和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 桃
もゝ 桃【和名毛々】
早桃
【左毛毛】
桃【音陶】
李桃
【和名都波木桃
俗云豆波以桃】
本綱桃品類甚多昜於栽種且早結實五年宜以刀蠡其
[やぶちゃん注:「蠡」の字は、原本では(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の(私の所持するものと同じもの。左丁最終行の下から二字目を見られたい)、曰く、字形を説明し難いものである。読みは、『ハキカケ』と打たれており、これは、「はぎかけ」、で「剝ぎ缺け」の意と思われることから、「蠡」には、「剝げる」の意があること、東洋文庫訳が『剝(は)ぎ』と訳してあることから、この字に確定した。]
皮出其脂液則多延數年其花有紅紫白千葉二色之殊
其實有紅桃緋桃碧桃緗桃白桃烏桃金桃銀桃皆以色
名者也有綿桃油桃御桃方桃匾桃偏核桃皆以形名者
也有五月早桃十月冬桃秋桃霜桃皆以時名者也
梅樹接桃則脆柹樹接桃則爲金桃李樹接桃則爲李
桃【李桃實深赤色而光潤俗云豆波以毛々】
桃肉【辛酸廿熱微毒】 多食今人膨脹及生癰癤有損無益
服白朮蒼朮人忌食之
桃仁【苦甘平】 味厚沉而降陰中之陽手足厥陰經血分藥也
其功有四治熱入血室也【一ツ】泄腹中滯血也【二ツ】除皮膚
血熱燥痒也【三ツ】行皮膚凝聚之血也【四ツ】故通月水通潤
大便消心下堅硬【香附子爲之使】
桃梟【苦微溫有小毒】 一名桃奴【桃景神桃】〕此是桃實着樹不能成實
如梟首桀木之狀經冬不落者正月采之入藥中實者
良殺百鬼精物治鬼瘧寒熱【爲末滴水丸之朱砂爲衣服一丸晨向東井𬜻水下】
治吐血諸藥不效者【燒存性研末米湯調服】
桃花【苦平】殺悪鬼利大小便治靣皰【桃花冬瓜仁研末等分𮔉調傅之】靣
上粉刺如米粉者【桃花丹砂各三兩爲末毎服一錢空心腹井水下日三服十日知二十日小便當出黑汁靣色瑩白也】勿用千葉令人鼻衂不止
桃乃西方之木五行之精仙木也故能厭伏邪鬼制百鬼
今人門上用桃符以此又釘於地上以鎭家宅謂之桃
撅許愼云羿死於桃棓【棓者杖也】故鬼畏桃【東南枝最佳】
古今醫統云桃實太繁則多墜以刀橫斫其幹數下乃止
社日令人樁桃樹下則結實牢不墜凡果皆然矣女子
[やぶちゃん注:この「樁」は「椿」ではないので、注意が必要。前者は、
「樁」(「立たせる」の意)
であり、
「椿」
ではないのである。]
艶粧種之他日花艶色而桃離核凡八九月桃熟時墻
⻆頭寛深作坑先將濕牛糞內坑中上加土取好核浄
洗尖頭向下厚土蓋尺許春深生芽和泥移栽肥土接
杏李尤妙
收貯法用麫連麩煮粥入鹽少許候冷傾入新缸以桃未
熟者內中宻封缸口至冬如新
万葉我か宿のけもゝの下に月よさしした心よしうたてこのころ人丸
△按或書曰伊弉諾尊採桃子三箇擊火𠢐女悪卒皆去
依勅桃樹名曰稜威神富命又有日本紀以桃逐鬼事
和漢事實相同
凡桃實頭微尖曲者肉核不離而味甘美在樹亦耐久
也頭不尖者能離核而味帶酸不美在樹亦不久
桃仁山城伏見之産良備前岡山及紀州之産次之備
後亦次之
*
もゝ 桃【和名、「毛々」。】
早桃《さもも》
【「左毛毛」。】
桃【音「陶」。】
李桃(ずばい《もも》)
【和名、「都波木桃《つばきもも》」。
俗、云ふ、「豆波以桃《づばいもも》」。】
「本綱」に曰はく、『桃≪の≫品類《ひんるゐ》、甚《はなはだ》、多し。栽種《さいしゆ》、昜くして、且(そのう)へ、早く實を結ぶ。五年にして、宜しく、刀《かたな》を以つて、其の皮を蠡(はぎか)け[やぶちゃん注:「搔(か)ぎ剝ぎて」。]、其の脂-液(あぶら)[やぶちゃん注:桃の樹木の脂(やに)。]を《いだ》す。則ち、多く、數年《すねん》を延《のぶ》。其の花、紅・紫・白、千葉《やへ》・二色《ぶち》の、殊《ことな》≪れる者≫、有り。』≪と≫。
『其の實、紅桃《こうたう》◦緋桃◦碧桃◦緗桃《しやうたう》◦白桃◦烏桃《うたう》◦金桃◦銀桃[やぶちゃん注:「◦」は原本では右下に「◦」として打たれてある。以下、同じ。]、有り。皆、色≪を≫以つて、名づくる者なり。綿桃◦油桃◦御桃《ぎよたう》◦方桃《はうたう》◦匾桃《へんたう》◦偏核桃《へんかくたう》、有り。皆、形を以つて、名すくる者なり。五月の、早桃(さもゝ)、有り。十月の冬桃《とうたう》・秋桃・霜桃《さうとう》、皆、時を以つて、名づくる者なり。』≪と≫。
『梅の樹に、桃を接《つ》げば、則ち、脆(もろ)く、柹《かき》の樹に桃を接げば、則ち、金桃と爲る。李《すもも》の樹に、桃を接げば、則ち、李桃《りたう》と爲る。』≪と≫。【「李桃」は、實、深赤色にして、光り、潤《じゆん》たり。俗に云ふ、「豆波以毛々《ずばいもも》」。】。
桃肉《もものにく》『【辛酸廿、熱。微毒】』[やぶちゃん注:「本草綱目」には、「桃肉」の条はなく、この割注は、「實」の条の『氣味』にある。]。『多≪く≫食へば、人をして、《腹》、膨脹≪させ≫、及び、癰癤《ようせつ》[やぶちゃん注:腫れ物。]を生ず。損、有りて、益、無し。白朮《びやくじゆつ》・蒼朮《さうじゆつ》を服する人、之れを食ふを忌む。』≪と≫。
『桃仁《たうにん》【苦甘、平。】』『味、厚《あつ》く、沉《しづみ》て、降《くだ》る。陰中の陽≪にして≫、手足の厥陰經《けついんんけい》の血分の藥なり。其の功、四つ、有り。熱、血室《けつしつ》[やぶちゃん注:女性の内性器系で、月経・受胎・妊娠・分娩を司る。]に入るを治すなり。』【一ツ。】。『腹中の滯血《たいけつ》を泄《せつ》すなり。』【二ツ。】。『皮膚の血熱・燥痒《さうやう》を除くなり。』【三ツ。】。『皮膚の凝聚《ぎようしゆう》の血を行(めぐ)らすなり。』。【四ツ】。『故に、月水《げつすい》を通じ、大便を通潤《つうじゆん》し、心下《しんか》の堅硬《しこり》を消す。』【「香附子《かうぶす》」を、之れの使《し》[やぶちゃん注:補助薬。]と爲《な》す。】[やぶちゃん注:割注は、総て、良安が挿入したものである。引用の「≪と≫」を入れると、グチャグチャして読み難いだけなので、略した。]
