西尾正 守宮(いもり)の眼
[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『ぷろふいる』昭和二一(一九四六)年七月号(通巻一号)に初出。底本は、所持する二〇〇七年三月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅱ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。傍点「﹅」は太字に代えた。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは』西尾正の『戦後第一弾となる』とある。]
守宮(いもり)の眼
……馭者が急に手綱(たづな)を引いたために、馬が鬣(たてがみ)を振って跳躍し、ひひーんと一声高く嘶(いなな)いた。
車輪がそれに伴(つ)れて、乾き切った街道に苦し気な軋音(きしりおん)を挙げて、車体は、前後左右にがらがらと揺れた。
この馭者の処置はどうも普通ではない。
何故なら行く手は、森こそ深く繁るれ、長い、平坦な道が白々と続いて、邪魔者らしいものは何一つ視界を遮ってはいないのだから。
与志枝は突嗟に揺り上げられ、体が平衡を喪(うしな)って、覚えず青沼の腕に縋(すが)りついた。
はっとして身を引いた時は既に男の、鋭い、見透かすような眼を頰に感じ、辛うじて蹴込(けこ)みに視線を落としたまま、しばらく胸の動悸をそれとなく押し殺していた。[やぶちゃん注:「蹴込み」この場合は、馬車に乗り降りする階段(ステップ)を指している。]
「どうしたんだ?」
青沼の声は、容貌の端麗な割りに、重い低音(バス)である。
馭者が大仰(おおぎょう)に両眼を眩(みは)って、振り返りざま喘(あえ)ぐように言った。
「旦那、青斑猿(あおまだらざる)に邪魔されました。もうこれ以上、車を進める訳には行きません!」
陽に灼けた逞(たくま)しい頰からは血の気が失せ、手綱を握り締めた腕がぶるぶる震えて、中腰に己(おのれ)を支えている態(てい)は、何か、よほどの心的衝動(ショック)を受けたものと見える。
何時(いつ)か与志枝の手は、同乗の青年の女のように細く、白い指に握られていた。彼女はそれを反撥しようとする意思と、従おうとする感情との相剋(そうこく)に、自分を腹立たしく思った。
青沼は、逃れようとする女の指を、別に追おうともしない。
「何だね、その青斑猿というのは?」
「旦那はまだ、青斑猿のたたりを知らねえですかね?」
馭者は意外の面持ちとともに、背後に己を脅かすものの潜むのを惶(おそ)れるように、窃(そつ)と声を忍ばせた。
「こいつア恐ろしい奴です。こいつに道を横切られると、三日のうちに身内のもんが死人になるとか、家から理由の判らねえ火が出るとか、いろいろ取り沙汰されて居りますだ」
そして、賺(すか)すように恐る恐る行く手に首を捻じ向けると、途端に嗄(しゃが)れた、頓狂(とんきょう)な叫びを挙げた。
「ほら、ほら、あすこです!」
車上の青年は馭者の唐突な驚き方に、腹を立てるよりかむしろ、可笑(おか)しくなったらしい。
しかしなるほど、指差(ゆびさ)した所は十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ほど距たった苔蒸した岩で、その岩は、渓流に沿い、後ろに紅葉(もみじ)の繁みがあった。薄暗がりの中に一疋の野猿(やえん)が後脚(うしろあし)だけで立ち、腹部を見せて三人を代わるがわる瞶(みつ)めていた。その眼は変に疲れたようだった。両手を力なくだらんと垂らしてい、胸から胴に掛けて青黒い毛並みが、暮近い弱い夕陽の加減で斑(まだら)のように見えた。
その鈍い様子ではよほどの老猿(ろうえん)なのであろう、が、好奇と恐怖の物々しい三つの視線を受けていることを悟ると、さすがに気まずくなったものか、照れるように面(おも)を叛(そむ)けて岩から岩を伝い、渓流の水際に繁茂する樹立(こだち)の中へ、ぴょんぴょんと跳び去って行った。
