和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 西王母桃
せいわうほのもゝ 冬桃
崑崙桃
仙人桃
西王母桃
本綱西王母桃形如䒷蔞表裏徹赤得霜始熟
△按今名西王母桃者其樹葉實皆與挑無異伹桃生不
三年者無花此桃種子生翌年開花淡紅色千葉而多
結子大抵千葉者不結此一異也
漢書云武帝時一足青鳥來帝前止東方朔曰當來西王
母隱身而王母來奉桃實二七枚是三千年一實上界果
隱屛風後者三盗食之耳
此桃冬熟以異常好事者誇爲西王母桃乎
躬恆
拾遺三ちとせになるてふ挑のことしより花咲く春にあひにけるかな
*
せいわうぼのもゝ 冬桃《とうたう》
崑崙桃《こんろんたう》
仙人桃《せんにんたう》
西王母桃
「本綱」に曰はく、『西王母≪の≫桃は、形、「䒷蔞《かつろう》」のごとく、表裏、徹(とほ)りて、赤。霜《しも》を得て、始めて、熟す。』≪と≫。[やぶちゃん注:「䒷蔞」双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属キカラスウリ基本変種チョウセンカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. kirilowii を指す。グーグル画像検索「Trichosanthes kirilowii var. kirilowii seeds」をリンクさせておく。カラスウリより、遙かにずんぐりした丸い実であることが、確認出来る。]
△按ずるに、今、「西王母≪の≫桃」と名づくる者、其の樹・葉・實、皆、挑と異なること、無し。伹《ただし》、桃は生《しょうじ》して[やぶちゃん注:芽生えて。]、三年ならざれば、花、無≪なし≫。此の桃、子《み》を種《うゑて》、生(《め》ば)へて[やぶちゃん注:ママ。]、翌年、花、開く。淡紅色、千葉《やへ》にして、多く、子を結ぶ。大抵、千葉の者は子を結ばざる≪故≫、此れ、一異なり。
「漢書」に云はく、『武帝の時、一≪本≫足≪の≫青≪き≫鳥、來り、帝の前に止《とま》る。東方朔《とうばうさく/とうほうさく》、曰はく、「當に、西王母、來《きた》るべし。」と云ひて[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、≪帝、≫身を隱す。而るに、王母、來《きたり》て、桃の實、二七[やぶちゃん注:後の割注参照。]枚《まい》を、奉る。是れ、「三千年に一たび、實のる。」と云《いひ》て[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、上界《じやうかい》の果(このみ)なり。屛風の後ろに隱れたる者[やぶちゃん注:東洋文庫の割注によれば、この「者」とは、東方朔とする。]、三つ、盗みて、之れを食ふのみ』≪と≫。
[やぶちゃん注:以上の「漢書」からとする引用は、東洋文庫の後注で、『『漢書』には見当らない。類似の話は『没武故事』(後漢の班固撰という)、『博物志』(晋の張華撰)、日本の『唐物語』(鎌倉期のもの)にある』とあり、「二七枚」の不審な部分については、熊谷市の文化財担当者たちによって運営されているサイト内の「コラム5 桃(その2)」の冒頭に(太字は私が附した)、
《引用開始》
『漢武故事』14-17(前野:1968)―中国後漢代班田(32~921)著と伝わる。
天界から降りた西王母に、漢の武帝が不死の薬を請います。西王母は「帝は欲心が多いゆえ、不死の薬はまだ得られぬ」と断ります。そして、七つの桃のうち二つを食べ、五つを武帝に与えて、去ります。その後、西王母は、武帝に使者を遣わし、三つの桃を武帝に渡し、「食せば人寿の極限まで生きられる」と教えます。しかし、実際には武帝は六十余歳で死んでしまいます。
《引用開始》
