、咳止めに役立つといわれている。ただし、アミグダリンは加水分解により猛毒のシアン化水素も発生するため、国立健康・栄養研究所などが注意を呼びかけている』。『材は比較的かたくて緻密、丈夫であることから、額縁、彫刻材、洋傘の柄などの木材として利用される。また、樹皮がまだら模様に剥がれて風情があるので、建築材として住宅の床柱にする』。『「カリン」の語呂合わせで「金は貸すが借りない」の縁起を担ぎ、庭の表にカリンを植え、裏にカシノキを植えると商売繁盛に良いとされ、長野県の県北地域にその風習が』残『されている』とあった。

「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「榠樝」([075-11b]以下)のパッチワークである。比較的、短いので、引用する(一部の表記にてを加えた。

   *

榠樝【音㝠渣宋圖經】 校正【原附木𤓰下今分出】

 釋名 蠻樝【通志】瘙樝【拾遺】木李【詩經】木梨【埤雅於時珍曰木李生呉越故鄭樵通志謂之蠻樝云俗呼爲木梨則榠樝盖蠻樝之訛也】

 集解【頌曰榠樝木葉花實酷類木𤓰但比木𤓰大而黃色辨之惟看蒂間别有重蒂如乳者爲木𤓰無此則榠樝也可以進酒去痰道家生壓取汁和甘松𤣥參末作濕香云甚爽神也詵曰榠樝氣辛香致衣箱中殺蠧蟲時珍曰榠樝乃木𤓰之大而黃色無重蒂者也樝子乃木𤓰之短小而味酢濇者也榅桲則樝類之生於北上者也三物與木𤓰皆是一類各種故其形狀功用不甚相遠但木𤓰得木之正氣為可貴耳】

 氣味 酸平無毒主治解酒去痰【弘景】食之去惡心止心中酸水【藏器】煨食止痢浸油梳頭治髮白髮赤【大明】煑汁

 服治霍亂轉筋【吳瑞】

   *

『別に、外國の花櫚木(くはりん《ぼく》)有≪るも≫、此れと同じからず。】』これは、

マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属カリン Pterocarpus indicus

である。当該ウィキによれば、漢字表記は『花梨、花林、花櫚』で、『別名インドシタン、インドカリン』。『庭木として知られるバラ科のカリンとは全くの別種。八重山諸島に分布するヤエヤマシタンPterocarpus vidalianus(八重山紫檀)とは近縁種である』。『タイ、ミャンマーなどの東南アジアからフィリピン、ニューギニアの熱帯雨林に自生する』。『日本では八重山諸島が北限』(昔の琉球国であるから、良安の『外國』は納得出来る)で、『金木犀に似たオレンジ色の小さな花が密集して咲く。芳香があるが、花期は短く』、一~二『日。東南アジアの緑化や街路樹や公園に好んで使用される。シンガポールのメインストリートであるオーチャード通りやバンコク、ホーチミン、クアラルンプールなどでも多く見られる』。『フィリピンの国樹であり、タイのチョンブリー県とプーケット県の県樹である』。『フィリピン名ではナーラ(ナラ; narra)、ミャンマーではバダウッ(』『後述のビルマカリンのことも指し、英語に padauk として借用される)、マレーシアではセナ(sena)、パプアニューギニアではニューギニアローズウッド(New Guinea rosewood)、インドネシアではソノクンバン(sonokembang)』『あるいはアンサナ(angsana)と呼ばれる』。『ビルマカリン(英:Burma padauk;学名: Pterocarpus macrocarpus )やアフリカンパドゥク(英:African padauk;学名: Pterocarpus soyauxii )とも近縁種』。『古くから唐木細工に使用される銘木。心材は黄色がかった紅褐色から桃色がかった暗褐色。木材にはバラの香りがあり、赤色染料が取れる。木材を削り、試験管に入れて水を注ぎ、これを太陽にかざすと、美しい蛍光を出す』。『家具、仏壇、床柱、床框、装飾、楽器、ブラシの柄などに使われる。シタンに似ており、代用材としても使われる』。十六『世紀から』十八『世紀のヨーロッパでは利尿薬として飲まれた』。『材木として利用されるために伐採が続いており、違法な伐採が行われている地域もある。また、開発により自生地の環境が脅かされている。ベトナムの個体群は』三百『年前に絶滅し、スリランカで行われた大規模な調査では本種は見つからなかった。マレー半島の個体群は絶滅した可能性が高い。インド、インドネシア、フィリピンの個体群も減少している。ニューギニアに残る本種最大の個体群も、深刻な伐採にさらされている。国際自然保護連合のレッドリストでは絶滅危惧にランクされている』。『ヤエヤマシタンも伐採が進み、現在、絶滅危惧IA類に指定されている』とある。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 文冠花

 

Bunkanka

 

ぶんくはんくは 崖木𤓰

 

文冠花

 

 

農政全書云文冠花髙𠀋許葉似榆樹葉而狹小開花彷

彿似藤花而色白穗長四五寸結實狀似枳殻而三瓣中

有子二十餘顆如皀⻆子子中瓤如栗子味微淡又似米

麪味甘可食

 

   *

 

ぶんくはんくは 崖木𤓰《がいぼくくわ》

 

文冠花

 

 

「農政全書」に云はく、『文冠花、髙さ、𠀋許《ばかり》。葉、榆(にれ)の樹の葉に似《に》て、狹《せば》く、小《ちさ》く、花を開≪けば≫、彷彿《はうふつ》と、藤の花に似《に》て、色、白く、穗の長さ、四、五寸。實を結≪ぶ≫狀《かたち》、枳殻《きこく/からたち》に似て、三瓣《さんべん》の中《なか》、子《み》、有り。二十餘顆《くわ》、「皀--子(さいかちのみ)」のごとし。子《み》の中《なか》、瓤《わた》、栗≪の≫子《み》≪の其れの≫ごと;く、味、微《やや》、淡(うす)く、又、米《こめ》の麪《めん》に似て、味、甘《あまく》、食ふべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「文冠花」は、一属一種の、

双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ムクロジ科ブンカンカ(文果)亜科ブンカンカ属ブンカンカXanthoceras sorbifolium(音写「キサントセラス・ソルビフォリウム」)

の別名である。「維基百科」の「文冠果」によれば(注記号はカットした)。『本種は高さ二~五メートル、高さ八メートルに達する大きな落葉低木または小高木種である。幹や枝の樹皮は赤褐色である。葉の配列は互生の羽状で長さ十二~三十センチメートル、各葉には長さ約三~六センチメートルの鋸歯状の葉が九~十七枚、含まれる。花は直径 二~三センチメートルで、五 枚の花弁があり、春の半ばに長さ十~二十センチメートルの直立した花穂が咲く。果実は、直径約五~六センチメートル の革のような殻に覆われた楕円形の蒴果で、成熟すると、三つの部分に裂け、中に六~十八個の種子が放出される。これらの種子は黒色で直径約一・五センチメートルで、トチノキ属』(ムクロジ科トチノキ属 Aesculus )『の果実にやや似ている』。『全草の葉、花、種子は食用であり、種子を圧搾して油を採取することもできる』。本種は『主に中華人民共和国北部の江蘇省、安徽省北部と河南省南部に分布し、北は山東省・山西省・河北省・内モンゴル自治区・陝西省・甘粛省まで分布しており、青海省寧夏回族自治区・遼寧省、吉林省等の省及びその地域、また、朝鮮半島でも見られる。ロシアでも栽培されており、 十九世紀に清朝から導入されたと推定されている』。同属は『「黄色い角」と訳され』、『この科の最も基本的な属類であると考えられており、種小名は、ナナカマド』(バラ目バラ科ナナカマド属ナナカマド Sorbus commixta )『の葉に似た葉を呈する』といった内容が記されてある。英文の同種のウィキは、記載が五倍近くあるので、見られたいが、そこには、同種『は歴史が長く、分布域も広いが、知る人はほとんどおらず、二〇〇〇年には、インターネット上にも全く情報が見つからなかった』とある、世界的に知られていない種であったことが記されてある。

「農政全書」は先行する「山茶科」を見られたい。「漢籍リポジトリ」の(卷五十六)の「荒政」の、ガイド・ナンバー[056-19b]に、以下のように出る(一部表記を改めた。太字傍線は私が後注のために附した)。

   *

文冠花 生鄭州南荒野間陜西人呼爲崖木𤓰樹髙丈許葉似榆樹葉而狹小又似山茱萸葉亦細短開花彷彿似藤花而色白穗長四五寸結實狀似枳殻而三瓣中有子二十餘顆如肥皂角子子中瓤如栗子味微淡又似米麫味甘可食其花味甜其葉味苦

  救飢 採花煠熟油鹽調食或採葉煠熟水浸淘

     去苦味亦用油鹽調食及摘實取子煑熟

     食

 玄扈先生曰嘗過子本嘉果花甚多可食

   *

「榆(にれ)」双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus。先行する「卷第八十三 喬木類 榆」を参照されたい。

「藤」中国語の「藤」は、単子葉植物綱ヤシ(椰子)目ヤシ科トウ(籐)連 Calameaeに属する種群の内、蔓性の茎を伸ばす植物の総称で、十三属約六百種あり、本邦では、「ロタン」や「ラタン」とも呼ぶ。則ち、本邦の「藤」ではない。我々の言う「藤(ふじ)」は、日本固有種で、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指すので、注意が必要である。

「枳殻《きこく/からたち》」日中ともに、双子葉類植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata でよい。先行する「卷第八十四 灌木類 枳殻」を参照されたい。

「皀--子(さいかちのみ)」既に指示した通り、良安の勝手な引用不全であり、致命的ミスである。ここは、

「肥皂角子」(ひさうかう:現代仮名遣:ひそうきょう)

でなくてはならない。これは、

マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科 Caesalpinioideaeギムノクラドゥス(中文名:肥皂莢)属 Gymnocladus 肥皂莢(中文名)Gymnocladus chinensis

である(正式和名はないと思われる。詳しくは、先行する「卷第八十三 喬木類 肥皂莢」を参照されたい。その前項の「卷第八十三 喬木類 皂莢」も参照必須!)。

2024/12/28

今日はこれで閉店

これから、連れ合いの鎌高時代の、私の大好きな元女生徒二人と四人で、私の自宅で、遅れたクリスマスを祝う。 心朽窩主人敬白

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 樝子

 

Rosi

 

[やぶちゃん注:左下に、二個の実が描かれてある。]

 

こぼけ   木桃

      和圓了

樝子【音渣】

      【俗云 小木𤓰】

      寒樝子

 

本綱木桃乃木𤓰之酸澀者小於木𤓰色微黃蒂核皆粗

核中之子小圓也木𤓰酸香而性脆木桃酢澀而多渣故

謂之楂其味劣於梨與木𤓰而入𮔉煮湯則香美過之其

功治霍乱轉筋也與木𤓰相近

農政全書曰樝子山野中多有之葉形類棠梨而背色

微黃結實似木𤓰稍圓味酸甜微澀多食損齒及筋

△按樹似海棠而叢生有刺葉亦似海棠而厚末圓三月

 開花紅色結子似林檎而團熟則黃味木而酸澀用之

 克木𤓰相傳此花爲咒詛佛供故尋常不賞

寒樝子 其樹葉皆相似而春冬二開其花深紅色辨厚

 不見樹大者叢生髙尺許而有花實故裁盆山

 一種有花白者呼名雪白寒樝子出於子種以爲珍

 

   *

 

こぼけ   木桃《ぼくたう》

      和圓了《わゑんりやう》

樝子【音「渣《サ》」。】

      【俗に云ふ、「小木𤓰《こぼけ》」】

      寒樝子(かんこぼけ)

 

「本綱」に曰はく、『木桃《ぼくたう》は、乃《すなはち》、木𤓰《ぼけ》なり。酸《すぱく》、澀《しぶ》き者なり。小にして、木𤓰より、色、微《やや》黃≪にして≫、蒂《へた》・核《さね》、皆、粗し。核の中の子《たね》、小《ちさ》く圓《まろ》きなり。木𤓰、酸香《さんかう》[やぶちゃん注:酸味が強く香りがよいこと。]≪に≫して、性、脆く、木桃は、酢澀《すしぶ》にして、渣(かす)、多く、故《ゆゑ》、之れを「楂」と謂ふ。其の味、梨よりも梨と木𤓰、與《とも》に劣れども、𮔉《みつ》に入《いれ》て、湯に煮れば、則《すなはち》、香美、之れ≪らに≫過《すぐ》。其の功、霍乱・轉筋《こもうらがへり》を治《ぢ》することや、木𤓰≪と≫相《あひ》近し。』≪と≫。

「農政全書」に曰はく、『樝子《ろし》は、山野の中、多《おほく》、之れ、有り。葉の形、「棠梨《たうり》」に類《るゐ》して、背の色、微《やや》、黃≪なり≫。實を結ぶこと、木𤓰に似て、稍《やや》、圓《まろく》、味、酸甜《さんかん》[やぶちゃん注:甘酸っぱいこと。]、微《やや》澀《しぶし》。多食≪すれば≫、齒、及び、筋《すぢ》を損ず。』≪と≫。

△按ずるに、≪樝子の≫樹、海棠に似て、叢生≪し≫、刺《とげ》、有り。葉も亦、海棠に似て、厚く、末《すゑ》は、圓《まろし》、三月、花を開き、紅色。子《み》を結び、林檎(りんご)に似て、團《まろ》く、熟すれば、則《すなはち》、黃≪となれり≫。味、木(しがしが)として[やぶちゃん注:前の「木𤓰」の「本草綱目」の引用中で良安が既に使っている奇体な訓である。私は『いかにも食べにくそうな、酸っぱかったり、ガリガリしている』と言った印象を言う語と捉えている。]、酸《すぱく》、澀《しぶし》。之れを用ふ《れば》、木𤓰に克つ。相傳《あひつた》ふ、「此の花、咒咀《じゆそ》の佛供《ぶつぐ》と爲《な》る。故《ゆゑ》、尋常、賞せず。」≪と≫。

寒樝子(かんこぼけ) 其の樹・葉、皆、相《あひ》似て、春・冬、二たび、開く、其の花、深紅色。辨《はなびら》、厚し。樹の大なる者を見ず。叢生して、髙さ尺許《ばかり》にして、花實、有り。故、盆山≪に≫栽《う》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。

 一種、花、白き者、有《あり》、呼《よん》で、「雪白《せつぱく》の寒櫨子《かんこぼけ》」と名《なづ》く。≪接(つ)ぎ木に非(あら)ず、≫子-種(《み》ばへ)より出づ。以≪つて≫、珍と爲す。

 

[やぶちゃん注:この「樝子」=「木桃」、則ち、「本草綱目」からの引用部は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「木𤓰」に続く「樝子」のパッチワークであるが、それは、前の「木𤓰」で示した、

中国固有種(チベット)で、当時、本邦には渡っておらず、現在も自然自生していないボケ属マボケ(真木瓜)Chaenomeles cathayensis 

である。従って、良安が、俗に、「小木𤓰《こぼけ》」とか、「寒樝子(かんこぼけ)」と勝手に異名を挙げ、あたかも、評言で本邦にもあるように言っているのは、笑止以外の何物でもない。恐らく、世間で「小さな木瓜」と呼んでいるのを、勝手に別種として認識しているのであろう。そもそも、この良安の言っているのは、特定的に、評言で「樹、海棠に似て……」と、敢えて★樹木の漢語を添えていない★ことからも、「本草綱目」のそれを、同定比定出来なかったからに他ならない。また、実は、前の「木𤓰」で示した、本邦では「しどみ」と呼んでいる、既出既注の、「草木瓜」、則ち、

ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica 

のことを(まあ、『前項の続きとしては、良安は、それを書くことをやらかしてしまうだろうなだろうな。』という予測は、私は、実は、既にしていたのだが)語っているのだと、断定出来るのである。

……ところが、どっこい……それ以外に……ここには――トンでもない致命的な地雷――が仕組まれていたのだ!――以下、必ず、読まれたい――

「農政全書」は先行する「山茶科」を見られたい。「漢籍リポジトリ」の(卷五十八)の「荒政」の、ガイド・ナンバー [058-8b]に、以下のように出る(一部表記を改めた)。

   *

櫨子樹 舊不著所出州土今鞏縣趙峯山野中多有之樹髙丈許葉似冬青樹葉稍濶厚背色微黄葉形又類棠梨葉但厚結果似木𤓰稍團味酸甜微澀性平

 救飢 果熟時採摘食之多食損齒及筋

   *

しかし、よく、見て頂きたい。漢字が違うのだ! しかも、

「櫨」

「樝」

は、これ、似ているが、 異体字ではない のだ!

■「本草綱目」や良安の用いている「樝」は、音「サ・シャ」で、中国・日本ともに、バラ目バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata 、或いは、本邦ではコボケ=クサボケを指す。

ところが、

★この「櫨」の方は、音「ロ・ル・リョ」で、漢語では、植物としては、「柑橘類の一種」・「ハゼ・ハゼノキ」(=ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum を指すのだ!

ということは、

この「農政全書」で言う「櫨子樹」は、サンザシではなく、ハゼノキである

ということになる。「でも、ウルシだろ? 食えへんやろ!」と言う御仁もいよう。ところが、ウィキの「ハゼノキ」の「利用」の「果実」の項に、『江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物』(☜★)『としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』とあるのだ! すなわち、

――良安は――この「農政全書」の「櫨子樹」の「櫨」を――「樝」と読み違えたか、異体字であると思い込んでしまった――

と考えるしかない、と私は思うのである。(なお、言っておくと、良安は「櫨」と「樝」があることは、知っていた。それは、本「山果類」の「目録」で、この『樝子(こほけ)』の二つ後の『榠櫨(くはりん)』では、この字を用いているからである。しかし、哀しいかな、立項された本文では、総て「榠樝」となってしまっている。ああッツ!……そして、その二つ後には、「山樝子(さんざし)」がきちまっているのであった。この、「農政全書の引用は、この「山樝子(さんざし)」にあってこそ、正しかったのに!!! なお、東洋文庫訳は、以上の多重誤謬に全く気づいておらず、なんの注もありゃせんゼ!!! 私のような、ヒマ人が、ここで指摘しなければ、大半の人は、同書のここにトンデモない誤りが仕掛けられてあるのに気づかないに違いない。私の仕事も、少しは、役に立つかな……

「棠梨《たうり》」本邦には現在も分布しない、和名のない双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属 Pyrus xerophila (音写「パイロス・クセロフィリア」)である。先行する「棠梨」を見られたい。

『相傳《あひつた》ふ、「此の花、咒咀《まじない》の佛供《ぶつぐ》と爲《な》る。故《ゆゑ》、尋常、賞せず」≪と≫。』これ、民俗学的に非常に興味があるのだが、検索では、見当たらない。咒(まじない)の際に、赤いクサボケの花を供える風習が、必ずや、今も、どこかに、残っていることを希う! 識者の御教授を切に乞う!

「寒櫨子(かんこぼけ) 其の樹・葉、皆、相《あひ》似て、春・冬、二たび、開く、其の花、深紅色。辨《はなびら》、厚し。樹の大なる者を見ず。叢生して、髙さ尺許《ばかり》にして、花實、有り。故、盆山≪に≫栽《う》ふ」やっと、ボケの別種が登場した! これは、「寒木瓜」で、

ボケ属カンボケ Chaenomeles speciosa

である。M.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」の「カンボケ」が美しい写真もあって、よい。そこに、『別名』『ヒボケ(緋木瓜)』とあり、『新宿御苑ではヒボケ(緋木瓜)の名前が使われている。緋色とは「炎のような色」という意味で、英語ではスカーレット。ボケは実が瓜に似て、木になることから「もけ」が転訛したという説が有力』とあった。また、『ボケやクサボケは春から咲き始めるが、このカンボケは』十一『月前後から』、『花を開き始める。ボケと同じく中国原産で平安時代頃より日本に渡来』したとある。

『一種、花、白き者、有《あり》、呼《よん》で、「雪白《せつぱく》の寒櫨子《かんこぼけ》」と名《なづ》く。≪接(つ)ぎ木に非(あら)ず、≫子-種(《み》ばへ)より出づ。以≪つて≫、珍と爲す』グーグル画像検索「クサボケ 花 白い花」を見られたい。]

2024/12/27

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 木𤓰

 

Boke

 

ぼけ   楙【音茂】

      【和名毛介】

木𤓰

    【木𤓰之轉音也

     再轉今称保介】

もけ

クワアヽ

[やぶちゃん字注:「𤓰」は「瓜」の異体字。]

 

本綱木𤓰可種可接可以枝壓其樹枝狀如柰其葉光而

厚春末開花深紅色其實大者如小𤓰小者如拳上黃似

着粉有鼻其鼻者乃花脫𠙚非臍蒂也性脆可𮔉漬之爲

果津潤味不木【木李能類木𤓰伹看蒂間別有重蒂如乳者爲木𤓰無者爲木李】

[やぶちゃん注:以下の二行は、原本では、一字下げの頭の部分は、大きな「」(丸括弧)で繋がっているが、上手く出来ないので、以上に代えた。]

 ┏木桃【樝子】圓小於木𤓰味木而酢濇性堅

 ┗木李【榠樝】似木𤓰而無鼻大於木桃味濇性堅

木𤓰【酸溫】 入手足太陰血分氣脫能收氣滯能和最治霍

 亂吐利轉筋脚氣如轉筋時伹呼其名及書土作木𤓰

 字皆癒此理亦不可解也轉筋則由濕熱寒濕之邪襲

 傷脾胃所致故必起於足腓腓及宗筋皆属陽明【忌鐵噐】

△按世稱木𤓰者不合本草註乃是木桃而非木𤓰自武

 州及江州多出之藥肆以𭀚木𤓰【木𤓰木桃】二物雖功用相

 近宜辨用之近頃有唐木𤓰者人愛其花植庭前乃此

 眞木瓜也葉花實皆如所謂于本草然惟不見其大木

 者疑往昔本朝唯有木桃而無木瓜乎

 

   *

 

ぼけ   楙【音「茂《ボウ》」。】

      【和名、「毛介《もけ》」。】

木𤓰

    【「木𤓰《ぼくくわ》」の轉音なり。

     再轉して、今、「保介《ぼけ》」と称す。】

もけ

クワアヽ

[やぶちゃん字注:「𤓰」は「瓜」の異体字。「茂」の音は漢音で「ボウ」。我々がよく用いる「モ」は、「ム」とも発音し、これらは呉音である。「再轉」は「再度、転訛すること」を言う。

 

「本綱」に曰はく、『木𤓰《ぼくくわ》、種≪う≫べし、接ぐべし、枝を以つて、≪地に≫壓(さ)すべし。其の樹枝、狀《かたち》、柰《だい》[やぶちゃん注:リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica 「維基百科」の同種「蘋果」の記載に、『中國土生蘋果屬植物在古代又稱「柰」』『或「林檎」』とあり、直後に「本草綱目」を引いている。当該ウィキによれば、『中央アジア原産であると考えられているが、紀元前から栽培されるようにな』ったとある。]のごとく、其の葉、光《ひかり》て、厚く、春の末に、花を開く。深紅色。其の實、大なる者、小𤓰《ちさきうり》のごとく、小き者、拳(こぶし)のごとし。上、黃にして、粉《こ》を着(つ)けたる≪に≫似《にて》、鼻、有り。其の「鼻」とは、乃《すなは》ち、花の脫(を[やぶちゃん注:ママ。])ちたる𠙚≪にして≫、臍-蒂《へた》には非ざるなり。性、脆《もろ》く、𮔉《みつ》に、之れを漬(つ)けて、果《くわ》[やぶちゃん注:ここは「菓子」の意。]と爲《なす》べし。津-潤《しるけ》[やぶちゃん注:汁気。東洋文庫訳のルビを採用した。]≪有りて≫、味、木《しがしが》ならず[やぶちゃん注:すぐ後で、良安は「シガシガ」(原文では後半は踊り字「〱」)と振る。この語、全く見かけない語であるが、小学館「日本国語大辞典」に、「しかしがさま」を見出しし、「然然様・云云様」とし、『その通りの状態』とする。或いは、これか? 「見た目から思った『いかにも食べにくそうな、酸っぱかったり、ガリガリしている』と言った印象とは、これ、相反して、すっきりしており」の意ではなかろうか?]【「木李《ぼくり》」は、能く木𤓰《ぼけ》に類《るゐ》す[やぶちゃん注:似ている。]。伹《ただし》、蒂《へた》の間《あひだ》を看るに、別に、重《かさ》≪なれる≫蒂の、乳《ちち》のごとくなる者、有≪るを≫「木𤓰」と爲《な》し、無き者、「木李」と爲す。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「木李《ぼくり》」これは、中国産の和名がない「梨(ナシ)」の一種である、サクラ亜科ナシ属 Pyrus xerophila (音写「パイロス・クセロフィリア」)である。これは、「棠梨」で私が考証しているので、見られたい。

 以下、ブラウザの不具合を考えて、改行し、頭のそれも「┃」で伸ばした。]

 ┏『「木桃《ぼくたう》」は【「樝子《さし》」。】。

 ┃木𤓰《ぼくくわ》より、圓《まろ》≪く≫、

 ┃小《ちさ》く、味、木(しがしが)として、

 ┃酢《すぱく》、濇《しぶし》。性、堅《かた》

 ┃し。』≪と≫。

 ┗『「木李《ぼくり》」は【「榠樝《めいさ》】。

  木𤓰《ぼくくわ》に似れども、鼻、無く、木

  桃より大にして、味、濇《しぶし》。性、堅し。』

  ≪と≫。

[やぶちゃん注:「木桃《ぼくたう》」「樝子《さし》」これは、中国固有種(チベット)であるボケ属マボケ(真木瓜)Chaenomeles cathayensis である。「維基百科」の同種の「木瓜海棠」に、『果實古稱「木桃」』(☜)。『如《詩經·衛風·木瓜》:「投我以木桃、報之以瓊瑤」。』とあるのを確認出来た。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「クサボケ 草木瓜」のページには、『中国名は毛叶木瓜 mao ye mu gua 』(この名は英語版ウィキの同種のページに「木瓜海棠」と並置してある。今まで見てきたところでは、現在の中文学名は複数が並置されることが多いことが判っている)。『英名はChinese quince , flowering quince』。『低木又は小高木、落葉性、高さ』二~六メートル、『短刺がある。小枝は紫褐色、円柱形、無毛、まばらに淡褐色の皮目がある。蕾は紫褐色、褐色、三角状卵形、無毛、先は鋭形。托葉は腎形、耳状又は類円形、長さ』五ミリメートルから一センチメートルで、『草質、下面は褐色の綿毛があり、縁は細かい芒状の鋸歯縁、先は鋭形、長さ約』一センチメートル『短毛があるか又は』、『やや短毛がある。葉身は楕円形~披針形~倒卵状披針形、長さ』五~十一センチメートル、『幅』二~四センチメートル、『下面は初め、褐色の綿毛が密生し、無毛になる。葉の上面は無毛。葉の基部は楔形~広楔形。葉縁は細かい芒状の鋸歯縁~まばらな鋸歯縁~類全縁、先は重鋸歯、葉先は鋭形又は尖鋭形。花柄は短いか又はほとんど無い。花は葉より早く』、二『又は』三『個、束生し、直径』二~三一ンチメートル。『花托筒は鐘形、外側は無毛又は』、『わずかに短毛がある。咢片は直立し、卵形~楕円形、長さ』三~五ミリメートル。『外面は無毛、内面と縁に褐色の短毛があり、先は鈍形又は鋭形。花弁はピンク色又は白色、倒卵形又は類円形。雄しべは』四十五~五十『個、花弁の長さの約』二分の一。『花柱は』五『個、雄しべとほぼ同長、基部に短毛又は羊毛状の毛がある。ナシ状果は香りがあり、黄赤色、卵形又は類円柱形、直径』六~七センチメートル(☜)。『咢片は早落性、果柄は短いかほとんど無い。花期は』三~五『月。果期は』九~十『月』とあって、ボケは三~十センチメートルであるから、叙述と一致する。

『「木李《ぼくり》」は【「榠樝《めいさ》】」東洋文庫訳では、「榠樝」に『かりん』のルビを振っているが、これはまずい。確かに、現行では、ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis にこの漢字を宛てているが、時珍がそう認識していたものとは、私は思わないからである。時珍は、やはり、前に注した通り、ナシ属パイロス・クセロフィリア Pyrus xerophila を示唆していると考えるものと思われる。この「樝」は、もともと、種を指示しない「柑橘類の一種」を指す語であるからである。

『木𤓰【酸、溫。】』『手足の太陰の血分に入る。氣、脫《だつ》せば、能く、氣を收《しう》す。滯《とどこほ》れば、能く、和《わ》す。最も、霍亂・吐利・轉-筋《こむらがへり》・脚氣を治す。如《も》し、轉-筋(こむらがへり)する時≪は≫、伹《ただ》、其の名を呼(よ)び、及《および》、土に書《かき》て、「木𤓰」の字《じ》を作《な》≪せば≫、皆、癒ゆ。此の理《り/ことわり》、亦、解すべからざるなり。轉-筋は、則ち、濕熱・寒濕の邪《じや》、襲(をそ[やぶちゃん注:ママ。])ひて、由《よつ》て、脾胃を傷むるに、致す所なり。故、必≪ず≫、足の腓(こむら)より起《おこ》る。腓、及び、宗筋《そうきん》[やぶちゃん注:漢方で陰茎を司る筋とされる。]、皆、陽明に属す【鐵噐を忌む。】。』≪と≫。

△按ずるに、世に「木𤓰(ぼけ)」と稱する者、「本草≪綱目≫」の註に合はず。乃《すなはち》、是れ、「木桃《ぼくたう》」[やぶちゃん注:これは後注で示す「草木瓜」=ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica のことを指している。則ち、前の「本草綱目」の「木桃」とは全く別種であり、そこが、唯一、この良安の記載の大きな瑕疵である。]にして、「木𤓰《ぼけ》」に非ず。武州、及び、江州に多≪く≫之れを出《いだ》す。藥肆、以≪つて≫「木𤓰《ぼけ》」に𭀚《あ》つ。【「木𤓰」≪と≫「木桃」≪との≫】二物の功用[やぶちゃん注:主語の提示のために文頭に割注を使用するこの例は極めて異例である。]、相《あひ》近しと雖《いへども》、宜《よろ》しく、之れを、辨じ用ふべし。近頃《ちかごろ》、「唐木𤓰(からぼけ)」と云≪ふ≫者[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。これが、後注で示す、現行のボケ属ボケ Chaenomeles speciosa である。]、有り。人、其の花を愛して、庭前に植《うう》。乃《すなはち》、此れ、眞(まこと)の「木瓜《ぼけ》」なり。葉・花・實、皆、「本草≪綱目≫」に謂ふ所のごとし。然れども、惟《ただ》、其の大木なる者を見ず。疑ふらくは、往昔《わうじやく》、本朝に≪は≫、唯《ただ》、「木桃《ぼくたう》」のみ、有りて、木瓜《ぼくくわ》無かりしか。

 

[やぶちゃん注:ここで言う「木瓜」は、結果的には、現在、殆んどの日本人が単に「ボケ」と呼んでおり、和名学名も「ボケ」である、中国原産の、

◎双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科 Amygdaloideaeリンゴ連ボケ属ボケ Chaenomeles speciosa(シノニム:Chaenomeles lagenaria

なのであるが、

★本邦に自生するボケは、同属であるが、異なる日本固有種である、

クサボケChaenomeles japonica

で異なる。

★その科学的事実を、良安は、実に正しく指摘している

のである。

東洋文庫は完全アウトで、この「クサボケ」を、一切、語っていない。

 そこで、まず、前者の「ボケ」( Chaenomeles speciosa )を示し、後で、本邦固有種の「クサボケ」を立項しているところの、ウィキの「ボケ(植物)」を引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。

◎まずは、植物学上で正当な「ボケ」の記載である。『果実が瓜に似ており、木になる瓜で「木瓜(もけ)」とよばれたものが』、『「ぼけ」に転訛(てんか)したとも、「木瓜(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したとも言われる』。「本草和名」(醍醐天皇の侍医・医博士として仕えた深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の本草書。延喜一八(九一八)年編纂)『には、果実の漢名を』、「木瓜(もくくわ(もくか))」、『和名を』、「毛介(もけ)」『として登場する』。『学名の speciosa は、「美しい」「華やか」、Chaenomeles は「chaino(大きく裂けた)+melon(リンゴ)」が語源。中国植物名(漢名)は、貼梗海堂(ちょうきょうかいどう)』。『原産地は中国大陸で、日本へは古く平安時代に渡来し、観賞用に栽培された帰化植物である。本州から四国、九州にかけて庭に植栽されているが、一部は野生化している。北海道南部では種類が限定されるが、温暖地でよく育つ。木瓜の名所としては、鎌倉市の九品寺』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『が知られる』。『江戸時代には、小石川養生所にボケが植えられ漢方薬として使われていた。大正時代に、埼玉県の安行』(あんぎょう:ここ)『(川口市)と新潟市の小合』(こあい:この附近)『を中心としたブームが起こり、東洋錦』(とうようにしき)『や日月星』(じつげつせい)『などが作出された』。『落葉の低木で、樹高は』一~二『メートル』。『株立ちになり』、『茎は叢生してよく枝分かれし、若枝は褐色の毛があり、古くなると灰黒色。樹皮は灰色や灰褐色で皮目があり、縦に浅く裂け、小枝は刺となっている』。『葉は長楕円形から楕円形で互生する。葉身は長さ』五~九『センチメートル』『で、鋭頭でまれに鈍頭、基部はくさび形で細鋭鋸歯縁。葉の付け根に腎臓形の托葉がつく』。『花は』三~四『月に葉が芽吹くよりも先に、ふっくらした朱色の』五『弁花を咲かせる。短枝の脇に数個つき、径』二・五~三・五センチメートル。『様々な品種があり、花色は淡紅、緋紅、白と紅の斑、白などがあり、雄性花と雌性花がある。秋に結実する果実は楕円形で、直径は約』三~十センチメートル『ほどになる』。七~八『月ごろに熟して、果皮は黄色味を帯びて落果する』。『冬芽は互生し、葉芽は三角形、花芽は球形で仮頂芽は葉芽であることが多く、クサボケよりも大きい』。『同類種に栽培種で中国産のカリン』(バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis 当該ウィキによれば、『日本への伝来時期は不明であるが』、『江戸時代に中国から渡来したといわれる説もある』とある)、『野生種で日本産のクサボケ』(後掲する)『がある』。『庭園樹として』、『よく利用され、添景樹として花を観賞する目的で植栽される。花材や、鉢植えにして盆栽にも用いられ、園芸品種も多い。好陽性で土壌を選ばず、排水性が良く、やや乾燥地を好む。繁殖は実生、挿し木、株分けで行われる。実生は果実を割って種を取り出し、洗って床蒔きする。挿し木と株分けは、春の芽吹き前に行う。移植は容易だが、大気汚染・潮害にはさほど強くない』。『果実にはクエン酸、酒石酸、リンゴ酸などの有機酸類と果糖が含まれていて、有機酸類には制菌作用があるとされ、腸内が酸性化するほど多く内服すると、細菌は弱アルカリ性(』ペーハー七『以上)で繁殖するため』、『増殖を止める働きがあるといわれる。また、有機酸類には鉄分の吸収促進に役立つとも考えられている』。『果実は木瓜(もっか)と称される生薬になり』、八~九『月ごろの落果する前の青い未熟果実を採取して、水洗い後に輪切りにしたものを天日乾燥して調製される。補血、強壮、疲労回復、咳止め、食あたりのほか、筋肉のひきつり(腓返り)、暑気あたりに効用があるといわれ』る。『ただし、胃腸に熱があるときは禁忌とされる』。『香りのよい果実を使って、果実酒やジャムにも利用される。ボケ酒と呼ばれる果実酒にすることもあり』、これ『にも』、『咳やのどの痛み、疲労回復、滋養保健、低血圧、不眠症などの薬効があるといわれ』る。

以下、日本固有種である「クサボケ」の項。

『クサボケ(草木瓜』 Chaenomeles japonica:英語: Japanese quince)『は、バラ科ボケ属の一つ。落葉低木。ボケの野生種で、山野や川の土堤、陽当たりのよい草むらなどに生える。和名の由来は全体に小型のため草に見立てられて名付けられた。別名でシドミ、ジナシとも呼ばれる。白花のものを白花草ボケと呼ぶ場合もある。矮性の園芸品種が「長寿梅」と呼ばれ』、『盆栽にされている』。『本州の関東地方以西、四国、九州に分布し、山野の日当たりの良い斜面などに生える。自生するボケ属は、クサボケ一種だけである』。『樹高』三十センチメートルから一メートル『ほど。幹は地面を這うか』、『斜上する。樹皮は灰褐色で、皮目があり』、『滑らかで』、『小枝が変化した棘がまばらにあり、若い枝には粗い毛が生えている。実や枝も小振り。葉縁に細かい鋸歯がある』。『花期は』四~五『月で、しばしば』、『葉よりも早く開花する。花の直径が』二十五『ミリメートル』『ほどの赤朱色の一重咲きがかたまってつくのがふつうであるが、まれに白花や八重咲きもある。雄花と両性花があり、花弁は』五『個で雄しべが多数つき、両性花の花柱は』五『個ある』。『果期は』十『月。果実は直径』三センチメートル『の球形で黄色く熟し、ボケやカリン同様に良い香りを放ち、未熟な果実を果実酒の材料にする。また果実にボケ同様の薬効があり、日本産の意で和木瓜(わもっか)と称される生薬となり、木瓜(もっか)と同様に利用される。果実酒はクサボケ酒と呼ばれ』るが、『減少傾向にある』。『冬芽は互生し、葉芽は三角形、花芽は球形で仮頂芽は葉芽であることが多い』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の 「果之二」の「木𤓰」([075-7a]以下)のパッチワークである。]

2024/12/26

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 絲埀櫻

 

Sidarezakura

 

したれさくら

 

絲埀櫻

 

いとさくら

 

△按絲埀櫻枝靭埀如絲柳其花單葉淡白似卵色而小

 開如束絲帛不結實

千葉絲櫻 卽絲埀櫻之千葉者也凡絲櫻枝接山櫻彼

 岸櫻卽能活

                      花山內大臣

  夫木白川や近き御寺の糸櫻年のを長く君そさかへん

 

   *

 

しだれざくら

 

絲埀櫻

 

いとざくら

 

△按ずるに、絲埀櫻は、枝、靭(しな)へ埀れて、「絲柳《いとやなぎ》」のごとし。其の花、單葉(ひとへ)にて、淡白、卵色に似て、小《ちさ》く、開≪けば≫、絲帛《いとぎぬ》を束(たば)ねたるがごとし。實を結ばず。

千葉絲櫻(《やへ》の《いとざくら》) 卽ち、絲埀櫻の千葉《やへ》なる者なり。凡そ、絲櫻の枝を、「山櫻」・「彼岸櫻《ひがんざくら》」に接《つ》げば、卽ち、能く活(つ)く。

  「夫木」

    白川《しらかは》や

      近き御寺(みてら)の糸櫻

     年のを長《なが》く

       君ぞさかへん   花山內大臣

 

[やぶちゃん注:これは、狭義の、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ

Prunus itosakura (シノニム:Cerasus itosakura ‘Pendula’

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『バラ科サクラ属の植物の一種で、広義では枝がやわらかく枝垂れるサクラの総称で、狭義では特定のエドヒガン系統の枝垂れ性の栽培品種』である。以下、「広義のシダレザクラ」の項。『シダレザクラは広義では枝がやわらかく枝垂れるサクラの総称。野生種(species)のエドヒガンから生まれた栽培品種の狭義のシダレザクラ』である。『やベニシダレ』( Prunus spachiana )『やヤエベニシダレ』( Prunus pendula )『が有名である。他にはエドヒガン』( Prunus itosakura var. ascendens  )『とマメザクラの交雑種の栽培品種のウジョウシダレ』(  Prunus  × subhirtella 'Ujou-shidare' )、『エドヒガン系と他種との雑種と推定される栽培品種のカミヤマシダレザクラ』( Prunus ‘Kamiyama-shidarezakura’)、『野生種のオオヤマザクラ』( Prunus sargentii )『の下位分類の品種(form)のシダレオオヤマザクラ』( Prunus sargentii f. pendula )、『野生種のカスミザクラ』( Prunus leveilleana )『の下位分類の品種のキリフリザクラ』(Prunus verecunda f. pendula )『があるほか、野生種のヤマザクラから生まれた栽培品種、もしくはオオシマザクラ』( Prunus speciosa )『由来の栽培品種のサトザクラ』( Prunus serrulata var. lannesiana )『といわれるシダレヤマザクラ(センダイシダレ)』(Prunus  lannesiana 'Sendai-shidare')『などがある。枝が枝垂れるのはイチョウやカツラやクリやケヤキなどでも見られるが、その原因は突然変異により植物ホルモンのジベレリンが不足して枝の上側の組織が硬く形成できず、枝の張りが重力に耐えられなくなっているからと考えられている。枝垂れ性は遺伝的に潜性のため、シダレザクラの子であっても』、『枝垂れない個体が生まれる場合がある』。『樹高は』八メートル『以上に育つ高木、花は一重咲きの小輪で淡紅色、東京基準の花期は』三『月中旬である。枝垂れる以外の特徴はエドヒガン』( Prunus itosakura var. ascendens )『と同じで』、『個体により変異がある』。『個体ごとに変異があるのは、シダレザクラには遺伝情報が違う複数のクローンがあるからであり、複数のクローンがある原因は、接ぎ木や挿し木のほかにも他の個体と交雑した種子でも増殖され、その後に各個体の形態が似ていたことから』、『別々の栽培品種として区別されず、一つのシダレザクラという栽培品種として認識されたことによるものと考えられている』。『既に平安時代には「しだり櫻」や「糸櫻」などが存在したことが当時の文献に記録されており、これは狭義のシダレザクラの祖先であったと考えられる。また、広義のシダレザクラであるカスミザクラの品種(form)のキリフリザクラ』( Prunus leveilleana f. pendula )『やオオヤマザクラの品種のシダレオオヤマザクラ』( Prunus sargentii f. pendula )『は野生での自生が確認されているが、狭義のシダレザクラには野生での自生木は発見されていない。さらに全国の狭義のシダレザクラには複数のクローンがあるとはいえそれぞれが遺伝的に近縁であり、日本各地に狭義のシダレザクラの古木が存在することから、狭義のシダレザクラは平安時代には既に種子により増殖されて栽培化されていて、それらの樹々が全国に広まったと考えられている』とある。

「千葉絲櫻(《やへ》の《いとざくら》)」既に示した「桜の博物館」「八重紅枝垂/遠藤桜(ヤエベニシダレ/エンドウザクラ)」に、学名を、Cerasus(= Prunusspachiana 'Plena Rosea' とし、『遠藤桜、糸桜八重、枝垂八重紅桜などの呼称を持つ』というのが、それであろう。

「山櫻」サクラ属ヤマザクラ Prunus  jamasakura

「彼岸櫻《ひがんざくら》」ヒガンザクラ Prunus subhirtella

「夫木」「白川《しらかは》や近き御寺《みてら》の糸櫻年のを長《なが》く君ぞさかへん」「花山內大臣」作者は花山院師信(かさんのいんもろのぶ)。鎌倉後期の公卿で、内大臣花山院師継の子。官位は従一位・内大臣。「夫木和歌抄」に載る西行の一首で、「卷卅四:雜十六」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「16423」)。そこでは、

   *

しらかはや-ちかきみてらの-いとさくら-としのをなかく-きみそさかえむ

   *

となっている。「を長く」は、枝垂れ桜の枝の「尾」のように「長く」の意であろう。]

2024/12/25

「アンドリューNDR114」が見られるよ!!!

サクラ・サクラで疲れたので、自分への御褒美に、「アンドリューNDR114」を見た。私は、二十四年前に独りで見た(連れ合いは、南京大学で、一年間、日本語教師をしていて留守だった)が、授業でも、紹介した。今日、再び見たが、やっぱり最高の“ヒューマン・ドラマ”であり、素敵な“ラヴ・ストーリー”だった!!!
今なら、YouTubeで、無料で全篇を見ることが出来るんだ!!!
未見の方は、チョウお薦めだ!!!

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫻

 

Sakura

 

さくら    櫻

       【和名佐久良】

【音英】

       樺【音話】

       【和名加波

        一云加仁波】

 

倭名抄載文字集略云櫻子大如柏端有赤白黑者也

△按櫻謂子不謂花何耶諸木花無比之者其樹髙二三

 𠀋皮橫理而老則紫色光澤有㸃文剥皮括捲器纏刀

 鞘謂之樺又用爲癰疔藥中入之共以山櫻皮爲良

 字彙曰樺木名皮可貼弓則別此一種木乎倭名抄亦

[やぶちゃん注:「弓」は、二画目が左右に突き抜ける「グリフウィキ」の異体字のこれであるが、表示出来ないので、「弓」とした。]

 如別種然櫻皮之外可謂樺者未見之其材淡褐色木

 理宻而硬刪板印甚佳伐生木埋土中久取出用則愈

[やぶちゃん注:「久」は最終画が、一画目の左端に突き抜けているが、このような異体字はないので、通用字とした。]

 不脆凡櫻樹稍長時春月縱入刀理緩皮則木昜肥大

 其葉淺青色有鋸齒冬凋春生葉清明前後開花結子

 大小可大豆生青熟赤黒有仁小兒好去仁食味甘美

 能解魚毒又有不結子者

 櫻諸國皆有之和州最多吉野滿山映花如雲如雪然

 多此單白山櫻也今京師名花多皆變於子種而或紅

 或紅白襍單瓣重瓣數種皆艶美爲百花之長不斥名

 唯稱花者櫻也 伊勢朝熊神社櫻爲日本櫻之始

  奧儀抄櫻より増る花なき花なれはあたし草木は  貫之

                   物ならなくに

 唐則如無櫻花而不載本草及三才圖會草木畫譜等

[やぶちゃん注:「畫」は、原本では、下部が「グリフウィキ」のこれの「メ」が「人」型になったものであるが、異体字としてはないので、通常字に代えた。以下の宋詩中のものも同じ。]

 詩人亦不賞之也於魚也鯛亦然矣【古詩有一兩首】

 ○賞櫻日本盛於唐 如被牡丹兼海棠 【宋景濂詩】

  恐是趙昌所難畫 春風纔起雪吹香

 ○山櫻抱石蔭松枝 比並餘花開最遲 【王荊公山櫻詩】

  只有春風嫌寂寞 吹香渡水報人知

[やぶちゃん注:二つ目の王荊公の詩の承句の「開」は、「發」の、転句の「只」は、「賴」の誤りであるので、訓読では、訂した。

 觀此則中國亦非無櫻

日本紀云允恭天皇見井傍櫻寄衣通姬歌

  花くはし櫻のめて異めては早くはめてすわかめつるこら

 平城天皇始有櫻花詩 昔在幽巖下 光𬜻照四方

  忽逢攀折客 含笑亘三陽 送氣時多少 埀陰枝

  短長 如何此一物 擅美九春塲

[やぶちゃん注:平城天皇の詩の第二句の「含」の字は、「今」の「ラ」が「月」を右に潰した字体であるが、こんな「含」の異体字はないので、通用字で示した。なお、この詩の六句目「埀陰枝短長」の「枝」は「復」の誤りであるので、訓読では、訂した。

日本後紀云嵯峨天皇弘仁三年二月幸神泉苑覽花樹

 令文人賦詩花宴之節始於此矣

   名𬜻數品不勝計大畧

泰山府君【大白千葉香氣最甚】 江戶法輪寺【大白千葉開初時帶微紅】 有明櫻゚江戶櫻【大白千葉帶淡色】 菊櫻゚奥州櫻゚述懷櫻【中白千葉帶淡色】 南殿櫻【大白千葉花有階段】 普賢象【大白千葉帶淡色花中有二細葉如象鼻鎌倉有名花称普賢堂東千本閻魔堂亦有之俗又名普賢像是也】 楊貴妃【小白千葉帶淡色有香氣】 熊谷櫻【小白千葉帶淡色花攅生】 鹽竃【中白千葉帶淡色嫩葉微黃紋色而葉亦艶美】 虎尾櫻【中白帶淡色莖短花繁滿枝如虎尾】 八重一重【中白八重與一重開分】 車返【中白八重一重開分而圍枝如車輪】 鷲尾櫻゚廣大寺桐谷櫻【大白色八重一重開分】 大挑燈櫻゚金王櫻【大白八重特大挑燈花盛日久】 法輪寺櫻゚八重垣櫻゚奈良八重櫻【大輪白色八重開初時帶淡色】 仁保比櫻【中白八重有甚香氣】 大毬゚中毬゚香毬【皆白八重花形如字】 西行櫻【大白八重微帶青色在西山大原野】 小菊櫻【中白八重】 衞門櫻【中白八重花莖短開狀如總系】 深山隱【花似衞門櫻而微帶淡色】 天狗櫻【花狀似衞門櫻而貫白】 香芬櫻【中白八重有香芬】 豊國【中淡色八重】 淺葱櫻【大淡青色八重開】

[やぶちゃん注:「普賢象」の割注の終りの方にある「普賢像」は「普賢象」の誤り。訓読では訂した。「衞門櫻」の割注の「系」は「系統」の「系」ではなく、「糸」の異体字である。

 いにしへのならの都の八重櫻けふ九重に香ひぬるかな

緋櫻【中花紅千葉文選詩註云山櫻果木名花朱色如火欲然也其是乎俗爲火櫻】 常陸櫻゚索規濱櫻゚紅葉櫻【並大紅千葉特紅葉櫻葉又赤】 本紅櫻゚伊勢櫻【並中花紅千葉】 紅毬櫻【大紅千葉而花莖長埀狀如毬】 𮈔總櫻【中紅千葉花狀如總】

                        光俊

  新六夕附日うつろふ雲や迷ふらん髙ねにたてる火櫻の

                        花

千本櫻【中花紅八重一重】 小櫻【中花淡紅八重】

練絹櫻【大花白單葉如絹色】 逆手櫻【中花白單葉微有色】 海棠櫻【中花白微紅色單葉如海棠花故名】 姥櫻【中花白色單辨未葉出花開】 桐壺【大白二重開】 彼岸櫻【小白單葉春分後彼岸開先于餘櫻】 山櫻【卽彼岸櫻之種類而花實共小山中多有】 兒櫻【小白單葉卽山櫻之一種】

 みてのみや人に語らん山櫻手毎に折て家つとにせん西行

[やぶちゃん注:この一首、「古今和歌集」所収(「卷第一 春歌上」。五五番)の歌であるが、まず、第三句「山櫻」は、「さくら花」の誤りであり、しかも、作者は西行ではなく、素性法師である。訓読では、訂した。

 凡花單葉者結子千葉者不結子常也然彼岸櫻單葉而無子江戶櫻八重有子

 

   *

 

さくら    櫻

       【和名、「佐久良《さくら》」。】

【音「英」。】

       樺《かば》【音「話《カ》」。】

       【和名、「加波《かば》。

        一《い》つに云ふ、

        「加仁波《かには》」。】

 

「倭名抄」に「文字集略」を載《のせ》て、云はく、『櫻《さくら》は、子《み》の大《おほい》さ、「柏(かゑ[やぶちゃん注:ママ。])」のごとし。端《はし》に赤・白・黑、有る者なり。』≪と≫。

△按ずるに、櫻、子を謂《いひ》て、花を謂はざるは、何ぞや。諸木の花、之れに比する者、無し。其《その》樹、髙さ、二、三𠀋。皮、橫理(《よこ》すぢ)にて、老(ひね)れば、則《すなはち》、紫色にして、光澤≪と≫、㸃文《てんもん》、有り。皮を剥《はぎ》て、捲器(わげもの)を括(と)ぢ、刀の鞘(さや)を纏《まと》ふ。之《これ》を「樺《かば》」と謂ふ。又、用《もちひ》て、癰疔《ようちやう》[やぶちゃん注:悪性の腫れ物。]の藥中《やくちゆう》と爲《な》≪し≫、之《これ》≪を≫入《いるる》。共に山櫻の皮を以つて、良《よし》と爲す。

[やぶちゃん注:「樺」は、双子葉植物綱マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula ではなく、第一に、「日本三大桜」或いは「日本五大桜」の一つであるバラ目バラ科サクラ属原種(野生種)変種エドヒガン(江戸彼岸)Prunus itosakura Siebold var. ascendens、或いは、変種エドヒガン  Prunus itosakura var. ascendens の古名である「淡墨桜」(うすずみざくら)を指し、第二に、サクラ属ヤマザクラ Prunus jamasakura の異名である。この場合は、樹皮の利用記載から、後者のヤマザクラに相当する。先行する「樺」も参考になるので、見られたい。★なお、現行では、サクラ群の属名は、 APG体系はサクラ亜属 Cerasus とするが、どうも、私は、何故だか知らぬが、この属名が好きになれないので(桜が本邦の独占のような誤った感じがするからか)、エングラー体系のスモモ属のそれを採る。シノニムが多い場合は、全部ではないが、命名が、一番、古いもの(そこでは、概ね、Prunus 属である)を採用した。

「加仁波《かには》」これは、現代仮名遣「かにわ」で、漢字は「樺」「櫻皮」を当てて、「かには」と読み、上代に於いては、舟に巻いたり、種々の器物に張ったり、曲げ物などを縫い合わせたりするのに用いられた複数の樹皮を指していた。ここは、後に、その材として、以上のヤマザクラ(=淡墨桜)の皮が一般的になり、その名を持つようになったと考えてよかろう。

「倭名抄」(=「和名類聚鈔」)の「櫻」は、「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の刊本の当該部では(訓読した)、

   *

櫻(さくら)  「文字集略」に云《いはく》、『櫻【「烏」「莖」の反。和名、「佐久良《さくら》」。】]は、子《み》の大《だい》なること、柏《かえ》のごとし。端に、赤・白・黒、有る者なり。

   *

とある。「文字集略」は、東洋文庫の書名注に『一巻。梁の阮孝緒撰。字書。』とある。阮孝緒(げん こうしょ:四七九年~五三六年)は、南朝梁の書誌学者で陳留尉氏(現在の河南省開封近郊)の出身。この「柏」(かえ:歴史的仮名遣はこれでよい。良安の『カヱ』のルビは誤りである。)とは、コノテガシワ・ヒノキ・サワラ等の常緑樹の総称である。

「捲器(わげもの)」東洋文庫訳の後注に、『檜や杉などの薄い板を曲げてつくった円形の容器。その合せ目を桜の皮で綴』(つづ)『りとじる。』とある。この最後の作業を、「括(と)ぢ」(終止形「とづ」)と訓じているのである。この「括」は古語の動詞の訓では、第一義では、「くくす」(ある物に他の物を縛りつける)と読むが、別に「綴じる・塞(ふさ)ぐ」の意の「とづ」がある。

「山櫻」ここでは、材だけではなく、生薬基原でもあるから、やはり、サクラ属ヤマザクラ Prunus  jamasakura でよいが(「熊本大学薬学部薬用植物園」公式サイト内の「植物データベース」のこちらを見よ)、古くから、広く野生種の総称として「山櫻」は用いられている経緯があるから、これに限ることは危険であることは言うまでもない。

 「字彙」に曰はく、『樺は、木の名。皮、弓に貼(は)るべし。』≪と≫。則ち、別に此の一種の木か。「倭名抄」にも亦、別種のごとし。然《しかれ》ども、櫻の皮の外、「樺」と謂《いひ》つべき者、未だ、之れを見ず。其の材、淡褐色≪にして≫、木-理(きめ)、宻(こまや)かにして、硬(かた)し。板印(はん《いん》)[やぶちゃん注:「印板・印版」と同義で、印刷するための版木に文字などを彫ることを言う。東洋文庫では二字に対して「はん」を当ててあるが、採らない。原本では、「ハン」は、「板」のみに振られてあるからである。]に刪(ほ)るに、甚だ、佳《よ》し。生木《なまき》を伐《きり》て、土中に埋《う》むこと、久≪しくして≫、取出《とりいだし》、用《もちふ》れば、則《すなはち》、愈《いよいよ[やぶちゃん注:原本では読みはないが、右下に踊り字「〱」が打たれてある。]》、脆(もろ)からず。凡《およそ》、櫻の樹、稍(やゝ)長ずる時、春月《しゆんげつ》、縱(たつ)に刀《かたな》≪の≫理(め)を入《いれ》て、皮を緩(ゆるや)かにする時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、木、肥-大(ふと)り昜《やす》し。其の葉、淺青色、鋸齒、有り。冬、凋(しぼ)み、春、葉を生ず。清明の前後に、花、開≪き≫、子《み》を結《むすぶ》。大小≪有れど≫、大豆《だいづ》ばかり≪なり≫。生《わかき》は、青く、熟《じゆくせ》ば、赤黒の、仁(さね)、有り。小兒、好《このみ》て、仁を去り食ふ。味、甘美≪にして≫、能《よく》、魚毒を解す。又、子を結ばざる者、有り。

[やぶちゃん注:『「倭名抄」にも亦、別種のごとし』これは、良安の不審で、同書の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木具【草具附出】」の「第二百四十九」にある「樺」を指す。先の国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の刊本の当該部は、ここで、落丁しているため、別な写本の当該部(朱書で補正されてある)を参考に訓読した。

   *

樺(かえは)  同[やぶちゃん注:前の「樸(コハタ)」(=木皮)を受ける。「玉篇」である。]云はく、【「戶」「花」の反。「胡」「化」の反。和名「加尓波《かには》」。今、櫻皮《さくらのかは》、之れ、有り。】『木皮、以つて、炬[やぶちゃん注:松明(たいまつ)。]と爲《な》すべし。』≪と≫。

   *

とあるのを指す。「玉篇」は字書。全三十巻。梁の顧野王(こやおう)の撰。五四三年成立。「說文解字」に倣って、字数を大幅に増加した部首分類体の字書。後に唐の孫強が増補し、宋の陳彭年らが、勅命により、増補修訂した。顧野王の写本の一部は日本にのみ、現存する。この「樺」は、明らかに桜の皮には限定していないことを、良安は、『別種』と言っているのである。

 櫻、諸國、皆、之れ、有り、和州、最《もつとも》、多し。吉野の滿山《まんざん》、花に映じて、花、雲のごとく、雪のごとし。然《しかれ》ども、多くは、此れ、單(ひとへ)の白の山櫻なり。今、京師に、名花、多く、皆、子種(《たね》うへ[やぶちゃん注:ママ。])より、變(かは)りて、或いは、紅、或いは、紅・白≪の≫襍(まじ)り、單瓣(ひとへ)・重瓣(やへ)、數種、皆、艶美≪にして≫、「百花の長《ちやう》」たり。名を斥(さゝ)ずして、唯、「花」と稱する者は、櫻なり。 伊勢の朝熊(あさま)の神社の櫻、「日本櫻の始《はじめ》」たり。

[やぶちゃん注:「朝熊(あさま)の神社の櫻」朝熊神社は、ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキの、「朝熊神社のサクラ」には、『朝熊神社はサクラの名所として伝えられ、西行は』「續古今和歌集」『に次のような』『歌を残している』とし、

   *

 神かぜにこころやすくぞ任せつる

     さくらの宮の花のさかりは

   *

を示し、東吉貞等編「神都名勝誌」(明治二八(一八九五)年)『では』、『風色の幽媚なる事、此の地を以て神都中の第一とす』『と記している』。「皇太神宮儀式帳」に『ある』「櫻大刀自」『の神名は』、『サクラの木を神体とする習俗によるものと考えられ』、『また、内宮にあった朝熊神社の遥拝所は』、「櫻宮」乃至は「櫻御前」と呼ばれていた』とある。]

  「奧儀抄《あうぎせう》」

    櫻より

      増《まさ》る花なき

       花なれば

    あだし草木《くさき》は

           物ならなくに 貫之

[やぶちゃん注:「奧儀抄」平安後期の歌学書。全三巻。藤原清輔著。天治元(一一二四)年から天養元(一一四四)年の間に成立。「序」と「式」(上巻)、「釋」(中・下巻)に分かれ、「式」は六義(りくぎ)や歌病(「うたのやまひ/かへい」:和歌の修辞上の欠陥を病気に喩えて言う語。「詩八病」(しはちへい)を模したもので、平安時代に始まり、「四病」「七病」「八病」などとも称する)等について解説し、「釋」は和歌の語句の注釈を載せる。

「櫻より増《まさ》る花なき花なればあだし草木《くさき》は物ならなくに」「貫之」この歌については、「YAHOO!JAPAN知恵袋」のここQAで、質問者が、『広辞苑で「もの」を引くと』『もの【物】』の五番目に『取り立てて言うべきほどのこと。物の数。貫之集「桜よりまさる色なき春なればあだし草木を―とやは見る」』とあり、回答者が、『ネットの方は』「新撰和歌」『にも類似点が見られるが、出典不明。「花なき花なれば」では意味が通じず、二つめの「はな」は「はる」の単純な誤写』。『参考までに』「貫之集」他』の『撰本系統のうち、たとえば西本願寺本(複製本により私に翻刻)では』、

   *

さくらよりまさるはなゝきはるなれはあたしくさきをものとやはみる

   *

『とあり、私撰集の』「新撰和歌」『では』、

桜いろにまさるいろなき花なればあたらくさ木もものならなくに(「新編国歌大観」本)

『とある』とあった。]

 唐《もろこし》には、則ち、櫻花《さくらばな》、無きか、載「本草≪綱目≫」、及び、「三才圖會」・「草木畫譜」等、載せず。詩人も亦、之れを賞せざるなり。魚に於いては、鯛《たい》、亦た、然り【古詩に、一兩首《いちりやうしゆ》、有≪るのみ≫。】。

[やぶちゃん注:「草木畫譜」東洋文庫の書名注に、『未詳。『草本花詩譜』と同じものと思われる。』とする。「草本花詩譜」の注には、『本文に汪躍鯉の撰とあるも不明。『画譜』の中の『草木花譜』のことであろうか。『八種画譜』の中では『新鐫草本花詩譜』となっている。』とあるのだが、載ってないのだから、どうでもいいのだが、これって、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「新鐫草本花詩譜」(黄鳳池編)のことじゃないか? リンク先に、「序」を明の天啓元(一六二一)年に汪躍鯉が書いているとあるぜ?