「仙造、お前のような若者が下らぬ迷信に取り憑(つ)かれていては困るね。第一、こんな所で降ろされては、ここにおいでの美しいお嬢さんが、途方に暮れてしまうじゃないか。やってくれ、早く!」
「迷信? 飛んでもねえこった」
仙造と呼ばれた単純な馭者は、ひたむきにこう反駁(はんばく)した。
「俺も始めア馬鹿らしい迷信だと思って居りました。けンど、源(げん)の野郎がやられてからは迷信たア言っていられなくなりましただ」
「源?」
「はあ。源は猟師です。山からの帰るさ、この街道で、猿に道を横切られました。源は剛毅(ごうき)な奴です。この野郎とばかり肩の道具を持ち直して、逃げようとする所を背後から、一発で射ち殺したんです。ところが、――(と、勝ち誇ったように)内(うち)へ帰って見ると、達者でぴんぴんしていた奴の嚊(かか)が、名の知れねえ病気でおっちんで居りましただ。それを俺ア、この眼で見て居りますだ」
「分かった、分かった」
この土地に伝わる馭者の古めかしい伝説に対して、合理主義の教養を身につけた車上の美青年は、不幸にして一向に不感症であるらしい。彼は相手の深刻な悩みに今度は濃い眉を寄せ、一瞬神経的な焦燥を見せると、衣囊(ポケット)から紙巻きを撮(つま)み出したが、火を点ぜぬうちに再び元の冷酷な表情に帰っていた。
「仮に青斑猿の祟りが本当だったとしても、もう我々が出会ってしまったのだから、今更悔やんだとて仕方があるまい。それよりも、我々を目的地に着けてこそ、難を逃れる功徳(くどく)になると思うが」
この論理はさすがに無智な馭者を納得させたらしい。彼は渋々手綱を引き始めた。
馬車は再び陽を背負うて東へ東へ、M山中腹の館(やかた)「紅炫荘」を差して奥多摩の清冽な流れに添い、蜿蜒(えんえん)たる街道を疾走して行った。[やぶちゃん注:「M山」「奥多摩」で溪谷を遡っていることから、この山は「三頭山」(みとうさん:標高千五百三十一メートル。グーグル・マップ・データ)と思われる。「紅炫荘」は「こうげんそう」と読んでおく。無論、架空の私邸の別荘の名である。なお、現在の小河内ダム(起工式は昭和一三(一九三八)年十一月だが、「第二次世界大戦」の激化により、建設工事は昭和一八(一九四三)年十月に中断し、再開は後の昭和二三(一九四八)年九月で、竣工は私が生まれた昭和三二(一九五七)年の、十一月二十六日であった)によって形成された人造湖である奥多摩湖(正式には「小河内貯水池」)は、公開当時は、未だ、全く存在していない。「今昔マップ」の左の一八九四年~一九一五年の国土地理院図を見られたい。南西に三頭山を配しておいた。]
* * *
馬車が進むに伴(つ)れ、初夏の暮れ靄(もや)に霞んでいた、さながら絵のようだったM山も次第に物体化し、緑濃く鮮明に映り始めた。
山麓から見上げる登山道は左右に曲がりくねった樹下道で、その行方(ゆくえ)が頂きへ続いていた。[やぶちゃん注:先の推定した「三頭山」であれば、サイト「山旅旅」の「【日帰り登山】東京の三頭山-難易度別ルート紹介&アクセス情報!初心者向けルートも紹介」が、写真・地図が完備しているので、見られたい。私(神奈川の県立高校教師時代、二校でワンダーフォーゲル部と山岳部の顧問を勤めた)は、残念ながら、登ったことがない。]
車は四十五度の角度を保ち、速度を緩めてがらがらと登り始めた。与志枝も青沼も、それから憶病な馭者も、終始無言だった。
やがて彼らの面前に古ぼけた二階建ての屋敷が現れた。そこは山の中腹を刔(えぐ)り取った台地であったが、背後の雑木林は、屋根甍(やねいらか)を被(おお)い隠すように茂っている。そこが目的の館(やかた)「紅炫荘」であった。
館の前には、頭の禿げた腰の曲がった老僕が、額の汗を拭い拭い、彼らの着くのを待っていた。半纒(はんてん)に股引(ももひき)の泥に塗(まみ)れた百姓姿である。館から半町[やぶちゃん注:約五百四十六メートル。]ほど距たった窪地に畑が拡がり、草茸き屋根の粗末な小屋が見え、そこが老僕の住居であるらしかった。