とあることで、氷解した。なお、「漢武故事」も所持する抄本があり、「唐物語」も正字正仮名のものを所持しているので、後注で全文を示す。]
此の桃、冬、熟して、常と異なるに以つて、好事(こんず)[やぶちゃん注:通常は「こうず」であるが、かくも読む。]の者、誇《ほこり》て、「西王母が桃」と爲《す》るか。
「拾遺」
三《み》ちとせに
なるてふ桃の
ことしより
花咲く春に
あひにけるかな
躬恆《みつね》
[やぶちゃん注:「西王母桃」は実在するものではなく、本文に現われた中国古代の伝説上の神仙の桃である。但し、中国の実在する桃のモデル種としては、
バラ目バラ科モモ亜科スモモ属モモ品種バントウ(蟠桃)Prunus persica f. compressa (或いは、 Prunus persica var. platycarpa )
が当てられる。「維基百科」のこの実在種「蟠桃」の冒頭梗概で、「西遊記」を引用した上、「文獻記載」には、本種をモデルとしたと推定される、「論衡」の引用する「山海經」を始めとして、多数の古書の引用を見ることが出来る。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『バントウ(蟠桃)は、白い果肉と丸く平らな形が特徴的なモモの品種である。英語圏では、扁平な形状から』(附属する画像を見られたい。正直、モモには見えない)『フラット・ピーチ (Flat peach) 、ほかにサターン・ピーチ (Saturn peach) 、ドーナッツ・ピーチ (Donut peach) など称する』。『一般的なモモに比して、小さく偏平、果皮は黄色や赤色で微毛が多いが毛羽立ち少なく、果肉は淡色で』、『かなり固く』、『甘味が強く』、『わずかなアーモンド香』を有するという(私は写真以外では、実物を見たことがない)。『晩春から晩夏まで収穫される』。一八六九『年』(明治二年相当)『に中国からアメリカへ導入されて』一九九〇『年代に人気となり、現在も品種改良が進む。オーストラリア国内で盛んに栽培され、日本は』、『福島県や和歌山県が主要産地である』。『原産地は中国であり、東アジア地域や中東・西アジア地域、中央アジアへ伝来している。現代においては上述の経緯から』、『英語圏地域を中心に世界各地で栽培されている』。『桃は中国文化において不老長生の象徴とされている。蟠桃は道教の女神西王母が天界で育てる桃で「仙桃」とも称され、食して不老不死を授かるとされた』。「西遊記」に『孫悟空が蟠桃を盗み食いして』、『天界の神仙らと大立ち回りを演じる場面がある』とある。なお、本邦のモモの品種に「西王母(桃)」があるが、福島県伊達郡国見町で生まれた大玉の桃の新品種であり、バントウとは全く縁のないもので、ここで掲げる必要は全く認めない。しかし、良安の評言では、明確に、実在する「冬桃」の一種として語っている。されば、江戸時代に、「西王母の桃」と俗人が名づけた冬に実る種が既にあり、それに、勝手にドエラい神聖な名を与えたに過ぎない。それが、如何なる種であったかは、不明である。なお、サイト「SUN FRUITS」の「冬桃がたりFuyumomogatari」に、生産地を岡山県とし、『希少な冬の桃で』、十一『月下旬から収穫期を迎える極晩生品種で』、『中国原産とみられてい』るとして、纔か十一年前の二〇一三(平成二五)年『に出荷が始ま』ったとあり、『出荷量が非常に少なく、夏の白桃と比べ』、『やや小ぶりで、固めの食感のため』、『多汁感は乏しい』『が、岡山の桃らしく美しい白色で』(☜)『糖度と香りの高さが特徴』とある。良安は、当時実在した「西王母の桃」について、「この桃は冬に熟するので、普通の桃とは異なる。」と言っている。これは、則ち、色は、普通の桃の色であり、白い色ではないことを意味する。白い桃なら、必ず良安は指摘するからで、されば、現行の希少な白桃のルーツでさえないものだったのではないか? そもそも、本家の神の桃「西王母の桃」が白かったら、不審を抱いて、人は食わないだろう。「西王母の桃」が白桃であったという記載もない。この江戸の「西王母の桃」捜しは、全く無益であると、私は、考える。
