フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 現在作業中の「和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 梅」について | トップページ | 西尾正 守宮(いもり)の眼 »

2024/12/02

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 梅

 

Une

 

うめ   槑【古】

     【和名宇女

      今云牟女】

【音枝】

     烏梅

     【布須倍牟女】

     白梅

ムイ   【牟女保之】

[やぶちゃん注:この割注「音枝」の「枝」は、誤記か、誤刻であろう。本邦の「枝」の音は「シ・キ・ギ」で「バイ」に通じない。「廣韻」を見ると、「音枚」とある。この「枚」(バイ)が正しい。訓読では修正した。

 

本綱云梅乃杏類其樹葉皆畧似杏而葉有長尖先衆木

而花其實酸曝乾爲脯入羹臛韲中又含之可以香口子

赤者材堅子白者材脆

江梅【倭云野梅其花國單葉小白】野生者不經栽接花小而香子小而硬

[やぶちゃん注:ここは各種の「本草綱目」からのパッチワークであり、「江梅」の前には、以下と同じ「○」を附すべきものである(東洋文庫訳でも、そうなっている)ので、訓読では「○」を挿入した。なお、この「○」は、今までの「○」も同様なのであるが、良安が判り易くするために独自に挿入したものであり、「本草綱目」自体には、全く、ない。されば、二重括弧内には入れない。なお、先行例と同じく、原文は改行せず(以上の一行は、丁度、一行字数満杯で改行しているに過ぎない)、各種項として読み易くするため、特異的に訓読では、改行表示する。

○綠萼梅枝跗皆綠也○重葉梅花葉重疊結實多雙○

消梅實圓鬆脆多液無滓惟可生噉不入煎造 紅梅花

[やぶちゃん注:この空欄にも、訓読では「○」を入れて改行する。]

色如杏○鴛鴦梅卽多葉紅梅也○杏梅【今云豊後梅乎】花色淡

紅實扁而斑味全似杏○鶴頂梅【一名金剛拳】花少香子甚大

三才圖會云梅有四貴貴稀不貴繁貴老不貴嫩貴瘦不

 貴肥貴莟貴不貴開

[やぶちゃん注:この行頭の字空けはママ。誤刻と思われるので、訓読では詰める。]

梅實【酸】 多食損齒【服黃精人忌梅】食梅齒齼者嚼胡桃肉解之

烏梅【酸溫平濇】 脾肺二經血分藥也能收肺氣治燥嗽肺欲

 收急食酸以收之是也治傷寒煩熱止渴去痰治瘧瘴

 除冷熱痢治虛勞骨蒸消酒毒止反胃噎隔

 【造法取半黃梅籃盛於突上烟薫之爲烏梅若以稻灰淋汁潤濕蒸過則肥澤不蠧也】

白梅【一名鹽梅又霜梅】 和藥㸃痣蝕悪肉刺在肉中者嚼傅之

 卽出乳癰腫毒杵爛貼之佳也

【造法取大青梅以鹽汁漬之日晒夜漬十日成矣久乃上霜】

△按烏梅出於備後三原者良山城之產次之 白梅俗

 云梅脯也豊後之產肥大肉厚味美用其肉卷瘭疽治

 燒末入咽喉及牙齒藥又用生梅【百箇】黒沙糖【半斤】煮

 爲膏【治人息切及馬喘】 春の夜のやみはあやなし梅の花色社みえね香やはかかるゝ

鶴林玉露云古者謂實與花不言花美香至宋朝則詩文

詠之伹古梅花不如于後世乎天地氣變昜昔有今無之

類亦多

古今醫統云梅宜多栽池𨕙溪逕壠頭墻⻆有水坑𠙚則

多實梅樹接桃則脆苦棟樹上接梅則花開如墨名墨梅

移大梅樹去其枝梢大其根盤沃以溝泥無不活者

梅花 初放時收之陰乾治小兒痘疹不出不起者泡湯

 與之速出速起

△按本朝古者稱花者梅也中古以來唯稱花者櫻也

 續日本紀云聖武帝天平十年七月指殿前梅樹勅諸

 才子曰朕去春欲翫此樹而未及賞翫宜各詠此梅樹

 文人三十人皆賦春意有詩

 百濟王仁謂梅稱此花也菅神毎愛梅遺飛梅之名從

 晉起居言有好文木之稱因橘直幹之歌有鶯宿梅之

 號𢴃西行之歌有求來願之梅如此類不可枚擧

[やぶちゃん注:以下、各種の梅が割注附きで、ダラダラと一字空けで続くが、甚だ読み難いので、原本も、各項を分離することとする。見難いのと、字注が附け難いからである。]

 難波梅【中花淡白千葉有香】

 淺香山【小花淡白八重最香】

 一入梅【大花淡白單葉甚可愛】

 花香實梅【中花白形美有香實亦良】

 鞍馬梅【大花雪白八重形美有香結子】

 㲊山白【大花雪白色有香】

 見歸梅【大花雪白單葉其葩大結子】

 身延梅【最大單葉白色有香木有星㸃故名星降】

 冬梅【中花如常實秋熟可謂秋梅耳】

 甲州梅【小白花其子最小一名信濃梅本艸所謂消梅是也】

 鸎宿梅【中花白八重有赤㸃文香佳京相國寺塔頭林光院初有之於今有殘株】

[やぶちゃん字注:「鸎」は「鶯」の別字。]

 細川梅【大花白單葉有赤㸃文】

 金梅【中花白八重初開時黃色】

 玉井梅【大花白單葉如帶微赤色有香實亦多生】

 飛鳥川【中花白千葉初紅色既開白結子】

 中妻梅【大花白千葉而交紅或全紅白扁分如源平桃】

 花布梅【大花白單葉有紅㸃葩五或八九其子亦佳】

 江南梅【大花如卵色形似杏花結子】

 豊後梅【大花白帶淡紅色八重其子最大此所謂杏梅鶴頂梅之類乎】

 大梅【花如豊後梅其實更大】

 越中梅【大花白帶淡紅千葉實亦大】

 楊貴妃【花形似越中梅而莟時紅其實小】

 求來願【小花形如豊後梅花】

 箙梅【中花如越中梅而小有香】

 鎗梅【中花白帶淡紅色有香】

[やぶちゃん注:以上で、原文では、改行されてある。意味は、よく判らない。単に、次の項が半端なところで割注が始まるからであろうと私は思う。]

 關東紅梅【大花正紅八重始終色香佳美】

 唐紅梅【大花深紅色八重】

 濃紅梅【大花深赤微帶紫美葉麗】

 香紅梅【小花紅八重有香結子】

 㲊山紅梅【大花紅八重其周緣色特濃】

[やぶちゃん注:「㲊」は「叡」の異体字。]