『桃梟《たうけう》【苦、微溫。小毒、有り。】』『一名「桃奴《たうど》」【「桃景」・「神桃」≪とも言ふ≫。】、此れは、是れ、桃の實《み》、樹に着《つき》て、≪全き≫實《み》に成ること、能はず、梟-首(ごくもん)・桀-木(はりつけ)の狀《かたち》のごとし。冬を經て、落ちざる者、正月、之れを采りて、藥中に入《いる》る。≪と≫。《實の內、》實《じつ》者する者、良し。百鬼精物《ひやくきせいぶつ》[やぶちゃん注:「魑魅魍魎」。]を殺《さつ》し、鬼瘧《きぎやく》[やぶちゃん注:死者の霊が憑依したかのように、狂躁状態になること。]・寒熱を治す【末《まつ》に爲し、水を滴《したた》らし、之れを、丸め、朱砂を衣《ころも》と爲し、一丸を服す。晨《あした》[やぶちゃん注:早朝。]、東に向かひて、井𬜻水(せいかすい)[やぶちゃん注:朝一番に井戸から汲み上げた浄水。]にて下す。】。』≪と≫。
『吐血≪し≫、諸藥、效かざる者を、治す【燒くに、性《せい》を存じて、研末し、米湯《おもゆ》にて調へ、服す。】。』≪と≫。
『桃花《たうくわ》【苦、平。】悪鬼を殺し、大・小便を利し、靣-皰(にきび)【桃の花≪と≫、冬瓜《とうがん》の仁《にん》を研末し、等分にして、𮔉(みつ)にて、調へ、之れを、傅(つ)く。】、靣《かほ》≪の≫上の粉刺《そばかす》、米の粉《こ》のごとき者【桃花・丹砂、各三兩、末と爲し、毎服一錢、空心《くうしん[やぶちゃん注:「空腹時」に同じ。]》に、井《ゐ》の水にて、下す。日に三服、十日にて、知り[やぶちゃん注:効果が見え始め。]、二十日にして、小便、當《まさ》に黑き汁の出づべし。≪然《さ》れば、≫靣色《かほいろ》、瑩白《はうはく》なり[やぶちゃん注:あざやかな健康な白い肌色となる。]。】を治す。千葉《やへ》の者、用ふる勿《なか》れ。人をして、鼻-衂《はなぢ》、止まらず≪なればなり≫。』≪と≫。
『桃は、乃《すなは》ち、西方の木≪にして≫、五行の精≪たる≫仙木なり。故に、能く、邪鬼を厭伏《えんぶく》し[やぶちゃん注:降伏(こうぶく)し。]、百鬼を制す。今の人、門の上に桃符(たうふ)[やぶちゃん注:桃の木で作った御札(おふだ)。]を用《もちふ》るは、此れを以つてなり。又、≪桃の木を斫(けず)りて≫、地の上に釘《うちこみ》して、以つて、家宅を鎭《しづ》む。之れを「桃撅《たうけつ》」と謂ふ。許愼《きよしん》、云はく、「羿(げい)、桃棓《たうばい》【「棓」とは「杖」なり。】に死す。故に、鬼、桃を畏る。」≪と≫。【東南の枝、最も佳し。】。』≪と≫。[やぶちゃん注:厳密に言うと、最後の割注は、表現に有意な違いがある。「本草綱目」では、「桃」の「桃符」の項の「發明」の条中にあるが、それは『鬼但畏東南枝爾』(鬼は、但(ただ)、東南の枝を畏るるのみ。)である。]
「古今醫統」に云はく、『桃の實、太《はなは》だ、繁き時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、多≪くは≫、墜つ。刀を以つて、橫に其の幹(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])を斫(はつ)ること、數下《すうげ》[やぶちゃん注:「數回」。]にして、乃《すなはち》、止《や》む。社日《しやじつ》[やぶちゃん注:春分、及び、秋分に最も近い戊(つちのえ)の日。春分に近い戊の日を「春社」、秋分に近い戊の日を「秋社」と言う。この時の十干(じっかん)の戊の日は、春分・秋分の日の 五日前から 五日後までの間に来る。陰陽五行説では、戊の日は土(ど)に関係が深く、中国では、「春社」は、その年の豊作を神に祈念する日、「秋社」は五穀豊穣を神に感謝する日とされている。本邦では、この日、田畑の仕事を禁じて、土地神を祀る「地神講」(じしんこう]を営む例が多い。]、人をして、桃樹の下に樁(たたす)≪れば≫、則ち、實を結んで、牢《らう》≪と≫して[やぶちゃん注:しっかりと実が樹上に安んじて。]、墜ちず。[やぶちゃん注:この部分は、調べたところ、「古今醫統」(=「古今醫統大全」)には当該記事がなく、少なくとも、かなり類似した部分が、お馴染みの「農政全書」にあることが判明した。当該部は、「維基文庫」の「卷二十九 樹藝」の中の「果部上」の「桃」の項で見出せた。『桃實太繁,則多墜。以刀橫斫其幹數下,乃止。又社日舂根下土,持石壓樹枝,則實不墜。』がそれである。東洋文庫訳では、その誤りを指摘していない。なお、以下の引用二重鍵括弧は、見当たらない箇所、及び、東洋文庫訳に挿入された分離鍵括弧に従った。]』≪と≫。『凡(なべ)て、果(このみ)、皆、然《しか》り。女子《によし》、艶-粧(けわい[やぶちゃん注:ママ。])して、之れを種《う》≪う≫れば、他日、花、艶色にして、桃≪の實は≫、核《さね》を離《はな》る』。『凡《およ》そ、八、九月、桃、熟する時、墻⻆《かきねのかど》の頭(ほとり)に、寛(ひろ)く、深(ふか)く、坑(あな)を作り、先づ、濕(しめ)りたる牛の糞を將《もつ》て、坑の中に內(い)れ、上へ、土を加《くは》へて、好《よ》き核《さね》を取り、浄《きよ》く洗≪ひ≫、尖りたる頭を、下に向《むか》へ[やぶちゃん注:向けて置き。]、厚≪き≫土にて、蓋《おほ》ふこと、尺許《ばか》り。春、深くして、芽(め)を生ず。和《やはらげ》なる泥にて、肥≪えたる≫土に移し栽へ[やぶちゃん注:ママ。]、杏・李を接《つぐ》。尤《もつとも》、妙《た》へたり。』≪と≫。[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、割注で、以上を「古今醫統」の『(通用諸方、花木類)』とする。]
『收貯《をさめたくはふ》る法。麫(こむぎこ)を用≪ひて≫、麩(こかす)[やぶちゃん注:小麦の皮のかす。「ふすま」。]を連《つ》≪れにして≫、粥《かゆ》に煮、鹽、少≪し≫許《ばかり》を入れて、冷《さむ》るを候《まち》て、新しき缸(つぼ)に、桃、未だ熟(う)れざる者を以つて、中に內(い)れ、傾≪け≫入《い》≪れて≫、缸の口を宻封≪す≫。冬に至りて、新《あたらしき》なるがごとし[やぶちゃん注:時を経ても、新鮮なままで、瑞々しいことを言う。]。』≪と≫。[やぶちゃん注:同じく東洋文庫訳では、割注で、以上を「古今醫統」の『(通用諸方、花木類)』とする。]