なお、名にある「西王母」は、小学館「日本大百科全書」によれば(一部の読みをカットした)、『中国古代の神話、伝説に登場する女神。その起源は古く殷』(紀元前十六世紀頃~紀元前一〇四六年)『代にまでさかのぼり、甲骨文字のなかにみえる西母は西王母のことであると考えられている。文献のうえでは』「山海經」『(せんがいきょう)に、西王母に関する古い伝承が残されているが、これによると、彼女は中国のはるか西方の地にある洞穴に住まい、人の姿をしてはいるが、ヒョウの尾に』、『トラの歯をもち、振り乱した髪にかんざしを挿して、よくうそぶくという怪異な存在である。しかし時代が下るにつれ、西王母は神仙思想の影響を受けて眉目』『秀麗な美女に変身し、その居所も西方の神山である崑崙山に定められた』。『また』、「穆天子傳」『(ぼくてんしでん)には、周の穆王が遠く西方に旅をして』、『仙女西王母に会い、詩歌を贈答したと記されている。さらに魏晋時代以降になると、神仙の道にあこがれた漢の武帝は西王母の訪問を受け、一夜の宴を張ったという説話が発達するようになる。また、西王母を東王公という男性神と一組にして考える思想もそのころから普及した』とある。
「本草綱目」の引用は、「卷二十九」の「果之一」の「五果類一十二類」の「桃」の「集解」の『冬桃一名西王母桃,一名仙人桃,即昆侖桃,形如栝蔞,表裡微赤,得霜始熟。方桃形微方。』からである。現在も、「漢籍リポジトリ」がアクセス出来ない状態が続いているので、「維基文庫」の同書の「桃」の項をリンクさせておく。
「漢書」は、既に割注した通り、「漢書」には、良安の引用文はないので、同様の記載のある「漢武故事」を、まず、示す。「維基文庫」のものを、不審な箇所を加工した。良安の引用した前後に、東方朔の事績があり、そこにも西王母の記事が出るので、そちらも添えておいた。
*
東方朔生三日、而父母俱亡、或得之而不知其始。以見時東方始明、因以爲姓。既長、常望空中獨語。後游鴻蒙之澤、有老母採桑、自言朔母。一黃眉翁至、指朔曰、「此吾兒。吾却食服氣、三千年一洗髓、三千年一伐毛。吾生已三洗髓、三伐毛矣。」。朔告帝曰、「東極有五雲之澤、其國有吉慶之事、則雲五色、著草木屋、色皆如其色。」。帝齋七日、遣欒賓將男女數十人至君山、得酒、欲飮之。東方朔曰、「臣識此酒、請視之。」。因卽便飮。帝欲殺之、朔曰、「殺朔若死、此爲不驗。如其有驗、殺亦不死。」。帝赦之。東郡送一短人、長七寸、衣冠具足。上疑其山精、常令在案上行、召東方朔問。朔至、呼短人曰、「巨靈、汝何忽叛來、阿母還未。」。短人不對、因指朔謂上曰、「王母種桃、三千年一作子、此兒不良、已三過偷之矣、遂失王母意、故被謫來此。」。上大驚、始知朔非世中人。短人謂上曰、「王母使臣來、陛下求道之法、唯有淸淨、不宜躁擾。復五年、與帝會。」。言終不見。
帝齋於尋真臺、設紫羅薦。
王母遣使謂帝曰、「七月七日我當暫來。」。帝至日、掃宮內、然九華燈。七月七日、上於承華殿齋、日正中、忽見有靑鳥從西方來集殿前。上問東方朔、朔對曰、「西王母暮必降尊像、上、宜灑掃以待之。」。上乃施帷帳、燒兜末香、香、兜渠國所獻也、香如大豆、塗宮門、聞數百里。關中嘗大疫、死者相係、燒此香、死者止。是夜漏七刻、空中無雲、隱如雷聲、竟天紫色。有頃、王母至。乘紫車、玉女夾馭、載七勝履玄瓊鳳文之舄、青氣如雲、有二靑鳥如烏、夾侍母旁。下車、上迎拜、延母坐、請不死之藥。母曰、「太上之藥、有中華紫蜜雲山朱蜜玉液金漿、其次藥有五雲之漿風實雲子玄霜絳雪、上握蘭園之金精、下摘圓丘之紫柰、帝滯情不遣、欲心尙多、不死之藥、未可致也。」。因出桃七枚、母自啖二枚、與帝五枚。帝留核着前。王母問曰、「用此何爲。」。上曰、「此桃美、欲種之。」。母笑曰、「此桃三千年一著子、非下土所植也。」。留至五更、談語世事、而不肯言鬼神、肅然便去。東方朔於朱鳥牖中窺母、母謂帝曰、「此兒好作罪過、疏妄無賴、久被斥退、不得還天。然原心無惡、尋當得還。帝善遇之。」。母既去、上惆悵良久。