 未開紅【大花紅八重未開時深赤實大如杏在誓願寺鎭守社前】

 行幸【大花紅千葉帶微柹色】

 奧乃紅梅【大花紅八重美】

 本立寺【大花單葉其開稍遲】

 虎尾【中花紅千葉而翹楚亦悉有花甚繁似虎尾】

 軒端梅【中花深赤如紫單葉其葩自五至八九在洛陽誠心院和泉式部之墓傍】

 單葉冬至梅【中花單紅冬月開】

 八重冬至梅【中花淺紅八重冬開】

 座論梅【中花淺紅千葉其實毎朶四五顆隨長揠落如論坐】

 櫻梅【中花淺紅八重其莟下埀如櫻】

 源氏紅梅【中花淺紅千葉最繁實亦生】

 此外數品不勝計

江戸龜井戸有名木梅枝着地處生根蕃方六丈余【白花香甚】

 

   *

 

うめ   槑《バイ》【古≪字≫。】

     【和名「宇女《うめ》」。今、云ふ、「牟女《むめ》」。】

【音「枚」。】

     烏梅《うばい》

     【「布須倍牟女《ふすべむめ》」。】

     白梅《はくばい》

ムイ   【「牟女保之《むめぼし》」。】

[やぶちゃん注:異様に長く、当時の品種名を恐るべき数で、ゴマンと並べているので、取り敢えず、「梅」の学名をここに掲げておく。

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

である。

 

「本綱」に云はく、『梅は、乃《すなはち》、杏《あんず》の類≪なり≫。其の樹・葉、皆、畧《ちと》、杏に似て、葉に、長き尖り、有り。衆木に先≪んじて≫、花《はなさ》き、其の實、酸《すつぱ》し。曝乾《さらしほ》して、脯(ほじし)[やぶちゃん注:現行に中国語では「干肉」の変化した語で、第一義は「細かく裂いて干した鳥獣の肉」を指すが、第二義で「果物の砂糖漬け」を指す。]と爲《な》≪し≫、羹-臛《あつもの》[やぶちゃん注:「羹」は音「コウ」、「臛」は「コク・カク」で、「あつもの」で、これは、「肉入りの熱い吸い物」を指し、野菜入りのものを「羹」、野菜を入れないものを「臛」と言う。則ち、干し梅は食材ではなく、酸味を加える香辛料扱いということになる。]・韲《あへもの》[やぶちゃん注:野菜や魚介などを。味噌・酢・胡麻・辛子などで混ぜ合わせた料理。]の中に入《いる》る。又、之れを、含《ふくみ》て、以つて、口を香《かぐ》はす。子《み》の赤≪き≫者は、材、堅く、子の白き者は、材、脆《もろ》し。』≪と≫。

○『江梅《かうばい》』【倭に云ふ、「野梅《のうめ》」。其の花、單葉《ひとへ》は、小≪さく≫白し。】『は、野生の者にて、栽接(《きり》つ)ぐことを經ず。花、小《ちさく》して、香《かんば》しく、子《み》、小にして、硬し。』≪と≫。

○『綠萼梅《りよくがくばい》は、枝・跗《がく》、皆、綠なり。[やぶちゃん注:この「跗」は第一義は「足の甲」であるが、第二義に「うてな・花の萼(がく)」の意がある。]

○『重葉梅《じふやうばい》は、花・葉、重疊《じふじやう》≪して≫、實を結ぶに、《實は》雙《ふたつ》≪の者(もの)≫、多し。』≪と≫。

○『消梅《しやうばい》は、實、圓《まろ》く、鬆《やはら》≪かにして≫、脆《もろ》≪く≫、液《しる》、多く、滓(かす)、無し。惟《ただ》、生にて噉《くらふ》べし。煎造《いりづくり》≪には≫入れず。』≪と≫。

○『紅梅《こうばい》は、花の色、杏のごとし。』≪と≫。

○『鴛鴦梅《ゑんわうばい》は、卽ち、葉、多≪き≫、紅梅《こうばい》なり。』≪と≫。

○『杏梅《きやうばい》』【今、云ふ、「豊後梅《ぶんごうめ》」か。】『は、花≪の≫色、淡《あはき》紅。實、扁《ひらた》くして、斑《はん》≪有り≫。味、全く、杏に似たり。』≪と≫。

○『鶴頂梅《かくちやうばい》』【一名、「金剛拳」。[やぶちゃん注:不審。この名は「本草綱目」では「杏」の一種の名として、「漢籍リポジトリ」[073-4b]の四行目に出現する。]】『花、香、少《すくな》く、子、甚だ、大なり。』≪と≫。

「三才圖會」に云はく、『梅に、四貴《しき》、有り。稀《まれ》なるを貴《たうとび》て、繁きを貴ばず、老《おい》たるを貴て、嫩(わか)きを貴て、瘦《やせ》たるを貴て、肥《こえ》たるを貴ばず、莟(つぼみ)を貴て、《花、》開くを貴ばず。』≪と≫。

『梅の實《み》【酸。】』『多く食へば、齒を損《そこな》ふ。』【『「黃精《わうせい》」を服する人、梅を忌む。』】[やぶちゃん注:この割注内容は、「本草綱目」の「梅」の「集解」の中にある(「漢籍リポジトリ」のここ[073-12b]の七行目の下方)。]。『梅を食《くひ》て、齒、齼(う)く者は、胡-桃(くるみ)の肉を嚼《はみ》て、之れを、解《かい》す。

『烏梅《うばい》【酸、溫、平、濇《しよく》[やぶちゃん注:味が渋いこと。]。】』『「脾」・「肺」≪の≫二經≪の≫血分《けつぶん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(血に係わる病)』とある。]の藥なり。能《よく》、肺≪の≫氣を收め、燥嗽《さうがい》[やぶちゃん注:激しい咳。]を治す。「肺、收《をさ》めんと欲≪せば≫、急《にはか》に酸《すつぱき》を食《くひ》て、以《もつて》、之れを收めよ。」とは、之れ、是れなり。傷寒[やぶちゃん注:インフルエンザや重篤な風邪様(よう)等を含む悪性の流行性疾患。]・煩熱を治《ぢし》、渴《かはき》を止め、痰を去り、瘧瘴《ぎやくしやう》[やぶちゃん注:間歇的に悪寒・戦慄・発熱を繰り返す病態。マラリアに起因する。]を治し、冷≪痢≫《れいり》・熱痢を除き、虛勞[やぶちゃん注:東洋文庫の前に出た割注に『(疲労・栄養不良による衰弱)』とある。]・骨蒸[やぶちゃん注:東洋文庫の後注に、『体熱があって骨が蒸せるように熱く感じること。』とある。]を治し、酒毒《しゆどく》を消し、反胃《はんい/たべもどし》・噎隔《いつかく/のどのつかえ》を止《と》む。』≪と≫。