「万葉」
我が宿の
けもゝの下《した》に
月よさし
した心《ごころ》よし
うたてこのころ 人丸
[やぶちゃん注:「人丸」とするが、後掲する通り、作者不詳で、誤りである。]
△按ずるに、或る書に曰はく、『伊弉諾尊(いさなきのみこと)、桃の子《み》三箇を採りて、火𠢐女(ひさめ)を擊《う》つ。悪卒《あくそつ》、皆、去る。依《より》て、桃の樹を勅《みことのり》して、名《なづけ》て「稜威神富命(いつのかんとみの《みこと》)」と曰《いふ》。』≪と≫。又、「日本紀」に、桃を以つて、鬼《おに》を逐《お》ふ事、有り。和漢の事、實相《じつさう》、同じ。
凡そ、桃の實の、頭《かしら》、微《やや》、尖り、曲《まが》る者、肉の核《さね》を離るゝ。而≪れども≫、味、甘く、美ならず。樹に在≪るも≫亦、久《ひさ》に耐《た》ふなり。頭、尖らざる者、能く、核を離るゝ。而≪れども≫、味、酸《さん》を帶びて、美ならず。樹に在≪るも≫亦、久《ひさし》からず。
桃仁《たうにん》は、山城伏見の産、良し。備前岡山、及び、紀州の産、之れに次ぐ。備後、亦、之れに次ぐ。
[やぶちゃん注:「桃」のタイプ種は、日中ともに、
双子葉植物綱バラ目バラ科モモ亜科スモモ属スモモ節(この「節」は境界が明確でない)モモ Prunus persica
である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。長いので、指示せずに省略した部分もある)。『原産地は中国やペルシャとされる。果樹・花木として世界各地で品種改良されて栽培される。春には五弁または多重弁の花を咲かせ、夏には水分が多く甘い球形の果実を実らせる。未成熟な果実や種子にはアミグダリン』(amygdalin、C20H27NO11)『という』危険性を持つ『青酸配糖体が含まれる。観賞用はハナモモという。中国では邪鬼を払う力があるとされた』。『モモの語源には諸説あり、「真実(まみ)」より転じたとする説、実の色から「燃実(もえみ)」より転じたとする説、多くの実をつけることから「百(もも)」とする説などがある』。『漢字の「桃」は、発音を表す「兆」と』、『意味を示す「木」とから構成される形声文字である。発音表記である「兆」の部分を「きざし」と解釈して、「古い桃の品種は核(種子)が簡単に割れたので』二『つに割れることは』、『めでたい兆しとされ、『桃』の字が作られた」と説明されることがあるが、これは民間俗説に過ぎない』。『英名ピーチ(Peach)は“ペルシア”が語源で、ラテン語の persicum malum』(音写:プルヌス・ペルシカ)『(ペルシアの林檎)から来ている。学名の種小名 persica 』(音写:ペルシカ)『(ペルシアの)も同様の理由による』。『落葉広葉樹の低木から小高木。樹高は』五『メートル』『ほどになる。樹皮はサクラ類に似るが、銀白色を帯びることがあり、老木では黒みが増して縦に裂ける。一年枝は緑色から赤褐色で細点があり、無毛か短毛が残る。葉は互生し、花よりやや遅れて茂る。幅』五『センチメートル、長さ』十五『センチメートル程度の細長い形で、葉縁は粗い鋸歯状』。『花期は』三『月から』四『月上旬ごろで、薄桃色の花をつける。淡い紅色であるものが多いが、白色から濃紅色まで様々な色のものがある』。五『弁または多重弁で、多くの雄しべを持つ。花柄は非常に短く、枝に直接着生しているように見える』。『果期は』七『月から』八『月で、球形で縦に割れているような筋が』一『本あるのが』、『特徴的。果実は赤みがかった白色の薄い皮に包まれている。皮の表面には毛茸(もうじ)が生えている。果肉は水分を多く含んで柔らかい。水分や糖分、カリウムなどを多く含んでいる』。『冬芽は互生し、長卵形で』四~十『枚の芽鱗に包まれており、灰色の毛に覆われている。花芽は葉芽よりも大きく』、一~三『個が集まってつく。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個つく』。『原産地は中国からペルシア(現在のイラン)、アフガニスタンなどに渡る地域とされる。ヨーロッパ(欧州)へは紀元前にシルクロードを通り、ペルシア経由で紀元前後ごろに伝わった。アメリカ大陸へは』、十六『世紀ごろにスペイン人やポルトガル人によって持ち込まれ、そこから南北アメリカへと広まった。日本へは縄文時代から食べられていたと考えられ、相当古い時代に中国から渡来したものと見られている』。『中国では裴李崗文化(約』七千五百『年前)において、モモの出土が確認されている。日本では長崎県の多良見町にある伊木力遺跡から、縄文時代前期(約』六千『年前)の日本最古となる桃核が出土しており、これが日本最古とされている。弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化し、各時代を通じて出土事例がある。桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串』(いぐし/いみぐし:「斎(い)み清められた串」の意で、榊(さかき)や笹などの小枝に幣(ぬさ)を掛けて神に供えるもの。今の「玉串」。)『など祭祀遺物と伴出することもある。平安時代 - 鎌倉時代には日常的な食材となり「菓子」として珍重されていたが、当時はスモモ』(スモモ属スモモ Prunus salicina )『程度の大きさで』、『明治時代以降のモモとは異なる果実と考えられており、それほど甘くなく』、『主に薬用・花の観賞用として用いられていたとする説もある。