 以下、詩句は改行し、空欄も附す。割注は、改行して下方に下げた。]

 ○櫻を賞すること 日本 唐(たう)より盛《さかん》なり

  牡丹≪と≫海棠≪と≫を 兼ねらるるごとし

  恐らくは是れ 趙昌が畫《ゑが》き難き所なり

  春風 纔《わづか》に起《おこ》れば 雪 香《かう》を吹く

              【宋景濂《そうけいれん》の詩。】

[やぶちゃん注:「趙昌」生没年不詳。北宋の初め(真宗朝(九九七年~一〇二二年)に活躍した花鳥画家。四川省出身。字は昌之。花卉の観察と写生に努め、折枝・蔬果・草虫を巧みにしたと伝える。真作は残っていないが、評伝から、簡略描写や色彩本位の画家と考えられている。「宋景濂」(一三一〇年〜一三八一年)は元末から明初の学者・文人。浙江出身。明の洪武帝に仕え、「開国文臣の第一」と評された。「元史」を編集し、礼楽制度を制定し。た温雅典麗な古文により明初第一の散文家にして、明代を通じての代表的文人の一人とされ、本邦へも、その生存中から文集が入って愛好者が少くない。(孰れも諸辞書を総合した)。]

 ○山櫻 石を抱《いだき》て 松≪の≫枝に蔭《かげ》し

  餘花《よくわ》に比-並《たいして》 發《ひら》くこと 最≪も≫遲し

  賴《さひはひ》に春風有《あり》≪て≫ 寂寞《じやくまく》たるを嫌ふ

  香《かう》を吹≪き≫ 水を渡《わたり》て 人の知《しる》ことを報ず

              【王荊公《わうけいこう》、「山櫻」の詩。】

[やぶちゃん注:承句と転句を、誤ったままに訓読すると、「餘花《よくわ》に比-並《たいして》 開《ひら》くこと 最≪も≫遲し」、「只《ただ》 春風《あり》≪て≫ 寂寞《じやくまく》たるを嫌ふ」となる。「王荊公」かの「唐宋八家」の一人で、北宋の政治家・文学者であった王安石(一〇二一年~一〇八六年)のこと。臨川(江西省)出身。字(あざな)は介甫。神宗の信任を得て、宰相となり、青苗法(せいびょうほう:植え付け前に、農民に金や穀物を低利で貸し、収穫時に元利を返させる法。民間の高利を禁じ、政府の収入の増加を図ったもの)などの多くの新法を実施したが、旧法党の反対にあって辞職した。]

 此れを觀れば、則《すなはち》、中國にも、亦、櫻、無《なき》にも非ず。

[やぶちゃん注:確かに、中国の本草書等で、サクラが、思いの外、語られていないことは、今回、調べてみて、激しく意外の感を持った。これについては、サイト「グローバル医職住ラボ」の『日本と中国の「桜」』がよい。そこには、サクラは『中国では』、『生命感の象徴とされている他、愛の幸運と繁栄の象徴とされてい』るとあり、『中国起源説の根拠とされているのは、1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」です。同書には「桜の原産地は中国で、ヒマラヤの桜が人工栽培されるようになり、長江流域、西南地域、台湾島へと徐々に伝来した日本の桜は中国から伝来した。その時期は唐の時代だった」との記述があるそうです』。『中国植物学会植物園分会の張佐双理事によると、桜の野生種は世界中で約150種が存在し、そのうち50種以上が中国で確認され、サクラ属の野生祖先種約40種のうち、33種が中国原産と指定されたようです』。『桜は中国生まれですが、日本でもっと花を咲かせたのです。日本の桜栽培の歴史は古く、なんと1千年以上の歴史があります。ちなみに品種の85%以上が白い花の品種です』。『中国も現在、独自に桜を栽培しています。花の咲く時期はより長く、色も品種も多くなり、今では桜の栽培面積は世界一の広さだそうです』とし、『盛唐の頃、諸国から使者が多く訪れ、日本の使者は』、『建築、服飾、茶道、剣道などと一緒に桜の花をもちかえったとみられます。それが日本で盛んになり、現代になって日本の桜が中国に逆輸入となりました』とあった。牡丹を「花の王」として絶賛する中国人にとっては、嘗つては、迫力のない、ちまっこい群れとして、聊か、不満であったのだろうか?……でも、前項の「海棠梨を見るに、海棠は賞翫してるんだけどなぁ……

 以下の和歌・漢詩は、いままでの訓読法で、位置を変えてある。]

「日本紀」に云はく、『允恭《いんぎよう》天皇、井《ゐ》の傍《かたはら》の櫻を見て、衣通姬《そととほしのいらつめ》に寄する歌、

  花《くわ》ぐはし

      櫻のめで

    異《こと》めでば

   早くなめでず

        わがめづるこら

』≪と≫。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの黑板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)のここ(左ページ二行目以降)で、訓読文を視認出来る。「允恭天皇」は当該ウィキを見られたい。「衣通姬」同じく、当該ウィキを、どうぞ。そこには、『大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっており』、『本朝三美人の一人に数えられる。和歌に優れていたとされ、和歌三神の一柱としても数えられる』美女である。]

『平城天皇、始《はじめ》て、櫻花の詩、有り、

  昔し 幽巖の下《もと》に在り

  光𬜻《くわうくわ》 四方《よも》を照《て》らす

  忽《たちま》ち 攀《よぢ》折《をる》客《かく》に逢《あひ》

  笑(ゑみ)を含みて 三陽《さんやう》に亘(わた)る

  氣《き》を送る 時《よりよりに》多少《たせう》

  埀陰《すゐいん》 復《また》 短長《たんちやう》

  如何《いか》なれば、此の一物《いちもつ》

  美《びを》擅(ほしいまゝ)にす 九春《きゆうしゆん》の塲《ば》に

』≪と≫。

[やぶちゃん注:良安は引用書を示していないが、弘仁五(八一四)年に嵯峨天皇の命により編纂された日本初の勅撰漢詩集「凌雲集」(りょううんしゅう:小野岑守(おののみねもり)・菅原清公(きよきみ/きよとも)等の編纂)で、冒頭の平城天皇の二首目。国立国会図書館デジタルコレクションの、ガリ版刷であるが、世良亮一著「凌雲集詳釈」(一九六六年)の当該部が、よい。

「日本後紀」に云はく、『嵯峨天皇弘仁三年[やぶちゃん注:八一二年。]二月、神泉苑に幸(みゆき)あり。花樹《ななき》を覽《らんじ》玉《たまひ》[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]、文人をして、詩を賦《ふ》さしめ、「花の宴《うたげ》の節《せつ》」、此れより始《はじむ》る。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「日本後紀」は平安初期に編纂された勅撰史書。「續(しよく)本紀」に続く『六国史』の第三。承和七(八四〇)年に完成。延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年に至る。編者は藤原緒嗣ら。編年体・漢文・全四十巻だが、散逸しており、現存は十巻のみ(当該ウィキに拠った)。]

   名𬜻《めいくわ》の數品《すひん》、勝《たへ》て計《かぞ》へず、大畧≪す≫。

[やぶちゃん注:以下の桜の名物は、改行して示す。原文の「゚」は「・」に代えた。]

「泰山府君《たいざんふくん》」【大白千葉《だいはくやへ》。香氣《かうき》、最も甚し。】

[やぶちゃん注:「大」大輪。以下、「中」は中輪。「千葉」以前にも注したが、東洋文庫訳の後注に、『八重のうち花弁数の多いもの。現在、つばきなどでは花弁の多寡によって一重、八重、千重と分けている。』とある。「泰山府君」はヤツガタケザクラ(八ヶ岳桜)Cerasus Prunus × miyoshii Ambigua’で、マメザクラ(豆桜)Prunus incisa var. incisaとタカネザクラ(高嶺桜)Cerasus nipponica var. nipponicaの雑種である。

江戶法輪寺《えどほふりんじ》【大白千葉。開≪き≫初≪はじめ≫の時、微紅を帶ぶ。】

[やぶちゃん注:「文化遺産オンライン」のここで、モノクロームであるが、「江戶法輪寺櫻圖」(女流絵師・織田瑟々(おだひつひつ)・文化四(一八〇七)年作)の画像を見ることが出来る。また、Wampaq.Co.LTD作成のサイト「Wampaqのおもちゃ箱」の「桜の博物館」「桜の学名検索」の「法輪寺」を参照するに、日本固有種であるオオシマザクラ Prunus speciosa を基に生まれた栽培品種イチヨウ(一葉)品種ホウリンジ Prunus lannesiana Horinjiが有力。同サイトの独立ページに写真がある(このサイトには必ず画像があるので、以下の同所のリンクは必見!)個人サイト「このはなさくや図鑑~美しい日本の桜~」の同種のページ(このサイトは各個リンクは禁止であるため、以降では、原則、同定根拠には使用しない)に『元々は京都市西京区嵐山、法輪寺』(ここ。グーグル・マップ・データ)『にあったサクラで』あったとされつつも、『三好学氏によって記載されたものが本品種のものであるかは不明』とあり、『淡紅色大輪の花ですが、イチヨウと同じとする説があるほか、多摩森林科学園にあるものは、花弁の色も濃く、花弁の先があきらかに細かい切れ込みなどが見られず、その他同じような形質は見られません。各地に現存するホウリンジは各々』、『形質が違うので今後の研究がまたれます』とあって、最後に『エドに似る。』とのみ、ある。その「エド」(恐らく「江戸」)のぺージでは、サトザクラ(里桜)品種エド Cerasus(= Prunus serrulata ‘Nobilis’とするから、これは、ホウリンジとは異種である。しかし、ここでわざわざ「江戶」と冠しているのは、京都の「法輪寺」とは、似て非なる種の名乗りとも見られるから、これも候補(その品種であることを含め)としておく。次も参照。

有明櫻《ありあけざくら》・江戶櫻【大白千葉。淡色《あはいろ/たんしよく》を帶ぶ。】

[やぶちゃん注:「有明櫻」は「江戶櫻」と並べてあるので、前掲「桜の博物館」「桜の学名検索」の「有明/関東有明」に、Cerasus Prunus serrulata 'Candida' とする。「江戶櫻」は前掲のCerasus(= Prunus serrulata ‘Nobilis’ であり、これは正式和名「エドザクラ」である。当該ウィキによれば、単に「エド」とも呼ばれるとあった。

菊櫻《きくざくら》・奥州櫻《わうしうざくら》・述懷櫻《じゆつくわいざくら》【中白千葉《ちゆうはくやへ》。淡色を帶ぶ。】

[やぶちゃん注:「菊櫻」は前掲「桜の博物館」「桜の学名検索」の「菊桜(キクザクラ)」に、サトザクラ品種Cerasus Prunus serrulata 'Chrysanthemoides'とする。「奥州櫻」は同サイトのここで、Cerasus Prunus serrulata 'Oshudatozakura' とする。「述懷櫻」は不詳。]

南殿櫻《なでんざくら》【大白千葉。花は、≪南殿の≫階段《きざはし》に有り。】

[やぶちゃん注:「南殿」は「なんでん」とも読み、宮中の紫宸殿の別名。所謂、「左近の櫻」のこと。南面する帝(みかど)の位置の左手(階(きざはし)を下った東方)に当たるため。「南殿櫻」は前掲「桜の博物館」「桜の学名検索」の「南殿(ナデン)」に、Cerasus Prunus sieboldii とし、『高砂、松前早咲の異名とも言われるが』、『学名が異なる』ため、『別種とした。又、奈天(ナテン)と言う桜もあるが』、『学名が異なり』、『別種とした』とある。]

普賢象《ふげんざう》【大白千葉。淡色を帶ぶ。花の中に二つの細き葉、有り、象の鼻のごとし。鎌倉に、名花《めいくわ》、有り、「普賢堂《ふげんだう》」と称す。東千本《ひがしせんぼん》の「閻魔堂《えんまだう》」にも亦、之れ、有り。俗、又、「普賢象」と名づく≪は≫、是れなり。】

[やぶちゃん注:「普賢象」「鎌倉櫻」は、私のブログ版の「鎌倉攬勝考卷之一 物產」の最後にある、「鎌倉櫻」の本文と、私の注を見られたい(サイト版の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」でサイズの大きい画像で見られるのだが、そちらは、Unicodeを使いこなす前の電子化であるため、正字表記が不全である)。古いUnicodeの使用が出来なかった時代のものであったので、先日、全文の漢字表記を補正し、「普賢象櫻」の挿絵も入れておいた。歴史的経緯をざっくりと言うと、①鎌倉時代には、前期に現在の鎌倉市街にあった。②後に「金澤文庫」のある称名寺に移植されて、あった。③現在も、本邦には、その名を持つ品種として「普賢象」はある(サクラ属フゲンゾウ Cerasus Prunus × lannesiana  ‘Alborosea’synonymCerasus Prunus serrulata ‘Albo-rosea’(サトザクラ品種) Cerasus Prunus Sato-zakura Group ‘Albo-rosea’当該ウィキを見られたい)が、同一種かどうかは、不明である。「金沢区」公式サイト内のここに、『文殊桜 普賢象の桜』として、『称名寺にあった八重桜の一種と言われています。文殊桜は左近の桜になぞらえて階前の金堂の左に、普賢象の桜は右近の橘になぞらえて階前の金堂の左にありました。』とある。『東千本《ひがしせんぼん》の「閻魔堂《えんまだう》」』これは「千本閻魔堂」で、現在の京都市上京区閻魔前町にある高野山真言宗光明山引接寺(いんじょうじ:グーグル・マップ・データ)の通称。本尊は閻魔王。生前に地獄へ通じ、閻魔の秘書官をしていたとされる小野篁(たかむら)の建てた閻魔堂が、その前身であると伝え、寛仁年間(一〇一七年~一〇二一年)、定覚(じょうがく)が開創した。古えは、蓮台野の墓地の入口に当たっていた。「普賢象桜」と「大念仏狂言」とで知られ、また、「紫式部供養塔」(京には冥い私だが、ここは行ったことがある)と称するものがある(以上の一部は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

楊貴妃《やうきひ》【小白千葉。淡色を帶ぶ。香氣、有り。】

[やぶちゃん注:「楊貴妃」は、前掲「桜の博物館」「楊貴妃(ヨウキヒ)」に、Cerasus Prunus serrulata 'Mollis' とする。]

熊谷櫻《くまがいざくら》【小白千葉。淡色を帶ぶ。花、攅生《さんせい》[やぶちゃん注:群がって生える。]す。】

[やぶちゃん注:「熊谷櫻」は、前掲「桜の博物館」「熊谷桜(クマガイザクラ)」に、マメザクラ変種キンマメザクラ変種クマガイザクラCerasus Prunus incisa var. kinkiensis 'Kumagaizakura' とし、『伊予熊谷と同種と言われる場合もある。又、八重咲山彼岸とも呼ばれる。熊谷とは異なる種である』とある。]

鹽竃《しほがま》【中白千葉。淡色を帶ぶ。嫩葉《わかば》、微《やや》、黃≪なる≫紋

≪しぼ≫り色にして、葉も亦、艶美なり。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「塩釜桜(シオガマザクラ)」に、 Cerasus Prunus serrulata 'Shiogama' とある。]

虎の尾櫻《とらのをざくら》【中白。淡色を帶ぶ。莖、短かく、花、繁り、枝に滿ち、虎の尾のごとし。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「虎の尾(トラノオ) Cerasus Prunus serrulata 'Caudata' とある。]

八重一重《やへひとへ》【中白。八重と、一重と、開き分《わ》く。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」のリストの「ヤエヒトエ」には『(異名)』とあり、リンク先は「御車返し(ミクルマガエシ)」で、Cerasus(= Prunus serrulata 'Mikurumakaisi' とあり、『桐ヶ谷、八重一重、見返し桜とも呼ばれる』とあった。そこで、ウィキの「ミクルマガエシ」を見ると、『鎌倉の桐ケ谷にあったサクラの個体名に由来し、江戸時代には「桐ケ谷(キリガヤ)」と呼ばれていた。このサクラには、このサクラの下を牛車で通った貴人』二『人が一重咲きか八重咲きかで言い争いとなり』、『牛車を引き返して確認したという逸話があり、当時は「車返し(クルマガエシ)」とも呼ばれていた。一方で、京都の別のサクラにもこれと似たような逸話があり、後水尾天皇が京都御所の宜秋門(もしくは常照皇寺)にあるサクラの傍を通りかかった際に、その美しさに牛車を引き返させて鑑賞したという「御車返し(ミクルマガエシ)」と呼ばれるサクラもあった。この』二『つの似たような逸話を持つ別々のサクラが混同され、明治時代に鎌倉由来の「桐ケ谷(キリガヤ)」別名「車返し(クルマガエシ)」が「御車返し(ミクルマガエシ)」と呼ばれるようになった。これを受けて、現在は本来の京都の「御車返し(ミクルマガエシ)」は「御所御車返し(ゴショミクルマガエシ)と呼ばれるようになった。このよく似た」二『つのサクラの逸話と名称の変遷により、現在でもミクルマガエシとゴショミクルマガエシを混同する事例がある』とあった。そこで、前掲「桜の博物館」の「御所御車返/京都御所御車返(ゴショミクルマガエシ/キョウトゴショミグルマガエシ)」を見ると、 Cerasus (= Prunus serrulata 'Gosho-mikurumagaeshi' とあった。従って、この「八重一重」と、次に立項されてある「車返(《くるま》がへし)」は、その孰れかに相当するということになるが、写真の花を見ても、私には、判別がつかない。而して、「御車返し(ミクルマガエシ)」リンク先にある掲げた解説の「桐ヶ谷」「八重一重」に従がうのが自然であり、この「八重一重」が、Cerasus(= Prunus serrulata 'Mikurumakaisi' であり、次の「車返(《くるま》がへし)」こそが、ゴショミクルマガエシ/キョウトゴショミグルマガエシ)Cerasus (= Prunus serrulata 'Gosho-mikurumagaeshi' である、と、私は結論した。識者の御教授を乞うものである。

車返(《くるま》がへし)【中白。八重と一重と、開き分く。枝を圍(めぐ)り、車輪のごとし。】[やぶちゃん注:前項の私の注を参照。]

鷲尾櫻《わしをざくら》・廣大寺桐谷櫻《かうだいじきりがやつざくら》【大白。色、八重・一重、開き分く。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「鷲の尾(ワシノオ)」に、イチヨウ(一葉)品種Cerasus(= Prunus lannesiana 'Wasinowo'  とし、『大明』(だいみん:サトザクラ品種 Prunus serrulata 'Daimin')『と同種と言う説もあるが、多摩森林科学園では別種として扱っている』とある。「廣大寺桐谷櫻」という名(本種の異名かも知れない)は、ネット検索では見当たらない。この「桐谷」が何んとも悩ましいものの、箔をつけるための異名と考えれば、よかろうかと思う。]

大挑燈櫻(《おほ》でうちん《ざくら》・金王櫻(こんわう《ざくら》)【大白の八重。特に「大挑燈」は、花の盛《さかり》の日、久《ひさ》し。】

[やぶちゃん注:この二つの名は、割注から、同品種の別種であると考えられる。前掲「桜の博物館」の「大提灯(オオヂョウチン)」(この読みから、本文も「でう」とした)には、Cerasus(= Prunus serrulata 'Ojochin'とある。同じサイトの、「金王桜(コンノウザクラ/シブヤコンノウザクラ)」で、 Prunus serrulata 'Konno' とする。『東京都渋谷区の金王神社にある桜。長州緋桜の変種で長州緋桜より白い。渋谷金王桜とも言われる』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)――ウヘエ! 大学生の私が、毎日、前を通っていながら、一度も境内に入ったことがない、あそこかいなッツ?!]

法輪寺櫻《ほふりんじざくら》・八重垣櫻《やへがきざくら》・奈良八重櫻《ならやへざくら》【大輪白色。八重。開き初めの時、淡色を帶ぶ。】

[やぶちゃん注:「法輪寺櫻」前掲「桜の博物館」「法輪寺(ホウリンジ)」に、サトザクラ品種ホウリンジ Cerasus(= Prunus serrulata 'Horinji'とある。「八重垣櫻」不詳。この名自体は、ネットには神社の桜の木(花)の美称として見られるが、品種の名では認められない。「奈良八重櫻」「奈良八重桜/奈良八重紅桜(ナラノヤエザクラ/ナラヤエベニザクラ)」に、カスミザクラ品種 Cerasus(= Prunus leveilleana 'antiqua' とあり、『奈良桜、奈良都八重桜、 予野の八重桜とも呼ばれる』と記す。因みに、御存知ない方のために言っておくと、「法」の歴史的仮名遣は、普通の用法では、「はふ」であるが、仏教関連用語の場合は、「ほふ」と区別して読むことになっている。

仁保比櫻《にほひざくら》【中白八重。甚だ、香氣、有り。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「匂桜(ニオイザクラ)」に、イチヨウ品種Prunus lannesiana f. Hosokawa-odora とあった。]

大毬(《おほ》てまり)・中毬《ちゆうてまり/なかてまり》・香毬(にほひ《てまり》【皆、白八重。花の形、字のごとし。】

[やぶちゃん注:「でまり」という濁音は、古え、濁音を嫌った本邦の習慣に従っておいた。「大毬(《おほ》てまり)」は、前掲「桜の博物館」の「大手毬(オオテマリ/オオデマリ)」に、Cerasus(= Prunus serrulata 'Oh-demari'とあった。学名で判る通り、サトザクラ系の八重咲き品種で現在でも人気がある。「中毬」未詳。「香毬」未詳。なお、「桜の博物館」には、「手鞠(テマリ)」 Cerasus(= Prunus serrulata 'Temari' 「小手毬(コデマリ)」Cerasus(= Prunus 'Kodemari' 「白山大手毬(ハクサンオオデマリ)」 Cerasus(= Prunus 'Hakusan-ohtemari' があり、また、ごく最近のものでは、「浜名湖手毬(ハマナコテマリ)」があって、『はままつフラワーパークの初代園長である故「古里和夫」氏が発見した桜。染井吉野の実生から偶然生まれた。花は染井吉野に似ているが手毬咲きとなる。命名は古里和夫氏』とあった。]

西行櫻《さいぎやうざくら》【大白八重。微《やや》、青色を帶ぶ。西山大原野《にしやまおほはら》に在り。】

[やぶちゃん注:この名の品種は存在しないものと思われる。最も知られる「西行桜」は、古蹟として栃木県大田原市佐良土(さらど)にある天台宗光丸山(こうまるさん)法輪寺のここにある(グーグル・マップ・データ)。「大田原市」公式サイト内の「西行桜(さいぎょうざくら) 市指定天然記念物」に『法輪寺境内にあるシダレザクラです。シダレザクラはエドヒガンの変種で枝が枝垂れるものをいいます。別名イトザクラともよばれます』。『この樹は根元から二股に分かれています』。『保延』『年間』(一一三五年~一一四一年)、『西行法師が奥州行脚の折』り、『法輪寺に詣でて、境内にあったサクラを見て、

   *

 盛りにはなどか若葉は今とても

     こころひかるる糸櫻かな

[やぶちゃん注:現在残る西行の歌集の中には見出せない。後世の偽作であろう。]

   *

『と詠んだと伝えられていることから、「西行桜」の名があります。当時から』八百『年余の歳月が流れていますが、現在のサクラはひこばえのものです』とある。シダレザクラ(枝垂桜)の学名は、Prunus itosakura(シノニム:Prunus pendula ; Cerasus spachiana Cerasus itosakura f. itosakura ; Cerasus itosakura Pendula’;Cerasus spachiana itosakura‘;Cerasus spachiana Pendulaである。]

小菊櫻《こぎくざくら》【中白八重。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「小菊桜(コギクザクラ)」に、学名を、 Prunus jamasakura cv. Agishi-kogikuzakura (この場合はヤマザクラの品種)、別に、Prunus serrulata  f. singularis (この場合はサトザクラの品種)とし、『阿岸小菊桜』、『又は』、『本誓寺小菊桜の別名』とあり、「阿岸小菊桜」「本誓寺小菊桜」では、孰れも別な写真を添えて、学名は前者のPrunus jamasakura cv. Agishi-kogikuzakura を採用しておられる。]

衞門櫻《ゑもんざくら》【中白八重。花の莖、短くして、狀《かたち》、總系《ふさいと》のごとく開く。】[やぶちゃん注:「系」は「系統」の「系」ではなく、「糸」の異体字である。この「衞門櫻」は検索しても見当たらなかったが、ふと、気づいたのだが、「ゑもん」という読みなら、「右衞門」があるので、「右衛門桜」で調べたところが、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「右衛門桜 (桜16 江戸の花と木)」に、『江戸の一本桜の最後、「右衛門桜」』を訪ねられ、『「右衛門桜」は』『北新宿の円照寺にあります』とあった(同寺はグーグル・マップのここ。桜の写真有り)。以下、『円照寺の由緒書き等がありませんでしたが、「江戸名所図会」に詳細に書かれています』。『それを要約すると次のようになります』。『瑠璃光院と号す。柏木村にあり。真言宗にて田端の与楽寺に属す』。『本尊薬師如来の像は行基の作といわれていたもの』。『天慶』三(九四〇)『年』、『藤原秀郷が威を関東に振るう平将門を討とうと中野にきたところ、ひじが痛んだため、本尊薬師如来にお祈りするとたちまち直った』。『あわせて、将門征伐のお願いをしたところ、無事征伐できたので、凱旋後、円照寺を建立した』。『その後、兵火に何度かあったが、江戸時代になって、寛永』一八(一六四一)『年に春日局が修復をした』。『「右衛門桜」は、本堂の脇、地蔵堂の前にありました』グーグル・マップで航空写真でアップし、ストリートビューのポイント画像を見たところ、「地蔵堂」ではなく、「閻魔堂」とマップにはあった)。『意外と若木のヤエベニシダレでした。「右衛門桜」などの説明板も一切ないのが少し残念でした』。『【江戸名所花暦の書く右衛門桜】』とされ、『「右衛門桜」について、江戸名所花暦では次のように書かれています』。『柏木の右衛門桜と名付けたる説は、武田右衛門という浪人あり。すぐれてこの花を愛す。老木にて幹木の枝枯れたり。右衛門歎きて、あらたに若枝をつぐ。継木の妙手を得たる人なれば、枝葉栄えて花もむかしの色香をなせり、右衛門が継木の桜なれば、いつともなく右衛門桜という。所を柏木村といへば、源氏の柏木右衛門に因み手名高き木とはなれり』とあった。ヤエベニシダレは、当該ウィキによれば、『八重紅枝垂』で、学名は、Prunus spachianaPlena Rosea’(シノニム : Prunus pendula Plena Rosea’ ;Cerasus spachiana  f. spachiana Yaebenishidare’;Cerasus itosakuraPlena-rosea’)で、『エドヒガンから誕生した日本原産の栽培品種の八重咲きのヤエザクラで、花色が濃い紅色』(☜)『のシダレザクラである。「エンドウザクラ(遠藤桜)」「センダイヤエシダレ(仙台八重枝垂)」「センダイコザクラ(仙台小桜)」「ヘイアンベニシダレ(平安紅枝垂)」とも呼ばれる』とある。しかし、良安は、「衞門櫻」の花の色を「白」とし、「八重」で、「花の莖、短くして、狀《かたち》、總系《ふさいと》のごとし」と言っており、この白ではなく、淡紅で、しかも、花の茎の形状も、全く合わないので、残念ながら、ヤエベニシダレではない。

深山隱(み《やま》がくれ)【花、「衞門櫻」に似て、微《やや》、淡色を帶ぶ。】

[やぶちゃん注:不詳。前掲「桜の博物館」に「深山桜(ミヤマザクラ)」があり、学名を、 Cerasus(= Prunus Maximowicziiとあるが、そこにある写真の花は、「微《やや》、淡色を帶」びてなどいないので、違う。]

天狗櫻《てんぐざくら》【花の狀《かたち》、「衞門櫻」に似て、貫白《ぬきじろ》[やぶちゃん注:真っ白。]。】[やぶちゃん注:不詳。]

香芬櫻(かうぶん《ざくら》)【中白の八重。香芬、有り。】

[やぶちゃん注:名の読みの「ぶん」は、原文自体に「カウブン」と濁点がある。本種は不詳。]

豊國《とよくに》【中。淡色。八重。】

[やぶちゃん注:ありそうな名だが、未詳。京都の豊国神社と関係するかと思ったところが、そこに植わっているのは、「蜂須賀桜」で、これは大和桜(ヤマトザクラ)と沖縄系の桜による一代交雑種で、寒桜(カンザクラ)の一種とされており、良安の時代に、この交雑種は、ちょっとクエスチョンに私には思えた。]

淺葱櫻(あさぎ《ざくら》)【大。淡青色。八重に開く。】

[やぶちゃん注:GKZ 植物事典」の「ギョイコウ」のページで異名として、『アサギザクラ(浅黄桜)』とある。学名は、Prunus lannesiana Gioiko’である。当該ウィキによれば、『オオシマザクラを基に生まれた日本原産の栽培品種のサトザクラ群のサクラ。名前は江戸時代中期から見られ』、『その由来は貴族の衣服の萌黄色に近い』ことによる。『別名は「ミソギ(御祓)」』ともあった。]

 いにしへの

   ならの都の

  八重櫻

    けふ九重《ここのへ》に

        香《にほ》ひぬるかな

[やぶちゃん注:以上の一首は、「百人一首」にも採られてある(六一番)知られた和歌で、「詞花和歌集」の「卷第一 春」の伊勢大輔の一首(二九番)である。

   *

  花をたまひて、歌よめと、おほせられければ、

  よめる

 いにしへのならのみやこの八重ざくら

   けふ九重(ここのへ)ににほひぬるかな

   *

水垣久氏のサイト「やまとうた」の「伊勢大輔 いせのたゆう(いせのおおすけ) 生没年未詳」によれば、作歌経緯は、「伊勢大輔集」『によれば、上東門院彰子が一条天皇の中宮だった時、奈良の僧の献上物八重桜を受け取る役を、紫式部が新参の伊勢大輔に譲り、それを聞いた藤原道長が歌も奉るように命じた、という』とあり『以下、詞書を群書類従本』の「伊勢大輔集」『より引用』とあり(漢字を正字化し、一部に手を加えた)、

   *

女院(によゐん:上東門院)の中宮と申しける時、内におはしまししに、奈良から僧都の八重櫻を參らせたるに、「今年のとりいれ人は、今、參りぞ。」とて。紫式部のゆづりしに、入道殿(道長)、きかせたまひて、「ただには、とりいれぬものを。」と仰せられしかば、

   *

『因みに』、『彰子の返歌は』、

   *

 九重に匂ふを見れば櫻がり

    重ねてきたる春かとぞ思ふ

   *

とある。因みに、ここに読まれた「櫻」は、現行では、サクラ属カスミザクラ(霞桜)変種ナラノヤエザクラ(奈良の八重桜) Prunus serrulata var. antiqua に同定比定されてある。当該ウィキを見られたい。]

緋櫻(ひ《ざくら》)【中花。紅、千葉。「文選」詩の註に云はく、『山櫻《さんわう》は、果木の名。花、朱色、火《ひ》、然《もえ》んと欲するごときなり。』と。其れ、是れか。俗に「火櫻」と爲《な》す。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」「緋桜(ヒザクラ)」があり、学名を、サトザクラ品種 Prunus lannesiana cv. Hizakura とある。]

常陸櫻《ひたちざくら》・索規濱櫻(《そ》との《はまざくら》)・紅葉櫻《もみぢざくら》【並びに[やぶちゃん注:孰れも。]、大紅千葉。特に、「紅葉櫻」の葉、又、赤し。】

[やぶちゃん注:「常陸櫻」不詳。旧常陸国、現在の茨城県には、多くのサクラの品種があるが、この名は見当たらない。「索規濱櫻」不詳。この「索規濱」自体が不詳である。識者の御教授を乞うものである。「紅葉櫻」ありそうな名だが、不詳。]

本紅櫻《ほんべにざくら》・伊勢櫻《いせざくら》【並びに、中花。紅《くれなゐ》、千葉《やへ》。】

[やぶちゃん注:「本紅櫻」未詳。これもありそうで、見当たらない。「伊勢櫻」未詳。]

紅毬櫻(べにてまり《ざくら》)【大紅千葉にして、花・莖、長く埀《た》る。狀《かたち》、毬《まり》のごとし。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」「紅手毬(ベニテマリ)」があり、学名を、Prunus lannesiana 'Beni-demari' とする。]

𮈔總櫻(いとくり《ざくら》)【中紅千葉。花の狀、總《ふさ》のごとし。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」に、「糸括り(イトククリ)」なら、あった。学名を Cerasus(= Prunus serrulata 'Fasciculata' とする。しかし、これであるかどうか、判らない。写真を見るに、割注の、それらしくは見えるのだが……。

 「新六」

   夕附日《ゆふづくひ》

      うつろふ雲や

     迷ふらん

    髙ねにたてる

       火櫻《ひざくら》の花

                  光俊

[やぶちゃん注:「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02380」である。しかし、そこでは、

   *

ゆふつくひ-うつろふくもや-まかふらむ-たかねにたてる-ひさくらのはな

   *

とある。とすれば、良安の「迷ふ」は「紛ふ」の誤りではなかろうか?

千本櫻(ちもとの《ざくら》)【中花。紅《くれなゐ》。八重と一重と。】

[やぶちゃん注:不詳。前掲「桜の博物館」に、「小彼岸/子彼岸/彼岸桜/千本彼岸(コヒガン/ヒガンザクラ/チモトヒガン)」学名 Cerasus subhirtella があるが、ウィキの「コヒガン」によれば、『広義ではマメザクラとエドヒガンが交雑した種間雑種の総称』(太字は私が附した)とし、狭義には、特定の栽培種として、学名  Prunus subhirtella (シノニム:Cerasus × subhirtellaCerasus × subhirtella 'Kohigan' )を挙げるが、どの解説、どの写真を見ても、八重はなく、一重であるから、割注に反する(なお、『狭義のコヒガンの花期が早く彼岸頃に咲き始めるためにこの名前がついたといわれている。別名にヒガンザクラ(彼岸桜)、センボンヒガン(千本彼岸)。なお、エドヒガンの別名もヒガンザクラ(彼岸桜)であり、更にカンヒザクラをヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ぶこともあるため混同に注意が必要である』とあったことを言い添えておく)。]

小櫻《こざくら》【中花。淡紅八重《たんこうやへ》。】[やぶちゃん注:不詳。]

練絹櫻(ねりぎぬ《ざくら》)【大花。白。單葉。絹色《きぬいろ》。】[やぶちゃん注:不詳。]

逆手櫻(さかて《ざくら》)【中花。白。單葉。微《やや》、色、有り。】

[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」に『さかて―ざくら【逆手桜】』があり、『サクラの園芸品種。花は淡紅色で、六弁からなり、一弁はよじれるという。』とあり、使用例に、浄瑠璃の「賀古敎信七墓𢌞」(正徳四(一七一四)年頃)の「櫻祭文」から、「櫻重ねの袖翻へし、さかて櫻に白木綿襷ひっかけつっかけ、花の木蔭を祓ひ淨め奉れば」とある。本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年の成立である。しかし、学名はネットには見当たらない。識者の御教授を乞う。引用の「という」とあるのが、ちょっと怪しい。もう失われた古い園芸品種である可能性もありそうだ。

海棠櫻《かいだうざくら》【中花。白。微、紅色。單葉。海棠の花のごとし。故に名づく。】

[やぶちゃん注:AIは『カイドウザクラは、バラ科リンゴ属の落葉樹であるハナカイドウの俗称です。ハナカイドウは、中国の漢名「海棠」の音読みで、花が美しいことからこの名前が付けられました』とあるから、これが正しいとするなら、バラ科ナシ亜科リンゴ属ハナカイドウ(花海棠) Malus halliana で、サクラではない当該ウィキを見られたい。

姥櫻《うばざくら》【中花。白色。單辨。未だ、葉を出さざるに、花、開く。】

[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」「江戸彼岸(エドヒガン)」に、『江戸彼岸は、東彼岸、立彼岸、婆彼岸、姥桜』(☜)『姥彼岸など色々の名前で呼ばれている』とあり、『「ウバ」は葉が芽生える前に花が咲く様子を、歯のない老婆(姥)に例えたものである』とある。]

桐壺《きりつぼ》【大白。二重《ふたへ》に開く。】[やぶちゃん注:如何にもありそうな品種名だが、不詳。]

彼岸櫻《ひがんざくら》【小白單葉。春分の後《のち》、彼岸《ひがん》に、餘の櫻に先《さきだ》ちて開く。】

[やぶちゃん注:ウィキの「エドヒガン」によれば、「江戸彼岸」は、『別名、アズマヒガン、ウバヒガン』とし、『「エド」や「アズマ」は東国を意味し、関東地方のヒガンザクラ(彼岸桜)の意味である』。『その他、エドヒガンから誕生した栽培品種の特性から、ヒガンザクラ』『アズマザクラ』・『タチザクラ』・『イトザクラ』・『シダレザクラ』『の別名もある』とし、『春の彼岸ごろに花を咲かせることからヒガンザクラ(彼岸桜)、葉より先に花を咲かせることから「葉(歯)がない」との言葉遊びからウバザクラ(姥桜)の通称もあるが』、『マメザクラと本種の種間雑種であるコヒガン』( Prunus subhirtella :シノニム:Cerasus × subhirtella Cerasus × subhirtella 'Kohigan' )『の通称もヒガンザクラ(彼岸桜)で、別の野生種のカンヒザクラ』( Prunus campanulata:シノニム:Prunus campanulata Prunus cerasoides var. campanulata Cerasus campanulata Cerasus campanulata )『をヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ぶこともあるため、それぞれの混同に注意が必要である。』とあった(太字・下線は私が附した)。]

山櫻《やまざくら》【卽ち、「彼岸櫻」の種類にして、花・實、共に、小さし。山中、多く有り。】

[やぶちゃん注:既出のサクラ属ヤマザクラ Prunus jamasakura 当該ウィキを見られたい。]

兒櫻《ちござくら》【小白單葉。卽ち、山櫻の一種≪なり≫。】

[やぶちゃん注:これも、ありそうで、サクラの種名には見当たらない。]

 みてのみや

    人に語らん

   さくら花

    手毎《てごと》に折《をり》て

           家《いへ》づとにせん

                    素性

[やぶちゃん注:これは、「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の(五五番)、

   *

   山の櫻を見てよめる     そせい法し

 見てのみや人にかたらむさくら花

    手《て》ごとにをりていへづとにせん

   *

である。言わずもがなであるが、係助詞「や」は反語である。]

 凡(なべて)の花[やぶちゃん注:「桜の花」の限定。]、單葉の者は、子《み》を結ぶ。千葉《やへ》の者は、子を結ばざるは、常《つね》なり。然《しかれ》ども、「彼岸櫻」は、單葉にして、子、無く、「江戶櫻」は八重にして、子、有り。

[やぶちゃん最終割注:八重桜は実を結ばない、というのは、不思議に思った。検索すると、「教えて!goo」の「八重桜に実がつかないのはなぜ」に対する回答に、『八重咲きの花は、おしべが花びらに変化したもので、実は、つかないと言われています。戦国時代の大名太田道灌の逸話の中にも、山吹の八重咲きのものは、実がつかない事が書かれています』。しかし、『八重咲きの桜も同じと思っていましたが、八重咲きの花を、良く観察するとおしべとしべがありました。八重桜の個体の影響かと思い、数県離れた所の八重桜も観察しましたがやはり、おしべとめしべがついていました。八重桜は、花が重く、額が枝から垂れ下がってついているので、自重で落ちてしまい実がつかないのではないでしょう』とあったのだが、しかし、ウィキの「ヤエザクラ」によれば、『花の中心部の』一『本もしくは』二『本の雌しべが正常な柱頭と花柱ではなく細い葉のように葉化しているため、生殖能力を失っていて結実できなくて、接ぎ木や挿し木でないと繁殖ができない品種もあり、イチヨウ、フゲンゾウ、ショウゲツ』(松月: Prunus ‘Shogetsu’ Cerasus serrulata ‘Superba’ )『などがこれにあたる』あったので、始めて納得した。而して、ここで実の生らない「單葉」と言っているが、サクラは総てが単葉であるから、おかしいが、本文でお判りの通り、良安は、既に「單瓣」の意味で、この語を用いている。而して、単弁の「彼岸櫻」というのは、単一では殆んど結実しないソメイヨシノのことを言っているものかと私には思われる。一方の、『「江戶櫻」は八重にして、子、有り』というのは、エドヒガンから誕生した日本原産の栽培品種の八重咲きの八重桜で、実生するヤエベニシダレ(八重紅枝垂)Prunus pendula のことを指しているようである。]

 

[やぶちゃん注:この「櫻」は、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属 Cerasus 又はスモモ属 Prunus(上位分類をスモモ属とした場合はサクラ亜属  Cerasus )の総称としての「サクラ」

で、下位の節は、

 サクラ節 sect. Cargentiella

 ミザクラ(実桜)節 sect. Cerasus

 ミヤマザクラ(深山桜)節 sect. Phyllomahaleb

の総論である(学名では「節」の弁別は示さなかった)。当該ウィキに種は詳しい。そこによれば、世界で野生種だけで百種あるとするとし、本邦の野生種は十種、或いは、十一種とある。今回は、権威主義のアカデミズム信望者のために、CDRで所持する古い平凡社の「世界大百科事典」(第二版・一九九八年)の「サクラ(桜)」を引く(コンマを読点に代え、一部の読みをカットした)。これを使うのは、一目瞭然、単に私の好きなエングラー体系だからである。『サクラは古くから日本人に親しまれ、日本の花の代表として海外にまで知られる。一般にサクラと総称しているものは、主として北半球の温帯と暖帯に分布しているバラ科サクラ属サクラ亜属の主として落葉性の樹木で、花がいっせいに開花して美しいものが多く、広く観賞されている。日本にはヤマザクラ、オオヤマザクラ』(大山桜:双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属オオヤマザクラ Prunus sargentii )『をはじめ、カスミザクラ』( Prunus verecund )、『オオシマザクラ、マメザクラ、エドヒガン、チョウジザクラ』(丁字桜:サクラ属チョウジザクラ変種チョウジザクラ Cerasus apetala var. tetsuyae )、『ミヤマザクラ、タカネザクラ』(高嶺桜: Prunus nipponica )『など』十『種類ほどの自然種を基本として、変種や品種をあわせると約』百『ほどの種類が野生している。サクラ類の多くは陽樹で、しかも二次林を構成する生長の速い種が多いため、人家で栽植するにも好適であり、これらの野生種から多数の園芸品種が育成され、その数も』二百『から』三百『といわれる。古く奈良時代から栽培化された八重咲きのサクラが知られていたが、サクラの品種がまとまって記録されるようになったのは江戸時代からで、水野元勝の』「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年)に四十『品種のサクラがのっている。その後、多くのサクラ図譜が出ているが、松岡玄達』「怡顔齋櫻品」(いがんさいおうひん:宝暦八(一七五八)年『には』六十九『品種、桜井雪鮮描画、市橋長昭斤』の「花譜」・「續花譜」(上と下)・「又續花譜」・「花譜追加」の五冊(享和三(一八〇三)年から翌享和四・文化元年)『には』二百五十二『図が出ている。大井次三郎著、太田洋愛』(ようあい)『画の』「日本桜集」(一九七三年には百五十四『図がのっている。英語ではセイヨウミザクラ』( Prunus avium )『のように実を食べるものを cherry、日本で改良された花をみるサクラを Japanese cherryfloweringcherryJapanese flowering cherry と呼び、区別している』。『サクラの葉は互生し、縁に鋸歯があり、多くは葉柄の上部に』一『対』、『または』、『それ以上のみつ腺がある。花序は散房状、散形状、総状などになり、花の基本は、円筒形をした萼筒の上部に』五『枚の萼片があり、萼片と交互になって』五『枚の花弁がつき、萼筒上部の内側に通常』、四十『本内外のおしべが』三『段ぐらいついている。めしべは普通』、一『本あり、子房は萼筒内の底に子房周位の状態におさまり、子房の上には細長い花柱がある。果実は核果で、果肉のなかに』一『個の硬い核があり』一つの『種子が含まれている』。『日本にはサクラの種類が多いので、早春から晩春までサクラがつぎつぎに咲き、なかには季節はずれの初冬に咲くサクラもある。早春の』二『月に淡紅色の花が咲くものにカンザクラ(寒桜)P. × kanzakura 』『がある。これは』カンヒザクラ(寒緋桜:Prunus campanulata )『とオオシマザクラの雑種で、大寒桜(おおかんざくら)、修善寺寒桜などの品種がある。カンザクラの一方の母種である』カンヒザクラは『中国南部、台湾に分布し、琉球に野生化している。葉が展開する前に、花弁が半開した濃緋紅色の花が下向きに咲く。沖縄では』一~二『月に開花し、関東以南の暖地でも』二~三『月の早春に咲くサクラとして植えられている。まれに栽培されている中国原産の桜桃(おうとう)とよばれるシナミザクラ P. pseudocerasus 』『も、大木にはならないが』、『花期の早いサクラである。しかし、俗にサクランボといって果実を食用にしているセイヨウミザクラ 』『の花は』四『月になってから』、『咲く』。『春の彼岸ごろになると』、『全体に毛の多いエドヒガン』『が、萼の基部が』壺『形にふくらんだ小型の花を、葉の出る前に咲かせる。本州、四国、九州の山地に生え、朝鮮半島、中国にも分布しており、各地に巨樹、名木が残っている。日本一大きいといわれる山梨県武川村の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)をはじめ、山形県伊佐沢の久保桜、岐阜県根尾谷(ねおだに)の薄墨桜(うすずみざくら)、巨岩を割って生えている岩手県盛岡市の石割桜(いしわりざくら)などはいずれもエドヒガンの大木で、天然記念物になっているものが多い。エドヒガン系の糸桜も同じころ枝をやさしく垂れさげて、淡紅白色一重の花を開く。福島県三春町の三春滝桜(みはるたきざくら)は糸桜の巨木として古くから知られており、京都市の平安神宮、東京都の神代植物公園などにある八重紅枝垂(やえべにしだれ)は紅色、八重の美しい花が咲く。このエドヒガンとマメザクラの雑種のコヒガン(小彼岸)P. × subhirtella 『はヒガンザクラ(彼岸桜)『とも呼ばれ、長野県高遠町の城跡公園のものは有名である』。四『月になると、全国各地に広く植栽されており、最も普通に花見の対象になっているソメイヨシノ(染井吉野)P. × yedoensis Matsum 『の花が咲いてくる。明治初年ごろに東京の染井から広がり始めたもので、オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられている。若枝や葉、花部などに毛があり、葉を開く前に大きな一重の花が木を埋めつくして美しく咲く。ソメイヨシノの仲間には、北アメリカでソメイヨシノの実生から選出された』「アメリカ」『や』、『オオシマザクラとエドヒガンの交配によってつくられた三島桜、天城吉野(あまぎよしの)などがある。チョウジザクラ』『は本州と九州の山地に生え、花径』一・五センチメートル『ほどの小さい花が春早くに咲く。マメザクラ』『も花が早く開葉の前に咲き、木が全体に小型なので』「豆桜」『といわれている。関東、甲信地方から静岡県東部の山地に生えているが、富士、箱根地方に多いので、フジザクラまたはハコネザクラともいわれている。純白な花弁に、鮮緑色の萼をつけた緑萼桜(りよくがくざくら)八重咲き、菊咲きなどの品種があり、本州の中部より西の山地には変種のキンキマメザクラ(近畿豆桜)』Prunus incisa  var. kinkiensis 『が分布している』。『昔から日本人に親しまれてきたヤマザクラ』『は』、四『月に赤茶色に染まった葉を広げると同時に、淡紅白色の花をほころばせる。ソメイヨシノが出現しなかった明治以前の観桜の主役はもっぱらヤマザクラで、奈良の吉野山、京都の嵐山などは古くからの名所である。本州の宮城県以西、四国、九州の山野に生え、韓国の済州島にも分布している。ヤマザクラは葉や花部に毛がなく、花の裏面の白みの強いものであるが、葉の一部に毛を散生する』ヤマザクラ品種『ウスゲヤマザクラ』Prunus jamasakura f. pubescens『も混ざって生えている』。二~三『年生の幼木で開花する稚木桜(わかきのさくら)と呼ぶ一歳桜もあり、八重咲きの木の花桜(このはなざくら)、御信桜(ごしんざくら)などの花は少し遅れて咲く。カスミザクラ(霞桜)P. leveilleana 』は、『ヤマザクラより山地の上部に生え、花期もやや遅れる。葉や花部に毛があるのでケヤマザクラとも呼ばれているが、葉の裏面に白みがなく、花が白い。北海道から九州の山地に生え、朝鮮半島、中国東北部まで分布している。奈良市の知足院(ちそくいん)にある有名な奈良八重桜はカスミザクラの八重咲きで、花期が遅く』、四『月下旬になって淡紅色の花が咲く。ヤマザクラにつづいて咲くオオヤマザクラ』『は、北海道の山地に多いのでエゾヤマザクラ、あるいは紅色の花が咲くのでベニヤマザクラともいい、北海道では』五『月に入ってから咲き、新冠の桜並木、小伍苗畑、厚岸の国泰寺など名所が多い。サハリン、南千島、北海道から本州、四国の愛媛県、徳島県、朝鮮半島に分布している。本州中部では標高』七百~千メートル『のところに生え、ヤマザクラより上部の山地に出てくる。新潟県北蒲原郡大峰山の橡平(とちだいら)のサクラ樹林は天然記念物になっている。オオヤマザクラやヤマザクラなどのサクラの樹皮は色つやがよいので、タバコ入れ、小箱などの外側にはるのに用いられ、秋田県角館の樺皮細工(かばざいく)は有名である。樹皮は』、『また』、『去痰剤として薬用にもしている。ヤマザクラの仲間のサクラ材はやや硬い散孔材で良質なので、器具・家具・建築材になり、版画の版木にはサクラ材が最高である。最近はサクラ材の量が少なくなったので、カバノキ科のカンバ材がサクラ材といわれ、流通している』。『ヤマザクラに似たサクラには、海岸に適応した型にヤマザクラまたはカスミザクラから分化したといわれているオオシマザクラ』『がある。伊豆七島、伊豆半島、三浦半島、房総半島に分布していて』、三『月から』四『月ごろ』、『開葉とともに開花する。タキギザクラ(薪桜)ともいわれ、薪炭用にするので、伊豆、三浦、房総の各半島では植林され、それが野生化したものもある。葉は大きくて毛がなく、縁には先がのぎ状の鋸歯があって、裏面は白みがない。オオシマザクラの葉は塩漬にして、桜蛭を包むのに使われている』。四『月の中旬から下旬になると、変化に富んだ花の咲く栽培のサトザクラ』『が咲いてくる。オオシマザクラを主として、それにヤマザクラ、オオヤマザクラなどが交雑したものから改良選出された園芸品種の総称であって、一重、八重、色の濃淡、香りのよいものなど多数の品種がある。一重でも太白(たいはく)のように花が大きくなり、花径』五センチメートル『以上の大きな白花を開くものもある。サクラは花弁』五『枚が基本であるが、おしべが花弁に変化すると花弁が増加してきて、八重咲きになる。花弁化が不完全なときは葯だけが花弁状に変わり、花糸の先に旗のようにつくので、これを旗弁と呼んでいる。旗桜には旗弁があるので、この名がつけられた。御車返し(みくるまがえし)は一重の花と旗弁をもった』六~八『枚の花弁がある花が、同じ木に混じって咲くので』「八重一重」『ともいわれている。法輪寺や福禄寿、楊貴妃などは花弁が』十~二十『枚ある淡紅色大輪の花が咲く。公園によく植栽されている関山(かんざん)や普賢象には花弁が』三十『枚内外ある大きな花が咲き、これらの花を塩漬にしたものは桜湯に使われている。普賢象は室町時代から知られている古い品種で、花は長い柄があって垂れさがり、緑色の葉状に変化しためしべが』二『本ある。普賢象の名は普賢菩醍の乗ったゾウの鼻を花にたとえ、葉化しためしべの先に残っている』二『本の花柱を』、牙(きば)『に見立てて名付けられたという。花弁が』百『枚から』三百五十『枚以上にも増加した菊咲きのサクラもあり、兼六園菊桜は金沢の兼六園にあったサクラで、老木になると』三百五十『枚から』三百八十『枚の花弁のある花をつけ、一つの花の中にさらにもう一つの花が重なり、いわゆる二段咲きになっている。花色の変わったものもあり、鬱金(うこん)や御衣黄』(ぎょいこう)『は黄緑色の八重の花が咲く』。『春も深まった』五~六『月になると、ミヤマザクラ』『が咲く。花は花柄のもとに小さい葉をつけ、北海道から九州までの深山に生える。本州中部以北の高山や北海道に生えるタカネザクラ』『や、葉柄、花柄などに毛のある変種のチシマザクラ(千島桜)』Prunusvar. kurilensis 』『は、山地の雪どけとともに咲く』。『日本には』、『初冬の季節はずれに毎年花が咲き、また』、四『月にも再度』、『花が咲く変わったサクラがある。フユザクラ(冬桜)P. × parvifolia 』『はコバザクラ(小葉桜)ともいわれ、白色、一重の花が』十一『月から』十二『月いっぱい』、『咲き、群馬県鬼石町の桜山では木枯しの吹くころに花見ができる。コヒガン系のものにも、八重咲きの十月桜や一重の四季桜のように、初冬と春の』二『回きまって咲くサクラがある。ヤマザクラ系の不断桜も季節はずれに咲き』、十『月下旬から』四『月下旬まで咲きつづける』。『サクラ属ウワミズザクラ亜属のウワミズザクラ』(上溝桜・上不見桜)『やイヌザクラ P. buergeriana 』(犬桜)『などは小さい花が多数集まって細長い穂になって咲き、サクラといわれているが、とくに美しいものではない。ウワミズザクラは北海道南西部から九州までの山地に分布しており、花は白色で小さく、花弁より長いおしべがある。よく似たエゾノウワミズザクラ P. padus 』『は北海道など北半球の亜寒帯に広く分布するが、おしべが花弁より短いので区別できる。ウワミズザクラの花序の軸に数枚の葉をつけているが、本州、四国、九州、済州島に分布するイヌザクラの花序の軸には葉がない。本州中部以北、北海道の山地に生えるシウリザクラ』(シウリ桜:アイヌ語の「シウ・ニ」或いは「シウリ・ニ」からきた名(「苦い・木」の意味)とされる)『 P. ssiori 』『は花序の軸に葉があるが、おしべは花弁とほぼ同長で、葉は大型で、基部が心形である。バクチノキ P. zippeliana 』(博打の木:当該ウィキによれば、『樹皮は灰白色で、絶えず古い樹皮が長さ数』十センチメートル『程度のうろこ状に剥がれ落ち、黄赤色の幹肌を現す。本種の名は、これを博打に負けて衣を剥がれるのにたとえたことに由来する』とある)『やリンボク P. spinulosa 』(橉木:日本固有種)『は暖地に分布する常緑高木で、秋に穂状の花を開く』。『サクラは実生、接木、挿木などで繁殖させる。新品種の育成や台木用の苗作りは実生による』。六『月』頃、『果実を採取して種子(核)を取り出したら、翌年の春まで土の中に貯蔵しておき』、二月頃、『まくのがよい。種子は乾燥させると発芽が悪くなる。八重桜などの園芸品種は、接木で繁殖する。台木はオオシマザクラの実生苗やアオハダの挿木苗が使われ、ヒガンザクラ系の台木にはエドヒガンの実生苗やヒガンダイザクラの挿木苗がつかわれる。植栽は日当りのよい適潤な肥沃地で、排水のよいところがよく、浅根性なので風当りの強くないところを選ぶ』「サクラ切るばか、ウメ切らぬばか」『といわれるように、サクラは切口から腐りやすいので、やむをえず太い枝を切った場合には切口に殺菌剤の入った癒合剤を塗って腐食を防ぐ。また、天狗巣病、癌腫病などの病害にかかっている部分は切り取って焼却し、切口に癒合剤を塗るのがよい。葉を食害するオビカレハ(ウメケムシともいう)、モンクロシャチホコ、アメリカシロヒトリ、コスカシバなどの虫がつきやすい』。以下、「サクラと日本人」の項。『近代以降の日本人は、子どもの時分から、サクラに関する予備観念を植え付けられてきた。いわく』、「サクラは国花である」、いわく、「サクラは日本のみの原産である」『と。そこで、日本男児と生まれたるものだれしも』、『祖国のために桜花のごとく』「散り際、美しく」『死んでこそ本懐と心得るべきであると教え込まれ、多くの若者が数次の戦争に狩り出されては』「死に急ぐ」『といった痛ましい事態が起こった。また、それとはまったく正反対の社会事象ということになるが、第』二『次世界大戦が終息した直後、日本国じゅうの公園や並木通りのサクラが、忌まわしい軍国主義や忠君愛国のシンボルだからとの理由で、容赦なく切り倒されてしまった。植物文化史を通観しても、これほどまでに一つの国民が一つの植物を玩弄し』、冒瀆『した事例はほかに見当たらないであろうと思われる。いったい』「国花」『なる概念からして、学問的根拠もなにもない、すこぶるいいかげんな取決めによるものでしかない。そして、明治国家のオピニオン・リーダーが脱亜入欧政策の一環として新たに植え付けた』「国花はサクラ」『という考えのおかげで、いまだに大多数の日本人は、サクラを愛するに当たり、国花だからサクラを愛するといった心理的虚構に寄りかかったままである』。『また』「サクラは日本のみの原産」『とする通説がある。しかし、サクラは中国(四川省、雲南省ほか)にもたくさん自生し、インドやミャンマーの山岳地帯にはヒマラヤザクラ Prunus cerasoides やヒマラヤヒザクラ P. carmesina が美しい花を咲かせており、日本以外にもサクラの原産地があったことを知らされる。セイヨウミザクラ 』『およびスミノミザクラ(酸果桜桃)P. cerasus に至っては、小アジアから東ヨーロッパ、北ヨーロッパにかけて森林のなかにはいくらでも自生する。セイヨウミザクラは、自生種はそれほどでもないが、園芸品種になると案外に美しい花をつける。オランダ経由で早くからアメリカへ渡ったサクラも、この美しいセイヨウミザクラの』一『種であり、現在でも、アメリカ北部や中西部で美しい花を咲かせて日本人来訪者を驚かせるサクラは、このセイヨウミザクラのほうの子孫である。――これら明白な事実も、永い間、日本人には隠戴されていた』。「さくら博士」『として有名な三好学』(みよしまなぶ:万延元・万延二年・文久元・文久元(一八六一)年~昭和一四(一九三九)年)『が大正デモクラシー期に刊行した』「人生植物學」(大正七(一九一八)年)には、『昔は支那には櫻は無いやうに思つたが、今日では多數の櫻が西部稀(ならび)に西南部の山中で發見された』、『印度にはヒマラヤ櫻( Prunus Puddum )と云ふ美しい種類があつて、ヒマラヤの中腹に生えて居る。日本の紅山櫻に似て、花が赤く、且、萼が粘る』『とある。ところが、この正しい科学的記述は後退を余儀なくされ、同じ三好が昭和』十『年代に出した』「櫻」(昭和一三(一九三八)年)『では、これらに関する記述は』、『ぼかされてしまっている。自然科学的学問業績もときとして政治権力の圧力に屈服することのありうる事例の一つである』。『しからば、いつごろから日本人はサクラを日本固有の花と思い込むようになったか。従来は』、「古事記」上巻に『爾(ここ)に』『誰(た)が女(むすめぞ)『と問ひたまへば、答へ白(まう)ししく』、『大山津見神(おおやまつみのかみ)の女、名は神阿多都比賣(かむあたつひめ)、亦の名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂ふ』『とまをしき』『とあるコノハナノサクヤビメの』「サクヤ」『が音声的に転化して』「サクラ」『になったのだから、神代の時代にサクラは存在し、したがってサクラは日本固有のものであると主張されてきた。だが、サクヤがサクラに転化したという説明(本居宣長』の「古事記傳」『以来の定説)だけで、サクラを日本固有の植物とする議論は成り立ちにくい。ついで』、「日本書紀」に二ヶ『所あらわれるサクラは、一つは履中天皇の宮殿』「稚櫻宮(わかざくらのみや)と『その御名代(みなしろ)である』「稚櫻部」『との命名由来、もう一つは允恭天皇と衣通郎姫(そとおりのいらつめ)との恋愛ロマンスである。ともに、白文で』「時櫻花落于御盞」「天皇見井傍櫻華」『と表記されているから、強大となった大和王権とサクラとの結びつきを想定することは必ずしも無理ではない。サクラが登場する文献のうちで』三『番目に位置する』「懷風藻」(天平勝宝三(七五一)年成立)の」『サクラは』二ヶ『所、一つは近江守采女朝臣比良夫(おうみのかみうねめのあそみひらふ)の五言詩に』『葉綠園柳月 花紅山櫻春』(葉は綠なり園柳の月 花は紅(くれなゐ)なり山櫻(さんおう)の春)、『他は長屋王(ながやのおおきみ)の五言詩に』『松烟双吐翠 櫻柳分含新』『(松烟(しようえん)双(なら)びて翠(みどり)を吐き 櫻柳(おうりう)分(わ)きて新(あたら)しきことを含(ふふ)む)『に見えている』。七~八『世紀の日本律令貴族知識人らが先進国の中国文化を懸命に模倣=学習したことは周知であるが、この』『葉綠園柳月 花紅山櫻春』『も、じつは』「文選(もんぜん)」『十四所収の』沈約(しんやく)『の有名な五言詩』「早發定山」[やぶちゃん注:「早(つと)に定山を發す」。全詩は「維基文庫」のここを参照されたい。]『の中の』「野棠開未落 山櫻發欲然」(野棠(やたう)は開きて未だ落ちず 山櫻(さんわう)は發(ひら)きて然(も)えんと欲(ほつ)す)『を下敷きにして換骨奪胎したものにすぎなかった。結局、日本の律令知識階級にとって、サクラを賞美する行為は、それが中国詩文に見えていたればこそ』、『模倣する値うちがある、というふうに了解されていたのである』。「万葉集」『にもサクラの歌が』四十四『首見えるが、この数はウメの歌』百十八『首に比較するとはるかに少ない。詩歌の手本になっている中国詩文におけるサクラの扱い方が、ウメに比べてはるかに小さかったためと考えられる。その後、勅撰三大漢詩集』「凌雲集」・「文華秀麗集」・「經國集」(けいこくしゅう)の『時代でも、サクラはウメよりも軽い地位に置かれ、摂関期の』「古今和歌集」『になって初めて数量的にウメを圧倒するに至る。これをもって、日本化の自覚のあらわれと賞賛する論者もあるが、一方、平安王朝文化が華美軽佻』(けいちょう)『に流れた証拠だと見る論者もあり』、「古今和歌集」『の美学的規範そのものは中国詩文的教養に根ざしていたことのみは否定しようもない』。『ともかく、このようにして』「懷風藻」『このかた、古代の日本知識人は、中国にサクラがないなどといった謬見(びゅうけん)を抱いたためしはなかった。古代ばかりではない。中世随想家も、戦国武将も、彼らは一様にサクラを愛したことにまちがいはないが、しかも、ひとりとしてサクラが日本にしかない固有の花木だなどと主張した者はいない。日本のサクラの美しいのは絶対だが、もろこしにもこの美しい花はあるはずだから当然そこでも賞愛されているだろうと、そう思っていた。西行法師の』「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」「ほとけには櫻の花をたてまつれ我が後(のち)の世を人とぶらはば」『の和歌や、長谷川等伯』・『久蔵親子の智積院障屏画』「櫻圖(わうづ)」『には、サクラ』『を』「世界の花」『として賞美する精神姿勢以外の狭小な志向はまったく感じられないではないか』[やぶちゃん注:グーグル画像検索「長谷川等伯 久蔵 桜図」をリンクさせておく)。]。『サクラを』「日本国原産の花」『という呈見のほうへ引きずり込んでいったのは、かえって近世の学者、それも一流の学者であった。貝原益軒「花譜」』(元禄一一(一六九八)年作)の二月の「櫻」『の項をみると』[やぶちゃん注:古くより貝原益軒の「大和本草」の電子化注で非常に世話になっている「中村学園大学・中村学園大学短期大学部」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」の「花譜」の「第一卷」PDF)の当該部(11コマ目)を視認して、正字化した少し前から引いておいた。本項の引用とも関係するからである。勝手に句読点を附した。]

   *

文選の沈休文[やぶちゃん注:先に出た沈約の字(あざな)。]の早(つとにはつする)定山詩、王荆公(わうけいこう)選の詩に「山櫻は果(くだもの)の名、花朱、色火のごとし。とあれば、日本の櫻にはあらず。からのふみに、日本の櫻のごとくなるはいまだみず。長崎にて、から人にたづねしにも、なしとこたふ。

   *

『とある。この貝原説が、中国にサクラが存在しないことを主張した最初である。さらに』十『年後の』「大和本草」』(宝永六(一七〇九)年)『では、前著の』「から人」『の実名を挙げ[やぶちゃん注:同前で「大和本草巻之十二 木之下」PDF)の「花木」の「○桜」(「4」コマ目から。なお、これは主体を「ヤマザクラ」とした記載である)を用いて処理した。句読点・記号・読みの一部を附した。]

   *

『日本ノ櫻ト云物ハ中華ニ無ㇾ之』由、延寶年中長崎ニ來リシ何清甫《かせいほ》、イヘリ。『若《もし》、アラハ、中華ノ書ニ記シ、詩文ニ述作シ、賞詠《しやうえい》スヘキニ、此樹、ナキ。』と云《いふ》は、實說ナルヘシ。朝鮮ニハアリ。

   *

『と記す。すなわち、福岡藩儒医で、当時、日本最高の博物学者であった貝原益軒』寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)『は、わざわざ長崎へ行き、中国から来た貿易商人に会って質問し、中国にサクラがないという情報を得、これをもとに叙上の記載をなしたのである。サクラが中国にないという新情報は、延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『の日本知識人に強烈な衝撃を与えたらしく、もうひとり、同時代の百科全書的大学者である新井白石』(明暦三(一六五七)年~享保一〇(一七二五)年『も、近世言語学の古典と仰がれる「東雅」(とうが)(生前未刊行、写本のみ流布)のなかに』、『むかし朱舜水』(しゆしゆんすい))『に、ここの櫻花の事を問ひしに、櫻桃は此にいふサクラにあらず、唐山にしても、もし此にいふサクラにあらむには、梨花・海棠の如き、數ふるにたらじと、我師也(わがしなりし)人は語りき』『と記述している。わが師なりし人とは』、『木下順庵』(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九八)年)『をさし、朱舜水』(一六〇〇年~天和二(一九八二)年)『とは長崎に亡命してきた明の儒者で、のちに帰化』(万治二(一六五九)年)『して水戸藩で古学的儀礼や農業実学などを講じた学者である。結局、亡命インテリ朱舜水は、中国奥地にはサクラの自生地がいくらでもあるのを知らず、自分の狭い生活地域空間のなかでの知識をもとにして、中国にはサクラがないと答えてしまい、さきの貝原益軒著作に名の挙がっている何清甫の情報を正しいとする証言を行ったのである』。『そして、延宝年間から』百『年経過した明和・安永・天明』(一七六四年~一七八九年)『ごろになると、国学者らによって、サクラは日本にしかないという考え方が増幅され拡大解釈され、それを基礎にして、まったく新しい命題の理論化が図られるようになる。本居宣長が、有名な』「しきしまの大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山櫻花」『と歌いあげて、日本観念論の勝利を宣言する段階では、もはや』、『だれひとり』、『中国にサクラがあるとは信じなくなってしまっていた』のであった。『もちろん、幕末本草学者のなかには、誤報=誤伝に基づく学説に訂正要求を突き付ける人もあるにはあった。江戸幕府の命を受けて江戸医学館で本草学を講義し、また』、『大著』「本草綱目啓蒙」(死後の享和三(一八〇三)年刊)『の著者としても名高い小野蘭山』享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)『は、弟子の井岡冽(れつ)に筆記させた』「大和本草批正(ひせい)」『というゼミナール速記録のなかで、貝原益軒の犯した誤呈をひとつひとつ指摘し』、『中華に櫻と云ふは朱花なり。欲然と云こと、桃及杏にも賦せり。然らば正朱色を云にも非ず。櫻にも用ゐて可なり。中華にては櫻と櫻桃とを混ず』『紅毛には櫻あり。○どゝにうす、圖あり』『と明言している。ドドネウス Rembertus Dodonaeus』『草木誌 CruydtBoeck』(一五五四年)『は、日本へはオランダ語版』一六一八『年刊と』一六四四『年刊と』二『種類のものが入ってきており、一目瞭然』で、十六『世紀以前のオランダ(ドドネウスはライデン大学医学教授であった)に美しいサクラが咲いていた事実がわかる』万治二(一六五九)年三月『に和蘭商館長ワーヘナルが幕府に献上したドドネウス』の「草木誌」『を、小野蘭山は、江戸の医学館かどこかで手に取りたしかめたから、自信をもって』、『紅毛には櫻あり』、『といい切ることができたのであろう』。『だが、幕末社会全体の文化動向としては、このときにはすでに』「国学の勝利」『のほうが決定的なものになっており、また尊王攘夷の勢いのほうが日増しに強くなり、サクラに関する科学的真理になどだれも耳を貸さなくなっていた。誤報=誤伝に端緒づけられた』「サクラ日本原産説」・「サクラ国民性論」『は』、忌まわしき『明治近代ナショナリズムに受け継がれることとなった』。『西洋で話題になるサクラはほとんどの場合サクランボ(セイヨウミザクラ)』『のことで、チェーホフの』「桜の園」『も日本的な観賞用サクラの庭園ではなく、サクランボ果樹園を舞台としている。またG. ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も、農園のサクランボであった。しかし、アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は』、明治四二(一九〇九)『年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノ』(♀をエドヒガン、♂を日本固有種オオシマザクラの雑種とする自然交雑、若しくは、人為的交配で生まれた日本産栽培品種 Prunus × yedoensis 。一九九五年には、本種が単一の樹を始源とする完全な栽培品種クローンであることが判明している。則ち、地球上のソメイヨシノは全く同じゲノムを持つのである)『などをもととしている。ただし』、『同年に贈られた』二千『本の苗木は虫害のためすべて焼却され』(明治四五・大正元(一九一二)年)『に改めて』三千百『本が贈られた』。『サクラは一般に春、純血、処女の象徴で、キリスト教伝説では』、『その中のサクランボがマリアの聖木とされる。マリアがこの実を夫のヨセフに求めて拒絶されたとき、枝がマリアの口もとにまでたわんできたといい、そこから花は処女の美しさに、サクランボは天国の果実にたとえられるようになった。またイギリスではサクランボを』一『粒ずつ食べながら、結婚できるかどうかうかがいを立てる恋占いがある。花ことばは』「教養・精神美」、『日本のサクラは』「富と繁栄」、『実が二つついたサクランボは』「幸運」・「恋人の魅惑」『の象徴とされる。なおサンカオウトウ』[やぶちゃん注:これは「酸果桜桃」で、セイヨウミザクラの実の漢方名である]]『の仁(じん)は青酸成分を有し、民間で鎮痛薬として用いられた』とある。

   *

……やっと公開に至った。本プロジェクトは、今年の四月二十七日に開始したが、最大の時間を要した。三万三千七百字を超えたのも、最長だ。年末に間に合った。……数少ない読者の方に、心より、感謝申し上げる。良き年を!!!