後上殺諸道士妖妄者百餘人。西王母遣使謂上曰、「求仙信邪。欲見神人、而先殺戮、吾與帝絕矣。」。又致三桃曰、「食此可得極壽。」。使至之日、東方朔死。上疑之、問使者。曰、「朔是木帝精爲歲星、下游人中、以觀天下、非陛下臣也。」。上厚葬之。
*
以上を、所持する抄本の竹田晃他編著の『中国古典小説選1』「穆天子伝・漢武故事・神異経・山海経他<漢・魏>」(二〇〇七年明治書院刊)、及び、国立国会図書館デジタルコレクションの前野直彬編訳『中国古典文学大系』第二十四巻「六朝・唐・宋小説選」(一九六八年平凡社刊)の当該部を参考に、自然流で訓読を試みる。「東方朔」は、平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『前漢時代の文学者。字は曼倩』(まんせい)。『滑稽と弁舌とで武帝に侍した、御伽衆(おとぎしゆう)的な人物。うだつの上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて』、「答客難」『を書く。彼は,自分は山林に世を避けるのではなく』、『朝廷にあって隠遁しているのだ』、『と主張』した。『この』「朝隠(ちょういん)」』(俗世界の高位にあっても隠士の心を守ること)『の思想は六朝人の関心をあつめ、例えば』、『彼の生き方をたたえる夏侯湛』の「東方朔畫贊」『には王羲之の書が』、『のこることで有名である。また』、『漢代』、『すでに彼にまつわる神仙伝説が発展し、太白星の精であり、長寿を得たともされるほか、トリックスターとして、孫悟空の天宮を鬧(さわ)がすといった物語のもとになる伝説も彼に付随する』。「海內十洲記」や「神異經」『は彼の著だとされるが』、『偽託である』とある。
*
東方朔は、生まれて三日、父母、俱(とも)に亡(ばう)す。
或るひと、之れを得るも、其の始めを、知らず[やぶちゃん注:出自を知らなかった。]。時に、東方、始めて明るきを見るを以つて、因(よ)りて、以つて、姓と爲(な)す。
既に長じ、常に空中(くうちゆう)を望んで、獨語す。
後(のち)、鴻蒙(こうもう)の澤(たく)[やぶちゃん注:日が昇る東方の原野の池沢。]に游ぶ。
老母、有りて、桑を採る有り、自(みづか)ら言ふ、「朔の母。」と。
一(ひとり)の黃眉(くわうび)[やぶちゃん注:白眉に同じ。]の翁(おきな)、至り、朔を指して曰はく、
「此れ、吾が兒(こ)なり。吾れは食を却(しりぞ)け、氣を服(ふく)し、三千年に一(ひと)たび、隨(ずい)を洗ひ、三千年に一たび、毛を伐(き)る。吾(われ)、生まれて、已に三たび、隨を洗ひ、三たび、毛を伐れり。」
と。
朔、帝[やぶちゃん注:武帝。]に告げて曰はく、
「東の極みに、五雲の澤、有り。其の國に、吉慶の事、有れば、則ち、雲、五色(ごしき)なり。草木(さうもく)・屋(をく)に著(つ)き、色、皆、其の色のごとし。」
と。
帝、齋(ものいみ)すること、七日(なぬか)、欒賓(らんぴん)[やぶちゃん注:帝の重臣の名。]を遣(つかは)し、將に男女(なんによ)數(す)十人、君山(くんざん)[やぶちゃん注:洞庭湖の中にある山。湘山とも言う。]に至り、酒を得て、之れを飮まんと欲す。東方朔、曰はく、
「臣、此の酒を識る。之を、視るを請ふ。」[やぶちゃん注:「私(わたくし)めは、この酒が不老不死の酒であることを知っております。一つ、之れを、調べることを請いまする。」。]
と。因りて、卽ち、便(すなは)ち、飮む。
帝、之れを殺さんと欲す。