『【造る法《はう》。半ば黃なる梅を取りて、籃(かご)に盛り、≪煙≫突の上に於いて、烟《けぶ》りに、之れを、薫(ふす)べ、「烏梅《うばい》」と爲《な》し、若《いくらか》、稻≪の≫灰の淋-汁《そそぎじる》を以つて、潤濕《じゆんしつ》≪に≫蒸《む》≪し≫過《す》≪ぐせば≫、則《すなはち》、肥澤≪と成りて≫、蠧《むしつ》かざるなり。】。』≪と≫。

『白-梅(むめぼし)』『【一名、「鹽梅《えんばい》」。又、「霜梅《さうばい》」。】』『藥に和して、痣《あざ》に㸃ずれば、悪≪しき≫肉を蝕《しよく》す。刺《とげ、》肉≪の≫中に在《あり》て《✕→ある》者、嚼《か》んで、之れを傅《つく》れば、卽ち、出づ。乳癰《にゆうよう》[やぶちゃん注:乳腺炎。]・腫毒[やぶちゃん注:悪性の腫物。]≪には≫、杵-爛《つきただらか》して、之れを貼(つ)けて、佳《か》なり。』≪と≫。

『【造る法。大なる青梅を取り、鹽汁《しほじる》を以つて、之れを漬け、日には、晒《さら》し、夜には、漬け、十日にして、成る。久しくして、乃《すなはち》、霜《しも》を上《うへに》す。】』≪と≫。

△按ずるに、「烏梅」、備後の三原に出づる者、良し。山城の產、之れに次ぐ。』。『白梅《むめぼし》』、俗に云ふ、「梅脯(《むめ》ぼし)」なり。豊後の產、肥大にして、肉厚、味、美《よし》。其の肉を用ひて、瘭疽(へうそ)[やぶちゃん注:手足の指の末節の急性化膿性炎症。原因は化膿菌(主にブドウ球菌)で、強い痛みがあり、骨などにも波及し易い。]に卷きて、治す。燒き、末《まつ》として、咽喉、及び、牙齒の藥に入《いる》る。又、生梅《なまうめ》【百箇。】・黒沙糖【半斤[やぶちゃん注:三百グラム。]。】を煮て、膏《かう》と爲す【人の息切れ、及、馬《むま》の喘《あへぎ》を治す。】。

 春の夜の

  やみはあやなし

      梅の花

   色社《こそ》みえね

       香《か》やは

            かくるゝ

「鶴林玉露」に云はく、『古(いにしへ)は、實と花と≪を≫謂ひて、花の美香なるを言はず。宋朝に至りて、則《すなはち》、詩文に、之れを、詠《えい》ず。伹《ただ》し、古への梅花《ばいくわ》は、後世《こうせい》のごとくならざるや。天地の氣、變昜《へんえき》ありて、昔は、有りて、今は、之れ、無きの類《たづひ》、亦、多し。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『梅は宜しく、多く、池𨕙《ちへん》・溪逕《けいけい》[やぶちゃん注:渓谷の小道。]・壠頭《りようたう》[やぶちゃん注:畝や小高い土地の高み。]・墻⻆《しやうかく》[やぶちゃん注:垣根の角(かど)。]の、水坑《すいこう》[やぶちゃん注:「水溜まり・人工の池」。]、有る𠙚に栽《うう》るに《✕→るべし》[やぶちゃん注:返り点が不全であるが、誤記・誤刻と断じて、かく読んだ。]。則ち、實、多し。梅の樹に、桃を接げば、則ち、脆《もろ》し』。『「苦棟樹《くとうじゆ》」の上に、梅を接げば、則ち、花、開(さい)て、墨《すみ》のごとし。「墨梅《すみうめ》」と名づく』。『大なる梅≪の≫樹を移(うへか[やぶちゃん注:ママ。])ふるに、其の枝・梢を去りて、其の根の盤(まはり)を大《だい》にし、沃《そそ》ぐに、溝《みぞ》≪の≫泥を以つてせば、活(つか)ざると云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、無し。』≪と≫。[やぶちゃん注:この「古今醫統」の引用は、東洋文庫訳によって、三箇所から引用したことが判ったので、それに従って二十鍵括弧を挿入した。]

梅の花 初≪め≫て、放《はなひらく》時、之れを收《をさめ》て、陰乾にして、小兒≪の≫痘疹[やぶちゃん注:天然痘。]≪の≫、≪內に籠りて≫出でず、≪發疹の≫起きざる者を、治す。湯《ゆ》に泡(あわただ(し、之れを與《あたふ》れば、速《すみやか》に出《いで》、速に起《おこ》る。

△按ずるに、本朝、古《いにしへ》は、「花」と稱する者は、「梅」なり。中古以來、唯《ただ》、「花」と稱する者は「櫻」なり。

 「續日本紀」に云はく、『聖武帝天平十年七月、殿前の梅樹を指《さし》、諸才子に勅して曰はく、「朕、去《さる》春より、『此の樹を翫《もてあそば》ん。』と欲して、未だ、賞翫に及ばず。宜しく、各々《おのおの》、此の梅の樹を詠ずべし。」≪と≫。文人、三十人、皆、春の意《おもひ》を賦す。』≪卽ち≫、詩、有り。[やぶちゃん注:「≪卽ち≫、詩、有り」は、皆々、「詩を作った」ということを言っている(実際には原本には詩は載っていない)のだが、「賦す」とある以上、この添え辞は全くの屋上屋である。

 百濟の王仁《わに》、梅を、謂《いひ》て[やぶちゃん注:原本の送り仮名は「チ」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部に従った。]、「此の花」と稱し≪たり≫。菅神《くわんじん》[やぶちゃん注:菅原道真。]、毎《つね》に、梅を愛し、「飛梅《とびうめ》」の名を遺し玉ひ[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]、晉の起居が言《げん》に從《したがひ》て、「好文木《こうぶんぼく》」の稱、有り。因りて、橘の直幹《なをもと》が歌に、「鶯宿梅《わうしゆくばい》」の號(な)、有り。西行の歌𢴃《より》て、「求來願(とめこかし)の梅」、有り。此くのごとく、類《るゐ》、枚擧すべからず。

[やぶちゃん注:以下の割注には、送り仮名が殆んどない。記号を用いると、五月蠅いので、多くは、私の訓読でそのまま示した。]

「難波梅(なにはの《うめ》)」【中花《ちゆうくわ》[やぶちゃん注:「中くらいの花輪の大きさ」を指す。以下、同じ。]、淡白。千葉《やへ》。香《かをり》、有り。】。[やぶちゃん注:「千葉《やへ》」東洋文庫後注に、『八重のうち花辨數の多いもの。現在』、『つばきなどでは花弁数の多寡によって一重、八重、千重と分けている。』とある。

