さくら 櫻
【和名佐久良】
櫻【音英】
樺【音話】
【和名加波
一云加仁波】
倭名抄載文字集略云櫻子大如柏端有赤白黑者也
△按櫻謂子不謂花何耶諸木花無比之者其樹髙二三
𠀋皮橫理而老則紫色光澤有㸃文剥皮括捲器纏刀
鞘謂之樺又用爲癰疔藥中入之共以山櫻皮爲良
字彙曰樺木名皮可貼弓則別此一種木乎倭名抄亦
[やぶちゃん注:「弓」は、二画目が左右に突き抜ける「グリフウィキ」の異体字のこれであるが、表示出来ないので、「弓」とした。]
如別種然櫻皮之外可謂樺者未見之其材淡褐色木
理宻而硬刪板印甚佳伐生木埋土中久取出用則愈
[やぶちゃん注:「久」は最終画が、一画目の左端に突き抜けているが、このような異体字はないので、通用字とした。]
不脆凡櫻樹稍長時春月縱入刀理緩皮則木昜肥大
其葉淺青色有鋸齒冬凋春生葉清明前後開花結子
大小可大豆生青熟赤黒有仁小兒好去仁食味甘美
能解魚毒又有不結子者
櫻諸國皆有之和州最多吉野滿山映花如雲如雪然
多此單白山櫻也今京師名花多皆變於子種而或紅
或紅白襍單瓣重瓣數種皆艶美爲百花之長不斥名
唯稱花者櫻也 伊勢朝熊神社櫻爲日本櫻之始
奧儀抄櫻より増る花なき花なれはあたし草木は 貫之
物ならなくに
唐則如無櫻花而不載本草及三才圖會草木畫譜等
[やぶちゃん注:「畫」は、原本では、下部が「グリフウィキ」のこれの「メ」が「人」型になったものであるが、異体字としてはないので、通常字に代えた。以下の宋詩中のものも同じ。]
詩人亦不賞之也於魚也鯛亦然矣【古詩有一兩首】
○賞櫻日本盛於唐 如被牡丹兼海棠 【宋景濂詩】
恐是趙昌所難畫 春風纔起雪吹香
○山櫻抱石蔭松枝 比並餘花開最遲 【王荊公山櫻詩】
只有春風嫌寂寞 吹香渡水報人知
[やぶちゃん注:二つ目の王荊公の詩の承句の「開」は、「發」の、転句の「只」は、「賴」の誤りであるので、訓読では、訂した。]
觀此則中國亦非無櫻
日本紀云允恭天皇見井傍櫻寄衣通姬歌
花くはし櫻のめて異めては早くはめてすわかめつるこら
平城天皇始有櫻花詩 昔在幽巖下 光𬜻照四方
忽逢攀折客 含笑亘三陽 送氣時多少 埀陰枝
短長 如何此一物 擅美九春塲
[やぶちゃん注:平城天皇の詩の第二句の「含」の字は、「今」の「ラ」が「月」を右に潰した字体であるが、こんな「含」の異体字はないので、通用字で示した。なお、この詩の六句目「埀陰枝短長」の「枝」は「復」の誤りであるので、訓読では、訂した。]
日本後紀云嵯峨天皇弘仁三年二月幸神泉苑覽花樹
令文人賦詩花宴之節始於此矣
名𬜻數品不勝計大畧
泰山府君【大白千葉香氣最甚】 江戶法輪寺【大白千葉開初時帶微紅】 有明櫻゚江戶櫻【大白千葉帶淡色】 菊櫻゚奥州櫻゚述懷櫻【中白千葉帶淡色】 南殿櫻【大白千葉花有階段】 普賢象【大白千葉帶淡色花中有二細葉如象鼻鎌倉有名花称普賢堂東千本閻魔堂亦有之俗又名普賢像是也】 楊貴妃【小白千葉帶淡色有香氣】 熊谷櫻【小白千葉帶淡色花攅生】 鹽竃【中白千葉帶淡色嫩葉微黃紋色而葉亦艶美】 虎尾櫻【中白帶淡色莖短花繁滿枝如虎尾】 八重一重【中白八重與一重開分】 車返【中白八重一重開分而圍枝如車輪】 鷲尾櫻゚廣大寺桐谷櫻【大白色八重一重開分】 大挑燈櫻゚金王櫻【大白八重特大挑燈花盛日久】 法輪寺櫻゚八重垣櫻゚奈良八重櫻【大輪白色八重開初時帶淡色】 仁保比櫻【中白八重有甚香氣】 大毬゚中毬゚香毬【皆白八重花形如字】 西行櫻【大白八重微帶青色在西山大原野】 小菊櫻【中白八重】 衞門櫻【中白八重花莖短開狀如總系】 深山隱【花似衞門櫻而微帶淡色】 天狗櫻【花狀似衞門櫻而貫白】 香芬櫻【中白八重有香芬】 豊國【中淡色八重】 淺葱櫻【大淡青色八重開】
[やぶちゃん注:「普賢象」の割注の終りの方にある「普賢像」は「普賢象」の誤り。訓読では訂した。「衞門櫻」の割注の「系」は「系統」の「系」ではなく、「糸」の異体字である。]
いにしへのならの都の八重櫻けふ九重に香ひぬるかな
緋櫻【中花紅千葉文選詩註云山櫻果木名花朱色如火欲然也其是乎俗爲火櫻】 常陸櫻゚索規濱櫻゚紅葉櫻【並大紅千葉特紅葉櫻葉又赤】 本紅櫻゚伊勢櫻【並中花紅千葉】 紅毬櫻【大紅千葉而花莖長埀狀如毬】 𮈔總櫻【中紅千葉花狀如總】
光俊
新六夕附日うつろふ雲や迷ふらん髙ねにたてる火櫻の
花
千本櫻【中花紅八重一重】 小櫻【中花淡紅八重】
練絹櫻【大花白單葉如絹色】 逆手櫻【中花白單葉微有色】 海棠櫻【中花白微紅色單葉如海棠花故名】 姥櫻【中花白色單辨未葉出花開】 桐壺【大白二重開】 彼岸櫻【小白單葉春分後彼岸開先于餘櫻】 山櫻【卽彼岸櫻之種類而花實共小山中多有】 兒櫻【小白單葉卽山櫻之一種】
みてのみや人に語らん山櫻手毎に折て家つとにせん西行
[やぶちゃん注:この一首、「古今和歌集」所収(「卷第一 春歌上」。五五番)の歌であるが、まず、第三句「山櫻」は、「さくら花」の誤りであり、しかも、作者は西行ではなく、素性法師である。訓読では、訂した。]
凡花單葉者結子千葉者不結子常也然彼岸櫻單葉而無子江戶櫻八重有子
*
さくら 櫻
【和名、「佐久良《さくら》」。】
櫻【音「英」。】
樺《かば》【音「話《カ》」。】
【和名、「加波《かば》。
一《い》つに云ふ、
「加仁波《かには》」。】
「倭名抄」に「文字集略」を載《のせ》て、云はく、『櫻《さくら》は、子《み》の大《おほい》さ、「柏(かゑ[やぶちゃん注:ママ。])」のごとし。端《はし》に赤・白・黑、有る者なり。』≪と≫。
△按ずるに、櫻、子を謂《いひ》て、花を謂はざるは、何ぞや。諸木の花、之れに比する者、無し。其《その》樹、髙さ、二、三𠀋。皮、橫理(《よこ》すぢ)にて、老(ひね)れば、則《すなはち》、紫色にして、光澤≪と≫、㸃文《てんもん》、有り。皮を剥《はぎ》て、捲器(わげもの)を括(と)ぢ、刀の鞘(さや)を纏《まと》ふ。之《これ》を「樺《かば》」と謂ふ。又、用《もちひ》て、癰疔《ようちやう》[やぶちゃん注:悪性の腫れ物。]の藥中《やくちゆう》と爲《な》≪し≫、之《これ》≪を≫入《いるる》。共に山櫻の皮を以つて、良《よし》と爲す。
[やぶちゃん注:「樺」は、双子葉植物綱マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula ではなく、第一に、「日本三大桜」或いは「日本五大桜」の一つであるバラ目バラ科サクラ属原種(野生種)変種エドヒガン(江戸彼岸)Prunus itosakura Siebold var. ascendens、或いは、変種エドヒガン Prunus itosakura var. ascendens の古名である「淡墨桜」(うすずみざくら)を指し、第二に、サクラ属ヤマザクラ Prunus jamasakura の異名である。この場合は、樹皮の利用記載から、後者のヤマザクラに相当する。先行する「樺」も参考になるので、見られたい。★なお、現行では、サクラ群の属名は、 APG体系はサクラ亜属 Cerasus とするが、どうも、私は、何故だか知らぬが、この属名が好きになれないので(桜が本邦の独占のような誤った感じがするからか)、エングラー体系のスモモ属のそれを採る。シノニムが多い場合は、全部ではないが、命名が、一番、古いもの(そこでは、概ね、Prunus 属である)を採用した。
「加仁波《かには》」これは、現代仮名遣「かにわ」で、漢字は「樺」「櫻皮」を当てて、「かには」と読み、上代に於いては、舟に巻いたり、種々の器物に張ったり、曲げ物などを縫い合わせたりするのに用いられた複数の樹皮を指していた。ここは、後に、その材として、以上のヤマザクラ(=淡墨桜)の皮が一般的になり、その名を持つようになったと考えてよかろう。
「倭名抄」(=「和名類聚鈔」)の「櫻」は、「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の刊本の当該部では(訓読した)、
*
櫻(さくら) 「文字集略」に云《いはく》、『櫻【「烏」「莖」の反。和名、「佐久良《さくら》」。】]は、子《み》の大《だい》なること、柏《かえ》のごとし。端に、赤・白・黒、有る者なり。
*
とある。「文字集略」は、東洋文庫の書名注に『一巻。梁の阮孝緒撰。字書。』とある。阮孝緒(げん こうしょ:四七九年~五三六年)は、南朝梁の書誌学者で陳留尉氏(現在の河南省開封近郊)の出身。この「柏」(かえ:歴史的仮名遣はこれでよい。良安の『カヱ』のルビは誤りである。)とは、コノテガシワ・ヒノキ・サワラ等の常緑樹の総称である。
「捲器(わげもの)」東洋文庫訳の後注に、『檜や杉などの薄い板を曲げてつくった円形の容器。その合せ目を桜の皮で綴』(つづ)『りとじる。』とある。この最後の作業を、「括(と)ぢ」(終止形「とづ」)と訓じているのである。この「括」は古語の動詞の訓では、第一義では、「くくす」(ある物に他の物を縛りつける)と読むが、別に「綴じる・塞(ふさ)ぐ」の意の「とづ」がある。
「山櫻」ここでは、材だけではなく、生薬基原でもあるから、やはり、サクラ属ヤマザクラ Prunus jamasakura でよいが(「熊本大学薬学部薬用植物園」公式サイト内の「植物データベース」のこちらを見よ)、古くから、広く野生種の総称として「山櫻」は用いられている経緯があるから、これに限ることは危険であることは言うまでもない。]
「字彙」に曰はく、『樺は、木の名。皮、弓に貼(は)るべし。』≪と≫。則ち、別に此の一種の木か。「倭名抄」にも亦、別種のごとし。然《しかれ》ども、櫻の皮の外、「樺」と謂《いひ》つべき者、未だ、之れを見ず。其の材、淡褐色≪にして≫、木-理(きめ)、宻(こまや)かにして、硬(かた)し。板印(はん《いん》)[やぶちゃん注:「印板・印版」と同義で、印刷するための版木に文字などを彫ることを言う。東洋文庫では二字に対して「はん」を当ててあるが、採らない。原本では、「ハン」は、「板」のみに振られてあるからである。]に刪(ほ)るに、甚だ、佳《よ》し。生木《なまき》を伐《きり》て、土中に埋《う》むこと、久≪しくして≫、取出《とりいだし》、用《もちふ》れば、則《すなはち》、愈《いよいよ[やぶちゃん注:原本では読みはないが、右下に踊り字「〱」が打たれてある。]》、脆(もろ)からず。凡《およそ》、櫻の樹、稍(やゝ)長ずる時、春月《しゆんげつ》、縱(たつ)に刀《かたな》≪の≫理(め)を入《いれ》て、皮を緩(ゆるや)かにする時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、木、肥-大(ふと)り昜《やす》し。其の葉、淺青色、鋸齒、有り。冬、凋(しぼ)み、春、葉を生ず。清明の前後に、花、開≪き≫、子《み》を結《むすぶ》。大小≪有れど≫、大豆《だいづ》ばかり≪なり≫。生《わかき》は、青く、熟《じゆくせ》ば、赤黒の、仁(さね)、有り。小兒、好《このみ》て、仁を去り食ふ。味、甘美≪にして≫、能《よく》、魚毒を解す。又、子を結ばざる者、有り。
[やぶちゃん注:『「倭名抄」にも亦、別種のごとし』これは、良安の不審で、同書の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木具【草具附出】」の「第二百四十九」にある「樺」を指す。先の国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の刊本の当該部は、ここで、落丁しているため、別な写本の当該部(朱書で補正されてある)を参考に訓読した。