2024/12/21

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 海棠梨

 

Hanakaidou

 

かいだう    海紅

 

海棠梨

       【凡花木名海

        者皆從海外

        來也】

パイ タン リイ

 

本綱海棠盛於蜀中其出江南者名南海棠大抵相類而

花差小棠性多類梨其核生者長慢十年乃花以枝接梨

及木爪者易茂其根色黄而盤勁且木堅而多節外白中

[やぶちゃん注:「爪」は「瓜」の異体字であるが、紛らわしいので、訓読では、「瓜」に訂した。]

赤其枝柔宻而條暢其葉類杜大者縹綠色小者淺紫色

二月開紅花五出初如臙肢㸃㸃然開則漸成纈暈落則

[やぶちゃん注:「臙肢」は「本草綱目」のママ。]

有若宿收淡粉其蒂長寸餘淡紫色或三蕚五蕚成叢其

[やぶちゃん注:「收」は「妝」の誤記か誤刻。訓読では、訂した。]

蕋如金粟中有紫鬚其實狀如梨大如櫻桃至秋可食味

甘大抵海棠花以紫綿色者爲正餘皆棠梨耳凡海棠花

[やぶちゃん注:「甘」は「甘酸」の引用の誤り。訓読では、訂した。]

不香惟蜀之嘉州者有香而木大

黃海棠花色黃○貼幹海棠花小而鮮○埀𮈔海棠花粉

 紅向下皆無子非真海棠也

古今醫統云埀𮈔海棠爲上品冬至日以糟水灌其根則

 來歳花茂

△按海案花亞於櫻艶美也今又有二葉海棠者其木小

 而能開花白色帶紅伹黃花及埀𮈔海棠未曾有也蓋

 中𬜻則以海棠爲花之第一詩人最賞之然杜子美詩

 集無海棠詩者其母名海棠也貴州鎮遠府之產最美

 

   *

 

かいだう    海紅

 

海棠梨

       【凡そ、花木の「海」を名づくる

        者、皆、海外より來ればなり。】

パイ タン リイ

 

「本綱」に曰はく、『海棠は蜀中[やぶちゃん注:現在の四川省。]に盛なり。其の江南に出《いづ》る者、「南海棠」と名づく。大抵、相《あひ》類して、花、差(やゝ)小《ちさ》く、棠の性、多《おほく》、梨に類《るゐ》す。其の核生(みうへ[やぶちゃん注:ママ。])の者は、長慢《ちやうまん》≪にして≫[やぶちゃん注:ゆっくりと緩慢に成長し。]、十年にして、乃《すなはち》、花さく。枝を以つて、梨、及び、木瓜(ぼけ)に接ぐ者、茂り易し。其の根、色、黄にして、盤-勁(わだかま)り[やぶちゃん注:原本の送り仮名は『ワケタマリ』だが、おかしいので訂した。東洋文庫訳も、そうしてある。]、且つ、木、堅くして、節《ふし》、多く、外(そと)、白し。中、赤し。其の枝、柔宻《じうみつ》にして、條《えだ》、暢(の)び、其の葉、杜《と》[やぶちゃん注:棠梨(とうり)の赤い個体。]に類《るゐ》す。大なる者は縹綠色《へうりよくしよく》[やぶちゃん注:緑がかった縹(はなだ)色。緑色を帯びた薄い藍色。]、小なる者、淺紫色。二月、紅≪き≫花を開く。五出《ごしゆつ》なり。初めは、臙肢(ゑんじ)[やぶちゃん注:「臙肢」は「本草綱目」のママ。臙脂。黒みを増した濃い紅色。]のごとく、㸃㸃然《てんてんぜん》たり[やぶちゃん注:点々とした斑点をなしている。]。開けば、則ち、漸《やうや》く纈《しぼ》≪れる≫暈《ぼかし》を成し、落つれば、則ち、「宿妝淡粉《しゆくしやうたんふん》」[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(宵越しの化粧)』とある。]のごとくなり。其の蒂(へた)、長さ寸餘《あまり》、淡紫色≪にして≫、或≪いは≫、三蕚、五蕚、叢《むれ》を成す。其の蕋《しべ》、金粟《きんぞく》[やぶちゃん注:菊の花の蘂(しべ)。]のごとくなる《✕→ごとくして》、中《うち》≪に≫紫≪の≫鬚《ひげ》、有り。其の實、狀《かたち》、梨のごとく、大いさ、「櫻桃(うすらむめ)」のごとし。秋に至りて、食すべし。味、甘酸《かんさん》。大抵、海棠の花、紫綿色《しめんいろ》[やぶちゃん注:紫に染めた綿の色。]の者を以つて、正《せい》と爲す[やぶちゃん注:普通の正常なものとする。]。餘は、皆、棠梨《たうり》のみ。凡そ、海棠の花は、香《かを》らず。惟《ただ》、蜀の嘉州[やぶちゃん注:現在の四川省楽山市(グーグル・マップ・データ)。]の者は、香り有りて、木、大なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、各個記載なので、改行する。冒頭に「○」を追記した。最後を除き、「≪と≫」は附さない。]

『○「黃海棠《わうかいだう》」は、花の色、黃なり。』。

『○「貼幹海棠《ちやうかんかいだう》」は、花、小《しやう》にして、鮮(あざや)かなり。』

『○「埀𮈔海棠(しだれ《かいだう》)」は、花、粉紅《うすべに》にして、下に向《むか》ふ。皆、子《み》、無し。真の海棠に非ざるなり。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『「埀𮈔海棠」を上品と爲す。冬至の日、糟-水《さけかすのみづ》を以つて、其の根に灌《そそ》げば、則ち、來歳《らいさい》、花、茂る。』≪と≫。

△按ずるに、海案の花、櫻に亞《つぎ》て、艶美なり。今、又、「二葉海棠(ふたば《かいだう》)」と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、有り。其の木、小にして、能く、花を開く。白色、紅(べに)を帶ぶ。伹《ただし》、黃なり花、及び、「埀𮈔(しだれ)海棠」、未だ曾つて、有らざるなり。蓋し、中𬜻には、則ち、海棠を以つて、「花の第一」と爲す。詩人、最も、之れを、賞す。杜子美[やぶちゃん注:杜甫。]が詩集、海棠の詩、無きは、其の母を「海棠」と名のれば、なり。貴州の鎮遠府の產、最も美なり。

 

[やぶちゃん注:この「海棠梨」とは、お馴染みの「海棠」で、私の好きな(私は「カイドウ」としか名指さないが)、中国原産の、

双子葉植物綱バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ハナカイドウ(花海棠) Malus halliana

である。同種は「維基百科」では「垂絲海棠」で立項する。そこでは、中国での分布を『四川、安徽、陝西、江蘇、浙江、雲南、貴州、湖北』とする。さらに、「變種」の項で、

●変種「白花垂絲海棠」 Malus halliana var. spontanea(花弁は四つあり、短い花柄を持ち、殆んど白に近い小さな花を咲かせる。葉は小さく、楕円形から楕円倒卵形)

●品種「重瓣垂絲海堂」 Malus halliana ‘ Parkmanii ’(半八重で、暗赤色の小花柄を持つ)

●品種「垂枝垂絲海棠」 Malus halliana Pendula(有意に枝垂れている)

●品種「斑葉垂絲海棠」Malus halliana Variegata(葉に白い斑点がある)

の四種を挙げてある。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした。一部を省略した)。『耐寒性落葉高木。中国原産。別名はカイドウ、スイシカイドウ、ナンキンカイドウなど。春に淡紅色の花を咲かせる花木として、各地で庭木などにして植栽される』。『和名ハナカイドウの由来は、中国名の「海棠」をそのまま読んだもの。別名で、ナンキンカイドウ(南京海棠)、スイシカイドウ(垂絲海棠)、カイドウ(海棠)ともよばれる。また、楊貴妃の故事から「睡れる花」ともいう。中国名は、垂絲海棠(すいしかいどう)』。『近縁種は』、

●ホンカイドウ(本海棠)Malus spectabilis

●ミカイドウ(実海棠)Malus micromalusノカイドウ(野海棠)Malus spontanea

『などがあり、これらもまとめてカイドウとよぶ場合もある。ホンカイドウ、ミカイドウ、ハナカイドウは中国原産で、日本に渡ってきたのは』十四『世紀ごろの室町時代のことである。現在』、『カイドウとして知られるのは、ハナカイドウという種類であるが、ときにミカイドウも見られる』。『中国原産で、日本では北海道南西部、本州、四国、九州で植栽される』。『落葉広葉樹で、低木から小高木。幹の下部から枝分かれするように乱れながら樹形を形成し、樹高は』四~八『メートル』『になる。樹皮は暗灰色で皮目があり、ほぼ滑らかである。一年枝は明るい褐色でつやがあり、小枝には短枝がよく発達する。性質は強健で育てやすい』。『花期は』四『月ごろで、短枝の先に淡紅色の花を』四~六『個垂れ下がって咲かせる。花の直径は』三・五~五『センチメートル、花弁は一重または半八重になり、花弁数は』五~十『枚つく。花柄がつき、長さ』三~六センチメートル『ある。八重咲きの品種もある』。『果実は直径』二センチメートル『で、暗赤色から黄色で秋』(十月)『に熟す。花が咲いた後のリンゴに似た小さな赤い実は、食することができる。しかし、雄蕊が退化している花が多いため、めったに結実しない』(グーグル画像検索「ハナカイドウの実」をリンクしておく)。『冬芽は』五~七『枚の芽鱗に包まれた鱗芽で、卵形や長卵形で赤褐色をしている。枝の先には頂芽をつけ、側芽が枝に沿って互生し、頂芽は側芽よりも大きい。短枝の先には花芽がつく。葉痕は半円形や三日月形で、維管束痕が』三『個つく。葉には托葉がある』。『花弁の色変わりをする品種もある。紅の蕾が開花するとピンクに変わり、徐々に色が薄くなり』、『白い花弁に変わり、散り際に葉が生えてくる種類がある』。『春にサクラに似た花を咲かせるハナカイドウは、樹高』一メートル『くらいの幼木でも、樹木全体に花をつけることから、狭い空間に植栽する花木として重宝される。芽吹きと共に咲く花は、優しげな風情が愛でられ、庭木あるいは生け垣に向いている。庭木としての人気は高いが、栽培地は日本の場合、関東地方以南にほぼ限られる』。『材は緻密で堅いため、器具材などに用いられることがある』。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の中で続く「果之二」の「海紅」(時珍の命名:[075-5b] 以下)のパッチワークである。その「釋名」の冒頭で「海棠梨」を掲げてある。

「櫻桃(うすらむめ)」何度も注意喚起しているが、この良安の読みは――完全なるハズレ――で「アウトウ」と読まねばいけないので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

◎サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

『「黃海棠《わうかいだう》」は、花の色、黃なり』これは、中文名は「維基百科」の「黃海棠」で、時珍の言う通り、カイドウの類ではなく、多年草の一種で、キントラノオ(金虎の尾)目オトギリソウ(弟切草)科オトギリソウ属トモエソウ(巴草) Hypericum ascyron である。当該ウィキの一部を引く(注記号はカットした)。『茎は、高さ』〇・五~一・三『メートルくらいになり、直立し、分枝する。葉は茎に対生し、形は披針形で葉の基部は茎をなかば抱く。花期は』七~九『月で、径』五『センチメートル、花弁』五『個の大きな黄色の花を茎や枝の先につける。花は巴形のゆがんだ形をしており、和名の由来となっている。花の中心に雌蕊があり、花柱の先が』五『裂して反り返る。その周りには多数の雄蕊があり』、五『束に分かれる』。『日本では、北海道、本州、四国、九州に、アジアでは、朝鮮、中国、シベリアに広く分布し、山地や河川敷の日当たりのよい草地に自生する』とある。凡そ、カイドウの仲間には見えないのに、不審である。

『「貼幹海棠《ちやうかんかいだう》」は、花、小《しやう》にして、鮮(あざや)かなり』これも、お馴染みのバラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属ボケ Chaenomeles speciosa の中文名である。「維基百科」の「貼梗海棠」を見られたい。

『「埀𮈔海棠(しだれ《かいだう》)」は、花、粉紅《うすべに》にして、下に向《むか》ふ』これは、甚だ、不審。既に示した通り、これは、正真正銘のハナカイドウで、「維基百科」では「垂絲海棠」で立項している。何じゃ。これ!?!

「古今醫統」複数回、既出既注

「二葉海棠(ふたば《かいだう》)」海棠の品種とネットに出、「三葉海棠」の名も見出せるが、学名は見当たらない。ただ、「三葉海棠」というのは、前の「棠梨」で注した、リンゴに近縁な野生種であるナシ亜科リンゴ属ズミ Malus toringo の異名であるから、これも怪しい感じがするね。

『中𬜻には、則ち、海棠を以つて、「花の第一」と爲す』一般に、中華の花の王は「牡丹」とのみ知られるのであるが、実は、それと並んで、「海棠」が挙げられるのである。これは、専ら、「唐書」の「楊貴妃傳」に『此眞海棠睡未足耶』(此れ、眞(まさ)に、海棠の眠り、未だ足らずや。)という一文に基づく故事である。これは、唐の玄宗が、未だ、酔い醒めきらぬ楊貴妃の艶めかしい美しさに、それを海棠の花に擬えものである。

『杜子美が詩集、海棠の詩、無きは、其の母を「海棠」と名のれば、なり』これは、知らなかったが(事実、杜甫の詩篇に「海棠」の花名は使用されていないらしい)、調べたところ、zuoteng_jin氏のブログ「照片画廊」の『海棠と杜甫の「花は重し 錦官城」』に、『海棠を見ると決まって思い出すのは杜甫の詩「春夜喜雨」です』とされ、当該詩を引用されている。正字化し、所持する岩波文庫鈴木虎雄・黒川洋一訳注「杜詩」(第四冊・一九〇五年刊)を参考に訓読する。

   *

 

 春夜喜雨

好雨知時節

當春乃發生

隨風潛入夜

潤物細無聲

野徑雲俱黑

江船火獨明

曉看紅濕處

花重錦官城

 

   *

 

 春夜(しゆんや)雨を喜ぶ

好雨(こうう) 時節を知る

春(はる)に當(あた)りて 乃(すなわ)ち發生(はつせい)す

風に隨ひて 潛(ひそか)に夜(よ)に入(い)り

物(もの)を潤(うるほ)して 細(かすか)にして聲(こゑ)無し

野徑(やけい)雲(くも) 俱(とも)に黑く

江船(こうせん) 火(ひ) 獨り明らかなり

曉(あかつき)に紅(くれなゐ)濕(うるほ)ふ處(ところ)を看(み)れば

花(はな)は重し 錦官城(きんかんじやう)

 

   *

最後の「錦官城」は現在の四川省成都(チェンドゥ/チョンツー)市のこと(ここ。グーグル・マップ・データ)。底本の前注に『上元元年』(七六〇年:粛宗の代で、杜甫は四十九歳)『の春の作であろう』とある。なお、ネット記事に拠れば、この詩は中国では、杜甫の詩の中でも人気があるもので、「杜甫記念館」の入口の石碑にも、この詩が刻まれているそうである。

   *

(引用の続き)『最後の句中の「花」についてそれが何なのか』、『代表的な杜詩の注釈でそれに言及したものはありません』。『成都の名花と言えば』、『木芙蓉』(もくふよう:アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis )『と海棠ですが』、『木芙蓉は夏から秋の花ですから』、『当たりません』。『杜詩の注釈には言及がないのですが』、『我が室町時代の古字書』『文明本』「節用集」(室町時代の文明年間(一四六九年~一四八七年)以降に成立したと考えられている伊勢本系統の節用集(室町時代から昭和初期にかけて盛んに出版された日本の用字集・国語辞典の一種。漢字熟語を、多数、収録して読み仮名を附ける形式を採る)。作者未詳だが、建仁寺(臨済宗)の僧かとする説がある)『には下のように明言があります』(原本画像有り。これは、所蔵する国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで、見出せた。それを元に私が自然流で判読した)。

   *

海棠(かいだう/うみゑし[やぶちゃん注:「ヱシ」は「ナシ」の誤記か?])【杜子美の母の名は、棠なり。故に、詩中に海棠を言わ[やぶちゃん注:ママ。]ざるなり。句に云ふ、「曉に紅の濕処を看(み)れば 花 重し 錦官城」。是(これ)、海棠を指して云ふなり。】

   *

(引用の続き)『近年の』「成都掌故」(『成都時代出版社』・二〇一二年)『という本には』、『杜甫には海棠を詠んだ詩が無く』、『約』百『年後の女流詩人薛濤(セットウ)のころに他所から移植されたと説いています』。『しかし』、『杜甫の母の名前が棠だから杜甫は海棠を詠まなかった』『云々という視点は皆無です』。『ただ』、『杜甫の母の名を資料ではっきり確認できるものはなく』、『実家の姓の崔氏で紹介されるのが通例というものです』。『(googleで杜甫の母を検索すると』「崔海棠」『と出てくるのにはちょっと驚きます』』。『それはともかく』、『日本の「春夜喜雨」訳注でも』『その花が海棠というものは知りません』。『中国古典文学の研究者は』、『文明本』「節用集」『などじっくり見ないですからね』。『それにしても室町時代の禅僧の学識には驚かされることが多いです』とあった。

 また、さらに調べてみたところ、英樹氏の論文「雨中の花 陳與義の詠雨詩と杜甫(二)」(『中國文學報』(京都大學文學部中國語學中國文學研究室編・二〇一四年十月発行所収)が見出せ(PDF)、そこに、

   《引用開始》

李壁注は「『詩話』に云う、〝子美の母 名は海棠、故に集中に海棠の詩無し〟と。然れども〝曉に紅の濕れる處を看れば、花は錦官城に動ママかん〟は、海棠に非ずんば當たる能わざるなり」と述べて、それが海棠の花である可能性を示唆する。杜甫は戰亂を避けてしばらく成都を離れていた期間を含め、足かけ八年にわたり蜀の地に滯在した。そのうち成都西郊の浣花溪のほとりに草堂を構えて暮らした四年間は、經濟的にも精神的にも杜甫の人生で最も安定しており、「春夜喜雨」詩をはじめとする多くの佳作を生み出した。ところが不可解なことに、彼の詩集には土地の名花である海棠を詠じた詩が一首も存在しないのである。なぜ杜甫は海棠を詩にうたわなかったのか、この公案をめぐり後人の議論は紛紜として、さまざまな臆測を呼ぶに至る。李壁が「春夜喜雨」詩の「花」を海棠と見なすのも、そうした文脈において提起された説の一つにほかならない。

   《引用終了》

とあり、注の⑪に、『『王荊文公詩李壁注』卷三一(上海:上海古籍出版社、一九九三年、朝鮮活字本影印)、一四一七─一四一八頁。なお、李壁注に引用される『詩話』とは、北宋・李頎『古今詩話』(『詩林廣記』前集卷八・鄭谷)に「杜子美母名海棠、子美諱之、故『杜集』中絶無海棠詩」というのを指す。』とあった。少し疲れたので、私のディグは、ここまでとする。]

2024/12/20

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 棠梨

 

Pyrus-xerophila

 

やまかいだう 杜【音徒】 甘棠

       【說文牝曰杜

          牡曰棠】

棠梨

       俗云山海棠

 

唐音

 タンリイ

 

本綱棠梨𠙚𠙚山林有之樹似梨而小葉似蒼术葉亦有

[やぶちゃん注:「术」は「朮」の異体字である。但し、紛らわしいので、訓読文では「朮」とした。]

團者三叉者葉𨕙皆有鋸齒色頗黪白二月開白花結實

[やぶちゃん字注:「叉」は中の点が左上方に、左下に向かって打たれているが、痛い字にも見当たらないので、通常字とした。「𨕙」は「邊」の異体字。]

如小楝子大霜後可食其樹接梨甚嘉有赤白二種赤者

杜也【牝也味歰而酸】木理亦赤 白者棠也【牡也味甘酸美】木理亦白共

葉嫩時蒸晒代茶味微苦

[やぶちゃん字注:「棠」の大標題を始めとして、総て、二画目と三画目が、「ハ」の字型に下に向かっているが、表示出来ないので、通常の「棠」とした。]

 

   *

 

やまかいだう 杜【音「徒」。】 甘棠《かんたう》

       【「說文」、『牝《めす》を「杜」と曰ひ、

        牡《をす》を「棠」と曰ふ」≪と≫。】

棠梨

       俗、云ふ、「山海棠《やまかいだう》」。

 

唐音

 タンリイ

 

「本綱」曰はく、棠梨は、𠙚𠙚《しよしよ》、山林に、之れ、有り。樹、梨に似れども、小《ちさ》く、葉、「蒼朮《さうじゆつ》」の葉に似た≪り≫。亦、團《まろ》き者、三叉《みつまた》の者、有り。葉の𨕙(まは)り、皆、鋸齒、有りて、色、頗る、黪(うるみ)≪て≫白く、二月に白≪き≫花を開き、實を結ぶ。「小楝(せんだん)」の子《み》の大《おほい》さのごとし。霜の後、食ふべし。其の樹、梨に接げば、甚だ、嘉《よ》し。赤・白の二種、有り。赤き者は、「杜《と》」なり。【牝《めす》なり。味、歰《しぶ》くして、酸《すつぱ》し。】木理(きめ)も亦、赤し。』。『白き者は、「棠《たう》」なり【牡《をす》なり。味、甘酸にして、美なり。】木理も亦、白し。共に、葉、嫩《わか》き時、蒸-晒《むしさら》し、茶に代《か》ふ。味、微《やや》、苦し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:本種は、東洋文庫訳の「本草綱目」の冒頭の「棠梨」の割注で、『(バラ科シナマメナシ)』とするのであるが、この「シナマメナシ」も、言い換えてみた「チュウゴクマメナシ」も、和名としては、全く存在しない。既に出た、ホクシマメナシ(マンシュウマメナシ)の異名かと考えたりしたが、どうも、違う。何時もの切り札で、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「なし」(総論ページ)を見たところ、これは、和名が存在しない(複数の学術論文を見たが、孰れも和名が記されていなかった)、中文名で、

「木梨」とし、別名を

「酸梨」「野梨」「棠梨」

とする、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属 Pyrus xerophila (音写「パイロス・クセロフィリア」)

であることが判明した。「維基百科」の「木梨」を見よ。しかし、そこには、解説が貧しいので、英文の当該種のページを見たところ、『中国に植生するナシ属の顕花植物の一種である。これは、シルクロードを旅した人々によって持ち込まれた Pyrus pashia (ヒマラヤナシ』・インドナシとも)』と、ホクシヤマナシ『 Pyrus ussuriensis(マンシュウナシ)、及び、西洋ナシの交雑種である可能性がある。これは栽培ナシの台木として使用され、果実は、地元の人々によって収穫され、食されている。』とあった。私が読んで、この学名を発見した日本の学術論文も、その総てが、栽培ナシの台木に関するものであったので、大いに納得した。しかし、最も本種について記しているのは、「拼音百科」の「木梨」であろう。これは、正直、「凄い!」に尽きるのだ! 是非、見られたい!

 なお、ここで良安が掲げた漢名異名や和名は、現在の見地からは、極めて問題がある。何故なら、全然、異なる種で、これらが使われているケースがあるからである。検証しよう。

 まず、

単漢字の「棠」は、本邦では、ヤマナシ Pyrus pyrifolia を指す。古く、ナシの野生種の名を示していたと考えれば、これは完全アウトではない。「杜」は古くから中国でヤマナシを指しているから同様に許される。

「甘棠《かんたう》」と和訓した「山海棠(やまかいだう)」は退場レベルである。リンゴに近縁な野生種であるナシ亜科リンゴ属ズミ Malus toringo が、本邦では漢字で「酸実」「桷」他に、あろうことか、「棠梨」を宛てており、しかも、臆面もなく、「カイドウ」・「リンゴ」・「ナシ」(同科ナシ属)に似るからと言って、「ヒメカイドウ」東洋文庫訳では、大項目下のこれに、忌まわしくも、『(ヒメカイドウ)』割注をヤラかしてしまっているのだ!「ミツバカイドウ」「ミヤマカイドウ」(こう呼ぶなら、絶対に地方の一部では「ズミ」を「ヤマカイドウ」と呼んでいるに違いないのだ!)「コリンゴ」「コナシ」「サナシ」などとも呼称されるのだ! 因みに、中国文名は「三葉海棠」である(「維基百科」の同種を見られたい。なお、ズミの異名は当該ウィキに拠った)。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の中で続く「果之二」の「棠梨」([075-5b] 以下)のパッチワークである。

「蒼朮《さうじゆつ》」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。

「小楝(せんだん)」ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の異名。なお、諺の「栴檀は二葉(ふたば)より芳し」の香木の「栴檀」は、インドネシア原産のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album のことを指すので、注意されたい。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 鹿梨

 

Mamenasi

 

ありのみ  䑕梨 山梨

      陽檖 赤羅

鹿梨

      【詩曰有隰樹

       檖者是也】

やまなし  【俗云阿利乃美】

 

本綱鹿梨野梨也大如杏【味酸濇氣寒】其木文細宻如羅赤

者文急白者文緩

△按鹿梨枝有刺其子如大棗味酸濇不堪食伹爲聖靈

 祭果耳故名聖靈梨

  六帖世の中をうしといひてもいつこにか身をはかくさん山

                      なしの花

 

   *

 

ありのみ  䑕梨《そり》   山梨《さんり》

      陽檖《やうすゐ》 赤羅《せきら》

鹿梨

      【「詩」に曰はく、『隰《さは》には

       樹檖(じゆすゐ)有り』とは、是

       れなり。】

やまなし  【俗、云ふ、「阿利乃美《ありのみ》」。】

 

「本綱」に曰はく、『鹿梨《ろくり》は、野梨《のなし》なり。大いさ、杏《あんず》のごとし【味、酸、濇《しぶし》。氣は寒。】其の木の文《もん》、細宻(こまや)かにして羅《ろ[やぶちゃん注:「絽」の当て音(オン)。]/うすぎぬ》のごとし。赤き者は、文、急《きふ》なり。白き者は、文、緩《ゆる》し。』≪と≫。

△按ずるに、鹿梨《やまなし/ありのみ》の枝に、刺《とげ》、有り。其の子《み》、大きなる棗《なつめ》のごとく、味、酸《す》≪くして≫濇(しぶ)く、食ふに堪へず。伹《ただし》、聖靈祭(しやうりやう《さい》)の果(くはし)[やぶちゃん注:「菓子」。供物とする果物。]と爲《す》るのみ。故に、「聖靈梨《しやうりやうなし》」と名づく。

 「六帖」

   世の中を

      うしといひても

    いづこにか

      身をばかくさん

           山なしの花

 

[やぶちゃん注:この「鹿梨」は、「維基百科」の「豆梨」に、『又名鹿梨(圖經本草)、陽、赤梨(爾雅)、糖梨、杜梨(貴州土名)、梨丁子(江西土名)』、『生長於中國大陸山東、河南、江蘇、浙江、江西、安徽、湖北、湖南、福建、廣東、廣西及越南北部。適宜溫暖潮濕氣候,常見於海拔80-1800米的山坡、平原或山谷雜木林中。』とあることから、前の「梨」でもちょっと掲げた、

双子葉植物綱バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属マメナシ(豆梨) Pyrus calleryana

であることが判る。日本語のウィキ「マメナシ」を引く(注記号はカットした)。『別名がイヌナシ』(犬梨)で、『三重県ではイヌナシと呼ばれることが多い』。『朝鮮半島、中国、ベトナム北部と日本の東海地方に分布している。同様の分布域であるシデコブシ、シラタマホシクサなどとともに東海丘陵要素(周伊勢湾要素)植物と呼ばれている。日当たりのよい湿地や溜め池などの周辺に分布する』。『アメリカ合衆国には観賞用及びナシの台木として導入されたが、日本とは逆に広く野生化して問題となっている』。『三重県の桑名市「多度のイヌナシ自生地」』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『は国の天然記念物に指定されている』。『愛知県には小幡緑地、八竜湿地、尾張旭市の長池などの自生地が点在して』おり、『小牧市の「大草』(おおくさ)『のマメナシ自生地」』(同地の太良上池(だいらかみいけ)がそこ)『は愛知県の天然記念物に指定されている』。『ナシの原種ではない。木の高さは』八~十メートル『ほどになる』。『葉は広卵形から卵形または卵状長楕円形で、長さが』四~九センチメートルである。『直径』二・五センチメートル『ほどのサクラに似た白い花をつける。開花時期は』四『月。花は栗の花に例えられる匂いを放つ。果実は黄褐色の直径』一センチメートル『程のニホンナシに似た形状で、円形の小さい皮目が多数ある。果実が熟した後は、黒色になり落下することが多い。果実には渋みがあり、美味しいものではない。氷期の遺存植物とされている。東海地方で』四百六十『程の個体数が確認されていて』、四十六『株が最大の群落(多度の自生地)』、七『株以上の自生地が』十五『箇所、多くの自生地が』五『株以下、孤立木であることが調査されている。遺伝子の解析等で栽培されているニホンナシと同様に自家受粉ではほとんど結実しないことが確認されていて、自家不和合であると考えられている』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の中で続く「果之二」の冒頭の「梨」の次の「鹿梨」([075-5a]以下)のパッチワークである。

 なお、ここで良安が添える和名の異名である「ありのみ」は、民俗社会によく見られるネガティヴな意との音通を忌んで「なし」≒「無し」を嫌って、反対の『「有り」の実』と転じたものである。

 『「詩」に曰はく、『隰(さは)には樹檖(じゆすい)有り』とは、是れなり』これは、「詩經」の「秦風(しんぷう)」の「晨風(しんぷう)」の一節。例によって、所持する恩師である乾一夫先生(惜しくも亡くなられた)の編になる明治書院『中国の名詩鑑賞』「1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年刊)を参考にした。それによれば、『自分の夫あるいは恋人を思い慕う、婦人の恋歌』とある。但し、後の方で、『朱子は、この詩をもって、婦人が夫の不在を嘆くものとみている。役』(えき)『に行って久しく帰らぬ夫を思ふ婦人たちの歌であったかもしれぬし、あるいは未婚の女性の恋歌であっても不都合はあるまい』ともある。なお、この「隰(さは)」の「さは」は「澤(沢)」であるが、この場合は、水のある沼沢の意味ではなく、「澤」の持つ原義である「低い位置にある湿った土地」を指している。因みに、この一行は「本草綱目」の「鹿梨」の「釋名」にあるものを、良安が引いて手を加えたものであって、彼のオリジナルなものではない。

   *

 

  晨風

 

鴥彼晨風

鬱彼北林

未見君子

憂心欽欽

如何如何

忘我實多

 

山有苞櫟

隰有六駮

未見君子

憂心靡樂

如何如何

忘我實多

 

山有苞棣

隰有樹檖

未見君子

憂心如醉

如何如何

忘我實多

 

   *

 

  晨風(しんぷう)

 

鴥(いつ)たる彼(か)の晨風

鬱(うつ)たる彼の北林

未だ君子を見ざれば

憂心(いうしん)欽欽(きんきん)たり

如何(いかん)ぞ如何ぞ

我(われ)を忘すること實(じつ)に多き

 

山には苞櫟(はうれき)有り

隰(しつ)には六駮(りくはく)有り

未だ君子を見ざれば

憂心樂(い)ゆる靡(な)し

如何ぞ如何ぞ

我を忘すること實に多き

 

山には苞棣(はうてい)有り

隰には樹檖(じゆすゐ)有り

未だ君子を見ざれば

憂心醉(ゑ)ふがごとし

如何ぞ如何ぞ

我を忘すること實に多き

 

   *

以下、先生の訳を引く。

 

   《引用開始》

 

赤・青いろどるあの錦鶏、こんもり茂ったあの北林。あなたのお顔を見ないから、憂いの心がむすぼれる。なんでなんで、私をかくまでひどく忘れたの。

山にはむらがりはえた櫟(くぬぎ)があり、阪下には大きく伸びた赤梨がある。あなたのお顔を見ないから、憂いの心はいえません。なんでなんで、私をかくまでひどく忘れたの。

山にはむらがりはえた郁李(いくり)があり、阪下には高く仲び立った赤梨がある。あなたのお顔を見ないから、憂いの心は酒に酔ったよう。なんでなんで、私をかくまでひどく忘れたの。

 

   《引用終了》

 以下、幾つかの先生の語注を引きながら、注を附す。

・本詩題の「晨風」(乾先生の注に「晨」は「鷐」の省借とある。現行の「」は、乾先生の注を見、ネットで調べると、現行では、この漢字を、猛禽類のハヤブサの意を当てているようだが、坂下の湿地にハヤブサは如何にも似合わないぞ!)、訳の「錦鶏」は、キジ目キジ科  Chrysolophus 属キンケイ Chrysolophus pictus である。私は小学校で飼っていたそれの♂を反射的に思い出すのだが、本種は中国南西部からミャンマー北部を原産とする。

・「鴥」は、『「矞(いつ)」あるいは「霱(いつ)」の仮借で、青・赤の二色からなっていること。ここでは、鳥が赤や青などの色をそなえているをいう形容語』とある。乾先生は、最後に、『首章初句の「鴥たる彼の晨風」の語は、彩色あざやかな誰鶏をさすものであって、それは彼女が恋慕する〈彼〉の象徴であり、その「君子」の語を起こす措辞であったはずだ。』と締め括っておられる。同感である。

・「苞櫟」「苞」は叢(むらが)るさま。「櫟」はブナ(椈)目ブナ科コナラ(小楢)属コナラ亜属クヌギ Quercus acutissima 。先生もこれに同定している。なお、本邦では、裸子植物門イチイ(一位)綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata に、この「櫟」を当てるというとんでもないことをしているので注意が必要。

・「六駮」「六」は『長大なさま。あるいは、木の多いさま。』とあり、「駮」は『赤李』とある。バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus  salicina で問題ない。「和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 目録・李」を参照されたい。

・「棣」『郁李。にわうめ。バラ科の落葉小濯木。中国原産。』とある。この「棣」は、双子葉植物綱バラ目バラ科スモモ(李)属ニワウメ(庭梅)亜属 Lithocerasusニワウメ Prunus japonica を指す。漢字表記及び中国語では「郁李」(いくり)。当該ウィキによれば、『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来した』。『観賞用のために広く栽培されている』とあった。「本草綱目」によれば、「爾雅」出典である。なお、実は、項目標題の「扶栘」の「栘」も、このニワウメを意味する漢語である。先行する「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 扶栘」に「唐棣」が出る。

★「樹」先生の注に、『赤梨。山梨。毛伝に「樹は赤羅なり」といい、陸璣の『毛詩草木鳥獣虫魚疏』(『毛詩正義』所引)に「は一名赤羅、一名山梨」と説く。「羅」は「梨」と一声の転の関係にあり、「梨」の仮借。バラ科の落葉喬木。なお、『説文』所引の文では、「隰有樹𣔾」と「𣔾」に作り、「𣔾は羅なり」と説く。』とある。この『「羅」は「梨」と一声の転の関係にあ』るというのは、中国語に堪能な古い教え子に訊ねたところ、『何か音韻学の専門用語のようにも聞こえますが、何のことはない、『音が近い』と言っているだけのように思われます(漢文に通じた者は、とかく聞き慣れぬ漢語で表現する癖があるように思います。こういう風潮は迷惑なことです)。現代北京標準語では羅はluo2、梨はli2です。子音lが共通で、母音が異なる関係にあります(現代北京標準語の声調は同じ第二声ですが、その歴史的変遷について私は知識がありません)。中国発音の変化の歴史の影響を重層的に受けてきた日本漢語の発音でも「ラ」と「リ」であり、頭子音が同じで、母音が異なりますね。ただ、その近似関係を指摘しているだけのように思われます。』と明快な答えを、早朝から、答えて呉れた。さても。而して、「百度百科」の「鹿梨」で、「別名」として、「・赤羅・羅・山梨・陽檜・鼠梨・赤蘿・樹梨・酸梨・野梨・糖梨・杜梨」(簡体字を繁体字に代えた)を挙げてあるので、本マメナシ Pyrus calleryana に同定されていることが確認出来た。

・「如醉」『心をうばわれる。心がちぢに乱れることをいう語。』とある。

   *

「其の木の文《もん》、細宻(こまや)かにして羅《ろ/うすぎぬ》のごとし。赤き者は、文、急《きふ》なり。白き者は、文、緩《ゆる》し。」グーグル画像で調べたところ、サイト「TERRARIUM」の「バラ 科 Pyrus 属 マメナシ(豆梨) 種」の画像列の、一番左の花と葉を見せてある画像のものは、樹皮の模様が、大まかに緩やかだが、その右の個体は、ゴツゴツとして厳しい。

「鹿梨《やまなし/ありのみ》の枝に、刺《とげ》、有り」Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「マメナシ 豆梨」のページに、一枚だけだが、痛烈なそれが、見られる。

「聖靈祭(しやうりやう《さい》)」「たま祭り」。盂蘭盆会のこと。

「六帖」「世の中をうしといひてもいづこにか身をばかくさん山なしの花」「六帖」は、平安中期に成立した類題和歌集「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者・成立年ともに未詳。「万葉集」・「古今集」・「後撰集」などの歌約四千五百首を、歳時・天象・地儀・人事・動植物などの二十五項・五百十六題に分類したもの。「第六 木」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」のそれの、ガイド・ナンバー「04268」で確認した。]

2024/12/19

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 目録・梨

 

  卷之八十七

   山果類

 

[やぶちゃん注:以下の目録では、読みの歴史的仮名遣の誤り、及び、濁音になっていないものは、ママである。]

 

(なし)

鹿梨(ありのみ)

棠梨(やまかいだう)

海案梨(かいだう)

  【樺(かば)】

絲垂櫻(しだれさくら)

木瓜(ぼけ)

(こほけ)

文冠花(ふんくはんくは)

榠櫨(くはりん)

榅桲(まるめろ)

(さんざし)

菴羅果(てんぢくなし)

(からなし)

林檎(りんご)

(かき) 【烘柹(つへみかき) 白柹(つるしかき)

         烏柹(あまほし)  柹蔕(かきのへた)】

椑柹(しぶかき)  【柹𣾰(しぶ)】

[やぶちゃん注:「椑」は、原本では、「グリフウィキ」この字体だが、表示出来ないので、「椑」とした。]

君遷子(ぶどうのき)

石榴(ざくろ) 【石榴皮】

(かりん)

陳皮(ちんぴ) 【青皮(しやうひ)】

包橘(たちはな)

乳柑(くねんぼ)

柑子(かうじ)

(だいだい) 【かぶす】

(ゆう) 【柚未醬(ゆみそ) 柚脯(ゆほし)】

櫠椵(ゆろう) 【さんす】

佛手柑(ぶつしゆかん)

金柑(きんかん)

批杷(びわ)

楊梅(やまもゝ)

楊梅皮(やうばいひ) 【樹皮(もくかは/タンカラ)】

[やぶちゃん注:「樹皮」の読みは、右ルビが「もくかは」で、左が「タンカラ」。後者は私の判断で原文のままにカタカナで示した。]

櫻桃(ゆすら)

山嬰桃(にはさくら)

銀杏(ぎんなん) 【いちやう】

(くるみ)

毗梨勒(なんばんくるみ)

(はしばみ)

櫧木(かしのき)

釣栗(いちゐ)

椎子(しひ)

(とち)

槲實(どんぐり)

(かしわ)

(はゝそ)

𪳂(なら)

[やぶちゃん注:「𪳂」の漢字はおかしい。当該項を見ても、「楢」となっており、この「𪳂」という漢字は中国語にはなく、本邦で、「塗る」の意味で用いる和製漢字と思われる。誤刻の可能性が高いように思われる。]

(ぶな)

庭梅(にはむめ)

 

 

和漢三才圖會卷第八十七

           攝陽 城醫法橋寺島良安尙順

    山果類

 

Nasi

 

なし    快果 果宗

      玉乳 𮔉父

【音離】

      【和名奈之】

 

リイ

 

本綱樹髙二三𠀋尖葉光膩有細齒二月開白花如雪六

出凡杏桃諸花皆五出而棃則六出三月三日無風則結

[やぶちゃん字注:この「棃」は「梨」の異体字。以下でも混在するので注意されたい。

實必佳故云上巳有風棃有蠧中秋無月蛑無胎伹棃核

[やぶちゃん注:「蛑」は良安の引用の際のミスで、「蚌」の誤り。訓読では訂しておく。「蛑」は「ネキリムシ(根切虫)」(農作物の根を食べる害虫)・「カマキリ(螳螂)」・「ガザミ(蝤蛑)」(甲殻綱十脚(エビ)目エビ亜目カニ下目ワタリガニ(ガザミ)科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus 等)を指し、「蚌」は中・大型の淡水産・海水産の斧足(二枚)貝類を指す。漢文の「漁父之利」で出ただろ? 第一義的には淡水産のカラスガイ Cristaria plicata 、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)を指すと私は考えてよいと思っている。詳しくは、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚌」を見られたい。

毎顆有十餘子種之惟一二子生棃餘皆生棠棃此亦一

異也其品甚多有青黃紅紫四色必須棠棃桑樹接過者

則結子早而佳

○乳梨【一名雪梨】皮厚而肉實其味極長○鵞梨【一名綿梨】皮薄而

 漿多味差短○消梨【一名香水梨】俱爲上品其餘茅梨禦兒

 梨紫糜梨水梨赤梨青梨之類甚多○凡梨與蘿蔔相

 閒收藏或削棃蔕種於蘿蔔藏之皆可經年不爛

梨實【甘微酸寒】 治風熱潤肺凉心消痰降火解酒毒伹不可

 過食多則令人寒中【金瘡乳婦血虛者不可食】

古今醫統云春分日將梨枝作拐樣斫下兩頭以火燒又

燒紅鐵烙烙定津脉栽之入地二尺只春分一日可栽桑

樹接梨枝則脆而甘

 古今おふの浦に片枝さしおほひなる梨のなりも  無名

              ならすもねてかたらはん

△按梨雖爲山果而人家近煙𠙚能結子性不怕寒故北

 國最多奧州津經羽州秋田之産倍於他國者而大其

 大者周一尺四五寸俗呼名犬殺【狗子有樹下梨落所撲死故名】

○紅甁子梨似甁子形而色赤其肉白如雪○江州觀音

 寺梨色微赤不甚大而漿多甘美如消於口中○山城

 松尾梨狀類觀音寺而褐色甘脆如雪伹漿少耳

○水梨狀似青梨而褐色帶青味極甜美有微香多漿

○圓梨卽青梨之種類而大皮薄色青帶微褐多漿甘美

○肥前空閑梨微赤色極大其味亞於圓梨其外數品不

 牧擧 凡梨冬月毎枝曲撓縛而常不解則能結實

[やぶちゃん注:言うまでもないが、「不牧擧」は「不枚擧」の誤刻。訓読では訂した。]

 

   *

 

なし    快果《くわいくわ》 果宗《くわそう》

      玉乳《ぎよくにう》 𮔉父《みつふ》

【音「離」。】

      【和名、「奈之《なし》」。】

 

リイ

 

「本綱」に曰はく、『≪梨の≫樹《き》、髙さ、二、三𠀋。尖(とがり)たる葉、光《ひかり》、膩《なめらかに》≪して≫、細≪かなる≫齒、有り、二月、白≪き≫花を開《ひらく》こと、雪のごとし。六出《ろくしゆつ》なり[やぶちゃん注:六枚の花弁が開くこと。]。凡そ、杏・桃≪等の≫諸花、皆、五出《ごしゆつ》にして、棃《なし》[やぶちゃん字注:この「棃」は「梨」の異体字。以下でも混在するので注意されたい。]は、則《すなはち》、六出なり。三月三日、風、無き時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、實を結ぶ《✕→びて》、必《かならず》、佳≪(よ)き實≫なり。故に云はく、「上巳《じやうし》[やぶちゃん注:五節句の一つで、旧暦三月三日。所謂、「桃の節句」。]に、風、有れば、棃に、蠧(むし)、有り。中秋に、月、無《なけ》れば、蚌《ばう》、胎《たい》、無し。」[やぶちゃん注:これは、「美味な梨の実に虫が食い入れば、食うに堪えない。」の対になって、「美しい真珠を持つ蚌貝(ぼうがい)は痩せ細って、胎(はらこ)である真珠は出来ない。」と言っているのである。後のものだが、清の李調元の書いた広東省地誌的随筆「南越筆記」の「珠」で、真珠で知られる合浦(ごうほ:現在の広西チワン族自治区北海市合浦県。グーグル・マップ・データ)の真珠を語る中で、『蚌之病也,珠胎故與月盈朒,望月而胎,中秋蚌始胎珠,中秋無月,則蚌無胎。』とある(「維基文庫」の同書の巻五より引用した)。ああ、言い忘れたがね、所謂、「蚌」淡水産のカラスガイ等も真珠を作ることは、古くから知られていたのだ。なお、東洋文庫訳では、『蚌(はまぐり)』『に肉は付かない』と訳してあるが、いただけない。因みに、カラスガイ等は確かにドデカいし、旨くないが、食べられるから、おかしくはないが、やっぱり、ここは、食う方ではなくて、断然、真珠の方だろうと思うね。]伹《ただし》、棃の核《さね》、顆《くわ》毎《ごとに》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して訓じた。]、十餘子《じふよし》、有りて、之れを、種うるに、《成樹と成れども》、惟《ただ》、一、二子≪のみ≫、棃を生ず。餘は、皆、棠棃(やまなし)を生ず。此れ亦、一異なり。其の品《しな》、甚だ、多し。青・黃・紅・紫の四色、有り。必《かならず》、棠棃・桑の樹を須(も)つて、接(つ)ぎ過(すぐ)す者≪は≫、則ち、子《み》を結ぶこと、早《はやく》して、佳《か》なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下は、各個記載なので、改行した。引用の「≪と≫」は五月蠅いだけなので、附さない。]

○『「乳梨《にふり》」』『【一名、「雪梨《せつり》」。】』『皮、厚《あつく》して、肉、實《じつ》す。其の味、極《きはめ》て長し。』。

○『鵞梨《がり》』『【一名、「綿梨《めんり》」。】』『皮、薄《うすく》して、漿(しる)、多《おほく》、味、差《ちと》、短《たら》じ。』。

○『消梨《せうり》』『【一名、「香水梨《かうすいり》」。】』。

『≪「乳梨」「鵞梨」「消梨」は、≫俱に、上品と爲す。其の餘は、「茅梨」・「禦兒梨」・「紫糜梨」・「水梨」・「赤梨」・「青梨」の類《るゐ》、甚だ、多し。』≪と≫。

○『凡そ、梨と蘿蔔《らふく/すずしろ/だいこん》と、相《あひ》閒(まじ)へ、收-藏《をさめ》、或いは、棃の蔕《へた》を削りて、蘿蔔を種《う》へて[やぶちゃん注:ママ。]、之れを藏《をさ》むれば、皆、年を經て、爛《ただれ》ざるべし[やぶちゃん注:梨も大根も、決して、腐ることはない。]。』≪と≫。

『梨≪の≫實【甘、微酸、寒。】』『風熱を治し、肺を潤し、心《しん》を凉《すずやかに》し、痰を消し、火《くは》を降《おろ》し、酒毒を解《かい》す。伹《ただし》、不可過食すべからず。多≪食する≫時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、人をして寒《かん》に中《あた》たらしむ【金瘡《きんさう》・乳婦≪の≫血虛[やぶちゃん注:血が不足している状態だが、血の絶対量が不足しているだけではなく、血の量は十分であっても、その成分比が正常でない状態をも含む。]せる者、食ふべからず。】。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『春分の日、梨の枝を將《もち》て、「拐《かい》」[やぶちゃん注:「物を引っ掛ける物」を言う語。]樣《ざま》に作り、下《した》の兩頭《りやうとう》を斫(はつ)り、火《ひ》を以つて、燒く。又、鐵《てつ》を燒-紅(《やき》あかめ)るを、烙烙(らくらく)として[やぶちゃん注:烙印を押すようにしっかりと。]、≪梨の枝の≫津脉《しんみやく》[やぶちゃん注:樹液の筋(維管束)。]を定《さだめ》て、之れ[やぶちゃん注:真っ赤に灼(や)いた鉄。]を栽《さし》、地に、入《いるる》こと、二尺。≪しかも、其れを成すは、≫只《ただ》、春分≪の≫一日≪のみに≫、栽うべし。桑の樹に、梨の枝を接(つ)げば、則。ち、脆《もろく》して、甘し。』≪と≫。[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、前半部分が、よく判らない。梨の枝を伐り取って、そのそれぞれの切れ端を鈎型に切れ目を入れ、地面に近かった方の鈎型に作った部分の二つの鈎状の頭の部分を、火で焼く、ということか? どうも持って回った迂遠な説明で、訓読に大いに困った。送り仮名も不鮮明で、判読が難しく、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部の送り仮名の字起こしも、どうも受け入れられなかった。より正しい訓読が出来る方は、是非、御教授を乞うものである。

 「古今」

   おふの浦に

     片枝《かたえ》さしおほひ

    なる梨の

      なりもならずも

        ねてかたらはん 無名

△按ずるに、梨は山果なりと雖も、人家≪の≫煙《けぶり》に近き𠙚≪にも≫、能く、子を結ぶ。性、寒《さむき》を怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れず。故、北國に最≪も≫多し。奧州津經・羽州秋田の産、他國の者に倍して、大なり。其の大なる者、周《めぐ》り一尺四、五寸。俗、呼んで、「犬殺(いぬ《ごろ》し)と名づく【狗-子《くし/いぬころ》[やぶちゃん注:犬の卑称で、「犬の子ども」の意ではない。]、樹下に有りて、梨、落ち、撲《う》たれて死す故《ゆゑ》、名づく。】。

[やぶちゃん注:以下、同前で、改行した。]

○「紅甁子梨《べにへいじなし》」≪は≫、甁子[やぶちゃん注:「へいし」とも。口縁部が細く窄まった比較的小型の壺型の器。主に酒器として用いられた。神社の御神酒入れで今もよく見られる。]の形に似て、色、赤し。其の肉、白きこと、雪のごとし。

○江州《がうしう》の「觀音寺梨《くわんのんじなし》」は、色、微《やや》、赤《あかく》、甚《はなはだ》≪には≫大ならずして、漿(しる)、多く、甘美なること、口中に≪て≫消《きゆ》るがごとし。

○山城の「松尾梨《まつをなし》」は、狀《かたち》、「觀音寺≪梨≫」に類して、褐色、甘《あまく》、脆《もろく》して、雪のごとし。伹《ただし》、漿(しる)、少しのみ。

○「水梨《みづなし》」は、狀、「青梨《あをなし》」に似て、褐色≪に≫青を帶《おび》て、味、極《きはめ》て、甜《あま》く、美≪なり≫。微香《びかう》、有りて、漿《しる》、多し。

○「圓梨(まる《なし》)」は、卽ち、「青梨」の種類にして、大《おほき》く、皮、薄く、色、青≪に≫、微《やや》、褐≪色≫を帶《おび》て、漿、多く、甘美なり。

○肥前の「空閑梨(こが《なし》」)は、微《やや》、赤色。極《きはめて》大《おほき》く、其の味、「圓梨」に亞《つ》ぐ。其の外、數品《すひん》、枚擧せず。 凡(すべて)の梨、冬の月、枝毎《ごと》≪に≫、曲--縛(わげためくゝ)りて、常に、解かず。則ち、能《よく》實を結ぶ。

 

[やぶちゃん注:今回は、東洋文庫訳の「本草綱目」引用の「≪梨の≫樹《き》」(訳では『樹』のみ)に『樹(バラ科チュウゴクナシ)』とあることで、その梨樹は、本邦の「梨」である、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ヤマナシ(山梨)変種ナシPyrus pyrifolia var. culta

ではなく、

ナシ属ホクシヤマナシ(北支山梨)変種チュウゴクナシ(中国梨)Pyrus ussuriensis var. culta(シノニム: Pyrus × bretschneideri Pyrus bretschneideri

であることが判明したので、まずは、日本語のウィキの「チュウゴクナシ」を、先に引く(注記号はカットした)。『ホクシヤマナシ(シベリアナシ)』(英語: Siberian pear )=『秋子梨』(シュウシリ Pyrus ussuriensis var. ussuriensis )『が』、『中国で栽培化された栽培変種である』。上に示した通り、『独自種』として、 Pyrus bretschneideri 『とすることもある。中国名で白梨(はくり)ともいう』(というより、「維基百科」では、標題の中国語学名では、「白梨」で載る)。さらに正確には、本種の『英語名はChinese white pear』であり、『英語で Chinese pearは、中国原産のいくつかの栽培品種』、及び、『東アジア原産の栽培品種』を『総称』する総名称である』。『栽培化の過程は、華北に自生する』杜梨(とり:マンシュウマメナシ(満州豆梨): Pyrus betulifolia 『との種間雑種のようである』。『そのため、学名は』 Pyrus × bretschneideri 『することもある』のである。『日本には』、一八六八『年』(慶応三年十二月七日~慶応四年一月一日/明治元年一月一日(新暦一月二十五日)~同十一月十八日相当)『に勧業寮によって「鴨梨」』(ヤーリー:漢名の由来は「実のなっている様が鴨肉を干しているように見えたから」とか、「鴨が首をすくめているように見えるから」と言った様々な説がある)として、また、一九一七『年』(明治四十五年一月一日~七月三十日/大正元年七月三十日~十二月三十一日)『に恩田鉄弥によって「慈梨」』(ツーリー)として『導入されたが』、『普及せず、現在では北海道、青森県、長野県、岡山県のごく一部の地域で、非常にわずかな量が栽培されているのみである』。『形は』『洋』梨(ナシ属セイヨウナシ Pyrus communis var. sativa )『のような』壜(びん)『形や』、本邦の和梨『のような球形などがあり、果皮は淡い黄緑色である。洋』梨『のように熟するまで一定期間置く(追熟させる)が、味は和』梨『に近い。また、食感も和』梨『同様』、『石細胞』(せきさいぼう:stone cell:厚壁異型細胞(こうへきいけいさいぼう:英語:sclereid:スクレレイド)の一種。当該ウィキによれば、『ほとんどの植物において、耐久性のある層の小さな束を形成する、高度に肥厚し、木化した細胞壁を持つスクレレイマ』(Sclerenchyma)『細胞の縮小した形態で』、『細胞壁にリグニン、スベリン、ペントサン、結晶化したセルロース、シリカ』(プラント・オパール)『などの物質が蓄積し』、『石のように硬くなったもの。細胞壁が厚く発達し』、『木に近い状態に変化(木化)しており、細胞自体は死んでいる場合が多い』。『通常』、『石細胞は植物の皮などに存在し、野菜や果物の皮の部分に多く存在するが、ナシ』・『グアバ』(英語: guava。フトモモ目フトモモ科バンジロウ(蕃石榴)属グアバ(バンジロウ)Psidium guajava 。同属には約百種がある)・『マルメロ』(「榲桲」。バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga 。一属一種。)『などは』、『果肉に多くの石細胞を蓄積している。植物の表面に存在する石細胞の役割は組織を固くし保護するためといわれているが、ナシの果肉に存在する石細胞の役割はよく分かっていない』とあった)『が多く含まれるため』、『シャリシャリした歯ごたえがある』。『ホクシヤマナシ』は『中国・朝鮮・シベリアに自生している。日本に自生する』

★ミチノクナシ(「陸奥梨」。別名「イワテヤマナシ」(岩手山梨))Psidium ussuriensis var. aromatica(★但し、近年、急速に発展している遺伝子解析による由来集団の推定によれば、サイト「農研機構」内の「ミチノクナシでは自生植物と古い時代の帰化植物が交雑している ―古い時代の帰化植物も長い年月の間に生物多様性へ影響を及ぼす ―」には、『ミチノクナシでは、北上山地の野生個体の一部は独自の単一な集団に由来すると推定されましたが、これ以外の北東北地方の個体は、ニホンナシと交雑していることが判明しました』(★☜)。『したがって、ミチノクナシとされる植物のうち、真の自生集団が残存するのは北上山地だけであり、他の地域の個体は、交雑個体と置き換わったか、もしくは元々自生はなく人為的に移入された個体が野生化したものと推定されました。また、日本海側の地方に存在するニホンナシの古い栽培品種では、ミチノクナシとの交雑が疑われる品種はごく一部でした』とあることから、★本種のチュウゴクナシ類とする分類や、学名は近いうちに、大きく変わるものと思われる

■アオナシ( Psidium ussuriensis var. hondoensis(「青梨」であるが、本邦の梨の品種「二十世紀梨(にじっせいきなし)」『などの緑色がかったナシの意の』「青梨」『とは無関係』)『も同種とされることが多い』)

 以下、「品種」の項(ほぼ品種名のみ)であるが、これは、後で再考証する。

●「鴨梨(ヤーリー)」

●「慈梨(ツーリー)」(別名「萊陽慈梨(ライヤンツーリー)」)

●「紅梨(ホンリー)」

●「王秋(おうしゅう)」(『新潟県産の』、『やや縦長の形が特徴。歯ごたえがあり、やや酸味がある』)

●「身不知(みしらず)」(『別名「千両梨」。北海道で作られた品種で、洋なし型が特徴。果肉はややかたく、シャキシャキした食感がある』)

 以下、「利用」の項。『生食の他、缶詰、瓶詰めへの加工、製菓原料などとして利用されている』。『広東料理、順徳料理』(中国語:順德菜(スェンドーツァイ)。広東省仏山市順徳区(グーグル・マップ・データ)の地方料理。広東料理の重要な一部分を成している)、『台湾料理などでは、シロップで煮て、熱いデザートとしても食べられている』。『漢方に』「杏梨飮」(シンリーイン)『というのがある。去痰作用があるとされる鴨梨と、咳を鎮める作用があるとされる杏仁を煎じて飲む』。以下、「生産地」の「日本での産地」の項。『北海道』(「千両梨」を生産)・『余市郡(余市町・仁木町)・増毛郡増毛町など』・『青森県』・『長野県』・『岡山県』(『「ヤーリー(鴨梨)」を生産』・『岡山市東区西隆寺』・『石原果樹園』)。

 次に、本邦のナシのウィキを引く(注記号はカットした)。『主なものとして、

ワナシ(和梨=日本梨) Pyrus pyrifolia var. culta

チュウゴクナシ(中国梨)  Pyrus bretschneideri

ヨウナシ(洋梨=西洋梨) Pyrus communis

『の』三種『があり、食用として世界中で栽培される。日本語で単に「梨」と言うと』、『通常はこのうちの和なしを指し、本項でもこれについて説明する』。『ナシ(和なし、日本なし)は、日本の本州(中部以南)、四国、九州に生育する野生種』

ヤマナシ(ニホンヤマナシ) Pyrus pyrifolia var. pyrifolia

『を原種とし、改良・作出された栽培品種群のことである。果物としてなじみがあり、よく知られるものに、二十世紀、長十郎、幸水、豊水、新高、あきづきなどの品種がある』。『高さ』十五『メートル』『ほどの落葉高木であるが、栽培では棚状にして低木に仕立てられる。樹皮は灰褐色で縦に裂ける。一年枝は緑褐色で有毛』、『ときに無毛で、短枝も多い。冬芽は鱗芽で、長卵形や円錐形で暗赤褐色をしており』、七~十『枚つく芽鱗の先が尖る。枝先には頂芽がつき』、『側芽が枝に互生し、頂芽は側芽よりも大きい。葉は長さ』十二『センチメートル』『程の卵形で、縁に芒状の鋸歯がある。葉痕は三角形やV形で、維管束痕が』三『個』、『つく』。『花期は』四月頃で、『葉の展開とともに』、五『枚の白い花弁からなる花を付ける』。八『月下旬から』十一月頃『にかけて、黄褐色または黄緑色でリンゴに似た直径』十~十八センチメートル『程度の球形の果実がなり、食用とされる。果肉は白色で、甘く果汁が多い。リンゴやカキと同様、尻の方が甘みが強く、一方で芯の部分は酸味が強いためあまり美味しくない。水気が多くて』、『シャリシャリ、サクサクとした独特の食感がナシの特徴だが、これは石細胞』(前の引用で既注済み)『による』。『野生のもの(ヤマナシ)は直径が概ね』二~三センチメートル『程度と小さく、果肉が硬く』、『味も酸っぱいため、あまり食用には向かない』(小学六年生の時、スキー教室の最中に見つけて食べたが、美味くなかった)。『ヤマナシは人里付近にしか自生しておらず、後述のように』、『本来』、『日本になかった種が、栽培されていたものが広まったと考えられている。なお、日本に原生するナシ属にはヤマナシの他にも』、