「淺香山(あさか《やま》)」【小花、淡白。八重《やへ》。最も香《かん》ばし。】。

「一入梅(《ひと》しほの《うめ》)【大花、淡白。單葉。甚だ、愛すべし。】。

「花香實梅(はなかみの《うめ》)」【中花、白。形、美≪くし≫。香《かを》り、有り。實も亦、良し。】。

「鞍馬梅(くらま《うめ》)」【大花、雪白《せつぱく》。八重。形、美≪くし≫。香り、有り。子《み》を結ぶ。】。

「㲊山白《えいざんはく》」【大花、雪白色《せつぱくしよく》。香り、有り。】。

「見歸り梅」【大花、雪白。單葉。其の葩《はなびら》、大にして、子を結ぶ。】。

「身延(みのぶ)梅」【最も大なり。單葉。白色。香り、有り。木に星≪の≫㸃、有り。故に、「星降《ほしくだり》」と名づく。】。

「冬梅《ふゆうめ》」【中花。常のごとし。實、秋、熟す。≪故に≫、「秋梅」と謂ふべきのみ。】。

「甲州梅《かうしううめ》」【小白花。其の子、最も小さし。一名、「信濃梅《しなのうめ》」。「本艸≪綱目≫」の謂ふ所の、「消梅《しやうばい》」、是れなり。】。[やぶちゃん注:「本草綱目」の「消梅」は、「漢籍リポジトリ」の、ここの、「梅」の「集解」の[073-12b]以下の二行目に、『消梅實圎鬆脆多液無滓惟可生噉不入煎造』がそれ。後の「甲州梅」で蹴りをつける!!!

「鸎宿梅《あうしゆくばい》」【中花。白。八重。赤き㸃の文《もん》、有り。香り、佳し。京の相國寺《しやうこくじ》の塔頭《たつちゆう》、林光院、初め、之れ、有≪りしが≫、今は、殘株《ざんしゆ》有る≪のみ≫。】。[やぶちゃん字注:「鸎」は「鶯」の別字。「京の相國寺の塔頭、林光院」京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派大本山萬年山相国寺の塔頭林光院(グーグル・マップ・データ)「臨済宗相国寺派」公式サイト内の「林光院の鶯宿梅」を見られたい。現在も、この梅は、代々、守られている(画像有り)。

「細川梅《ほそかはうめ》」【大花。白。單葉。赤き㸃の文、有り。】。[やぶちゃん注:「細川梅」の読みは不明。取り敢えず、訓読しておいた。]

「金梅《きんばい》」【中花。白。八重。初めて開く時、黃色。】。[やぶちゃん注:品種としては不明。但し、本邦では、梅とは全く縁のない黄色い花を咲かす、蔓性落葉低木である、双子葉植物綱シソ目モクセイ科 Jasmineae連ソケイ属 Primulina 節オウバイ(黄梅)Jasminum nudiflorum の異名であり、また、多年草のキンポウゲ目キンポウゲ科 キンバイソウ(金梅草)属キンバイソウ Trollius hondoensis の異名でもあり、更に黄色い花を持つ複数の種の和名に「~キンバイ」(「~金梅」)が、多数、あるので、極めて注意が必要。

「玉井梅(《たま》の《ゐうめ》)」【大花。白の單葉。微赤色を帶びたるごとし。香り、有り。實も亦、多く生ず。】。

「飛鳥川(あすか《がは》)」【中花。白の千葉。初め、紅色。既に開かば、白く、子を結ぶ。】。

「中妻梅(《なか》つま《うめ》)」【大花。白の千葉にして、紅を交ず。或いは、全く、紅・白、扁分《へんぶん》して[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『偏在して』とある。]、「源平桃《げんぺいもも》」のごとし。】。[やぶちゃん注:「源平桃」は桃の品種。バラ目バラ科モモ亜科スモモ属モモ品種ゲンペイモモ Prunus persica 'Genpei' で、一本の木に紅白二色や、紅白の絞りの花を咲かせる桃を指す。]

「花布梅(さらさ《うめ》)」【大花。白く、單葉。紅㸃の葩《はなびら》、五つ、或いは、八つ、九つ、有り。其の子も亦、佳し。】。

「江南梅《かうなんばい》」【大花。卵色のごとし。形、杏《あんず》の花に似て、子を結ぶ。】。

「豊後梅《ぶんごうめ》」【大花。白に淡紅色を帶ぶ。八重。其の子、最も大にして、此れ、所謂《いはゆる》、「杏梅《あんずうめ》」・「鶴頂梅《かくちやうばい》」の類《るゐ》か。】。[やぶちゃん注:「豊後梅」はウメ変種ブンゴウメ Prumus mume var. bungo 。「杏梅」及び「鶴頂梅」(この異名は、好きだな)は、孰れも、その異名であるから、良安の謂いは正しい。]

「大梅《おほうめ》」【花、「豊後梅」のごとし。其の實、更に、大なり。】。

「越中梅《えちちゆううめ》」【大花。白に淡紅を帶ぶ。千葉。實も亦、大なり。】。

「楊貴妃《やうきひ》」【花の形、「越中梅」に似て、莟《つぼみ》の時、紅。其の實、小さし。】。

「求來願(とめこかし)」【小花。形、「豊後梅」の花のごとし。】。

「箙梅(えびらの)《うめ》)」【中花。「越中梅」のごとくして、小さし。香り、有り。】。

「鎗梅《やりうめ》」【中花。白く、淡紅色を帶ぶ。香り、有り。】。

「關東紅梅《かんとうこうばい》」【大花。正紅。八重。始終、色香、佳美なり。】。

「唐紅梅(から《こうばい》)」【大花。深紅色。八重。】。

「濃紅梅(こひ《こうばい》)」【大花。深赤に、微《やや》、紫を帶び、美くし。葉も麗《うるは》し。】。

「香紅梅《かうこうばい》」【小花。紅。八重。香り、有り。子を結ぶ。】。

「㲊山紅梅《えいざんこうばい》」【大花。紅。八重。其の周緣、色、特に濃し。】。[やぶちゃん注:「㲊」は「叡」の異体字。]

「未開紅(みかいこう)」【大花。紅。八重。未だ、開かざる時、深赤。實、大にして、杏《あんず》のごとし。誓願寺の鎭守の社前に在り。】。[やぶちゃん注:「誓願寺」は京都府京都市中京区新京極通三条下ル桜之町(さくらのちょう)にある浄土宗西山深草(せいざんふかくさ)派総本山深草山誓願寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。サイト「京都もよう」の「誓願寺 京都の女人往生の寺と未開紅の梅」のページで、この梅の木が、同寺の東方にある塔頭長仙院で、代々、守られて現存していることが判った。そこに『蕾の頃は紅色であり、開花すると白い花になります』。『「新京極の七不思議の一つ」とされています』とあった。]