*
樺(かえは) 同[やぶちゃん注:前の「樸(コハタ)」(=木皮)を受ける。「玉篇」である。]云はく、【「戶」「花」の反。「胡」「化」の反。和名「加尓波《かには》」。今、櫻皮《さくらのかは》、之れ、有り。】『木皮、以つて、炬[やぶちゃん注:松明(たいまつ)。]と爲《な》すべし。』≪と≫。
*
とあるのを指す。「玉篇」は字書。全三十巻。梁の顧野王(こやおう)の撰。五四三年成立。「說文解字」に倣って、字数を大幅に増加した部首分類体の字書。後に唐の孫強が増補し、宋の陳彭年らが、勅命により、増補修訂した。顧野王の写本の一部は日本にのみ、現存する。この「樺」は、明らかに桜の皮には限定していないことを、良安は、『別種』と言っているのである。]
櫻、諸國、皆、之れ、有り、和州、最《もつとも》、多し。吉野の滿山《まんざん》、花に映じて、花、雲のごとく、雪のごとし。然《しかれ》ども、多くは、此れ、單(ひとへ)の白の山櫻なり。今、京師に、名花、多く、皆、子種(《たね》うへ[やぶちゃん注:ママ。])より、變(かは)りて、或いは、紅、或いは、紅・白≪の≫襍(まじ)り、單瓣(ひとへ)・重瓣(やへ)、數種、皆、艶美≪にして≫、「百花の長《ちやう》」たり。名を斥(さゝ)ずして、唯、「花」と稱する者は、櫻なり。 伊勢の朝熊(あさま)の神社の櫻、「日本櫻の始《はじめ》」たり。
[やぶちゃん注:「朝熊(あさま)の神社の櫻」朝熊神社は、ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキの、「朝熊神社のサクラ」には、『朝熊神社はサクラの名所として伝えられ、西行は』「續古今和歌集」『に次のような』『歌を残している』とし、
*
神かぜにこころやすくぞ任せつる
さくらの宮の花のさかりは
*
を示し、東吉貞等編「神都名勝誌」(明治二八(一八九五)年)『では』、『風色の幽媚なる事、此の地を以て神都中の第一とす』『と記している』。「皇太神宮儀式帳」に『ある』「櫻大刀自」『の神名は』、『サクラの木を神体とする習俗によるものと考えられ』、『また、内宮にあった朝熊神社の遥拝所は』、「櫻宮」乃至は「櫻御前」と呼ばれていた』とある。]
「奧儀抄《あうぎせう》」
櫻より
増《まさ》る花なき
花なれば
あだし草木《くさき》は
物ならなくに 貫之
[やぶちゃん注:「奧儀抄」平安後期の歌学書。全三巻。藤原清輔著。天治元(一一二四)年から天養元(一一四四)年の間に成立。「序」と「式」(上巻)、「釋」(中・下巻)に分かれ、「式」は六義(りくぎ)や歌病(「うたのやまひ/かへい」:和歌の修辞上の欠陥を病気に喩えて言う語。「詩八病」(しはちへい)を模したもので、平安時代に始まり、「四病」「七病」「八病」などとも称する)等について解説し、「釋」は和歌の語句の注釈を載せる。
「櫻より増《まさ》る花なき花なればあだし草木《くさき》は物ならなくに」「貫之」この歌については、「YAHOO!JAPAN知恵袋」のここのQ&Aで、質問者が、『広辞苑で「もの」を引くと』『もの【物】』の五番目に『取り立てて言うべきほどのこと。物の数。貫之集「桜よりまさる色なき春なればあだし草木を―とやは見る」』とあり、回答者が、『ネットの方は』「新撰和歌」『にも類似点が見られるが、出典不明。「花なき花なれば」では意味が通じず、二つめの「はな」は「はる」の単純な誤写』。『参考までに』「貫之集」他』の『撰本系統のうち、たとえば西本願寺本(複製本により私に翻刻)では』、
*
さくらよりまさるはなゝきはるなれはあたしくさきをものとやはみる
*
『とあり、私撰集の』「新撰和歌」『では』、
桜いろにまさるいろなき花なればあたらくさ木もものならなくに(「新編国歌大観」本)
『とある』とあった。]
唐《もろこし》には、則ち、櫻花《さくらばな》、無きか、載「本草≪綱目≫」、及び、「三才圖會」・「草木畫譜」等、載せず。詩人も亦、之れを賞せざるなり。魚に於いては、鯛《たい》、亦た、然り【古詩に、一兩首《いちりやうしゆ》、有≪るのみ≫。】。
[やぶちゃん注:「草木畫譜」東洋文庫の書名注に、『未詳。『草本花詩譜』と同じものと思われる。』とする。「草本花詩譜」の注には、『本文に汪躍鯉の撰とあるも不明。『画譜』の中の『草木花譜』のことであろうか。『八種画譜』の中では『新鐫草本花詩譜』となっている。』とあるのだが、載ってないのだから、どうでもいいのだが、これって、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「新鐫草本花詩譜」(黄鳳池編)のことじゃないか? リンク先に、「序」を明の天啓元(一六二一)年に汪躍鯉が書いているとあるぜ?
以下、詩句は改行し、空欄も附す。割注は、改行して下方に下げた。]
○櫻を賞すること 日本 唐(たう)より盛《さかん》なり
牡丹≪と≫海棠≪と≫を 兼ねらるるごとし
恐らくは是れ 趙昌が畫《ゑが》き難き所なり
春風 纔《わづか》に起《おこ》れば 雪 香《かう》を吹く
【宋景濂《そうけいれん》の詩。】
[やぶちゃん注:「趙昌」生没年不詳。北宋の初め(真宗朝(九九七年~一〇二二年)に活躍した花鳥画家。四川省出身。字は昌之。花卉の観察と写生に努め、折枝・蔬果・草虫を巧みにしたと伝える。真作は残っていないが、評伝から、簡略描写や色彩本位の画家と考えられている。「宋景濂」(一三一〇年〜一三八一年)は元末から明初の学者・文人。浙江出身。明の洪武帝に仕え、「開国文臣の第一」と評された。「元史」を編集し、礼楽制度を制定し。た温雅典麗な古文により明初第一の散文家にして、明代を通じての代表的文人の一人とされ、本邦へも、その生存中から文集が入って愛好者が少くない。(孰れも諸辞書を総合した)。]
○山櫻 石を抱《いだき》て 松≪の≫枝に蔭《かげ》し
餘花《よくわ》に比-並《たいして》 發《ひら》くこと 最≪も≫遲し
賴《さひはひ》に春風有《あり》≪て≫ 寂寞《じやくまく》たるを嫌ふ
香《かう》を吹≪き≫ 水を渡《わたり》て 人の知《しる》ことを報ず
【王荊公《わうけいこう》、「山櫻」の詩。】
[やぶちゃん注:承句と転句を、誤ったままに訓読すると、「餘花《よくわ》に比-並《たいして》 開《ひら》くこと 最≪も≫遲し」、「只《ただ》 春風《あり》≪て≫ 寂寞《じやくまく》たるを嫌ふ」となる。「王荊公」かの「唐宋八家」の一人で、北宋の政治家・文学者であった王安石(一〇二一年~一〇八六年)のこと。臨川(江西省)出身。字(あざな)は介甫。神宗の信任を得て、宰相となり、青苗法(せいびょうほう:植え付け前に、農民に金や穀物を低利で貸し、収穫時に元利を返させる法。民間の高利を禁じ、政府の収入の増加を図ったもの)などの多くの新法を実施したが、旧法党の反対にあって辞職した。]
此れを觀れば、則《すなはち》、中國にも、亦、櫻、無《なき》にも非ず。
[やぶちゃん注:確かに、中国の本草書等で、サクラが、思いの外、語られていないことは、今回、調べてみて、激しく意外の感を持った。これについては、サイト「グローバル医職住ラボ」の『日本と中国の「桜」』がよい。そこには、サクラは『中国では』、『生命感の象徴とされている他、愛の幸運と繁栄の象徴とされてい』るとあり、『中国起源説の根拠とされているのは、1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」です。同書には「桜の原産地は中国で、ヒマラヤの桜が人工栽培されるようになり、長江流域、西南地域、台湾島へと徐々に伝来した日本の桜は中国から伝来した。その時期は唐の時代だった」との記述があるそうです』。『中国植物学会植物園分会の張佐双理事によると、桜の野生種は世界中で約150種が存在し、そのうち50種以上が中国で確認され、サクラ属の野生祖先種約40種のうち、33種が中国原産と指定されたようです』。『桜は中国生まれですが、日本でもっと花を咲かせたのです。日本の桜栽培の歴史は古く、なんと1千年以上の歴史があります。ちなみに品種の85%以上が白い花の品種です』。『中国も現在、独自に桜を栽培しています。花の咲く時期はより長く、色も品種も多くなり、今では桜の栽培面積は世界一の広さだそうです』とし、『盛唐の頃、諸国から使者が多く訪れ、日本の使者は』、『建築、服飾、茶道、剣道などと一緒に桜の花をもちかえったとみられます。それが日本で盛んになり、現代になって日本の桜が中国に逆輸入となりました』とあった。牡丹を「花の王」として絶賛する中国人にとっては、嘗つては、迫力のない、ちまっこい群れとして、聊か、不満であったのだろうか?……でも、前項の「海棠梨」を見るに、海棠は賞翫してるんだけどなぁ……
以下の和歌・漢詩は、いままでの訓読法で、位置を変えてある。]
「日本紀」に云はく、『允恭《いんぎよう》天皇、井《ゐ》の傍《かたはら》の櫻を見て、衣通姬《そととほしのいらつめ》に寄する歌、
花《くわ》ぐはし
櫻のめで
異《こと》めでば
早くなめでず
わがめづるこら
』≪と≫。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの黑板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)のここ(左ページ二行目以降)で、訓読文を視認出来る。「允恭天皇」は当該ウィキを見られたい。「衣通姬」同じく、当該ウィキを、どうぞ。そこには、『大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっており』、『本朝三美人の一人に数えられる。和歌に優れていたとされ、和歌三神の一柱としても数えられる』美女である。]
『平城天皇、始《はじめ》て、櫻花の詩、有り、
昔し 幽巖の下《もと》に在り
光𬜻《くわうくわ》 四方《よも》を照《て》らす
忽《たちま》ち 攀《よぢ》折《をる》客《かく》に逢《あひ》
笑(ゑみ)を含みて 三陽《さんやう》に亘(わた)る
氣《き》を送る 時《よりよりに》多少《たせう》
埀陰《すゐいん》 復《また》 短長《たんちやう》
如何《いか》なれば、此の一物《いちもつ》
美《びを》擅(ほしいまゝ)にす 九春《きゆうしゆん》の塲《ば》に
』≪と≫。
[やぶちゃん注:良安は引用書を示していないが、弘仁五(八一四)年に嵯峨天皇の命により編纂された日本初の勅撰漢詩集「凌雲集」(りょううんしゅう:小野岑守(おののみねもり)・菅原清公(きよきみ/きよとも)等の編纂)で、冒頭の平城天皇の二首目。国立国会図書館デジタルコレクションの、ガリ版刷であるが、世良亮一著「凌雲集詳釈」(一九六六年)の当該部が、よい。]
「日本後紀」に云はく、『嵯峨天皇弘仁三年[やぶちゃん注:八一二年。]二月、神泉苑に幸(みゆき)あり。花樹《ななき》を覽《らんじ》玉《たまひ》[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]、文人をして、詩を賦《ふ》さしめ、「花の宴《うたげ》の節《せつ》」、此れより始《はじむ》る。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「日本後紀」は平安初期に編纂された勅撰史書。「續(しよく)本紀」に続く『六国史』の第三。承和七(八四〇)年に完成。延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年に至る。編者は藤原緒嗣ら。編年体・漢文・全四十巻だが、散逸しており、現存は十巻のみ(当該ウィキに拠った)。]