ミチノクナシ(イワテヤマナシ)Pyrus ussuriensis var. ussuriensis(★この種は、前掲、及び、私の附言を、必ず、参照のこと)

アオナシ Pyrus ussuriensis var. hondoensis(和梨『のうち』、『二十世紀など果皮が黄緑色のものを総称する』「青梨」『とは異なることに注意』)

マメナシ  Pyrus calleryana (豆梨。別名イヌナシ(犬梨)。当該ウィキによれば、『朝鮮半島、中国、ベトナム北部と日本の東海地方に分布している』とある)

『がある』。

 以下、「名前」の項。『ナシの語源には諸説ある』。『江戸時代の学者新井白石は、中心部ほど酸味が強いことから「中酸(なす)」が転じたものと述べている』。『果肉が白いことから「中白(なかしろ)」あるいは「色なし」』、『風があると実らないため「風なし」』、『「甘し(あまし)」』・『「性白実(ねしろみ)」』・『漢語の「梨子(らいし)」の転じたもの』等の説がある。『また、ナシという名前は「無し」に通じることからこれを嫌って、家の庭に植えることを避けたり、「ありのみ(有りの実)」という呼称が用いられることがある(忌み言葉)。一方で「無し」という意味を用いて、盗難に遭わぬよう家の建材にナシを用いて「何も無し」、鬼門の方角にナシを植えることで「鬼門無し」などと、縁起の良さを願う利用法も存在する』。

 以下、「歴史」の項。『日本でナシが食べられ始めたのは弥生時代ごろとされ、登呂遺跡などから多数食用にされたとされる根拠の種子などが見つかっている。ただし、それ以前の遺跡などからは見つかっていないこと、野生のナシ(山梨)の自生地が人里周辺のみであることなどにより、アジア大陸から人の手によって持ち込まれたと考えられている。文献に初めて登場するのは』「日本書紀」で、『持統天皇の』六九三『年の詔において五穀とともに「桑、苧、梨、栗、蕪菁」の栽培を奨励する記述がある』。記録上に現れる』個体の『ナシには巨大なものがあり』、五『世紀の中国の歴史書』「洛陽伽藍記」(東魏の楊衒之(ようげんし)が撰した、北魏の都洛陽に於ける仏寺の繁栄の様子を描いた記録)には、『重さ』十斤(約六『キログラム)のナシが登場し』、「和漢三才圖會」には、ご覧の通り、『落下した実にあたって犬が死んだ逸話のある「犬殺し」というナシが記述されている』。『江戸時代には栽培技術が発達し、日本で最古の梨栽培指南書』である『新潟市有形文化財に指定されている阿部源太夫著』「梨榮造育祕鑑(りえいざういくひかん)では』、百『を超す品種が果樹園で栽培されていたと記録がある。松平定信が記した』「狗日記」『によれば』(以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの『改訂房総叢書』第四輯(改訂房総叢書刊行会編刊・一九五九年・新字新仮名)の当該部を参考に、正字に直して独自に起こした。

   *

船橋のあたり、行く。梨の木を、多く植ゑて、枝を、繁く、打曲(うちま)げて作りなせるなり。「かく苦しくなしては、花も咲かじ。」と思ふが、枝、のびやかなければ、花も實も少し、とぞ。

   *

『と記載があり、現在の市川市から船橋市にかけての』江戸後期頃の『江戸近郊では』、『既に梨の栽培が盛んだった事がわかっている』。『明治時代には、現在の千葉県松戸市において』「二十世紀(にじっせいき)」『が、現在の神奈川県川崎市で』「長十郎」が『それぞれ発見され、その後、長らくナシの代表格として盛んに生産されるようになる。一時期は日本の栽培面積の』八『割を』「長十郎」『で占めるほどであった。また、それまでは晩生種ばかりだったのだが、多くの早生種を含む優良品種が』、『多数』、『発見され、盛んに品種改良が行われた』。二十『世紀前半は』「二十世紀」「長十郎」が『生産量の大半を占めていたが、太平洋戦争後になると』、昭和三四(一九五九)年に「幸水」、一九六五年に「新水」、一九七二年に「豊水」の』三『品種(この』三『品種をまとめて「三水」と呼ぶこともある)が登場し普及した。そのため、現在では長十郎の生産はかなり少なくなっている』。『ナシの種子は乾燥に弱く、播種の際には注意を要する。発芽後は植木鉢へ移して個別に栽培し、十分に生育してから圃場へ移す。定植された苗は長さ数』センチメートル『にもなる棘を付けるが、これはバラ科』Rosaceae『としての形態形質の一端である。ちなみに、この棘はナシの幼若期に特有のものであり、花芽形成が始まる頃に伸びる枝には棘がない』。『ナシの花弁は』、『通常』、『白色』五『枚の離弁が基本であるが、色や花弁数には変異がある。また、おしべは約』二十『本、花柱は』『五本である。ナシは本来』、『虫媒花であるが、自家不和合性(同じ品種間では結実しない性質)が強く、栽培される場合には経済的な理由から他品種の花粉によって人工受粉が行われる。雌蕊(めしべ)の柱頭に付着した花粉は発芽し、花粉管を伸長して胚珠に到達、重複受精を行う。果実の育成は植物ホルモンの影響を受ける』ため、『人工的にこれを添加する事も行われる。また、結実数が多』過ぎる『(着果過多)場合には、商品となる果実の大きさを維持する』ため『に摘果が行われる』。『受粉を確実にするためマルハナバチなどを養蜂もされている』。『ナシは種子植物であり、果実内には一個』から、『十数個の種子が形成される。天然では鳥などにより』、『種子が散布されるが、改良品種で種子繁殖が行われる事は稀であり、通常は接ぎ木によって増やされる。台木には和』梨『の他、マンシュウマメナシやチュウゴクナシ、マルバカイドウ』(丸葉海棠:バラ科ナシ亜科リンゴ属イヌリンゴ(犬林檎)変種マルバカイドウ Malus prunifolia var. ringo )『も用いられる』。『また、本来ナシは高さ』十『メートル程になる高木だが、果樹栽培の際には台風などの風害を避けるため、十分な日照を確保するために、棚仕立て(平棚に枝を誘導し、枝を横に広げる矮性栽培方法)が用いられる』。『ナシの栽培は古くからあったが、品種名が文献に現れるのは江戸幕府が行った特産品調査』(享保二〇(一七三五)年)『である。当時既に』百五十『もの品種が記録されている。品種改良は』二十『世紀初め頃から行われるようになった』。二〇二〇『年現在では幸水、豊水への寡占化が進み、両種だけで収穫量の』六十五%『を占める。その他の品種を含めても、現在栽培されるのはいずれも』十九『世紀後半』から二十一『世紀前半に発見あるいは交配された品種である』。『ナシの品種は、果皮の色から黄褐色の赤梨系と、淡黄緑色の青梨系に分けられる。多くの品種は赤梨系で、青梨系の品種は』「二十世紀」・「八雲」・「菊水」・「新世紀」・「秋麗」・「瑞秋(二十一世紀梨)」等、『少数である。この色の違いは、果皮のコルク層によるもので、青梨系の果皮はクチクラ層に覆われており黄緑色となるが、赤梨系の品種では初夏にコルク層が発達し』、『褐色となる』。『和梨と洋梨を問わず、ナシの品種は、果皮の色から大きく』四『つに分けられる。幸水梨などの赤茶色系のラセットタイプ(Russet pear)、リンゴのように赤い赤色系のレッドタイプ(Red pear)、中国梨のように黄色い黄色系のイエロータイプ(Yellow pear)、二十世紀梨などの青色系のグリーンタイプ(Green pear)などがある。レッドタイプとイエロータイプの中間種でピンクタイプなども存在する』。

「幸水(こうすい)」(『赤梨系の早生種で、和』梨『生産の』三十一『%を占める最も生産量の多い品種で』、「梨農林三号」の通用名。農研機構(旧園芸試験場)が昭和一六(一九四一)年に』、「菊水」「早生幸蔵(わせこうぞう)」『を掛け合わせて作り』、戦後の一九五九『年に命名・発表された。早生種の中でも特に収穫時期が早く』、八『月中旬から下旬である。ただし、収穫時期が短い。赤梨系だが中間色(中間赤梨)と言い、若干黄緑色の地色が出る。酸味は少なく糖度が高い。果肉は柔らかく果汁も多い。早生種としては平均的な方だが、日持ちが短い』。

「豊水(ほうすい)」(『赤梨系の中生種で、和』梨『生産の』二十六『%を占める生産量第』二『位の品種である』。正式登録名「梨農林八号」。『農研機構(旧果樹試験場)によって』一九五四『年に作られ』一九七二『年に命名された。糖度が高いが、ほどよく酸味もある濃厚な味が特徴』。三百~四百グラムと「幸水」より『やや大きめで、果汁が多い。また、日持ちも幸水よりは長い。長らく』「リ―十四号」「八雲」の『交配種とされていたが』、二〇〇三『年に農研機構のDNA型鑑定によって』、「幸水」「イ―三十三号」の『交配種であると発表された』。

「新高(にいたか)」『赤梨系の晩生種で、和』梨『生産の』九『を占める生産量第』三『位の品種である』。『菊地秋雄が東京府立園芸学校の玉川果樹園で』、「天の川」と「長十郎」を『交配させて作った品種で』、昭和二(一九二七)『年に命名された。名前の由来は当時』、『日本で一番高い山であった台湾の新高山(玉山)』(ここ(グーグル・マップ・データ)。標高三千九百五十二メートル)に拠る。『当時の命名基準では国内の地名を用いることになっており、優れた品種であることから、日本で一番高い山の名称を用いたという。収穫時期は』十『月中旬から』十一『月中旬』。五百グラムから、実に一『キログラム程度の大型の品種で、果汁が多く、歯ごたえのある食感で、味は酸味が薄く甘い。洋』梨『ほどではないが芳香もある。比較的』、『日持ちが良い』。

「あきづき(秋月)」『赤梨系の中生種で、和』梨『生産の』六『%を占める生産量第』四『位の品種である。登録名「梨農林十九号」。「一六二―二九」(新高と豊水の交配種)に幸水を掛け合わせ』、二〇〇一『年に品種登録された。名前は収穫期が秋であることと、豊円形の果実を月に見立てて命名された』。五百『グラム程度の大玉で、収穫時期は』九『月頭から』十『月上旬。糖度は』十二『度程度と豊水と同等だが、酸味がほとんどないため』、『非常に甘く感じる。果肉は柔らかいが』、『適度なシャリ感もある。生産者視点でも黒班病に対する抵抗性や、豊水の後に出荷できるなどのメリットが多く、近年全国的に生産量が急増している』。

「二十世紀(にじっせいき)」『青梨系の中生種で、和』梨『生産の』五%『を占める生産量第』五『位の品種である。また、鳥取県産』梨『の』八『割を占める』。三百『前後の中玉』。『青梨系の代表品種で、一般的な唯一の青梨』。明治二一(一八八八)『年に』、『千葉県大橋村(現在の松戸市)で、当時』十三『歳の松戸覚之助が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見、移植して育てた。覚之助はこれを「新太白」と名付けたが、実がなった』明治三一(一八九八)『年に渡瀬寅次郎によって、来たる新世紀』(二十世紀)『における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された。その後、明治三七(一九〇四)『年に北脇永治によって鳥取県に導入され、鳥取県の特産品となった。同県倉吉市には専門のミュージアム「鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館」(倉吉パークスクエア内)があり、花は鳥取県の県花に指定されている』。『発祥の地は後に「二十世紀が丘梨元町」と名付けられ、覚之助の業績を記念しているが、発祥の松戸市を含む関東地方では』「幸水」や「豊水」が『主で、現在』、『殆ど栽培されなくなっている』。「二十世紀梨」の原木は』昭和一〇(一九三五)年』に国の天然記念物に指定されたが』、昭和二十二年『に枯死しており、原木の一部が松戸市立博物館に展示されている』。『松戸市の二十世紀が丘梨元町にある二十世紀公園には二十世紀梨誕生の地の碑がある』。『果皮は黄緑色、甘みと酸味のバランスが良いすっきりした味わいで、果汁が多い。収穫時期が比較的遅く、(水分の多い)梨の需要が見込まれる夏・初秋に収穫できないのが欠点でもある。自家受粉が出来ない(『これは「二十世紀」に限らない』)、黒斑病に非常に弱いといった欠点を改良した品種もある(後述)』。

 以下、「その他の品種(赤梨系)」「その端の品種(青梨系)」の項であるが、これらは、皆、現代の改良品種であるので、本項には不要であるから、各自で見られたい。以下、「日本における産地」の項。『ナシは日本各地、北海道南部(但し、北部でも栽培収穫の例がある)から鹿児島県まで広く栽培されており』、三十一『都府県で累年統計をとっている。そのため、主産県でも収穫量におけるシェアはそれほど高くなく、上位』十『県合計でも全体の』七『割弱である。産地は東日本と九州地方に集中しており、特に関東地方で半数を超える。土壌は火山灰土、砂地などが栽培適地となっているほか、風害の影響を受けやすいため、盆地や山間の扇状地に産地が発達している』。『なお、主要産地の地方自治体ではナシの大敵である赤星病』(あかぼしびょう:嘗つて提唱されていたバラ科の亜科の一つであるバラ科ナシ亜科Pyroideae/リンゴ亜科MaloideaeMaloideae をナシ亜科と訳すこともある)でリンゴ・ナシ・ビワ・ナナカマドなどを含んでいたが、現在の分類では、サクラ亜科Amygdaloideae(=モモ亜科)のナシ連 Pyreaeまたはリンゴ連 Maleaeにほぼ等しい)の植物に、菌界担子菌門プクシニア菌綱 Pucciniomycetesサビキン(錆菌・銹菌)目 Pucciniaceae科ギムノスポランギウム Gymnosporangium  属の担子菌が寄生することによる病害。当該ウィキに拠った)『対策として、ビャクシン類の植栽を規制する条例を設けているところが多い』。

 以下の「生産上位県」「その他都府県」は非常に長いのでカットする。

 以下、「食用」項。『ナシの主な利用法は食用で、調理加工に不向きな特性があるのでほぼ生食に限られる。旬の時期は、和梨が』九~十月頃、『洋梨は』十~十二月頃『とされる。一般的なナシの剥き方はリンゴに類似したもので、縦に』八『等分などして、皮を剥き中心部を取り除く方法である。また、シロップ漬けの缶詰にも利用されるが、ナシ単独の缶詰が売られていたり、それを食したりすることは稀であり、他の果物と混ぜてミックスフルーツとして販売・食用とされることが多い。シャリシャリとした独特の食感があり、これはリグニンやペントサンなど「石細胞」により』、『もたらされる。この細胞は、食物繊維と同じ働きがあり、整腸作用がある。なめらかな食感を持つ洋梨とは対照的であり、英語では、洋梨をバター』・『ペア』(butter pear)『(バターの梨)、日本梨をサンド』・『ペア』(sand pear)『(砂の梨)と呼ぶ』。『加工品としては清涼飲料水や、ゼリー、タルトなどの洋菓子に利用されているが、洋梨と比べるとそれらを見かける機会は少ない。料理に用いられることは冷麺の具として用いる以外ほぼないが、産地などでは梨カレーなどといったレシピも開発されている』。『ナシはポリフェノール系化合物による褐変を起こしやすい食材であり、食塩水につけるなどの方法がとられる。フルーツ』・『サラダに加える場合は食塩水に代えて他の果物の缶詰内にある果汁を使用することもできる』。『ナシはタンパク質分解酵素を持っているため、生の状態ですり下ろしたものを焼肉やプルコギなどの漬け込みだれとして利用するレシピがある』。『和梨・洋梨ともに果物としてはビタミンをほとんど含まず、栄養学的な価値は高くない。果物の多くがそうであるように、ナシのほとんどは水分で可食部』百グラム当たり八十八グラム『含まれる。食物繊維は可食部』百グラム当たり〇・九グラム『含まれる。カリウム(可食部』百グラム当たり百四十ミリグラム『)は、血液中のナトリウムイオンの増加を防ぎ、高血圧予防に良い。ソルビトールは甘く冷涼感のある糖アルコールで、便秘の予防に効果がある。洋なしではこれによって追熟が起きる。アスパラギン酸はアミノ酸の一種で、疲労回復効果がある。タンパク質分解酵素プロテアーゼの働きで消化を助けたり、肉料理において肉を柔らかくしたりする効果がある』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の冒頭を飾る「梨」([073-33b]以下)のパッチワークである。

「六出《ろくしゆつ》なり」東洋文庫訳の後注では、『『本草綱目』の時珍の説明に、「二月に白花を開くが雪のようである。六弁である」とあるのから採ったものである。しかしこの説が合っているのかどうかはよく分からない。現在の梨の種類でいえば「二十世紀」は五弁と六弁があり、「長十郎」は五弁、また「幸水」は重弁である。』と疑問を呈している。しかし、小学館「日本大百科全書」の「梨」の冒頭の総論の中に、『花は白色。萼片 (がくへん)、花弁ともに5枚を基本とする』と書かれてある。近世・近現代の品種の梨の花弁数を提示して、「おかしい」とする、この竹島淳夫氏(東洋史専攻)の注は、完全な誤りである。

「『「乳梨《にふり》」』『【一名、「雪梨《せつり》」。】』『皮、厚《あつく》して、肉、實《じつ》す。其の味、極《きはめ》て長し。』」まず、中文の「抖音百科」に「乳梨」が立項されてあり、そこの『解释』に『梨的一种,亦名雪梨。』(梨の一種、亦、「雪梨」と名づく)とあり、画像もある。但し、種の学名は示されていない。また、「百度百科」には「雪梨」で、膨大な記載があって、ナシの一種であることは明らかなのだが、やはり学名を記載しない。そこで、「維基百科」を検索すると、「雪梨(水果)」があり、そこに『雪梨は、砂梨(学名: Pyrus pyrifolia :これは「ヤマナシ」である)と白梨(学名: Pyrus bretschneideri :これは「チュウゴクナシ」である)の一部の栽培品種の現地の通称である』という内容があって膨大な地方名がズラりと並ぶ。さらに、同「白梨」を見ると、学名を Pyrus × bretschneideri とする。ところが、この交雑種の学名は、既に示した通り、チュウゴクナシのシノニムなのである。則ち、この「乳梨」「雪梨」は、中国の限定されないチュウゴクナシの栽培種(但し、解説中の『河北』の『雪花梨、象牙梨、秋白梨』辺りに絞ることは可能ではあろう)、或いは、広義のチュウゴクナシの単なる地方名に過ぎないことが判る。

「『鵞梨《がり》』『【一名、「綿梨《めんり》」。】』『皮、薄《うすく》して、漿(しる)、多《おほく》、味、差《ちと》、短《たら》じ。』」検索状況は、前の「乳梨」と完全に同じで、結果して、同じく「維基百科」の「白梨」に辿りつく。その解説中に、『山東』の栽培種に『鵝梨』があるので、それを限定してよいだろうが、学名は見当たらない。

「『消梨《せうり》』『【一名、「香水梨《かうすいり》」。】』」これは、「百度百科」の「消梨」のみがヒットするが、「注释」の引用記載は、総て、蘇軾の詩・「本草綱目」の本項・「五雜組」等の近世より前の記事のみである。「日本国語大辞典」に、以下に出る「水梨」(みづなし)があり、しかし、『古い日本梨』(☜)『の一つで、果実が著しく水分の多いもの。消梨。雪梨。香水梨。』とするが、軽々に同一種であるとは、到底、言い得ない。これらの異名群は、中国の本草書から、手っ取り早く当用したものに過ぎず、全く別な中国産の種である可能性を排除出来ないからである。

「茅梨」不詳。中文サイトでは、ヒットしない。

「禦兒梨」同前。

「赤梨」これは、「維基百科」の「豆梨」で、既に示した、ナシ属マメナシ Pyrus calleryana の異名として、『赤梨』(「爾雅」)を挙げている。

「青梨」既に示した、アオナシ Psidium ussuriensis var. hondoensis である。

「凡そ、梨と蘿蔔《らふく/すずしろ/だいこん》と、相《あひ》閒(まじ)へ、收-藏《をさめ》、或いは、棃の蔕《へた》を削りて、蘿蔔を種《う》へて、之れを藏《をさ》むれば、皆、年を經て、爛《ただれ》ざるべし」ネットで調べてみたが、このような保存法を記す記事は見当たらなかった。そもそも、「棃の蔕《へた》を削りて、蘿蔔を種《う》へて、之れを藏《をさ》むれば、」、則ち、『梨の蔕(へた)を削って、蘿蔔』『(だいこん)』『を種(ま)いて収蔵しておくと、いずれも年月が経(へ)てもくさらない』(東洋文庫訳)という部分が、私には映像として想起出来ないのだ。何時までも腐らないのは、蔕を削った梨の実と大根本体だとは、到底、思えない――そんな馬鹿なことは全く信じられないからである。としれば、百歩譲って、これは――梨の蔕を除去した、狭義の梨の核(さね)=種(たね)と、大根の種子を一緒に保存すると腐らない――という意味だろう。しかし、本当にそのような保存が、それぞれの種子に絶大なる不腐敗効果を科学的に持つのなら、今も行われているはずである。これは、何らかの五行思想による共感呪術か、迷信レベルのイカサマじゃ、なかろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「古今醫統」複数回、既出既注本文割注で述べた通り、どうも意味が採れないので、中文の「中醫笈成」の同書の電子化から、そのまま引用しておく。

   *

李杏 李宜稀,可南北行。杏勿密,宜近人家者盛。桃三年便結實,五年盛,七年衰,十年死至六年以刀砍其皮,令膠流出,可多活五年。桃樹接李枝則桃紅而甘,柿樹接桃則為金桃,李樹接桃枝則為桃李。梨春分日將梨條作拐樣斫下,兩頭以火燒,又燒紅鐵烙,烙定津脈,栽之入地二尺。只春分一日可栽。桑樹接梨枝則脆而甘。

   *

「古今」「おふの浦に片枝《かたえ》さしおほひなる梨のなりもならずもねてかたらはん」「無名」(氏)は、「古今和歌集」の「卷第二十 東歌」の、巻では最後のそれの、終りから二首目で、読人知らずの一首(一〇九九番)で、ご覧の通り、前書に「伊勢歌」(いせうた)とある。

   *

  伊勢歌

 おふのうらに

   片枝(かたえ)さし覆(おほひ)

  なる梨の

     なりもならずも

     寝(ね)て語(かたら)はむ

   *

「新日本古典文学大系」(小島憲之・新井栄蔵校注・一九八九年刊)版の脚注にある訳を引く。『育つという名の「おふ」の入江に、片方の枝が覆いかぶさるようにして実る「梨」は、「成る」ものなのに「成し」とも「無し」ともいうが、「成る」にしろ「成らない」にしろ、共寝を相談しようよ。』。この掛詞の「おふ」という地名は、「をふの浦」は「麻生(おふ)の浦」で、この「古今和歌集」の、この歌に由来する伊勢国の歌枕であるが、所在未詳である。底本の「地名索引」では、『三重県多気郡大淀の浦とも』(ここ。グーグル・マップ・データ)、その南東の『三重県鳥羽市の海岸ともいわれる』とある。

『「紅甁子梨《べにへいじなし》」≪は≫、甁子の形に似て、色、赤し。其の肉、白きこと、雪のごとし』不詳。既に滅んだ品種なのか、全くネットでは検索出来ない。

『江州《がうしう》の「觀音寺梨《くわんのんじなし》」は、色、微《やや》、赤《あかく》、甚《はなはだ》≪には≫大ならずして、漿(しる)、多く、甘美なること、口中に≪て≫消《きゆ》るがごとし』不詳。現行の滋賀県では、見当たらない。香川県観音寺市(グーグル・マップ・データ)は、現在、「幸水」・「豊水」・「あきづき」の名産地として知られるが(「香川県」公式サイト内のこちらで確認した)、讃岐と近江を誤る可能性はない。

『山城の「松尾梨《まつをなし》」は、狀《かたち》、「觀音寺≪梨≫」に類して、褐色、甘《あまく》、脆《もろく》して、雪のごとし。伹《ただし》、漿(しる)、少しのみ』不詳。不思議なことに、これも見出せない。

『「水梨《みづなし》」は、狀、「青梨《あをなし》」に似て、褐色≪に≫青を帶《おび》て、味、極《きはめ》て、甜《あま》く、美≪なり≫。微香《びかう》、有りて、漿《しる》、多し』既に先に注した。

『「圓梨(まる《なし》)」は、卽ち、「青梨」の種類にして、大《おほき》く、皮、薄く、色、青≪に≫、微《やや》、褐≪色≫を帶《おび》て、漿、多く、甘美なり』日外アソシエーツ刊の「季語・季題辞典」に、『ナシの一品種』(季は秋)とあるが、ネットでは他に見当たらない。

『肥前の「空閑梨(こが《なし》」)は、微《やや》、赤色。極《きはめて》大《おほき》く、其の味、「圓梨」に亞《つ》ぐ』「日本国語大辞典 」に、『こが-なし【空閑梨・古河梨】』として、『ナシの歴史上の品種。現在では、大古河(おおこが)という品種が知られ、九月中旬に熟し、大果で帯緑黄赤色、果肉は色が白く緻密で柔軟』とあった。「大辞泉」に「大古河」があり、『ニホンナシ(和梨)の一種。岐阜県、または新潟県原産と考えられている。栽培の記録は』、『江戸時代末期に遡る。果実は大ぶりで紡錘形。晩生品種』とあるから、この「大古河」は良安は知らない。この「大古河」は、最後にして、学名が判った。ナシ属ヤマナシ変種ナシ(ニホンナシ)品種 Pyrus pyrifolia var. culta 'O-koga' である。chameleon221氏のブログ「湯らり気ままに温泉に」の「お店には並ばない梨 其の二『大古河』」に御礼申し上げるものである。]

2024/12/17

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 棗 / 五果類~了

 

Natume

 

なつめ   【和名奈豆女】

 

【音早】

 

ツア

 

本綱棗木心赤有刺四月生小葉尖觥光澤五月開小花

[やぶちゃん注:「觥」は、原本では、「グリフウィキ」のこれ(「角」が「⻆」)だが、表示出来ないので、「觥」とした。]

白色微青其類甚繁而以青州普州之產肥大甘美入藥

爲良凡棗生青熟赤其全赤時日日撼而收曝則紅皺若

半赤收者肉未𭀚而乾卽色黃

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。]

棗脯【切而晒乾者也】 棗膏【一名棗瓤煮熟搾出者也】 膠棗【蒸熟棗也】 棗油【卽搗膠棗晒乾者也】

乾棗【甘平】 脾經血分藥補中益氣助十二經和藥治病而

 若無故頻食則生蟲損齒貽害多矣中滿者勿食甘甘

 令人滿故張仲景建中湯心下痞者減餳棗與甘草同

 例此得用棗之方矣

【忌與葱同食令人五臟不和與魚同食令人腰腹痛有齒病疳蟲人忌之】小兒尤不宜食

△按棗出攝州池田者良

 古今醫統云凡生乾棗晒乾須甑中畧炊蓋棗蟲在

 內炊之則死然又晒乾貯新罈久留凡棗有數種

 壺棗【大而上銳者也】 要棗【大而腰細者也】 櫅棗【色白而熟者也】 樲棗【小而味酸者也】 羊矢棗【小而圓紫黒色者】

[やぶちゃん字注:「櫅」は原本では(つくり)が「齋」であるが、表示出来ないので、「櫅」とした。「羊」は第一画と第二画が「ハ」字型になっているが、同前なので、「羊」とした。]

五雜組云楓棗二木皆能通神靈卜卦者多取爲式盤式

局以楓木爲上棗心爲下所謂楓天棗地是也兵法曰楓

天棗地置之槽則馬駭置之轍則車覆其異如此


仲思棗  仙棗

本綱北齋時有仙人仲思得此棗種之因以爲名大者長

四寸圍五寸肉肥核小甘味勝於青州棗廣志所謂西王

母棗亦此類

 

   *

 

なつめ   【和名、「奈豆女《なつめ》」。】

 

【音「早」。】

 

ツア

 

「本綱」に曰はく、『棗《さう》の木の心、赤く、刺《とげ》、有り。四月、小≪さき≫葉を生じ、尖≪りて≫觥《つのさかずき》[やぶちゃん注:兕牛(じぎゅう:哺乳綱奇蹄目有角亜目Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidaeの犀(サイ)の♀を指す)の角で作った盞(さかずき)。]光澤≪あり≫。五月、小《ちさ》き花を開く。白色、微《やや》青≪し≫。其の類、甚だ、繁《おほ》し。青州[やぶちゃん注:現在の山東省地方。]・普州[やぶちゃん注:山西省地方。]の產、肥大≪にして≫、甘美なるを以つて、藥≪に≫入≪るるに≫、良しと爲《な》す。凡そ、棗、生《わかき》は、青く、熟せば、赤し。其の、全く、赤き時、日日《ひび》、撼(むし)りて、收《をさめ》、曝《さら》せば、則ち、紅皺《べんしわ》≪と成る≫。半ば、赤くして、收むる者のごときは、肉、未だ𭀚《み》たずして、乾けば、卽ち、色、黃なり。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。以下、各個記載なので、改行した。≪と≫は五月蠅いだけなので、カットする。]

『棗脯《さうほ》』『【切りて、晒乾《さらしほ》す者なり。】』。

『棗膏《さうかう》』『【一名、「棗瓤《さうじやう》」。煮熟《にじゆく》して、搾り出だす者なり。】』。

『膠棗《かうさう》』『【蒸し熟したる棗なり。】』。

『棗油《さうゆ》』『【卽ち、膠棗を、搗き晒し乾したる者なり。】』。

『乾棗《かんさう》【甘、平。】』『「脾經」の血分の藥≪なり≫。中《ちゆう》[やぶちゃん注:「脾胃」。]を補し、氣を益し、「十二經《けい》」を助く。藥を和して、病《やまひ》を治す。若《も》し、故《ゆゑ》無≪くして≫、頻《しき》りに食する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、蟲を生じ、齒を損《そん》し、害を貽《のこ》すこと、多し。中滿《ちゆうまん》[やぶちゃん注:胃が膨張していること。]の者、甘《かん》[やぶちゃん注:甘い物。]を食すこと、勿《な》かれ。甘は、人をして滿《み》たしめ≪ばなり≫。故に、張仲景が「建中湯《けんちゆうたう》」に、『心下《しんか》、痞(つか)える者には、餳棗《あめなつめ》を減ず。甘草《かんざう》[やぶちゃん注:マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。]と例を同≪じうす≫。』と。此れ、棗を用≪ひる≫の方《はう》を、得たる≪ものなり≫。』≪と≫。

『【葱《ねぎ》と同じく食《しよく》すを忌《いむ》。人をして、五臟を和《わ》せざらしむ。魚《さかな》と同じく食へば、人をして、腰・腹の痛《いたま》しむ。齒の病《やまひ》・疳の蟲の有る人、之れを忌む。】』。『小兒、尤《もつとも》、宜しく食ふべからず。』≪と≫。

△按ずるに、棗《なつめ》、攝州池田[やぶちゃん注:現在の大阪府池田市(グーグル・マップ・データ)。]より出づる者、良し。

「古今醫統」に云はく、『凡そ、生乾《なまがはき》≪の≫棗、晒乾《さらしほし》、須べからく、甑《こしき》≪の≫中《なか》に於いて、畧《ち》と、炊(む)すべし。蓋し、棗の蟲は、內に在り、之れを炊(む)せば、則ち、死す。然《しか》して、又、晒乾《さらしほし》、新≪らしき≫罈《タン》[やぶちゃん注:口が小さくて、腹が膨らんだ容器。]に貯《たくは》へ、久《ひさし》く留《とどむ》[やぶちゃん注:長期に保存する。]。』と。[やぶちゃん注:ここで引用を切ったのは、東洋文庫訳に従った。]凡そ、棗、數種《すしゆ》、有り。

[やぶちゃん字注:以下も各個記載なので、改行した。棗類の読みは東洋文庫訳のものを、概ね、用いた。]

「壺棗《つぼなつめ》」【大にして、上、銳き者なり。】。

「要棗《こしなつめ》」【大にして、腰、細き者なり。】。

「櫅棗《しろなつめ》」【色、白くして、熟せる者なり。】。[やぶちゃん注:「櫅」は音「セイ・ザイ」で、この単漢字で「白いナツメ」を意味する。]

「樲棗《さねぶとなつめ》」【小にして、味、酸《すつぱき》者なり。】。[やぶちゃん注:「樲」は音「ジ」で、この単漢字で種としての「サネブトナツメ」を意味する。]

「羊矢棗《やうしさう》」【小にして、圓《まろ》く、紫黒色の者≪なり≫。】。

「五雜組」に云はく、『楓《ふう》と棗の二木は、皆、能く、神靈に通ず。卜卦《ぼくか》≪の≫者[やぶちゃん注:占術を成す者。]、多く、≪この二種の木を≫取りて、式盤《しきばん》・式局《しききよく》[やぶちゃん注:占いをする際に用いる道具。]を爲《つく》る。楓木《ふうぼく》を以つて、上(かみ)と爲《な》し、棗《なつめ》の心《しん》[やぶちゃん注:「芯」。]を下(しも)と爲す。所謂《いはゆ》る、「楓天棗地《ふうてんさうち》」、是れなり。』≪と≫。『兵法《へいはう》に曰ふ、「楓天棗地を槽(むまふね)に置けば、則ち、馬《むま》、駭(をどろ[やぶちゃん注:ママ。])き、轍(くるまのあな)に置けば、則ち、車、覆(くつが)へる。」≪と≫。其の異《い》なること、此くのごとし。』≪と≫。


仲思棗(ちうしそう)  仙棗(せんさう)

「本綱」に曰はく、『北齋《ほくせい》の時、仙人、「仲思《ちゆうし》」と云ふもの[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]有りて、此の棗《なつめ》を得て、之れを種《う》ゑ、因《より》て、以つて、《この「仲思棗」の》名を爲す。大なる者、長さ、四寸。圍《めぐり》、五寸。肉、肥《こえ》、核《さね》、小《ちさ》く、甘き味≪にして≫、青州≪の≫棗に勝《まさ》れり。「廣志」に謂ふ所の、「西王母棗《せいわうぼのなつめ》」も亦、此の類《るゐ》なり。』≪と≫。[やぶちゃん注:「ちうしそう」はママ。「ちゆうしさう」が正しい。]

 

[やぶちゃん注:「棗」は、

双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ(黒梅擬)科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『和名は夏に入って芽が出ること(夏芽)に由来する。中国植物名(漢名)は、棗(そう)という。英語ではjujube(ネイティヴの音写で「ジュゥジュゥブ」)またはChinese date(中国のナツメヤシ)という』。『果実は乾燥させたり(干しなつめ)、菓子材料として食用にされ、また生薬としても用いられる』。『ナツメヤシ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera )『は』『果実が似ていることから。また』香辛料の『ナツメグ』(英語:Nutmeg )は『ニクズク』(双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目ニクズク科ニクズク属ナツメグ  Myristica fragrans )『の種子であり』、『それぞれ』、全くの『別種』であるので、注意が必要である。『南ヨーロッパ原産、中国・西アジアへ伝わり、中国北部の原産ともいわれている。日本への渡来は奈良時代以前とされていて』、六『世紀後半の遺跡から果実の核が出土している。野生状態のものもあるが、主には栽培されている』。『日本では古くから栽培されてきたが、現在では公園や街路、まれに庭などに植えられる』。『落葉広葉樹の小高木で、樹高は』五『メートル』『ほどになる。枝は棘が対生するが、なかには棘がないものもある。葉の出る時期は遅く、和名の由来ともなっている。若い苗でも根が太く、茎には鋭い棘がある。葉は小枝に互生して、羽状複葉のようにも見える。葉身は卵形で落葉樹ではめずらしく』、『強い光沢があり』、三『本の葉脈が目立つ』。『花期は初夏』(六月頃)『で、花は淡緑色や黄色で』、『小さく目立たず、葉腋に数個ずつつける。果実は核果で、長さ』二~三『センチメートル』『ほどの卵形か長楕円形または球形で、果皮はなめらか、中に』一『個の種子が入る。熟すと』、『暗紅色になり、落葉後も枝に残り、次第に乾燥してしわができる(英語名のとおりナツメヤシの果実に似る)。種子の発芽率は極めて高く、親木の周囲には子苗がたくさん生じる』。『同属は多く熱帯から亜熱帯に分布し、ナツメ以外にも食用にされるものはあるが、ナツメが最も寒さに強い』。『日当たりが良く、排水が良いところであれば土質を選ばないため栽培しやすい。繁殖は実生または株分けで行われる』。『果実はビタミン豊富で食用や薬用になる。樹木は庭木などに利用される。木材としては、硬く、使い込むことで色艶が増す事から、高級工芸品(茶入れ、器具、仏具、家具)等に使われている。その他、ヴァイオリンのフィッティング』(fitting:調整材)『(ペグ、テイルピース、顎当て、エンドピン)にも使われている。比重としてはツゲと黒檀の中間程度』である。『果実は果皮が少しだけ茶色になったころが食べごろで、その時点では黄白色の果肉が詰まっていて、リンゴのような味がして美味である。果皮が緑色の時期に収穫しても食べられる。収穫後は傷みやすいことから、冷凍庫で保存しておくと長期保存できる』。『日本では、果実を砂糖と醤油で甘露煮にし、おかずとして食卓に並ぶ風習が、古くから飛騨地方のみで見受けられる。煮物に加えても良い』。『中国では乾果の砂糖漬を高級の菓子として賞味する。また、ナツメの餡は』「枣泥」『(拼音: zǎoní)として中国の伝統的な餡の一種で知られる』。『韓国では、薬膳料理として日本でも知られるサムゲタンの材料に使われるほか、砂糖・蜂蜜と煮たものを「テチュ茶(ナツメ茶)」と称して飲用する』。『欧米には』十九『世紀に導入されキャンディ(当初はのど飴)の材料として使われるようになった。また葉に含まれる成分ジジフィン(Ziziphin)』(トリテルペン(Triterpene)配糖体:C51H80O18)『は、舌で甘味を感じにくくさせる効果がある』。『ナツメまたはその近縁植物の実を乾燥したものは大棗(たいそう)、種子は酸棗仁(さんそうにん)と称する生薬である(日本薬局方においては大棗がナツメの実とされ、酸棗仁が』、サネブトナツメZiziphus jujuba var. spinosa (本項にも出る本種については、「武田薬品工業株式会社 京都薬用植物園」公式サイトの「サネブトナツメ」のページがよい。画像もある)『の種子とされている』『)。大棗は、果実が大きく、果肉が豊富なものを良品とし、種子が大きいものは実太(さねぶと)という。秋(』九~十『月)に果実が黄褐色になったときに採って、蒸した後に天日で乾燥させる。日本へは、中国原産の薬用品を輸入している』。『大棗には強壮作用・鎮静作用が有るとされる。甘みがあり、緩和、強壮、利尿の薬として、漢方では多種の配剤があり、葛根湯、甘麦大棗湯などの漢方薬に配合されている。生姜(しょうきょう)との組み合わせで、副作用の緩和などを目的に多数の漢方方剤に配合されている。民間では、筋肉の痛み、知覚過敏、咽頭炎に』『服用する用法が知られている。ただし胃の弱い人や、癇をもつ小児への服用は控えた方が良いという意見もある』(本項の本文にも、この禁忌は出る)。『このほか、胃腸が弱っているときに起こる疲労倦怠や食欲不振、冷え性、不眠に対する薬効もあるとされ』、『ナツメ酒』が作られる。『ナツメには睡眠と関係があるオレアミド』(Oleamide:オレイン酸アミド:C18H35NO)『が含まれている』。『酸棗仁には鎮静作用・催眠作用が有るとされる。酸味があり、補性作用・降性作用がある。酸棗仁湯に配合されている』。『庭木や街路樹としても用いる』。『茶器にも「棗」があるが、これは形がナツメの果実に似ることからついた名称である』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷二十九」の中で続く「果之一」の「五果類」の最後を飾る「棗」([073-33b]以下)のパッチワークである。

「脾經」先行する「郁李仁」の東洋文庫の後注に『足の太陰脾経。身体をめぐる十二経脈の一つ。巻八十二香木類肉桂の注一参照。』とある。私の「肉桂」の注の「足少陰太陰經」の中に記されてあるので、参照されたい。

「十二經《けい》」私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 酪(にふのかゆ)・酥(そ)・醍醐(だいご)・乳腐 (ヨーグルト/バター・精乳・乳清(私の独断)・チーズ)」の注から引く。東洋文庫注に『人体内を縦横に走っている経脈。手の少陽(三焦)、手の少陰(心)、足の少陽(胆)、足の少陰(腎)、手の太陽(小腸)、手の太陰(肺)、足の太陽(膀胱)、足の太陰(脾)、手の陽明(大腸)、足の陽明(胃)、手の厥陰(心包絡)、足の厥陰(肝)、以上を十二経脈という』とある。

「張仲景」東洋文庫後注で、『後漢の人。長沙の大守であったが、一族のほとんどが十年あまりの間に傷寒(惡性伝染病)で亡くなったのに発憤し、『傷寒雑病論』十六巻を著した。』とある。「本草綱目」では、よく彼の記載が引用される。また、循環器・呼吸器・泌尿器・消化器等の障害や、皮膚・婦人疾患などの治法を論じた「金匱要略」(きんきようりゃく)もよく知られる。

「建中湯《けんちゆうたう》」「巣鴨千石皮ふ科」公式サイト内の『漢方薬100「大建中湯(ダイケンチュウトウ)」』によれば、漢方名の「建」は「建立」、「中」は「中焦」、漢方で言う消化器系を指し、「建中湯」は腹部の症状を建て直し、正常化する処方という意とあり、『体力がない人で、おなかが冷えて痛み、腹部膨満感がある場合に用いられ』『血流をよくして』、『おなかを温め、胃腸の働きを活発にすることで症状を改善』するとある。本処方には、「大建中湯」の他に「小建中湯」・「当帰建中湯」がある。

「古今醫統」複数回、既出既注

『「壺棗《つぼなつめ》」【大にして、上、銳き者なり。】』特別な種ではないようである。

『「要棗《こしなつめ》」【大にして、腰、細き者なり。】』同前。

『「櫅棗《しろなつめ》」【色、白くして、熟せる者なり。】』「爾雅」にも載るが、不詳。

「樲棗《さねぶとなつめ》」最初の引用の中で示した。

『「羊矢棗《やうしさう》」【小にして、圓《まろ》く、紫黒色の者≪なり≫。】』「百度百科」には立項されているものの、学名は示されていない。

「五雜組」「五雜組」複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく(一部に手を加えた)。

   *

楓、棗二木皆能通神靈、卜卦者多取爲式盤式局、以楓木爲上、棗心爲下、所謂楓天棗地是也。靈棋經法,須用雷劈棗木爲之、則尤神驗。兵法曰、「楓天棗地、置之槽則馬駭、置之轍則車覆。」。其異如此。蓋神之所棲、亦猶鬼之棲樟柳根也。

   *

「楓《ふう》」これは、絶対に「かへで」(現代仮名遣「かえで」)と訓じてはいけない。先行する「楓」で神経症的に考証した通り、過去の近世以前の中国の本草書に登場する「楓」(フウ:拼音fēng:ファン)であり、この「楓」は、我々に親しいムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer のそれとは、全くの別種の、

ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana

を指すからである。但し、現代では、本邦の「楓」(かえで)の逆移入で、カエデ属に中文名で「楓屬」が与えられている「維基百科」の「楓屬」を参照)ため、カエデ属の種には「楓」がジャカジャカと用いられてしまっているので、注意が必要ではある。

「式盤《しきばん》・式局《しききよく》」ウィキの「式占」によれば(太字・下線は私が施した)、『式占(しきせん)は占いの一種である。特徴は占うにあたって計算を行うときに、式盤(しきばん)あるいは栻(ちょく)と呼ばれる簡易な器具を使用するところにある』。『式盤は天地盤と呼ばれることもあり、天盤と呼ばれる円形の盤と地盤と呼ばれる方形の盤を組み合わせたものが基本形で、円形の天盤が回転する構造となっている。天盤や地盤の形状は、天は円く地は四角いとする中国の天地観に基づいている』。『天盤や地盤には十干、十二支、といった占うために必要な文字や記号が記入されており、天盤の文字や記号を地盤のそれと合わせることで簡単な計算を行ったのと同じ効果が得られる』。『式盤を作成するにあたって、材料は非常に限定されており、天盤では楓(ふう)』『にできるコブである楓人(ふうじん)、地盤では雷に撃たれた棗の木が正しい材料とされている。正しい材料で正しく作成した式盤には呪力があるとされ、調伏などの儀式で使用されることがある』。『代表的な式占には、太乙式(』(たいおつ):『「太乙神数』(たいおつしんすう)『」)、遁甲式(「奇門遁甲」)、六壬式(』『りくじんしき:『「六壬神課」)があり、これらをまとめて三式と呼ぶ。なお』、『これら三式の他に』、『名前だけが伝わっていて具体的な内容が不明の雷公式があり、三式に雷公式を加えて四式と呼ぶことがある。三式それぞれで異なる形態の「式盤」を使用する。六壬式の式盤では』、『地盤の十二支に天盤の十二神や十二天将を合わせるので』十二『の要素を基本とし、遁甲式の式盤は八卦で表される』八『の要素、太乙式の式盤は、十二支に四隅の門を加えた』十六『の要素を基本としている』。『このうち六壬式は、平安時代から鎌倉時代にかけて陰陽師にとって必須の占術であった。陰陽師として名高い安倍晴明は子孫のために』「占事略决」『を残し』ている。『六壬式の式盤では、地盤に十二支、十干、四隅の門、東西南北の四方の門が記入されており、これが二十四山の原型ではないかとする説がある。また』、『六壬式盤の地盤中央に天盤の代わりに匙形の方位磁石を置いたものである『指南』が、後に風水で使用される羅盤の原型ではないかと推測されている』『が、実際の『指南』をみれば』、『頷ける説である』とある。以下、使用フリーの、『「指南」(漢代)六壬式の式盤との関連が推測される』というキャプションのある「指南」盤を以下に(素材は金属である)、

 

Model_si_nan_of_han_dynasty

 

同前でWikiwikiyarou氏作成の『六壬栻盤(りくじんちょくばん)の図』(但し、これは配置を示した印刷物である)を以下に示しておく(ファイル属性が違うので、画像で取り込んでトリミングした)。

 

Rikutyokuban

 

なお、実際に、恐らくは、ナツメ材製であろうと思われる「六壬栻盤」の画像が、たなか牧子氏のブログ「つるの織部屋」の「ナツメ・馬も驚く柿茶色」にあるので、見られたい。ありとあらゆる占いを、私は全く信じないが、一目見て、これ、欲しくなったわい。

「仲思棗(ちうしそう)」「仙棗(せんさう)」偶然乍ら、前注のリンク先の初めの部分にナツメの【生薬名】を連記される中に『チュウシソウ(仲思棗=ナツメ属全般)』とあった。ナットク! なお、「中國哲學書電子化計劃」のここで、「太平廣記」の「草木五」に「仲思棗」があることが判った。一部の表記に手を加えて示す。

   *

仲思棗 信都獻仲思棗四百枝。棗長四五寸、紫色【原本「紫」上有「國」字、「色」下有「細」字、據明鈔本刪。】、皮【「皮」原作「又」、據明鈔本改。】、縐細核。實【「實」字原闕、據明鈔本補。】、肥、有味、賢於青州棗。北齊時、有仙人仲思得此棗、種之。亦名仙棗。時海內唯有數樹。出「大業拾遺」。

   *

「北齋《ほくせい》」(五五〇年~五七七年)南北朝時代の北朝の王朝。東魏の実力者高洋(文宣帝)は、孝静帝を廃して帝位につき、弟高演(孝昭帝)の時代まで北周・陳・突厥(とっけつ)を圧する勢いがあったが、後、寵臣が政治をとり、逆に突厥などの圧迫を受け、北周に滅ぼされるに至った(山川出版社「山川 世界史小辞典」に拠った)。

「廣志」東洋文庫の書名注に、『二巻。晋の郭義恭撰。』とのみある。

「西王母棗《せいわうぼのなつめ》」五世紀の東魏の楊衒之が撰した北魏の都洛陽における仏寺の繁栄の様子を描いた記録「洛陽伽藍記」の中に、

   *

「美俗傳」云、出崑崙山一曰西王母棗、又有仙人桃、其色赤、表裏照徹、得霜即熟。亦出崑崙山一曰王母桃也。

   *

とあるのを見つけた。種の名前ではあるまい。優良個体の美称と採る。先の「西王母の桃」の類いである。]

2024/12/16

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 栗

 

Kuri

 

[やぶちゃん注:中央下方に毬(いが)から出した栗の実二個が描かれてある。その右隣りには「杓子」とキャプションして、まさに「杓子」の絵が描かれてある。これは注で述べたが、「栗楔」(リツケイ)で、栗の普通の実の間の有意に平たい栗を指す。しかし、こんな柄のある形は、逆立ちしても、していない。されば、良安は、うっかり、モノホンの「杓子」(「栗楔」の俗称であるが、実際に、栗材を用いて、杓子を作る)そのものの絵を描いてしまったものか?]

 

くり    篤迦【梵書】

      【和名久利】

【本字㮚】

      毛毬

      【和名以加】

      栗荴【和名久

         利乃之不】

リツ    栗楔【音屑】

      【俗云杓子】

 

本綱栗可種成不可移栽高二三𠀋葉極類櫟四月開花

青黃色長條似胡桃花其實苞生多刺如蝟毛毎枝不下

四五箇苞有青黃赤三色將熟則罅折子出中子或單或

雙或三或四其殼生黃熟紫殼內有膜裹仁九月霜降乃

熟其苞自裂而子墜者乃可久藏苞未裂者易腐也其花

作條大如筯頭長四五寸可以點燈

栗外刺包者名毛毬 栗內薄皮赤色者名栗荴【味澀故曰澀皮】

 山家

  山風に峯のさゝくりはらはらと庭に落ちしく大原の里寂然

 板栗【栗之大者】

 山栗【栗之稍小者】

 錘栗【山栗之圓而末尖者】

 莘栗【圓小如橡子者也詩曰樹之莘栗是也】

 茅栗【栗之稍小如指頭者 一名㧫栗又名抏子和名佐々久利】

 栗楔【一毬三顆其中扁者】

[やぶちゃん注:以上は全文が一字下げで、各個が一字空けに書かれているので、改行した。「詩經」の引用は重大な誤りがあるので、注意。後注で示すが、原詩は「樹之榛栗」である。訓読割注も参照のこと。

栗實【鹹溫】 作粉食勝於菱芡伹飼孩兒令齒不生小兒

 不可多食生則難化熟則滯氣生蟲伹日中曝乾者下

 氣補益

△按栗花五月梅雨中落故俗𤲿墮栗花爲梅雨之訓凡

 栗花長而其子圓豇豆花短而子長不因於物花形也

 丹波船井郡和知之產甚大【俗云父打栗】所謂板栗是乎上

 野下野越後及紀州熊野山中有山栗小扁一歳再三

 結子其樹不大木所謂茅栗是乎

 凡栗材埋土不朽也勝於楠槙之軰然木不甚大不堪

 爲板唯爲𰊃塀之柱佳耳

[やぶちゃん注:「𰊃」は「墻」の異体字。]

 或書曰景行天皇四年淡海國有一枯木殖梢穿空入

 雲問由於國老云神代栗木昔此木枝並山嶽故云並

 枝山又並連髙峯故云並聯山毎年葉落成土土中悉

 栗葉也栗本郡之名亦起于此乎


擣栗  【音刀與擣同】

     【俗云加知久利又云地美】

本綱云栗腎之果補腎之物於五果屬水水潦之年則栗

不熟類相應也以袋盛生栗懸乾毎且喫十餘顆可也蓋

風乾之栗勝於日曝而火煨油炒勝於煮蒸若頓食至飽

反致傷脾矣

 搗栗造法用老栗連殼晒乾稍皺時臼搗去殼及荴皮

 則肉黃白色堅味甜美或浸熱湯及煨灰待軟食亦佳

 或食時用一二顆握於掌稍溫則柔爲乾果之珍物也

 以爲嘉祝之果蓋取勝軍利之義武家特重之

古今醫統云取霜後老栗子日晒乾以新罈先入炒過凉

沙將栗裝入一層沙一層栗約九分滿以沙蓋上用箬一

層蓋之竹片十文字按定覆罈口於地上以黃土封之逐

漸取用不得近酒可留至夏也

栗子炒而不爆法 炒時擧一枚在手中不爆勿令人知

 又法只以一枚咬破蘸香油同衆栗入鍋炒之皆不爆

 銀杏亦然 又法五雜組云栗子於眉上擦三過則燒

 之不爆 又燒栗斫外皮燒之則不爆此捷法也

 

   *

 

くり    篤迦《とくか》【梵書。】

      【和名、「久利」。】

【本字「㮚」。】

      毛毬《もうきう》

      【和名、「以加《いが》」。】

      栗荴《りつぷ》【和名、

      「久利乃之不《くりのしぶ》」。】

リツ    栗楔《りつせつ》【音「屑《セツ》」。】

      【俗、云ふ、「杓子《しやくし》」。】

 

「本綱」に曰はく、『栗は種≪より≫成《なす》べし。移し栽うべからず。高さ、二、三𠀋。葉、極めて櫟《くぬぎ》に類す。四月、花を開く。青黃色。長≪き≫條《すぢ》にして、胡桃(くるみ)の花に似《にる》。其の實、苞生《はうせい》の多き刺(はり)、蝟《はりねずみ》の毛のごとく、枝毎《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]、四、五箇に下らず。苞、青・黃・赤、三色、有り、將に熟せんとする≪に≫、則ち、罅-折(はぢ)けて、子《み》、出づ。中の子、或いは、單《ひとつ》、或いは、雙《ふたつ》、或いは、三つ、或いは、四つ。其の殼、生《わかき》は、黃、熟《じゆく》≪とせ≫ば、紫。殼の內に、膜、有りて、仁《にん》を裹(つゝ)む。九月、霜、降《ふり》て、乃《すなはち》、熟す。其の苞、自裂して、子、墜(をつ[やぶちゃん注:ママ。])る者は、乃《すなはち》、久《ひさし》く藏《つつ》む。苞、未だ裂けざる者は、腐《くさり》易しなり。其の花、條《すぢ》を作《なし》、大(ふと)さ、筯(はし)[やぶちゃん注:箸。]の頭《かしら》のごとく、長さ四、五寸。以《もつて》、燈《ともし》を點ず。』≪と≫。

『栗の外、刺(はり)にて包む者、「毛毬(いが)」と名づく。』。『栗の內《うち》、薄皮、赤色の者を「栗荴」と名づく。』≪と≫。【味、澀(しぶ)き故、「澀皮《しぶかは》」と曰ふ。】[やぶちゃん注:この割注は良安のもの。]

 「山家」

  山風に

    峯のさゝくり

   はらはらと

      庭に落ちしく

           大原の里 寂然

『板栗(いたぐり)』『【栗の大なる者。】』。[やぶちゃん注:以下、栗の形状の異なる物を挙げるので、改行した。送る「≪と≫」は最後以外は略した。]

『山栗《やまぐり》』『【栗の、稍《やや》小さき者。】』。

『錘栗《すいりつ》』『【山栗の、圓《まろ》くして、末《すゑ》、尖れる者。】』。

『莘栗《しんりつ》』『【圓く、小さく、橡《とち》の子《み》のごときなる者なり。「詩」[やぶちゃん注:「詩經」。]に曰《い》う[やぶちゃん注:ママ。]、「之れに樹《う》うるは莘栗」、是れなり。】』。[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:原文起こしでも割注したが、「詩經」の引用は重大な誤りがあるので、注意。後注で示すが、原詩は「樹之莘栗」ではなく、「樹之榛栗」であり、これは、訓読すると、「之れに樹うるは 榛(しん)・栗(りつ)」であり、「莘栗」という栗の名ではない。「榛」は「はしばみ」である。

 茅栗(さゝぐり)【栗の、稍《やや》小《ちさ》く指の頭《かしら》のごとき者。一名、「㧫栗《じりつ》」、又の名、「抏子《がんし》」。和名「佐々久利《ささぐり》」。】[やぶちゃん注:この「茅栗」の一行は、「本草綱目」にはなく、良安が勝手に黙って挿入したものである。こういうやり口(和名「佐々久利」があるから、まだしもだが)は、現在の出版物であれば、直ちに非難されるレベルの勝手な挿入である。

『栗楔《りつせつ》』『【一毬《ひといが》≪に≫三顆《さんくわ》≪にして≫、其の中≪の實の≫扁《ひらたき》者。】』≪と≫。

『栗實(くりのみ)【鹹、溫。】』『粉《こ》と作《なして》、食《く》≪ふと≫、「菱(ひし)」・「芡(みづぶき)」[やぶちゃん注:被子植物門モクレン綱スイレン目スイレン科オニバス属オニバス Euryale ferox 当該ウィキによれば、『中国やインドでは』、『種子を食用としており、そのための栽培をしていることもある』。『また』、『果実や若い葉柄なども食用とされることがある』。『種子は芡実(けんじつ)ともよばれ、滋養・強壮や鎮痛のための生薬として用いられることがある』とある。]より勝れり。伹《ただし》、孩兒《がいじ》の飼《たべ》≪さすれば≫、齒をして生(は)へざらしむ。小兒、多く食すべからず。生《わかき》は、則ち、≪消≫化し難く、熟《じゆく》≪としもの≫は、則ち、氣を滯(とゞこほ)らし、蟲を生ず。伹《ただし》、日中《になか》にて曝-乾《さらしほす》者は、氣を下《くだ》し、補益あり。』≪と≫。

△按ずるに、栗の花、五月、梅-雨(つゆ)の中《うち》、落つ。故《ゆゑ》、俗、「墮栗花」と𤲿《かき》て、「梅雨(つゆ)」の訓《くん》を爲《なす》。凡そ、栗の花は長《ながく》して、其の子《み》、圓《まろ》く、「豇豆(さゝげ)」[やぶちゃん注:双子葉植物綱マメ目マメ科ササゲ属ササゲ亜属ササゲ  Vigna unguiculata 。「大角豆」とも漢字表記する。当該ウィキを見られたい。]の花は、短《みじかく》して、子、長し。物《もの》は、花の形《かたち》に因《よ》らざるなり。丹波、船井郡和知[やぶちゃん注:現在の京都府船井郡京丹波町のこの附近(グーグル・マップ・データ)。和知の地名は残っていないが、諸施設名の中に残る。]の產、甚だ、大≪なり≫【俗、云ふ、「父打栗《ててうちぐり》」。】。所謂《いはゆ》る、「板栗」、是れか。上野《かうづけ》・下野《しもつけ》・越後、及び、紀州熊野の山中に、山栗、有り。小≪さく≫、扁《ひらた》く、一歳に、再(ふたゝび)、三(みたび)[やぶちゃん注:東洋文庫訳では「再三」に『なんかいも』とルビする。]、子を結ぶ。其の樹、大木《たいぼく》ならず。所謂る、「茅栗(さゝぐり)」、是れか。

 凡そ、栗の材は、土に埋《いづまり》て、朽《くち》ざること、楠《くすのき》・槙《まき》の軰《やから》に勝(まさ)る。然《しか》れども、木、甚だには、大(ふと)からず≪して≫、板と爲《す》るに堪へず。唯、𰊃《かきね》・塀《へい》の柱と爲《なし》て、佳《か》なるのみ。

[やぶちゃん注:「𰊃」は「墻」の異体字。]

 或る書に曰はく、『景行天皇四年、淡海(あふみの)國に、一《いつ》の枯木《かれき》、有り。殖《のびたる》梢、空を穿(うが)ち、雲に入《いる》。由《よし》を問へば、國の老、云ふ、「神代《かみよ》の栗の木なり。昔、此の木の枝、山嶽に並ぶ。故に、「並枝山(ひゑの《やま》[やぶちゃん注:ママ。])」と云ふ。又、髙峯《たかみね》を並-連《ならべつらな》る故、「並聯山(ひらの《やま》)」と云《いふ》。毎年、葉、落《おち》て、土と成り、土中《つちなか》、悉く、栗葉なり。」』云云《うんぬん》。栗本郡《くりもとのこほり》の名も亦、此れより起こるか。


擣栗(かちぐり/ぢみ)  【音「刀」。「擣」と同じ。】

     【俗、云ふ、「加知久利《かちぐり》」、又、云ふ、「地美《ぢみ》」。】

[やぶちゃん注:標題「擣栗」の読みは、上が右、下が左に打たれてある。]

「本綱」に云はく、『栗は、腎の果《くわ》≪なり≫。腎を補≪する≫の物、五果に於いて、水に屬す。水潦《すいりやう》の年[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『長雨の年』となっている。]、則ち、栗、熟せず。類《るゐ》、相應《さうおう》すればなり。袋を以つて、生栗《なまぐり》を盛り、懸-乾《かけぼし》≪にし≫、毎且《まいたん》[やぶちゃん注:「且」は「旦」の異体字。毎朝。]十餘顆《じふよくわ》を喫《きつし》て、可なり。蓋し、風-乾《かざぼし》の栗は、日曝《ひざらし》より勝れり。而して、火にて煨《うづみやき》し、油にて、炒《い》り≪たるは≫、煮《に》≪たり≫、蒸《む》≪し≫たるより、勝《すぐれ》たるべし。若《も》し、頓りに、食《くひ》て、飽(あ)くに至れば、反《かへり》て、脾を傷《いたむ》ることを致す。』≪と≫。

 搗栗を造る法。老(ひね)たる栗を用《もちひ》て、殼を連《つら》ね、晒-乾《さらしほし》て、稍《やや》、皺《しば》む時、臼《うす》に搗(つ)きて殼、及び、荴皮(しぶかは)を去れば、則《すなはち》、肉、黃白色、堅《かたく》、味、甜《あま》く美なり。或いは、熱湯に浸し、及び、灰に煨(わい)して[やぶちゃん注:火を起こした灰の中に埋めて、蒸し焼きにして。]、軟《やはら》ぐを待《まち》て、食《くふ》も亦、佳《よ》し。或いは、食《くふ》時、一、二顆《くわ》を用《もちひ》て、掌《てのうち》に握り、稍《やや》、溫《あたたむ》れば、則ち、柔《やはらか》く、乾≪したる≫果《くわ》の珍物《ちんもつ》たり。以つて、嘉祝の果と爲《なす》。蓋し、「勝軍利(かちぐり)」の義を取り、武家、特に之れを重んず。

「古今醫統」に云はく、『霜の後、老《ひね》≪たる≫栗の子を取り、日≪に≫晒乾《さらしほし》、新≪たなる≫罈《タン》[やぶちゃん注:口が小さくて、腹が膨らんだ容器。]を以つて、先《ま》づ、炒《い》り過《すぐし》、凉(すゞ)しき沙《すな》を入れて、栗を將《も》て、一層、裝-入《よそおひいれ》、≪又、≫沙、一層≪入れ≫、栗、約(をほむね[やぶちゃん注:ママ。])≪罈の≫九分≪目まで≫滿ち≪らせ≫、沙を以つて、上に蓋《おほ》ひ、箬《たけのかは》、一層を用て、之れを蓋《ふたし》て、≪その蓋の上を≫竹片《ちくへん》にて、十文字に按《おさ》へ定《さだむ》。≪次いで、≫罈≪の≫口を地上に覆(うつぶ)け、黃土《くわうど》を以つて、之れを封ず。逐漸《ちくぜん》≪として≫[やぶちゃん注:「ゆっくりと変化させるさま」及び「その時間の経過」を指している。]、取用《とりもちふ》。《但し、》酒に近《ちかづ》くことを得ず≪して≫[やぶちゃん注:「決して酒を近くには置かずに」という禁忌条件である。]、留《とどめ》て、夏に至るべし[やぶちゃん注:夏に至るまでは、食さずに、保存するという限定条件である。かなり厳しい製法である。]』≪と≫。