「行幸《ぎやうかう》」【大花。紅。千葉。微《やや》、柹色を帶ぶ。】。

「奧乃紅梅(おくの《こうばい》)」【大花。紅。八重。美くし。】。

「本立寺《ほんりゆうじ》」【大花。單葉。其れ、開くこと、稍《やや》、遲し。】。

「虎尾(《とら》の《を》)」【中花。紅。千葉にして、翹楚《ずはえ》も亦、悉く、花、有り。甚だ、繁くして、「虎の尾」に似たり。】。[やぶちゃん注:「翹楚《ずはえ》」木の枝や幹から、まっすぐに細く長く伸びた若い小枝。「すわい」「ずわい」「すわえぎ」とも読む。]

「軒端梅(のきばの《うめ》)」【中花。深赤≪なるも≫、紫のごとし。單葉。其の葩《はなびら》五つより、八つ、九つに至る。洛陽の誠心院の「和泉式部の墓」の傍らに在り。】。

「單葉冬至梅(ひとへの《とうじばい》)」【中花。單《ひとへ》。紅。冬月、開く。】。

「八重冬至梅(《やへ》の《とうじばい》)」【中花。淺紅。八重。冬、開く。】。

「座論梅(《ざろん》の《うめ》)」【中花。淺紅。千葉。其の實、朶《えだ》毎《ごと》に、四、五顆《くわ》。長ずるに隨ひて、揠《ぬ》け落ちて、坐を論《あげつら》ふがごとし。】。

「櫻梅《あうばい/さくらうめ》」【中花。淺紅。八重。其の莟、下に埀れ、櫻《さくら》のごとし。】。

「源氏紅梅《げんじこうばい》」【中花。淺紅。千葉。最も繁く、實も亦、生ず。】。

 此の外、數品《すひん》≪有るも≫、計《かぞ》≪ふるに≫勝《た》えず。

江戸の龜井戸に、名木の梅、有り。枝、地に着く處、根を生じ、方《はう》六丈余《あまり》に蕃(はびこ)る【白花。香り、甚し。】

 