名𬜻《めいくわ》の數品《すひん》、勝《たへ》て計《かぞ》へず、大畧≪す≫。
[やぶちゃん注:以下の桜の名物は、改行して示す。原文の「゚」は「・」に代えた。]
「泰山府君《たいざんふくん》」【大白千葉《だいはくやへ》。香氣《かうき》、最も甚し。】
[やぶちゃん注:「大」大輪。以下、「中」は中輪。「千葉」以前にも注したが、東洋文庫訳の後注に、『八重のうち花弁数の多いもの。現在、つばきなどでは花弁の多寡によって一重、八重、千重と分けている。』とある。「泰山府君」はヤツガタケザクラ(八ヶ岳桜)Cerasus (= Prunus )× miyoshii ‘Ambigua’で、マメザクラ(豆桜)Prunus incisa var. incisaとタカネザクラ(高嶺桜)Cerasus nipponica var. nipponicaの雑種である。]
江戶法輪寺《えどほふりんじ》【大白千葉。開≪き≫初≪はじめ≫の時、微紅を帶ぶ。】
[やぶちゃん注:「文化遺産オンライン」のここで、モノクロームであるが、「江戶法輪寺櫻圖」(女流絵師・織田瑟々(おだひつひつ)・文化四(一八〇七)年作)の画像を見ることが出来る。また、Wampaq.Co.LTD作成のサイト「Wampaqのおもちゃ箱」の「桜の博物館」の「桜の学名検索」の「法輪寺」を参照するに、日本固有種であるオオシマザクラ Prunus speciosa を基に生まれた栽培品種イチヨウ(一葉)品種ホウリンジ Prunus lannesiana ‘Horinji’が有力。同サイトの独立ページに写真がある(このサイトには必ず画像があるので、以下の同所のリンクは必見!)。個人サイト「このはなさくや図鑑~美しい日本の桜~」の同種のページ(このサイトは各個リンクは禁止であるため、以降では、原則、同定根拠には使用しない)に『元々は京都市西京区嵐山、法輪寺』(ここ。グーグル・マップ・データ)『にあったサクラで』あったとされつつも、『三好学氏によって記載されたものが本品種のものであるかは不明』とあり、『淡紅色大輪の花ですが、イチヨウと同じとする説があるほか、多摩森林科学園にあるものは、花弁の色も濃く、花弁の先があきらかに細かい切れ込みなどが見られず、その他同じような形質は見られません。各地に現存するホウリンジは各々』、『形質が違うので今後の研究がまたれます』とあって、最後に『エドに似る。』とのみ、ある。その「エド」(恐らく「江戸」)のぺージでは、サトザクラ(里桜)品種エド Cerasus(= Prunus ) serrulata ‘Nobilis’とするから、これは、ホウリンジとは異種である。しかし、ここでわざわざ「江戶」と冠しているのは、京都の「法輪寺」とは、似て非なる種の名乗りとも見られるから、これも候補(その品種であることを含め)としておく。次も参照。]
有明櫻《ありあけざくら》・江戶櫻【大白千葉。淡色《あはいろ/たんしよく》を帶ぶ。】
[やぶちゃん注:「有明櫻」は「江戶櫻」と並べてあるので、前掲「桜の博物館」の「桜の学名検索」の「有明/関東有明」に、Cerasus(= Prunus )serrulata 'Candida' とする。「江戶櫻」は前掲のCerasus(= Prunus ) serrulata ‘Nobilis’ であり、これは正式和名「エドザクラ」である。当該ウィキによれば、単に「エド」とも呼ばれるとあった。
菊櫻《きくざくら》・奥州櫻《わうしうざくら》・述懷櫻《じゆつくわいざくら》【中白千葉《ちゆうはくやへ》。淡色を帶ぶ。】
[やぶちゃん注:「菊櫻」は前掲「桜の博物館」の「桜の学名検索」の「菊桜(キクザクラ)」に、サトザクラ品種Cerasus(= Prunus ) serrulata 'Chrysanthemoides'とする。「奥州櫻」は同サイトのここで、Cerasus(= Prunus ) serrulata 'Oshudatozakura' とする。「述懷櫻」は不詳。]
南殿櫻《なでんざくら》【大白千葉。花は、≪南殿の≫階段《きざはし》に有り。】
[やぶちゃん注:「南殿」は「なんでん」とも読み、宮中の紫宸殿の別名。所謂、「左近の櫻」のこと。南面する帝(みかど)の位置の左手(階(きざはし)を下った東方)に当たるため。「南殿櫻」は前掲「桜の博物館」の「桜の学名検索」の「南殿(ナデン)」に、Cerasus(= Prunus ) sieboldii とし、『高砂、松前早咲の異名とも言われるが』、『学名が異なる』ため、『別種とした。又、奈天(ナテン)と言う桜もあるが』、『学名が異なり』、『別種とした』とある。]
普賢象《ふげんざう》【大白千葉。淡色を帶ぶ。花の中に二つの細き葉、有り、象の鼻のごとし。鎌倉に、名花《めいくわ》、有り、「普賢堂《ふげんだう》」と称す。東千本《ひがしせんぼん》の「閻魔堂《えんまだう》」にも亦、之れ、有り。俗、又、「普賢象」と名づく≪は≫、是れなり。】
[やぶちゃん注:「普賢象」「鎌倉櫻」は、私のブログ版の「鎌倉攬勝考卷之一 物產」の最後にある、「鎌倉櫻」の本文と、私の注を見られたい(サイト版の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」でサイズの大きい画像で見られるのだが、そちらは、Unicodeを使いこなす前の電子化であるため、正字表記が不全である)。古いUnicodeの使用が出来なかった時代のものであったので、先日、全文の漢字表記を補正し、「普賢象櫻」の挿絵も入れておいた。歴史的経緯をざっくりと言うと、①鎌倉時代には、前期に現在の鎌倉市街にあった。②後に「金澤文庫」のある称名寺に移植されて、あった。③現在も、本邦には、その名を持つ品種として「普賢象」はある(サクラ属フゲンゾウ Cerasus(= Prunus ) × lannesiana ‘Alborosea’/synonym;Cerasus(= Prunus ) serrulata ‘Albo-rosea’(サトザクラ品種) :Cerasus(= Prunus ) Sato-zakura Group ‘Albo-rosea’/当該ウィキを見られたい)が、同一種かどうかは、不明である。「金沢区」公式サイト内のここに、『文殊桜 普賢象の桜』として、『称名寺にあった八重桜の一種と言われています。文殊桜は左近の桜になぞらえて階前の金堂の左に、普賢象の桜は右近の橘になぞらえて階前の金堂の左にありました。』とある。『東千本《ひがしせんぼん》の「閻魔堂《えんまだう》」』これは「千本閻魔堂」で、現在の京都市上京区閻魔前町にある高野山真言宗光明山引接寺(いんじょうじ:グーグル・マップ・データ)の通称。本尊は閻魔王。生前に地獄へ通じ、閻魔の秘書官をしていたとされる小野篁(たかむら)の建てた閻魔堂が、その前身であると伝え、寛仁年間(一〇一七年~一〇二一年)、定覚(じょうがく)が開創した。古えは、蓮台野の墓地の入口に当たっていた。「普賢象桜」と「大念仏狂言」とで知られ、また、「紫式部供養塔」(京には冥い私だが、ここは行ったことがある)と称するものがある(以上の一部は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
楊貴妃《やうきひ》【小白千葉。淡色を帶ぶ。香氣、有り。】
[やぶちゃん注:「楊貴妃」は、前掲「桜の博物館」の「楊貴妃(ヨウキヒ)」に、Cerasus (= Prunus )serrulata 'Mollis' とする。]
熊谷櫻《くまがいざくら》【小白千葉。淡色を帶ぶ。花、攅生《さんせい》[やぶちゃん注:群がって生える。]す。】
[やぶちゃん注:「熊谷櫻」は、前掲「桜の博物館」の「熊谷桜(クマガイザクラ)」に、マメザクラ変種キンマメザクラ変種クマガイザクラCerasus(= Prunus ) incisa var. kinkiensis 'Kumagaizakura' とし、『伊予熊谷と同種と言われる場合もある。又、八重咲山彼岸とも呼ばれる。熊谷とは異なる種である』とある。]
鹽竃《しほがま》【中白千葉。淡色を帶ぶ。嫩葉《わかば》、微《やや》、黃≪なる≫紋
≪しぼ≫り色にして、葉も亦、艶美なり。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「塩釜桜(シオガマザクラ)」に、 Cerasus(= Prunus )serrulata 'Shiogama' とある。]
虎の尾櫻《とらのをざくら》【中白。淡色を帶ぶ。莖、短かく、花、繁り、枝に滿ち、虎の尾のごとし。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「虎の尾(トラノオ) Cerasus(= Prunus )serrulata 'Caudata' とある。]
八重一重《やへひとへ》【中白。八重と、一重と、開き分《わ》く。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」のリストの「ヤエヒトエ」には『(異名)』とあり、リンク先は「御車返し(ミクルマガエシ)」で、Cerasus(= Prunus )serrulata 'Mikurumakaisi' とあり、『桐ヶ谷、八重一重、見返し桜とも呼ばれる』とあった。そこで、ウィキの「ミクルマガエシ」を見ると、『鎌倉の桐ケ谷にあったサクラの個体名に由来し、江戸時代には「桐ケ谷(キリガヤ)」と呼ばれていた。このサクラには、このサクラの下を牛車で通った貴人』二『人が一重咲きか八重咲きかで言い争いとなり』、『牛車を引き返して確認したという逸話があり、当時は「車返し(クルマガエシ)」とも呼ばれていた。一方で、京都の別のサクラにもこれと似たような逸話があり、後水尾天皇が京都御所の宜秋門(もしくは常照皇寺)にあるサクラの傍を通りかかった際に、その美しさに牛車を引き返させて鑑賞したという「御車返し(ミクルマガエシ)」と呼ばれるサクラもあった。この』二『つの似たような逸話を持つ別々のサクラが混同され、明治時代に鎌倉由来の「桐ケ谷(キリガヤ)」別名「車返し(クルマガエシ)」が「御車返し(ミクルマガエシ)」と呼ばれるようになった。これを受けて、現在は本来の京都の「御車返し(ミクルマガエシ)」は「御所御車返し(ゴショミクルマガエシ)と呼ばれるようになった。このよく似た」二『つのサクラの逸話と名称の変遷により、現在でもミクルマガエシとゴショミクルマガエシを混同する事例がある』とあった。そこで、前掲「桜の博物館」の「御所御車返/京都御所御車返(ゴショミクルマガエシ/キョウトゴショミグルマガエシ)」を見ると、 Cerasus (= Prunus ) serrulata 'Gosho-mikurumagaeshi' とあった。従って、この「八重一重」と、次に立項されてある「車返(《くるま》がへし)」は、その孰れかに相当するということになるが、写真の花を見ても、私には、判別がつかない。而して、「御車返し(ミクルマガエシ)」リンク先にある掲げた解説の「桐ヶ谷」「八重一重」に従がうのが自然であり、この「八重一重」が、Cerasus(= Prunus )serrulata 'Mikurumakaisi' であり、次の「車返(《くるま》がへし)」こそが、ゴショミクルマガエシ/キョウトゴショミグルマガエシ)Cerasus (= Prunus ) serrulata 'Gosho-mikurumagaeshi' である、と、私は結論した。識者の御教授を乞うものである。]