栗≪の≫子を炒りて爆(は)ぜ≪ざさ≫ざる法 炒る時、一枚に《✕→を》擧《とりあげ》、手の中に在《ある》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、爆ぜず。人をして知≪らせしむる≫勿《なか》れ。 又、法。只《ただ》、一枚を以つて、咬(か)み破《やぶ》り、香油《かうゆ》に蘸(ひた)し、衆《しゆ》の栗[やぶちゃん注:他の栗。]同じく、鍋に入れて、之れを炒れば、皆、爆ぜず。銀杏も亦、然《しか》り。 又、法。「五雜組」に云はく、『栗の子、眉《まゆ》の上に於いて、擦(す)ること、三たび過ぐれば、則ち、之れを燒きて、爆ぜず。』≪と≫。 又、栗を燒くに、外皮《そとがは》を斫(はつ)りて、之れを燒く。則ち、爆ぜず。此れ、捷法《せうはう》なり。

 

[やぶちゃん注:ウィキの「クリ」によれば、『クリ(栗、学名:Castanea crenata )は、ブナ科クリ属の落葉高木。クリのうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものは、シバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれる、栽培品種はシバグリに比べて果実が大粒である。また、シバグリも』、『ごく一部では栽培されている。クリの仲間は日本種、中国種、アメリカ種』(和名「アメリカグリ」: Castanea dentata )、『イタリア種』(和名「ヨーロッパグリ」: Castanea sativa )『があるが、植物分類学上の種としてのクリは、日本種(ニホングリ)のことを指す』とあるので、まずは、「本草綱目」の引用からがメインであるから、中国種の、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科クリ属シナグリ Castanea mollissima

を掲げ、次いで、良安の評言部に対しては、

クリ属クリ(ニホングリ) Castanea crenata

を示すこととする。幸い、本邦のウィキの「シナグリ」があるので、それを引く(注記号はカットした)。『支那栗』の『原産は中国大陸』。『日本では主に甘栗(天津甘栗)の名前で知られている実を結ぶクリの一種。中国では』「板栗」『と称される種にあたる。ニホングリのように渋皮がタンニンによって食用部分に密着しないので、煎ったものを手や器具でむいて食べるのが容易である』とある。「維基百科」の「板栗」もリンクさせておく。『中国大陸を原産とする種には』『ヘンリーグリ( Castanea henryi )、モンパーングリ』(和名はドイツ語由来『: Castanea seguinii )があるが』、『シナグリと種が異なる。北アメリカ大陸で栽培されている』。『朝鮮半島では北部の咸鏡道で栽培され』、『中国産より比較的小振りで』「朝鮮栗」『と称される』。『日本では高知県や岐阜県にて品種改良されたものが栽培されている』。『ニホングリと同様、病害虫に強く、ヨーロッパやアメリカ大陸で同地原産の栗と掛け合わせることにより』、『病害虫に強い栗をつくることもされている』。以下、「栽培品種」の項から。品種学名は、論文類を管見しても、見当たらないものが殆んどなので、ここでは、示し得ない。以下のウィキの「クリ」の引用に「品種」の項があり、そこには学名が載る。

  • 哲西栗(『岡山県新見市哲西町で、昭和』九(一九三四)『年に神戸から天津栗を手に入れて日本栗に接木などをしながら』、『土地に合うよう改良した品種で、天津栗より』三『倍も実が大きいにもかかわらず』、『甘味が強い』)
  • 岡山1号(『比較的』、『大型の品種でシナグリの中では豊産である。果肉は鮮やかな濃黄色でニホングリと容易に区別できる』。他に、「岡山2号」「岡山3号」(以下)がある。二〇〇八年に品種登録されている)
  • 岡山3号 (『岡山1号より』、『小柄で』、『天津甘栗と同程度の大きさか』、『やや小さい。果肉は濃黄色で、栗御飯など栗の形を生かした料理に向いている』)

以下、「甘栗」の項であるが、冒頭に独立した『調理法については「石焼き」を参照』とある(但し、そこは広義の料理法で、栗以外の食材も扱って、更に「関連項目」で栗ではない食材のリンクがある)。『甘栗(あまぐり)、天津甘栗(てんしんあまぐり)は、栗を熱した小石の中で砂糖をかけながら煎ったものである。中国大陸では』、『西暦』十三『世紀』頃(モンゴル帝国の全盛期に当たる)、『麦芽糖に栗を混ぜて砂と一緒に釜で焼く「糖炒栗子」が存在し、麦芽糖によって栗の皮を甘くし、見映えをよくするという工夫がなされていた。これは、原理的には現在の甘栗とほぼ同じである。宋代』(九六〇年~一二七九年)『に流行し、都の開封には名物として知られた焼栗屋があったことが』、かの南宋(一一二七年~一二七九年)の政治家で詩人として知られる陸游(一一二五年~一二一〇年)の随筆集「老學庵筆記」『に見えている』とある。「中國哲學書電子化計劃」で同書を調べたところ、「卷二」のここに(一部の表記に手を加えた)、

   *

故都李和炒栗、名聞四方。他人百計效之、終不可及。紹興中、陳福公及錢上閣愷出使虜庭。至燕山、忽有兩人持炒慄各十裹來獻、三節人亦人得一裹、自贊曰、「李和兒也。」。揮涕而去。

   *

とあった。『中国大陸産のシナグリや』、『その焼き栗は中国国内では』、『北京が名産地として知られているが、天津港が伝統的な海外出荷拠点であったため、天津栗または天津甘栗、甘栗の名で日本に輸入されている。しかし、天津市以外からも輸入されるため、これら輸入物を中国栗と呼んでいる。なお、中国では「天津甘栗」とは言わず、「糖炒栗子」、「炒栗子」と呼ばれ、北京名物である。日本以外でも台湾では「天津糖炒栗子」等、「天津」の名を冠して一般的に売られている』とある。

 次いで、本邦のウィキの「クリ」を引く(同前だが、長いので、必要を感じない項目を注無しでカットした箇所がある。下線黒字は私が附した)。『クリのうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものは、シバグリ(柴栗)』(★本項の良安が添えた寂然の歌の『さゝくり』(ささぐり:笹栗)はこの「シバグリ」の異名である★)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれる』。『栽培品種はシバグリに比べて果実が大粒である。また、シバグリもごく一部では栽培されている。』『和名「クリ」の語源は諸説あり、食料として古くから栽培され、果実が黒褐色になるので「黒実(くろみ)」になり、これが転訛して「クリ」と呼ばれるようになったという説、樹皮や殻が栗色というところから樹名になったという説、クリとはもともと「小石」という意味の古語で、かたい殻を持つ落ちた実を小石に例えてクリと呼んだという説などがある。日本では野生種はヤマグリ(山栗)と呼ばれ、果実が小さいことからシバグリ(柴栗)とも言い、これを改良した園芸種がニホングリ(日本栗)である。中国植物名は栗(りつ)。中国のシバグリが、甘栗(天津甘栗)として市販される栗である』。『英語名のチェストナッツ(Chestnut)は、いがの中の果実がいくつかに分かれている様子から、部屋の意味の Chest から命名されている。学名のクリ属を表すラテン語のカスタネア(Castanea)は、実の形から樽を意味するカスクに由来する。日本の栗は、学名でカスタネア・クレナータ( Castanea crenata )と呼ばれる種で、クリ属の中でいわゆる日本種の中心をなすものである』。『日本と朝鮮半島南部原産。北海道西南部から本州、四国、九州の屋久島まで、および朝鮮半島に分布する。暖帯から温帯域に分布し、特に暖帯上部に多産する場合があり、これをクリ帯という。北海道では、石狩低地帯付近まであるが、それより北東部は激減する』。『日当たりの良い山地、丘陵などに自生する。ただし、現在では広く栽培されているため、自然分布との境目が判りにくい場合がある。中華人民共和国東部と台湾でも栽培されている』。『世界的には、クリの仲間は北半球の温帯に広く分布して』いる。『落葉性高木で、高さ』十五『メートル』、『幹の直径は』八十『センチメートル』、『あるいはそれ以上になる。樹皮は暗灰褐色で厚く、老木の樹皮は縦長に深くて長い裂け目を生じる。一年枝は赤褐色で、無毛か』、『少し』、『毛が残る』。『葉は短い葉柄がついて互生し、葉身の長さ』八~十五センチメートル、『幅』三~四センチメートル『の長楕円形か長楕円状披針形で、先端は鋭く尖り、基部は円形からハート形をしており、やや薄くてぱりぱりしている。葉の表は濃い緑色でつやがあり、裏は』、『やや』、『色が薄くて細かい毛で覆われ、淡黄色の腺点が多数ある。葉縁には鋭く突き出した小さな鋸歯が並ぶ。葉は全体にクヌギによく似ているが、鋸歯の先端部はクヌギほど長く伸びない。秋に実が熟すころには、葉も紅葉して色づき始め、黄色や黄褐色に変化して散っていく。地上に落ちた葉は褐色となって、樹下の林床を覆う』。『雌雄同株、雌雄異花で』、六『月を前後する頃に開花する。花序は長さ』十~二十センチメートル『の紐のような穂状で、斜めに立ち上がりながら』、『先は垂れ、全体にクリーム色を帯びた白色である。花序の上部には多数の雄花がつき、下部に』二、三『個の雌花がつく。個々の花は小さいものの、白い花穂が束になって咲くので葉の緑を背景によく目立つ。クリの雄花の匂いは独特で、すこし精』液『臭を帯びた青臭い生臭さを持つのがあり、香りも強く、あたり一帯に漂う』。これは、栗の花に不飽和アルデヒド(unsaturated aldehyde:炭素―炭素不飽和結合(芳香環は除く)を持つアルデヒド類)が含まれており、これが独特の臭いを発生させる。これは、動物の精子が持つ臭(にお)いの成分と構造が似ているため、同じような臭いがするのである。別に、烏賊(イカ)が腐敗し始めた時のような臭いと表現されることもある)『クリは自家受粉しない。ブナ科』Fagaceae『植物は風媒花で花が地味のものが多いが、クリは虫媒花で、雄花の匂いをまき散らしてハエやハチのなかまの昆虫を呼び寄せて、他家の花粉を運ばせる。一般に雌花は』三『個の子房を含み、受精した子房のみが肥大して果実となり、不受精のものは』「しいな」(粃・秕:この場合は、よく実が入らずにしなびた果実を指す語である)『となる』。『秋』の九~十月頃に『実が茶色に成熟すると、いがのある殻斗が』四『分割に裂開して、中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が』一『個から』三『個ずつ現れる。果実は単に「クリ(栗)」、または「栗の実」と呼ばれ、普通は他のブナ科植物の果実であるドングリとは区別される。また、毬状』(きゅうじょう)『の殻斗』(かくと:クヌギ・カシ・ナラなど、ブナ科植物の果実を包む、コップ状、或いは、球形の器官。雌花の苞葉(ほうよう)が融合して形成されたものを指す)『に包まれていることからこの状態が毬果と呼ばれることもあるが、中にある栗の実自体が種子ではなく』、『果実であるため』、『誤りである。実の香りの主成分はメチオナール』(MethionalCH3SCH2CH2CHO)『(サツマイモの香りの主成分)とフラノン』(正しくは「2-Furanone」。C4H4O2)『(他にはイチゴやパイナップルに含まれている)。無胚乳種子である』。『冬芽は枝の先端に仮頂芽、側芽は互生してつき、丸みのある三角形でクリの実に似ている。冬芽の芽鱗は』三、四』『枚』、『つく。葉痕は半円形で、維管束痕は多数ある』。以下、「下位分類」の項。『ニホングリは実は大きいが甘味が少なく、「筑波」「丹沢」などの品種がある。京都産として知られるタンバグリ(丹波栗)は、主に「銀寄」(ぎんよせ)という大ぶりな品種である』。以下、「品種」の小項目より。

●ヤツブサグリ Castanea crenata f. foemina (八房栗。『花穂に多くのイガをつける』)

タンバグリ Castanea crenata f. gigantea (丹波栗。別名「オウグリ」(「王栗」か?)。『栽培品種としては「銀寄」と呼ばれる』)

ハゼグリ Castanea crenata f. imperfecta爆ぜ栗。別名「ハダカグリ」(「裸栗」か?)。『果皮が縦に裂けて内部が見える』)

シダレグリ Castanea crenata f. pendula  枝垂れ栗。『樹幹や枝が屈曲し』、『垂れ下る』)

ハコグリ Castanea crenata f. pleiocarpa(「八個栗」か? 『シノニム 』Castanea crenata var. pleiocarpa 。一『つの殻斗に果実が』六『個から』八『個』、『入る』)

ハナグリ Castanea crenata f. pulchella(花栗。『シノニム』 Castanea crenata var. pulchella 。『花とイガは赤い』)

トゲナシグリ Castanea crenata f. sakyacephala棘無し栗。『シノニム』 Castanea crenata var. sakyacephala 。『殻斗のイガが極端に短い』)

『栽培品種は約』二百『種類以上あり、シバグリが改良されたものが主ではあるが、海外産のクリ類と交雑されたものも存在する。栽培品種は収穫期により早生、中生、晩生に大別される。以下代表的品種』(それぞれの後が下位品種名の一部)。

■早生栗(『丹沢(たんざわ)』・『国見(くにみ)』)

■中生栗(『筑波(つくば)』・『銀寄(ぎんよせ)』・『利平栗(りへいぐり)』)

■晩生栗 (『石鎚(いしづち)』・『岸根(がんね)』)

以下、「栽培」の項。『温帯域に広く分布してきたクリは、それぞれの地方で自生し、古くから栽培されてきた。年間平均気温』摂氏十~十四度、『最低気温が』マイナス二十度『を下回らない地方であれば』、『栽培が可能で、日本においては』、『ほぼ全都道府県でみられる。平安時代には京都の丹波地方で栽培が盛んになり、日本各地に広まった。生産量は、茨城県、熊本県、愛媛県、岐阜県、埼玉県の順に多い。また、名産地として丹波地方(京都府、大阪府、兵庫県)や長野県小布施町、茨城県笠間市が知られる。これらの地域では「丹波栗」のようなブランド化や、クリを使った菓子・スイーツ開発による高付加価値化、イベント開催による観光誘客への活用が進められている』。『シナグリなどと比較して、渋皮剥皮が困難であり、生食用用途では』、『渋皮を直下の果肉とともに削り取る作業が必須である。特にこのことが』、『近年の家庭におけるクリの需要を低下させる原因となってきた。そのような中、農研機構において、シナグリ並に渋皮剥皮性の優れるクリ品種「ぽろたん」(』二〇〇七年『品種登録)が育成された』。以下、日本の主なクリの産地」の前置き。『自治体及び旧自治体は作況調査市町村別データ長期累年一覧による。作況調査』二〇一四『年版によると、沖縄県以外の』四十六『都道府県で収穫実績』があり、『そのうち』三十三『都府県は収穫量』百『トン以上となっている。ブランドでは丹波栗が有名で、兵庫県の丹波・亀岡市から大阪府の能勢町にかけて産出され、文禄年間』(一五九二年~一五九六年)『のころから』、『米に代わるものとして栽培が盛んになったものである』。以下、「利用」の項。『クリの実は人類史上において食料として古くから重用されてきた。縄文時代には食料であるほか、建築材、木具材として極めて重要な樹木であった。果実加工品の例として、甘みがある栗焼酎の醸造や茶飲料、花は蜂蜜を採取する蜜源植物としても利用される』(私は蜂蜜専門店で試食したが、この栗の蜂蜜だけは、苦みがゆるゆると感じられ、アウトだった。後の方にも記載がある)。『長野県上松町のお宮の森裏遺跡の竪穴建物跡からは』一『万』二九〇〇『年前〜』一『万』二七〇〇『年前のクリが出土し、乾燥用の可能性がある穴が開けられた実もあった。縄文時代のクリは静岡県沼津市の遺跡でも見つかっているほか、青森県の三内丸山遺跡から出土したクリの実のDNA分析により、縄文時代には既にクリが栽培されていたことがわかっている』。『クリの実は、一般の果樹が樹上に成る実をもいで採取するのとは異なり、落ちた実をいがに気をつけながら拾う。野生種(ヤマグリ・シバグリ)は、栽培種よりも堅果は小さいが、甘味が強く、非常に濃厚な味わいがある。栽培種のオオグリ(大栗)は、野生種から改良されたものである。ナッツの一種で、実は固い鬼皮に包まれ、鬼皮を剥くと内側は薄い渋皮に覆われている。食材としての旬は』、九~十『月で、実の鬼皮にハリとツヤがあり、虫食いがなく、重みのあるののが商品価値が高い良品とされる』。「延喜式」には『乾燥させて皮を取り除いた「搗栗子(かちぐり)」や蒸して粉にした「平栗子(ひらぐり)」などの記述がある』。『現代においては、ほんのりとした甘さを生かして石焼きにした甘栗、栗飯(栗ご飯)、栗おこわの具、茶碗蒸しの種、菓子類(栗きんとん、栗羊羹、渋甘煮、甘露煮など)の材料に広く使われている。シンプルに、焼き栗や茹で栗にしてもおいしく食べられる』。『ヨーロッパでも広く栽培・利用され、焼き栗の他、マロングラッセに仕立てたり、鶏の中にクリを詰め込んでローストにしたり、煮込み料理などにする。またイタリアではクリを粉にしてパンやクレープ、ケーキ、ニョッキなどに利用する』。『栄養価は高く、可食部』百『グラム』『あたりの熱量が』百六十四『キロカロリー』『と高カロリーで炭水化物を多く含み、ビタミンB・B、ビタミンC、カリウム、葉酸なども多い』。『クリの実を長期間おいておくと、水分が抜けて実が縮んで虫も入ってしまうため、紙などにくるんで冷蔵保存するのがよく、皮を剥いたクリの実は、茹でてから冷凍保存することもできる』。以下、「材木としての用途」の項。『材木は、堅くて重く、腐りにくいという材質を有する。このような性質から建物の柱や土台、鉄道線路の枕木、家具等の指物に使われたが、近年は資源量の不足から入手しづらくなった。成長が早く、よく燃えるので、細い丸太は薪木やシイタケ栽培のほだ木として利用できる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることが、遺跡出土の遺物から分かっている。三内丸山遺跡の』六『本柱の巨大構造物の主柱にも利用されていた。触感は松に似ているが、松より堅く年輪もはっきりしている。強度が高いのが特長だが』、『堅いため』、『加工は難しくなる。楢』(ナラ:ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus )『よりは柔らかい』。以下、「薬用」の項。『中国で薬用とされているクリは甘栗(板栗〈ばんりつ〉)で、日本では』一『種だけ自生するが、これも薬用にされる』。『薬用部位は種仁(栗の実)、葉と、総苞(いが)で、それぞれ栗子(りっし)、栗葉(りつよう)、栗毛毬(りつもうきゅう)と称する。種仁は秋、葉は春から秋、いがは夏から秋に採集して、なるべく緑色が残るように日干し乾燥して薬用に用いる。葉にはカロチンとタンニンを含み、樹皮、渋皮にも多量のタンニンを含む。タンニンは腫れを引かせる消炎作用と、細胞組織を引き締める収斂作用がある』。『民間療法では、食欲不振、下痢、足腰軟弱に、種仁(実)』一『日量』四百『グラムを水に入れて煎じてから』三『回に分けて飲むか、ふつうに食べても良い』。『また、ウルシ、イチジク、ギンナンなどの草かぶれ、クラゲ、チャドクガ、ムカデなどの毒虫刺されや、ただれ、湿疹などに』一『日量』十五~二十『グラムの乾燥葉やイガを』六百『ccの水で半量になるまで』、『とろ火で煎じて冷やし、煎液をガーゼなどに含ませて冷湿布する用法が知られる。葉は浴湯料としても用いる。また、口内炎、のどはれ、扁桃炎にも、この煎液を使ってうがいすると良いと言われている。いが(栗毛毬)を』一『日量』五~十『グラムを』六百『ccの水で煎じて服用もするが、胃腸の熱を冷ます作用があるので、熱がないときには使用禁忌とされる』。『クリは蜂蜜の蜜源植物としても重要である。かつて栗蜜は、色が黒くて、味は劣るとして売れず、ミツバチが越冬するための植物として使われていた。しかし、栗蜜には鉄分などのミネラル類が多く、味も個性的でよい評価に見直されて、ブルーチーズとよく合うと推奨されてイタリア産の栗蜜需要も増えている』。なお、最後に、『日本のクリはシナグリに次いで』、『クリ胴枯病』(くりどうがれびょう:詳しくは同ウィキを参照されたい)『に対する抵抗性が高い』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷二十九」の中で続く「果之一」の「五果類」の「栗」([073-30a]以下)のパッチワークである。

「篤迦《とくか》【梵書。】」「大蔵経データベース」で検索したところ、「牟梨曼陀羅呪經」・「底哩三昧耶不動尊聖者念誦祕密法」・「翻譯名義集」の三作で確認出来た。

『栗荴《りつぷ》【和名、「久利乃之不《くりのしぶ》」。】』これは、栗の実の外皮、「澁皮(しぶかは)」のこと。

『栗楔《りつせつ》【音「屑《セツ》」。】』「本草綱目」の「栗」の「集解」に(「漢籍リポジトリ」[073-31a]の二行目に、

   *

中心扁子爲栗楔

   *

とある。則ち、「(栗の実の)中央の平らな部分の実を『栗楔』と称する」という意である。

『俗、云ふ、「杓子《しやくし》」』これは、栗材を用いて杓子を作ることから。現在も奈良県の地域ブランドとして「大塔坪杓子・栗木細工」があり、栗の木は水に強く、耐久性に富み、使い込むほど木地の味わいが増すという特徴があると、AIの記事にあった。

「山家」「山風に峯のさゝくりはらはらと庭に落ちしく大原の里」「寂然」僧で歌人であった寂然(じゃくせん/じゃくねん)は、西行と親交のあった俗名藤原頼業(よりなり 元永元(一一一八)年頃~没年不明)の僧名。当該ウィキによれば、『藤原北家長良流、丹後守・藤原為忠の四男。官位は従五位下・壱岐守』とされるが、『諸説あり』、『不詳』である。『崇徳朝にて東宮・躰仁親王(のち近衛天皇)の蔵人や左近衛将監を務める。康治元』(一一四一)年、『従五位下に叙爵し、翌康治』二(一一四二)年に『壱岐守に任ぜられる』。遅く』と『も久寿年間』(一一五四年~一一五六年)『に出家し』、『大原に隠棲した。法名を寂然と称し、同じく出家した兄弟の寂念・寂超と共に大原三寂・常盤三寂と呼ばれた。西行・西住』(さいじゅう:生没年未詳。元武士で歌人。俗名、源季正、若しくは、源季政。元武士で僧にして歌人。臨終には西行が立ち合い、遺骨は西行によって高野山に納められた)『とは親友の間柄であったと言われている。また、各地を旅行して讃岐国に流された崇徳院を訪問した事もある。寿永年間』(一一八二年~一一八四年)『には健在であったとみられるが』。『晩年は不詳』。『和歌に優れ私撰集に』「唯心房集」・「寂然法師集」・「法門百首」『があり』、「千載和歌集」『以下の勅撰和歌集に』四十七『首が入首』している。『強い隠逸志向と信仰に裏付けられた閑寂な境地を切り開いた。また、今様にも深く通じていた』と言われる。西行が、当時、いた高野と、大原の間で、この歌を含めて十首のやりとりがあり、それが、西行の「山家集」の「下 雜」に収められている。良安が引いたのは、その五首目の寂然の一首である。西行の歌は、総て、「山深み」を初句とし、寂然の歌は、総て、「大原の里」で終わっている。少し、長いが、両者の二十首を引く(私は西行が好きであるから、少しも面倒とは思わない)。所持する岩波の『日本古典文学大系』版「山家集 金槐和歌集」(一九六一年刊・正字正仮名)を参考に用いた。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なので正字化した。歴史的仮名遣の誤りは補正した。注は、一部を参考底本の風卷景次郞氏の頭注を参考にさせて頂いた。寂然の「かへし」の前を一行空け、良安が引いた一首を太字にした。

   *

   入道寂然、大原に住侍(すみはべ)けるに、

   高野(かうや)より、遣はしける

 山深みさこそあらめと聞えつゝをとあはれなる谷の川水

 山深み眞木(まき)の葉分(わ)くる月影は烈(はげ)しき物の凄きき成(なり)けり

[やぶちゃん注:「眞木(まき)」この場合は、裸子植物門マツ綱ヒノキ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata と考えてよかろう。無論、ヒノキ Chamaecyparis obtusa でも構わない。]

 山深み窓のつれづれ訪ふものは

   色づきそむる黃櫨(はじ)の立枝(たちえだ)

[やぶちゃん注: 「黃櫨(はじ)」ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum 。]

 山ふかみ苔(こけ)の蓆(むしろ)のうへにゐて

   何心(なにごころ)なく啼く猿(ましら)かな

 山ふかみ岩に垂(した)るゝ水溜(た)めん

   かつかつ落つる橡(とち)ひろふほと

[やぶちゃん注:「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。]

 山ふかみけ近き鳥のをとはせで

   物恐ろしきふくろふの聲

 山ふかみ木暗(こぐら)き峯の梢(こずゑ)より

   ものものしくもわたる嵐か

 山ふかみ榾(ほた)伐るなりと聞えつゝ

   ところにきはふ斧のをとかな

 山ふかみ入りて見(み)と見るものは皆

   あはれ催(もよほ)す氣色(けしき)なるかな

[やぶちゃん注:「見(み)と見るもの」山に入って、目に見る、あらゆるもの。]

 山ふかみ馴(な)るゝかせぎのけ近さに

   世(よ)にとをざかる程(ほど)ぞ知らるる

[やぶちゃん注:「かせぎ」鹿の古い異名。角が桛木(かせぎ:木の枝をYの字形に切ったもの。傾くものを支えたり、竿(さお)の先につけて、物を高い所へ押し上げたりするのに用いる)に似ているところから。]

 

   かへし              寂然

 あはれさはかうやと君(きみ)もおもひやれ

   秋暮れがたの大原(おほはら)の里

[やぶちゃん注:「かうや」「かくや」の音便。「高野」の掛詞。]

 ひとりすむおぼろの淸水(しみづ)友とては月をぞすます大原の里

[やぶちゃん注:「おぼろの淸水」「朧の淸水」。大原にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 炭竃(すみがま)のたなびくけぶり一すぢに

   心ぼそきは大原の里

 なにとなく露ぞ零(こぼ)るゝ秋の田に

   引田(ひた)引き鳴らす大原の里

[やぶちゃん注:「引田」鳥や猪などを追い払う鳴子板(なるこいた)。]

 水のをとは枕に落つるこゝちして

   寢覺(ねざめ)がちなる大原の里

 徒(あだ)にふく草の庵(いほり)のあはれより

   袖に露をく大原の里

 山風に峯のさゝ栗(ぐり)はらはらと

   庭(には)に落ち敷く大原の里

 ますらをが爪木(つまぎ)に木通(あけび)さし添へて

   暮(くる)れば歸る大原の里

[やぶちゃん注:「ますらをが」大の男が。「爪木」薪(たきぎ)にする小枝。「木通」アケビ科Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata 。私はアケビが好きだ……小学生の頃、家の向かいの寺や、裏山で、可愛がって呉れた青年が、よく採って、私に呉れたのを思い出す……。]

 葎(むぐら)這(は)ふかどは木の葉に埋(うづ)もれて

   人もさし來(こ)ぬ大原の里

[やぶちゃん注:「かど」「門」。寂然の庵の門。「さし來ぬ」やって来ない。「さし」は語調を強める接頭語。]

 諸共(もろとも)に秋も山路(やまぢ)も深ければ

   鹿(しか)ぞ悲しき大原の里

   *

「『板栗(いたぐり)』『【栗の大なる者。】』。これは、「バンリツ」と音読みするのが正しい。既に示した、シナグリ Castanea mollissima である。「維基百科」の同種が「板栗」である。因みに、東洋文庫訳は非常にまずいことを仕出かしてしまっている。「本草綱目」の引用の冒頭の『栗(りつ)』に対して割注して、『(ブナ科シナグリ)』としたのに、この『板栗(いたくり)』と振り、そこに割注して、『(アマグリ)』とやらかしているからである。これでは、読者の大半は、『ふ~ん、栗には、「シナグリ」という和名種と、「アマグリ」という別な和名種があるんやなあ!』と合点してしまうからである! これは、レッド・カードで、即、退場レベルの大錯誤と言えるのである!

「『山栗《やまぐり》』『【栗の、稍《やや》小さき者。】』」既に引用で示した通り、これは本邦では、山野に野生するCastanea crenata を指すから、中国でも、中国原産のそれの野生のものと、偶然にも一致すると考えてよいだろうと思うのだが、「維基百科」では、この種を「日本栗」として立項して、ただ一言、『日本栗(學名:Castanea crenata )為殼斗科栗屬下的一個種。』とあるのは、如何なることか? いやいや、時珍に従うなら、単にクリ類の実の小さいものを「山栗」と言っているだけのことらしい。

「『錘栗《すいりつ》』『【山栗の、圓《まろ》くして、末《すゑ》、尖れる者。】』」やっと、別種が出た! これは、

ヘンリーグリ(英語:Chinese ChinquapinCastanea henryi

である。個人サイトらしい強力な「Gooの樹木図鑑」のここに、写真と、以上の英名と学名が載り、『落葉高木、樹高』三十メートルとあり、『葉は、長い楕円形、鋸歯があり、先は鋭く尖り、縁は波打つ』。『実は、短い棘があり、球形で食べられる』とあって、「分布」を』『中国北中部。中国名 錐栗』とあった。同学名を標題とする英文ウィキには、複数の画像やボタニカル・イラストがあり、そこには、『中国中南部と南東部原産のクリの一種である。高さ三十メートルに達する木で 、良質の木材の供給源となり、実は、その大きさから想像されるよりも小さい。近縁種の Castanea mollissima(チャイニーズクリ)と同様に、中国で広く栽培されており、近年では、かなりの数の品種が開発されている。』とあった。

「『莘栗《しんりつ》』『【圓く、小さく、橡《とち》の子《み》のごときなる者なり。「詩」に曰《い》う[やぶちゃん注:ママ。]、「之れに樹《う》うるは莘栗」、是れなり。】』」既に原文と訓読で割注して、注意喚起したが、これは、最終的に、時珍の誤りであるように思われる「漢籍リポジトリ」の「栗」の「集解」では、[073-30b]の四~五行目に(推定で句読点を打ち、漢字にも手を加えた。(☜)は私が振った)、

   *

桂陽有莘栗(☜)。叢生實大如杏、仁皮子形色與栗無異。但小耳。又有粤栗(☜)。皆與栗同子而細、惟江湖有之。或云(☜)、卽、莘(☜)也。莘音榛。詩云、「樹之榛栗」、是矣(☜)。

   *

と、あるからである。後で示すが、「詩經」の当該詩は、「榛栗」で熟語ではなく――要は「シンリツ」というクリの名ではなく――「榛栗」ではなくて、「榛」と「栗」なのである。また、この「粤栗」(エツリツ)も「莘栗」も、「維基百科」や「百度百科」には見当らない。そもそも、以上の「本草綱目」の「或云」というのが、甚だ、怪しいのだ。さて、以下、「詩經」の引用された詩の全文と訓読を示す。これは、同書の「鄘」風(ようふう:鄘は周代の国名で、恐らく、現在の河南省汲水鎮の北にあったものと思われ、そこの民間伝承の古歌である)の中の一篇である。所持する恩師である乾一夫先生(惜しくも亡くなられた)の編になる明治書院『中国の名詩鑑賞』「1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年刊)を参考にした。それによれば、『都城の建設をたたえる、いわゆる宮ぼめの歌』とある。

   *

 

 定之方中

 

定之方中 作爲楚宮

揆之以日 作爲楚室

樹之榛栗 椅桐梓漆

爰伐琴瑟

 

升彼虛矣 以望楚矣

望楚與堂 景山與京

降觀于桑

卜云其吉 終然允臧

 

靈雨既零 命彼倌人

星言夙駕 說于桑田

匪直也人 秉心塞淵

騋牝三千

 

   *

 

 定之方中(ていしはうちゆう)

 

定(てい)の中(ちゆう)するに方(あた)りて

楚宮(そきゆう)を作-爲(つく)る

之れを揆(はか)るに日を以つて

楚室(そしつ)を作-爲(つく)る

之れに樹(う)うるは 榛(しん) 栗(りつ)

椅(い) 桐(とう) 梓(し) 漆(しつ)

爰(すなは)ち伐(き)りて琴瑟(きんしつ)とせん

 

彼(か)の虛(きよ)に升(のぼ)りて

以つて楚(そ)を望む

楚と堂(だう)とを望み

山(やま)と京(けい)とを景(あふ)ぎ

降(くだ)りて桑(さう)を觀(み)る

卜(ぼく)に云ふ 其れ 吉(きつ)と

終(すで)に然(こ)れ 允(まこと)に臧(よ)し

 

靈雨(れいう)既に零(ふ)る

彼(か)の倌人(くわんじん)に命(めい)じ

星(は)るれば言(こと)に夙(つと)に駕(が)し

桑田(さうでん)の說(いこ)はんと

匪(か)の直(ちよく)なる人(ひと)は

心(こころ)を秉(と)ること塞淵(さいえん)にして

騋牝(らいひん)は三千(さんぜん)

 

   *

 二箇所、乾先生は文字修正を加えられておられる。二句目と三句目の「作爲」で、現行本では「作于」である。これについて、先生は、注で、『『文選』の李善注(魏都賦・魯霊光殿賦ほか)所引の『詩経』(毛詩)に「作為楚宮」と、「作為」に作るによって改めた。「為」・「于」は音が近く、通用した。』とされる。最後の解説で『この詩は、衛の文公』(当該ウィキを見られたい)『をたたえるものとされる。紀元前六六〇年、衛の国は狄人に滅ぼされ、遺民は黄河を渡って東に移り、漕邑に集まったが、城郭宮室がなかった。文公姫燬』(きき)『は前六五八年(文公の二年)、当時の覇者であった斉の桓公の援助を受けて、国を復興し、新しい国都を楚丘に建設し、人民をそこへ移した。人民は大いに歓び、詩歌を作って頌美』(しょうび)『した。これは、そのころに生まれた歌と考えられる。第一章では、宮室の建設と植樹について叙し、第二章は、築城の前にさかのぼって「升望降観」いわゆる〈国見〉をして、土地の形勢を考察し、最後に占卜によって国都を定めたことを追述し、第三章に至って、文公その人の嘉賞に及ぶ。全三章の構成も、いたって巧妙である。』とある。以下、先生の訳を引く。

   《引用開始》

 

定の星が真南(まみなみ)になるとき、楚丘の宮室を作る。太陽で方角を測り、楚丘の宮室を作る。植える木は榛(はしばみ)・栗(くり)に、椅(いいぎり)・桐(きり)・梓(あずさ)・漆(うるし)よ。いずれは伐(き)って琴瑟(こと)つくろう。

あの丘に登って、楚丘をながめた。楚丘と堂邑をながめ、山と高い丘を仰ぎみ、下へ降りては桑林を見廻した。占卜(うらない)の卦は「吉」と出た、まことにここは好い土地だ。

よい雨も降った。あの下役人に命令して、晴れたら早朝に馬車したてさせ、そして桑林にいこわれる。あの徳ある人は、心が穏やかで美しく、馬を三千頭もお持ち。

 

   《引用終了》

幾つかの先生の語注を引く。

◎「定」は、『星の名。いわゆる二十八宿の一で、ペガスス座。この星は『爾誰』釈天に、「営室は之を定と謂ふ」とあるように、営宰星と呼ばれる。』とある。ウィキの「二十八宿」によれば、『定宿』は現在の『ペガススの四辺形の西辺』相当で、『距星』(注に『明代から清代にかけて西洋のイエズス会士の観測を元に同定したもの。年代によって異なるものもある。また学者によって異説があるものもある』とある)は『ペガスス座α星』であり、『吉凶』には、吉のみが載り、『井戸掘り』・『祈願始め』・『結婚』・『祭祀』・『祝事』とある。

◎「方中」は、『東西に片寄らず』、『正中の位置に当たることをいう。陰暦の十月あるいは十一月には、定星が黄昏時に出て真南にあり、東西に片寄らない。古人はこの時を宮室造営の時とした。』とある。

◎「楚宮」現在の河南省周口市『淮陽県の西南にある』とある。淮陽県はここ(グーグル・マップ・データ)。

『○榛・栗・椅・桐・梓・漆 すべて樹木の名。榛(はしばみ)と栗の二木の果実は、祭祀に供せられた。椅。桐の両木は琴瑟を作ることができ、梓・漆もまた用器を作るのに必需の材料。』とある。★「榛」はブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii ★「榛栗」(シンリツ)では、断じて、ないのである。「椅」はキントラノオ目ヤナギ科イイギリ(飯桐)属イイギリ Idesia polycarpa「維基百科」の同種の「山桐子」に、別名として『椅樹』・『桐椅』がある。「梓」は先行する「梓」で考証したが、「梓」は中国では、古くは、キササゲ属 Catalpa の複数の種を総称する語として存在した、推定した。「漆」はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 。先行する「𣾰」を見られたい。

◎「琴瑟」先行する「楸」の私の注の「琴」と「瑟」の注を参照されたい。

◎「京」『人の居る高丘。古代人、殊に貴族階級の者は高い丘の上に住居をかまえたのである。』とある。

◎「命」『「命」と「令」は本来同語で、両字は同義を表す異体字にすぎない』とある。

◎「三千」中国お得意の誇張表現。多いことを言う。

・『茅栗(さゝぐり)【栗の、稍《やや》小《ちさ》く指の頭《かしら》のごとき者。一名、「㧫栗《じりつ》」、又の名、「抏子《がんし》」。和名「佐々久利《ささぐり》」。】』割注を繰り返すが、この「茅栗」の一行は、「本草綱目」にはなく、良安が勝手に黙って挿入したものである。こういうやり口(和名「佐々久利」があるから、まだしもだが)は、現在の出版物であれば、直ちに非難されるレベルの勝手な挿入である。而して、良安は大変な間違いを犯している。彼の言う「㧫栗《じりつ》」・「抏子《がんし》」をどこから引っ張り出したか判らぬが、恐らく、この漢字表記からは、中国の本草書からのようにも思われはする。しかし、彼は『和名「佐々久利《ささぐり》」』としているから、これは、種名ではなく、単に「実の小さい栗」の意で、既に述べたクリ(栗、学名:Castanea crenata )のうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものを指す「シバグリ(柴栗)」の異名に過ぎない。ところが、「本草綱目」の「茅栗」(「さゝぐり」という和訓は誤りで、「チリツ」と読まねばならない)は、ゼンゼン、チャウねんで! これは、先に出したクリの別種である、ヘンリーグリ(英語:Chinese ChinquapinCastanea henryi なんやで!!!

「『栗楔《りつせつ》』『【一毬《ひといが》≪に≫三顆《さんくわ》≪にして≫、其の中≪の實の≫扁《ひらたき》者。】』」既出既注。種の名ではなく、「栗の実の中央の平らな実の部分」指す熟語に過ぎぬ。

「丹波、船井郡和知の產、甚だ、大≪なり≫【俗、云ふ、「父打栗《ててうちぐり》」。】」サイト「足立音衛門オンラインショップ」の「地元のブランド『大粒丹波栗』」(本店:京都府福知山市内記(ないき)。ここ。グーグル・マップ・データ)によれば、『丹波栗の名は丹波で産出された大栗を指しますが、当時の品種には、特大級を誇る『長興(光)寺』や『テテウチ(父打栗)』などが有名です。父打栗の由来には諸説あり(同じ名前でも特性などに地域差も見受けられます)、正確なところは謎のままですが、前者の長興寺は亀岡長興寺の僧が文禄年間』(一五九二年~一五九六年)『に広島から持ち帰ったという伝承があります』。『 江戸時代後半となると、接ぎ木など人為的な品種改良により『銀寄』』(ぎんよせ)『種などが生まれるようになりました』。『丹波栗を世に知らしめた、その二つの栗ですが、長興寺は栽培の難しさや収穫期の遅さで、テテウチは小粒といった理由などから、現在では殆ど作られていません』とあった。「日本国語大辞典」では、「ててうちぐり【出落栗・父打栗】」で、「出て落ち栗」とし、『「たんばぐり(丹波栗)」の異名。てておちぐり』とあり、個人サイト「丹波霧の里ブログ」の『手々打栗「爪あと栗」伝説 丹波市』に考証が詳しくあり、『栗《カチグリ:薫蒸式の高級品で正月・勝(カチ)に通じるところから武士の出陣時に用いられた》の一種。ててうち栗にも諸説ある』とされ、『手々打栗「爪あと栗」伝説の紹介。てんでに取る・手中に満つる意味で手内栗とも、「栗苞 自ら裂けて子落ちる」意味から落栗とも「鼓打」から転化したとの説も…。「鼓打」は子打ち…から…父打ちに転化したものか!?「父(てて)打ち栗」とも』。『また』、『用明天皇の西国巡幸の際の逸話として・手ずからの』「爪あと」』とする説があり、『栗を村人が「お手植え栗」として育て「天々打栗」と呼んだとの別伝説もある。正平』六/観応二(一三五一)年、『桜井直常(足利氏一族だが』、「観応の擾乱」の際『に直義に付き』、『義詮と戦うが』、『後』、『義詮に帰順した』。『(…が詳細は割愛)等との戦いに敗れ』、『京を追われた足利尊氏親子は栗作郷の久下氏を頼って丹波国岩屋の石龕寺へ落ちて来た。尊氏が九州へ落ち延びる出兵に際し』、『此処に留まった義詮護衛に仁木頼章(後:初代丹波守護・高見城主)』の『弟の四郎(和泉守)義長(鴨野城・泉山城主!?)地侍・僧兵等』二千『余騎が石龕寺』(せきがんじ)『に留まった。義詮に寺僧が差し出した丹波(大粒)栗に「勝栗」のことを思い出し』、『「都をば出て落ち栗の芽もあらば世にかち栗とならぬものかは」と詠み』、『栗に爪の跡をつけ』、『「この栗の生い茂るがごとく 我が足利の旋風を天下に靡びかさん 再び余が帰りくる日までに繁く実のれ」と。尊氏が再挙の旗を靡かせ』、『九州を立ち、湊川での一戦では楠勢を破り天下に号令する頃には』、『栗は芽を吹き実をつけたが、不思議なことに栗の実に爪痕が鮮やかにのこる手づからの爪痕栗の奇形は』、『「都をば出て落ち栗の…」から』「手々打栗」『と名付けられ、岩屋の里に産されている筈?の「爪あと栗(手々打栗)」も、製造に手間暇の掛かる』「搗栗(かちぐり)『も其の名を聴くことも今は殆どなくなった…が』「石龕寺もみじまつり」『の武者行列は尊氏が九州より凱旋し』、『石龕寺の毘沙門堂に祈願成就の報告に参内する様子を伝えたもの…』。『その実を貰い受け』、『他の土地に植えても同じようには育たなかった…この栗の原木は枯れ』、『栗のいわれを書いた版木』『が残されている。用明天皇』(五八五年~五八七年)『の頃より』、『大粒の丹波栗は朝廷に寄進されていたと云われ、丹波岩屋・栗作郷(久下・上久下地区)は主産地だったが栗の病気?で絶滅状態!!…』『産地は』「銀寄」『等品種の伝播により大阪能勢・三田・京都和知や亀岡に移ってしまったが、石龕寺に至る岩屋集落最奥部の「かつえ坂(左右一帯は栗園)」登り口にある栗園には丹波大粒栗の代表的な「テラウチ・長光寺・手々打栗も」数本が品種伝播・研究等に栽培育成され』、十『数年経つが…!現状を知らない』とあった。

「所謂《いはゆ》る、「板栗」、是れか」誤り。既に述べた通り、「板栗」はシナグリ Castanea mollissima である。

『上野《かうづけ》・下野《しもつけ》・越後、及び、紀州熊野の山中に、山栗、有り。小≪さく≫、扁《ひらた》く、一歳に、再(ふたゝび)、三(みたび)、子を結ぶ。其の樹、大木《たいぼく》ならず。所謂る、「茅栗(さゝぐり)」、是れか』これは、正しいと思われる。

「或る書に曰はく、『景行天皇四年、淡海(あふみの)國に、一《いつ》の枯木《かれき》、有り。殖《のびたる》梢、空を穿(うが)ち、雲に入《いる》。由《よし》を問へば、國の老、云ふ、「神代《かみよ》の栗の木なり。昔、此の木の枝、山嶽に並ぶ。故に、「並枝山(ひゑの《やま》[やぶちゃん注:ママ。])」と云ふ。又、髙峯《たかみね》を並-連《ならべつらな》る故、「並聯山(ひらの《やま》)」と云《いふ》。毎年、葉、落《おち》て、土と成り、土中《つちなか》、悉く、栗葉なり。」』云云《うんぬん》」南方熊楠が「南方閑話 巨樹の翁の話(その「三」)」(私の電子化注)で引用しているので(「或る書」とは偽書とする説もある「先代舊事本紀」である)、そちらの原文と私の注を見られたい。

「栗本郡《くりもとのこほり》」滋賀県(近江國)にあった郡。後に「栗太郡(くりたのこほり)」と変わった。旧郡域・変遷は当該ウィキを見られたい。

「擣栗(かちぐり/ぢみ)」「ぢみ」は「滋味」(「栄養になる美味い食べ物」の意。但し、これだと「じみ」である)で、この場合は「勝ち栗」の別称である。

「古今醫統」「複数回、既出既注。「梅」の私の注を見られたい。]

2024/12/14

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 箒桃

 

Hanamomo-genpeisidare

 

[やぶちゃん注:図にキャプションがある。右手の実の生っている木には、「箒桃」、左の木には、「𮈔埀桃(しだれ《もも》)」とあるが、実らしきものは描かれていない。]

 

はゝきもゝ

       【波々木毛々】

箒桃

 

 

△按箒挑葉細長而木枝葉狀似箒草故俗以爲名三月

 開花千葉紅白相襍其桃味甘美近頃出於賀州

一種有𮈔埀桃其枝下埀桃亦𣓃𣓃出於播州其花白單

 葉或有淡紅帶紫千葉者

 

   *

 

はゝきもゝ

       【「波々木毛々(ははきもも)」。】

箒桃

 

 

△按ずるに、箒挑は、葉、細長≪く≫して、木枝・葉の狀《かたち》、「箒草《ははきぐさ》」に似《にる》。故、俗、以つて、名と爲《なす》。三月、花を開く。千葉《やへ》≪に≫して、紅白、相ひ襍《あつま》り、其の桃、味、甘美なり。近頃、賀州[やぶちゃん注:「伊賀國」。]に出づ。

一種、「𮈔埀桃(しだれもゝ)」、有り。枝、下《さが》り埀《たれ》、桃も亦、𣓃𣓃《ねいねい》たり[やぶちゃん注:𣓃」の音は、あるデータでは「ダイ」「ネ」とするが、現代中国語のピンイン「nèi」(ネェィ)(中文のサイト「異體字字典」のここ)に近い音で示した。「中國哲學書電子化計劃」のここによれば、意味は、「康熙字典」の「木部 八」に、『𣓃:《集韻》《類篇》𠀤奴對切,音芮。𣓃𣓃,草木垂實貌。』とあることから、前述の枝と同じく、「実も垂れ下がる」の意である。東洋文庫訳も『桃も垂れ下って成る。』とある。]。播州に出づ。其の花、白の單葉(ひと≪へ≫)、或≪いは≫、淡紅に紫を帶《おび》て、千葉《やへ》≪の≫者、有り。

 

[やぶちゃん注:この「箒桃」「ははきもも」は、花を観賞するために改良されたモモの園芸品種で、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属(スモモ属)ハナモモ Prunus persica  'Fastigiata'

である。当該ウィキによれば、『原産地は中国。花を観賞するために改良されたモモで、花つきがよいため、主に花を観賞する目的で庭木などによく利用される。日本で数多くの品種改良が行われ、種類が豊富。観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在の園芸品種の多くも江戸時代のものが多い。サクラの開花前に咲くことが多い。長野県では桜より遅く』、四『月中旬から』五『月初めにかけて、各地の名所で観られる。桃の節句(雛祭り)に飾られる。結実するが実は小さく、食用には適さない。最近では、日本国外でもよく利用される』。『樹高』は約一七メートル、『花期』三~四『月』、『花色』は『赤、桃色、白、紅白咲き分け』がある。『花径』は三~五センチメートルである。花には、『一重、八重咲きがあり、樹形は立性』(たちせい:植物の枝や茎が上に向かって伸びる性質を指す)『で、枝垂れ性、ほうき立ち性、矮性などもある』。『日当たりと排水の良い場所に』十一『月から』十二『月』、『または』三『月初めくらいに植え付ける。挿し木でも増やせる。湿気に弱いため、高植えにする。病虫害が多いため、アブラムシ、カイガラムシに注意する。縮葉病、灰星病、穿孔細菌病などにかかりやすい。酷い乾燥期以外は、庭植えのハナモモには水やりは不要。強剪定は避ける』とある。ネットを見ると、現代では、この種から更に品種改良された花桃類が存在していることが判る。なお、サイト「産直プライム」の「【桃と花桃の違い】花桃の実は食べられる?おいしい食べ方を解説」によれば、『桃は食用に栽培される「実桃」と、観賞用に栽培される「花桃」に大別されます。実桃は果実が大きく、甘みがあり、美味しく食べることができます。一方、花桃はその名の通り、美しい花を楽しむためのもので、実は小さく味もあまりありません』。『また、その生育環境も異なります。実桃は比較的暖かい地域を好み、花桃は寒冷地に強いという特徴があります。』とあり、『花桃の実は、その見た目や香りが通常の桃と似ているため、食べられるのか疑問に思う方も多いでしょう。花桃の実は食用として出回ることはほとんどありませんが、食べられます。しかし、一部の種類では大きくならず、また食べても美味しくないとされることが多いです』。『さらに注意点として、完熟していない果実には身体に良くない成分が含まれることもあるため、食べる際は十分に成熟させることが大切です。花桃の実は、美味しさを追求するよりも、その美しい花を楽しむために栽培されることが一般的です。そのため、果実の味わいよりも花の美しさを重視する方にとっては、花桃は非常に魅力的な植物といえるでしょう。』とあり、『花桃の実は、食べるためには完全に熟すまで待つことが大切です。未熟な状態では体に良くない成分が含まれる可能性があるため、食べる際には注意が必要です』。『完熟した花桃の実は、そのまま食べるのはもちろん、ジャムや砂糖漬けにすると美味しくいただけます。特に、花桃の実を使ったジャムは、その独特の風味と甘さが絶妙にマッチして、トーストやヨーグルトとの相性も抜群です』。『また、花桃の実を使用した料理レシピもあります。例えば、甘酸っぱい味わいの花桃のコンポートは、デザートやお茶うけとして楽しむことができます』。『ただし、花桃の実が完全に熟すまで待つこと、そして未熟なものは食べないようにすることを忘れないでくださいね。』とある。

 二つ目の「𮈔埀桃(しだれもゝ)」も園芸品種で、「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「げんぺいしだれ(源平枝垂)」に、Prunus persica 'Genpeishidare' とある。同ページには、「誌」の項に、『『花壇地錦抄』』(元禄八(一六九五)年)『巻二「桃のるひ」に、「源平桃(げんぺいたう) 白赤さきわけ、八重ひとへあり」と、また「しだれ桃(もゝ) もゝいろ、八重一重有、大りん。木やなぎのことくしだるゝ」と。』とあり、また、『宮崎安貞『農業全書』元禄一〇(一六九七)年に、「又』、『源平桃とて一枝に紅白雑り咲くあり。是を唐人は日月桃と記せり」と。』とある。ネットでは、多数の記載があるが、現行の人気のある花桃である「源平しだれ桃」と、良安の言っているそれが、全く同一品種であるかどうかは、データが不足しており、断言は出来ない。なお、現行の「源平しだれ桃」は実も食べられるとある。

 なお、この項を以って、「桃」類の項は終わっている。次は「栗」である。う~、結構、長いぞ!

2024/12/13

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 金絲桃

 

Biyouyanagi

 

きんしとう

 

金絲桃

 

 

[やぶちゃん注:「きんしとう」はママ。]

 

木本花詩譜云金絲桃花如桃而心有黃鬚鋪散於外若

金絲然亦以根下剪開分種

 

   *

 

きんしとう

 

金絲桃

 

 

「木本花詩譜」に云はく、『金絲桃、花、桃のごとくして、心《しん》[やぶちゃん注:芯。]に黃なる鬚《ひげ》有りて、外《そと》に鋪散《しきさん》じて、金≪の≫絲《いと》のごとく、然《しか》り。亦、根≪の≫下を以つて、剪《き》り開《ひらき》て、種《たね》を分ける。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、桃では全くなく、

双子葉植物綱キントラノオ(金虎尾)目オトギリソウ(弟切草)科オトギリソウ属ビヨウヤナギ節 sect. Ascyreia ビヨウヤナギ(未央柳) Hypericum monogynum

である。臺灣正體で同属の「金絲桃屬」を見られたい。ウィキの「ビヨウヤナギ」を引く(注記号はカットした)。『半落葉』『広葉』『低木。ビョウヤナギとも通称するが、園芸的な呼び名であり植物名としては誤り』である。『枝先がやや垂れ下がり』、『葉がヤナギに似ているので、ビヨウヤナギと呼ばれるが、ヤナギの仲間ではない』。『中国では金糸桃と呼ばれている。ビヨウヤナギに未央柳を当てるのは日本の通称名。由来は、白居易の「長恨歌」に』、

   *

太液芙蓉未央柳

芙蓉如面柳如眉

對此如何不淚垂

 太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳

 芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし

 此れに對して 如何(いかん)ぞ 淚 垂れざらん

   *

★全詩は私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を見られたい。

『と、玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて』、『未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を、この故事になぞらえて未央柳と呼ぶようになったといわれている』。『中国原産。日本へは江戸時代に中国から渡来した』(正確には、本邦に渡来したのは、宝永五(一七〇八)年)頃とされる。本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年であるから、良安の附言がないは頷かれる。『古くから庭木や生け垣、公園樹としてよく植えられ、花材としてもよく用いられる』。『高さは』一・五『メートル』『前後、よく枝分かれして株立ち状になる。葉は十字対生する。葉身は長さ』五『センチメートル 』、『幅』二十五『ミリメートル』『の披針状の長楕円形で、中央部が最も幅広く、葉質は薄くてやわらかい。冬場の間も落葉せずに残っており、新葉が出ると同時に古い葉が落ちる。葉縁に鋸歯はなく、基部が茎を抱く』。『花期は』六~七『月ごろで、直径』五センチメートル『程度の鮮やかな黄色の』五『枚の花弁のある花を』、『多数』、『枝先に咲かせる。花弁はくさび形で、特に長い雄蕊が多数』、『つき、よく目立つのが特徴的である』。『これら雄蕊の基部は』五『つの束になっていて、雌蕊の先端は』五『つに裂けている。果実は円錐形で、先端に萼片を残す』。『一見してよく似ている植物にキンシバイ』(金糸梅:ビヨウヤナギ節キンシバイ Hypericum patulum )『があるが、こちらは』、『葉が披針形で基部が最も幅広く、普通に平面的に対生しており、花が小ぶりで雄しべが長くないので容易に区別できる』。『全草に消炎、利尿、鎮痛の効果があるといわれている。特に、全草を煎じて飲むと、腎臓結石を下す効果があるとされ、婦人病の薬としても利用されているといわれる。虫刺されに、葉を揉んで汁を患部につけると、効果があるといわれる』とある。

「木本花詩譜」東洋文庫の巻末の「書名注」を参考にすると、まず、「木本花詩譜」に『画譜』の中の『木本花譜』一巻のことであろうか。』とした次に、「木本画譜」を挙げ、その『『木本花譜』と同じものを指すか。』とする。而して、「画譜」は複数回既出既注で、再掲すると、「八種畫譜」。明の黄鳳池の編。「唐詩五言畫譜」・「新鐫六言唐詩畫譜」・「唐詩七言畫譜」・「梅竹蘭菊四譜」・「新鐫木本花鳥譜」・「新鐫草本花詩譜」・「唐六如畫譜」・「選刻扇譜」から成るものである。

……それにしても、またしても、東洋文庫訳は、桃じゃないのに、シカトして訳だけで、種同定を、全く、していない。やっぱり、ダメだな、東洋史専攻じゃ……

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 阿面桃

 

Amond

 

あめんとう 正字未詳

 

阿面桃

     【用巴且杏名

      阿女牟止宇

      今人以此桃

      爲同名者不

      知其𢴃也】

[やぶちゃん注:「あめんとう」はママ。「用巴且」の「且」は「旦」の異体字だが、紛らわしいので、訓読では、「旦」に代えた。]

 

△按阿靣桃樹髙不過四五尺矮勁葉亦厚深綠色花小

 單葉粘枝繁重開淡紅色三月花落生葉其實百千攅

 生時摘去其繁者一朶纔有四五顆則甚大冬熟肉軟

 而甘能離核其核眞紅色種之易生翌年髙尺餘而開

 花未見其大木蓋此與西王母桃一類二種也

 

   *

 

あめんとう 正字、未だ詳かならず。

 

阿面桃

     【「巴旦杏《はたんきやう》」を用《もち

      ひ》て、「阿女牟止宇《あめんどう》」

      と名づく。今≪の≫人、此の桃《もも》

      を以つて、同名と爲すは、其の𢴃《よ

      りどころ》≪を≫知らざるなり。】

 

△按ずるに、阿靣桃《あめんたう》≪の≫樹、髙さ、四、五尺に過ぎず。矮(ひき)く[やぶちゃん注:「低く」。]、勁(たくまし)く、葉も亦、厚く、深綠色。花、小《ちさ》く、單葉《ひとへ》。枝に粘《ねん》じて、繁重《しげりかさなり》≪て≫、開く。淡紅色。三月、花、落ちて、葉を生ず。其の實、百千、攅(あつ)まり、生ず。時(よりより)、其の繁≪れる≫者を摘(むし)り去《さり》て、一朶《ひとふさ》、纔《わづか》に、四、五顆《くわ》有る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、甚≪だ≫大≪なり≫。冬、熟して、肉、軟《やはらか》にして、甘く、能《よ》く、核《さね》、離《はな》る。其の核、眞紅色。之れを種《うゑ》て、生(は)へ[やぶちゃん注:ママ。]易く、翌年、髙さ、尺餘にして、花を開く。未だ其の大なる木を見ず。蓋し、此れ、「西王母《せいわうぼ》≪の≫桃」と、一類≪にして≫、二種≪なる≫や。

 

[やぶちゃん注:これは、和名音から推測される通り、

双子葉植物綱バラ目バラ科モモ亜科サクラ属アーモンド cerasus dulcis

である。アーモンドは、本邦には、江戸時代初期にポルトガル船で種子が、明治時代に生木が渡来したと伝えられている。既に、先行する「巴且杏」で立項されてあるので、そちらの注を見られたいが、良安は、何故、そちらとの比較考証を、もっと、ディグしなかったのか、正直、解せない。而して、スライドして、前項の中国伝説の「西王母の桃」の別種であろうか? と袋小路に入ってしまっているのだ。これでは、語るに堕ちたと言わざるを得ない。その神経症的な世界には、ちょっと、私は足を踏み入れる余裕はない。そっけなくて、悪しからず。

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 西王母桃

 

Seioubonomomo

 

せいわうほのもゝ 冬桃

         崑崙桃

         仙人桃

西王母桃

 

 

本綱西王母桃形如䒷蔞表裏徹赤得霜始熟

△按今名西王母桃者其樹葉實皆與挑無異伹桃生不

 三年者無花此桃種子生翌年開花淡紅色千葉而多

 結子大抵千葉者不結此一異也

漢書云武帝時一足青鳥來帝前止東方朔曰當來西王

母隱身而王母來奉桃實二七枚是三千年一實上界果

隱屛風後者三盗食之耳

 此桃冬熟以異常好事者誇爲西王母桃乎

                              躬恆

  拾遺三ちとせになるてふ挑のことしより花咲く春にあひにけるかな

 

   *

 

せいわうぼのもゝ 冬桃《とうたう》

         崑崙桃《こんろんたう》

         仙人桃《せんにんたう》

西王母桃

 

 

「本綱」に曰はく、『西王母≪の≫桃は、形、「䒷蔞《かつろう》」のごとく、表裏、徹(とほ)りて、赤。霜《しも》を得て、始めて、熟す。』≪と≫。[やぶちゃん注:「䒷蔞」双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属キカラスウリ基本変種チョウセンカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. kirilowii を指す。グーグル画像検索「Trichosanthes kirilowii var. kirilowii seeds」をリンクさせておく。カラスウリより、遙かにずんぐりした丸い実であることが、確認出来る。]

△按ずるに、今、「西王母≪の≫桃」と名づくる者、其の樹・葉・實、皆、挑と異なること、無し。伹《ただし》、桃は生《しょうじ》して[やぶちゃん注:芽生えて。]、三年ならざれば、花、無≪なし≫。此の桃、子《み》を種《うゑて》、生(《め》ば)へて[やぶちゃん注:ママ。]、翌年、花、開く。淡紅色、千葉《やへ》にして、多く、子を結ぶ。大抵、千葉の者は子を結ばざる≪故≫、此れ、一異なり。

「漢書」に云はく、『武帝の時、一≪本≫足≪の≫青≪き≫鳥、來り、帝の前に止《とま》る。東方朔《とうばうさく/とうほうさく》、曰はく、「當に、西王母、來《きた》るべし。」と云ひて[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、≪帝、≫身を隱す。而るに、王母、來《きたり》て、桃の實、二七[やぶちゃん注:後の割注参照。]枚《まい》を、奉る。是れ、「三千年に一たび、實のる。」と云《いひ》て[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、上界《じやうかい》の果(このみ)なり。屛風の後ろに隱れたる者[やぶちゃん注:東洋文庫の割注によれば、この「者」とは、東方朔とする。]、三つ、盗みて、之れを食ふのみ』≪と≫。

[やぶちゃん注:以上の「漢書」からとする引用は、東洋文庫の後注で、『『漢書』には見当らない。類似の話は『没武故事』(後漢の班固撰という)、『博物志』(晋の張華撰)、日本の『唐物語』(鎌倉期のもの)にある』とあり、「二七枚」の不審な部分については、熊谷市の文化財担当者たちによって運営されているサイト内の「コラム5 桃(その2)」の冒頭に(太字は私が附した)、

   《引用開始》

『漢武故事』14-17(前野:1968)―中国後漢代班田(32~921)著と伝わる。

 天界から降りた西王母に、漢の武帝が不死の薬を請います。西王母は「帝は欲心が多いゆえ、不死の薬はまだ得られぬ」と断ります。そして、七つの桃のうち二つを食べ、五つを武帝に与えて、去ります。その後、西王母は、武帝に使者を遣わし、三つの桃を武帝に渡し、「食せば人寿の極限まで生きられる」と教えます。しかし、実際には武帝は六十余歳で死んでしまいます。

   《引用開始》

とあることで、氷解した。なお、「漢武故事」も所持する抄本があり、「唐物語」も正字正仮名のものを所持しているので、後注で全文を示す。

 此の桃、冬、熟して、常と異なるに以つて、好事(こんず)[やぶちゃん注:通常は「こうず」であるが、かくも読む。]の者、誇《ほこり》て、「西王母が桃」と爲《す》るか。

 「拾遺」

   三《み》ちとせに

      なるてふ桃の

    ことしより

     花咲く春に

         あひにけるかな

                 躬恆《みつね》

 

[やぶちゃん注:西王母桃」は実在するものではなく、本文に現われた中国古代の伝説上の神仙の桃である。但し、中国の実在する桃のモデル種としては、

バラ目バラ科モモ亜科スモモ属モモ品種バントウ(蟠桃)Prunus persica f. compressa (或いは、 Prunus persica var. platycarpa