[やぶちゃん注:「梅(梅)」は、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

である。ウィキの「ウメ」から引く(注記号はカットした。一部の項目を省略してある)。『果実を利用する品種は「実梅」として扱われ、未熟なものは有毒であるものの、梅干などに加工して食用とされる。樹木全体と花は鑑賞の対象にもなり(花梅)、日本には花見や梅まつりが開かれる梅林や梅園が各地にある(月ヶ瀬梅林、偕楽園、吉野梅郷など)。枝や樹皮は染色にも使われる』。『日本では』六月六日『が「梅の日」とされている。天文』十四年四月十七日(旧暦:一五四五年六月六日)に『賀茂神社の例祭に梅が献上された故事に由来する』。『中国中部原産の落葉広葉樹の小高木から高木。古くから栽培され、野生化もしている。日本でもよく知られる果樹や花木で、多数の園芸品種がある。樹皮は紫褐色で縦に不規則に割れ、小枝の先はとげ状になることもある。一年枝は、緑色でほぼ無毛であるが、白い細かな点がある。老木の樹皮にはウメノキゴケ』(菌界子嚢菌門チャシブゴケ(茶渋苔)菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科ウメノキゴケ属ウメノキゴケParmotrema tinctorum )『などの地衣類が』、『よく』、『つく。冬芽は互生し、花芽と葉芽がはっきりしている。花芽は赤褐色の広卵形で』、十一~十四『枚の芽鱗に覆われ』、一『か所に』二、三『個つく。葉芽は濃褐色の円錐形でごく小さく、多数の芽鱗で覆われ、枝先には仮頂芽がつく。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『早春、葉に先だって前年枝の葉腋に』一~三『個の花がつく。毎年』一~三月頃に、五『枚の花弁のある』一『センチメートルから』三『センチメートルほどの花を葉に先立って咲かせる。花の色は白、淡紅、紅色など。花柄は短い。葉は互生で先が尖った卵形で、周囲が鋸歯状』。『果実は』六~七『月頃に結実し、形は丸く、片側に浅い溝があり、細かい毛が密生する。果実の中には硬い核が』一『個あり、中果皮で、表面にくぼみが多い。未熟果に青酸を含むため、生で食べると』、『中毒を起こすと言われている』。『青ウメの果実は燻製にして漢方で烏梅(うばい)と称して薬用されるほか、民間で梅肉エキス、梅干し、梅酒に果実を用いる。可食部である果肉部分は、子房の壁が膨らんだもので、構成する細胞の遺伝子は母となる雌由来である。中にある種子は、半分は花粉由来なので、種子から発芽した株は母株と同じ性質になるとは限らない。しかし、果肉については母由来のため、雄親である花粉が様々異なっても、同じものができる』。『ウメは花・香り・樹形が観賞の対象とされるほか、果実が食用にされる。また、ウメの花の萼(がく)を梅干しの梅肉とともに漬けたものに梅花漬』(ばいこうづけ)『がある』。『日本では全国各地で栽培されている。あまり土質を選ばない性質で、刈り込みにも強く、樹形の仕立てが容易である。栽培品種の数は』三百『あまりといわれ、自家結実する品種と自家結実しない品種がある。ウメは自家不和合性が強いため、果実を目的とした栽培では』、一『品種だけの栽培を避けて、花粉親として少しだけ性質が異なる異品種を混植して栽培を行う。ウメの果実を植えて』、『育てても』、『なかなか』、『開花しないため、もっぱら』、『挿し木』或いは『接ぎ木による苗作りが必要となる』。『和名ウメは、中国から伝来した薬用の』「烏梅(ウバイ・ウメイ)」(現行の中国語では「wūméi」(ウーメェィ))『が語源とされており、中国語の梅(マイ、ムイ、メイ)が日本的に発音してウメになったとされる』。『方言に「ウンメ(鹿児島)、ンメ(鹿児島・熊本・高知・秋田・東京)」がある』。種小名“ mume ”は『江戸時代の日本語の発音を由来とする』であり、英語では “Japanese apricot”『(日本の杏)と呼ばれる。ただし、梅の花は英語でplumと呼ばれることが多い。梅干し(pickleplum)などの場合も「plum」』(ネィテイヴの音写は「プラム」ではなく、「プラァンマー」に近い)『というのが一般的である』。『原産地は中国で、日本には』千五百『年程前に遣唐使により持ち込まれたとされる。また、当初は薬木として紹介されたと考えられている。九州に』、『元々』、『自生していたという説もあるが、現在各地で栽培されている梅は、中国からの移入種である。日本では奈良時代から庭木として親しまれ、果実の栽培も江戸時代から行われていた』。『梅には』五百『種以上の品種があるといわれている。近縁のアンズ、スモモと複雑に交雑しているため、主に花梅について』、『園芸上は諸説の分類がある。実梅も同じ種であるので同様に分類できる。梅は、野梅系、緋梅(紅梅)系、豊後系に大きく』三『系統に分類できる』。『果実は』、二『センチメートルから』三『センチメートルのほぼ球形の核果で、実の片側に浅い溝がある。旬の時期は』六月頃『で、黄色く熟す。七十二候の芒種』(旧暦四月後半から五月前半)。の『末候』(旧暦六月十六日から六月二十日まで)『には「梅子黄」(梅の実が黄ばんで熟す)』(訓じて「うみのきなり」と呼ぶ。『特定の地域のみで栽培される地方品種が多く、国内どこでも入手可能な品種は比較的限定される。また、品種によっては花粉が無かったり』、『自家受粉しなかったりする品種もあり、その場合は開花時期が重なるように授粉用の品種も必要となる』。『未熟な青梅は中毒を起こす可能性がある物質が含まれているので生食してはいけない』(具体的な毒性に就いては、後に出るが、私の母や、連れ合いの親族の兄弟の一人が、「子どもの時に靑梅を食べて死んだ」と言っていたし、私の知人の何人もが、同じことで親族が亡くなったと「聴いた」と言っていた。しかし、私は、甚だ、これに疑問に思っている。事実、ネットを調べると、実際に靑梅を食べて亡くなったという具体的な事実記載を見出すことが出来ないからである。QAの回答にも、戦時中の食糧不足の頃に青梅を食って亡くなったのだと述べつつも、例えば、ここでは、『青梅に毒性があるのは、常識であり』、『青柿も同様ですし、プラムやアンズの種にも毒がありますが、健康な大人なら』、一『個くらい食べてもなんでもありません。子供でも、何個か食べてもお腹が痛くなる程度です』とあるのである。私は、中学時分の頃から、この言い方は、何らかの問題にされなくない事故や、差別された疾患等による幼年の死亡であったものを、憚って、「靑梅を食べて死んだ」と言い換えて隠蔽したのが、真相であると考えている)『熟した果実をそのまま食べることもあるが、普通は熟し切っていない青梅を梅酒に、完熟梅を梅干しなどに加工して食用にする。他に、梅酢、梅醤やジャムなどにして食用とする場合もある。また甘露梅や』、『のし梅などの菓子や、梅肉煮などの料理にも用いられる。強い酸味が特徴であり、リンゴ酸やクエン酸、コハク酸などの有機酸を多く含むので健康食品としても販売されている。果実から種を取り出すための専用器具も販売されている。果実の中心にあり、果肉を食べた後に残る種核は、後述する菅原道真信仰との関連で「天神様」と呼ばれる。これは硬いが、食用にでき、梅茶漬けにアクセントとして添えるといった利用法がある』。食用品の『青梅』は、『約』六『時間水につけて灰汁抜きしてから、梅酒や梅シロップなどの加工品に使う。品種は、白加賀、豊後などが向』。『黄梅』(連れ合い曰はく、「おうばい」)は、『完熟した実が黄梅で、梅干しや黄梅ジャムに加工する。品種は、南高梅などが向く』。『小梅』(こうめ)『直径が』二~三『センチメートルと小粒で、カリカリ漬けなどに加工する。品種は甲州最小などが使われる』。『中国では紀元前から酸味料として用いられており、塩とともに最古の調味料だとされている。日本語でも使われるよい味加減や調整を意味する単語「塩梅(あんばい)」とは、元々はウメと塩による味付けがうまくいったことを示した言葉である。