「嘉吉(かきち)。部屋は綺麗になっているかね? 二三日逗留する心算(こころづもり)だが早速(さっそく)風呂を焚いて欲しい」
「は、はい!」
老爺は手拭いを堅く握り、烈しく腰を跼(かが)めて肯(うなず)いたが、どうやら主人に対して、因業(いんごう)な田舎親爺に有り勝ちの頑(かたくな)な反感があった。
青沼に続いて降りる与志枝の横顔をちらりと盗み見た眼も、ひどく侮蔑的である。その侮蔑の中に、或る種の敵意すら認められた。
別荘は滅多に使われぬと見え、朽ち掛けた古風な冠木門(かぶきもん)から玄関まで、蓬々(ほうほう)たる雑草に狭(せば)められた前庭(まえにわ)が続いていた。その前庭に歩み入る時、嘉吉の眼にはもう変化が起こっていた。
それは敵意や侮蔑ではなかった。とげとげしかった瞳は、何時(いつ)か劬(いた)わるような憐憫(れんびん)の情を宿(やど)し始めている。与志枝は何故(なぜ)ともなく、この老人に好意を覚えた。[やぶちゃん注:底本のルビの少なさには、本カテゴリを始めた最初から、かなり呆れている。「劬(いた)わる」なんぞ、とても若い読者には読めんぜ?]
玄関が嘉吉の手によって開けられ、与志枝は青沼の跡に随って最初に雨戸の繰(く)られた、そこだけが洋風の、瞭(あき)らかに青沼が所有主になってから建て増されたらしい、白塗りの露台(バルコン)に入って行った。
陽は全く西の山端(やまのは)に没して、その紅い余映が眼下の水面に揺れ、霧とも霞ともつかぬ濠々(もうもう)とした気流が無風の両岸に漂うている。しかもその戸外の風光が刻一刻黝(くろ)ずんで来るのが、その露台からよく判った。
青沼は白襯衣(ホワイト・シャツ)の衿(えり)を拡げ、氷の破片を嚙みながら、籐椅子(とういす)の上に脚を延ばした。与志枝はまだ彼に背を向けたまま露台の端に立って、茫乎(ぼんやり)渓流の行方を瞶(みつ)めていた。
「如何です、お気に入りましたか?」
「ええ。……でも少し、淋し過ぎますわ」
青沼が優しく問い掛けるのを彼女は、そのままの姿勢で答えた。顔を見られることが、心を見られるように思われたから。
「ほう?」
青沼は如何にも意外という風に、
「貴女(あなた)はしかし、殊更淋しい所を御所望だったじゃありませんか?」
淋しい所、人目の立たぬ所、そうだ、この男を殺すには、こういう辺鄙(へんぴ)な土地こそ好都合なのではないか!
与志枝は腰紐と帯の間に奥深く潜り込ませてある短銃(コルト)の重圧を、今更のように強く強く感じた。[やぶちゃん注:「短銃(コルト)」隠れ銃器フリークの私としては、注したくなる。これは英語“Colt”で、アメリカ人サミュエル=コルト(Samuel Colt)が、一八三四年に発明した、世界初のシングル・アクション・リボルバー(Colt Single Action Revolver:回転式連発拳銃)のことである。以上の英文のグーグル画像検索をリンクさせておくが、ちょっと「腰紐と帯の間に奥深く潜り込ませ」るには、重い(約六百グラム)が、“The Fitz Special”辺りか(リンク先は英文ウィキの“Colt Detective Special”)。]
それは彼女を苛立(いらだ)たせる鞭に似ている。
彼女は劇しい胸の惑乱を感じた。
「わたくし、ちょっと散歩をして参ります。何ですか、車に揺られて頭が重いのです……」
処女はとかく逡巡するものだ、が、ここまで来た以上この女もやがて俺のものになる、焦(あせ)ることはない、焦ることはない。
扉口に、蹌踉(よろ)めいて行く与志枝の後ろ姿を見送る青沼の白い顔が、黄昏(たそがれ)の余光の中に、仄(ほん)のり浮いていた。
* * *
彼女は、青沼との恋に破れて悶死した姉への誓いを果たすために、今宵彼の誘いに応じて紅絃荘にやって来た。表面は誘いに応じたように装うてはいたが実は、彼女は永い間この機会を待っていたのだった。
姉雪枝は確かに美しい女だった。が、その美しさは、何かこう冷たい宝石のような陰性の美しさで、涙を垂らせば溶けてしまいそうな女だった。生まれつき病身であったことは謂うまでもない。その病身が彼女を暗い女にし、喜びも悲しみもたった一人の妹与志枝にすら明かさぬような女になっていた。