車返(《くるま》がへし)【中白。八重と一重と、開き分く。枝を圍(めぐ)り、車輪のごとし。】[やぶちゃん注:前項の私の注を参照。]
鷲尾櫻《わしをざくら》・廣大寺桐谷櫻《かうだいじきりがやつざくら》【大白。色、八重・一重、開き分く。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「鷲の尾(ワシノオ)」に、イチヨウ(一葉)品種Cerasus(= Prunus )lannesiana 'Wasinowo' とし、『大明』(だいみん:サトザクラ品種 Prunus serrulata 'Daimin')『と同種と言う説もあるが、多摩森林科学園では別種として扱っている』とある。「廣大寺桐谷櫻」という名(本種の異名かも知れない)は、ネット検索では見当たらない。この「桐谷」が何んとも悩ましいものの、箔をつけるための異名と考えれば、よかろうかと思う。]
大挑燈櫻(《おほ》でうちん《ざくら》・金王櫻(こんわう《ざくら》)【大白の八重。特に「大挑燈」は、花の盛《さかり》の日、久《ひさ》し。】
[やぶちゃん注:この二つの名は、割注から、同品種の別種であると考えられる。前掲「桜の博物館」の「大提灯(オオヂョウチン)」(この読みから、本文も「でう」とした)には、Cerasus(= Prunus )serrulata 'Ojochin'とある。同じサイトの、「金王桜(コンノウザクラ/シブヤコンノウザクラ)」で、 Prunus serrulata 'Konno' とする。『東京都渋谷区の金王神社にある桜。長州緋桜の変種で長州緋桜より白い。渋谷金王桜とも言われる』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)――ウヘエ! 大学生の私が、毎日、前を通っていながら、一度も境内に入ったことがない、あそこかいなッツ?!]
法輪寺櫻《ほふりんじざくら》・八重垣櫻《やへがきざくら》・奈良八重櫻《ならやへざくら》【大輪白色。八重。開き初めの時、淡色を帶ぶ。】
[やぶちゃん注:「法輪寺櫻」前掲「桜の博物館」の「法輪寺(ホウリンジ)」に、サトザクラ品種ホウリンジ Cerasus(= Prunus )serrulata 'Horinji'とある。「八重垣櫻」不詳。この名自体は、ネットには神社の桜の木(花)の美称として見られるが、品種の名では認められない。「奈良八重櫻」「奈良八重桜/奈良八重紅桜(ナラノヤエザクラ/ナラヤエベニザクラ)」に、カスミザクラ品種 Cerasus(= Prunus ) leveilleana 'antiqua' とあり、『奈良桜、奈良都八重桜、 予野の八重桜とも呼ばれる』と記す。因みに、御存知ない方のために言っておくと、「法」の歴史的仮名遣は、普通の用法では、「はふ」であるが、仏教関連用語の場合は、「ほふ」と区別して読むことになっている。]
仁保比櫻《にほひざくら》【中白八重。甚だ、香氣、有り。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「匂桜(ニオイザクラ)」に、イチヨウ品種Prunus lannesiana f. Hosokawa-odora とあった。]
大毬(《おほ》てまり)・中毬《ちゆうてまり/なかてまり》・香毬(にほひ《てまり》【皆、白八重。花の形、字のごとし。】
[やぶちゃん注:「でまり」という濁音は、古え、濁音を嫌った本邦の習慣に従っておいた。「大毬(《おほ》てまり)」は、前掲「桜の博物館」の「大手毬(オオテマリ/オオデマリ)」に、Cerasus(= Prunus ) serrulata 'Oh-demari'とあった。学名で判る通り、サトザクラ系の八重咲き品種で現在でも人気がある。「中毬」未詳。「香毬」未詳。なお、「桜の博物館」には、「手鞠(テマリ)」 Cerasus(= Prunus ) serrulata 'Temari' 、「小手毬(コデマリ)」Cerasus(= Prunus )'Kodemari' 、「白山大手毬(ハクサンオオデマリ)」 Cerasus(= Prunus )'Hakusan-ohtemari' があり、また、ごく最近のものでは、「浜名湖手毬(ハマナコテマリ)」があって、『はままつフラワーパークの初代園長である故「古里和夫」氏が発見した桜。染井吉野の実生から偶然生まれた。花は染井吉野に似ているが手毬咲きとなる。命名は古里和夫氏』とあった。]
西行櫻《さいぎやうざくら》【大白八重。微《やや》、青色を帶ぶ。西山大原野《にしやまおほはら》に在り。】
[やぶちゃん注:この名の品種は存在しないものと思われる。最も知られる「西行桜」は、古蹟として栃木県大田原市佐良土(さらど)にある天台宗光丸山(こうまるさん)法輪寺のここにある(グーグル・マップ・データ)。「大田原市」公式サイト内の「西行桜(さいぎょうざくら) 市指定天然記念物」に『法輪寺境内にあるシダレザクラです。シダレザクラはエドヒガンの変種で枝が枝垂れるものをいいます。別名イトザクラともよばれます』。『この樹は根元から二股に分かれています』。『保延』『年間』(一一三五年~一一四一年)、『西行法師が奥州行脚の折』り、『法輪寺に詣でて、境内にあったサクラを見て、
*
盛りにはなどか若葉は今とても
こころひかるる糸櫻かな
[やぶちゃん注:現在残る西行の歌集の中には見出せない。後世の偽作であろう。]
*
『と詠んだと伝えられていることから、「西行桜」の名があります。当時から』八百『年余の歳月が流れていますが、現在のサクラはひこばえのものです』とある。シダレザクラ(枝垂桜)の学名は、Prunus itosakura(シノニム:Prunus pendula ; Cerasus spachiana ;Cerasus itosakura f. itosakura ; Cerasus itosakura ‘Pendula’;Cerasus spachiana ‘itosakura‘;Cerasus spachiana ‘Pendula’ )である。]
小菊櫻《こぎくざくら》【中白八重。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「小菊桜(コギクザクラ)」に、学名を、 Prunus jamasakura cv. Agishi-kogikuzakura (この場合はヤマザクラの品種)、別に、Prunus serrulata f. singularis (この場合はサトザクラの品種)とし、『阿岸小菊桜』、『又は』、『本誓寺小菊桜の別名』とあり、「阿岸小菊桜」・「本誓寺小菊桜」では、孰れも別な写真を添えて、学名は前者のPrunus jamasakura cv. Agishi-kogikuzakura を採用しておられる。]
衞門櫻《ゑもんざくら》【中白八重。花の莖、短くして、狀《かたち》、總系《ふさいと》のごとく開く。】[やぶちゃん注:「系」は「系統」の「系」ではなく、「糸」の異体字である。この「衞門櫻」は検索しても見当たらなかったが、ふと、気づいたのだが、「ゑもん」という読みなら、「右衞門」があるので、「右衛門桜」で調べたところが、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」の「右衛門桜 (桜16 江戸の花と木)」に、『江戸の一本桜の最後、「右衛門桜」』を訪ねられ、『「右衛門桜」は』『北新宿の円照寺にあります』とあった(同寺はグーグル・マップのここ。桜の写真有り)。以下、『円照寺の由緒書き等がありませんでしたが、「江戸名所図会」に詳細に書かれています』。『それを要約すると次のようになります』。『瑠璃光院と号す。柏木村にあり。真言宗にて田端の与楽寺に属す』。『本尊薬師如来の像は行基の作といわれていたもの』。『天慶』三(九四〇)『年』、『藤原秀郷が威を関東に振るう平将門を討とうと中野にきたところ、ひじが痛んだため、本尊薬師如来にお祈りするとたちまち直った』。『あわせて、将門征伐のお願いをしたところ、無事征伐できたので、凱旋後、円照寺を建立した』。『その後、兵火に何度かあったが、江戸時代になって、寛永』一八(一六四一)『年に春日局が修復をした』。『「右衛門桜」は、本堂の脇、地蔵堂の前にありました』(グーグル・マップで航空写真でアップし、ストリートビューのポイント画像を見たところ、「地蔵堂」ではなく、「閻魔堂」とマップにはあった)。『意外と若木のヤエベニシダレでした。「右衛門桜」などの説明板も一切ないのが少し残念でした』。『【江戸名所花暦の書く右衛門桜】』とされ、『「右衛門桜」について、江戸名所花暦では次のように書かれています』。『柏木の右衛門桜と名付けたる説は、武田右衛門という浪人あり。すぐれてこの花を愛す。老木にて幹木の枝枯れたり。右衛門歎きて、あらたに若枝をつぐ。継木の妙手を得たる人なれば、枝葉栄えて花もむかしの色香をなせり、右衛門が継木の桜なれば、いつともなく右衛門桜という。所を柏木村といへば、源氏の柏木右衛門に因み手名高き木とはなれり』とあった。ヤエベニシダレは、当該ウィキによれば、『八重紅枝垂』で、学名は、Prunus spachiana ‘Plena Rosea’(シノニム : Prunus pendula ‘Plena Rosea’ ;Cerasus spachiana f. spachiana ‘Yaebenishidare’;Cerasus itosakura ‘Plena-rosea’)で、『エドヒガンから誕生した日本原産の栽培品種の八重咲きのヤエザクラで、花色が濃い紅色』(☜)『のシダレザクラである。「エンドウザクラ(遠藤桜)」「センダイヤエシダレ(仙台八重枝垂)」「センダイコザクラ(仙台小桜)」「ヘイアンベニシダレ(平安紅枝垂)」とも呼ばれる』とある。しかし、良安は、「衞門櫻」の花の色を「白」とし、「八重」で、「花の莖、短くして、狀《かたち》、總系《ふさいと》のごとし」と言っており、この白ではなく、淡紅で、しかも、花の茎の形状も、全く合わないので、残念ながら、ヤエベニシダレではない。]
深山隱(み《やま》がくれ)【花、「衞門櫻」に似て、微《やや》、淡色を帶ぶ。】
[やぶちゃん注:不詳。前掲「桜の博物館」に「深山桜(ミヤマザクラ)」があり、学名を、 Cerasus(= Prunus ) Maximowicziiとあるが、そこにある写真の花は、「微《やや》、淡色を帶」びてなどいないので、違う。]
天狗櫻《てんぐざくら》【花の狀《かたち》、「衞門櫻」に似て、貫白《ぬきじろ》[やぶちゃん注:真っ白。]。】[やぶちゃん注:不詳。]
香芬櫻(かうぶん《ざくら》)【中白の八重。香芬、有り。】