また、話梅(広東語:ワームイ)と呼ばれる干して甘味を付けた梅が菓子として売られている』。『加工製品は、カリカリ梅、メシル茶、梅花茶、煮茶梅(凍頂茶梅)、梅粉、メシルチョン、梅酒、酸梅湯、プラムソースがある』。『薬用部位として』は、五~六月頃『の未成熟果実(青梅)を利用する。未成熟果を燻製にした烏梅(うばい)、未成熟果をすりおろした汁から抽出した梅肉エキス、また梅酒や梅干しをそのまま利用してもよいとされる』。『漢方薬の「烏梅(うばい)」は、未熟果(青梅)の皮を剥ぎ、種子を取り去り、藁や草を燃やす煙で真っ黒に燻したウメの実である。健胃、整腸、消炎、細菌性腸炎、腸内異常発酵、駆虫、止血、強心作用があるとされるほか、「グラム陽性菌、グラム陰性の腸内細菌、各種真菌に対し試験管内で顕著な抑制効果あり」との報告がある。民間療法で、風邪のときに烏梅』一、二『個を水』二百~四百『ccで半量になるまで煎じて飲む用法が知られている。家庭では、烏梅の代わりに梅干しをアルミ箔に包んでフライパンで蒸し焼き(黒焼き)にしたものを用いて、風邪の初期症状のときに茶碗に黒焼きを入れて熱湯を注ぎ、崩して飲んでもよいといわれている』。『梅肉エキスは、目の細かいおろし器で青梅をおろし、途中で水をかけながら布で梅肉の汁を搾って、調理用のホーロー製のバットや鍋などに薄く汁を入れて、日光または極弱いとろ火で煮詰めて水分を蒸発させて飴状にしたもので、これを採取して瓶に蓄える。色は真っ黒で粘りがあり、味はかなり酸っぱい。下痢、腹痛、食あたりのときに、大豆粒くらいの梅エキスを薄めて飲んだり、また扁桃炎のときに梅エキスを』十~二十『%に薄めてうがいするとよいと言われている』。『咳には梅酒をガーゼに浸して胸に湿布したり、頭痛のときに梅干しの果肉をこめかみに貼ったりするといった民間療法がある。手足にトゲが刺さったときに、梅干しの皮をすり潰して、患部に厚め塗って固定しておくと自然に抜けるという』。『サッポロ飲料株式会社と近畿大学生物理工学部、和歌山県工業技術センターのマウスを用いた共同研究で、梅の果実成分による疲労軽減効果が報告されている』。六ヶ『月の梅酒飲用で、HDLコレステロールが有意に増加し、動脈硬化指数が有意に低下し、血圧が低下傾向となり、血糖値は変化が認められなかった、との報告がある。ただし』、『こちらは研究の前に行われる予備的な調査であり、チョーヤ梅酒株式会社から梅酒の提供を受けて行われている』。『国立健康・栄養研究所は、ウメの人を対象にした信頼性の高い研究で、健康に対する効果は確認されていないとしている。また成分のクエン酸に関しても、現時点では「疲労回復によい」などの十分な根拠は得られていないとする』。『食薬区分においては、果肉や未成熟の実は「医薬品的効能効果を標ぼうしない限り医薬品と判断しない成分本質(原材料)」(非医薬品)にあたり、医薬品的な効能効果を表示することができない。ただし』、『果実のように『明らか食品(医薬品に該当しないことが明らかに認識される食品)』であれば薬機法(旧薬事法)には違反しない。しかし』、『「癌が治る」「血糖値が下がる」「血液を浄化する」といった誇大な医薬品的効果効能表示(店頭や説明会における口頭での説明も含む)を行うと、景品表示法や健康増進法の規制の対象となる』。『梅やクエン酸を関与成分とした特定保健用食品(トクホ)は存在しないが、クエン酸を機能性関与成分とした梅の加工食品が、機能性表示食品として届けられている。機能性表示食品とは、国が審査は行わず、事業者が自らの責任において機能性の表示を行うもので、「日常生活における軽い運動後の一時的な疲労感を軽減することが報告されています」と表示している』。以下、「安全性」の項。『ウメ、アンズ、モモ、スモモ、アーモンド、ビワなどのバラ科サクラ属植物の種子(種皮の内部にある胚と胚乳からなる仁)には、種を守るために青酸配糖体であるアミグダリン』(amygdalin:C20H27NO11)『が多く含まれ、未熟な果実や葉、樹皮にも微量含まれる』。『アミグダリン自体は無毒であるが、経口摂取する事で、同じく植物中に含まれる酵素エムルシンや、ヒトの腸内細菌が持つ酵素β-グルコシダーゼによって体内で分解され、シアン化水素(青酸)を発生させる。シアン化水素はごく少量であれば安全に分解されるが、ある程度摂取すれば』、『嘔吐、顔面紅潮、下痢、頭痛等の中毒症状を生じ、多量に摂取すれば意識混濁、昏睡などを生じ、死に至ることもある。ただし』、『シアン化水素(青酸)の致死量は』五十~六十ミリグラム『程度であり、青梅(未熟な梅の実)』一『粒から生じる青酸量は』〇・一五ミリグラム『程度なため、青梅』百~三百『個を』一『度に摂取しない限り』、『致死量には達しない。しかし』、『中毒を引き起こす可能性があるため』、『生食は避ける。また、種子のアミグダリンは果肉に比べて高濃度である』。『熟した果肉や加工品を通常量摂取する場合には、安全に食べることができる。アミグダリンは果実の成熟に従い、植物中に含まれる酵素エムルシンによりシアン化水素(青酸)、ベンズアルデヒド』(benzaldehydeC7H6O)『(アーモンドや杏仁、ビワ酒に共通する芳香成分)、グルコースに分解されて消失する。この時に発生する青酸も揮散や分解で消失していく。 また、梅干しや梅酒などの加工によっても分解が促進される』。『しかし、種子のアミグダリンは果肉に比べて高濃度であるため、成熟や加工によるアミグダリンの分解も果肉より時間がかかる。種子がアミグダリンをもつのは自分自身を守るためにあると考えられ、外的ショックを受けてキズが入った種子には』千~二千『ppmという高濃度のシアン化水素を含むものもある。生の種子を粉末にした食品の中には、小さじ』一『杯程度の摂取量で安全に食べられるシアン化水素の量を超えるものある』。二〇一七『年に高濃度のシアン化合物(アミグダリンやプルナシン)が含まれたビワの種子の粉末が発見されたことにより、厚生労働省は天然にシアン化合物を含有する食品と加工品について』、十『ppmを超えたものは食品衛生法第』六『条の違反とすることを通知した。欧州食品安全機関(EFSA)は、アミグダリンの急性参照用量(ARfD)(毎日摂取しても健康に悪影響を示さない量)を』二十『μg/kg体重と設定している。 アミグダリンの最小致死量は』五十『mg/kgであり』三グラム『のサプリメント摂取による死亡報告がある』。二〇一八『年に国民生活センターは、ウメを原材料とした』四『銘柄の国産ウメエキスのシアン化合物濃度を測定した。シアン化合物は』六・五~十八『ppm検出され』三『銘柄で』十『ppmを超えていた』。一『日量に換算すると健康に影響する量ではないものの、結果を受け国民生活センターは、事業者へは品質管理の徹底を、行政機関には指導の徹底を要望した。また消費者には、ウメの種子などを原材料にした健康食品等は、利用する必要性をよく考え、利用する場合は、製造者等により』、『原材料や製品、摂取する状態でのシアン化合物の濃度が調べられているかを確認し』、一『度に多量に摂取しないようアドバイスをしている』。『これらとは別に、花粉症と食物アレルギーの発生が、複数』、『報告されている』。以下、「日本における作付けと収穫」の項。『農林水産省大臣官房統計部』二〇二二年『によると、全国の結果樹面積は』一万三千五百ヘクタール、『収穫量は』九万六千六百トン、『出荷量は』八万六千四百トン『である。都道府県別の収穫量割合では、和歌山県が全国の約』七『割を占めている』。『品種別にみると』、品種「南高」『が』五『割以上を占めている』。『日本国内の主な産地は、和歌山県、群馬県、山梨県、長野県などで、地方の品種も多く見られる。和歌山県で国内総収穫量の』六『割以上を占める寡占状態が続いているが、ウメの産地は全国に分布している。作況調査(』二〇一四『年版)では』、十四『県が年間生産量が』千『トン以上、また北海道と沖縄県以外は全都府県とも』百『トン以上となっている』。