その雪枝が、同じ会杜に慟いている青沼と恋をした。妹は、恋を求めるほど健康になった姉を祝福したが、結果は胎内に子供を宿し、しかもその子供を生まぬうちに結核に襲われた。(作者はこの、どこにでも有り勝ちの、雪枝の平凡な悲劇について、詳述しようとは思わない)
与志枝は姉が二度も自殺を企てようとする所を救ったことがあった。二度目に失策(しくじ)った時、胎内に子供があること、そして相手の男が青沼であることを告げたのである。
姉の屍体は枯れ枝のように長々と、アパアトの二人の部屋に横たわっていた。眼は、二つとも大きく何かを瞶(みつ)めているように開かれ、冷淡な、強くものに執着する力のない虚無感が妹には変に醜く見えた。彼女の死を悶死と形容するのは或いは適切でないかも知れない。何故なら与志枝がその開いている瞼(ひとみ)を閉じようとした時、男の愛撫を受けるように、姉の顔が微(かす)かに笑いで歪んだから。与志枝は慄然とした。
最期まで彼女は青沼を憎むとは言わなかった。
しかし与志枝の勇気は、この惨めな姉の忍従で百倍した。
姉の死から半年あまり経った。この間(かん)与志枝は姓を秘して、徐々に青沼に接近することに成功した。彼が莫大な親の遺産を受け継いだ、そしてその遺産をたった一つの目的たる漁色行脚(ぎょしょくあんぎゃ)に費やしている一種の色魔(ドンファン)であることが判った。
姉は、爛熟した女体に飽満した男の、新鮮な犠牲だったのだ。
殺しても飽き足りない奴!
――与志枝の青沼に抱いたこの想念は、しかし、次第に変化して行かなければならなかった。何故なら青沼は、不思議に女性を惹きつける、得体の知れぬ魅力の所有者だったから。しかもその魅力は、精神的なものよりも肉体的なものの方が強かった。それが、精神的に憎み、肉体的に離れようとする女の意力を挫(くじ)いた。が、精神的に惹きつける所のない男に、愛を感じるとは考えられなかった。そこで与志枝は、その本態を探ろうとしたが、辛くも手許まで手繰(たぐ)り寄せられそうになる。その時、極まって首を出し思考を濁水(だくすい)に投ずるのが、青沼の生き生きとした唇や烈しい息使(いちづか)いだった。
生きて青沼のものとなるか、殺害後自分も姉の許に行くか、この迷妄に彼女は悩み抜いた。
彼女は日記に、「自分の最も軽蔑して来た恥ずかしい女、婬奔女(いんぽんおんな)、それが私だ! 生きる資格がない!」と書いた。
それが今宵(こよい)、目前に迫っている。
後(あと)数時間のうちに、いずれかの手段を選ばねばならない。与志枝は力なく首垂(うなだ)れ、渓流に沿うて、暗い方へ歩いて行く。
振り返ると、河下(かわしも)の森の端(はし)に月が昇り始めていた。ミルクのように棚曳いていた霧が微かに青色を帯びて光り始めていた。思い乱れ、千々に悩む心情に操られて、足許もとかく蹌踉(よろ)めき勝ちなのである。
歩むに伴れ、流れの響きが大きくなり優って行くようであった。そこは河鹿(かじか)の啼く淀みである。彼女はその啼き声に誘われるように、樹叢(じゅそう)の小道を伝い下(お)りようとした時、背後に人の蹤(つ)けて来る気配を感じ、ぎょっとして振り返った。[やぶちゃん注:「河鹿(かじか)」この場合は、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri を指す。本種を含み、別に異なる動物の「かじか」については、私のカテゴリ「日本山海名産図会」の複数の記事の中で、ガッツりと考証しているので、お暇な方は、是非、お読みあれかし。]
月見草の生い繁った藪の中に、与志枝を見下ろして立っているのは、淡い光を半面に受けた老僕嘉吉の姿である。
* * *
嘉吉はしばらくの間、黙って与志枝を見下ろして立っていた。
が、やがて、
「お嬢さん。お前さんはまさか、早まったことをするんじゃあるめえな?」
声音(こわね)は朴訥(ぼくとつ)ではあったが、自分の娘に言うように優しい。