[やぶちゃん注:名の読みの「ぶん」は、原文自体に「カウブン」と濁点がある。本種は不詳。]
豊國《とよくに》【中。淡色。八重。】
[やぶちゃん注:ありそうな名だが、未詳。京都の豊国神社と関係するかと思ったところが、そこに植わっているのは、「蜂須賀桜」で、これは大和桜(ヤマトザクラ)と沖縄系の桜による一代交雑種で、寒桜(カンザクラ)の一種とされており、良安の時代に、この交雑種は、ちょっとクエスチョンに私には思えた。]
淺葱櫻(あさぎ《ざくら》)【大。淡青色。八重に開く。】
[やぶちゃん注:「GKZ 植物事典」の「ギョイコウ」のページで異名として、『アサギザクラ(浅黄桜)』とある。学名は、Prunus lannesiana ‘Gioiko’である。当該ウィキによれば、『オオシマザクラを基に生まれた日本原産の栽培品種のサトザクラ群のサクラ。名前は江戸時代中期から見られ』、『その由来は貴族の衣服の萌黄色に近い』ことによる。『別名は「ミソギ(御祓)」』ともあった。]
いにしへの
ならの都の
八重櫻
けふ九重《ここのへ》に
香《にほ》ひぬるかな
[やぶちゃん注:以上の一首は、「百人一首」にも採られてある(六一番)知られた和歌で、「詞花和歌集」の「卷第一 春」の伊勢大輔の一首(二九番)である。
*
花をたまひて、歌よめと、おほせられければ、
よめる
いにしへのならのみやこの八重ざくら
けふ九重(ここのへ)ににほひぬるかな
*
水垣久氏のサイト「やまとうた」の「伊勢大輔 いせのたゆう(いせのおおすけ) 生没年未詳」によれば、作歌経緯は、「伊勢大輔集」『によれば、上東門院彰子が一条天皇の中宮だった時、奈良の僧の献上物八重桜を受け取る役を、紫式部が新参の伊勢大輔に譲り、それを聞いた藤原道長が歌も奉るように命じた、という』とあり『以下、詞書を群書類従本』の「伊勢大輔集」『より引用』とあり(漢字を正字化し、一部に手を加えた)、
*
女院(によゐん:上東門院)の中宮と申しける時、内におはしまししに、奈良から僧都の八重櫻を參らせたるに、「今年のとりいれ人は、今、參りぞ。」とて。紫式部のゆづりしに、入道殿(道長)、きかせたまひて、「ただには、とりいれぬものを。」と仰せられしかば、
*
『因みに』、『彰子の返歌は』、
*
九重に匂ふを見れば櫻がり
重ねてきたる春かとぞ思ふ
*
とある。因みに、ここに読まれた「櫻」は、現行では、サクラ属カスミザクラ(霞桜)変種ナラノヤエザクラ(奈良の八重桜) Prunus serrulata var. antiqua に同定比定されてある。当該ウィキを見られたい。]
緋櫻(ひ《ざくら》)【中花。紅、千葉。「文選」詩の註に云はく、『山櫻《さんわう》は、果木の名。花、朱色、火《ひ》、然《もえ》んと欲するごときなり。』と。其れ、是れか。俗に「火櫻」と爲《な》す。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」に「緋桜(ヒザクラ)」があり、学名を、サトザクラ品種 Prunus lannesiana cv. Hizakura とある。]
常陸櫻《ひたちざくら》・索規濱櫻(《そ》との《はまざくら》)・紅葉櫻《もみぢざくら》【並びに[やぶちゃん注:孰れも。]、大紅千葉。特に、「紅葉櫻」の葉、又、赤し。】
[やぶちゃん注:「常陸櫻」不詳。旧常陸国、現在の茨城県には、多くのサクラの品種があるが、この名は見当たらない。「索規濱櫻」不詳。この「索規濱」自体が不詳である。識者の御教授を乞うものである。「紅葉櫻」ありそうな名だが、不詳。]
本紅櫻《ほんべにざくら》・伊勢櫻《いせざくら》【並びに、中花。紅《くれなゐ》、千葉《やへ》。】
[やぶちゃん注:「本紅櫻」未詳。これもありそうで、見当たらない。「伊勢櫻」未詳。]
紅毬櫻(べにてまり《ざくら》)【大紅千葉にして、花・莖、長く埀《た》る。狀《かたち》、毬《まり》のごとし。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」に「紅手毬(ベニテマリ)」があり、学名を、Prunus lannesiana 'Beni-demari' とする。]
𮈔總櫻(いとくり《ざくら》)【中紅千葉。花の狀、總《ふさ》のごとし。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」に、「糸括り(イトククリ)」なら、あった。学名を Cerasus(= Prunus ) serrulata 'Fasciculata' とする。しかし、これであるかどうか、判らない。写真を見るに、割注の、それらしくは見えるのだが……。]
「新六」
夕附日《ゆふづくひ》
うつろふ雲や
迷ふらん
髙ねにたてる
火櫻《ひざくら》の花
光俊
[やぶちゃん注:「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02380」である。しかし、そこでは、
*
ゆふつくひ-うつろふくもや-まかふらむ-たかねにたてる-ひさくらのはな
*
とある。とすれば、良安の「迷ふ」は「紛ふ」の誤りではなかろうか?]
千本櫻(ちもとの《ざくら》)【中花。紅《くれなゐ》。八重と一重と。】
[やぶちゃん注:不詳。前掲「桜の博物館」に、「小彼岸/子彼岸/彼岸桜/千本彼岸(コヒガン/ヒガンザクラ/チモトヒガン)」学名 Cerasus subhirtella があるが、ウィキの「コヒガン」によれば、『広義ではマメザクラとエドヒガンが交雑した種間雑種の総称』(太字は私が附した)とし、狭義には、特定の栽培種として、学名 Prunus subhirtella (シノニム:Cerasus × subhirtella;Cerasus × subhirtella 'Kohigan' )を挙げるが、どの解説、どの写真を見ても、八重はなく、一重であるから、割注に反する(なお、『狭義のコヒガンの花期が早く彼岸頃に咲き始めるためにこの名前がついたといわれている。別名にヒガンザクラ(彼岸桜)、センボンヒガン(千本彼岸)。なお、エドヒガンの別名もヒガンザクラ(彼岸桜)であり、更にカンヒザクラをヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ぶこともあるため混同に注意が必要である』とあったことを言い添えておく)。]
小櫻《こざくら》【中花。淡紅八重《たんこうやへ》。】[やぶちゃん注:不詳。]
練絹櫻(ねりぎぬ《ざくら》)【大花。白。單葉。絹色《きぬいろ》。】[やぶちゃん注:不詳。]
逆手櫻(さかて《ざくら》)【中花。白。單葉。微《やや》、色、有り。】
[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」に『さかて―ざくら【逆手桜】』があり、『サクラの園芸品種。花は淡紅色で、六弁からなり、一弁はよじれるという。』とあり、使用例に、浄瑠璃の「賀古敎信七墓𢌞」(正徳四(一七一四)年頃)の「櫻祭文」から、「櫻重ねの袖翻へし、さかて櫻に白木綿襷ひっかけつっかけ、花の木蔭を祓ひ淨め奉れば」とある。本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年の成立である。しかし、学名はネットには見当たらない。識者の御教授を乞う。引用の「という」とあるのが、ちょっと怪しい。もう失われた古い園芸品種である可能性もありそうだ。]
海棠櫻《かいだうざくら》【中花。白。微、紅色。單葉。海棠の花のごとし。故に名づく。】
[やぶちゃん注:AIは『カイドウザクラは、バラ科リンゴ属の落葉樹であるハナカイドウの俗称です。ハナカイドウは、中国の漢名「海棠」の音読みで、花が美しいことからこの名前が付けられました』とあるから、これが正しいとするなら、バラ科ナシ亜科リンゴ属ハナカイドウ(花海棠) Malus halliana で、サクラではない。当該ウィキを見られたい。]
姥櫻《うばざくら》【中花。白色。單辨。未だ、葉を出さざるに、花、開く。】
[やぶちゃん注:前掲「桜の博物館」の「江戸彼岸(エドヒガン)」に、『江戸彼岸は、東彼岸、立彼岸、婆彼岸、姥桜』(☜)『姥彼岸など色々の名前で呼ばれている』とあり、『「ウバ」は葉が芽生える前に花が咲く様子を、歯のない老婆(姥)に例えたものである』とある。]
桐壺《きりつぼ》【大白。二重《ふたへ》に開く。】[やぶちゃん注:如何にもありそうな品種名だが、不詳。]
彼岸櫻《ひがんざくら》【小白單葉。春分の後《のち》、彼岸《ひがん》に、餘の櫻に先《さきだ》ちて開く。】
[やぶちゃん注:ウィキの「エドヒガン」によれば、「江戸彼岸」は、『別名、アズマヒガン、ウバヒガン』とし、『「エド」や「アズマ」は東国を意味し、関東地方のヒガンザクラ(彼岸桜)の意味である』。『その他、エドヒガンから誕生した栽培品種の特性から、ヒガンザクラ』『アズマザクラ』・『タチザクラ』・『イトザクラ』・『シダレザクラ』『の別名もある』とし、『春の彼岸ごろに花を咲かせることからヒガンザクラ(彼岸桜)、葉より先に花を咲かせることから「葉(歯)がない」との言葉遊びからウバザクラ(姥桜)の通称もあるが』、『マメザクラと本種の種間雑種であるコヒガン』( Prunus subhirtella :シノニム:Cerasus × subhirtella ;Cerasus × subhirtella 'Kohigan' )『の通称もヒガンザクラ(彼岸桜)で、別の野生種のカンヒザクラ』( Prunus campanulata:シノニム:Prunus campanulata ;Prunus cerasoides var. campanulata ;Cerasus campanulata ;Cerasus campanulata )『をヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ぶこともあるため、それぞれの混同に注意が必要である。』とあった(太字・下線は私が附した)。]
山櫻《やまざくら》【卽ち、「彼岸櫻」の種類にして、花・實、共に、小さし。山中、多く有り。】
[やぶちゃん注:既出のサクラ属ヤマザクラ Prunus jamasakura 。当該ウィキを見られたい。]
兒櫻《ちござくら》【小白單葉。卽ち、山櫻の一種≪なり≫。】
[やぶちゃん注:これも、ありそうで、サクラの種名には見当たらない。]
みてのみや
人に語らん
さくら花
手毎《てごと》に折《をり》て
家《いへ》づとにせん
素性
[やぶちゃん注:これは、「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の(五五番)、
*
山の櫻を見てよめる そせい法し
見てのみや人にかたらむさくら花
手《て》ごとにをりていへづとにせん
*
である。言わずもがなであるが、係助詞「や」は反語である。]
凡(なべて)の花[やぶちゃん注:「桜の花」の限定。]、單葉の者は、子《み》を結ぶ。千葉《やへ》の者は、子を結ばざるは、常《つね》なり。然《しかれ》ども、「彼岸櫻」は、單葉にして、子、無く、「江戶櫻」は八重にして、子、有り。