朔、曰はく、
「朔を殺し、若(も)し死せば、此れ、爲(すなはち)、驗(げん)あらず。如(も)し、其れ、驗、有らば、殺すも亦、死せず。」
と。
帝、之れを赦(ゆる)。
東郡(とうぐん)[やぶちゃん注:現在の河北省。]、一りの短人(こびと)を送る。長(たけ)七寸、衣冠、具足す。
上(しやう)、[やぶちゃん注:帝。]
『其の山の精(せい)なる。』
と疑ふ。
常(かつ)て、案上に在らせて行かしめ[やぶちゃん注:机の上に立たせて歩かせ。]、東方朔を召して、問ふ。
朔、至り、短人を呼びて、曰はく、
「巨靈(きよれい)、汝(なんぢ)、何(なん)ぞ、忽(たちま)ち、叛來(ほんらい)するや。阿母(あぼ)、還(かへ)れるや、未(いま)だしや。」[やぶちゃん注:「巨霊よ、お前は、どうして、西王母さまの身もとから離れてやってきたのだ? 西王母さまは、もう帰って来られたのか?」。]
と。短人、對(こた)へず、因りて、朔を指(ゆびさ)して、上(しやう)に謂ひて曰はく、
「王母、桃を種(う)う。三千年に一たび、子(み)を作(つく)るも、此兒(こやつ)は、良からずして、已に三過(みたび)、之れを偷(むす)めり。遂に王母の意を失へり。故に、謫(たく)せられて、此に來れる。」
と。
上、大きに驚き、始めて、朔の、世中(せいちゆう)の人に非ざるを知る。
短人、上に謂ひて曰はく、
「王母、臣をして來たらしむ。陛下の道を求むるの法、唯だ、淸淨、有るのみ。宜(よろ)しく躁擾(さうじやう)すべからざるべし。復た、五年して、帝と會はん。」
と。
言終(いひをは)るや、見えず。
帝、尋真臺にて、齋(ものいみ)し、紫(むらさき)の羅薦(らせん)[やぶちゃん注:絹で製した敷物。]を設(まう)く。
王母、使を遣して、帝に謂ひて曰はく、
「七月七日(なぬか)、我れ、當に暫(しばら)く來たるべし。」
と。
帝、日(ひ)、至るや、宮內(きゆうない)を掃(きよ)め、九華(きゆうくわ)の燈(ともしび)[やぶちゃん注:陰暦正月の夕刻に用いる飾り燈籠。]を然(も)やす。
七月七日、上(しやう)、承華殿に齋(ものいみ)す。
日(ひ)、正中(せいちゆう)するに、忽ち、靑鳥(せいてう)、有り、西方より來りて、殿前に集(あつまりと)まるを見る。
上、東方朔に問ふ。
朔、對(こた)へて曰はく、
「西王母、暮れに、必ず、尊像を降(くだ)さん。上、宜しく灑掃(せいさう)を以つて、之れを待つべし。」
と。
上、乃(すなは)ち、帷帳(ゐちやう)を施(ほどこ)し、兜末香(とうがつかう)[やぶちゃん注:邪気疫病を払う香とされる。]を燒く。香は、兜渠國(とうきよこく)[やぶちゃん注:中国の西方外の異民族の国。]の獻ずる所なり。香(かう)は大豆のごとくにして、宮門の塗れば、數百里[やぶちゃん注:漢代の一里は四百五メートルなので、六掛けで、二百四十三キロメートル。]に聞(きこ)ゆ。關中、嘗つて、大疫あり、死者、相ひ係(か)くるも[やぶちゃん注:死体が累々と連なったが。]、此の香を燒けば、死者、止(とど)む。是の夜、漏七刻(らうしちこく)[やぶちゃん注:漏刻(水時計)の時刻。七月であるから(夏と冬とで刻みが異なる)、午後七~八時頃か。]、空中、雲、無く、隱(いん)として[やぶちゃん注:遠くで音が響くさま。オノマトペイア。]雷聲あるがごとく、竟(つゐ)に天、紫色(ししよく)たり。頃(しばら)く有りて、王母、至る。紫(むらさき)の車に乘り、玉女、夾(はさ)みて、馭(ぎよ)し、七勝(しちしゃう)[やぶちゃん注:七つの髪飾り。]を載(いただ)き、玄瓊鳳(げんけいほう)の文(もん)[やぶちゃん注:鳳凰の紋を縫い取りしたもの。]の舄(くつ)[やぶちゃん注:靴。]を履(は)く。青氣(せいき)、雲のごとく、有二靑鳥(にせいてう)、烏(からす)のごとき有り、夾(はさ)みて、母(ぼ)の旁(かたはら)に侍(じ)す。車を下れば、上、迎へて拜し、母を延(ひ)きて坐さしめ、不死の藥(くすり)を請ふ。