が当てられる。「維基百科」のこの実在種「蟠桃」の冒頭梗概で、「西遊記」を引用した上、「文獻記載」には、本種をモデルとしたと推定される、「論衡」の引用する「山海經」を始めとして、多数の古書の引用を見ることが出来る。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『バントウ(蟠桃)は、白い果肉と丸く平らな形が特徴的なモモの品種である。英語圏では、扁平な形状から』附属する画像を見られたい。正直、モモには見えない)『フラット・ピーチ (Flat peach) 、ほかにサターン・ピーチ (Saturn peach) 、ドーナッツ・ピーチ (Donut peach) など称する』。『一般的なモモに比して、小さく偏平、果皮は黄色や赤色で微毛が多いが毛羽立ち少なく、果肉は淡色で』、『かなり固く』、『甘味が強く』、『わずかなアーモンド香』を有するという(私は写真以外では、実物を見たことがない)。『晩春から晩夏まで収穫される』。一八六九『年』(明治二年相当)『に中国からアメリカへ導入されて』一九九〇『年代に人気となり、現在も品種改良が進む。オーストラリア国内で盛んに栽培され、日本は』、『福島県や和歌山県が主要産地である』。『原産地は中国であり、東アジア地域や中東・西アジア地域、中央アジアへ伝来している。現代においては上述の経緯から』、『英語圏地域を中心に世界各地で栽培されている』。『桃は中国文化において不老長生の象徴とされている。蟠桃は道教の女神西王母が天界で育てる桃で「仙桃」とも称され、食して不老不死を授かるとされた』。「西遊記」に『孫悟空が蟠桃を盗み食いして』、『天界の神仙らと大立ち回りを演じる場面がある』とある。なお、本邦のモモの品種に「西王母(桃)」があるが、福島県伊達郡国見町で生まれた大玉の桃の新品種であり、バントウとは全く縁のないもので、ここで掲げる必要は全く認めない。しかし、良安の評言では、明確に、実在する「冬桃」の一種として語っている。されば、江戸時代に、「西王母の桃」と俗人が名づけた冬に実る種が既にあり、それに、勝手にドエラい神聖な名を与えたに過ぎない。それが、如何なる種であったかは、不明である。なお、サイト「SUN FRUITS」の「冬桃がたりFuyumomogatari」に、生産地を岡山県とし、『希少な冬の桃で』、十一『月下旬から収穫期を迎える極晩生品種で』、『中国原産とみられてい』るとして、纔か十一年前の二〇一三(平成二五)年『に出荷が始ま』ったとあり、『出荷量が非常に少なく、夏の白桃と比べ』、『やや小ぶりで、固めの食感のため』、『多汁感は乏しい』『が、岡山の桃らしく美しい白色で』(☜)『糖度と香りの高さが特徴』とある。良安は、当時実在した「西王母の桃」について、「この桃は冬に熟するので、普通の桃とは異なる。」と言っている。これは、則ち、色は、普通の桃の色であり、白い色ではないことを意味する。白い桃なら、必ず良安は指摘するからで、されば、現行の希少な白桃のルーツでさえないものだったのではないか? そもそも、本家の神の桃「西王母の桃」が白かったら、不審を抱いて、人は食わないだろう。「西王母の桃」が白桃であったという記載もない。この江戸の「西王母の桃」捜しは、全く無益であると、私は、考える。

 なお、名にある「西王母」は、小学館「日本大百科全書」によれば(一部の読みをカットした)、『中国古代の神話、伝説に登場する女神。その起源は古く殷』(紀元前十六世紀頃~紀元前一〇四六年)『代にまでさかのぼり、甲骨文字のなかにみえる西母は西王母のことであると考えられている。文献のうえでは』「山海經」『(せんがいきょう)に、西王母に関する古い伝承が残されているが、これによると、彼女は中国のはるか西方の地にある洞穴に住まい、人の姿をしてはいるが、ヒョウの尾に』、『トラの歯をもち、振り乱した髪にかんざしを挿して、よくうそぶくという怪異な存在である。しかし時代が下るにつれ、西王母は神仙思想の影響を受けて眉目』『秀麗な美女に変身し、その居所も西方の神山である崑崙山に定められた』。『また』、「穆天子傳」『(ぼくてんしでん)には、周の穆王が遠く西方に旅をして』、『仙女西王母に会い、詩歌を贈答したと記されている。さらに魏晋時代以降になると、神仙の道にあこがれた漢の武帝は西王母の訪問を受け、一夜の宴を張ったという説話が発達するようになる。また、西王母を東王公という男性神と一組にして考える思想もそのころから普及した』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷二十九」の「果之一」の「五果類一十二類」の「桃」の「集解」の『冬桃一名西王母桃,一名仙人桃,即昆侖桃,形如栝蔞,表裡微赤,得霜始熟。方桃形微方。』からである。現在も、「漢籍リポジトリ」がアクセス出来ない状態が続いているので、「維基文庫」の同書の「桃」の項をリンクさせておく。

「漢書」は、既に割注した通り、「漢書」には、良安の引用文はないので、同様の記載のある「漢武故事」を、まず、示す。「維基文庫」のものを、不審な箇所を加工した。良安の引用した前後に、東方朔の事績があり、そこにも西王母の記事が出るので、そちらも添えておいた。

   *

東方朔生三日、而父母俱亡、或得之而不知其始。以見時東方始明、因以爲姓。既長、常望空中獨語。後游鴻蒙之澤、有老母採桑、自言朔母。一黃眉翁至、指朔曰、「此吾兒。吾却食服氣、三千年一洗髓、三千年一伐毛。吾生已三洗髓、三伐毛矣。」。朔告帝曰、「東極有五雲之澤、其國有吉慶之事、則雲五色、著草木屋、色皆如其色。」。帝齋七日、遣欒賓將男女數十人至君山、得酒、欲飮之。東方朔曰、「臣識此酒、請視之。」。因卽便飮。帝欲殺之、朔曰、「殺朔若死、此爲不驗。如其有驗、殺亦不死。」。帝赦之。東郡送一短人、長七寸、衣冠具足。上疑其山精、常令在案上行、召東方朔問。朔至、呼短人曰、「巨靈、汝何忽叛來、阿母還未。」。短人不對、因指朔謂上曰、「王母種桃、三千年一作子、此兒不良、已三過偷之矣、遂失王母意、故被謫來此。」。上大驚、始知朔非世中人。短人謂上曰、「王母使臣來、陛下求道之法、唯有淸淨、不宜躁擾。復五年、與帝會。」。言終不見。

帝齋於尋真臺、設紫羅薦。

王母遣使謂帝曰、「七月七日我當暫來。」。帝至日、掃宮內、然九華燈。七月七日、上於承華殿齋、日正中、忽見有靑鳥從西方來集殿前。上問東方朔、朔對曰、「西王母暮必降尊像、上、宜灑掃以待之。」。上乃施帷帳、燒兜末香、香、兜渠國所獻也、香如大豆、塗宮門、聞數百里。關中嘗大疫、死者相係、燒此香、死者止。是夜漏七刻、空中無雲、隱如雷聲、竟天紫色。有頃、王母至。乘紫車、玉女夾馭、載七勝履玄瓊鳳文之舄、青氣如雲、有二靑鳥如烏、夾侍母旁。下車、上迎拜、延母坐、請不死之藥。母曰、「太上之藥、有中華紫蜜雲山朱蜜玉液金漿、其次藥有五雲之漿風實雲子玄霜絳雪、上握蘭園之金精、下摘圓丘之紫柰、帝滯情不遣、欲心尙多、不死之藥、未可致也。」。因出桃七枚、母自啖二枚、與帝五枚。帝留核着前。王母問曰、「用此何爲。」。上曰、「此桃美、欲種之。」。母笑曰、「此桃三千年一著子、非下土所植也。」。留至五更、談語世事、而不肯言鬼神、肅然便去。東方朔於朱鳥牖中窺母、母謂帝曰、「此兒好作罪過、疏妄無賴、久被斥退、不得還天。然原心無惡、尋當得還。帝善遇之。」。母既去、上惆悵良久。

後上殺諸道士妖妄者百餘人。西王母遣使謂上曰、「求仙信邪。欲見神人、而先殺戮、吾與帝絕矣。」。又致三桃曰、「食此可得極壽。」。使至之日、東方朔死。上疑之、問使者。曰、「朔是木帝精爲歲星、下游人中、以觀天下、非陛下臣也。」。上厚葬之。

   *

以上を、所持する抄本の竹田晃他編著の『中国古典小説選1』「穆天子伝・漢武故事・神異経・山海経他<漢・魏>」(二〇〇七年明治書院刊)、及び、国立国会図書館デジタルコレクションの前野直彬編訳『中国古典文学大系』第二十四巻「六朝・唐・宋小説選」(一九六八年平凡社刊)の当該部を参考に、自然流で訓読を試みる。「東方朔」は、平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『前漢時代の文学者。字は曼倩』(まんせい)。『滑稽と弁舌とで武帝に侍した、御伽衆(おとぎしゆう)的な人物。うだつの上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて』、「答客難」『を書く。彼は,自分は山林に世を避けるのではなく』、『朝廷にあって隠遁しているのだ』、『と主張』した。『この』「朝隠(ちょういん)」』(俗世界の高位にあっても隠士の心を守ること)『の思想は六朝人の関心をあつめ、例えば』、『彼の生き方をたたえる夏侯湛』の「東方朔畫贊」『には王羲之の書が』、『のこることで有名である。また』、『漢代』、『すでに彼にまつわる神仙伝説が発展し、太白星の精であり、長寿を得たともされるほか、トリックスターとして、孫悟空の天宮を鬧(さわ)がすといった物語のもとになる伝説も彼に付随する』。「海內十洲記」や「神異經」『は彼の著だとされるが』、『偽託である』とある。

   *

 東方朔は、生まれて三日、父母、俱(とも)に亡(ばう)す。

 或るひと、之れを得るも、其の始めを、知らず[やぶちゃん注:出自を知らなかった。]。時に、東方、始めて明るきを見るを以つて、因(よ)りて、以つて、姓と爲(な)す。

 既に長じ、常に空中(くうちゆう)を望んで、獨語す。

 後(のち)、鴻蒙(こうもう)の澤(たく)[やぶちゃん注:日が昇る東方の原野の池沢。]に游ぶ。

 老母、有りて、桑を採る有り、自(みづか)ら言ふ、「朔の母。」と。

 一(ひとり)の黃眉(くわうび)[やぶちゃん注:白眉に同じ。]の翁(おきな)、至り、朔を指して曰はく、

「此れ、吾が兒(こ)なり。吾れは食を却(しりぞ)け、氣を服(ふく)し、三千年に一(ひと)たび、隨(ずい)を洗ひ、三千年に一たび、毛を伐(き)る。吾(われ)、生まれて、已に三たび、隨を洗ひ、三たび、毛を伐れり。」

と。

 朔、帝[やぶちゃん注:武帝。]に告げて曰はく、

「東の極みに、五雲の澤、有り。其の國に、吉慶の事、有れば、則ち、雲、五色(ごしき)なり。草木(さうもく)・屋(をく)に著(つ)き、色、皆、其の色のごとし。」

と。

 帝、齋(ものいみ)すること、七日(なぬか)、欒賓(らんぴん)[やぶちゃん注:帝の重臣の名。]を遣(つかは)し、將に男女(なんによ)數(す)十人、君山(くんざん)[やぶちゃん注:洞庭湖の中にある山。湘山とも言う。]に至り、酒を得て、之れを飮まんと欲す。東方朔、曰はく、

「臣、此の酒を識る。之を、視るを請ふ。」[やぶちゃん注:「私(わたくし)めは、この酒が不老不死の酒であることを知っております。一つ、之れを、調べることを請いまする。」。]

と。因りて、卽ち、便(すなは)ち、飮む。

 帝、之れを殺さんと欲す。

 朔、曰はく、

「朔を殺し、若(も)し死せば、此れ、爲(すなはち)、驗(げん)あらず。如(も)し、其れ、驗、有らば、殺すも亦、死せず。」

と。

 帝、之れを赦(ゆる)。

 東郡(とうぐん)[やぶちゃん注:現在の河北省。]、一りの短人(こびと)を送る。長(たけ)七寸、衣冠、具足す。

 上(しやう)、[やぶちゃん注:帝。]

『其の山の精(せい)なる。』

と疑ふ。

 常(かつ)て、案上に在らせて行かしめ[やぶちゃん注:机の上に立たせて歩かせ。]、東方朔を召して、問ふ。

 朔、至り、短人を呼びて、曰はく、

「巨靈(きよれい)、汝(なんぢ)、何(なん)ぞ、忽(たちま)ち、叛來(ほんらい)するや。阿母(あぼ)、還(かへ)れるや、未(いま)だしや。」[やぶちゃん注:「巨霊よ、お前は、どうして、西王母さまの身もとから離れてやってきたのだ? 西王母さまは、もう帰って来られたのか?」。]

と。短人、對(こた)へず、因りて、朔を指(ゆびさ)して、上(しやう)に謂ひて曰はく、

「王母、桃を種(う)う。三千年に一たび、子(み)を作(つく)るも、此兒(こやつ)は、良からずして、已に三過(みたび)、之れを偷(むす)めり。遂に王母の意を失へり。故に、謫(たく)せられて、此に來れる。」

と。

 上、大きに驚き、始めて、朔の、世中(せいちゆう)の人に非ざるを知る。

 短人、上に謂ひて曰はく、

「王母、臣をして來たらしむ。陛下の道を求むるの法、唯だ、淸淨、有るのみ。宜(よろ)しく躁擾(さうじやう)すべからざるべし。復た、五年して、帝と會はん。」

と。

 言終(いひをは)るや、見えず。

 帝、尋真臺にて、齋(ものいみ)し、紫(むらさき)の羅薦(らせん)[やぶちゃん注:絹で製した敷物。]を設(まう)く。

 王母、使を遣して、帝に謂ひて曰はく、

「七月七日(なぬか)、我れ、當に暫(しばら)く來たるべし。」

と。

 帝、日(ひ)、至るや、宮內(きゆうない)を掃(きよ)め、九華(きゆうくわ)の燈(ともしび)[やぶちゃん注:陰暦正月の夕刻に用いる飾り燈籠。]を然(も)やす。

 七月七日、上(しやう)、承華殿に齋(ものいみ)す。

 日(ひ)、正中(せいちゆう)するに、忽ち、靑鳥(せいてう)、有り、西方より來りて、殿前に集(あつまりと)まるを見る。

 上、東方朔に問ふ。

 朔、對(こた)へて曰はく、

「西王母、暮れに、必ず、尊像を降(くだ)さん。上、宜しく灑掃(せいさう)を以つて、之れを待つべし。」

と。

 上、乃(すなは)ち、帷帳(ゐちやう)を施(ほどこ)し、兜末香(とうがつかう)[やぶちゃん注:邪気疫病を払う香とされる。]を燒く。香は、兜渠國(とうきよこく)[やぶちゃん注:中国の西方外の異民族の国。]の獻ずる所なり。香(かう)は大豆のごとくにして、宮門の塗れば、數百里[やぶちゃん注:漢代の一里は四百五メートルなので、六掛けで、二百四十三キロメートル。]に聞(きこ)ゆ。關中、嘗つて、大疫あり、死者、相ひ係(か)くるも[やぶちゃん注:死体が累々と連なったが。]、此の香を燒けば、死者、止(とど)む。是の夜、漏七刻(らうしちこく)[やぶちゃん注:漏刻(水時計)の時刻。七月であるから(夏と冬とで刻みが異なる)、午後七~八時頃か。]、空中、雲、無く、隱(いん)として[やぶちゃん注:遠くで音が響くさま。オノマトペイア。]雷聲あるがごとく、竟(つゐ)に天、紫色(ししよく)たり。頃(しばら)く有りて、王母、至る。紫(むらさき)の車に乘り、玉女、夾(はさ)みて、馭(ぎよ)し、七勝(しちしゃう)[やぶちゃん注:七つの髪飾り。]を載(いただ)き、玄瓊鳳(げんけいほう)の文(もん)[やぶちゃん注:鳳凰の紋を縫い取りしたもの。]の舄(くつ)[やぶちゃん注:靴。]を履(は)く。青氣(せいき)、雲のごとく、有二靑鳥(にせいてう)、烏(からす)のごとき有り、夾(はさ)みて、母(ぼ)の旁(かたはら)に侍(じ)す。車を下れば、上、迎へて拜し、母を延(ひ)きて坐さしめ、不死の藥(くすり)を請ふ。

 母、曰はく、

「太上(たいじやう)の[やぶちゃん注:最上の。]藥には、『中華の紫蜜』・『雲山(うんざん)の朱蜜』・『玉液の金漿(きんしやう)』、有り。其の次ぎの藥には、『五雲の漿』・『風實雲子(ふうじつうんし)』・『玄霜絳雪(げんさうこうせつ)』、有り。上(うへ)[やぶちゃん注:天界。]には、『蘭園の金精』を握り、下(した)には『圓丘(ゑんきう)[やぶちゃん注:伝説上の仙人の薬草園があるとされる。]の紫柰(しだい)[やぶちゃん注:「棠梨(からなし)」中国では、バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属Pyrus betulifolia(中文名「杜梨」。異名に「棠梨」「甘棠」)を指す。本邦では、現行、カラナシで「奈」「唐梨」と漢字表記するものは、ナシ類ではなく「リンゴ」(良安の生きた時代は、現在のバラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica は伝来しておらず、日本に古くに中国経由で齎されたリンゴ属ワリンゴ Malus asiatica しかなかった)、或いは、「カリン」(バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis 当該ウィキによれば、『日本への伝来時期は不明であるが』、『江戸時代に中国から渡来したといわれる説もある』とあるので悩ましい)を指すが、これ以上、突っ込むと墓穴を掘るので、止める。]を摘(つ)む。帝は、滯情(たいじやう)、遣(や)らず[やぶちゃん注:御情欲もたっぷりで、避けられておられず。]、欲心も尙(なほ)、多し。不死の藥は、未だ致すべからざるなり。」

と。

 因りて、桃、七枚(しちまい)を出だし、母、自(みづか)ら、二枚を啖(くら)ひ、帝に五枚を與(あた)ふ。

 帝、核(さね)を着前(ちよぜん)[やぶちゃん注:自分の前。]に留(とど)む。

 王母、問ひて曰はく、

「此れを用ひて、何爲(なんす)れぞ。」

と。

 上、曰はく、

「此の桃、美(うま)し。之れを、種ゑんと欲す。」

と。

 母、笑ひて曰はく、

「此の桃、三千年に一たび、子(み)を著(つ)く。下土(かど)[やぶちゃん注:下界。]の植うる所に非ざるなり。」

と。

留(とど)まりて、五更[やぶちゃん注:午前三時から五時。暁。]に至り、世事(せじ)を談語(だんご)すれども、肯(あ)へて鬼神を言(かた)らず、肅然(しゆくぜん)として[やぶちゃん注:威儀を正して。]、便(すなは)ち、去る。

 東方朔は、朱鳥牖(しゆてうゆう)[やぶちゃん注:朱鳥を彫り込んだ窓。]の中(なか)に於いて、母を窺(うかが)ふ。

 母、帝に謂ひて曰はく、

「此の兒(じ)、好(この)みて罪過を作(な)す。疏妄(そまう)[やぶちゃん注:注意力がないこと。]にして無賴(ぶらい)、久しく斥退(せきたい)[やぶちゃん注:追放。]せられ、天に還(かへ)るを、得ず。然れども原(もと)より、心、惡(あく)、無し。尋(つ)いで、當(まさ)に還るを得べし。帝、善(よ)く、之れを遇(ぐう)せよ。」

と。

 母、既に去り、上、惆悵(ちうちやう)すること、良(やや)、久し。

 後(のち)、上、諸道士・妖妄(やうまう)なる者[やぶちゃん注:怪しげな説や術を唱え行う者。]、百餘人を殺す。

 西王母、使(し)を遣して、上に、謂ひて曰はく、

「仙を求むるは、信(しん)なるか[やぶちゃん注:真実ではなかったのか。]。神人(しんじん)に見(まみ)えんと欲すれども、殺戮を先(さき)とす。吾(われ)、帝と絕(た)たん。」

と。

 又、三桃(さんたう)を致(いた)して曰はく、

「此れを食へば、壽(じゆ)を極むを得(う)べし。」

と。

 使、至るの日、東方朔、死す。

 上、之れを疑ひ、使者に問ふ。

 曰はく、

「朔は、是れ、「木帝(ぼくてい)」の精にして、歲星(さいせい)[やぶちゃん注:中国の古代天文学に於ける「木星」のこと。]たり。人中(じんちゆう)に下游(かいう)し、以つて、天下を觀る。陛下の臣に非ざるなり。」

と。

 上、厚く、之れを葬(はうふ)る。

   *

而して、この記載に拠るならば、武帝が西方母の桃を三つとも、食ったとすれば、通常の人間の寿命の三倍、生きたはずである。しかし、実際には、武帝は紀元前一四一年生まれで、紀元前八七年に没しており、数えで享年五十五歳である。中国の歴代皇帝は不老不死を第一に望んだから、食わない可能性はゼロである。されば、良安が、如何なる書に従ったものか不明だが、その三つは、総て、東方朔が食ったと考えるのは、頗る正当な「事実」であったとは思われる。さて、次いで、「唐物語」(から(の)ものがたり:中国の説話二十七編を翻訳した説話物語集。平安末期の成立。著者は藤原成範(しげのり:保延元(一一三五)年~文治三(一一八七)年)と言われる。王朝人に親しまれた楊貴妃・反魂香・王昭君・呂(りょ)太后・張文成などの故事を、漢文訓読調の直訳ではなく、情趣豊かな和文に翻訳し、和歌を配して、王朝物語風に仕立てたもの。教訓的口吻・仏教的色彩・伝奇への興味も見られるが,全体として主情的で、翻訳文学の先駆とされる(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)の全文を示す。底本は、所持する淺井峯治氏の初版昭和一五(一九四〇)年大同館刊の「唐物語新釋」復刻版(昭和六一(一九八六)年有精堂出版刊)に拠った一部に読点を挿入した。また、単数字を除き、総ルビであるが、必要と感じた箇所のみに留めた。読み易さを考え、段落及び会話・心内語の括弧を改行成形した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   第一六 西王母、漢の武帝に、三千年に一度なる桃を献ずる話

 昔、同じ帝(みかど)、誰(たれ)もとは申しながら、限(かぎり)なく此の世を惜しみ給ひけり。命(いのち)ながらへん事を願ひ給ひて、まぼろしと云ふ仙人に仰(おほ)せて、蓬萊不死(はうらいふし)の藥を採りに遣(つかは)しつゝ、はかなき御遊(おんあそ)び戯(たはぶ)れにも、此の世にながらへておはせん事をぞ、營(いとな)み給ひける。

 大凡(おほよそ)、人の好み願ふことは、必ず、空(むな)しからねば、此の御時(おんとき)、東方朔(とうぼうさく)といふ人、仙宮(せんきゆう)より罪(つみ)犯(をか)して、暫く、人間(にんげん)に下(くだ)されたりけるを、帝、目近(まぢか)く召し使ひて、萬(よろづ)思(おぼ)せりける事をば、まづ、此の人にぞ、問はせ給ひける。

 かゝる程に、宮(みや)の內(うち)に、色、黃なる雀(すゞめ)の、例(れい)の色にも似ず、怪しきさましたる、飛び遊びけるを、帝、

「日頃、かゝる鳥、見えず。いかなる事にか。」

と、問ひ給ふに、東方朔が、云はく、

「君(きみ)、長生不死の道を好み給ふによりて、御心(おんこゝろざし)にめでて、西王母(せいわうぼ)と申す仙女(せんぢよ)、參りて、『遊び奉(たてまつ)らん。』と、告げ知らするよしの使(つかひ)なり。」

と、聞(きこ)えさするに、帝、嬉しく思(おぼ)して、

「いかなる有樣(ありさま)にて、その人を、待つべきぞ。」

と、のたまはするに、

「宮の中(うち)、靜かにて、庭の面(おも)をきよめ、香(かう)をたき、樣々(さまざま)の床(ゆか)を設(まう)け給ふべし。」

と、申(まを)しけり。

 かくて、賴めしほどにもなりぬれば、帝、御心(みこゝろ)すみて、床(ゆか)のもとに、東方朔を隱し置きて、人知れず、

『今や、今や。』

と、待たせ給ふに、秋八月ばかりの、月の光(ひかり)、くまなき夜(よ)、香(かうば)しき風、打ち吹きて、晴(はれ)の空、のどかなるに、紫の雲、一群(ひとむら)、たなびきけり。

 其の中(なか)より、此の世ならず、目も、あやなる人、百人計(ばかり)、おり下(くだ)れり。

 其の中(うち)に、あるじと覺しき人、帝に、あひ奉りて、樣々の事共を聞(きこ)えさす。

 やゝ久しくなる程に、この人、桃、七を取り出(いだ)して、その三をば。帝に奉りけり。

 これを、御口(おくち)に觸れ給ひけるより、御身(おんみ)も、輕く、御心地(みこゝち)も、凉(すゞ)しくならせ給ひて、空(そら)にも飛び昇りぬべく、生死(しやうじ)の罪障も解けぬべくや思はせ給ひけん、

「此の桃、我が園(その)に移し植ゑて、種(たね)をも、取りてしがな。」

と、のたまひけるに、西王母、うち笑ひて、

「天上の木(こ)の實の、人間に留(とゞ)まり難(がた)くや。」

となん、言ふにも、堪(た)へずげに思(おぼ)せり。

 また、

「不死の藥や、侍る。」

と、尋ねさせ給ふにも、

「生老病死(しやうらうびやうし)の下界に生まれ給ひながら、いかでか不死の藥を求めさせ給ふべき。はかなき御心なり。」

と、聞こえさす。

 西王母のみにあらず、かひなき愚(おろか)なる心にも、昔の賢(かしこ)き聖(ひじり)の帝の御心とは覺えず。

 かくて、暫時(しばし)あるに、上元夫人(じやうげんふじん)に、雲環(うんくわん)の罌(あう)、打たせて、擧妃𤧶(きよひか)と聞こゆる仙人、舞ひけり。玉(たま)の簪(かんざし)を動かし、錦(にしき)の袖を飜(ひるがへ)すありさま、廻(めぐ)る雪に、ことならず。

 帝、これを見給ふに、思(おも)ほえず、御袖(おんそで)、濡れにけり。

『すべて、此の世の樂(がく)の聲(こゑ)は、物の數ならず。』

覺え給ひけるより、御心も、いたく、あくがれぬ。

 夜(よ)、やうやう、明方(あけがた)になるほどに、

「その御床(おんゆか)の下(した)に隱れ居(ゐ)て侍りける東方朔は、仙宮の人(ひと)なり。しかも、かの三千年(みちとせ)に一度(ひとたび)なる桃を、三度(たび)まで盜(ぬす)める罪(つみ)によりて、暫時(しばらく)、人間に下されたる。咎(とが)を贖(あがな)ひて後(のち)は、又、天上に還り來たるべきなり。」

と、のたまひて、紫の雲、立ち返りゆきしより、御心は、そらに、あくがれにけり。

 紫の雲のゆかりをいかなればたちおくるべき心(こゝ)ちせざらん

 此の後(のち)は、いとゞ、御心も、空(そら)に、あくがれて、いよいよ、仙を願ひ給ひけり。

 唐國(からくに)の習慣(ならひ)にて、かしこき帝には、仙人なども、皆、使はれ奉るにこそ。

 はかなくならせ給ひて後(のち)も、御身は、留まらせ給はざりけるとかや。

   *

この初版を国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る。「諸釋」「通釋」があるので、見ることが出来る方は、参照されたい。なお、ネットを調べたところ、本書(基礎底本は江戸後期の国学者『淸水濱巨』(しみづはまおみ)『の校本』であるが、別本松平文庫本では、最後の一首は、

   *

 紫の雲立ち返り行きしより心は空にあくがれにけり

   *

と、全く異なったものになっている。

「拾遺」「三《み》ちとせになるてふ桃のことしより花咲く春にあひにけるかな」「躬恆《みつね》」「拾遺和歌集」「卷第五 賀」にある、かの凡河内躬恒(貞観元(八五九)年?~延長三(九二五)年?)の一首(二八八番)、

   亭子院歌合に

 三千年になるてふ桃の今年より

      花咲く春あひにける哉

である。]

2024/12/11

西尾正 めっかち

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『月刊探偵』昭和一一(一九三六)年六月号(二巻一号)に発表。以下の底本の横井司氏の「解題」によれば、単行本に収録されたのは底本が始めてである由の記載がある。底本は、所持する二〇〇七年二月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅰ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは戦後第一弾となる』とある。なお、底本や解題では、標題を「めつかち」としているが、原作の歴史的仮名遣なら、「めつかち」でよいが、本文でも促音で「めっかち」となっているので、「めっかち」と正した。また、主人公(「語り手」)は既に結核に罹患し、喀血も始まっている。西尾自身の宿痾となった結核の罹患は、戦前とあるのみであるが、横井司氏の「解題」を読むに、遅くとも、本篇発表の前年の昭和十年には罹患していたと読める。既にして、この「語り手」は西尾の影を背負っているのである。

 

 読者に語り手を紹介せねばなるまい。

 ……四五年前のこと、僕は或る目的のためしばらく都会から身を隠す必要上、東京からは大分距(へだ)たった或る海岸地のなるべく人目に立たぬ区域を、間借り探しに歩いたことがあった。

 僕は思想上の犯罪者だったのである。

 しかし――金は持っていた。駅前の貧しい寿司屋で、この辺に独居に適当な部屋を貸す家はないかと問うと、その家のお神は僕の服装をしげしげと検した後――僕は意識的に贅沢ななりをしていた、――少し高いかも知れぬがと言い、或る家の地理を告げてくれた。

 そこは駅から乗合バスで三十分以上も揺られて行かねばならぬ不便な地点であったが、家は北方に山を背負う平家建ての庭に泉水などの見える、豪壮な邸宅であった。朝晩吐く痰の中に血の混じるようになった虐げられた肉体を養うためにもそこは最適であった。

 呼鈴(ベル)の音に現れたのが色白の肉乗りのいい、四十歳前後の見るからに健康そうな女であった。話はすぐ纒(まと)まり、纒まりついでに茶を飲んで行けと言うので案内をされた茶ノ間に入ると、壁には三味線が寄り懸かり、部屋の調度も何がなく艶めかしく、年増女(としまおんな)の残(のこ)んの色香が仄(ほの)ぼのと漂うているのであった。長火鉢を間(あいだ)に、営利の目的で部屋を貸しているのではないこと、――事実間代(なだい)は莫迦に安かった、家が広過ぎて物騒(ぶっそう)でもあるし淋しくもあるので、なるべく永くいてもらいたいとか、かなりみず瑞(みず)しい声で語ったが、その間中(あいだじゅう)、絶えず白い足袋の破れを繕(つくろ)っているのであった。それが室内の雰囲気とはうらはらのすこぶる淑(つつ)ましい感じで、見ると、盛り上がった膝の前には空の蜜柑箱が置かれ、その中には繕わるべき白足袋が一杯詰まっているのであった。[やぶちゃん注:「残(のこ)んの」(底本にはルビはない)は連体詞で、「殘(のこ)りの」の音変化。「未だ残っている」の意。]

 僕は翌日から庭に面した離れの八畳に住むことになったのである。

 主人は女とは同年配くらいの色白の、しかしひょろひょろに瘦せた、寒巌枯木(かんがんこぼく)のような男であった。職業はよく判らなかったが、朝はあまり早く出掛けず帰宅する時間もまちまちで、いずれは道楽半分に何かの外交でもしているのではないかと思われたが、性格は極端に無口で人見知りで、しかも常住(じょうじゅう)左眼(ひだりめ)に黒いガーゼの眼隠しを当てがい、それを取り外したことがなかった。が、悪人でないらしいことは偶(たま)に廊下などで出会う時(とき)体をもじもじさせいたたまれぬくらいのはにかみを見せる点や、髪を青年のように房(ふさ)ふさと長く延ばし、もう一つの眼のぱっちり澄んでいる所など、幼児のように無邪気な感じを与えた。暗い、秘密ありげな眼隠しなど除(と)ってしまえば、顔だけは、相当の美男であると想われた。[やぶちゃん注:「寒巌枯木」(底本にはルビはない)世俗に超然とした悟りの境地のたとえ。「枯れた木と冷たい巌(いわお:高く大きな岩)」の意から。仏教、特に禅宗で、「枯木」・「寒巖」を、「情念を滅却した悟りの境地」に譬える。また、情味がなく、冷淡で取っつき難い態度・性質などの喩えに用いられることもある(ここでは、初回印象には後者の意も含まれる)。「寒巖枯木」とも言う。]

 総て家庭のヘゲモニイを握っているのは奥さんの方であるらしかった。と同時に奥さんは主人を必要以上に劬(いたわ)っているようであった。単純な風邪でもチブスのように大騒ぎをした。そういう時でないと存在を忘れてしまうくらい主人は陰気で、影のように目立たなかった。[やぶちゃん注:「ヘゲモニイ」(ドイツ語:Hegemonie /英語:hegemony ) 原義は「指導的・支配的な立場」。また、「そうした権力・主導権」。緩やかな意味の主導権の意である。「チブス」「チフス」に同じ(ドイツ語:Typhus /オランダ語: typhus )「腸チフス」・「パラチフス」・「発疹(ほっしん)チフス」の略称であるが、特に「腸チフス」を指すことが多い。]

 家は静かで淋しかった。聞こゆるものとては、時折思い出したように起こる裏山のざわめきと、寺院の打ち出す儚(はかな)い鐘の音や名の知れぬ山鳥の鳴き声だけであった。僕は明け暮れ小説本ばかり読んで過ごした。するうちに女が、僕の部屋へ話し込みに来るようになった。僕は事実懺悔(ざんげ)をするような気持ちで自分の身分を打ち明けたが、女は別に動ずる気色(けしき)もなく、此処は田舎だからたぶん戸籍調べにも来ないでしょうよ、と言い、如何にも苦労人らしい恬淡(てんたん)さを示した。この夜を堺(さかい)に主人と間借り人との間は急に親しくなって行った。[やぶちゃん注:「恬淡」(底本にはルビはない)は名詞・形容動詞で、「あっさりしていて物事に執着しないさま・心やすらかで欲のないこと(そのさま)」を言う。]

 「幸福なのか不幸なのか、今ではともかく平和にくらしてはおりますが、わたくしどもの過去はめったに人さまには語れぬ、ふしぎな因果につきまとわれていたのです……」

 女はこう前置きをすると、次のような怪談染みた身の上噺(みのうえばなし)を語った次第なのである。

 

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 霜凍(しもこお)る初冬の冷たい夜のことであった。尚子は俯向(うつむ)いたまま或る郊外の道を大股に歩いて行った。時折鋭い風が彼女の頰を剌した。生来(しょうらい)あまり健康でない尚子は、晩秋から初冬への移り代わりに起こる不意打ちの無作法な寒さには、いつも悒鬱(ゆううつ)になるのであった。

 夜の九時――新開地の商店街は早目に灯を落として眠り四周(ししゅう)は暗く、寂寥(せきりょう)として、尚子の下駄が霜を含んだ地面にさくさくと鳴った。

 その夜(よ)尚子は友人の加留多(かるた)の稽古に招かれたのであった。会半ばにして何となく悪感(おかん)を覚えた尚子は好い加滅に義理を済ませ、一人窃(そ)っと逃(のが)れて来たのであった。寒さに怯(おび)え、明日(あした)辺り風邪で起きられないのではないかと案じつつ、深ぶかとショオルに顎を埋め、一層大股に歩いた。

 郊外の田舎駅は閑(は)ねた後の芝居小屋のようにひっそりしていた。周囲に暗い野原が展(ひら)け、構内だけが弱い電灯の光を放ち、幻灯のように浮かび上がって見えた。そしてその中に、改札口の駅員がパンチを措(お)き、脇眼もふらず部厚い書物に読み耽っている姿があった。[やぶちゃん注:「措(お)き」(底本にはルビはない)手元からのけて。]

 尚子は小刻みに改札口へ近寄って行った。切符を渡し何気なく駅員の顔を見遣った時、尚子の胸は震えた。

 もちろん駅員の方は尚子を見知っている訳はなかった。彼は無造作に切符を戻し、新来の客に機械的な一ベつを与えただけですぐまた、読みかけの書物に眼を落とした。

 古ぼけた、頂辺(てっぺん)に埃の浸み込んだ駅員帽、色褪せた纔(わず)かにアイロンのかかった制服――男は平凡な駅員に過ぎなかった。ズボンの裾が先の持ち上がった黒靴の上に被(かぶ)さり、短い上衣(うわぎ)の下から垂るんだ臀(しり)の突き出ている態(てい)は如何にも見すぼらしく、背を一層畸型的(きけいてき)に細く見せていたが、帽子の下から髪にかけてはみ出している真黒な頭髪、濃い両眉から真っすぐに浮かび上がった鼻梁(びりょう)、幾分か尖り気味のおとがい、そしてそういう鋭い線の中に、打って変わった柔和に輝く双眸(そうぼう)、むしろやや寠(やつ)れ気味の青白い頰――それらは尚子の記憶から古く、遠く、遠離(とおざ)かるともなしに遠離かり行き、今や全く意識の外に在った男、そしてよし一時は念頭から消えていたとは言え、最早癌のように固く根を張った面影、それであった。

 ――尚子は七八歳の頃から奇妙な夢を見続けていた。両親をはじめ誰もが一斉にそれを夢であると断定したが、尚子自身にはどうしても単純な夢とは思えなかった。

 夜中であった。それも静かな、雨や風の音のない、森羅万象が尽(ことごと)く深い眠りに堕ち大気が微動だもせぬ、死のような沈黙の夜に限っていた。尚子は何処(どこ)からともなく聞こえて来るびいんびいんと言う得体の知れぬ音のために定(き)まって眼を覚ますのであった。それは博(う)っている胸の鼓動と同じテンポであたかも彼女の弱い心臓を脅かすように、幽(かす)かに、その癖(くせ)重おもしく響いた。

 びい――ん

 びい――ん

 びい――ん

 尚子は、その音の正体を確かめようとし、耳を澄ませた。それは蚊細い絃(げん)を何処か遠くの空からピツィカアトで奏でている音律に似ていた。が、音響的なハアモニイもなく、ただ徒(いたずら)にびいんびいんと響くのみでそれがかえって不気昧に思われた。彼女は両手で耳を披(おお)うた。それでも聞こえた。段(だん)だん尚子は恐ろしくなった。固く、聴くまいとすればするほど音は弥(いや)が上にも高くなり優(まさ)り行くように思われた。彼女は仰向けに横たわったまま布団から首だけ出し、聞くまいとする試みを諦め、眼の前の壁をぱっちりとみつめた。[やぶちゃん注:「ピツィカアト」ピッツィカート(イタリア語:pizzicato)は、ヴァイオリン属などの、本来は弓で弾く弦楽器(擦弦(さつげん)楽器)の弦を指で弾くことによって音を出す演奏技法。]

 と、――その壁に男の顔が映り始めた。彼女は最初誰かが彼女の寝室を覗(のぞ)いているのではないかと思った。数日前尚子の母が、誰か母の入浴姿を覗く者がいると語ったのを聞いていたから……。しかし、そこに窺(のぞ)かるべき窓のないことは尚子自身が一番よく知っていた。そこは一面の冷たい灰色の壁であった。

 男の映像は次第にはっきり泛(う)かび上がった。長い真黒な髪の毛、青白い面長(おもなが)の顔、秀でた鼻、薄い真赤な唇、そして――男はめっかちであった。

 尚子は夢だ夢だと心で叫んだ。するうちに達者な右の眼が時折ぱちりぱちりと瞬き、唇が微笑を含んで、歪んだ眼も唇も柔和であった。が、それだけ怕(こわ)かった。眠がやがて眠るように閉じられてしまう。

 八歳の尚子はいたたまれず、あっと叫びを立て、廊下を距てて眠っている母の胸許(むなもと)に飛び込み、震えた。

 「――ママ、怕いの、ママ!」

 この時は既に絃の音も壁の中の男も消え、澄み切った薄明(はくめい)と静寂があるばかりであった。

 夢中遊行、小児ヒステリイ、欧氏管(おうしかん)カタル、有熱児、――尚子を診察した医師はこう様ざまに呼んだ。が、その医師の尽くが、年頃になれば丈夫になるかも知れぬと言い、一斉(いっせい)に転地療養を薦めた。[やぶちゃん注:「欧氏管(おうしかん)カタル」(底本にはルビはない)滲出(しんしゅつ)性中耳炎。中耳内の滲出液によって発症する。急性中耳炎の不完全な治癒、又は、感染を伴わない耳管閉塞に起因する。症状は難聴・耳閉塞感・耳の圧迫感などがある。大半の症例は二~三週間で回復する。一~三ヶ月経っても、改善がみられなければ,何らかの形の鼓膜切開術が適応され、通常は鼓膜チューブの挿入を併用する。抗菌薬、及び、鼻閉改善薬は効果がない(サイト「MSDマニュアル・プロフェッショナル版」の「中耳炎(滲出性) (漿液性中耳炎)」を参照したが、私は航空性中耳炎原発の同疾患をヴェトナム到着前に左耳管に罹患し、同地の救急病院の女医で英語で症状を述べ、処方を受けた経験がある。旅(四泊五日)から帰って一週間ほどで、ほぼ治ったが、高音の聴覚低下が後遺症として今も残っている)。「欧氏管(おうしかん)」(底本にはルビはない)中耳の鼓室と咽頭腔を繋ぐ「耳管」(じかん)の別名。イタリアの医学者・解剖学者エウスタキス・バルトロミオ・エウスタキオ( Eustachius Bartolommeo Eustachio 一五〇〇年又は一五一四年~一五七四年)が発見したことに由来し、「エウスタキオ管」(英語:Eustachian tube )とも呼ぶ。女医が「エウスタキオ」と私が言った際、笑って、頷いていたのを思い出す。「有熱児」乳幼児は、成人よりも平熱が高く、摂氏三十七・五度以上を発熱とすることが一般的である。発熱は受診の目安にはなるが、熱の高さは必ずしも疾患の重症度と相関しない。]

 長ずるにつれ案の定尚子の木のようであった胸や腰にも肉がつき美しい娘にはなったが、夢は一度で消えはしなかった。そしてこの娘の青白い情熱が奇怪な方向に注がれて行った。尚子は幻の男に一種の懐かしさを覚えるようになったのであった。眠られぬ物倦(ものう)い春の宵など、尚子は自身その夢を見るよう秘かに祈ることがあった。その祈りが真夜中に叶うと彼女の胸は妖しく高鳴り、此方(こちら)から微笑(ほほえ)み返してやりたい淡い衝動を覚えた。かつて恐ろしかった絃の音ですらも、若い、恋に憧れる血を搔き立てるセレナタの爪弾(つまび)きに似ていた。[やぶちゃん注:「セレナタ」所謂、本邦では「夜曲(やきょく)・小夜曲(さよきょく)」と呼ばれる、夜に恋人のために窓下などで演奏される楽曲。セレナーデ(ドイツ語: Serenade)で、ここは、イタリア語のSerenata(音写「セレナ(ァ)タ」)の音写。]

 壁の中の幻の恋人!

 弱々しい陰性の花にも慕い寄る雄蝶(おすちょう)は多かった。尚子は、しかしこれらに眼を呉れる先に、この言葉に憑かれていた。

 (――あの人……あの人はいったい誰なんだろう? 一度も見たこともなければ、誰にも似ていない、あの人……ことによったら、この世に実際いる人なのではないだろうか? そして、いつか、出会うことができるのではないかしら?……)

 この感傷は根強かった。夜半寝室にただ一人(ひとり)蠟燭を灯して鏡を覗くと未来の夫となる男の面影が映るという伝説とともに、尚子は多分それは彼女自身にしか体験し得ぬ不図した神秘のサジェスチョンによって、この固定観念を抱いたに相違なかった。――幻の男、身分も素性も判らぬめっかちの男こそ、彼女の夫となる男であるに違いないと。[やぶちゃん注:「サジェスチョン」英語:suggestion。示唆。暗示。]

 ――言うまでもなく、加留多会の帰途尚子の見た田舎駅の改札係こそ、壁の中のめっかちに生き写しの男であった。

 駅員の二つの眼は、しかし、健全であった。

 

 小石川蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)裏手の貧乏長屋であった。尚子の姿がこの裏街の不潔な溝川(みぞがわ)の傍らにたたずんでいた。尚子の前に庇(ひさし)の低い、亜鉛屋根の階屋が埃を浴びて並立してい、路地路地の口からは夕餉(ゆうげ)の鮭を焼く煙が無風の、幾分雨気を含んだ低い空に向かってゆらゆらと立ち昇っていた。[やぶちゃん注:「蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)」(底本にはルビはない)現在の東京都文京区小石川二丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「源覚寺」によれば、『寛永元』(一六二四)年に『定誉随波上人(後に増上寺第』十八『世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保』一五(一八四八)年の『大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ、寛文』一二(一六七二)年に『に修復された記録がある』一『メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間』(一七五一年~一七六四年)『に一人の老婆が眼病を患い』、『この閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来』、『この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年』一『月と』七『月には閻魔例大祭が行われる』とある。――いや! 何より――私の教え子たちは、夏目漱石の「こゝろ」の最初のクライマックスに登場することで、記憶にあるであろう。私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」を見られたい。先に示した地図の中央附近に、先生とKの高級下宿は、あったのである。

 何処かで豆腐屋のラッパが鳴った。

 尚子は電柱の蔭から斜めに、駅員と彼の老母との佗びずまいを窺(うかが)っていた。無細工な格子の奥で、緋に寛(くつろ)いだ駅員と老母が小さな膳を囲んで夕飯を認めていた。

 何時ぞや、よもやの幻と現実に逢い初めて以来、尚子は如何なる第三者にもこの秘密を秘め隠した。秘密はすなわち恐怖であったが、物思いは哀恋に似た感情であった。何者にも優(ま)して強烈な乙女の好奇心は、幾度窃(そ)っと遠見に駅員の動静を探りに行ったか知れなかった。

 この日駅員の姿は改札口に見えなかった。尚子は失望したが再び構内に戻った時、彼女と同方向に向かう電車に乗る彼を認めた。早退(はやび)けに相違なかった。尚子は己(おの)が端(はし)たなさに嫌悪を感じながらも、男の痕(あと)を尾行しない訳には行かなかった。

 駅員は車中絶えず部厚い赤い表紙の書物を眼から離さなかった。電車が春日町(かすがちょう)に着くと几帳面に栞(しおり)を挟み小脇に抱え、眼を前方に向けたまま脇眼も振らず伝通院(でんづういん)の方に足早に歩いて行った。それは理想や希望に燃える生真面目(きまじめ)な青年を想わせた。溝川に添うた道を右に入ると、街の風貌が突然暗くせせこましくなった。男は「室井健」と書かれた標札の下りている長屋の土間に入り、奥に向かって快活に呼ばわった。[やぶちゃん注:「春日町(かすがちょう)」(底本にはルビはない)当時の東京都電の駅名。現在の春日町交差点(グーグル・マップ・データ)附近にあった。「伝通院」現在の文京区小石川にあり、正式には浄土宗無量山伝通院寿経寺(じゅきょうじ)。やはり、「こゝろ」の重要なロケーションのマルクメールの一つである。前の地図の左上方に配しておいた。]

 「――ただいまア!」

 茶ノ間には何時(いつ)か電灯が灯っていた。茶ノ間の奥にはこじんまりとした仏壇が飾られ、その前で腰の曲がった老母と居住居(いずまい)正しく夕餉の箸を運んでいるプラトニックな青年の姿が、何故か尚子の心を叩いた。窓を通して仄見(ほのみ)える人の世の営みこそ、もののあわれ――それが平和で幸福なものであればあるだけ、尚子は居堪(いたまた)まれぬ佗しさを感じた。

 少女時代からの恋人があまりにも見すぼらしい一介の改札係に過ぎないことも、最早尚子には問題ではなくなっていた。

 

 翌々年の春二人は結婚した。男は既にその時母を喪った孤児であった。春とは言い条(じょう)、大きな牡丹雪が音もなく舞い落ちる冷えびえとする日、尚子と駅員の肉と心とが厳(おごそ)かな神前で一つに結ばれたのであった。

 男は詩人であった。が、彼の「室井健」という名は一度も活字に刷られたことがなかった。

 二人の新家庭は室井の希望で、市中からはずっと奥まった草深い田舎に設けられた。家の前には魚の骨のような寒ざむとした雑樹林(ぞうきばやし)が立ち並び、その向方(むこう)に古沼が澱んでいた。遠くに市外電車の土手が見えた。夜になるとこの電車の警笛が、身に浸み入るように淋しく聞こえた。

 室井は尚子を心から愛した。愛し過ぎるほど愛した。尚子の外出の時間が長いとどんなに淋しかったか知れないと、べそを搔きつつ怨み言を言った。けれど尚子は、室井が彼女を愛するほど、彼を愛してはいなかった。

 (わたしは室井を、もっともっと愛さなければいけないんだわ。……)

 尚子はこう自分に言い聞かせ、燃え立たぬ熱情を悲しんだ。過去一切の交際を絶ち、二人だけの生活に閉じ罩(こ)もろうとし、下女すらも二人の巣を破壊する闖入者(ちんにゅうしゃ)として使(つか)おうとはしなかった。夫は書斎に閉じ籠もり、瞑想と思索の時間を送った。

 雨の降る日など、

 「尚子さん、僕アいつか立派な詩を書きます。どうかそれまで待っていて下さい。……」

 室井はこう前置きしてから、「嘆きのピエロ」の Jacques Catelain のような夢見るような表情で、自作の詩を高らかに唄って聞かせることがあった。中音の、声それ自身は歌唄いのように美しかったが、作品はしかしあまりにも稚拙で、人の真の喜びや哀しみに触れたものではなかった。[やぶちゃん注:「嘆きのピエロ」「Jacques Catelain」フランスの映画人ジャック・カトランが、脚本・監督・主演を担当した‘ La Galerie des Monstes ’(直訳で「怪物たちの展示場」)の邦題。一九二四年制作のサイレント映画。シノプシスは、サイト「映画.com」のこちらを見られたい。私は、映画の評論で話としては知っているが、生憎、作品自体を見ていない。]

 が、尚子は極まって、

 「……素敵だわ」

 と、低い声で言った。

 詩作に飽きると壁際に寝転び、細い脚を重ね、

 「ああかかる日のかかるひととき……」

 とか、

 「小諸なる古城のほとり

 雲白く

 游子悲しむ……」

 とか、大きな声で唄いながら、煙草の煙を吐いたりした。晴れた日には、近所の沼へ鮒(ふな)を釣りに行くのだと言い、魚籠(びく)を提げ、釣竿を担ぎ、口笛を吹き鳴らしつつ颯爽と出て行くのであった。

[やぶちゃん注:「ああかかる日のかかるひととき」は、梶井基次郎の「城のある町にて」の冒頭にある「ある午後」のコーダ部分に出てくる。正確には、少し、表記が異なるので、前後(ラストまで)を引用する。

   *

 空が秋らしく靑空に澄む日には、海はその靑より稍々溫い深靑に映つた。白い雲がある時は海も白く光つて見えた。今日は先程の入道雲が水平線の上へ擴つてザボンの內皮の色がして、海も入江の眞近までその色に映つてゐた。今日も入江はいつものやうに謎をかくして靜まつてゐた。

 見てゐると、獸のやうにこの城のはなから悲しい唸聲を出してみたいやうな氣になるのも同じであつた。息苦しい程妙なものに思へた。

 夢で不思議な所へ行つてゐて、此處は來た覺えがあると思つてゐる。――丁度それに似た氣持で、えたいの知れない想ひ出が湧いて來る。

「あゝかゝる日のかゝるひととき」

「あゝかゝる日のかゝるひととき」

 何時用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――

「ハリケンハツチのオートバイ」

「ハリケンハツチのオートバイ」

 先程の女の子らしい聲が峻[やぶちゃん注:「たかし」。主人公の名。]の足の下で次つぎに高く響いた。丸の內の街道を通つてゆくらしい自動自轉車の爆音がきこえてゐた。

 この町のある醫者がそれに乘って歸つて來る時刻であった。その爆音を聞くと峻の家の近所にゐる女の子は我勝ちに「ハリケンハツチのオートバイ」と叫ぶ。「オートバ」と言つてゐる兒もある。

 三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。

 遠い物干臺の赤い張物板ももう見つからなくなった。

 町の屋根からは煙。遠い山からは蜩。

   *

なお、全文は「青空文庫」のここで、全文が読める。但し、新字新仮名である。

「小諸なる古城のほとり……」は、言わずもがな、私の大嫌いな島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」の冒頭の二行。

 けれど――この平和、平和な退屈(アンニュイ)も、二年とは続かなかった。何故か尚子はまたしても物倦(ものう)い不眠症に襲われ出した。[やぶちゃん注:「退屈(アンニュイ)」フランス語 ennui 。「退屈・倦怠感」及び「何かをする気力や興奮がなく、時間が過ぎるのを、ただ待つだけの状態」を指す語で、英語にも取り入れられている。特に十九世紀のフランス文学に於いて、よく用いられ、社会や生活に対する無感動、飽き飽きした感情を表現する代名詞でもあった。]

 

 室井には結婚前から恋人がいるらしいのであった。ほとんど手紙など着いたことのない二人の家庭にしばしば男名前ではあるが女文字の手紙が室井の手許に配達されるようになった。室井はそれらの手紙をできるだけ尚子の前から隠そうとした。その癖(くせ)決して破り捨てようとはしなかった。或る日尚子は、見るともなしに不図(ふと)室井の日記帳を繰った時、そこに過去の女を讃える数篇の詩作を発見した。純情を装う室井の心の奥底から、凄まじい悪魔の吐息を感じた。かつて貧しく寄る辺(べ)のない室井が安逸な生活のための手段として自分を喰いものにしたのではないかと疑った。

 と同時に、室井の心を捉えている見えざる女に対し劇しい嫉妬を覚えた。

 

 (――無能で、平凡で何一つ取柄のない室井……こんな男のどこにもわたしは魅力を感じてはいないのだ。ただわたしは、わたしの運命を支配する幻の実体として室井と結婚したのだ……だのに、どうしてこんなにもはげしい嫉妬にくるしまなければならないのだろう?)

 ……不眠のまま茫然と天井をみつめている時や入浴時裸体で鏡の前に立つ時など、尚子はつくづくこのまま生活を続けて行ったら、何時か大きな破綻が来るのではないかと惶(おそ)れた。鏡に写る彼女の肉体は、一時(いちじ)の撥溂(はつらつ)さを全く喪(うしな)い、そこにあるものは細い、冷たい蠟燭のような肢体――恐ろしい少女時代の再現に過ぎないのであった。彼女は迫り来る破局を予感し、そういう時、薄い胸を抱いて震えた。

 

 驚くほど真暗(まっくら)な夜であった。下界は無限の暗闇(くらやみ)に呑まれ恐怖に竦んだ、深い沈黙に動かぬ夜であった。

 びいん……びいん……びいん……絃の音がまた何処からか聞こえ出し、尚子はぱっちり眼を覚ました。

 それは十年以上も聴かなかった、例の静寂の大気が顫(ふる)え出す音のような暗示であった。尚子ははっとして身を縮めているうちに、音は今まで経験したことのないほど次第に早く、大きくなり優って行った。

 びいーん

 びいーん

 びいーん

 尚子は怖しくなった。

 と同時に、それは何と言う奇態な、胸の膨らむような懐かしさなのであろう?

 (この音だ、この音だ!)

 尚子は心中から叫びつつそれがどういう音律に変化して行くか、果してまた、あのめっかちの男が壁の中に現れるか、全身を眼と耳にして待ち構えた。

 びん……びん……びん!

 音は尚子の心臓とともに震え始めた。

 と――壁面の一部が薄雲のように揺れ始め、見る見る例の周囲のぼやけた vignette 風の幻の男が現れた。[やぶちゃん注:「vignette」これは、元はフランス語で「ヴィニェット」、「輪郭をぼかした絵」の意であろう。英語にも取り入れられている。他にも別な意味はあるが、ここは前の形容から、それで、決まりである。]

 「うーん、うーん……」

 尚子は唸った。

 久し振りで尚子に会いに来た男は八歳の頃と寸分の相違もなかった。尚子は年を取ったが、男は依然若く、青白く右の眼を屢(しばしば)叩(はた)きつつ、思いなしか、奥深い瞳の裡(うち)には隠し切れぬ懐かしさを湛(たた)えているように見えた。

 (神様、どうぞどうぞ教えて下さい!)

 尚子は荒れ狂う感情の暴風の中で、両手を胸の上に組み、一心不乱に祈った。

 (神様、――現在の室井は、この壁のなかの男とは違うのでしょうか?……そうだ、そうだ、確かに違う!……室井はふたつの眼を持っている!)