与志枝はじっと黙ったまま相手の眼を瞶(みつ)めていた。
嘉吉は腕組みをし、また、探るようにぽつんと言った。
「お前さんは今、危ねえ橋を渡ろうとしていなさる。俺の言うことが分かるかの?」
「…………」
「俺(おら)アお前さんのような、綺麗な娘が、若旦那のおもちゃになるのを、黙って見てはいられなくなっただ。お嬢さんは若旦那が、どねえに恐ろしい鬼だかまだ知んなさらねえのか?」
与志枝は年老いた忠言者の言葉に魅せられたように、ほとんど無意識に、首を横に振った。
「姿形は人並み以上じゃが心は鬼とは、ちょうど若旦那のことを言いますだ。先代の御主人が亡くなって若旦那がここの別荘の主におなんなすってから今日(きょう)が日まで、都(みやこ)から連れて来られた女子衆(おなごしゅ)の数は、十本の指じゃ利きましねえだよ」
老爺は与志枝の手を取って元の道の方へ引き返し始めた。
「中にゃアじごくや売女(ばいた)なんどもいただが、お前さんのような無垢な娘もいなすった。悪いことア言わねえ、とっとと東京さ帰んなさるがいい。もし決心がついたら、何時(いつ)でも俺(おら)が家の戸を敲(たた)いてくんろ。俺ア何時でも貴女(あんた)を逃がしてやりますだ」[やぶちゃん注:「じごく」特に最下級の売春婦。私娼。]
彼は果敢な忠言を施しているという自己陶酔から、彼自身、眼に泪(なみだ)を溜め込んでいるようである。与志枝は一瞥以来、この老爺に感じていた好意が、偶然でないことを悟った。
がしかし、告げられた事実は、皆与志枝の百も承知していることばかりではないか。憎むベき相手が憎めなくなった悩み、こんなことを単純な正義感に燃えた老爺に告げたとて何になろう。
嘉吉は直ちに彼女の心中を看て取ったらしい。それは彼がこれまで、忠言を与えた女達が、一様に、与志枝のような態度を示したからに相違ないのだ。だから彼の瞳には一瞬絶望の光が射したが、すぐそれがまた、憐憫に変わった。ともかく諫めるだけは諫めてみよう、この一途(いちず)の意図が、縦に刻まれた眉間(みけん)に現れた。嘉吉は言った。
「お前さんは、この館の恐ろしい出来事を知っていなさるかの? あれは鬼の家、先代からの邪婬の家なのじゃ!」
与志枝は、紅絃荘の前の持ち主が誰であったか、そしてどういう事件が起こったかを知っていた。
それは関西の某実業家夫妻だった。良人は永らく胃潰瘍を病み、静養地としてこの館に住んでいた。或る雨の夜、良人に較べて年若い妻が裏二階の寝室で、何者かに咽喉を刔(えぐ)られて死んでいた。容疑者として挙げられたのが、その土地を行商して歩く呉服商の、役者のような男だった。彼は山麓の料理屋で入浴中逮捕された。妻は良人に隠れてその男を慰(なぐさ)んでいたのである。しかし男は、被害者との醜行(しゅうこう)を、そしてその夜(よ)或る時間を夫人の寝室で過ごしたことを潔く自白しながら、犯行だけは必死に否定した。間もなく料理屋の番頭によって不在証明が立てられた。結局犯行は男の退去直後遂げられたことが明白となったが、屍体の咽喉笛(のどぶえ)から噴き出した血潮が床(ゆか)一面に流れ、それが何者かによって攪拌されたらしく、そこら中(ぢゅう)べたべたと足跡が印(しる)せられてあったが、それが人間の足跡ではなかった。続いて行商人は、寝室の窗(まど)に青斑猿(あおまだらさる)が覗いていたという「伝説」を持ち出した。当局は万全を期し、犯人捜査の手を緩めなかったが、村民は尽(ことごと)く不倫の妻が青斑猿の怒りに触れたものと信じ出した。しかも咽喉の斬り傷が刃物以外の何か鋭利な歯(は)乃至(ないし)牙(きば)によって刻(きざめ)られたことが後(のち)に推定され、どうやらこの勝負は村民側の勝ちに思われ出した。十年以上も前の出来事である。爾来その部屋はお定まりの「あかずの間」とされ、新しい持ち主の青沼が、殺された夫人の遠縁の血続きであるという。
――二人の前に館が現れた。
「その婬らな血が、若旦那の体にも流れて居りますだ。よく考えなさるがいい。一生の岐(わか)れ目ですぞ」
老爺はこう言い残してよちよちと暗い方へ進んで行った。