母、曰はく、
「太上(たいじやう)の[やぶちゃん注:最上の。]藥には、『中華の紫蜜』・『雲山(うんざん)の朱蜜』・『玉液の金漿(きんしやう)』、有り。其の次ぎの藥には、『五雲の漿』・『風實雲子(ふうじつうんし)』・『玄霜絳雪(げんさうこうせつ)』、有り。上(うへ)[やぶちゃん注:天界。]には、『蘭園の金精』を握り、下(した)には『圓丘(ゑんきう)[やぶちゃん注:伝説上の仙人の薬草園があるとされる。]の紫柰(しだい)[やぶちゃん注:「棠梨(からなし)」中国では、バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属Pyrus betulifolia(中文名「杜梨」。異名に「棠梨」「甘棠」)を指す。本邦では、現行、カラナシで「奈」「唐梨」と漢字表記するものは、ナシ類ではなく、「リンゴ」(良安の生きた時代は、現在のバラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica は伝来しておらず、日本に古くに中国経由で齎されたリンゴ属ワリンゴ Malus asiatica しかなかった)、或いは、「カリン」(バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis :当該ウィキによれば、『日本への伝来時期は不明であるが』、『江戸時代に中国から渡来したといわれる説もある』とあるので悩ましい)を指すが、これ以上、突っ込むと墓穴を掘るので、止める。]を摘(つ)む。帝は、滯情(たいじやう)、遣(や)らず[やぶちゃん注:御情欲もたっぷりで、避けられておられず。]、欲心も尙(なほ)、多し。不死の藥は、未だ致すべからざるなり。」
と。
因りて、桃、七枚(しちまい)を出だし、母、自(みづか)ら、二枚を啖(くら)ひ、帝に五枚を與(あた)ふ。
帝、核(さね)を着前(ちよぜん)[やぶちゃん注:自分の前。]に留(とど)む。
王母、問ひて曰はく、
「此れを用ひて、何爲(なんす)れぞ。」
と。
上、曰はく、
「此の桃、美(うま)し。之れを、種ゑんと欲す。」
と。
母、笑ひて曰はく、
「此の桃、三千年に一たび、子(み)を著(つ)く。下土(かど)[やぶちゃん注:下界。]の植うる所に非ざるなり。」
と。
留(とど)まりて、五更[やぶちゃん注:午前三時から五時。暁。]に至り、世事(せじ)を談語(だんご)すれども、肯(あ)へて鬼神を言(かた)らず、肅然(しゆくぜん)として[やぶちゃん注:威儀を正して。]、便(すなは)ち、去る。
東方朔は、朱鳥牖(しゆてうゆう)[やぶちゃん注:朱鳥を彫り込んだ窓。]の中(なか)に於いて、母を窺(うかが)ふ。
母、帝に謂ひて曰はく、
「此の兒(じ)、好(この)みて罪過を作(な)す。疏妄(そまう)[やぶちゃん注:注意力がないこと。]にして無賴(ぶらい)、久しく斥退(せきたい)[やぶちゃん注:追放。]せられ、天に還(かへ)るを、得ず。然れども原(もと)より、心、惡(あく)、無し。尋(つ)いで、當(まさ)に還るを得べし。帝、善(よ)く、之れを遇(ぐう)せよ。」
と。
母、既に去り、上、惆悵(ちうちやう)すること、良(やや)、久し。
後(のち)、上、諸道士・妖妄(やうまう)なる者[やぶちゃん注:怪しげな説や術を唱え行う者。]、百餘人を殺す。
西王母、使(し)を遣して、上に、謂ひて曰はく、
「仙を求むるは、信(しん)なるか[やぶちゃん注:真実ではなかったのか。]。神人(しんじん)に見(まみ)えんと欲すれども、殺戮を先(さき)とす。吾(われ)、帝と絕(た)たん。」
と。
又、三桃(さんたう)を致(いた)して曰はく、
「此れを食へば、壽(じゆ)を極むを得(う)べし。」
と。
使、至るの日、東方朔、死す。