江戸時代にさらに広まり』、本「和漢三才圖會」『では「山城伏見、備前岡山、備後、紀州」が産地として挙げられるほか、諸藩の』産物帳『にはモモの品種数がカキ、ナシに次いで多く、特に陸奥国と尾張国に多いと記されるほど、全国で用いられるに至った』。『明治時代の中頃には、甘味の強い水蜜桃系(品種名:上海水蜜桃など)が輸入され、食用として広まった』。明治八(一八七五)年、中国の『清』『を調査していた内務省の武田昌次と岡毅、通訳の衣笠豪谷は、日本へ帰国時に多くの種苗を持ち帰ったが、その中に上海種と天津種の水蜜桃』(=モモ)『があった。現在日本で食用に栽培されている品種は、この水蜜桃系を品種改良したものがほとんどである。昔の桃は小ぶりで固く、果汁も少なかったとみられているが、現在の日本ではやわらかくて果汁が多いタイプの桃が主流で、これら栽培種の多くは岡山県の』品種『「白桃」』(Prunus salicina f. alba(單瓣白桃)・Prunus salicina f. albo-plena(千瓣白桃))『が元になっている。「白桃」は』明治三二(一八九九)年『に岡山県磐梨郡可真村(現在は岡山市の一部)の大久保重五郎が上海種の実生から優秀な品種を発見したもので、さらに改良を進めて』昭和二(一九二七)年『には新品種「大久保」を誕生させた』(「大久保」の品種学名は、いっかなフレーズを用いても、検索に掛らなかった。されば、以下の品種も学名品種名は示さない)。以下、「品種」の総論部。『食用の品種(実桃)の分類を以下に示す。果実を食用するモモは、品質調査と消費者の嗜好調査を行うとともに、少低温要求性品種、ネクタリンや蟠桃品種、多様な果色や果肉の品種、高品質品種といった品種開発が行われていて、特に実のかたさ、糖度、酸味、香りが重要視されている。モモの品種は非常に多くあるが、欧米ではリンゴやブドウは品種表示されることになっているが、モモの品種名は任意表示であることから、消費者による認知度は低いと考えられている』。『世界で栽培される品種の多くは、アメリカのカリフォルニア州で育成されたものである。特にネクタリンの「Big Top」は、ヨーロッパ市場に大きな影響を与えた品種である。日本と中国は果肉が白く酸味が少ない品種、アメリカでは果肉が黄色く酸味がある品種、スペインやラテンアメリカ諸国では』、『不溶質で』、『果肉が黄色い品種が伝統的に好まれるが、嗜好の多様化も進んでいる。中国の主要品種は』五十四『種あり、そのうちモモ類が』二十三『品種、ネクタリン類が』九『品種、蟠桃のモモ類が』七『種、蟠桃のネクタリン類が』八『種、観賞用』七『種であり、約』八十五『%が中国育成品種である。日本の「倉方早生」「大久保」も中国の主要品種に含まれている。近年においては米国のテキサスA&M大学の農学生命科学部園芸科学科チームとテキサスA&Mアグリライフ研究所の研究者による合同育種プログラム計画で生産者』並びに『消費者向けの品種が増加しており、桃とネクタリンの新品種』四十『種が市場に導入されている』とあって、「水蜜(すいみつ)種」として、『白桃(はくとう)・白鳳(はくほう)系』の代表品種が九種、『黄桃(おうとう)系』が四種、変種である「ネクタリン(Nectarine)種」が三種、「蟠桃(ばんとう)種」には、タイプ品種について、『扁平な形をしている。中国神話では、西王母と関連がある』。「西遊記」では、『孫悟空が食べた不老不死の言い伝えがあ』り、『中国原産で、果実は真ん中が窪んでいて、潰れたような異形が特徴。種は小さく』、『可食部が多い。果肉は黄色で蕩けるような食感、やや強い酸味と強い甘味がある。平桃(ピンタオ)や座禅桃(ざぜんもも)、ペッシュ・プラット(Pêche plate)、UFO・ピーチ(UFO Peach)など様々な呼び名や通称があり、海外(特にヨーロッパ地域)では比較的たくさん出回っているが、日本では栽培そのものの難しさにより』、『生産者の数が少ないことや』、『栽培地域が限定されているために、とても希少な果物として扱われている』として、七品種を挙げている。最後に、『その他』として、『ハナモモ』(花桃)『と呼ばれる観賞用の品種(花桃)は源平桃(げんぺいもも)・枝垂れ桃(しだれもも)など』を掲げ、「源平桃」と「照手水密」』(てるてすいみつ)『を挙げてある。以下、「栽培」の項。『栽培の分布地域は経度南北三十~四十五『度の範囲にあり、北米はカナダ南部からフロリダ北部まで、ヨーロッパはイタリア・スペイン・トルコ・ギリシャなど、アジアは中国や日本、南半球はチリ南部やオーストラリア南部、南アフリカ南部あたりが相当する。モモは比較的水が必要な果樹で、乾燥地では灌水栽培されるが、その一方で、水が多すぎるなどの嫌気条件には最も弱い果樹のひとつでもある』。『食用に生産されるモモは、気象、土壌、穂品種に適する台木が必要で、接ぎ木親和性、樹勢、耐寒・耐湿性、センチュウ』(線虫で、脱皮動物上門 Ecdysozoa線形動物門 Nematodaに属する種の内、樹木に寄生する種群を指す。モモ寄生では、双腺綱 Secernenteaティレンクス目 Tylenchidaプラティレンクス科 Pratylenchidaeプラティレンクス属 Pratylenchus のネグサレセンチュウ群(総称)が知られ、未確定種も含めて世界から約百種がいる)『抵抗性など、多様な台木が作られている。台木はには、モモ、スモモ、アーモンド、ベニバスモモ(ミロバランスモモ)、ユスラウメ、これらの交雑種が使われている。一般的な樹形は、低樹高開心形、V字形、Y字形、主幹形であり、トレリス(誘引のために使用する園芸用のフェンス)』(trellis:原義は「格子」「格子状」の意)『を使って平面的な樹形に仕立てられることもある。果樹の中でも栽培には手間がかかり、受粉・摘果・収穫・調製・整枝・剪定などの労働時間が長いことが指摘されている。モモの施設栽培は、中国でハウスや日光温室が多く利用されている』。『摘花と摘果は、モモの収穫と並ぶ最も重労働な作業で、花と果実を間引いて、果実の肥大促進、品質向上、隔年結果の防止、着果多加による枝折れ防止のため行う。