[やぶちゃん最終割注:八重桜は実を結ばない、というのは、不思議に思った。検索すると、「教えて!goo」の「八重桜に実がつかないのはなぜ」に対する回答に、『八重咲きの花は、おしべが花びらに変化したもので、実は、つかないと言われています。戦国時代の大名太田道灌の逸話の中にも、山吹の八重咲きのものは、実がつかない事が書かれています』。しかし、『八重咲きの桜も同じと思っていましたが、八重咲きの花を、良く観察するとおしべとしべがありました。八重桜の個体の影響かと思い、数県離れた所の八重桜も観察しましたがやはり、おしべとめしべがついていました。八重桜は、花が重く、額が枝から垂れ下がってついているので、自重で落ちてしまい実がつかないのではないでしょう』とあったのだが、しかし、ウィキの「ヤエザクラ」によれば、『花の中心部の』一『本もしくは』二『本の雌しべが正常な柱頭と花柱ではなく細い葉のように葉化しているため、生殖能力を失っていて結実できなくて、接ぎ木や挿し木でないと繁殖ができない品種もあり、イチヨウ、フゲンゾウ、ショウゲツ』(松月: Prunus ‘Shogetsu’ = Cerasus serrulata ‘Superba’ )『などがこれにあたる』あったので、始めて納得した。而して、ここで実の生らない「單葉」と言っているが、サクラは総てが単葉であるから、おかしいが、本文でお判りの通り、良安は、既に「單瓣」の意味で、この語を用いている。而して、単弁の「彼岸櫻」というのは、単一では殆んど結実しないソメイヨシノのことを言っているものかと私には思われる。一方の、『「江戶櫻」は八重にして、子、有り』というのは、エドヒガンから誕生した日本原産の栽培品種の八重咲きの八重桜で、実生するヤエベニシダレ(八重紅枝垂)Prunus pendula のことを指しているようである。]
[やぶちゃん注:この「櫻」は、
双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属 Cerasus 又はスモモ属 Prunus(上位分類をスモモ属とした場合はサクラ亜属 Cerasus )の総称としての「サクラ」
で、下位の節は、
サクラ節 sect. Cargentiella
ミザクラ(実桜)節 sect. Cerasus
ミヤマザクラ(深山桜)節 sect. Phyllomahaleb
の総論である(学名では「節」の弁別は示さなかった)。当該ウィキに種は詳しい。そこによれば、世界で野生種だけで百種あるとするとし、本邦の野生種は十種、或いは、十一種とある。今回は、権威主義のアカデミズム信望者のために、CDRで所持する古い平凡社の「世界大百科事典」(第二版・一九九八年)の「サクラ(桜)」を引く(コンマを読点に代え、一部の読みをカットした)。これを使うのは、一目瞭然、単に私の好きなエングラー体系だからである。『サクラは古くから日本人に親しまれ、日本の花の代表として海外にまで知られる。一般にサクラと総称しているものは、主として北半球の温帯と暖帯に分布しているバラ科サクラ属サクラ亜属の主として落葉性の樹木で、花がいっせいに開花して美しいものが多く、広く観賞されている。日本にはヤマザクラ、オオヤマザクラ』(大山桜:双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属オオヤマザクラ Prunus sargentii )『をはじめ、カスミザクラ』( Prunus verecund )、『オオシマザクラ、マメザクラ、エドヒガン、チョウジザクラ』(丁字桜:サクラ属チョウジザクラ変種チョウジザクラ Cerasus apetala var. tetsuyae )、『ミヤマザクラ、タカネザクラ』(高嶺桜: Prunus nipponica )『など』十『種類ほどの自然種を基本として、変種や品種をあわせると約』百『ほどの種類が野生している。サクラ類の多くは陽樹で、しかも二次林を構成する生長の速い種が多いため、人家で栽植するにも好適であり、これらの野生種から多数の園芸品種が育成され、その数も』二百『から』三百『といわれる。古く奈良時代から栽培化された八重咲きのサクラが知られていたが、サクラの品種がまとまって記録されるようになったのは江戸時代からで、水野元勝の』「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年)に四十『品種のサクラがのっている。その後、多くのサクラ図譜が出ているが、松岡玄達』「怡顔齋櫻品」(いがんさいおうひん:宝暦八(一七五八)年『には』六十九『品種、桜井雪鮮描画、市橋長昭斤』の「花譜」・「續花譜」(上と下)・「又續花譜」・「花譜追加」の五冊(享和三(一八〇三)年から翌享和四・文化元年)『には』二百五十二『図が出ている。大井次三郎著、太田洋愛』(ようあい)『画の』「日本桜集」(一九七三年には百五十四『図がのっている。英語ではセイヨウミザクラ』( Prunus avium )『のように実を食べるものを cherry、日本で改良された花をみるサクラを Japanese cherry、floweringcherry、Japanese flowering cherry と呼び、区別している』。『サクラの葉は互生し、縁に鋸歯があり、多くは葉柄の上部に』一『対』、『または』、『それ以上のみつ腺がある。花序は散房状、散形状、総状などになり、花の基本は、円筒形をした萼筒の上部に』五『枚の萼片があり、萼片と交互になって』五『枚の花弁がつき、萼筒上部の内側に通常』、四十『本内外のおしべが』三『段ぐらいついている。めしべは普通』、一『本あり、子房は萼筒内の底に子房周位の状態におさまり、子房の上には細長い花柱がある。果実は核果で、果肉のなかに』一『個の硬い核があり』一つの『種子が含まれている』。『日本にはサクラの種類が多いので、早春から晩春までサクラがつぎつぎに咲き、なかには季節はずれの初冬に咲くサクラもある。早春の』二『月に淡紅色の花が咲くものにカンザクラ(寒桜)P. × kanzakura 』『がある。これは』カンヒザクラ(寒緋桜:Prunus campanulata )『とオオシマザクラの雑種で、大寒桜(おおかんざくら)、修善寺寒桜などの品種がある。カンザクラの一方の母種である』カンヒザクラは『中国南部、台湾に分布し、琉球に野生化している。葉が展開する前に、花弁が半開した濃緋紅色の花が下向きに咲く。沖縄では』一~二『月に開花し、関東以南の暖地でも』二~三『月の早春に咲くサクラとして植えられている。まれに栽培されている中国原産の桜桃(おうとう)とよばれるシナミザクラ P. pseudocerasus 』『も、大木にはならないが』、『花期の早いサクラである。しかし、俗にサクランボといって果実を食用にしているセイヨウミザクラ 』『の花は』四『月になってから』、『咲く』。『春の彼岸ごろになると』、『全体に毛の多いエドヒガン』『が、萼の基部が』壺『形にふくらんだ小型の花を、葉の出る前に咲かせる。本州、四国、九州の山地に生え、朝鮮半島、中国にも分布しており、各地に巨樹、名木が残っている。日本一大きいといわれる山梨県武川村の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)をはじめ、山形県伊佐沢の久保桜、岐阜県根尾谷(ねおだに)の薄墨桜(うすずみざくら)、巨岩を割って生えている岩手県盛岡市の石割桜(いしわりざくら)などはいずれもエドヒガンの大木で、天然記念物になっているものが多い。エドヒガン系の糸桜も同じころ枝をやさしく垂れさげて、淡紅白色一重の花を開く。福島県三春町の三春滝桜(みはるたきざくら)は糸桜の巨木として古くから知られており、京都市の平安神宮、東京都の神代植物公園などにある八重紅枝垂(やえべにしだれ)は紅色、八重の美しい花が咲く。このエドヒガンとマメザクラの雑種のコヒガン(小彼岸)P. × subhirtella 『はヒガンザクラ(彼岸桜)『とも呼ばれ、長野県高遠町の城跡公園のものは有名である』。四『月になると、全国各地に広く植栽されており、最も普通に花見の対象になっているソメイヨシノ(染井吉野)P. × yedoensis Matsum 『の花が咲いてくる。明治初年ごろに東京の染井から広がり始めたもので、オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられている。若枝や葉、花部などに毛があり、葉を開く前に大きな一重の花が木を埋めつくして美しく咲く。ソメイヨシノの仲間には、北アメリカでソメイヨシノの実生から選出された』「アメリカ」『や』、『オオシマザクラとエドヒガンの交配によってつくられた三島桜、天城吉野(あまぎよしの)などがある。チョウジザクラ』『は本州と九州の山地に生え、花径』一・五センチメートル『ほどの小さい花が春早くに咲く。マメザクラ』『も花が早く開葉の前に咲き、木が全体に小型なので』「豆桜」『といわれている。関東、甲信地方から静岡県東部の山地に生えているが、富士、箱根地方に多いので、フジザクラまたはハコネザクラともいわれている。純白な花弁に、鮮緑色の萼をつけた緑萼桜(りよくがくざくら)八重咲き、菊咲きなどの品種があり、本州の中部より西の山地には変種のキンキマメザクラ(近畿豆桜)』Prunus incisa var. kinkiensis 『が分布している』。『昔から日本人に親しまれてきたヤマザクラ』『は』、四『月に赤茶色に染まった葉を広げると同時に、淡紅白色の花をほころばせる。ソメイヨシノが出現しなかった明治以前の観桜の主役はもっぱらヤマザクラで、奈良の吉野山、京都の嵐山などは古くからの名所である。本州の宮城県以西、四国、九州の山野に生え、韓国の済州島にも分布している。ヤマザクラは葉や花部に毛がなく、花の裏面の白みの強いものであるが、葉の一部に毛を散生する』ヤマザクラ品種『ウスゲヤマザクラ』Prunus jamasakura f. pubescens『も混ざって生えている』。二~三『年生の幼木で開花する稚木桜(わかきのさくら)と呼ぶ一歳桜もあり、八重咲きの木の花桜(このはなざくら)、御信桜(ごしんざくら)などの花は少し遅れて咲く。カスミザクラ(霞桜)P. leveilleana 』は、『ヤマザクラより山地の上部に生え、花期もやや遅れる。葉や花部に毛があるのでケヤマザクラとも呼ばれているが、葉の裏面に白みがなく、花が白い。北海道から九州の山地に生え、朝鮮半島、中国東北部まで分布している。奈良市の知足院(ちそくいん)にある有名な奈良八重桜はカスミザクラの八重咲きで、花期が遅く』、四『月下旬になって淡紅色の花が咲く。ヤマザクラにつづいて咲くオオヤマザクラ』『は、北海道の山地に多いのでエゾヤマザクラ、あるいは紅色の花が咲くのでベニヤマザクラともいい、北海道では』五『月に入ってから咲き、新冠の桜並木、小伍苗畑、厚岸の国泰寺など名所が多い。サハリン、南千島、北海道から本州、四国の愛媛県、徳島県、朝鮮半島に分布している。本州中部では標高』七百~千メートル『のところに生え、ヤマザクラより上部の山地に出てくる。新潟県北蒲原郡大峰山の橡平(とちだいら)のサクラ樹林は天然記念物になっている。オオヤマザクラやヤマザクラなどのサクラの樹皮は色つやがよいので、タバコ入れ、小箱などの外側にはるのに用いられ、秋田県角館の樺皮細工(かばざいく)は有名である。