「わたくし今夜、その『若且那様』を射ち殺すかも知れなくってよ。ピストルで」
与志枝は収拾のつかない惑乱からやんぱちになったのかも知れない、そう叫んだ。
嘉吉は驚いて振り返った。
* * *
暗い廊下を伝いながら、与志枝は自分に呟いた。「私はやっぱりこの館へ帰って来た。帰って来たということは、男に身を投げ出す意思なのだろうか、それとも、復讐の念からだろうか?」
まだ不決断のままである。
不決断のまま光の流れ出る半開きの扉を開けると、緩(ゆる)い藤色室内着(ラブエンダア・ガウン)を纒(まと)うた青沼の長身が、揺れ椅子の中に、折れ曲がったようになって淋しそうな顔で待っていた。[やぶちゃん注:「藤色室内着(ラブエンダア・ガウン)」lavender gown。]
彼は時々、何か悲しみにでも虐げられた後のような、淋しい顔をしていることがあった。こういう時、お前を殺すぞと言ってピストルを突きつけても、彼はその引き締まった頤(あご)に自らを軽蔑するような笑いを浮かべ、こんなやすっぽい体、貴女に射たれれば本望です、というように欣然(きんぜん)と両手を拡げて来るように思われた。
「お腹(なか)は空(す)きませんか。浴室の支度がしてありますよ」
青沼が劬(いた)わるように言った。
「はい」
与志枝は用心深く浴室の方へ導かれて行った。浴室は長い廊下を出端(ではず)れの母屋(おもや)の端(はし)に在った。近づくと、そこから、郷愁のような湯気(ゆげ)の匂いがぷうんと鼻を搏(う)った。
彼女は今、裸になろうとしているのである。それほど彼女は、男の魅力の前に信頼を置いているのであろうか。
内部は白ずくめのタイル張りだった。が、所々剝げ落ち、天井から釣るされた電灯にも笠がなく、北の明かりとりの小窗(こまど)から夜空の星がきらきらと燦(きら)めいて見えた。
タイルの床(ゆか)はひやりと冷たい。彼女は足の拇指(おやゆび)を折り縮めて湯槽(ゆおけ)に近寄って行った。
四囲(まわり)は一層の静けさである。音といえば、遠くの水のせせらぎと、杜切(とぎ)れ杜切れの河鹿(かじか)、虫の声ばかりである。[やぶちゃん注:「四囲(まわり)」当て訓は私がした。]
彼女がまさに体を浸そうとした時、浴室の扉がこつこつと鳴った。彼女は慌ててタオルで身
を被い、本能的に身を縮め、伺うようにそちらに向き直った。
「与志枝さん」
青沼の声である。が、毎時のきびきびした低音(バス)とは異なり、何故か脅えたような声音(こわね)である。与志枝は全裸のまま一層体を硬張(こわば)らせた。
青沼のおどおどした声が続いた。
「失礼お許し下さい。今まで居間にいましたが、何かに脅迫されているようで、怕(こわ)くて堪らないのです。淋しい、というか、怕い、というか、……」
ぽつんと杜切(とぎ)れ、今度はすたすたと、早足で立ち去ろうとする気配がした。
「青沼さん!」
跫音(あしおと)は立ち止まった。
彼女の呼び留めたのは、罪人の自ら掘った穴に自らが陥ち込んで行く寂寥(せきりょう)に、何かしら犇(ひし)としたものを覚えたからであった。しかしそれ故、この際与うべき言葉はない。短い沈黙があった。男の喘(あえ)ぐような声が聞こえた。
「与志枝さん、屋根裏の物置に武器が蔵(しま)ってあります。それを取って来ます!」
最後を叫ぶように言い、性急に階段を駈け上がる気配がし、戸を開ける音、曳出(ひきだ)しの軋音(しきりおん)、そして後(あと)は元の静寂に返る。
与志枝は義務的に湯槽に浸った。
荒廃した浴室の中に彼女の乳房が仄白(ほのじろ)く浮かんでいる。その白さが湯のあたたまりとともに、柔らかな紅味(あかみ)を増し、粘りつくような全身の皮膚が、今度はぴちぴちした弾力に充ち溢れ始めた。
秘(ひ)めやかに水を使う音がする。石鹸が泡立ち纒(まと)いつく。
と、何処かで、雨滴(あましづく)のような音がする。[やぶちゃん注:「雨滴(あましづく)」は私が勝手に降った。]
二度、三度、与志枝はふと手を休めた。
遠いようでもあり近いようでもある。
何だろう?