上、之れを疑ひ、使者に問ふ。
曰はく、
「朔は、是れ、「木帝(ぼくてい)」の精にして、歲星(さいせい)[やぶちゃん注:中国の古代天文学に於ける「木星」のこと。]たり。人中(じんちゆう)に下游(かいう)し、以つて、天下を觀る。陛下の臣に非ざるなり。」
と。
上、厚く、之れを葬(はうふ)る。
*
而して、この記載に拠るならば、武帝が西方母の桃を三つとも、食ったとすれば、通常の人間の寿命の三倍、生きたはずである。しかし、実際には、武帝は紀元前一四一年生まれで、紀元前八七年に没しており、数えで享年五十五歳である。中国の歴代皇帝は不老不死を第一に望んだから、食わない可能性はゼロである。されば、良安が、如何なる書に従ったものか不明だが、その三つは、総て、東方朔が食ったと考えるのは、頗る正当な「事実」であったとは思われる。さて、次いで、「唐物語」(から(の)ものがたり:中国の説話二十七編を翻訳した説話物語集。平安末期の成立。著者は藤原成範(しげのり:保延元(一一三五)年~文治三(一一八七)年)と言われる。王朝人に親しまれた楊貴妃・反魂香・王昭君・呂(りょ)太后・張文成などの故事を、漢文訓読調の直訳ではなく、情趣豊かな和文に翻訳し、和歌を配して、王朝物語風に仕立てたもの。教訓的口吻・仏教的色彩・伝奇への興味も見られるが,全体として主情的で、翻訳文学の先駆とされる(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)の全文を示す。底本は、所持する淺井峯治氏の初版昭和一五(一九四〇)年大同館刊の「唐物語新釋」復刻版(昭和六一(一九八六)年有精堂出版刊)に拠った一部に読点を挿入した。また、単数字を除き、総ルビであるが、必要と感じた箇所のみに留めた。読み易さを考え、段落及び会話・心内語の括弧を改行成形した。踊り字「〱」は正字化した。
*
第一六 西王母、漢の武帝に、三千年に一度なる桃を献ずる話
昔、同じ帝(みかど)、誰(たれ)もとは申しながら、限(かぎり)なく此の世を惜しみ給ひけり。命(いのち)ながらへん事を願ひ給ひて、まぼろしと云ふ仙人に仰(おほ)せて、蓬萊不死(はうらいふし)の藥を採りに遣(つかは)しつゝ、はかなき御遊(おんあそ)び戯(たはぶ)れにも、此の世にながらへておはせん事をぞ、營(いとな)み給ひける。
大凡(おほよそ)、人の好み願ふことは、必ず、空(むな)しからねば、此の御時(おんとき)、東方朔(とうぼうさく)といふ人、仙宮(せんきゆう)より罪(つみ)犯(をか)して、暫く、人間(にんげん)に下(くだ)されたりけるを、帝、目近(まぢか)く召し使ひて、萬(よろづ)思(おぼ)せりける事をば、まづ、此の人にぞ、問はせ給ひける。
かゝる程に、宮(みや)の內(うち)に、色、黃なる雀(すゞめ)の、例(れい)の色にも似ず、怪しきさましたる、飛び遊びけるを、帝、
「日頃、かゝる鳥、見えず。いかなる事にか。」
と、問ひ給ふに、東方朔が、云はく、
「君(きみ)、長生不死の道を好み給ふによりて、御心(おんこゝろざし)にめでて、西王母(せいわうぼ)と申す仙女(せんぢよ)、參りて、『遊び奉(たてまつ)らん。』と、告げ知らするよしの使(つかひ)なり。」
と、聞(きこ)えさするに、帝、嬉しく思(おぼ)して、
「いかなる有樣(ありさま)にて、その人を、待つべきぞ。」
と、のたまはするに、
「宮の中(うち)、靜かにて、庭の面(おも)をきよめ、香(かう)をたき、樣々(さまざま)の床(ゆか)を設(まう)け給ふべし。」
と、申(まを)しけり。
かくて、賴めしほどにもなりぬれば、帝、御心(みこゝろ)すみて、床(ゆか)のもとに、東方朔を隱し置きて、人知れず、
『今や、今や。』
と、待たせ給ふに、秋八月ばかりの、月の光(ひかり)、くまなき夜(よ)、香(かうば)しき風、打ち吹きて、晴(はれ)の空、のどかなるに、紫の雲、一群(ひとむら)、たなびきけり。