 音はますます烈しく鳴った。のみならず片眼だけがにやりにやりと嘲笑(あざわら)い、一ノ字(いちのじ)に結ばれた蚯蚓(みみず)のような唇が冷酷に蠢(うごめ)いた。

 

 むっくり、尚子は起き直った。息を殺し、隣に眠っている室井を伺った。

 室井は就寝前必ず本を読み、書いた原稿は几帳面に閉じ、枕許に揃えて置くのが習慣であった。そして緑色のスタンド・ランプが、原稿の束の上に、鋼鉄の鋭い尖端を晃(ひか)らせた一本の錐(きり)を冴えざえと照らし出していた。

 (夢だ、わたしがしようとしていることは、みんな夢なんだ)

 尚子は窃(そ)っと錐を取り上げた。

 「どうしたの、尚子さん、どうしたの?」

 それまですやすやと快い寝息を立てていた室井がぱっちり澄み切った眼を開いた。その眼には、近頃病身の尚子を劬(いた)わる優しい光があった。その呑気な、お人好しな、些少(すこし)も警戒の色を見せぬ無心の室井が、キリキリと尚子の嗜虐心(しぎゃくしん)を煽(あお)った。[やぶちゃん注:「些少(すこし)も」底本にはルビはない。通常なら「さしょう」と読むところだが、このシークエンスに於いて、「さしょう」では、リズムが上手くないと判断して、かく、読んだ。]

 「いいえ、何でもないのよ。ただ眠られなかっただけなのよ。何でもないの、何でもないの」

 尚子も笑って見せた。左手を突き、息を詰め、体をよじるようにして握った錐を室井の左眼に突き立てた。

 「な、何をする!」

 室井は尚子の手を払おうとした。が、それは尚子の手首に逸(そ)れて行った。錐は最初白眼(しろめ)を突いたのであろう、固いゴム鞠(まり)に似た鈍重(どんじゅう)な弾力があった。尚子はすかさず持ち直した。柔軟なむしろ快い感覚で、錐の尖端が二寸ほどズブリと剌さった。

 「尚子、尚子!」

 室井は無気味に叫び、両手で顔を抱えたまま、転げ回った。

 白い敷布がたちまち赤点(せきてん)で彩られた。

 ……何時の間にやら壁の中の男は消え、啻(ただ)濫(みだ)らに絃の音が前よりも一層早く烈しく鳴り続けていた。それがぴたりと歇(や)んだ時、尚子ははじめて我に帰った。

 事前の幻想は眼前の酷(むご)たらしい現実に転じた。彼女ははじめて何をしたかを悟った。

 「ああ、ああ!」

 尚子は口をまんまるにし幼児のように哭(な)き出した。

 「こわいよオ、ママ、こわいよオ!」

 尚子の半狂乱の姿がその家から逃れ出た。一直線に畔(あぜ)を伝って疾走する彼女の姿は狂った犬族(いぬぞく)に見えた。畔が尽きると、雑木林の奥の真黒な闇の中に、尚子の体が吸い込まれた。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 「その時、どこをどう走っているのだかただ夢中で走りました。そうして、とうとう林の奥の沼のなかへとびこんでしまったのでございます」

 長い話をこう語り来(きた)った女、すなわち尚子夫人は、次のように結尾(むすび)を付した。

 「――これで、わたくしの永年の迷妄もすっかりさめてしまいました。はい、そうです、げんざいの夫が室井なのです。――それで、それで……」

 夫人はちょっと言い澱(よど)み、再び過去の恐怖に憑(つ)かれたかのように空間をじっとみつめた時、玄関の開く音が聞こえ室井の帰って来た気配に、つと立って襖(ふすま)まで行き振り返り、しかし眼は、依然として左(さ)あらぬ方を凝視したまま、秘めやかに、その癖せかせかと囁いた。

 「……それで、それなり、ほんとうならば古沼におぼれてしまったのでしょうが、運というものはまことにふしぎなものですわね。その夜、ちょうどその沼で夜釣りをしていた人に助けあげられたのです。ふちのくさむらに寝かされてすぐ気がつきましたが、くらやみのなかのほのかなカンテラの灯影(ほかげ)に照らしだされた男の顔を見た時には、キャッとさけんでもういっぺん悶絶してしまいました。あとでわかって、その命の恩人はふきんのアトリエに住む絵かきさんでしたが、こういうことにどういう理屈をつけたらよろしいのでございましょうね。その方こそ壁のなかのまぼろしにすこしもちがわぬ、めっかちの男だったんですよ」

 

[やぶちゃん注:最後に一言。冒頭、狂言廻したる「語り手」について、一人称で『僕は思想上の犯罪者だったのである』と語らせている。初回の前注で、ちょっと述べたが、西尾は、戦前の後期に一度、筆を折って、保険会社に勤務しており、戦中は、彼は作品を書かず、沈黙を守っている。この「語り手」の言葉には、実は、海外の小説を、かなり読んでおり、近現代ヨーロッパの知識も芸術上の相当にある(彼は慶應の経済学卒である)。実は、彼は内心、社会主義者とまでは言わずとも、その心情的なシンパであったか、少なくとも、良心的反戦主義者であったのではなかったか? と感じていることを言い添えておきたい。

2024/12/10

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 桃

 

Momo

 

もゝ  桃【和名毛々】

    早桃

     【左毛毛】

【音陶】

    李桃

     【和名都波木桃

      俗云豆波以桃】

 

本綱桃品類甚多昜於栽種且早結實五年宜以刀蠡其

[やぶちゃん注:「蠡」の字は、原本では(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の(私の所持するものと同じもの。左丁最終行の下から二字目を見られたい)、曰く、字形を説明し難いものである。読みは、『ハキカケ』と打たれており、これは、「はぎかけ」、で「剝ぎ缺け」の意と思われることから、「蠡」には、「剝げる」の意があること、東洋文庫訳が『剝(は)ぎ』と訳してあることから、この字に確定した。]

皮出其脂液則多延數年其花有紅紫白千葉二色之殊

其實有紅桃緋桃碧桃緗桃白桃烏桃金桃銀桃皆以色

名者也有綿桃油桃御桃方桃匾桃偏核桃皆以形名者

也有五月早桃十月冬桃秋桃霜桃皆以時名者也

 梅樹接桃則脆柹樹接桃則爲金桃李樹接桃則爲李

 桃【李桃實深赤色而光潤俗云豆波以毛々】

桃肉【辛酸廿熱微毒】 多食今人膨脹及生癰癤有損無益

 服白朮蒼朮人忌食之

桃仁【苦甘平】 味厚沉而降陰中之陽手足厥陰經血分藥也

 其功有四治熱入血室也【一ツ】泄腹中滯血也【二ツ】除皮膚

 血熱燥痒也【三ツ】行皮膚凝聚之血也【四ツ】故通月水通潤

 大便消心下堅硬【香附子爲之使】

桃梟【苦微溫有小毒】 一名桃奴【桃景神桃】〕此是桃實着樹不能成實

 如梟首桀木之狀經冬不落者正月采之入藥中實者

 良殺百鬼精物治鬼瘧寒熱【爲末滴水丸之朱砂爲衣服一丸晨向東井𬜻水下】

 治吐血諸藥不效者【燒存性研末米湯調服】

桃花【苦平】殺悪鬼利大小便治靣皰【桃花冬瓜仁研末等分𮔉調傅之】靣

 上粉刺如米粉者【桃花丹砂各三兩爲末毎服一錢空心腹井水下日三服十日知二十日小便當出黑汁靣色瑩白也】勿用千葉令人鼻衂不止

桃乃西方之木五行之精仙木也故能厭伏邪鬼制百鬼

 今人門上用桃符以此又釘於地上以鎭家宅謂之桃

 撅許愼云羿死於桃棓【棓者杖也】故鬼畏桃【東南枝最佳】

古今醫統云桃實太繁則多墜以刀橫斫其幹數下乃止

 社日令人樁桃樹下則結實牢不墜凡果皆然矣女子

[やぶちゃん注:この「樁」は「椿」ではないので、注意が必要。前者は、

「樁」(「立たせる」の意)

であり、

「椿」

ではないのである。

 艶粧種之他日花艶色而桃離核凡八九月桃熟時墻

 ⻆頭寛深作坑先將濕牛糞內坑中上加土取好核浄

 洗尖頭向下厚土蓋尺許春深生芽和泥移栽肥土接

 杏李尤妙

收貯法用麫連麩煮粥入鹽少許候冷傾入新缸以桃未

 熟者內中宻封缸口至冬如新

 万葉我か宿のけもゝの下に月よさしした心よしうたてこのころ人丸

△按或書曰伊弉諾尊採桃子三箇擊火𠢐女悪卒皆去

 依勅桃樹名曰稜威神富命又有日本紀以桃逐鬼事

 和漢事實相同

 凡桃實頭微尖曲者肉核不離而味甘美在樹亦耐久

 也頭不尖者能離核而味帶酸不美在樹亦不久

 桃仁山城伏見之産良備前岡山及紀州之産次之備

 後亦次之

 

   *

 

もゝ  桃【和名、「毛々」。】

    早桃《さもも》

     【「左毛毛」。】

【音「陶」。】

    李桃(ずばい《もも》)

     【和名、「都波木桃《つばきもも》」。

      俗、云ふ、「豆波以桃《づばいもも》」。】

 

「本綱」に曰はく、『桃≪の≫品類《ひんるゐ》、甚《はなはだ》、多し。栽種《さいしゆ》、昜くして、且(そのう)へ、早く實を結ぶ。五年にして、宜しく、刀《かたな》を以つて、其の皮を蠡(はぎか)け[やぶちゃん注:「搔(か)ぎ剝ぎて」。]、其の脂-液(あぶら)[やぶちゃん注:桃の樹木の脂(やに)。]を《いだ》す。則ち、多く、數年《すねん》を延《のぶ》。其の花、紅・紫・白、千葉《やへ》・二色《ぶち》の、殊《ことな》≪れる者≫、有り。』≪と≫。

『其の實、紅桃《こうたう》◦緋桃◦碧桃◦緗桃《しやうたう》◦白桃◦烏桃《うたう》◦金桃◦銀桃[やぶちゃん注:「◦」は原本では右下に「」として打たれてある。以下、同じ。]、有り。皆、色≪を≫以つて、名づくる者なり。綿桃◦油桃◦御桃《ぎよたう》◦方桃《はうたう》◦匾桃《へんたう》◦偏核桃《へんかくたう》、有り。皆、形を以つて、名すくる者なり。五月の、早桃(さもゝ)、有り。十月の冬桃《とうたう》・秋桃・霜桃《さうとう》、皆、時を以つて、名づくる者なり。』≪と≫。

『梅の樹に、桃を接《つ》げば、則ち、脆(もろ)く、柹《かき》の樹に桃を接げば、則ち、金桃と爲る。李《すもも》の樹に、桃を接げば、則ち、李桃《りたう》と爲る。』≪と≫。【「李桃」は、實、深赤色にして、光り、潤《じゆん》たり。俗に云ふ、「豆波以毛々《ずばいもも》」。】。

桃肉《もものにく》『【辛酸廿、熱。微毒】』[やぶちゃん注:「本草綱目」には、「桃肉」の条はなく、この割注は、「實」の条の『氣味』にある。]。『多≪く≫食へば、人をして、《腹》、膨脹≪させ≫、及び、癰癤《ようせつ》[やぶちゃん注:腫れ物。]を生ず。損、有りて、益、無し。白朮《びやくじゆつ》・蒼朮《さうじゆつ》を服する人、之れを食ふを忌む。』≪と≫。

『桃仁《たうにん》【苦甘、平。】』『味、厚《あつ》く、沉《しづみ》て、降《くだ》る。陰中の陽≪にして≫、手足の厥陰經《けついんんけい》の血分の藥なり。其の功、四つ、有り。熱、血室《けつしつ》[やぶちゃん注:女性の内性器系で、月経・受胎・妊娠・分娩を司る。]に入るを治すなり。』【一ツ。】。『腹中の滯血《たいけつ》を泄《せつ》すなり。』【二ツ。】。『皮膚の血熱・燥痒《さうやう》を除くなり。』【三ツ。】。『皮膚の凝聚《ぎようしゆう》の血を行(めぐ)らすなり。』。【四ツ】。『故に、月水《げつすい》を通じ、大便を通潤《つうじゆん》し、心下《しんか》の堅硬《しこり》を消す。』【「香附子《かうぶす》」を、之れの使《し》[やぶちゃん注:補助薬。]と爲《な》す。】[やぶちゃん注:割注は、総て、良安が挿入したものである。引用の「≪と≫」を入れると、グチャグチャして読み難いだけなので、略した。]

『桃梟《たうけう》【苦、微溫。小毒、有り。】』『一名「桃奴《たうど》」【「桃景」・「神桃」≪とも言ふ≫。】、此れは、是れ、桃の實《み》、樹に着《つき》て、≪全き≫實《み》に成ること、能はず、梟-首(ごくもん)・桀-木(はりつけ)の狀《かたち》のごとし。冬を經て、落ちざる者、正月、之れを采りて、藥中に入《いる》る。≪と≫。《實の內、》實《じつ》者する者、良し。百鬼精物《ひやくきせいぶつ》[やぶちゃん注:「魑魅魍魎」。]を殺《さつ》し、鬼瘧《きぎやく》[やぶちゃん注:死者の霊が憑依したかのように、狂躁状態になること。]・寒熱を治す【末《まつ》に爲し、水を滴《したた》らし、之れを、丸め、朱砂を衣《ころも》と爲し、一丸を服す。晨《あした》[やぶちゃん注:早朝。]、東に向かひて、井𬜻水(せいかすい)[やぶちゃん注:朝一番に井戸から汲み上げた浄水。]にて下す。】。』≪と≫。

『吐血≪し≫、諸藥、效かざる者を、治す【燒くに、性《せい》を存じて、研末し、米湯《おもゆ》にて調へ、服す。】。』≪と≫。

『桃花《たうくわ》【苦、平。】悪鬼を殺し、大・小便を利し、靣-皰(にきび)【桃の花≪と≫、冬瓜《とうがん》の仁《にん》を研末し、等分にして、𮔉(みつ)にて、調へ、之れを、傅(つ)く。】、靣《かほ》≪の≫上の粉刺《そばかす》、米の粉《こ》のごとき者【桃花・丹砂、各三兩、末と爲し、毎服一錢、空心《くうしん[やぶちゃん注:「空腹時」に同じ。]》に、井《ゐ》の水にて、下す。日に三服、十日にて、知り[やぶちゃん注:効果が見え始め。]、二十日にして、小便、當《まさ》に黑き汁の出づべし。≪然《さ》れば、≫靣色《かほいろ》、瑩白《はうはく》なり[やぶちゃん注:あざやかな健康な白い肌色となる。]。】を治す。千葉《やへ》の者、用ふる勿《なか》れ。人をして、鼻-衂《はなぢ》、止まらず≪なればなり≫。』≪と≫。

『桃は、乃《すなは》ち、西方の木≪にして≫、五行の精≪たる≫仙木なり。故に、能く、邪鬼を厭伏《えんぶく》し[やぶちゃん注:降伏(こうぶく)し。]、百鬼を制す。今の人、門の上に桃符(たうふ)[やぶちゃん注:桃の木で作った御札(おふだ)。]を用《もちふ》るは、此れを以つてなり。又、≪桃の木を斫(けず)りて≫、地の上に釘《うちこみ》して、以つて、家宅を鎭《しづ》む。之れを「桃撅《たうけつ》」と謂ふ。許愼《きよしん》、云はく、「羿(げい)、桃棓《たうばい》【「棓」とは「杖」なり。】に死す。故に、鬼、桃を畏る。」≪と≫。【東南の枝、最も佳し。】。』≪と≫。[やぶちゃん注:厳密に言うと、最後の割注は、表現に有意な違いがある。「本草綱目」では、「桃」の「桃符」の項の「發明」の条中にあるが、それは『鬼但畏東南枝爾』(鬼は、但(ただ)、東南の枝を畏るるのみ。)である。]

「古今醫統」に云はく、『桃の實、太《はなは》だ、繁き時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、多≪くは≫、墜つ。刀を以つて、橫に其の幹(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])を斫(はつ)ること、數下《すうげ》[やぶちゃん注:「數回」。]にして、乃《すなはち》、止《や》む。社日《しやじつ》[やぶちゃん注:春分、及び、秋分に最も近い戊(つちのえ)の日。春分に近い戊の日を「春社」、秋分に近い戊の日を「秋社」と言う。この時の十干(じっかん)の戊の日は、春分・秋分の日の 五日前から 五日後までの間に来る。陰陽五行説では、戊の日は土(ど)に関係が深く、中国では、「春社」は、その年の豊作を神に祈念する日、「秋社」は五穀豊穣を神に感謝する日とされている。本邦では、この日、田畑の仕事を禁じて、土地神を祀る「地神講」(じしんこう]を営む例が多い。]、人をして、桃樹の下に樁(たたす)≪れば≫、則ち、實を結んで、牢《らう》≪と≫して[やぶちゃん注:しっかりと実が樹上に安んじて。]、墜ちず。[やぶちゃん注:この部分は、調べたところ、「古今醫統」(=「古今醫統大全」)には当該記事がなく、少なくとも、かなり類似した部分が、お馴染みの「農政全書」にあることが判明した。当該部は、「維基文庫」の「卷二十九 樹藝」の中の「果部上」の「桃」の項で見出せた。『桃實太繁,則多墜。以刀橫斫其幹數下,乃止。又社日舂根下土,持石壓樹枝,則實不墜。』がそれである。東洋文庫訳では、その誤りを指摘していない。なお、以下の引用二重鍵括弧は、見当たらない箇所、及び、東洋文庫訳に挿入された分離鍵括弧に従った。]』≪と≫。『凡(なべ)て、果(このみ)、皆、然《しか》り。女子《によし》、艶-粧(けわい[やぶちゃん注:ママ。])して、之れを種《う》≪う≫れば、他日、花、艶色にして、桃≪の實は≫、核《さね》を離《はな》る』。『凡《およ》そ、八、九月、桃、熟する時、墻⻆《かきねのかど》の頭(ほとり)に、寛(ひろ)く、深(ふか)く、坑(あな)を作り、先づ、濕(しめ)りたる牛の糞を將《もつ》て、坑の中に內(い)れ、上へ、土を加《くは》へて、好《よ》き核《さね》を取り、浄《きよ》く洗≪ひ≫、尖りたる頭を、下に向《むか》へ[やぶちゃん注:向けて置き。]、厚≪き≫土にて、蓋《おほ》ふこと、尺許《ばか》り。春、深くして、芽(め)を生ず。和《やはらげ》なる泥にて、肥≪えたる≫土に移し栽へ[やぶちゃん注:ママ。]、杏・李を接《つぐ》。尤《もつとも》、妙《た》へたり。』≪と≫。[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、割注で、以上を「古今醫統」の『(通用諸方、花木類)』とする。]

『收貯《をさめたくはふ》る法。麫(こむぎこ)を用≪ひて≫、麩(こかす)[やぶちゃん注:小麦の皮のかす。「ふすま」。]を連《つ》≪れにして≫、粥《かゆ》に煮、鹽、少≪し≫許《ばかり》を入れて、冷《さむ》るを候《まち》て、新しき缸(つぼ)に、桃、未だ熟(う)れざる者を以つて、中に內(い)れ、傾≪け≫入《い》≪れて≫、缸の口を宻封≪す≫。冬に至りて、新《あたらしき》なるがごとし[やぶちゃん注:時を経ても、新鮮なままで、瑞々しいことを言う。]。』≪と≫。[やぶちゃん注:同じく東洋文庫訳では、割注で、以上を「古今醫統」の『(通用諸方、花木類)』とする。]

 「万葉」

   我が宿の

     けもゝの下《した》に

    月よさし

       した心《ごころ》よし

      うたてこのころ     人丸

[やぶちゃん注:「人丸」とするが、後掲する通り、作者不詳で、誤りである。

△按ずるに、或る書に曰はく、『伊弉諾尊(いさなきのみこと)、桃の子《み》三箇を採りて、火𠢐女(ひさめ)を擊《う》つ。悪卒《あくそつ》、皆、去る。依《より》て、桃の樹を勅《みことのり》して、名《なづけ》て「稜威神富命(いつのかんとみの《みこと》)」と曰《いふ》。』≪と≫。又、「日本紀」に、桃を以つて、鬼《おに》を逐《お》ふ事、有り。和漢の事、實相《じつさう》、同じ。

 凡そ、桃の實の、頭《かしら》、微《やや》、尖り、曲《まが》る者、肉の核《さね》を離るゝ。而≪れども≫、味、甘く、美ならず。樹に在≪るも≫亦、久《ひさ》に耐《た》ふなり。頭、尖らざる者、能く、核を離るゝ。而≪れども≫、味、酸《さん》を帶びて、美ならず。樹に在≪るも≫亦、久《ひさし》からず。

 桃仁《たうにん》は、山城伏見の産、良し。備前岡山、及び、紀州の産、之れに次ぐ。備後、亦、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:「桃」のタイプ種は、日中ともに、

双子葉植物綱バラ目バラ科モモ亜科スモモ属スモモ節(この「節」は境界が明確でない)モモ Prunus persica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。長いので、指示せずに省略した部分もある)。『原産地は中国やペルシャとされる。果樹・花木として世界各地で品種改良されて栽培される。春には五弁または多重弁の花を咲かせ、夏には水分が多く甘い球形の果実を実らせる。未成熟な果実や種子にはアミグダリン』(amygdalin、C20H27NO11)『という』危険性を持つ『青酸配糖体が含まれる。観賞用はハナモモという。中国では邪鬼を払う力があるとされた』。『モモの語源には諸説あり、「真実(まみ)」より転じたとする説、実の色から「燃実(もえみ)」より転じたとする説、多くの実をつけることから「百(もも)」とする説などがある』。『漢字の「桃」は、発音を表す「兆」と』、『意味を示す「木」とから構成される形声文字である。発音表記である「兆」の部分を「きざし」と解釈して、「古い桃の品種は核(種子)が簡単に割れたので』二『つに割れることは』、『めでたい兆しとされ、『桃』の字が作られた」と説明されることがあるが、これは民間俗説に過ぎない』。『英名ピーチ(Peach)は“ペルシア”が語源で、ラテン語の persicum malum』(音写:プルヌス・ペルシカ)『(ペルシアの林檎)から来ている。学名の種小名 persica 』(音写:ペルシカ)『(ペルシアの)も同様の理由による』。『落葉広葉樹の低木から小高木。樹高は』五『メートル』『ほどになる。樹皮はサクラ類に似るが、銀白色を帯びることがあり、老木では黒みが増して縦に裂ける。一年枝は緑色から赤褐色で細点があり、無毛か短毛が残る。葉は互生し、花よりやや遅れて茂る。幅』五『センチメートル、長さ』十五『センチメートル程度の細長い形で、葉縁は粗い鋸歯状』。『花期は』三『月から』四『月上旬ごろで、薄桃色の花をつける。淡い紅色であるものが多いが、白色から濃紅色まで様々な色のものがある』。五『弁または多重弁で、多くの雄しべを持つ。花柄は非常に短く、枝に直接着生しているように見える』。『果期は』七『月から』八『月で、球形で縦に割れているような筋が』一『本あるのが』、『特徴的。果実は赤みがかった白色の薄い皮に包まれている。皮の表面には毛茸(もうじ)が生えている。果肉は水分を多く含んで柔らかい。水分や糖分、カリウムなどを多く含んでいる』。『冬芽は互生し、長卵形で』四~十『枚の芽鱗に包まれており、灰色の毛に覆われている。花芽は葉芽よりも大きく』、一~三『個が集まってつく。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個つく』。『原産地は中国からペルシア(現在のイラン)、アフガニスタンなどに渡る地域とされる。ヨーロッパ(欧州)へは紀元前にシルクロードを通り、ペルシア経由で紀元前後ごろに伝わった。アメリカ大陸へは』、十六『世紀ごろにスペイン人やポルトガル人によって持ち込まれ、そこから南北アメリカへと広まった。日本へは縄文時代から食べられていたと考えられ、相当古い時代に中国から渡来したものと見られている』。『中国では裴李崗文化(約』七千五百『年前)において、モモの出土が確認されている。日本では長崎県の多良見町にある伊木力遺跡から、縄文時代前期(約』六千『年前)の日本最古となる桃核が出土しており、これが日本最古とされている。弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化し、各時代を通じて出土事例がある。桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串』(いぐし/いみぐし:「斎(い)み清められた串」の意で、榊(さかき)や笹などの小枝に幣(ぬさ)を掛けて神に供えるもの。今の「玉串」。)『など祭祀遺物と伴出することもある。平安時代 - 鎌倉時代には日常的な食材となり「菓子」として珍重されていたが、当時はスモモ』(スモモ属スモモ Prunus salicina )『程度の大きさで』、『明治時代以降のモモとは異なる果実と考えられており、それほど甘くなく』、『主に薬用・花の観賞用として用いられていたとする説もある。江戸時代にさらに広まり』、本「和漢三才圖會」『では「山城伏見、備前岡山、備後、紀州」が産地として挙げられるほか、諸藩の』産物帳『にはモモの品種数がカキ、ナシに次いで多く、特に陸奥国と尾張国に多いと記されるほど、全国で用いられるに至った』。『明治時代の中頃には、甘味の強い水蜜桃系(品種名:上海水蜜桃など)が輸入され、食用として広まった』。明治八(一八七五)年、中国の『清』『を調査していた内務省の武田昌次と岡毅、通訳の衣笠豪谷は、日本へ帰国時に多くの種苗を持ち帰ったが、その中に上海種と天津種の水蜜桃』(=モモ)『があった。現在日本で食用に栽培されている品種は、この水蜜桃系を品種改良したものがほとんどである。昔の桃は小ぶりで固く、果汁も少なかったとみられているが、現在の日本ではやわらかくて果汁が多いタイプの桃が主流で、これら栽培種の多くは岡山県の』品種『「白桃」』(Prunus salicina f. alba(單瓣白桃)・Prunus salicina f. albo-plena(千瓣白桃))『が元になっている。「白桃」は』明治三二(一八九九)年『に岡山県磐梨郡可真村(現在は岡山市の一部)の大久保重五郎が上海種の実生から優秀な品種を発見したもので、さらに改良を進めて』昭和二(一九二七)年『には新品種「大久保」を誕生させた』(「大久保」の品種学名は、いっかなフレーズを用いても、検索に掛らなかった。されば、以下の品種も学名品種名は示さない。以下、「品種」の総論部。『食用の品種(実桃)の分類を以下に示す。果実を食用するモモは、品質調査と消費者の嗜好調査を行うとともに、少低温要求性品種、ネクタリンや蟠桃品種、多様な果色や果肉の品種、高品質品種といった品種開発が行われていて、特に実のかたさ、糖度、酸味、香りが重要視されている。モモの品種は非常に多くあるが、欧米ではリンゴやブドウは品種表示されることになっているが、モモの品種名は任意表示であることから、消費者による認知度は低いと考えられている』。『世界で栽培される品種の多くは、アメリカのカリフォルニア州で育成されたものである。特にネクタリンの「Big Top」は、ヨーロッパ市場に大きな影響を与えた品種である。日本と中国は果肉が白く酸味が少ない品種、アメリカでは果肉が黄色く酸味がある品種、スペインやラテンアメリカ諸国では』、『不溶質で』、『果肉が黄色い品種が伝統的に好まれるが、嗜好の多様化も進んでいる。中国の主要品種は』五十四『種あり、そのうちモモ類が』二十三『品種、ネクタリン類が』九『品種、蟠桃のモモ類が』七『種、蟠桃のネクタリン類が』八『種、観賞用』七『種であり、約』八十五『%が中国育成品種である。日本の「倉方早生」「大久保」も中国の主要品種に含まれている。近年においては米国のテキサスA&M大学の農学生命科学部園芸科学科チームとテキサスA&Mアグリライフ研究所の研究者による合同育種プログラム計画で生産者』並びに『消費者向けの品種が増加しており、桃とネクタリンの新品種』四十『種が市場に導入されている』とあって、「水蜜(すいみつ)種」として、『白桃(はくとう)・白鳳(はくほう)系』の代表品種が九種、『黄桃(おうとう)系』が四種、変種である「ネクタリン(Nectarine)種」が三種、「蟠桃(ばんとう)種」には、タイプ品種について、『扁平な形をしている。中国神話では、西王母と関連がある』。「西遊記」では、『孫悟空が食べた不老不死の言い伝えがあ』り、『中国原産で、果実は真ん中が窪んでいて、潰れたような異形が特徴。種は小さく』、『可食部が多い。果肉は黄色で蕩けるような食感、やや強い酸味と強い甘味がある。平桃(ピンタオ)や座禅桃(ざぜんもも)、ペッシュ・プラット(Pêche plate)、UFO・ピーチ(UFO Peach)など様々な呼び名や通称があり、海外(特にヨーロッパ地域)では比較的たくさん出回っているが、日本では栽培そのものの難しさにより』、『生産者の数が少ないことや』、『栽培地域が限定されているために、とても希少な果物として扱われている』として、七品種を挙げている。最後に、『その他』として、『ハナモモ』(花桃)『と呼ばれる観賞用の品種(花桃)は源平桃(げんぺいもも)・枝垂れ桃(しだれもも)など』を掲げ、「源平桃」と「照手水密」』(てるてすいみつ)『を挙げてある。以下、「栽培」の項。『栽培の分布地域は経度南北三十~四十五『度の範囲にあり、北米はカナダ南部からフロリダ北部まで、ヨーロッパはイタリア・スペイン・トルコ・ギリシャなど、アジアは中国や日本、南半球はチリ南部やオーストラリア南部、南アフリカ南部あたりが相当する。モモは比較的水が必要な果樹で、乾燥地では灌水栽培されるが、その一方で、水が多すぎるなどの嫌気条件には最も弱い果樹のひとつでもある』。『食用に生産されるモモは、気象、土壌、穂品種に適する台木が必要で、接ぎ木親和性、樹勢、耐寒・耐湿性、センチュウ』(線虫で、脱皮動物上門 Ecdysozoa線形動物門 Nematodaに属する種の内、樹木に寄生する種群を指す。モモ寄生では、双腺綱 Secernenteaティレンクス目 Tylenchidaプラティレンクス科 Pratylenchidaeプラティレンクス属 Pratylenchus のネグサレセンチュウ群(総称)が知られ、未確定種も含めて世界から約百種がいる)『抵抗性など、多様な台木が作られている。台木はには、モモ、スモモ、アーモンド、ベニバスモモ(ミロバランスモモ)、ユスラウメ、これらの交雑種が使われている。一般的な樹形は、低樹高開心形、V字形、Y字形、主幹形であり、トレリス(誘引のために使用する園芸用のフェンス)』(trellis:原義は「格子」「格子状」の意)『を使って平面的な樹形に仕立てられることもある。果樹の中でも栽培には手間がかかり、受粉・摘果・収穫・調製・整枝・剪定などの労働時間が長いことが指摘されている。モモの施設栽培は、中国でハウスや日光温室が多く利用されている』。『摘花と摘果は、モモの収穫と並ぶ最も重労働な作業で、花と果実を間引いて、果実の肥大促進、品質向上、隔年結果の防止、着果多加による枝折れ防止のため行う。世界的には手作業による摘蕾・摘果は一般的ではなく、開花後』四十~六十『日後の幼果を減らす適果が一般的である。欧米では摘花・摘果機械も導入されている』。『北半球の栽培北限(南半球での南限)は冬期の霜害が関係し、反対に栽培南限(南半球では北限)は低温不足が関係している。これより暖かい地域では、標高が高いところで栽培したり、低温要求量が少ない品種を栽培している。越冬期には』、摂氏『マイナス』二十『度からマイナス』二十五『度程度まで耐えられるが、休眠があけて花芽がふくらみはじめると』、『耐凍性が徐々に低くなり、開花を迎えるころにはマイナス』二『度で被害が発生する。近年みられる地球温暖化の影響もあって、早春に気温が高い年は発芽が進み、その後の低温で遅霜』(おそじも)『の被害を受けることがあり、アメリカやヨーロッパの生産地では大きな被害を出している。降水量が少ない地域では』旱魃『が脅威となっており、アメリカのカリフォルニア州では表面水や地下水の利用が難しくなり、特に小規模生産者の存続が困難な状況になっている』。『気温・湿度条件は病害発生にも影響し、一般に高温多湿では、モモ灰星病』(原因菌:菌界子嚢菌門ズキンタケ綱ビョウタケ目ビョウタケ科モリニア属 Monilinia fructicolaMonilia mumecolaMonilinia laxa )『モモ炭疽病』(原因菌:糸状菌の不完全菌類であるコレトトリカム属の Colletotrichum acutatum や子嚢菌類のグロメレラ属の Glomerella cingulata など)『にかかりやすく、また冷涼条件では、うどんこ病、縮葉病が発生しやすい。春先の温度が低い時期に雨が良く降ると』、『縮葉病に掛かりやすく、実桃の栽培には病害虫の防除が必要である。また果実の収穫前には袋掛けを行わないと蟻やアケビコノハ』((通草木葉蛾:鱗翅目ヤガ(夜蛾)上科ヤガ科エグリバ亜科エグリバ(抉り翅)族 Eudocima エグリバ属アケビコノハ Eudocima tyrannus )『等の虫や鳥の食害に合うなど(商品価値の高い果実を得ようとするならば)手間暇が掛かり難易度が高い果樹である』。「生産と流通」の項。『日本や米国ではモモの生産量、消費量ともに減少傾向にある一方で、中国やスペインでは生産量が増加しており、特に中国は幅広い地域で栽培が行われ生産量が急増している。スペインは世界最大のモモの輸出国であり、長期にわたりヨーロッパ市場に出荷している。収穫後のモモは常温で成熟、老化が急速に進みやすく、日持ちしない果物であるため、世界の輸出量はすべての果物の中でも少ない方である。低温下では成熟、老化する速度がゆっくりになるが、流通に際して、モモ果実を冷蔵貯蔵することによる低温障害が大きな課題になっている。低温障害が発生すると、果実の外見は健全であっても、内部の褐変や粉質化によってジューシー感が失われてしまう』。『モモの果実はやわらかいので押し傷、擦り傷などを受けやすく、収穫、搬送、選果などでは丁寧な取り扱いが必要である。日本以外の国では、選果ラインで傷がつかないように、軟化する前の硬めの果実が収穫されていて、遠距離市場向けに出荷する場合には、早めの収穫になりがちである』。『主な生産国は、中国、スペイン、トルコ、ギリシャ、イラン、アメリカ、イタリアなどである。世界のモモ産地の多くは、日本よりも暖かく、降水量が少ない地域である。アメリカ最大の生産州はカリフォルニア州で、そのほかサウスカロライナ州やジョージア州にも産地がある。世界のモモ(ネクタリンを含む)生産量は』二〇二〇『年統計で』二千四百五十七『万トンに達し、世界最大の生産国は中国であり、その生産量は』千五百一『万トンで他国を圧倒する。中国は幅広い地域でモモの生産が行われており、山東省だけでも生産量』二『位のスペインの』二『倍以上ある。モモ・ネクタリン類のうち、日本ではネクタリンが占める割合は』一・五『%と非常に少ないが、中国などの主要産出国やスペイン、オーストラリアなどの輸出国では』二十~六十『%ほどあり、ネクタリンの占める割合が』、『かなり大きい』。『モモの輸出量が多い国は、スペイン、トルコ、ギリシャ、チリ、ウズベキスタンなどで、輸出地は日もち性が悪いことも関係して、近隣国に出荷することがほとんどである。南半球のチリやオーストラリアから北半球向けに輸出されるが、その取り扱い量は少ない。年間消費量が多い国はイタリア、スペイン、チリ、中国などがあり、特に一人あたりの最大消費国はイタリアでは、個人の年間消費量は』一人当たり二十『キログラム』『に達する。世界的にみて、中国では生産量の増加に合わせて消費量も拡大している。その一方で』、『アメリカと日本は、モモ消費量の減少が顕著となっている』。『日本では主に山梨県、福島県、長野県など降水量の少ない盆地で栽培される。日本最北端の生産地は北海道札幌市であり、出荷数は極僅かだが』、『南区の農園で栽培される。日本では』、『モモの栽培面積と収穫量が緩やかに減少する傾向にある』。『果実は食用、花は観賞され、庭木として植栽に用いられたり、あるいは華道で切り花として用いられる。材は割れにくく丈夫であるため、箸などに利用されている。樹皮の煎汁は草木染めの染料として用いられる事がある』。『栽培中、病害虫に侵されやすい果物であるため、袋をかけて保護しなければならない手間の掛かる作物である。また、傷みやすく収穫後すぐに軟らかくなるため、賞味期間も短い。生食する他、ジュース(ネクター)や、シロップ漬けにした缶詰も良く見られる』。『果実の旬の時期は』七~九『月ごろで、全体に産毛があり、左右対称でふっくらとしているものが市場価値の高い良品とされる。選ぶときは果皮の色がよく甘い香りがあるのもがよく、軸周辺の色が緑色のものは未熟である。かたいものは常温において追熟させ、食べる直前に』一『時間ほど冷蔵庫で冷やすとよいといわれる。冷蔵で冷やしすぎると』、『甘みが落ちてしまうが、果肉は冷凍保存もできる』。『生食する場合は柔らかく熟してから食べるのが一般的。流通においてもそれに近い状態で取り扱われるため、客へ向けて特に手を触れないよう注意書きをしている店舗も見られる。しかし、山梨県では齧った際にカリカリと音がするほど固く熟しきっていない状態が好まれるなど、多少の地域性も見られる』。『代表値で可食部』百『グラム』『あたりのエネルギーは』四十『キロカロリー』『で、水分は約』八十九グラム、『タンパク質は』〇・六グラム、『脂質』〇・一グラム、『炭水化物』十・二グラム『が含まれている。その他成分として、腸の調子を整えたり』、『便秘解消に役立つ食物繊維ペクチンが多く含まれ、ほかには高血圧予防によいカリウム、コレステロール改善によいナイアシン、抗酸化作用があるカテキンやビタミンCが含まれている』。以下、「薬用」の項。『薬用とする部位は、種子、葉、花、成熟果実である。種子の内核は桃核(とうかく)あるいは桃仁(とうにん)とよばれ、成熟果実の中の核を割って種子を取り出し天日乾燥させて調整する。葉は桃葉(とうよう)、花は桃花(とうか)とよばれ、葉は』六~七『月ごろ、花は開花期に採取したものを天日乾燥して調整する。また』、『成熟果実は桃子(とうし)ともよばれ、市販のものが使われる』。『種子(桃仁)は生理痛、生理不順、便秘に対する薬効があるとされ、漢方においては血行を改善する薬として婦人病などに用いられる。民間療法では、桃仁』一『日量』二~五『グラムを』四百『ccの水に入れて煎じ』、三『回に分けて服用する方法が知られる。生理初期に刺すような痛みがあり』、『塊が出ると』、『楽になるような人、ころころ便の便秘によいといわれる一方で、妊婦や貧血気味の人への服用は禁忌とされる。また、花(桃花)はむくみ、尿路結石、便秘に対する薬効があるとされ、利尿薬、便秘薬に使われる。民間療法では、利尿やむくみとり、便秘の改善に』、一『日量』二~三『グラムの桃花を』四百『ccの水で煎じて』三『回に分けて服用する方法が知られる。ただし、妊婦への服用は禁忌とされる。果実もまた』、『便秘によく、のどの渇きを潤し、腹部を温める効果があるが、妊婦や胃腸に熱がある人は多食しないよう注意が呼びかけられている』。『葉(桃葉)は、あせも、湿疹に薬効があるとされ、乾燥葉を布袋に入れて浴湯料とし湯に入れた桃葉湯は、あせもなど皮膚の炎症に効くとされる。ただし、乾燥していない葉は青酸化合物を含むので換気に十分注意しなければならない』。『なお、シラカバ花粉症を持つ人のうち一定割合の人がリンゴやモモなどバラ科の果物を食べた際』、『舌や咽喉(のど)にアレルギー症状を起こすことが知られている』。以下、「文化」の項。まず、「桃饅頭」。『中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物・果物として親しまれている。桃の木で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる。戸口や門に赤い紙でできた春聯(しゅんれん)』(中華圏に於ける春節の風習の一つで、赤い紙に各種縁起の良い対句を書いたものを指し、家の入口などに貼るもの。当該ウィキを参照されたい)『が飾られるが、春聯は別名で桃符(とうふ)ともよばれ、本来は桃の木から作られた薄い板でできていた』。『桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・寿桃(ショウタオ、繁体字: 壽桃、簡体字: 寿桃、拼音: shòutáo)を食べる習慣がある。寿桃は日本でも桃饅頭(ももまんじゅう)の名で知られており、中華料理店で食べることができる。寿命をつかさどる女神の西王母とも結び付けられ、魏晋南北朝時代に成立した漢武故事(中国語版)などの志怪小説では、前漢の武帝が西王母の訪問を受け、三千年に一度実をつける不老長生の仙桃を授かったという描写がある。さらに後代に成立した四大奇書のひとつ』「西遊記」の『主人公孫悟空は、天上宮に住む西王母が開く蟠桃会に供された不老不死の仙桃を盗み食いしている』。『日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う霊力があると考えられていた』「古事記」『には、オオカムズム』(「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」と表記する。当該ウィキによれば、『「大いなる神のミ(霊威)」の意味であるが、大いなる神の実と解釈し、「大神実命」と表記する場合もある』とある)『の名で桃の神様として登場する』「日本書紀」『では、黄泉の国でイザナミの追手から逃げるイザナギが、黄泉比良坂に辿り着いた際、そこにあった桃の実を投げつけて、追手を退散させて逃げ延びることに成功した。イザナギはその功を称え、桃に意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという』。三月三日の『桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事である。モモはウメよりも花期がやや遅く』、三『月に花が咲くことが桃の節句と呼ばれる所以である。桃の花を飾って祈願する風習は、女子が妊娠を希望して子供を授かり、その子の誕生を祈ることも意味した。桃の核(種子)の中心にある空間は、竹の桿(かん)の中空と同様に、神の居場所と考えられていた』。『英語圏においては、傷みやすいが』、『美しく美味しい果物から』、『古い俗語で「若く魅力的な娘」を表し、そこから「ふしだら女」「(複数形で)乳房」などの意味にも転じている』。以下、モモならざる『“モモ”の名を持つ植物』の項以下があるが、各自で見られたい。ルーティンの学名を附すのが、面倒だからである。而して、以下のゾロゾロと出る変種・品種の学名も、えらく時間が掛るので、同様に学名を示さない。実際、邦文論文でも品種の学名リストは見当たらなかったし、最大数のモモの種を有する中国のサイトでも、学名を記すものに行き当たらなかったからである。悪しからず。

 「本草綱目」の引用は、「卷二十九」の「果之一」の「五果類一十二類」の「桃」(非常に長い)のパッチワークである。昨日より、「漢籍リポジトリ」がアクセス出来ない状態が続いているので、「維基文庫」の同書の「桃」の項をリンクさせておく。

「李桃(ずばい《もも》)」確かに、「本草綱目」の「桃」には、『李接桃則爲李桃』(李に桃を接げば、則ち、李桃と爲る)とあるが、これは、現在のネクタリン、

モモ属モモ変種ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina

を指す個人サイト「GKZ植物事典」の「ネクタリン」によれば、『わが国では、古くから栽培されてきているが、渡来時期不詳。』とされ、『ネクタリンが我が国では長野県で多く栽培されている。』とあるからで、確かに、既にズバイモモ=ネクタリンは本邦に渡来していたと考えられるものの、果して、本邦の『俗』=当時の大衆が、「ずばいもも」と呼び慣わすほどに一般的に知られてあったと考えるには、私は、二の足を踏むからである。但し、割注に、『和名、「都波木桃《つばきもも》」。俗、云ふ、「豆波以桃《づばいもも》」。』という謂いについては、リンク先の「備考」で、『現在、「ズパイモモ」の和名が一般化しているが、『牧野 新日本植物圖鑑』(北竜館)では、故牧野富太郎博士は本種を「ツバイモモ」と記している、そこで、個人的な推測であるが、本種は、濃赤色に色づき、加えてほぼ球状の果実から、その姿をツバキの実にも似ていると感じたのであろう。そこで、ツパキモモ(椿桃)の名が生じたのであろう。その後、ツバキモモ→ツバイモモ→ズバイモモと転訛したのではなかろうかと考えている。そこで、漢字表記のコーナーは「椿挑」としている。』と記されているから、やっぱり、江戸中期には、それなりに知られていた種だったのだろうなと考えるしかないようだ。なお、「維基百科」のネクタリン相当の「桃駁李」には、別名を『甜桃、油桃、李光桃、光桃、奈』とし、的確に、『中国原産の果物で、アジアや北アメリカに分布している。過去の誤解に基づいて、「桃に梅」は、同じ属の梅の木に、桃を接ぎ木(「ピン留め」)して得られる果物であると考えられています。或いは、桃と梅の交雑種である可能性もある。見た目はプラムのようであるが、味や食感は桃に似ている。』とあり、さらに、『ネクタリンは古代の書物に記録されており、宋の時代にはすでによく知られていました。宋代の「本草衍義」(一一一六年成立)には、『汴中(べんちゅう:河南省にある北宋の都であった開封(かいほう)の古称「汴京(べんけい)」)には「油桃」が有り、他の桃よりも小さく、油のような光沢がある』と記載されており、学者らは、これが現在のネクタリンを指していると考えている。明の慎懋官(しんぼうかん)の著「華夷花木鳥獸珍玩考」にも、『京畿の油桃は他の桃より小さく、赤い斑点が有り、油のような光沢がある」と記録されている』とあって、更に、『近年の遺伝子工学研究により、実際、桃の形をしたプラムは桃の変種であり、その遺伝子は、劣化したゲノムが 一つだけ桃の遺伝子と異なることが判明した。従がって、桃の木に桃や梅が見られることもあれば、桃の木に普通の桃が見られることもある。』とあった。

「白朮《びやくじゆつ》」「白朮」は、キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica 、或いは、オオバオケラ Atractylodes ovataの根茎を基原植物とし、一般には、健胃・利尿効果があるとされるが、実際には、これらの根茎を、作用させる異なる器官(無論、漢方の)の疾患に、臨機応変に用いているようである。

「蒼朮《さうじゆつ》」「蒼朮」は、Atractylodes lancea ホソバオケラ、或いは、Atractylodes chinensis の根茎。

「手足の厥陰經《けついんんけい》」東洋文庫後注に、『体内をめぐる十二経脈の一つ。巻八十二盧会の注一参照。』とある。先行する私の「盧會」の注を参照されたい。

「香附子《かうぶす》」単子葉類植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus の根茎を乾燥させたもの。薬草としては、古くから、よく知られたもので、正倉院の薬物の中からも、見つかっている。漢方では芳香性健胃・浄血・通経・沈痙の効能があるとされる。

「桃梟《たうけう》」中文サイト「每日頭條」の「桃梟桃奴鬼髑髏,百無一用卻有藥用!」に十葉の実際の写真が載るので、見られたい。

『羿(げい)、桃棓《たうばい》【「棓」とは「杖」なり。】に死す』当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『羿(げい、拼音:イー)は、中国神話に登場する人物。后羿(こうげい、拼音: Hòuyì ホウイー)、夷羿(いげい)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である』。『羿の伝説は』「楚辭」の「天問篇」の『注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、羿射九日)が知られるほか、その後の時代に活躍した君主である后羿を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、前者を「大羿」、後者を「夷羿」や「有窮の后羿」と称し分けることもある。その大羿は中国神話最大の英雄の一人である』。『日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており』、「將門記」(石井の夜討ちの場面)や』、「太平記」(巻二十二)『などに弓の名手であったことや』、嘗つては、九『個あった太陽の内』、八『個を射落としたことが引用されているのがみられる』。以下、「羿射九日(いしゃきゅうじつ)」の項。『天帝である帝夋』(しゅん)『には羲和』(ぎわ/ぎか)『という妻がおり、その間に太陽となる』十『人の息子を産んだ。この十体の太陽は』、『それぞれ』、『鳥に乗せられていて』、『普段は極めて巨大な神樹である扶桑树の所で生息や入浴をしていた、そして交代で』一『日に』一『人ずつ』、『地上を照らす役目を負』い、『この十日を一旬と呼ばれることになる。ところが』、『帝堯』(ぎょう)『の時代に、太陽達が遊びたくて、いっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋は』、『その解決の助けとなるよう、天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に彤弓』(とうきゅう)『(紅色の弓)と素矰』(そそう)『(白羽が飾った弓矢)を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで』、一『つだけ残して』九『の太陽を射落とした。これにより』、『地上は』、『再び』、『元の平穏を取り戻したとされる』。『その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの凶獣(窫窳・鑿歯・九嬰・大風・修蛇・封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた』。しかし、後、『自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は万仭の崖を登り』、『崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬をもらって帰ったが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へ』、『しばらく』、『身をひそめることにする。そして、羿を裏切ったむくいで』、『体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことになったと言う説もある』。『なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に月餅を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある』。『その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、弟子である逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後』、『羿を殺してしまえば、私が天下一の名人だ。』と『思うようになり、ついに羿が注意していないうちに背後からを撲殺してしまった』(実はこの時、逢蒙が撲殺に使用したものが、桃の木で出来た太い杖、棍棒であったのである。最後に、その別な引用を出す)『このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった』。以下、「夏の時代の羿」の項はカットする。別に、龍尾山人氏のブログ「断箋残墨記」の「蟠桃小考」の中に、『前漢時代に成立した「淮南子」には、古代の伝説的な弓術の名人、羿(げい)が、桃の木で出来た棍棒によって、弟子の逢蒙に殴り殺される話が記載されている。また「礼記」には「君臨臣喪,以巫祝桃列執戈,鬼悪之也」とある。すなわち』、『君子が臣下の葬儀に際しては、巫女に桃で作った杖を持って並ばせ、悪鬼を避けるのとある。「春秋左氏伝」には「桃弧棘矢,以除其災」とある。すなわち桃の木で弓を作り、射れば災いを避ける、ということである。戦国・春秋時代には、家々の門に、桃の木で出来た人形を飾り、魔除けにしたという』とある。桃製の棍棒――神話世界の矢の名人の弟子で勇猛で野心家の逢蒙であれば、棍棒を杖とするのは、至って納得される――は、コペルニクス的転回点の重要な神聖なアイテムだったのである。

「古今醫統」複数回、既出既注

「万葉」「我が宿のけもゝの下《した》に月よさしした心《ごころ》よしうたてこのころ」「人丸」割注で述べた通り、「人丸」は誤り。作者不詳。「万葉集」の「卷第十」の「譬喩歌(ひゆか)」と題する一首、

   *

   譬喩歌

 我が屋前(やど)の

    毛桃(けもも)の下(した)に

   月夜(つくよ)さし

      下心(したごころ)よし

     うたてこのころ

   *

中西進氏の講談社文庫「万葉集」(二)(昭和五五(一九八〇)年刊)の脚注の訳に、『わか』(ママ)『家の毛桃の下に月光がさし輝き、何となく心の中が楽しい。ますます、近頃は。』とあり、注に、「毛桃」は『桃果は女性の比喩。』とされ、「月夜さし」は、『初潮の比喩。大切に守って来た女の成人を喜ぶ歌は多い。』ある。「うたて」は、『「うたてし」の副詞句。ウタタ。』とあるが、この場合は、物事の度合が異常に進んで甚だしい意を表わし、「なぜか非常に・ますます・いよいよただならず」で、ネガティヴな意味では、全くない。

「伊弉諾尊(いさなきのみこと)」私は濁音で読むことが嫌いであるので、カタカナの、そのままに読んだ。

「火𠢐女(ひさめ)」良安が、一体、何の書を元にしたのか、不明。訓読の際に、三十分以上、調べたが、判らない。この「火𠢐女」も、読みの「ひさめ」も、わけワカメだ。伊邪那岐を追って、遂に自身が黄泉国の軍団(ここで言う「悪卒」)を連れて追撃した伊耶那美(いさなみ)は、黄泉平坂(よもつひらさか)の出口で桃を投げられ、それを、食わねばならず(神話上の定番的御約束)、その隙に、伊邪那岐が呪的逃走に成功するのだが、伊耶那美を「火𠢐女(ひさめ)」と言う資料を私は知らない。識者の御教授を乞うものである。

2024/12/09

山陰地方の三泊四日の旅から帰還

三泊四日で、山陰地方を旅した。小泉八雲所縁の地を見て、今日は足腰が痛いが、激しく感動した。

2024/12/05

ブログ・アクセス2,300,000突破

昨日夜、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、私の「Blog鬼火~日々の迷走」が2,300,000を突破した。キリ番テクストは永らく已めて久しいが、取り敢えず、御報告のみ。まあ、臘月に目出度くは、あった。

2024/12/04

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 樃梅

 

Roubai_20241204103501

 

らうばい  樃【音朗】

      【乃是榆樹】

樃梅

 

 

[やぶちゃん注:「樃」も「朗」も、原本では、前者の中央、後者の(へん)の字は「既」の(つくり)と同じ字形である。しかし、孰れも異体字にこの字体は存在しないので、かく、した。]

 

本綱樃梅相傳眞武折梅枝揷於樃樹誓曰吾道若成花

開果結後果如其言樃木梅實杏形桃核毎歳采而𮔉煎

以獻之

 

   *

 

らうばい  樃【音「朗《ラウ》」。】

      【乃《すなはち》、是れ、榆《にれ》

       ≪の≫樹≪なり≫】

樃梅

 

 

「本綱」に曰はく、『樃梅は、相傳《あひつた》ふ、『眞武、梅の枝を折《をり》て、樃の樹に揷し、誓《ちはひ》て、曰はく、「吾が道《みち》、若《も》し、成らば、花、開(さ)き、果(み)、結(な)れ。」と。後《のち》に果して、其の言のごとし。樃の木にして、梅の實《み》≪なり≫。杏《あんず》の形、桃の核《さね》≪なり≫。毎歳《まいとし》、采《とり》て、𮔉煎《みついり》≪に≫して、以《もつて》、之れを獻《けんず》る。』≪と』。

 

[やぶちゃん注:この「樃梅」は、「梅」とあるが、双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mumeの仲間では全くなく(私自身、二十代まで梅の仲間だと思っていたのだが)、「蝋梅(蠟梅)」「臘梅」「唐梅(からうめ)」と漢字表記するものの、中国原産の落葉樹である、

双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ属ロウバイ Chimonanthus praecox

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)が、その前に、言及があるので、引用元である、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「卷二十九」の「果之一」の「五果類」の「」([073-17b]以下)を全文(短い)、以下に示しておく(かなり、手を加えた)。

   *

樃梅【「綱目」。】

 集解【時珍曰、樃梅、出均州太和山。相傳、真武、折梅枝挿於樃樹、誓曰、「吾道、若成、開花結。」。果、後、果、如其言。今、樹、尙在五龍宫北。樃木梅實、杏形桃核。道士、每嵗、采而蜜煎、以充貢獻焉。樃、乃、榆樹也。】

 氣味、甘酸、平。無毒。主治。生津、止渴、淸神下氣、消酒【時珍。】。

   *

『和名の「ロウバイ」の語源は、漢名の「蝋梅」の音読みとされ、由来について一説には、陰暦の』十二『月にあたる朧月(ろうげつ)にウメの香りの花を咲かせるためだと言われている』「本草綱目」によれば、半透明でにぶいツヤのある花びらがまるで蝋細工のようであり、かつ』、『臘月に咲くことにちなむという』。『中国の原産で、日本へ渡来したのは』十七『世紀初めの江戸時代ごろとされる。庭木として広く植えられている』(「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年であるから、見知っているはずだが、評言がないのは不審に思われるが、実は、ロウバイは実は、先行する『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 蠟梅』で出てしまっているのである。梅の仲間として、良安は別個に立項してしまったに過ぎないのであった。)『落葉広葉樹の低木で、高さは』二~五メートル『になる。株立ちし、樹皮は淡灰褐色で皮目が縦に並び、生長とともに浅く割れたようになる。葉は長さ』十~二十センチメートル『の細い長楕円形で、両端は尖る』。『花期時期は』一~二『月。早生種では』十二『月頃に、晩生種でも』二『月にかけて』、『半透明で』、『にぶいツヤのある黄色く香り高い花がやや下を向いて咲く。花色は外側が淡黄色で内側が暗紫色をしている。果実は痩果で一見すると種子に見え、花托が生長して壺状の偽果になり、中に偽果が詰まり』、『数個から』十『個程度見られる』。『冬芽は枝に対生し、葉芽は卵形で花芽は球形をしている。枝先には仮頂芽(葉芽)が』二『個』、『つく』。『ロウバイ属には他に』五『種があり、いずれも中国に産する。なお、ウメは寒い時期に開花し、香りが強く、花柄が短く』、『花が枝にまとまってつくといった類似点があるが、バラ目バラ科に属しており』、『系統的には遠縁である』。『ソシンロウバイ(素心蝋梅)や』、『トウロウバイ(唐蝋梅)などの品種がある。よく栽培されているのはソシンロウバイで』、『花全体が黄色で、ロウバイよりもよく結実する。ロウバイの基本種は、花の中心部は暗紫色で、その周囲が黄色である』。以下、「品種」の項。一部の和名・別名・学名等は私が調べて挿入してある。

●カカバイ Chimonanthus praecox f. intermedius(『狗牙蝋梅・狗蝿梅』)

●ソシンロウバイ Chimonanthus praecox f. concolor(『素心蝋梅』・『花被全体が黄色で、ソシン(素心)は純粋で汚れていないという意味がある』。また、『中心部の花弁が暗紫色にならない』)

●園芸品種マンゲツロウバイ Chimonanthus praecox ‘Mangetsu’(『満月蝋梅』)

●ソシンロウバイChimonanthus praecox f. concolor (『白花蝋梅』。別名『シロバナロウバイ』)

『ほかにも「揚州黄」「吊金鐘」などの栽培品種がある』(この二つは学名を探し得なかった)。

●変種トウロウバイ Chimonanthus praecox var. grandiflorus(『唐蝋梅』)

『「虎蹄」「喬種」などの栽培品種がある』(この二つは学名を探し得なかった)。以下、「栽培」の項。

『土壌をあまり選ばず、かなり日陰のところでもよく育ち開花する丈夫な花木である。繁殖は、品種ものの一部を除き挿し木が一般的だが実生からの育成も容易。種まきから最も簡単に育てられる樹種である。晩秋になると、焦げ茶色の実がなっており、中のタネ(真の果実)はアズキくらいの大きさである。寒さに遭わせたほうがよく発芽するといい、庭に播き』、五ミリメートル『ほど覆土しておくと、春分を過ぎてから生えてくる』。以下、「毒性」の項。『種子などにアルカロイドであるカリカンチン』(Calycanthine)『を含み』、『有毒。中毒すれば』、『ストリキニーネ様の中毒症状を示す。カリカンチンの致死量はマウス』四十四『mg/kg(静脈注射)、ラット』十七『mg/kg(静脈注射)である』。以下、「薬用」の項。『花やつぼみから抽出した蝋梅油(ろうばいゆ)を薬として使用する。中国では、花をやけどの薬にすると言われている』とある。

 なお、「維基百科」の同種は「蜡梅」(「蜡」は「蠟」の異体字)で、「文化」(古書の歴史的記述)が豊富である(ちょっと私には訳し難いので、各自で見られたい)。

「眞武」東洋文庫の後注に、『漢代の道士。もと浄楽国王の太子、幼時から神異あり、成長してから悪魔を除かんと志し、天神から宝剣を授けられ、四十余年して成就し、白日昇天したという。』とあったが、中文サイトで調べても、この人物、見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

2024/12/03

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 巴且杏

 

Amonndo

 

あめんとう  八擔杏

       忽鹿麻

巴且杏

       【阿女牟止宇】

 

 

[やぶちゃん注:「且」は誤字ではなく、「旦」の異体字である。なお、「忽」は原本では、上部が「匇」になっているが、異体字としては、存在しないので、「忽」とした。]

 

本綱云巴且杏出回回國今關西諸土亦有樹如杏而葉

小實亦尖小而肉薄其核如梅核殼薄而仁甘美㸃茶食

之味如榛子

△按巴且者國名𫩜哇國之属而近于咬𠺕吧今多出者

 咬𠺕吧波斯之産而阿蘭陀將来之今有俗謂阿女牟

 止宇者乃桃之類【出西王母桃之下】此與巴且杏大異

 

   *

 

あめんどう  八擔杏《ぱたんきやう》

       忽鹿麻《こつろくま》

巴且杏

       【≪和名、≫「阿女牟止宇《あめんどう》」。】

 

「本綱」に云はく、『巴且杏《はたんきやう》は、「回回國《かいかいこく》」より、出づ。今、關西《かんせい》より出づ。諸土にも亦、有り。樹、「杏《あんず》」のごとくにして、葉、小《ちいさ》く、實《み》も亦、尖り小《ちいさく》して、肉、薄く、其の核《さね》、梅の核のごとく、殼、薄くして、仁《にん》、甘く美なり。茶に㸃じて、之れを食ふ。味、榛-子(はしばみ《のみ》)のごとし。』≪と≫。

△按ずるに、巴且(あめんどう)は、國の名≪にして≫、「𫩜-哇(ジヤワ)の國」の属にして、咬𠺕吧(ジヤガタラ)に近《ちかし》。今、多く出《いづ》る者、「咬𠺕吧」・「波斯(パルシア)」の産にして、阿蘭陀《オランダ》、之れを、將来す。今、俗に「阿女牟止宇《あめんどう》」と謂ふは《✕→者》、有《ある》は、乃《すなは》ち、桃の類《るゐ》なり【「西王母《せいわうぼ》の桃」の下(もと)に出づ。】。此れ、「巴且杏」と≪は≫、大《おほい》に異《い》なり。

 

[やぶちゃん注:これは、もう、皆さん、「あめんどう」の読みで、大方、察しがついておられるものと思うが、英語の“Almond”で、

双子葉植物綱バラ目バラ科モモ亜科サクラ属アーモンド Cerasus dulcis

である。「維基百科」は「扁桃」で、Prunus amygdalus 学名を挙げるが、当該ページの右手にある囲み標題記事の「科学分类」の二つ下にある「異名」の「同模異名」を展開すると、シノニムであることが判る。因みにこの「同模異名」と言う中国語は「同タイプ異名」(homotypic synonym:同じタイプ種標本に対して、新たな名前が再命名されることにより生じるシノニム)を指すものである。以下、「アーモンド」のウィキを引く(注記号はカットした)。『落葉高木およびその果実の種子から作るナッツである。原産地は中央アジア』。『日本では古くはヘントウ(扁桃)と呼ばれ、その名のとおりアンズ、モモ(桃)やウメ(梅)の近縁種で、梅などに似た果実をつける。その果肉は薄く食用にならないが、種子の殻を取り除いた種子の部分が「生アーモンド」として、食用になる』。さて、以下で、『アーモンドの訛ったアメンドウ、またハタンキョウ(巴旦杏)とも呼ばれるが、スモモの一品種「トガリスモモ」も』とあるのだが、多くのネット記事に、この同じ解説が載るものの、これは、現行では誤りであり、このウィキの記事が、その元凶のようである。この考え方は、かなり古い認識による誤りであって、現在この「トガリスモモ」は「スモモ」(バラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicina )の別名であるのである。『ハタンキョウと呼ばれることがあるので混同が生じる。ヒトの咽喉にある器官「扁桃」は形が似ていることからきている』。『原産はアジア西南部。現在では南ヨーロッパ、アメリカ合衆国、オーストラリアなどで栽培されており、アメリカ合衆国カリフォルニア州が最大の産地である。日本では小豆島、鹿児島県湧水町、宮崎県、山形県で栽培されており、山形県では農産物として朝日町から栽培が始まり現在では天童市等でも栽培されている』。『樹高は約』五『メートルになる。日本では』三~四『月にかけて、葉のない枝に、アンズやモモとよく似た白色・桜色・桃色の花弁の端に小さな切り込みの入った花をサクラ同様』、『一斉に咲かせる』。但し、『花柄が非常に長いサクラの花と違い』、『アーモンドは花柄が非常に短く、枝に沿うように花を付けるため、桜色・桃色の花の品種の場合は』、『一見すると』、『モモの花のように見える』。七~八『月に実が熟する。果実が自然に落下することはないので、実の収穫の際には樹を「ツリー・シェイカー」』(英語は“almond shaker”。YouTubeのAndrea Holwegnerさんの“The "Shaker" - Machine that shakes almonds off a treeを見られたい。音量を落さないと、キョウレツなので、ご注意あれ)『と呼ばれる機械で揺さぶって実を落とす。日本では果実が熟す時期が梅雨時に重なるため、果肉が割れた時点で収穫を行わないと』、『腐敗したり』、『虫に食われたりする』。『スイート種(甘扁桃)とビター種(苦扁桃)があり、食用にされるのはスイート種である。スイートアーモンドには』、百『以上の品種があるとされるが、食用とされる主な品種は、ノンパレイユ(Nonpareil)、カリフォルニア(California)、カーメル(Carmel)、ミッション(Mission)、ビュート(Bute)などである。脂質を』五十五『%含む他、ビタミン』B2『も多く含む。ビター種は鎮咳などの薬用や着香料、アーモンドオイルの原料などとして利用される。ビター種の苦味はアミグダリンによるもので、一定量を摂取すると有害である。アミグダリンは加水分解されることで猛毒のシアン化水素を発生させる』。『ローストしてそのままや』、『塩味をつけて食べるほか、スライスしたり』、『粉末にしたりしたもの、粉砕してペースト状にしたものを、料理(コルマなど)や洋菓子(フィナンシェ、マカロン、アマレッティ、ヌガー、マルチパンなど)の材料にする。種子を水につけてからアーモンドミルクを絞って飲料とすることもある。ヨーロッパでは』、『特に中世にアーモンドやアーモンドミルクが料理に多用され、さまざまなレシピを生み出した。イランでは、未熟果をホレシュという煮込み料理に用いる。日本では、おつまみや栄養強化のスナック菓子として、小魚とミックスした「アーモンドフィッシュ」が販売されている』。『アーモンドの種子から絞ったアーモンドオイルは、料理に使われる他、キャリアオイル』(当該ウィキによれば、『Carrier oil』『は、アロマセラピーにおいて、主に精油(エッセンシャル・オイル)を希釈するための植物油である。マッサージオイルを作る際に使われる二次的原料と言うことができる。エッセンシャルオイルは基本的に非常に高濃度であって希少であり、原液のままでは強すぎて皮膚に直接使用することができない』とある)『としても用いられる』。『ビターアーモンドには青酸化合物であるアミグダリンが多く含まれるため、味が苦く、大量に摂取すると有毒である。鎮咳・鎮痙などの薬用、ベンズアルデヒドを多く含むため着香料、ビターアーモンドエッセンス、オイル(苦扁桃油)の原料として用いられる。イタリアのリキュール、アマレットの風味付けにも用いられる。イタリアなど製菓材料とする国もあるが、アメリカ合衆国などビターアーモンドの種子の市販を禁じている国もある』。以下、「栄養価」の項だが、省略する。『ヘブライ語で「見張る」「目覚める」という動詞を「サクダ」や「シャカッ」と言い、アーモンドはそれと同根で「シェケディーム」という。現代ヘブライ語では「シャケド」』『という』。『モーセの兄アロンの杖はあめんどうの木で作られており、その杖が芽を出し花が咲いて実を結んだことからイスラエルの祭司族の祖となるレビが選ばれた。そしてそのあめんどうの杖は、契約の箱の前に保存するようにと、旧約聖書』「民数記」第十七章第二十三節から第二十五節に『記述されている。なお、同じ』「民数記」『を教典に含む、ユダヤ教やイスラム教でも知られている』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷二十九」の「果之一」の「五果類」の「巴旦杏」([073-11b]以下)のパッチワークである。

「回回國《かいかいこく》」東洋文庫訳の割注には、『回回の旧地、新疆ウィグル自治区。』とするが、東洋史学者である竹島淳夫氏にして、これは、開いた口が塞がらない注である! 狭義の回族(ホウェイ族、或いは、フェイ族)は中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団を指すが(その一部の人々は、現在の「新疆ウイグル地区」にもいるのだが)、このように「回回國」と言った場合は、「ホラズム(ウズベク語:Xorazm/Хоразм)」で、中国の遙か西の、中央アジア西部に位置する歴史的地域であり、漢字では「花剌子模」と表記する。これは、ウィキの「ホラズム」にあるのだが、これに対応する「維基百科」は「花剌子模」を見ると、そちらには、はっきりと『至13始称“花拉子模”、“花剌子模”和“回回国”』とあるのである! これは、『十三世紀初めまでは、「花剌子模」は、中国では「回回國」と呼ばれていた。』と言う意味であろう。而して、ウィキの「ホラズム」にある地図によれば、カスピ海の南東沿岸から東方の位置に当たり、現在の、ウズベキスタンとトルクメニスタンの間に嘗つて存在した国であったのである!