彼女の眼が自(おのずか)ら湯槽の中へ注がれた。仄(ほの)かな湯気を漂わせている表面に、真赤な、ダリアの花のような血点(けつてん)がぱっと散った。
ぽちゃーん……続いての血滴(ちしづく)は、再前の血の拡がりの上に落ち、それが湯に崩れて卍巴(まんじどもえ)に、揺れ、散り、沈んで行く。[やぶちゃん注:「卍巴」「卍」や「巴」の模様のように、ある二つの対象が、互いに追い合って、入り乱れることを言う。]
与志枝の全感覚が硬張(こわば)った。その硬直の視線が操られるように、燻(くす)んだ天井に移って行った。雨漏りのような赤い汚染が刻一刻拡がり、支え切れなくなると、丸い血滴となって真下の湯槽に落ちる。そこがつい先刻青沼の登って行った裏二階の物置であることに間違いはない。
与志枝はもどかしいように着物を纒うた。後はただ機械的な動きに従っているだけである。ほとんど無意識に、屋根裏への階段を駈け上がって行った。
扉は半開きになってい、室内の灯は消えていた。饐(す)えたようなものの異臭が、古黴(ふるかび)の毒気に混じって、与志枝の鼻腔を突き剌した。窗から斜めに月光が射し込み、末拡がりに床の半分を画然(かくぜん)と照らし分けている。そしてその光(ひかり)と暗(やみ)の堺目に、青沼が手足を投げ出して倒れていた。与志枝はむしろ本能的に彼を抱き起こそうとしたが、姉の幻影がそれを妨(さまた)げた。彼女はそれを硝子(ガラス)を打ち破るように打ち破り、ぐたりと延びた青沼の体を抱き起こした。首が嚙み切られ、血潮が噴出するその度(たび)に、飛び出た咽喉仏(のどぼとけ)がぴくぴくと痙攣していた。
もどかしい裏切り者に代わって姉の復讐を遂げたものは、誰であろう?