世界的には手作業による摘蕾・摘果は一般的ではなく、開花後』四十~六十『日後の幼果を減らす適果が一般的である。欧米では摘花・摘果機械も導入されている』。『北半球の栽培北限(南半球での南限)は冬期の霜害が関係し、反対に栽培南限(南半球では北限)は低温不足が関係している。これより暖かい地域では、標高が高いところで栽培したり、低温要求量が少ない品種を栽培している。越冬期には』、摂氏『マイナス』二十『度からマイナス』二十五『度程度まで耐えられるが、休眠があけて花芽がふくらみはじめると』、『耐凍性が徐々に低くなり、開花を迎えるころにはマイナス』二『度で被害が発生する。近年みられる地球温暖化の影響もあって、早春に気温が高い年は発芽が進み、その後の低温で遅霜』(おそじも)『の被害を受けることがあり、アメリカやヨーロッパの生産地では大きな被害を出している。降水量が少ない地域では』旱魃『が脅威となっており、アメリカのカリフォルニア州では表面水や地下水の利用が難しくなり、特に小規模生産者の存続が困難な状況になっている』。『気温・湿度条件は病害発生にも影響し、一般に高温多湿では、モモ灰星病』(原因菌:菌界子嚢菌門ズキンタケ綱ビョウタケ目ビョウタケ科モリニア属 Monilinia fructicola・Monilia mumecola・Monilinia laxa )『モモ炭疽病』(原因菌:糸状菌の不完全菌類であるコレトトリカム属の Colletotrichum acutatum や子嚢菌類のグロメレラ属の Glomerella cingulata など)『にかかりやすく、また冷涼条件では、うどんこ病、縮葉病が発生しやすい。春先の温度が低い時期に雨が良く降ると』、『縮葉病に掛かりやすく、実桃の栽培には病害虫の防除が必要である。また果実の収穫前には袋掛けを行わないと蟻やアケビコノハ』((通草木葉蛾:鱗翅目ヤガ(夜蛾)上科ヤガ科エグリバ亜科エグリバ(抉り翅)族 Eudocima エグリバ属アケビコノハ Eudocima tyrannus )『等の虫や鳥の食害に合うなど(商品価値の高い果実を得ようとするならば)手間暇が掛かり難易度が高い果樹である』。「生産と流通」の項。『日本や米国ではモモの生産量、消費量ともに減少傾向にある一方で、中国やスペインでは生産量が増加しており、特に中国は幅広い地域で栽培が行われ生産量が急増している。スペインは世界最大のモモの輸出国であり、長期にわたりヨーロッパ市場に出荷している。収穫後のモモは常温で成熟、老化が急速に進みやすく、日持ちしない果物であるため、世界の輸出量はすべての果物の中でも少ない方である。低温下では成熟、老化する速度がゆっくりになるが、流通に際して、モモ果実を冷蔵貯蔵することによる低温障害が大きな課題になっている。低温障害が発生すると、果実の外見は健全であっても、内部の褐変や粉質化によってジューシー感が失われてしまう』。『モモの果実はやわらかいので押し傷、擦り傷などを受けやすく、収穫、搬送、選果などでは丁寧な取り扱いが必要である。日本以外の国では、選果ラインで傷がつかないように、軟化する前の硬めの果実が収穫されていて、遠距離市場向けに出荷する場合には、早めの収穫になりがちである』。『主な生産国は、中国、スペイン、トルコ、ギリシャ、イラン、アメリカ、イタリアなどである。世界のモモ産地の多くは、日本よりも暖かく、降水量が少ない地域である。アメリカ最大の生産州はカリフォルニア州で、そのほかサウスカロライナ州やジョージア州にも産地がある。世界のモモ(ネクタリンを含む)生産量は』二〇二〇『年統計で』二千四百五十七『万トンに達し、世界最大の生産国は中国であり、その生産量は』千五百一『万トンで他国を圧倒する。中国は幅広い地域でモモの生産が行われており、山東省だけでも生産量』二『位のスペインの』二『倍以上ある。モモ・ネクタリン類のうち、日本ではネクタリンが占める割合は』一・五『%と非常に少ないが、中国などの主要産出国やスペイン、オーストラリアなどの輸出国では』二十~六十『%ほどあり、ネクタリンの占める割合が』、『かなり大きい』。『モモの輸出量が多い国は、スペイン、トルコ、ギリシャ、チリ、ウズベキスタンなどで、輸出地は日もち性が悪いことも関係して、近隣国に出荷することがほとんどである。南半球のチリやオーストラリアから北半球向けに輸出されるが、その取り扱い量は少ない。年間消費量が多い国はイタリア、スペイン、チリ、中国などがあり、特に一人あたりの最大消費国はイタリアでは、個人の年間消費量は』一人当たり二十『キログラム』『に達する。世界的にみて、中国では生産量の増加に合わせて消費量も拡大している。その一方で』、『アメリカと日本は、モモ消費量の減少が顕著となっている』。『日本では主に山梨県、福島県、長野県など降水量の少ない盆地で栽培される。日本最北端の生産地は北海道札幌市であり、出荷数は極僅かだが』、『南区の農園で栽培される。日本では』、『モモの栽培面積と収穫量が緩やかに減少する傾向にある』。『果実は食用、花は観賞され、庭木として植栽に用いられたり、あるいは華道で切り花として用いられる。材は割れにくく丈夫であるため、箸などに利用されている。樹皮の煎汁は草木染めの染料として用いられる事がある』。『栽培中、病害虫に侵されやすい果物であるため、袋をかけて保護しなければならない手間の掛かる作物である。また、傷みやすく収穫後すぐに軟らかくなるため、賞味期間も短い。生食する他、ジュース(ネクター)や、シロップ漬けにした缶詰も良く見られる』。『果実の旬の時期は』七~九『月ごろで、全体に産毛があり、左右対称でふっくらとしているものが市場価値の高い良品とされる。選ぶときは果皮の色がよく甘い香りがあるのもがよく、軸周辺の色が緑色のものは未熟である。かたいものは常温において追熟させ、食べる直前に』一『時間ほど冷蔵庫で冷やすとよいといわれる。