「關西《かんせい》」東洋文庫訳の割注に、『函谷(かんこく)関より西。』とする。漢文でさんざんやった「鴻門之会」で覚えているだろう。一応、グーグル・マップのここだ。

「杏《あんず》」双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属杏子節 Armeniaca アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu 。先行する「杏」を見よ。

「巴且(あめんどう)は、國の名≪にして≫」東洋文庫訳の割注には、『パタン。スマトラの中西部。』とするが、現行の音写は「パダン」(Padang)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。インドネシア共和国の西スマトラ州の州都であり、最大の都市である。

「𫩜-哇(ジヤワ)の國」山川出版社「山川 世界史小辞典」から引く(コンマは読点に代えた)『ジャワJawa[インドネシア]』・『Java[英]』は、『インドネシアの主要島,面積』十三『万』平方キロメートル。『主要民族は西部のスンダ人、中部と東部のジャワ人、東部の一部のマドゥラ人である。すぐれた自然環境のもとで水稲耕作が発達し,古来』、『東南アジアの経済と文化の中心として繁栄した』。八『世紀以降』、『シャイレーンドラ朝、古マタラム王国、クディリ王国、シンガサリ王国、そしてマジャパヒト王国など』、『インド的な姿の国家が栄えた』が、十六『世紀からはイスラーム国家の時代になり』、十七『世紀には新マタラムが強大になったが、同世紀後半にはオランダの植民地化が進行し始めた。政治、経済、社会のあらゆる分野で』、『オランダ領東インド植民地の中心であり、インドネシア独立後も中心的位置を占める』。十九『世紀末以来』、『農村の過剰人口と貧困に悩んでいる』とある。

「咬𠺕吧(ジヤガタラ)」インドネシアの首都ジャカルタの古称(なお、近世、ジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところから、ジャワ島のことも指す)。

「波斯(パルシア)」ペルシャ。

「西王母《せいわうぼ》の桃」この後の三項目が、「せいわうほのもゝ 西王母桃」である。]

西尾正 守宮(いもり)の眼

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『ぷろふいる』昭和二一(一九四六)年七月号(通巻一号)に初出。底本は、所持する二〇〇七年三月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅱ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。傍点「﹅」は太字に代えた。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは』西尾正の『戦後第一弾となる』とある。]

 

 守宮(いもり)の眼

 

 ……馭者が急に手綱(たづな)を引いたために、馬が鬣(たてがみ)を振って跳躍し、ひひーんと一声高く嘶(いなな)いた。

 車輪がそれに伴(つ)れて、乾き切った街道に苦し気な軋音(きしりおん)を挙げて、車体は、前後左右にがらがらと揺れた。

 この馭者の処置はどうも普通ではない。

 何故なら行く手は、森こそ深く繁るれ、長い、平坦な道が白々と続いて、邪魔者らしいものは何一つ視界を遮ってはいないのだから。

 与志枝は突嗟に揺り上げられ、体が平衡を喪(うしな)って、覚えず青沼の腕に縋(すが)りついた。

 はっとして身を引いた時は既に男の、鋭い、見透かすような眼を頰に感じ、辛うじて蹴込(けこ)みに視線を落としたまま、しばらく胸の動悸をそれとなく押し殺していた。[やぶちゃん注:「蹴込み」この場合は、馬車に乗り降りする階段(ステップ)を指している。]

 「どうしたんだ?」

 青沼の声は、容貌の端麗な割りに、重い低音(バス)である。

 馭者が大仰(おおぎょう)に両眼を眩(みは)って、振り返りざま喘(あえ)ぐように言った。

 「旦那、青斑猿(あおまだらざる)に邪魔されました。もうこれ以上、車を進める訳には行きません!」

 陽に灼けた逞(たくま)しい頰からは血の気が失せ、手綱を握り締めた腕がぶるぶる震えて、中腰に己(おのれ)を支えている態(てい)は、何か、よほどの心的衝動(ショック)を受けたものと見える。

 何時(いつ)か与志枝の手は、同乗の青年の女のように細く、白い指に握られていた。彼女はそれを反撥しようとする意思と、従おうとする感情との相剋(そうこく)に、自分を腹立たしく思った。

 青沼は、逃れようとする女の指を、別に追おうともしない。

 「何だね、その青斑猿というのは?」

 「旦那はまだ、青斑猿のたたりを知らねえですかね?」

 馭者は意外の面持ちとともに、背後に己を脅かすものの潜むのを惶(おそ)れるように、窃(そつ)と声を忍ばせた。

 「こいつア恐ろしい奴です。こいつに道を横切られると、三日のうちに身内のもんが死人になるとか、家から理由の判らねえ火が出るとか、いろいろ取り沙汰されて居りますだ」

 そして、賺(すか)すように恐る恐る行く手に首を捻じ向けると、途端に嗄(しゃが)れた、頓狂(とんきょう)な叫びを挙げた。

 「ほら、ほら、あすこです!」

 車上の青年は馭者の唐突な驚き方に、腹を立てるよりかむしろ、可笑(おか)しくなったらしい。

 しかしなるほど、指差(ゆびさ)した所は十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ほど距たった苔蒸した岩で、その岩は、渓流に沿い、後ろに紅葉(もみじ)の繁みがあった。薄暗がりの中に一疋の野猿(やえん)が後脚(うしろあし)だけで立ち、腹部を見せて三人を代わるがわる瞶(みつ)めていた。その眼は変に疲れたようだった。両手を力なくだらんと垂らしてい、胸から胴に掛けて青黒い毛並みが、暮近い弱い夕陽の加減で斑(まだら)のように見えた。

 その鈍い様子ではよほどの老猿(ろうえん)なのであろう、が、好奇と恐怖の物々しい三つの視線を受けていることを悟ると、さすがに気まずくなったものか、照れるように面(おも)を叛(そむ)けて岩から岩を伝い、渓流の水際に繁茂する樹立(こだち)の中へ、ぴょんぴょんと跳び去って行った。

 「仙造、お前のような若者が下らぬ迷信に取り憑(つ)かれていては困るね。第一、こんな所で降ろされては、ここにおいでの美しいお嬢さんが、途方に暮れてしまうじゃないか。やってくれ、早く!」

 「迷信? 飛んでもねえこった」

 仙造と呼ばれた単純な馭者は、ひたむきにこう反駁(はんばく)した。

 「俺も始めア馬鹿らしい迷信だと思って居りました。けンど、源(げん)の野郎がやられてからは迷信たア言っていられなくなりましただ」

 「源?」

 「はあ。源は猟師です。山からの帰るさ、この街道で、猿に道を横切られました。源は剛毅(ごうき)な奴です。この野郎とばかり肩の道具を持ち直して、逃げようとする所を背後から、一発で射ち殺したんです。ところが、――(と、勝ち誇ったように)内(うち)へ帰って見ると、達者でぴんぴんしていた奴の嚊(かか)が、名の知れねえ病気でおっちんで居りましただ。それを俺ア、この眼で見て居りますだ」

 「分かった、分かった」

 この土地に伝わる馭者の古めかしい伝説に対して、合理主義の教養を身につけた車上の美青年は、不幸にして一向に不感症であるらしい。彼は相手の深刻な悩みに今度は濃い眉を寄せ、一瞬神経的な焦燥を見せると、衣囊(ポケット)から紙巻きを撮(つま)み出したが、火を点ぜぬうちに再び元の冷酷な表情に帰っていた。

 「仮に青斑猿の祟りが本当だったとしても、もう我々が出会ってしまったのだから、今更悔やんだとて仕方があるまい。それよりも、我々を目的地に着けてこそ、難を逃れる功徳(くどく)になると思うが」

 この論理はさすがに無智な馭者を納得させたらしい。彼は渋々手綱を引き始めた。

 馬車は再び陽を背負うて東へ東へ、M山中腹の館(やかた)「紅炫荘」を差して奥多摩の清冽な流れに添い、蜿蜒(えんえん)たる街道を疾走して行った。[やぶちゃん注:「M山」「奥多摩」で溪谷を遡っていることから、この山は「三頭山」(みとうさん:標高千五百三十一メートル。グーグル・マップ・データ)と思われる。「紅炫荘」は「こうげんそう」と読んでおく。無論、架空の私邸の別荘の名である。なお、現在の小河内ダム(起工式は昭和一三(一九三八)年十一月だが、「第二次世界大戦」の激化により、建設工事は昭和一八(一九四三)年十月に中断し、再開は後の昭和二三(一九四八)年九月で、竣工は私が生まれた昭和三二(一九五七)年の、十一月二十六日であった)によって形成された人造湖である奥多摩湖(正式には「小河内貯水池」)は、公開当時は、未だ、全く存在していない。「今昔マップ」の左の一八九四年~一九一五年の国土地理院図を見られたい。南西に三頭山を配しておいた。]

      *    *    *

 馬車が進むに伴(つ)れ、初夏の暮れ靄(もや)に霞んでいた、さながら絵のようだったM山も次第に物体化し、緑濃く鮮明に映り始めた。

 山麓から見上げる登山道は左右に曲がりくねった樹下道で、その行方(ゆくえ)が頂きへ続いていた。[やぶちゃん注:先の推定した「三頭山」であれば、サイト「山旅旅」の「【日帰り登山】東京の三頭山-難易度別ルート紹介&アクセス情報!初心者向けルートも紹介」が、写真・地図が完備しているので、見られたい。私(神奈川の県立高校教師時代、二校でワンダーフォーゲル部と山岳部の顧問を勤めた)は、残念ながら、登ったことがない。]

 車は四十五度の角度を保ち、速度を緩めてがらがらと登り始めた。与志枝も青沼も、それから憶病な馭者も、終始無言だった。

 やがて彼らの面前に古ぼけた二階建ての屋敷が現れた。そこは山の中腹を刔(えぐ)り取った台地であったが、背後の雑木林は、屋根甍(やねいらか)を被(おお)い隠すように茂っている。そこが目的の館(やかた)「紅炫荘」であった。

 館の前には、頭の禿げた腰の曲がった老僕が、額の汗を拭い拭い、彼らの着くのを待っていた。半纒(はんてん)に股引(ももひき)の泥に塗(まみ)れた百姓姿である。館から半町[やぶちゃん注:約五百四十六メートル。]ほど距たった窪地に畑が拡がり、草茸き屋根の粗末な小屋が見え、そこが老僕の住居であるらしかった。

 「嘉吉(かきち)。部屋は綺麗になっているかね? 二三日逗留する心算(こころづもり)だが早速(さっそく)風呂を焚いて欲しい」

 「は、はい!」

 老爺は手拭いを堅く握り、烈しく腰を跼(かが)めて肯(うなず)いたが、どうやら主人に対して、因業(いんごう)な田舎親爺に有り勝ちの頑(かたくな)な反感があった。

 青沼に続いて降りる与志枝の横顔をちらりと盗み見た眼も、ひどく侮蔑的である。その侮蔑の中に、或る種の敵意すら認められた。

 別荘は滅多に使われぬと見え、朽ち掛けた古風な冠木門(かぶきもん)から玄関まで、蓬々(ほうほう)たる雑草に狭(せば)められた前庭(まえにわ)が続いていた。その前庭に歩み入る時、嘉吉の眼にはもう変化が起こっていた。

 それは敵意や侮蔑ではなかった。とげとげしかった瞳は、何時(いつ)か劬(いた)わるような憐憫(れんびん)の情を宿(やど)し始めている。与志枝は何故(なぜ)ともなく、この老人に好意を覚えた。[やぶちゃん注:底本のルビの少なさには、本カテゴリを始めた最初から、かなり呆れている。「劬(いた)わる」なんぞ、とても若い読者には読めんぜ?]

 玄関が嘉吉の手によって開けられ、与志枝は青沼の跡に随って最初に雨戸の繰(く)られた、そこだけが洋風の、瞭(あき)らかに青沼が所有主になってから建て増されたらしい、白塗りの露台(バルコン)に入って行った。

 陽は全く西の山端(やまのは)に没して、その紅い余映が眼下の水面に揺れ、霧とも霞ともつかぬ濠々(もうもう)とした気流が無風の両岸に漂うている。しかもその戸外の風光が刻一刻黝(くろ)ずんで来るのが、その露台からよく判った。

 青沼は白襯衣(ホワイト・シャツ)の衿(えり)を拡げ、氷の破片を嚙みながら、籐椅子(とういす)の上に脚を延ばした。与志枝はまだ彼に背を向けたまま露台の端に立って、茫乎(ぼんやり)渓流の行方を瞶(みつ)めていた。

 「如何です、お気に入りましたか?」

 「ええ。……でも少し、淋し過ぎますわ」

 青沼が優しく問い掛けるのを彼女は、そのままの姿勢で答えた。顔を見られることが、心を見られるように思われたから。

 「ほう?」

 青沼は如何にも意外という風に、

 「貴女(あなた)はしかし、殊更淋しい所を御所望だったじゃありませんか?」

 淋しい所、人目の立たぬ所、そうだ、この男を殺すには、こういう辺鄙(へんぴ)な土地こそ好都合なのではないか!

 与志枝は腰紐と帯の間に奥深く潜り込ませてある短銃(コルト)の重圧を、今更のように強く強く感じた。[やぶちゃん注:「短銃(コルト)」隠れ銃器フリークの私としては、注したくなる。これは英語“Colt”で、アメリカ人サミュエル=コルト(Samuel Colt)が、一八三四年に発明した、世界初のシングル・アクション・リボルバー(Colt Single Action Revolver:回転式連発拳銃)のことである。以上の英文のグーグル画像検索をリンクさせておくが、ちょっと「腰紐と帯の間に奥深く潜り込ませ」るには、重い(約六百グラム)が、“The Fitz Special”辺りか(リンク先は英文ウィキの“Colt Detective Special”)。]

 それは彼女を苛立(いらだ)たせる鞭に似ている。

 彼女は劇しい胸の惑乱を感じた。

 「わたくし、ちょっと散歩をして参ります。何ですか、車に揺られて頭が重いのです……」

 処女はとかく逡巡するものだ、が、ここまで来た以上この女もやがて俺のものになる、焦(あせ)ることはない、焦ることはない。

 扉口に、蹌踉(よろ)めいて行く与志枝の後ろ姿を見送る青沼の白い顔が、黄昏(たそがれ)の余光の中に、仄(ほん)のり浮いていた。

      *    *    *

 彼女は、青沼との恋に破れて悶死した姉への誓いを果たすために、今宵彼の誘いに応じて紅絃荘にやって来た。表面は誘いに応じたように装うてはいたが実は、彼女は永い間この機会を待っていたのだった。

 姉雪枝は確かに美しい女だった。が、その美しさは、何かこう冷たい宝石のような陰性の美しさで、涙を垂らせば溶けてしまいそうな女だった。生まれつき病身であったことは謂うまでもない。その病身が彼女を暗い女にし、喜びも悲しみもたった一人の妹与志枝にすら明かさぬような女になっていた。

 その雪枝が、同じ会杜に慟いている青沼と恋をした。妹は、恋を求めるほど健康になった姉を祝福したが、結果は胎内に子供を宿し、しかもその子供を生まぬうちに結核に襲われた。(作者はこの、どこにでも有り勝ちの、雪枝の平凡な悲劇について、詳述しようとは思わない)

 与志枝は姉が二度も自殺を企てようとする所を救ったことがあった。二度目に失策(しくじ)った時、胎内に子供があること、そして相手の男が青沼であることを告げたのである。

 姉の屍体は枯れ枝のように長々と、アパアトの二人の部屋に横たわっていた。眼は、二つとも大きく何かを瞶(みつ)めているように開かれ、冷淡な、強くものに執着する力のない虚無感が妹には変に醜く見えた。彼女の死を悶死と形容するのは或いは適切でないかも知れない。何故なら与志枝がその開いている瞼(ひとみ)を閉じようとした時、男の愛撫を受けるように、姉の顔が微(かす)かに笑いで歪んだから。与志枝は慄然とした。

 最期まで彼女は青沼を憎むとは言わなかった。

 しかし与志枝の勇気は、この惨めな姉の忍従で百倍した。

 姉の死から半年あまり経った。この間(かん)与志枝は姓を秘して、徐々に青沼に接近することに成功した。彼が莫大な親の遺産を受け継いだ、そしてその遺産をたった一つの目的たる漁色行脚(ぎょしょくあんぎゃ)に費やしている一種の色魔(ドンファン)であることが判った。

 姉は、爛熟した女体に飽満した男の、新鮮な犠牲だったのだ。

 殺しても飽き足りない奴!

 ――与志枝の青沼に抱いたこの想念は、しかし、次第に変化して行かなければならなかった。何故なら青沼は、不思議に女性を惹きつける、得体の知れぬ魅力の所有者だったから。しかもその魅力は、精神的なものよりも肉体的なものの方が強かった。それが、精神的に憎み、肉体的に離れようとする女の意力を挫(くじ)いた。が、精神的に惹きつける所のない男に、愛を感じるとは考えられなかった。そこで与志枝は、その本態を探ろうとしたが、辛くも手許まで手繰(たぐ)り寄せられそうになる。その時、極まって首を出し思考を濁水(だくすい)に投ずるのが、青沼の生き生きとした唇や烈しい息使(いちづか)いだった。

 生きて青沼のものとなるか、殺害後自分も姉の許に行くか、この迷妄に彼女は悩み抜いた。

 彼女は日記に、「自分の最も軽蔑して来た恥ずかしい女、婬奔女(いんぽんおんな)、それが私だ! 生きる資格がない!」と書いた。

 それが今宵(こよい)、目前に迫っている。

 後(あと)数時間のうちに、いずれかの手段を選ばねばならない。与志枝は力なく首垂(うなだ)れ、渓流に沿うて、暗い方へ歩いて行く。

 振り返ると、河下(かわしも)の森の端(はし)に月が昇り始めていた。ミルクのように棚曳いていた霧が微かに青色を帯びて光り始めていた。思い乱れ、千々に悩む心情に操られて、足許もとかく蹌踉(よろ)めき勝ちなのである。

 歩むに伴れ、流れの響きが大きくなり優って行くようであった。そこは河鹿(かじか)の啼く淀みである。彼女はその啼き声に誘われるように、樹叢(じゅそう)の小道を伝い下(お)りようとした時、背後に人の蹤(つ)けて来る気配を感じ、ぎょっとして振り返った。[やぶちゃん注:「河鹿(かじか)」この場合は、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri を指す。本種を含み、別に異なる動物の「かじか」については、私のカテゴリ「日本山海名産図会」の複数の記事の中で、ガッツりと考証しているので、お暇な方は、是非、お読みあれかし。]

 月見草の生い繁った藪の中に、与志枝を見下ろして立っているのは、淡い光を半面に受けた老僕嘉吉の姿である。

      *    *    *

 嘉吉はしばらくの間、黙って与志枝を見下ろして立っていた。

 が、やがて、

 「お嬢さん。お前さんはまさか、早まったことをするんじゃあるめえな?」

 声音(こわね)は朴訥(ぼくとつ)ではあったが、自分の娘に言うように優しい。

 与志枝はじっと黙ったまま相手の眼を瞶(みつ)めていた。

 嘉吉は腕組みをし、また、探るようにぽつんと言った。

 「お前さんは今、危ねえ橋を渡ろうとしていなさる。俺の言うことが分かるかの?」

 「…………」

 「俺(おら)アお前さんのような、綺麗な娘が、若旦那のおもちゃになるのを、黙って見てはいられなくなっただ。お嬢さんは若旦那が、どねえに恐ろしい鬼だかまだ知んなさらねえのか?」

 与志枝は年老いた忠言者の言葉に魅せられたように、ほとんど無意識に、首を横に振った。

 「姿形は人並み以上じゃが心は鬼とは、ちょうど若旦那のことを言いますだ。先代の御主人が亡くなって若旦那がここの別荘の主におなんなすってから今日(きょう)が日まで、都(みやこ)から連れて来られた女子衆(おなごしゅ)の数は、十本の指じゃ利きましねえだよ」

 老爺は与志枝の手を取って元の道の方へ引き返し始めた。

 「中にゃアじごくや売女(ばいた)なんどもいただが、お前さんのような無垢な娘もいなすった。悪いことア言わねえ、とっとと東京さ帰んなさるがいい。もし決心がついたら、何時(いつ)でも俺(おら)が家の戸を敲(たた)いてくんろ。俺ア何時でも貴女(あんた)を逃がしてやりますだ」[やぶちゃん注:「じごく」特に最下級の売春婦。私娼。]

 彼は果敢な忠言を施しているという自己陶酔から、彼自身、眼に泪(なみだ)を溜め込んでいるようである。与志枝は一瞥以来、この老爺に感じていた好意が、偶然でないことを悟った。

 がしかし、告げられた事実は、皆与志枝の百も承知していることばかりではないか。憎むベき相手が憎めなくなった悩み、こんなことを単純な正義感に燃えた老爺に告げたとて何になろう。

 嘉吉は直ちに彼女の心中を看て取ったらしい。それは彼がこれまで、忠言を与えた女達が、一様に、与志枝のような態度を示したからに相違ないのだ。だから彼の瞳には一瞬絶望の光が射したが、すぐそれがまた、憐憫に変わった。ともかく諫めるだけは諫めてみよう、この一途(いちず)の意図が、縦に刻まれた眉間(みけん)に現れた。嘉吉は言った。

 「お前さんは、この館の恐ろしい出来事を知っていなさるかの? あれは鬼の家、先代からの邪婬の家なのじゃ!」

 与志枝は、紅絃荘の前の持ち主が誰であったか、そしてどういう事件が起こったかを知っていた。

 それは関西の某実業家夫妻だった。良人は永らく胃潰瘍を病み、静養地としてこの館に住んでいた。或る雨の夜、良人に較べて年若い妻が裏二階の寝室で、何者かに咽喉を刔(えぐ)られて死んでいた。容疑者として挙げられたのが、その土地を行商して歩く呉服商の、役者のような男だった。彼は山麓の料理屋で入浴中逮捕された。妻は良人に隠れてその男を慰(なぐさ)んでいたのである。しかし男は、被害者との醜行(しゅうこう)を、そしてその夜(よ)或る時間を夫人の寝室で過ごしたことを潔く自白しながら、犯行だけは必死に否定した。間もなく料理屋の番頭によって不在証明が立てられた。結局犯行は男の退去直後遂げられたことが明白となったが、屍体の咽喉笛(のどぶえ)から噴き出した血潮が床(ゆか)一面に流れ、それが何者かによって攪拌されたらしく、そこら中(ぢゅう)べたべたと足跡が印(しる)せられてあったが、それが人間の足跡ではなかった。続いて行商人は、寝室の窗(まど)に青斑猿(あおまだらさる)が覗いていたという「伝説」を持ち出した。当局は万全を期し、犯人捜査の手を緩めなかったが、村民は尽(ことごと)く不倫の妻が青斑猿の怒りに触れたものと信じ出した。しかも咽喉の斬り傷が刃物以外の何か鋭利な歯(は)乃至(ないし)牙(きば)によって刻(きざめ)られたことが後(のち)に推定され、どうやらこの勝負は村民側の勝ちに思われ出した。十年以上も前の出来事である。爾来その部屋はお定まりの「あかずの間」とされ、新しい持ち主の青沼が、殺された夫人の遠縁の血続きであるという。

 ――二人の前に館が現れた。

 「その婬らな血が、若旦那の体にも流れて居りますだ。よく考えなさるがいい。一生の岐(わか)れ目ですぞ」

 老爺はこう言い残してよちよちと暗い方へ進んで行った。

 「わたくし今夜、その『若且那様』を射ち殺すかも知れなくってよ。ピストルで」

 与志枝は収拾のつかない惑乱からやんぱちになったのかも知れない、そう叫んだ。

 嘉吉は驚いて振り返った。

      *    *    *

 暗い廊下を伝いながら、与志枝は自分に呟いた。「私はやっぱりこの館へ帰って来た。帰って来たということは、男に身を投げ出す意思なのだろうか、それとも、復讐の念からだろうか?」

 まだ不決断のままである。

 不決断のまま光の流れ出る半開きの扉を開けると、緩(ゆる)い藤色室内着(ラブエンダア・ガウン)を纒(まと)うた青沼の長身が、揺れ椅子の中に、折れ曲がったようになって淋しそうな顔で待っていた。[やぶちゃん注:「藤色室内着(ラブエンダア・ガウン)」lavender gown。]

 彼は時々、何か悲しみにでも虐げられた後のような、淋しい顔をしていることがあった。こういう時、お前を殺すぞと言ってピストルを突きつけても、彼はその引き締まった頤(あご)に自らを軽蔑するような笑いを浮かべ、こんなやすっぽい体、貴女に射たれれば本望です、というように欣然(きんぜん)と両手を拡げて来るように思われた。

 「お腹(なか)は空(す)きませんか。浴室の支度がしてありますよ」

 青沼が劬(いた)わるように言った。

 「はい」

 与志枝は用心深く浴室の方へ導かれて行った。浴室は長い廊下を出端(ではず)れの母屋(おもや)の端(はし)に在った。近づくと、そこから、郷愁のような湯気(ゆげ)の匂いがぷうんと鼻を搏(う)った。

 彼女は今、裸になろうとしているのである。それほど彼女は、男の魅力の前に信頼を置いているのであろうか。

 内部は白ずくめのタイル張りだった。が、所々剝げ落ち、天井から釣るされた電灯にも笠がなく、北の明かりとりの小窗(こまど)から夜空の星がきらきらと燦(きら)めいて見えた。

 タイルの床(ゆか)はひやりと冷たい。彼女は足の拇指(おやゆび)を折り縮めて湯槽(ゆおけ)に近寄って行った。

 四囲(まわり)は一層の静けさである。音といえば、遠くの水のせせらぎと、杜切(とぎ)れ杜切れの河鹿(かじか)、虫の声ばかりである。[やぶちゃん注:「四囲(まわり)」当て訓は私がした。]

 彼女がまさに体を浸そうとした時、浴室の扉がこつこつと鳴った。彼女は慌ててタオルで身

を被い、本能的に身を縮め、伺うようにそちらに向き直った。

 「与志枝さん」

 青沼の声である。が、毎時のきびきびした低音(バス)とは異なり、何故か脅えたような声音(こわね)である。与志枝は全裸のまま一層体を硬張(こわば)らせた。

 青沼のおどおどした声が続いた。

 「失礼お許し下さい。今まで居間にいましたが、何かに脅迫されているようで、怕(こわ)くて堪らないのです。淋しい、というか、怕い、というか、……」

 ぽつんと杜切(とぎ)れ、今度はすたすたと、早足で立ち去ろうとする気配がした。

 「青沼さん!」

 跫音(あしおと)は立ち止まった。

 彼女の呼び留めたのは、罪人の自ら掘った穴に自らが陥ち込んで行く寂寥(せきりょう)に、何かしら犇(ひし)としたものを覚えたからであった。しかしそれ故、この際与うべき言葉はない。短い沈黙があった。男の喘(あえ)ぐような声が聞こえた。

 「与志枝さん、屋根裏の物置に武器が蔵(しま)ってあります。それを取って来ます!」

 最後を叫ぶように言い、性急に階段を駈け上がる気配がし、戸を開ける音、曳出(ひきだ)しの軋音(しきりおん)、そして後(あと)は元の静寂に返る。

 与志枝は義務的に湯槽に浸った。

 荒廃した浴室の中に彼女の乳房が仄白(ほのじろ)く浮かんでいる。その白さが湯のあたたまりとともに、柔らかな紅味(あかみ)を増し、粘りつくような全身の皮膚が、今度はぴちぴちした弾力に充ち溢れ始めた。

 秘(ひ)めやかに水を使う音がする。石鹸が泡立ち纒(まと)いつく。

 と、何処かで、雨滴(あましづく)のような音がする。[やぶちゃん注:「雨滴(あましづく)」は私が勝手に降った。]

 二度、三度、与志枝はふと手を休めた。

 遠いようでもあり近いようでもある。

 何だろう?

 彼女の眼が自(おのずか)ら湯槽の中へ注がれた。仄(ほの)かな湯気を漂わせている表面に、真赤な、ダリアの花のような血点(けつてん)がぱっと散った。

 ぽちゃーん……続いての血滴(ちしづく)は、再前の血の拡がりの上に落ち、それが湯に崩れて卍巴(まんじどもえ)に、揺れ、散り、沈んで行く。[やぶちゃん注:「卍巴」「卍」や「巴」の模様のように、ある二つの対象が、互いに追い合って、入り乱れることを言う。]

 与志枝の全感覚が硬張(こわば)った。その硬直の視線が操られるように、燻(くす)んだ天井に移って行った。雨漏りのような赤い汚染が刻一刻拡がり、支え切れなくなると、丸い血滴となって真下の湯槽に落ちる。そこがつい先刻青沼の登って行った裏二階の物置であることに間違いはない。

 与志枝はもどかしいように着物を纒うた。後はただ機械的な動きに従っているだけである。ほとんど無意識に、屋根裏への階段を駈け上がって行った。

 扉は半開きになってい、室内の灯は消えていた。饐(す)えたようなものの異臭が、古黴(ふるかび)の毒気に混じって、与志枝の鼻腔を突き剌した。窗から斜めに月光が射し込み、末拡がりに床の半分を画然(かくぜん)と照らし分けている。そしてその光(ひかり)と暗(やみ)の堺目に、青沼が手足を投げ出して倒れていた。与志枝はむしろ本能的に彼を抱き起こそうとしたが、姉の幻影がそれを妨(さまた)げた。彼女はそれを硝子(ガラス)を打ち破るように打ち破り、ぐたりと延びた青沼の体を抱き起こした。首が嚙み切られ、血潮が噴出するその度(たび)に、飛び出た咽喉仏(のどぼとけ)がぴくぴくと痙攣していた。

 もどかしい裏切り者に代わって姉の復讐を遂げたものは、誰であろう?

 壁に住み、壁を爬行(はこう)するもの、――屍体から噴き出した血が一条の流れを為(な)し、足許に澱(よど)んでいた。その澱みには咬々(こうこう)たる月光が射し、小猫ほどもある一疋の守宮(やもり)が黒光りのする頤(あご)を涵(ひた)して、貪婪(どんらん)の胃の腑(ふ)を満たしていた。[やぶちゃん注:「爬行」這って歩くこと。]

 与志枝は、弾(はじ)かれたように、屍体から壁に跳び退(しざ)った。魔物はその気配に身の危険を感じたのか、それとも本能が飽満の域に達したのであろうか、やおら首を起こすと、鈍い五趾(ごし)の音をぼとんぼとんと床(ゆか)に響かせて、壁根(かべね)から次第にその吸盤を利(り)し、ぼろぼろに腐れ落ちた壁から、梁(はり)の喰い違った暗い天井裏に爬(は)い登って行った。そして中ほどまで来ると、ぴたりと腹をつけて留(と)まり、営養に怒張した胴体を蒟蒻(こんにゃく)のように震(ふる)わせて、間然(かんぜん)たる沈黙の夜気(やき)を引き千切(ちぎ)るように、げっこうげっこう、とけたたましい叫びを挙げた。

 自(みずか)らは一夫一婦の戒律に生き、不義を最も憎むと言われている守宮! 今二人目の犠牲者を血祭りに挙げて、それは制裁の歓喜か、裏切り者への怒りの叫びか、――与志枝はただ凝然として守宮の瞳を見た。

 鈍重(どんじゅう)で、陰性で、空虚で、張りも輝きもない、義眼のような姉雪枝の、臨終の瞳とそっくりであった。

 

[やぶちゃん注:最後に言っておくと、我々が、ごく普通に見かける「ヤモリ」は、爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属ニホンヤモリ Gekko japonicus である。私の家にも、二十四年来、同じ一族が何世代も繁栄しており、よく、トイレの窓に挨拶に来る。私は、勝手に、彼らが私の家(うち)の強力な守り神と信じている。さて、この話で、ヤモリが鳴いているのだが、実は、鳴き声を立てるヤモリは、日本の本土には棲息しないので、これは、フィクションである。沖縄に棲息するヤモリ亜科ナキヤモリ属ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus は鳴くが、「チョッチョ」とごくごく可愛い鳴き声である(YouTubeのM K氏の「沖縄 やもりの鳴き声」を見られたい)。本作のヤモリの鳴き声である「げっこうげっこう」は、私は、よく知っているが(タイとベトナムで、しっかり見、キョウレツな声も聴いた)、ヤモリ属トッケイヤモリ Gekko gecko である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ヤモリ属の模式種。別名トッケイ、オオヤモリ』。『インド北東部、インドネシア、カンボジア、タイ王国、中華人民共和国南部、ネパール、バングラデシュ、東ティモール、フィリピン、ブータン、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス。台湾にも分布するが、自然分布か移入されたかは不明。アメリカ合衆国(フロリダ州、ハワイ州)などに移入・定着し、ブラジルでの発見例もある』。『全長』十八~三十五『センチメートル。頭部は、三角形で大型。背面は細かい鱗で被われるが、やや大型の鱗が混じる。体色は淡青色で橙色の斑点が入る個体が多いが、個体変異や地域変異がある。斑点は、尾では帯状になる』。『森林に生息するが、農耕地や都市部でもよくみられる。名前は、鳴き声に由来する。おどされると噴気音を出して威嚇する』。『昆虫、ヤモリ類、小型鳥類、小型哺乳類などを食べる』。『繁殖様式は卵生』で、一『回に』二、三『個の卵を産む』。『伝統的に、タイなどの東南アジア地域では食用とされる他、薬用になると信じられていることもある。地域によっては、本種の鳴き声を』七『回連続で聞くと』、『幸福が訪れるという言い伝えがある』。『分布域が非常に広域で生息数も多いと考えられ、種として絶滅のおそれは低いと考えられている。一方で薬用になると信じられ』、『大規模に商取引されることによる影響も懸念されており、中華人民共和国では開発による生息地の破壊や乱獲により生息数が激減している』。二〇一九『年にワシントン条約附属書IIに掲載された』。『ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。主に野生個体が流通するが、扱いが悪く状態を崩していることもある。顎の力が強いうえに歯が鋭く、気性も荒いため思わぬ怪我をすることもあるので取り扱う場合は注意が必要。枝や流木・コルクバークなどを立てかけて、隠れ家にする。協調性がないため、単独で飼育する』とある。しかも、まさに私の経験では、「げっこうげっこう」と聴こえたのである。「嘘だ。」という御仁は、YouTubeの「フィリピン農園だより」氏の「【神秘の鳴き声】トッケイヤモリ(Gekko gecko)の鳴き声【トッコー】」を聴いて貰いたい。而して、問題は、生前、国外に出ていない西尾正が、どうして、この鳴き声をオノマトペイアとして正確に音写出来たのか? という疑問である。思うに、戦後、南方戦線から復員してきた知人から、トッケイヤモリの鳴き声の強烈なそれを、話しとして聴いていたのではないか? と、私は思うのである。

2024/12/02

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 梅

 

Une

 

うめ   槑【古】

     【和名宇女

      今云牟女】

【音枝】

     烏梅

     【布須倍牟女】

     白梅

ムイ   【牟女保之】

[やぶちゃん注:この割注「音枝」の「枝」は、誤記か、誤刻であろう。本邦の「枝」の音は「シ・キ・ギ」で「バイ」に通じない。「廣韻」を見ると、「音枚」とある。この「枚」(バイ)が正しい。訓読では修正した。

 

本綱云梅乃杏類其樹葉皆畧似杏而葉有長尖先衆木

而花其實酸曝乾爲脯入羹臛韲中又含之可以香口子

赤者材堅子白者材脆

江梅【倭云野梅其花國單葉小白】野生者不經栽接花小而香子小而硬

[やぶちゃん注:ここは各種の「本草綱目」からのパッチワークであり、「江梅」の前には、以下と同じ「○」を附すべきものである(東洋文庫訳でも、そうなっている)ので、訓読では「○」を挿入した。なお、この「○」は、今までの「○」も同様なのであるが、良安が判り易くするために独自に挿入したものであり、「本草綱目」自体には、全く、ない。されば、二重括弧内には入れない。なお、先行例と同じく、原文は改行せず(以上の一行は、丁度、一行字数満杯で改行しているに過ぎない)、各種項として読み易くするため、特異的に訓読では、改行表示する。

○綠萼梅枝跗皆綠也○重葉梅花葉重疊結實多雙○

消梅實圓鬆脆多液無滓惟可生噉不入煎造 紅梅花

[やぶちゃん注:この空欄にも、訓読では「○」を入れて改行する。]

色如杏○鴛鴦梅卽多葉紅梅也○杏梅【今云豊後梅乎】花色淡

紅實扁而斑味全似杏○鶴頂梅【一名金剛拳】花少香子甚大

三才圖會云梅有四貴貴稀不貴繁貴老不貴嫩貴瘦不

 貴肥貴莟貴不貴開

[やぶちゃん注:この行頭の字空けはママ。誤刻と思われるので、訓読では詰める。]

梅實【酸】 多食損齒【服黃精人忌梅】食梅齒齼者嚼胡桃肉解之

烏梅【酸溫平濇】 脾肺二經血分藥也能收肺氣治燥嗽肺欲

 收急食酸以收之是也治傷寒煩熱止渴去痰治瘧瘴

 除冷熱痢治虛勞骨蒸消酒毒止反胃噎隔

 【造法取半黃梅籃盛於突上烟薫之爲烏梅若以稻灰淋汁潤濕蒸過則肥澤不蠧也】

白梅【一名鹽梅又霜梅】 和藥㸃痣蝕悪肉刺在肉中者嚼傅之

 卽出乳癰腫毒杵爛貼之佳也

【造法取大青梅以鹽汁漬之日晒夜漬十日成矣久乃上霜】

△按烏梅出於備後三原者良山城之產次之 白梅俗

 云梅脯也豊後之產肥大肉厚味美用其肉卷瘭疽治

 燒末入咽喉及牙齒藥又用生梅【百箇】黒沙糖【半斤】煮

 爲膏【治人息切及馬喘】 春の夜のやみはあやなし梅の花色社みえね香やはかかるゝ

鶴林玉露云古者謂實與花不言花美香至宋朝則詩文

詠之伹古梅花不如于後世乎天地氣變昜昔有今無之

類亦多

古今醫統云梅宜多栽池𨕙溪逕壠頭墻⻆有水坑𠙚則

多實梅樹接桃則脆苦棟樹上接梅則花開如墨名墨梅

移大梅樹去其枝梢大其根盤沃以溝泥無不活者

梅花 初放時收之陰乾治小兒痘疹不出不起者泡湯

 與之速出速起

△按本朝古者稱花者梅也中古以來唯稱花者櫻也

 續日本紀云聖武帝天平十年七月指殿前梅樹勅諸

 才子曰朕去春欲翫此樹而未及賞翫宜各詠此梅樹

 文人三十人皆賦春意有詩

 百濟王仁謂梅稱此花也菅神毎愛梅遺飛梅之名從

 晉起居言有好文木之稱因橘直幹之歌有鶯宿梅之

 號𢴃西行之歌有求來願之梅如此類不可枚擧

[やぶちゃん注:以下、各種の梅が割注附きで、ダラダラと一字空けで続くが、甚だ読み難いので、原本も、各項を分離することとする。見難いのと、字注が附け難いからである。]

 難波梅【中花淡白千葉有香】

 淺香山【小花淡白八重最香】

 一入梅【大花淡白單葉甚可愛】

 花香實梅【中花白形美有香實亦良】

 鞍馬梅【大花雪白八重形美有香結子】

 㲊山白【大花雪白色有香】

 見歸梅【大花雪白單葉其葩大結子】

 身延梅【最大單葉白色有香木有星㸃故名星降】

 冬梅【中花如常實秋熟可謂秋梅耳】

 甲州梅【小白花其子最小一名信濃梅本艸所謂消梅是也】

 鸎宿梅【中花白八重有赤㸃文香佳京相國寺塔頭林光院初有之於今有殘株】

[やぶちゃん字注:「鸎」は「鶯」の別字。]

 細川梅【大花白單葉有赤㸃文】

 金梅【中花白八重初開時黃色】

 玉井梅【大花白單葉如帶微赤色有香實亦多生】

 飛鳥川【中花白千葉初紅色既開白結子】

 中妻梅【大花白千葉而交紅或全紅白扁分如源平桃】

 花布梅【大花白單葉有紅㸃葩五或八九其子亦佳】

 江南梅【大花如卵色形似杏花結子】

 豊後梅【大花白帶淡紅色八重其子最大此所謂杏梅鶴頂梅之類乎】

 大梅【花如豊後梅其實更大】

 越中梅【大花白帶淡紅千葉實亦大】

 楊貴妃【花形似越中梅而莟時紅其實小】

 求來願【小花形如豊後梅花】

 箙梅【中花如越中梅而小有香】

 鎗梅【中花白帶淡紅色有香】

[やぶちゃん注:以上で、原文では、改行されてある。意味は、よく判らない。単に、次の項が半端なところで割注が始まるからであろうと私は思う。]

 關東紅梅【大花正紅八重始終色香佳美】

 唐紅梅【大花深紅色八重】

 濃紅梅【大花深赤微帶紫美葉麗】

 香紅梅【小花紅八重有香結子】

 㲊山紅梅【大花紅八重其周緣色特濃】

[やぶちゃん注:「㲊」は「叡」の異体字。]

 未開紅【大花紅八重未開時深赤實大如杏在誓願寺鎭守社前】

 行幸【大花紅千葉帶微柹色】

 奧乃紅梅【大花紅八重美】

 本立寺【大花單葉其開稍遲】

 虎尾【中花紅千葉而翹楚亦悉有花甚繁似虎尾】

 軒端梅【中花深赤如紫單葉其葩自五至八九在洛陽誠心院和泉式部之墓傍】

 單葉冬至梅【中花單紅冬月開】

 八重冬至梅【中花淺紅八重冬開】

 座論梅【中花淺紅千葉其實毎朶四五顆隨長揠落如論坐】

 櫻梅【中花淺紅八重其莟下埀如櫻】

 源氏紅梅【中花淺紅千葉最繁實亦生】

 此外數品不勝計

江戸龜井戸有名木梅枝着地處生根蕃方六丈余【白花香甚】

 

   *

 

うめ   槑《バイ》【古≪字≫。】

     【和名「宇女《うめ》」。今、云ふ、「牟女《むめ》」。】

【音「枚」。】

     烏梅《うばい》

     【「布須倍牟女《ふすべむめ》」。】

     白梅《はくばい》

ムイ   【「牟女保之《むめぼし》」。】

[やぶちゃん注:異様に長く、当時の品種名を恐るべき数で、ゴマンと並べているので、取り敢えず、「梅」の学名をここに掲げておく。

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

である。

 

「本綱」に云はく、『梅は、乃《すなはち》、杏《あんず》の類≪なり≫。其の樹・葉、皆、畧《ちと》、杏に似て、葉に、長き尖り、有り。衆木に先≪んじて≫、花《はなさ》き、其の實、酸《すつぱ》し。曝乾《さらしほ》して、脯(ほじし)[やぶちゃん注:現行に中国語では「干肉」の変化した語で、第一義は「細かく裂いて干した鳥獣の肉」を指すが、第二義で「果物の砂糖漬け」を指す。]と爲《な》≪し≫、羹-臛《あつもの》[やぶちゃん注:「羹」は音「コウ」、「臛」は「コク・カク」で、「あつもの」で、これは、「肉入りの熱い吸い物」を指し、野菜入りのものを「羹」、野菜を入れないものを「臛」と言う。則ち、干し梅は食材ではなく、酸味を加える香辛料扱いということになる。]・韲《あへもの》[やぶちゃん注:野菜や魚介などを。味噌・酢・胡麻・辛子などで混ぜ合わせた料理。]の中に入《いる》る。又、之れを、含《ふくみ》て、以つて、口を香《かぐ》はす。子《み》の赤≪き≫者は、材、堅く、子の白き者は、材、脆《もろ》し。』≪と≫。

○『江梅《かうばい》』【倭に云ふ、「野梅《のうめ》」。其の花、單葉《ひとへ》は、小≪さく≫白し。】『は、野生の者にて、栽接(《きり》つ)ぐことを經ず。花、小《ちさく》して、香《かんば》しく、子《み》、小にして、硬し。』≪と≫。

○『綠萼梅《りよくがくばい》は、枝・跗《がく》、皆、綠なり。[やぶちゃん注:この「跗」は第一義は「足の甲」であるが、第二義に「うてな・花の萼(がく)」の意がある。]

○『重葉梅《じふやうばい》は、花・葉、重疊《じふじやう》≪して≫、實を結ぶに、《實は》雙《ふたつ》≪の者(もの)≫、多し。』≪と≫。

○『消梅《しやうばい》は、實、圓《まろ》く、鬆《やはら》≪かにして≫、脆《もろ》≪く≫、液《しる》、多く、滓(かす)、無し。惟《ただ》、生にて噉《くらふ》べし。煎造《いりづくり》≪には≫入れず。』≪と≫。

○『紅梅《こうばい》は、花の色、杏のごとし。』≪と≫。

○『鴛鴦梅《ゑんわうばい》は、卽ち、葉、多≪き≫、紅梅《こうばい》なり。』≪と≫。

○『杏梅《きやうばい》』【今、云ふ、「豊後梅《ぶんごうめ》」か。】『は、花≪の≫色、淡《あはき》紅。實、扁《ひらた》くして、斑《はん》≪有り≫。味、全く、杏に似たり。』≪と≫。

○『鶴頂梅《かくちやうばい》』【一名、「金剛拳」。[やぶちゃん注:不審。この名は「本草綱目」では「杏」の一種の名として、「漢籍リポジトリ」[073-4b]の四行目に出現する。]】『花、香、少《すくな》く、子、甚だ、大なり。』≪と≫。

「三才圖會」に云はく、『梅に、四貴《しき》、有り。稀《まれ》なるを貴《たうとび》て、繁きを貴ばず、老《おい》たるを貴て、嫩(わか)きを貴て、瘦《やせ》たるを貴て、肥《こえ》たるを貴ばず、莟(つぼみ)を貴て、《花、》開くを貴ばず。』≪と≫。

『梅の實《み》【酸。】』『多く食へば、齒を損《そこな》ふ。』【『「黃精《わうせい》」を服する人、梅を忌む。』】[やぶちゃん注:この割注内容は、「本草綱目」の「梅」の「集解」の中にある(「漢籍リポジトリ」のここ[073-12b]の七行目の下方)。]。『梅を食《くひ》て、齒、齼(う)く者は、胡-桃(くるみ)の肉を嚼《はみ》て、之れを、解《かい》す。

『烏梅《うばい》【酸、溫、平、濇《しよく》[やぶちゃん注:味が渋いこと。]。】』『「脾」・「肺」≪の≫二經≪の≫血分《けつぶん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(血に係わる病)』とある。]の藥なり。能《よく》、肺≪の≫氣を收め、燥嗽《さうがい》[やぶちゃん注:激しい咳。]を治す。「肺、收《をさ》めんと欲≪せば≫、急《にはか》に酸《すつぱき》を食《くひ》て、以《もつて》、之れを收めよ。」とは、之れ、是れなり。傷寒[やぶちゃん注:インフルエンザや重篤な風邪様(よう)等を含む悪性の流行性疾患。]・煩熱を治《ぢし》、渴《かはき》を止め、痰を去り、瘧瘴《ぎやくしやう》[やぶちゃん注:間歇的に悪寒・戦慄・発熱を繰り返す病態。マラリアに起因する。]を治し、冷≪痢≫《れいり》・熱痢を除き、虛勞[やぶちゃん注:東洋文庫の前に出た割注に『(疲労・栄養不良による衰弱)』とある。]・骨蒸[やぶちゃん注:東洋文庫の後注に、『体熱があって骨が蒸せるように熱く感じること。』とある。]を治し、酒毒《しゆどく》を消し、反胃《はんい/たべもどし》・噎隔《いつかく/のどのつかえ》を止《と》む。』≪と≫。

『【造る法《はう》。半ば黃なる梅を取りて、籃(かご)に盛り、≪煙≫突の上に於いて、烟《けぶ》りに、之れを、薫(ふす)べ、「烏梅《うばい》」と爲《な》し、若《いくらか》、稻≪の≫灰の淋-汁《そそぎじる》を以つて、潤濕《じゆんしつ》≪に≫蒸《む》≪し≫過《す》≪ぐせば≫、則《すなはち》、肥澤≪と成りて≫、蠧《むしつ》かざるなり。】。』≪と≫。

『白-梅(むめぼし)』『【一名、「鹽梅《えんばい》」。又、「霜梅《さうばい》」。】』『藥に和して、痣《あざ》に㸃ずれば、悪≪しき≫肉を蝕《しよく》す。刺《とげ、》肉≪の≫中に在《あり》て《✕→ある》者、嚼《か》んで、之れを傅《つく》れば、卽ち、出づ。乳癰《にゆうよう》[やぶちゃん注:乳腺炎。]・腫毒[やぶちゃん注:悪性の腫物。]≪には≫、杵-爛《つきただらか》して、之れを貼(つ)けて、佳《か》なり。』≪と≫。

『【造る法。大なる青梅を取り、鹽汁《しほじる》を以つて、之れを漬け、日には、晒《さら》し、夜には、漬け、十日にして、成る。久しくして、乃《すなはち》、霜《しも》を上《うへに》す。】』≪と≫。

△按ずるに、「烏梅」、備後の三原に出づる者、良し。山城の產、之れに次ぐ。』。『白梅《むめぼし》』、俗に云ふ、「梅脯(《むめ》ぼし)」なり。豊後の產、肥大にして、肉厚、味、美《よし》。其の肉を用ひて、瘭疽(へうそ)[やぶちゃん注:手足の指の末節の急性化膿性炎症。原因は化膿菌(主にブドウ球菌)で、強い痛みがあり、骨などにも波及し易い。]に卷きて、治す。燒き、末《まつ》として、咽喉、及び、牙齒の藥に入《いる》る。又、生梅《なまうめ》【百箇。】・黒沙糖【半斤[やぶちゃん注:三百グラム。]。】を煮て、膏《かう》と爲す【人の息切れ、及、馬《むま》の喘《あへぎ》を治す。】。

 春の夜の

  やみはあやなし

      梅の花

   色社《こそ》みえね

       香《か》やは

            かくるゝ

「鶴林玉露」に云はく、『古(いにしへ)は、實と花と≪を≫謂ひて、花の美香なるを言はず。宋朝に至りて、則《すなはち》、詩文に、之れを、詠《えい》ず。伹《ただ》し、古への梅花《ばいくわ》は、後世《こうせい》のごとくならざるや。天地の氣、變昜《へんえき》ありて、昔は、有りて、今は、之れ、無きの類《たづひ》、亦、多し。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『梅は宜しく、多く、池𨕙《ちへん》・溪逕《けいけい》[やぶちゃん注:渓谷の小道。]・壠頭《りようたう》[やぶちゃん注:畝や小高い土地の高み。]・墻⻆《しやうかく》[やぶちゃん注:垣根の角(かど)。]の、水坑《すいこう》[やぶちゃん注:「水溜まり・人工の池」。]、有る𠙚に栽《うう》るに《✕→るべし》[やぶちゃん注:返り点が不全であるが、誤記・誤刻と断じて、かく読んだ。]。則ち、實、多し。梅の樹に、桃を接げば、則ち、脆《もろ》し』。『「苦棟樹《くとうじゆ》」の上に、梅を接げば、則ち、花、開(さい)て、墨《すみ》のごとし。「墨梅《すみうめ》」と名づく』。『大なる梅≪の≫樹を移(うへか[やぶちゃん注:ママ。])ふるに、其の枝・梢を去りて、其の根の盤(まはり)を大《だい》にし、沃《そそ》ぐに、溝《みぞ》≪の≫泥を以つてせば、活(つか)ざると云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、無し。』≪と≫。[やぶちゃん注:この「古今醫統」の引用は、東洋文庫訳によって、三箇所から引用したことが判ったので、それに従って二十鍵括弧を挿入した。]

梅の花 初≪め≫て、放《はなひらく》時、之れを收《をさめ》て、陰乾にして、小兒≪の≫痘疹[やぶちゃん注:天然痘。]≪の≫、≪內に籠りて≫出でず、≪發疹の≫起きざる者を、治す。湯《ゆ》に泡(あわただ(し、之れを與《あたふ》れば、速《すみやか》に出《いで》、速に起《おこ》る。

△按ずるに、本朝、古《いにしへ》は、「花」と稱する者は、「梅」なり。中古以來、唯《ただ》、「花」と稱する者は「櫻」なり。

 「續日本紀」に云はく、『聖武帝天平十年七月、殿前の梅樹を指《さし》、諸才子に勅して曰はく、「朕、去《さる》春より、『此の樹を翫《もてあそば》ん。』と欲して、未だ、賞翫に及ばず。宜しく、各々《おのおの》、此の梅の樹を詠ずべし。」≪と≫。文人、三十人、皆、春の意《おもひ》を賦す。』≪卽ち≫、詩、有り。[やぶちゃん注:「≪卽ち≫、詩、有り」は、皆々、「詩を作った」ということを言っている(実際には原本には詩は載っていない)のだが、「賦す」とある以上、この添え辞は全くの屋上屋である。

 百濟の王仁《わに》、梅を、謂《いひ》て[やぶちゃん注:原本の送り仮名は「チ」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部に従った。]、「此の花」と稱し≪たり≫。菅神《くわんじん》[やぶちゃん注:菅原道真。]、毎《つね》に、梅を愛し、「飛梅《とびうめ》」の名を遺し玉ひ[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]、晉の起居が言《げん》に從《したがひ》て、「好文木《こうぶんぼく》」の稱、有り。因りて、橘の直幹《なをもと》が歌に、「鶯宿梅《わうしゆくばい》」の號(な)、有り。西行の歌𢴃《より》て、「求來願(とめこかし)の梅」、有り。此くのごとく、類《るゐ》、枚擧すべからず。

[やぶちゃん注:以下の割注には、送り仮名が殆んどない。記号を用いると、五月蠅いので、多くは、私の訓読でそのまま示した。]

「難波梅(なにはの《うめ》)」【中花《ちゆうくわ》[やぶちゃん注:「中くらいの花輪の大きさ」を指す。以下、同じ。]、淡白。千葉《やへ》。香《かをり》、有り。】。[やぶちゃん注:「千葉《やへ》」東洋文庫後注に、『八重のうち花辨數の多いもの。現在』、『つばきなどでは花弁数の多寡によって一重、八重、千重と分けている。』とある。

「淺香山(あさか《やま》)」【小花、淡白。八重《やへ》。最も香《かん》ばし。】。

「一入梅(《ひと》しほの《うめ》)【大花、淡白。單葉。甚だ、愛すべし。】。

「花香實梅(はなかみの《うめ》)」【中花、白。形、美≪くし≫。香《かを》り、有り。實も亦、良し。】。

「鞍馬梅(くらま《うめ》)」【大花、雪白《せつぱく》。八重。形、美≪くし≫。香り、有り。子《み》を結ぶ。】。

「㲊山白《えいざんはく》」【大花、雪白色《せつぱくしよく》。香り、有り。】。

「見歸り梅」【大花、雪白。單葉。其の葩《はなびら》、大にして、子を結ぶ。】。

「身延(みのぶ)梅」【最も大なり。單葉。白色。香り、有り。木に星≪の≫㸃、有り。故に、「星降《ほしくだり》」と名づく。】。

「冬梅《ふゆうめ》」【中花。常のごとし。實、秋、熟す。≪故に≫、「秋梅」と謂ふべきのみ。】。

「甲州梅《かうしううめ》」【小白花。其の子、最も小さし。一名、「信濃梅《しなのうめ》」。「本艸≪綱目≫」の謂ふ所の、「消梅《しやうばい》」、是れなり。】。[やぶちゃん注:「本草綱目」の「消梅」は、「漢籍リポジトリ」の、ここの、「梅」の「集解」の[073-12b]以下の二行目に、『消梅實圎鬆脆多液無滓惟可生噉不入煎造』がそれ。後の「甲州梅」で蹴りをつける!!!

「鸎宿梅《あうしゆくばい》」【中花。白。八重。赤き㸃の文《もん》、有り。香り、佳し。京の相國寺《しやうこくじ》の塔頭《たつちゆう》、林光院、初め、之れ、有≪りしが≫、今は、殘株《ざんしゆ》有る≪のみ≫。】。[やぶちゃん字注:「鸎」は「鶯」の別字。「京の相國寺の塔頭、林光院」京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派大本山萬年山相国寺の塔頭林光院(グーグル・マップ・データ)「臨済宗相国寺派」公式サイト内の「林光院の鶯宿梅」を見られたい。現在も、この梅は、代々、守られている(画像有り)。

「細川梅《ほそかはうめ》」【大花。白。單葉。赤き㸃の文、有り。】。[やぶちゃん注:「細川梅」の読みは不明。取り敢えず、訓読しておいた。]

「金梅《きんばい》」【中花。白。八重。初めて開く時、黃色。】。[やぶちゃん注:品種としては不明。但し、本邦では、梅とは全く縁のない黄色い花を咲かす、蔓性落葉低木である、双子葉植物綱シソ目モクセイ科 Jasmineae連ソケイ属 Primulina 節オウバイ(黄梅)Jasminum nudiflorum の異名であり、また、多年草のキンポウゲ目キンポウゲ科 キンバイソウ(金梅草)属キンバイソウ Trollius hondoensis の異名でもあり、更に黄色い花を持つ複数の種の和名に「~キンバイ」(「~金梅」)が、多数、あるので、極めて注意が必要。

「玉井梅(《たま》の《ゐうめ》)」【大花。白の單葉。微赤色を帶びたるごとし。香り、有り。實も亦、多く生ず。】。

「飛鳥川(あすか《がは》)」【中花。白の千葉。初め、紅色。既に開かば、白く、子を結ぶ。】。

「中妻梅(《なか》つま《うめ》)」【大花。白の千葉にして、紅を交ず。或いは、全く、紅・白、扁分《へんぶん》して[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『偏在して』とある。]、「源平桃《げんぺいもも》」のごとし。】。[やぶちゃん注:「源平桃」は桃の品種。バラ目バラ科モモ亜科スモモ属モモ品種ゲンペイモモ Prunus persica 'Genpei' で、一本の木に紅白二色や、紅白の絞りの花を咲かせる桃を指す。]

「花布梅(さらさ《うめ》)」【大花。白く、單葉。紅㸃の葩《はなびら》、五つ、或いは、八つ、九つ、有り。其の子も亦、佳し。】。

「江南梅《かうなんばい》」【大花。卵色のごとし。形、杏《あんず》の花に似て、子を結ぶ。】。

「豊後梅《ぶんごうめ》」【大花。白に淡紅色を帶ぶ。八重。其の子、最も大にして、此れ、所謂《いはゆる》、「杏梅《あんずうめ》」・「鶴頂梅《かくちやうばい》」の類《るゐ》か。】。[やぶちゃん注:「豊後梅」はウメ変種ブンゴウメ Prumus mume var. bungo 。「杏梅」及び「鶴頂梅」(この異名は、好きだな)は、孰れも、その異名であるから、良安の謂いは正しい。]

「大梅《おほうめ》」【花、「豊後梅」のごとし。其の實、更に、大なり。】。

「越中梅《えちちゆううめ》」【大花。白に淡紅を帶ぶ。千葉。實も亦、大なり。】。

「楊貴妃《やうきひ》」【花の形、「越中梅」に似て、莟《つぼみ》の時、紅。其の實、小さし。】。

「求來願(とめこかし)」【小花。形、「豊後梅」の花のごとし。】。

「箙梅(えびらの)《うめ》)」【中花。「越中梅」のごとくして、小さし。香り、有り。】。

「鎗梅《やりうめ》」【中花。白く、淡紅色を帶ぶ。香り、有り。】。

「關東紅梅《かんとうこうばい》」【大花。正紅。八重。始終、色香、佳美なり。】。

「唐紅梅(から《こうばい》)」【大花。深紅色。八重。】。

「濃紅梅(こひ《こうばい》)」【大花。深赤に、微《やや》、紫を帶び、美くし。葉も麗《うるは》し。】。

「香紅梅《かうこうばい》」【小花。紅。八重。香り、有り。子を結ぶ。】。

「㲊山紅梅《えいざんこうばい》」【大花。紅。八重。其の周緣、色、特に濃し。】。[やぶちゃん注:「㲊」は「叡」の異体字。]

「未開紅(みかいこう)」【大花。紅。八重。未だ、開かざる時、深赤。實、大にして、杏《あんず》のごとし。誓願寺の鎭守の社前に在り。】。[やぶちゃん注:「誓願寺」は京都府京都市中京区新京極通三条下ル桜之町(さくらのちょう)にある浄土宗西山深草(せいざんふかくさ)派総本山深草山誓願寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。サイト「京都もよう」の「誓願寺 京都の女人往生の寺と未開紅の梅」のページで、この梅の木が、同寺の東方にある塔頭長仙院で、代々、守られて現存していることが判った。そこに『蕾の頃は紅色であり、開花すると白い花になります』。『「新京極の七不思議の一つ」とされています』とあった。]

「行幸《ぎやうかう》」【大花。紅。千葉。微《やや》、柹色を帶ぶ。】。

「奧乃紅梅(おくの《こうばい》)」【大花。紅。八重。美くし。】。

「本立寺《ほんりゆうじ》」【大花。單葉。其れ、開くこと、稍《やや》、遲し。】。

「虎尾(《とら》の《を》)」【中花。紅。千葉にして、翹楚《ずはえ》も亦、悉く、花、有り。甚だ、繁くして、「虎の尾」に似たり。】。[やぶちゃん注:「翹楚《ずはえ》」木の枝や幹から、まっすぐに細く長く伸びた若い小枝。「すわい」「ずわい」「すわえぎ」とも読む。]

「軒端梅(のきばの《うめ》)」【中花。深赤≪なるも≫、紫のごとし。單葉。其の葩《はなびら》五つより、八つ、九つに至る。洛陽の誠心院の「和泉式部の墓」の傍らに在り。】。

「單葉冬至梅(ひとへの《とうじばい》)」【中花。單《ひとへ》。紅。冬月、開く。】。

「八重冬至梅(《やへ》の《とうじばい》)」【中花。淺紅。八重。冬、開く。】。

「座論梅(《ざろん》の《うめ》)」【中花。淺紅。千葉。其の實、朶《えだ》毎《ごと》に、四、五顆《くわ》。長ずるに隨ひて、揠《ぬ》け落ちて、坐を論《あげつら》ふがごとし。】。

「櫻梅《あうばい/さくらうめ》」【中花。淺紅。八重。其の莟、下に埀れ、櫻《さくら》のごとし。】。

「源氏紅梅《げんじこうばい》」【中花。淺紅。千葉。最も繁く、實も亦、生ず。】。

 此の外、數品《すひん》≪有るも≫、計《かぞ》≪ふるに≫勝《た》えず。

江戸の龜井戸に、名木の梅、有り。枝、地に着く處、根を生じ、方《はう》六丈余《あまり》に蕃(はびこ)る【白花。香り、甚し。】

 

[やぶちゃん注:「梅(梅)」は、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

である。ウィキの「ウメ」から引く(注記号はカットした。一部の項目を省略してある)。『果実を利用する品種は「実梅」として扱われ、未熟なものは有毒であるものの、梅干などに加工して食用とされる。樹木全体と花は鑑賞の対象にもなり(花梅)、日本には花見や梅まつりが開かれる梅林や梅園が各地にある(月ヶ瀬梅林、偕楽園、吉野梅郷など)。枝や樹皮は染色にも使われる』。『日本では』六月六日『が「梅の日」とされている。天文』十四年四月十七日(旧暦:一五四五年六月六日)に『賀茂神社の例祭に梅が献上された故事に由来する』。『中国中部原産の落葉広葉樹の小高木から高木。古くから栽培され、野生化もしている。日本でもよく知られる果樹や花木で、多数の園芸品種がある。樹皮は紫褐色で縦に不規則に割れ、小枝の先はとげ状になることもある。一年枝は、緑色でほぼ無毛であるが、白い細かな点がある。老木の樹皮にはウメノキゴケ』(菌界子嚢菌門チャシブゴケ(茶渋苔)菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科ウメノキゴケ属ウメノキゴケParmotrema tinctorum )『などの地衣類が』、『よく』、『つく。冬芽は互生し、花芽と葉芽がはっきりしている。花芽は赤褐色の広卵形で』、十一~十四『枚の芽鱗に覆われ』、一『か所に』二、三『個つく。葉芽は濃褐色の円錐形でごく小さく、多数の芽鱗で覆われ、枝先には仮頂芽がつく。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『早春、葉に先だって前年枝の葉腋に』一~三『個の花がつく。毎年』一~三月頃に、五『枚の花弁のある』一『センチメートルから』三『センチメートルほどの花を葉に先立って咲かせる。花の色は白、淡紅、紅色など。花柄は短い。葉は互生で先が尖った卵形で、周囲が鋸歯状』。『果実は』六~七『月頃に結実し、形は丸く、片側に浅い溝があり、細かい毛が密生する。果実の中には硬い核が』一『個あり、中果皮で、表面にくぼみが多い。未熟果に青酸を含むため、生で食べると』、『中毒を起こすと言われている』。『青ウメの果実は燻製にして漢方で烏梅(うばい)と称して薬用されるほか、民間で梅肉エキス、梅干し、梅酒に果実を用いる。可食部である果肉部分は、子房の壁が膨らんだもので、構成する細胞の遺伝子は母となる雌由来である。中にある種子は、半分は花粉由来なので、種子から発芽した株は母株と同じ性質になるとは限らない。しかし、果肉については母由来のため、雄親である花粉が様々異なっても、同じものができる』。『ウメは花・香り・樹形が観賞の対象とされるほか、果実が食用にされる。また、ウメの花の萼(がく)を梅干しの梅肉とともに漬けたものに梅花漬』(ばいこうづけ)『がある』。『日本では全国各地で栽培されている。あまり土質を選ばない性質で、刈り込みにも強く、樹形の仕立てが容易である。栽培品種の数は』三百『あまりといわれ、自家結実する品種と自家結実しない品種がある。ウメは自家不和合性が強いため、果実を目的とした栽培では』、一『品種だけの栽培を避けて、花粉親として少しだけ性質が異なる異品種を混植して栽培を行う。ウメの果実を植えて』、『育てても』、『なかなか』、『開花しないため、もっぱら』、『挿し木』或いは『接ぎ木による苗作りが必要となる』。『和名ウメは、中国から伝来した薬用の』「烏梅(ウバイ・ウメイ)」(現行の中国語では「wūméi」(ウーメェィ))『が語源とされており、中国語の梅(マイ、ムイ、メイ)が日本的に発音してウメになったとされる』。『方言に「ウンメ(鹿児島)、ンメ(鹿児島・熊本・高知・秋田・東京)」がある』。種小名“ mume ”は『江戸時代の日本語の発音を由来とする』であり、英語では “Japanese apricot”『(日本の杏)と呼ばれる。ただし、梅の花は英語でplumと呼ばれることが多い。梅干し(pickleplum)などの場合も「plum」』(ネィテイヴの音写は「プラム」ではなく、「プラァンマー」に近い)『というのが一般的である』。『原産地は中国で、日本には』千五百『年程前に遣唐使により持ち込まれたとされる。また、当初は薬木として紹介されたと考えられている。九州に』、『元々』、『自生していたという説もあるが、現在各地で栽培されている梅は、中国からの移入種である。日本では奈良時代から庭木として親しまれ、果実の栽培も江戸時代から行われていた』。『梅には』五百『種以上の品種があるといわれている。近縁のアンズ、スモモと複雑に交雑しているため、主に花梅について』、『園芸上は諸説の分類がある。実梅も同じ種であるので同様に分類できる。梅は、野梅系、緋梅(紅梅)系、豊後系に大きく』三『系統に分類できる』。『果実は』、二『センチメートルから』三『センチメートルのほぼ球形の核果で、実の片側に浅い溝がある。旬の時期は』六月頃『で、黄色く熟す。七十二候の芒種』(旧暦四月後半から五月前半)。の『末候』(旧暦六月十六日から六月二十日まで)『には「梅子黄」(梅の実が黄ばんで熟す)』(訓じて「うみのきなり」と呼ぶ。『特定の地域のみで栽培される地方品種が多く、国内どこでも入手可能な品種は比較的限定される。また、品種によっては花粉が無かったり』、『自家受粉しなかったりする品種もあり