壁に住み、壁を爬行(はこう)するもの、――屍体から噴き出した血が一条の流れを為(な)し、足許に澱(よど)んでいた。その澱みには咬々(こうこう)たる月光が射し、小猫ほどもある一疋の守宮(やもり)が黒光りのする頤(あご)を涵(ひた)して、貪婪(どんらん)の胃の腑(ふ)を満たしていた。[やぶちゃん注:「爬行」這って歩くこと。]
与志枝は、弾(はじ)かれたように、屍体から壁に跳び退(しざ)った。魔物はその気配に身の危険を感じたのか、それとも本能が飽満の域に達したのであろうか、やおら首を起こすと、鈍い五趾(ごし)の音をぼとんぼとんと床(ゆか)に響かせて、壁根(かべね)から次第にその吸盤を利(り)し、ぼろぼろに腐れ落ちた壁から、梁(はり)の喰い違った暗い天井裏に爬(は)い登って行った。そして中ほどまで来ると、ぴたりと腹をつけて留(と)まり、営養に怒張した胴体を蒟蒻(こんにゃく)のように震(ふる)わせて、間然(かんぜん)たる沈黙の夜気(やき)を引き千切(ちぎ)るように、げっこうげっこう、とけたたましい叫びを挙げた。
自(みずか)らは一夫一婦の戒律に生き、不義を最も憎むと言われている守宮! 今二人目の犠牲者を血祭りに挙げて、それは制裁の歓喜か、裏切り者への怒りの叫びか、――与志枝はただ凝然として守宮の瞳を見た。
鈍重(どんじゅう)で、陰性で、空虚で、張りも輝きもない、義眼のような姉雪枝の、臨終の瞳とそっくりであった。
[やぶちゃん注:最後に言っておくと、我々が、ごく普通に見かける「ヤモリ」は、爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属ニホンヤモリ Gekko japonicus である。私の家にも、二十四年来、同じ一族が何世代も繁栄しており、よく、トイレの窓に挨拶に来る。私は、勝手に、彼らが私の家(うち)の強力な守り神と信じている。さて、この話で、ヤモリが鳴いているのだが、実は、鳴き声を立てるヤモリは、日本の本土には棲息しないので、これは、フィクションである。沖縄に棲息するヤモリ亜科ナキヤモリ属ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus は鳴くが、「チョッチョ」とごくごく可愛い鳴き声である(YouTubeのM K氏の「沖縄 やもりの鳴き声」を見られたい)。本作のヤモリの鳴き声である「げっこうげっこう」は、私は、よく知っているが(タイとベトナムで、しっかり見、キョウレツな声も聴いた)、ヤモリ属トッケイヤモリ Gekko gecko である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ヤモリ属の模式種。別名トッケイ、オオヤモリ』。『インド北東部、インドネシア、カンボジア、タイ王国、中華人民共和国南部、ネパール、バングラデシュ、東ティモール、フィリピン、ブータン、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス。台湾にも分布するが、自然分布か移入されたかは不明。アメリカ合衆国(フロリダ州、ハワイ州)などに移入・定着し、ブラジルでの発見例もある』。『全長』十八~三十五『センチメートル。頭部は、三角形で大型。背面は細かい鱗で被われるが、やや大型の鱗が混じる。体色は淡青色で橙色の斑点が入る個体が多いが、個体変異や地域変異がある。斑点は、尾では帯状になる』。『森林に生息するが、農耕地や都市部でもよくみられる。名前は、鳴き声に由来する。おどされると噴気音を出して威嚇する』。『昆虫、ヤモリ類、小型鳥類、小型哺乳類などを食べる』。『繁殖様式は卵生』で、一『回に』二、三『個の卵を産む』。『伝統的に、タイなどの東南アジア地域では食用とされる他、薬用になると信じられていることもある。地域によっては、本種の鳴き声を』七『回連続で聞くと』、『幸福が訪れるという言い伝えがある』。『分布域が非常に広域で生息数も多いと考えられ、種として絶滅のおそれは低いと考えられている。一方で薬用になると信じられ』、『大規模に商取引されることによる影響も懸念されており、中華人民共和国では開発による生息地の破壊や乱獲により生息数が激減している』。二〇一九『年にワシントン条約附属書IIに掲載された』。『ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。主に野生個体が流通するが、扱いが悪く状態を崩していることもある。顎の力が強いうえに歯が鋭く、気性も荒いため思わぬ怪我をすることもあるので取り扱う場合は注意が必要。枝や流木・コルクバークなどを立てかけて、隠れ家にする。協調性がないため、単独で飼育する』とある。しかも、まさに私の経験では、「げっこうげっこう」と聴こえたのである。「嘘だ。」という御仁は、YouTubeの「フィリピン農園だより」氏の「【神秘の鳴き声】トッケイヤモリ(Gekko gecko)の鳴き声【トッコー】」を聴いて貰いたい。而して、問題は、生前、国外に出ていない西尾正が、どうして、この鳴き声をオノマトペイアとして正確に音写出来たのか? という疑問である。思うに、戦後、南方戦線から復員してきた知人から、トッケイヤモリの鳴き声の強烈なそれを、話しとして聴いていたのではないか? と、私は思うのである。]