冷蔵で冷やしすぎると』、『甘みが落ちてしまうが、果肉は冷凍保存もできる』。『生食する場合は柔らかく熟してから食べるのが一般的。流通においてもそれに近い状態で取り扱われるため、客へ向けて特に手を触れないよう注意書きをしている店舗も見られる。しかし、山梨県では齧った際にカリカリと音がするほど固く熟しきっていない状態が好まれるなど、多少の地域性も見られる』。『代表値で可食部』百『グラム』『あたりのエネルギーは』四十『キロカロリー』『で、水分は約』八十九グラム、『タンパク質は』〇・六グラム、『脂質』〇・一グラム、『炭水化物』十・二グラム『が含まれている。その他成分として、腸の調子を整えたり』、『便秘解消に役立つ食物繊維ペクチンが多く含まれ、ほかには高血圧予防によいカリウム、コレステロール改善によいナイアシン、抗酸化作用があるカテキンやビタミンCが含まれている』。以下、「薬用」の項。『薬用とする部位は、種子、葉、花、成熟果実である。種子の内核は桃核(とうかく)あるいは桃仁(とうにん)とよばれ、成熟果実の中の核を割って種子を取り出し天日乾燥させて調整する。葉は桃葉(とうよう)、花は桃花(とうか)とよばれ、葉は』六~七『月ごろ、花は開花期に採取したものを天日乾燥して調整する。また』、『成熟果実は桃子(とうし)ともよばれ、市販のものが使われる』。『種子(桃仁)は生理痛、生理不順、便秘に対する薬効があるとされ、漢方においては血行を改善する薬として婦人病などに用いられる。民間療法では、桃仁』一『日量』二~五『グラムを』四百『ccの水に入れて煎じ』、三『回に分けて服用する方法が知られる。生理初期に刺すような痛みがあり』、『塊が出ると』、『楽になるような人、ころころ便の便秘によいといわれる一方で、妊婦や貧血気味の人への服用は禁忌とされる。また、花(桃花)はむくみ、尿路結石、便秘に対する薬効があるとされ、利尿薬、便秘薬に使われる。民間療法では、利尿やむくみとり、便秘の改善に』、一『日量』二~三『グラムの桃花を』四百『ccの水で煎じて』三『回に分けて服用する方法が知られる。ただし、妊婦への服用は禁忌とされる。果実もまた』、『便秘によく、のどの渇きを潤し、腹部を温める効果があるが、妊婦や胃腸に熱がある人は多食しないよう注意が呼びかけられている』。『葉(桃葉)は、あせも、湿疹に薬効があるとされ、乾燥葉を布袋に入れて浴湯料とし湯に入れた桃葉湯は、あせもなど皮膚の炎症に効くとされる。ただし、乾燥していない葉は青酸化合物を含むので換気に十分注意しなければならない』。『なお、シラカバ花粉症を持つ人のうち一定割合の人がリンゴやモモなどバラ科の果物を食べた際』、『舌や咽喉(のど)にアレルギー症状を起こすことが知られている』。以下、「文化」の項。まず、「桃饅頭」。『中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物・果物として親しまれている。桃の木で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる。戸口や門に赤い紙でできた春聯(しゅんれん)』(中華圏に於ける春節の風習の一つで、赤い紙に各種縁起の良い対句を書いたものを指し、家の入口などに貼るもの。当該ウィキを参照されたい)『が飾られるが、春聯は別名で桃符(とうふ)ともよばれ、本来は桃の木から作られた薄い板でできていた』。『桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・寿桃(ショウタオ、繁体字: 壽桃、簡体字: 寿桃、拼音: shòutáo)を食べる習慣がある。寿桃は日本でも桃饅頭(ももまんじゅう)の名で知られており、中華料理店で食べることができる。寿命をつかさどる女神の西王母とも結び付けられ、魏晋南北朝時代に成立した漢武故事(中国語版)などの志怪小説では、前漢の武帝が西王母の訪問を受け、三千年に一度実をつける不老長生の仙桃を授かったという描写がある。さらに後代に成立した四大奇書のひとつ』「西遊記」の『主人公孫悟空は、天上宮に住む西王母が開く蟠桃会に供された不老不死の仙桃を盗み食いしている』。『日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う霊力があると考えられていた』「古事記」『には、オオカムズム』(「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」と表記する。当該ウィキによれば、『「大いなる神のミ(霊威)」の意味であるが、大いなる神の実と解釈し、「大神実命」と表記する場合もある』とある)『の名で桃の神様として登場する』「日本書紀」『では、黄泉の国でイザナミの追手から逃げるイザナギが、黄泉比良坂に辿り着いた際、そこにあった桃の実を投げつけて、追手を退散させて逃げ延びることに成功した。イザナギはその功を称え、桃に意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという』。三月三日の『桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事である。モモはウメよりも花期がやや遅く』、三『月に花が咲くことが桃の節句と呼ばれる所以である。桃の花を飾って祈願する風習は、女子が妊娠を希望して子供を授かり、その子の誕生を祈ることも意味した。桃の核(種子)の中心にある空間は、竹の桿(かん)の中空と同様に、神の居場所と考えられていた』。『英語圏においては、傷みやすいが』、『美しく美味しい果物から』、『古い俗語で「若く魅力的な娘」を表し、そこから「ふしだら女」「(複数形で)乳房」などの意味にも転じている』。以下、モモならざる『“モモ”の名を持つ植物』の項以下があるが、各自で見られたい。ルーティンの学名を附すのが、面倒だからである。而して、以下のゾロゾロと出る変種・品種の学名も、えらく時間が掛るので、同様に学名を示さない。実際、邦文論文でも品種の学名リストは見当たらなかったし、最大数のモモの種を有する中国のサイトでも、学名を記すものに行き当たらなかったからである。悪しからず。