其の中(なか)より、此の世ならず、目も、あやなる人、百人計(ばかり)、おり下(くだ)れり。
其の中(うち)に、あるじと覺しき人、帝に、あひ奉りて、樣々の事共を聞(きこ)えさす。
やゝ久しくなる程に、この人、桃、七を取り出(いだ)して、その三をば。帝に奉りけり。
これを、御口(おくち)に觸れ給ひけるより、御身(おんみ)も、輕く、御心地(みこゝち)も、凉(すゞ)しくならせ給ひて、空(そら)にも飛び昇りぬべく、生死(しやうじ)の罪障も解けぬべくや思はせ給ひけん、
「此の桃、我が園(その)に移し植ゑて、種(たね)をも、取りてしがな。」
と、のたまひけるに、西王母、うち笑ひて、
「天上の木(こ)の實の、人間に留(とゞ)まり難(がた)くや。」
となん、言ふにも、堪(た)へずげに思(おぼ)せり。
また、
「不死の藥や、侍る。」
と、尋ねさせ給ふにも、
「生老病死(しやうらうびやうし)の下界に生まれ給ひながら、いかでか不死の藥を求めさせ給ふべき。はかなき御心なり。」
と、聞こえさす。
西王母のみにあらず、かひなき愚(おろか)なる心にも、昔の賢(かしこ)き聖(ひじり)の帝の御心とは覺えず。
かくて、暫時(しばし)あるに、上元夫人(じやうげんふじん)に、雲環(うんくわん)の罌(あう)、打たせて、擧妃𤧶(きよひか)と聞こゆる仙人、舞ひけり。玉(たま)の簪(かんざし)を動かし、錦(にしき)の袖を飜(ひるがへ)すありさま、廻(めぐ)る雪に、ことならず。
帝、これを見給ふに、思(おも)ほえず、御袖(おんそで)、濡れにけり。
『すべて、此の世の樂(がく)の聲(こゑ)は、物の數ならず。』
覺え給ひけるより、御心も、いたく、あくがれぬ。
夜(よ)、やうやう、明方(あけがた)になるほどに、
「その御床(おんゆか)の下(した)に隱れ居(ゐ)て侍りける東方朔は、仙宮の人(ひと)なり。しかも、かの三千年(みちとせ)に一度(ひとたび)なる桃を、三度(たび)まで盜(ぬす)める罪(つみ)によりて、暫時(しばらく)、人間に下されたる。咎(とが)を贖(あがな)ひて後(のち)は、又、天上に還り來たるべきなり。」
と、のたまひて、紫の雲、立ち返りゆきしより、御心は、そらに、あくがれにけり。
紫の雲のゆかりをいかなればたちおくるべき心(こゝ)ちせざらん
此の後(のち)は、いとゞ、御心も、空(そら)に、あくがれて、いよいよ、仙を願ひ給ひけり。
唐國(からくに)の習慣(ならひ)にて、かしこき帝には、仙人なども、皆、使はれ奉るにこそ。
はかなくならせ給ひて後(のち)も、御身は、留まらせ給はざりけるとかや。
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この初版を国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る。「諸釋」と「通釋」があるので、見ることが出来る方は、参照されたい。なお、ネットを調べたところ、本書(基礎底本は江戸後期の国学者『淸水濱巨』(しみづはまおみ)『の校本』であるが、別本松平文庫本では、最後の一首は、
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紫の雲立ち返り行きしより心は空にあくがれにけり
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と、全く異なったものになっている。
「拾遺」「三《み》ちとせになるてふ桃のことしより花咲く春にあひにけるかな」「躬恆《みつね》」「拾遺和歌集」「卷第五 賀」にある、かの凡河内躬恒(貞観元(八五九)年?~延長三(九二五)年?)の一首(二八八番)、
亭子院歌合に
三千年になるてふ桃の今年より
花咲く春あひにける哉
である。]