樹皮は』、『また』、『去痰剤として薬用にもしている。ヤマザクラの仲間のサクラ材はやや硬い散孔材で良質なので、器具・家具・建築材になり、版画の版木にはサクラ材が最高である。最近はサクラ材の量が少なくなったので、カバノキ科のカンバ材がサクラ材といわれ、流通している』。『ヤマザクラに似たサクラには、海岸に適応した型にヤマザクラまたはカスミザクラから分化したといわれているオオシマザクラ』『がある。伊豆七島、伊豆半島、三浦半島、房総半島に分布していて』、三『月から』四『月ごろ』、『開葉とともに開花する。タキギザクラ(薪桜)ともいわれ、薪炭用にするので、伊豆、三浦、房総の各半島では植林され、それが野生化したものもある。葉は大きくて毛がなく、縁には先がのぎ状の鋸歯があって、裏面は白みがない。オオシマザクラの葉は塩漬にして、桜蛭を包むのに使われている』。四『月の中旬から下旬になると、変化に富んだ花の咲く栽培のサトザクラ』『が咲いてくる。オオシマザクラを主として、それにヤマザクラ、オオヤマザクラなどが交雑したものから改良選出された園芸品種の総称であって、一重、八重、色の濃淡、香りのよいものなど多数の品種がある。一重でも太白(たいはく)のように花が大きくなり、花径』五センチメートル『以上の大きな白花を開くものもある。サクラは花弁』五『枚が基本であるが、おしべが花弁に変化すると花弁が増加してきて、八重咲きになる。花弁化が不完全なときは葯だけが花弁状に変わり、花糸の先に旗のようにつくので、これを旗弁と呼んでいる。旗桜には旗弁があるので、この名がつけられた。御車返し(みくるまがえし)は一重の花と旗弁をもった』六~八『枚の花弁がある花が、同じ木に混じって咲くので』「八重一重」『ともいわれている。法輪寺や福禄寿、楊貴妃などは花弁が』十~二十『枚ある淡紅色大輪の花が咲く。公園によく植栽されている関山(かんざん)や普賢象には花弁が』三十『枚内外ある大きな花が咲き、これらの花を塩漬にしたものは桜湯に使われている。普賢象は室町時代から知られている古い品種で、花は長い柄があって垂れさがり、緑色の葉状に変化しためしべが』二『本ある。普賢象の名は普賢菩醍の乗ったゾウの鼻を花にたとえ、葉化しためしべの先に残っている』二『本の花柱を』、牙(きば)『に見立てて名付けられたという。花弁が』百『枚から』三百五十『枚以上にも増加した菊咲きのサクラもあり、兼六園菊桜は金沢の兼六園にあったサクラで、老木になると』三百五十『枚から』三百八十『枚の花弁のある花をつけ、一つの花の中にさらにもう一つの花が重なり、いわゆる二段咲きになっている。花色の変わったものもあり、鬱金(うこん)や御衣黄』(ぎょいこう)『は黄緑色の八重の花が咲く』。『春も深まった』五~六『月になると、ミヤマザクラ』『が咲く。花は花柄のもとに小さい葉をつけ、北海道から九州までの深山に生える。本州中部以北の高山や北海道に生えるタカネザクラ』『や、葉柄、花柄などに毛のある変種のチシマザクラ(千島桜)』Prunus『var. kurilensis 』『は、山地の雪どけとともに咲く』。『日本には』、『初冬の季節はずれに毎年花が咲き、また』、四『月にも再度』、『花が咲く変わったサクラがある。フユザクラ(冬桜)P. × parvifolia 』『はコバザクラ(小葉桜)ともいわれ、白色、一重の花が』十一『月から』十二『月いっぱい』、『咲き、群馬県鬼石町の桜山では木枯しの吹くころに花見ができる。コヒガン系のものにも、八重咲きの十月桜や一重の四季桜のように、初冬と春の』二『回きまって咲くサクラがある。ヤマザクラ系の不断桜も季節はずれに咲き』、十『月下旬から』四『月下旬まで咲きつづける』。『サクラ属ウワミズザクラ亜属のウワミズザクラ』(上溝桜・上不見桜)『やイヌザクラ P. buergeriana 』(犬桜)『などは小さい花が多数集まって細長い穂になって咲き、サクラといわれているが、とくに美しいものではない。ウワミズザクラは北海道南西部から九州までの山地に分布しており、花は白色で小さく、花弁より長いおしべがある。よく似たエゾノウワミズザクラ P. padus 』『は北海道など北半球の亜寒帯に広く分布するが、おしべが花弁より短いので区別できる。ウワミズザクラの花序の軸に数枚の葉をつけているが、本州、四国、九州、済州島に分布するイヌザクラの花序の軸には葉がない。本州中部以北、北海道の山地に生えるシウリザクラ』(シウリ桜:アイヌ語の「シウ・ニ」或いは「シウリ・ニ」からきた名(「苦い・木」の意味)とされる)『 P. ssiori 』『は花序の軸に葉があるが、おしべは花弁とほぼ同長で、葉は大型で、基部が心形である。バクチノキ P. zippeliana 』(博打の木:当該ウィキによれば、『樹皮は灰白色で、絶えず古い樹皮が長さ数』十センチメートル『程度のうろこ状に剥がれ落ち、黄赤色の幹肌を現す。本種の名は、これを博打に負けて衣を剥がれるのにたとえたことに由来する』とある)『やリンボク P. spinulosa 』(橉木:日本固有種)『は暖地に分布する常緑高木で、秋に穂状の花を開く』。『サクラは実生、接木、挿木などで繁殖させる。新品種の育成や台木用の苗作りは実生による』。六『月』頃、『果実を採取して種子(核)を取り出したら、翌年の春まで土の中に貯蔵しておき』、二月頃、『まくのがよい。種子は乾燥させると発芽が悪くなる。八重桜などの園芸品種は、接木で繁殖する。台木はオオシマザクラの実生苗やアオハダの挿木苗が使われ、ヒガンザクラ系の台木にはエドヒガンの実生苗やヒガンダイザクラの挿木苗がつかわれる。植栽は日当りのよい適潤な肥沃地で、排水のよいところがよく、浅根性なので風当りの強くないところを選ぶ』「サクラ切るばか、ウメ切らぬばか」『といわれるように、サクラは切口から腐りやすいので、やむをえず太い枝を切った場合には切口に殺菌剤の入った癒合剤を塗って腐食を防ぐ。また、天狗巣病、癌腫病などの病害にかかっている部分は切り取って焼却し、切口に癒合剤を塗るのがよい。葉を食害するオビカレハ(ウメケムシともいう)、モンクロシャチホコ、アメリカシロヒトリ、コスカシバなどの虫がつきやすい』。以下、「サクラと日本人」の項。『近代以降の日本人は、子どもの時分から、サクラに関する予備観念を植え付けられてきた。いわく』、「サクラは国花である」、いわく、「サクラは日本のみの原産である」『と。そこで、日本男児と生まれたるものだれしも』、『祖国のために桜花のごとく』「散り際、美しく」『死んでこそ本懐と心得るべきであると教え込まれ、多くの若者が数次の戦争に狩り出されては』「死に急ぐ」『といった痛ましい事態が起こった。また、それとはまったく正反対の社会事象ということになるが、第』二『次世界大戦が終息した直後、日本国じゅうの公園や並木通りのサクラが、忌まわしい軍国主義や忠君愛国のシンボルだからとの理由で、容赦なく切り倒されてしまった。植物文化史を通観しても、これほどまでに一つの国民が一つの植物を玩弄し』、冒瀆『した事例はほかに見当たらないであろうと思われる。いったい』「国花」『なる概念からして、学問的根拠もなにもない、すこぶるいいかげんな取決めによるものでしかない。そして、明治国家のオピニオン・リーダーが脱亜入欧政策の一環として新たに植え付けた』「国花はサクラ」『という考えのおかげで、いまだに大多数の日本人は、サクラを愛するに当たり、国花だからサクラを愛するといった心理的虚構に寄りかかったままである』。『また』「サクラは日本のみの原産」『とする通説がある。しかし、サクラは中国(四川省、雲南省ほか)にもたくさん自生し、インドやミャンマーの山岳地帯にはヒマラヤザクラ Prunus cerasoides やヒマラヤヒザクラ P. carmesina が美しい花を咲かせており、日本以外にもサクラの原産地があったことを知らされる。セイヨウミザクラ 』『およびスミノミザクラ(酸果桜桃)P. cerasus に至っては、小アジアから東ヨーロッパ、北ヨーロッパにかけて森林のなかにはいくらでも自生する。セイヨウミザクラは、自生種はそれほどでもないが、園芸品種になると案外に美しい花をつける。オランダ経由で早くからアメリカへ渡ったサクラも、この美しいセイヨウミザクラの』一『種であり、現在でも、アメリカ北部や中西部で美しい花を咲かせて日本人来訪者を驚かせるサクラは、このセイヨウミザクラのほうの子孫である。――これら明白な事実も、永い間、日本人には隠戴されていた』。「さくら博士」『として有名な三好学』(みよしまなぶ:万延元・万延二年・文久元・文久元(一八六一)年~昭和一四(一九三九)年)『が大正デモクラシー期に刊行した』「人生植物學」(大正七(一九一八)年)には、『昔は支那には櫻は無いやうに思つたが、今日では多數の櫻が西部稀(ならび)に西南部の山中で發見された』、『印度にはヒマラヤ櫻( Prunus Puddum )と云ふ美しい種類があつて、ヒマラヤの中腹に生えて居る。日本の紅山櫻に似て、花が赤く、且、萼が粘る』『とある。ところが、この正しい科学的記述は後退を余儀なくされ、同じ三好が昭和』十『年代に出した』「櫻」(昭和一三(一九三八)年)『では、これらに関する記述は』、『ぼかされてしまっている。自然科学的学問業績もときとして政治権力の圧力に屈服することのありうる事例の一つである』。『しからば、いつごろから日本人はサクラを日本固有の花と思い込むようになったか。従来は』、「古事記」上巻に『爾(ここ)に』『誰(た)が女(むすめぞ)『と問ひたまへば、答へ白(まう)ししく』、『大山津見神(おおやまつみのかみ)の女、名は神阿多都比賣(かむあたつひめ)、亦の名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂ふ』『とまをしき』『とあるコノハナノサクヤビメの』「サクヤ」『が音声的に転化して』「サクラ」『になったのだから、神代の時代にサクラは存在し、したがってサクラは日本固有のものであると主張されてきた。だが、サクヤがサクラに転化したという説明(本居宣長』の「古事記傳」『以来の定説)だけで、サクラを日本固有の植物とする議論は成り立ちにくい。ついで』、「日本書紀」に二ヶ『所あらわれるサクラは、一つは履中天皇の宮殿』「稚櫻宮(わかざくらのみや)と『その御名代(みなしろ)である』「稚櫻部」『との命名由来、もう一つは允恭天皇と衣通郎姫(そとおりのいらつめ)との恋愛ロマンスである。ともに、白文で』「時櫻花落于御盞」「天皇見井傍櫻華」『と表記されているから、強大となった大和王権とサクラとの結びつきを想定することは必ずしも無理ではない。サクラが登場する文献のうちで』三『番目に位置する』「懷風藻」(天平勝宝三(七五一)年成立)の」『サクラは』二ヶ『所、一つは近江守采女朝臣比良夫(おうみのかみうねめのあそみひらふ)の五言詩に』『葉綠園柳月 花紅山櫻春』(葉は綠なり園柳の月 花は紅(くれなゐ)なり山櫻(さんおう)の春)、『他は長屋王(ながやのおおきみ)の五言詩に』『松烟双吐翠 櫻柳分含新』『(松烟(しようえん)双(なら)びて翠(みどり)を吐き 櫻柳(おうりう)分(わ)きて新(あたら)しきことを含(ふふ)む)『に見えている』。