「本草綱目」の引用は、「卷二十九」の「果之一」の「五果類一十二類」の「桃」(非常に長い)のパッチワークである。昨日より、「漢籍リポジトリ」がアクセス出来ない状態が続いているので、「維基文庫」の同書の「桃」の項をリンクさせておく。
「李桃(ずばい《もも》)」確かに、「本草綱目」の「桃」には、『李接桃則爲李桃』(李に桃を接げば、則ち、李桃と爲る)とあるが、これは、現在のネクタリン、
モモ属モモ変種ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina
を指す。個人サイト「GKZ植物事典」の「ネクタリン」によれば、『わが国では、古くから栽培されてきているが、渡来時期不詳。』とされ、『ネクタリンが我が国では長野県で多く栽培されている。』とあるからで、確かに、既にズバイモモ=ネクタリンは本邦に渡来していたと考えられるものの、果して、本邦の『俗』=当時の大衆が、「ずばいもも」と呼び慣わすほどに一般的に知られてあったと考えるには、私は、二の足を踏むからである。但し、割注に、『和名、「都波木桃《つばきもも》」。俗、云ふ、「豆波以桃《づばいもも》」。』という謂いについては、リンク先の「備考」で、『現在、「ズパイモモ」の和名が一般化しているが、『牧野 新日本植物圖鑑』(北竜館)では、故牧野富太郎博士は本種を「ツバイモモ」と記している、そこで、個人的な推測であるが、本種は、濃赤色に色づき、加えてほぼ球状の果実から、その姿をツバキの実にも似ていると感じたのであろう。そこで、ツパキモモ(椿桃)の名が生じたのであろう。その後、ツバキモモ→ツバイモモ→ズバイモモと転訛したのではなかろうかと考えている。そこで、漢字表記のコーナーは「椿挑」としている。』と記されているから、やっぱり、江戸中期には、それなりに知られていた種だったのだろうなと考えるしかないようだ。なお、「維基百科」のネクタリン相当の「桃駁李」には、別名を『甜桃、油桃、李光桃、光桃、奈』とし、的確に、『中国原産の果物で、アジアや北アメリカに分布している。過去の誤解に基づいて、「桃に梅」は、同じ属の梅の木に、桃を接ぎ木(「ピン留め」)して得られる果物であると考えられています。或いは、桃と梅の交雑種である可能性もある。見た目はプラムのようであるが、味や食感は桃に似ている。』とあり、さらに、『ネクタリンは古代の書物に記録されており、宋の時代にはすでによく知られていました。宋代の「本草衍義」(一一一六年成立)には、『汴中(べんちゅう:河南省にある北宋の都であった開封(かいほう)の古称「汴京(べんけい)」)には「油桃」が有り、他の桃よりも小さく、油のような光沢がある』と記載されており、学者らは、これが現在のネクタリンを指していると考えている。明の慎懋官(しんぼうかん)の著「華夷花木鳥獸珍玩考」にも、『京畿の油桃は他の桃より小さく、赤い斑点が有り、油のような光沢がある」と記録されている』とあって、更に、『近年の遺伝子工学研究により、実際、桃の形をしたプラムは桃の変種であり、その遺伝子は、劣化したゲノムが 一つだけ桃の遺伝子と異なることが判明した。従がって、桃の木に桃や梅が見られることもあれば、桃の木に普通の桃が見られることもある。』とあった。
「白朮《びやくじゆつ》」「白朮」は、キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica 、或いは、オオバオケラ Atractylodes ovataの根茎を基原植物とし、一般には、健胃・利尿効果があるとされるが、実際には、これらの根茎を、作用させる異なる器官(無論、漢方の)の疾患に、臨機応変に用いているようである。
「蒼朮《さうじゆつ》」「蒼朮」は、Atractylodes lancea ホソバオケラ、或いは、Atractylodes chinensis の根茎。
「手足の厥陰經《けついんんけい》」東洋文庫後注に、『体内をめぐる十二経脈の一つ。巻八十二盧会の注一参照。』とある。先行する私の「盧會」の注を参照されたい。
「香附子《かうぶす》」単子葉類植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus の根茎を乾燥させたもの。薬草としては、古くから、よく知られたもので、正倉院の薬物の中からも、見つかっている。漢方では芳香性健胃・浄血・通経・沈痙の効能があるとされる。
「桃梟《たうけう》」中文サイト「每日頭條」の「桃梟桃奴鬼髑髏,百無一用卻有藥用!」に十葉の実際の写真が載るので、見られたい。
『羿(げい)、桃棓《たうばい》【「棓」とは「杖」なり。】に死す』当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『羿(げい、拼音:Yì イー)は、中国神話に登場する人物。后羿(こうげい、拼音: Hòuyì ホウイー)、夷羿(いげい)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である』。『羿の伝説は』「楚辭」の「天問篇」の『注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、羿射九日)が知られるほか、その後の時代に活躍した君主である后羿を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、前者を「大羿」、後者を「夷羿」や「有窮の后羿」と称し分けることもある。その大羿は中国神話最大の英雄の一人である』。『日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており』、「將門記」(石井の夜討ちの場面)や』、「太平記」(巻二十二)『などに弓の名手であったことや』、嘗つては、九『個あった太陽の内』、八『個を射落としたことが引用されているのがみられる』。以下、「羿射九日(いしゃきゅうじつ)」の項。『天帝である帝夋』(しゅん)『には羲和』(ぎわ/ぎか)『という妻がおり、その間に太陽となる』十『人の息子を産んだ。この十体の太陽は』、『それぞれ』、『鳥に乗せられていて』、『普段は極めて巨大な神樹である扶桑树の所で生息や入浴をしていた、そして交代で』一『日に』一『人ずつ』、『地上を照らす役目を負』い、『この十日を一旬と呼ばれることになる。ところが』、『帝堯』(ぎょう)『の時代に、太陽達が遊びたくて、いっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋は』、『その解決の助けとなるよう、天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に彤弓』(とうきゅう)『(紅色の弓)と素矰』(そそう)『(白羽が飾った弓矢)を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで』、一『つだけ残して』九『の太陽を射落とした。これにより』、『地上は』、『再び』、『元の平穏を取り戻したとされる』。『その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの凶獣(窫窳・鑿歯・九嬰・大風・修蛇・封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた』。しかし、後、『自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は万仭の崖を登り』、『崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬をもらって帰ったが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へ』、『しばらく』、『身をひそめることにする。そして、羿を裏切ったむくいで』、『体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことになったと言う説もある』。『なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に月餅を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある』。『その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、弟子である逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後』、『羿を殺してしまえば、私が天下一の名人だ。』と『思うようになり、ついに羿が注意していないうちに背後からを撲殺してしまった』(実はこの時、逢蒙が撲殺に使用したものが、桃の木で出来た太い杖、棍棒であったのである。最後に、その別な引用を出す)『このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった』。以下、「夏の時代の羿」の項はカットする。別に、龍尾山人氏のブログ「断箋残墨記」の「蟠桃小考」の中に、『前漢時代に成立した「淮南子」には、古代の伝説的な弓術の名人、羿(げい)が、桃の木で出来た棍棒によって、弟子の逢蒙に殴り殺される話が記載されている。また「礼記」には「君臨臣喪,以巫祝桃列執戈,鬼悪之也」とある。すなわち』、『君子が臣下の葬儀に際しては、巫女に桃で作った杖を持って並ばせ、悪鬼を避けるのとある。「春秋左氏伝」には「桃弧棘矢,以除其災」とある。すなわち桃の木で弓を作り、射れば災いを避ける、ということである。戦国・春秋時代には、家々の門に、桃の木で出来た人形を飾り、魔除けにしたという』とある。桃製の棍棒――神話世界の矢の名人の弟子で勇猛で野心家の逢蒙であれば、棍棒を杖とするのは、至って納得される――は、コペルニクス的転回点の重要な神聖なアイテムだったのである。
「古今醫統」複数回、既出既注。
「万葉」「我が宿のけもゝの下《した》に月よさしした心《ごころ》よしうたてこのころ」「人丸」割注で述べた通り、「人丸」は誤り。作者不詳。「万葉集」の「卷第十」の「譬喩歌(ひゆか)」と題する一首、
*
譬喩歌
我が屋前(やど)の
毛桃(けもも)の下(した)に
月夜(つくよ)さし
下心(したごころ)よし
うたてこのころ
*
中西進氏の講談社文庫「万葉集」(二)(昭和五五(一九八〇)年刊)の脚注の訳に、『わか』(ママ)『家の毛桃の下に月光がさし輝き、何となく心の中が楽しい。ますます、近頃は。』とあり、注に、「毛桃」は『桃果は女性の比喩。』とされ、「月夜さし」は、『初潮の比喩。大切に守って来た女の成人を喜ぶ歌は多い。』ある。「うたて」は、『「うたてし」の副詞句。ウタタ。』とあるが、この場合は、物事の度合が異常に進んで甚だしい意を表わし、「なぜか非常に・ますます・いよいよただならず」で、ネガティヴな意味では、全くない。
「伊弉諾尊(いさなきのみこと)」私は濁音で読むことが嫌いであるので、カタカナの、そのままに読んだ。
「火𠢐女(ひさめ)」良安が、一体、何の書を元にしたのか、不明。訓読の際に、三十分以上、調べたが、判らない。この「火𠢐女」も、読みの「ひさめ」も、わけワカメだ。伊邪那岐を追って、遂に自身が黄泉国の軍団(ここで言う「悪卒」)を連れて追撃した伊耶那美(いさなみ)は、黄泉平坂(よもつひらさか)の出口で桃を投げられ、それを、食わねばならず(神話上の定番的御約束)、その隙に、伊邪那岐が呪的逃走に成功するのだが、伊耶那美を「火𠢐女(ひさめ)」と言う資料を私は知らない。識者の御教授を乞うものである。]