七~八『世紀の日本律令貴族知識人らが先進国の中国文化を懸命に模倣=学習したことは周知であるが、この』『葉綠園柳月 花紅山櫻春』『も、じつは』「文選(もんぜん)」『十四所収の』沈約(しんやく)『の有名な五言詩』「早發定山」[やぶちゃん注:「早(つと)に定山を發す」。全詩は「維基文庫」のここを参照されたい。]『の中の』「野棠開未落 山櫻發欲然」(野棠(やたう)は開きて未だ落ちず 山櫻(さんわう)は發(ひら)きて然(も)えんと欲(ほつ)す)『を下敷きにして換骨奪胎したものにすぎなかった。結局、日本の律令知識階級にとって、サクラを賞美する行為は、それが中国詩文に見えていたればこそ』、『模倣する値うちがある、というふうに了解されていたのである』。「万葉集」『にもサクラの歌が』四十四『首見えるが、この数はウメの歌』百十八『首に比較するとはるかに少ない。詩歌の手本になっている中国詩文におけるサクラの扱い方が、ウメに比べてはるかに小さかったためと考えられる。その後、勅撰三大漢詩集』「凌雲集」・「文華秀麗集」・「經國集」(けいこくしゅう)の『時代でも、サクラはウメよりも軽い地位に置かれ、摂関期の』「古今和歌集」『になって初めて数量的にウメを圧倒するに至る。これをもって、日本化の自覚のあらわれと賞賛する論者もあるが、一方、平安王朝文化が華美軽佻』(けいちょう)『に流れた証拠だと見る論者もあり』、「古今和歌集」『の美学的規範そのものは中国詩文的教養に根ざしていたことのみは否定しようもない』。『ともかく、このようにして』「懷風藻」『このかた、古代の日本知識人は、中国にサクラがないなどといった謬見(びゅうけん)を抱いたためしはなかった。古代ばかりではない。中世随想家も、戦国武将も、彼らは一様にサクラを愛したことにまちがいはないが、しかも、ひとりとしてサクラが日本にしかない固有の花木だなどと主張した者はいない。日本のサクラの美しいのは絶対だが、もろこしにもこの美しい花はあるはずだから当然そこでも賞愛されているだろうと、そう思っていた。西行法師の』「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」「ほとけには櫻の花をたてまつれ我が後(のち)の世を人とぶらはば」『の和歌や、長谷川等伯』・『久蔵親子の智積院障屏画』「櫻圖(わうづ)」『には、サクラ』『を』「世界の花」『として賞美する精神姿勢以外の狭小な志向はまったく感じられないではないか』[やぶちゃん注:グーグル画像検索「長谷川等伯 久蔵 桜図」をリンクさせておく)。]。『サクラを』「日本国原産の花」『という呈見のほうへ引きずり込んでいったのは、かえって近世の学者、それも一流の学者であった。貝原益軒「花譜」』(元禄一一(一六九八)年作)の二月の「櫻」『の項をみると』[やぶちゃん注:古くより貝原益軒の「大和本草」の電子化注で非常に世話になっている「中村学園大学・中村学園大学短期大学部」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」の「花譜」の「第一卷」(PDF)の当該部(11コマ目)を視認して、正字化した少し前から引いておいた。本項の引用とも関係するからである。勝手に句読点を附した。]、
*
文選の沈休文[やぶちゃん注:先に出た沈約の字(あざな)。]の早二發(つとにはつする)定山一ヲ詩、王荆公(わうけいこう)選の詩に「山櫻は果(くだもの)の名、花朱、色火のごとし。とあれば、日本の櫻にはあらず。からのふみに、日本の櫻のごとくなるはいまだみず。長崎にて、から人にたづねしにも、なしとこたふ。
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『とある。この貝原説が、中国にサクラが存在しないことを主張した最初である。さらに』十『年後の』「大和本草」』(宝永六(一七〇九)年)『では、前著の』「から人」『の実名を挙げ[やぶちゃん注:同前で「大和本草巻之十二 木之下」(PDF)の「花木」の「○桜」(「4」コマ目から。なお、これは主体を「ヤマザクラ」とした記載である)を用いて処理した。句読点・記号・読みの一部を附した。]、
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『日本ノ櫻ト云物ハ中華ニ無ㇾ之』由、延寶年中長崎ニ來リシ何清甫《かせいほ》、イヘリ。『若《もし》、アラハ、中華ノ書ニ記シ、詩文ニ述作シ、賞詠《しやうえい》スヘキニ、此樹、ナキ。』と云《いふ》は、實說ナルヘシ。朝鮮ニハアリ。
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『と記す。すなわち、福岡藩儒医で、当時、日本最高の博物学者であった貝原益軒』寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)『は、わざわざ長崎へ行き、中国から来た貿易商人に会って質問し、中国にサクラがないという情報を得、これをもとに叙上の記載をなしたのである。サクラが中国にないという新情報は、延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『の日本知識人に強烈な衝撃を与えたらしく、もうひとり、同時代の百科全書的大学者である新井白石』(明暦三(一六五七)年~享保一〇(一七二五)年『も、近世言語学の古典と仰がれる「東雅」(とうが)(生前未刊行、写本のみ流布)のなかに』、『むかし朱舜水』(しゆしゆんすい))『に、ここの櫻花の事を問ひしに、櫻桃は此にいふサクラにあらず、唐山にしても、もし此にいふサクラにあらむには、梨花・海棠の如き、數ふるにたらじと、我師也(わがしなりし)人は語りき』『と記述している。わが師なりし人とは』、『木下順庵』(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九八)年)『をさし、朱舜水』(一六〇〇年~天和二(一九八二)年)『とは長崎に亡命してきた明の儒者で、のちに帰化』(万治二(一六五九)年)『して水戸藩で古学的儀礼や農業実学などを講じた学者である。結局、亡命インテリ朱舜水は、中国奥地にはサクラの自生地がいくらでもあるのを知らず、自分の狭い生活地域空間のなかでの知識をもとにして、中国にはサクラがないと答えてしまい、さきの貝原益軒著作に名の挙がっている何清甫の情報を正しいとする証言を行ったのである』。『そして、延宝年間から』百『年経過した明和・安永・天明』(一七六四年~一七八九年)『ごろになると、国学者らによって、サクラは日本にしかないという考え方が増幅され拡大解釈され、それを基礎にして、まったく新しい命題の理論化が図られるようになる。本居宣長が、有名な』「しきしまの大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山櫻花」『と歌いあげて、日本観念論の勝利を宣言する段階では、もはや』、『だれひとり』、『中国にサクラがあるとは信じなくなってしまっていた』のであった。『もちろん、幕末本草学者のなかには、誤報=誤伝に基づく学説に訂正要求を突き付ける人もあるにはあった。江戸幕府の命を受けて江戸医学館で本草学を講義し、また』、『大著』「本草綱目啓蒙」(死後の享和三(一八〇三)年刊)『の著者としても名高い小野蘭山』享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)『は、弟子の井岡冽(れつ)に筆記させた』「大和本草批正(ひせい)」『というゼミナール速記録のなかで、貝原益軒の犯した誤呈をひとつひとつ指摘し』、『中華に櫻と云ふは朱花なり。欲然と云こと、桃及杏にも賦せり。然らば正朱色を云にも非ず。櫻にも用ゐて可なり。中華にては櫻と櫻桃とを混ず』『紅毛には櫻あり。○どゝにうす、圖あり』『と明言している。ドドネウス Rembertus Dodonaeus』『草木誌 Cruydt‐Boeck』(一五五四年)『は、日本へはオランダ語版』一六一八『年刊と』一六四四『年刊と』二『種類のものが入ってきており、一目瞭然』で、十六『世紀以前のオランダ(ドドネウスはライデン大学医学教授であった)に美しいサクラが咲いていた事実がわかる』万治二(一六五九)年三月『に和蘭商館長ワーヘナルが幕府に献上したドドネウス』の「草木誌」『を、小野蘭山は、江戸の医学館かどこかで手に取りたしかめたから、自信をもって』、『紅毛には櫻あり』、『といい切ることができたのであろう』。『だが、幕末社会全体の文化動向としては、このときにはすでに』「国学の勝利」『のほうが決定的なものになっており、また尊王攘夷の勢いのほうが日増しに強くなり、サクラに関する科学的真理になどだれも耳を貸さなくなっていた。誤報=誤伝に端緒づけられた』「サクラ日本原産説」・「サクラ国民性論」『は』、忌まわしき『明治近代ナショナリズムに受け継がれることとなった』。『西洋で話題になるサクラはほとんどの場合サクランボ(セイヨウミザクラ)』『のことで、チェーホフの』「桜の園」『も日本的な観賞用サクラの庭園ではなく、サクランボ果樹園を舞台としている。またG. ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も、農園のサクランボであった。しかし、アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は』、明治四二(一九〇九)『年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノ』(♀をエドヒガン、♂を日本固有種オオシマザクラの雑種とする自然交雑、若しくは、人為的交配で生まれた日本産栽培品種 Prunus × yedoensis 。一九九五年には、本種が単一の樹を始源とする完全な栽培品種クローンであることが判明している。則ち、地球上のソメイヨシノは全く同じゲノムを持つのである)『などをもととしている。ただし』、『同年に贈られた』二千『本の苗木は虫害のためすべて焼却され』(明治四五・大正元(一九一二)年)『に改めて』三千百『本が贈られた』。『サクラは一般に春、純血、処女の象徴で、キリスト教伝説では』、『その中のサクランボがマリアの聖木とされる。マリアがこの実を夫のヨセフに求めて拒絶されたとき、枝がマリアの口もとにまでたわんできたといい、そこから花は処女の美しさに、サクランボは天国の果実にたとえられるようになった。またイギリスではサクランボを』一『粒ずつ食べながら、結婚できるかどうかうかがいを立てる恋占いがある。花ことばは』「教養・精神美」、『日本のサクラは』「富と繁栄」、『実が二つついたサクランボは』「幸運」・「恋人の魅惑」『の象徴とされる。なおサンカオウトウ』[やぶちゃん注:これは「酸果桜桃」で、セイヨウミザクラの実の漢方名である]]『の仁(じん)は青酸成分を有し、民間で鎮痛薬として用いられた』とある。
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……やっと公開に至った。本プロジェクトは、今年の四月二十七日に開始したが、最大の時間を要した。三万三千七百字を超えたのも、最長だ。年末に間に合った。……数少ない読者の方に、心より、感謝申し上げる。良き年を!!!]