以下、「病害虫」の項。●『黒星病』(くろほしびょう):『果実に黒い斑点ができ、外観を著しく損なう。糸状菌(カビ)の一種による病害だが、人体に害はないので発病果を食べても問題はない。南高等の非耐病性品種の無農薬栽培ではほぼ確実に発病する。織姫や古城等の一部品種は耐病性を有する』。●『すす』(煤)『斑病』:『果実全面に黒い煤汚れのような病斑ができ、外観を著しく損なう。糸状菌(カビ)の一種による病害だが、人体に害はないので発病果を食べても問題はない。多雨年に多発する。次亜塩素酸ナトリウム水溶液に漬けると病斑が消えるので、梅干し産地では塩漬け前に次亜塩素酸ナトリウムによる消毒処理を行うのが主流となっている』。●『かいよう(潰瘍)病』:『果実にえぐれたような病斑や赤紫色の水侵状の病斑ができ、外観を著しく損なう。風当たりの強い場所で多発する。細菌性』(原因菌(“pv.”は「病原型」(pathogen)の略号):真正細菌ドメインプロテオバクテリア門Proteobacteriaγプロテオバクテリア綱Beta Proteobacteriaキサントモナス目Xanthomonadalesキサントモナス科キサントモナス属anthomonas campestris pv. citri )『の病害であり、農薬が効きづらい難防除病害である』(よく見かける)。●『灰星病(枝枯れ病)』:『開花時期に花が腐り落ち、その花芽より先の枝が枯れる。多発すると、花芽のない徒長枝の基部以外のほぼ全ての』二『年枝が枯れる。小梅や十郎で被害が多く、南高や白加賀ではあまり発生しない』(原因菌は菌界チャワンタケ亜門ズキンタケ綱ズキンタケ亜綱HelotialesSclerotiniaceaeMoniliniaMonilinia sp.)。●『プラムポックスウイルス』(第四群(一本鎖RNA +鎖)ポティウイルス科Potyviridaeポティウイルス属プラムポックスウイルスPlum pox virus ):二〇〇九『年に東京都青梅市のウメがプラムポックスウイルスという植物ウイルスに感染していることが判明した。人体に害はないが、梅の葉や果実に斑紋などの症状が出て商品価値がなくなってしまい、さらに治療法が存在しないため、感染したウメの木は焼却処分にする他に手だてがない。プラムポックスウイルスに感染した梅の盆栽が関東地方から出荷されており』、二〇一〇『年に滋賀県長浜市で発見され焼却処分されている。ウメ以外にモモ、スモモ、アンズ、アーモンドなどのバラ科の果樹にも感染するとされており、十分な注意が必要である。アブラムシや接ぎ木によって伝染する』。『コスカシバ』(小透翅:昆虫綱長節上目或いは長翅上目鱗翅目有吻亜目異脈下目スカシバガ(透翅)上科スカシバガ科)『幼虫が木の内部を食い荒らし、樹勢が低下する。多発すると木が枯れることもある。食害部からは木くずや虫糞を出す。産地ではフェロモン剤による対策が行われている』。●『クビアカツヤカミキリ』(首赤艶天牛:甲虫目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ハムシ上科カミキリムシ科カミキリ亜科 Callichromatini 族ジャコウカミキリ(麝香天牛)属クビアカツヤカミキリ Aromia bungii ):『幼虫が木の内部を食い荒らし、樹勢が低下する。多発すると木が枯れることもある』。二〇一二『年に初めて日本に侵入し、地球温暖化の影響により年々生息域が拡大しつつある』二〇一八『年に特定外来生物に指定された』。●『アブラムシ』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea):『新梢を吸汁し、葉っぱが縮れて枯れる。上述のプラムポックスウイルス等のウイルス病の媒介源でもある』。●『ヤニ果(樹脂症果)』:『果実からゼリー状の樹脂のようなもの(ヤニ)を吹き出す生理障害。果実表面に出る外ヤニと果実内部に出る内ヤニがある。梅酒にする場合は問題ないが、梅干しにするとその部分がシコリになり食味を損なうため、発生が多い品種は梅干し加工に不適とされる。ホウ素欠乏や乾燥等の要因によって発生が増える。品種によって発生率に大きな差があり、月世界や鶯宿では極めて多く、南高や甲州最小では少ない。白加賀や古城や翠香は中程度』。以下、「主な品種」で、冒頭で、『ウメの品種改良は進んでおり、数多くの品種がある。果実をとるもののほか、花を観賞する目的のためのものなど多数ある』として、「大梅・中梅」で二十五品種、「小梅」で七品種、「花梅」で十三品種を挙げ、更に「スモモウメ」に種間雑種を四種を示す。以上は近代の品種が多いので、本文の品種名の考証の参考にはするが、煩瑣なので掲げない。以下、「染色への利用」の項。『枝や樹皮、樹皮に付くウメノキゴケ』(菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科ウメノキゴケ属ウメノキゴケ Parmotrema tinctorum )『は、煮出すなどして布を染めるのに使われる。この梅染の起源は飛鳥時代に遡ると考えられ、加賀友禅の源流になった。月ヶ瀬梅林』(ここ。グーグル・マップ・データ)『がある奈良市月ヶ瀬地区では、烏梅と紅花を組み合わせた染色が行われている』。以下、「日本における梅の文化」。『別名に好文木(こうぶんぼく)』(本文に出る。晋の武帝が、学問に親しむと、花が開き、怠ると、開かなかったという故事に基づく)、『春告草(はるつげぐさ)、木の花(このはな)、初名草(はつなぐさ)、香散見草(かざみぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)、匂草(においぐさ)などがある』。『花を扱う歌は以下である。そしてウメは古里(ふるさと=奈良平城京)の静かな美しさと文化的郷愁の花となり、和歌や能に取り上げられることになる』。天平二年一月十三日(グレゴリオ暦換算七三〇年二月八日)、『大宰帥・大伴旅人の邸宅(現在の福岡県太宰府市・坂本八幡宮辺りとの説がある』『)で開かれた宴会で、いわゆる筑紫歌壇の員により梅花を題材に』三十二『首の歌が詠まれた。この宴会を「梅花の宴」と呼び』、この全歌は、総て、「万葉集」『巻五に収録されている』。また、これの序文『を基に、元号』「令和」『が制定されている』。天文一四年四月十七日(グレゴリオ暦換算一五四五年六月六日、『後奈良天皇が、京都の賀茂神社に梅を奉納したと』「御湯殿上日記」(おゆどののうえのにっき:御所に仕えた女官達(内侍司の典侍・内侍等)によって書き継がれた当番制の日記)『にあることに因み、「紀州梅の会」が新暦の』六月六日『を』「梅の日」『に定めている。また、古来より梅の名所として「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と唄われた岡本梅林(兵庫県神戸市東灘区岡本)は、起源は明確ではないが』、『山本梅崖の』「岡本梅林記」に『羽柴秀吉の来訪が記されており』、寛政一〇(一七九八)年には「攝津名所圖會」に『岡本梅林の図が登場するほどの名所であった』。『平安時代の政治家・碩学であった菅原道真は梅をこよなく愛した。道真は死後に天満大自在天神(天神)として神格化され、梅はそのシンボルとみなされて、飛梅伝説』『などを生んだ。このほか、江戸時代の禅僧で禅画を多く描いた白隠の代表作の一つ』「渡唐天神圖」には、

 唐衣(からころも)おらで北野の神ぞとは

  そでに持ちたる梅にても知れ

『(意訳:これが天衣無縫の唐衣を着た北野天満宮の神であることを、彼が袖に持っている梅によっても知りなさい)の賛が残されている(古くは』「菅神入宋授衣記」に』『ほぼ同様の和歌が記載されている)。ところで日本では申年はウメが不作になることが多いと言われてきた。この申年のウメを使って』、『平安時代の村上天皇は疫病を退けたとの言い伝えがあることから、申年の梅は縁起がよいとも言われる』。以下、「梅にまつわる言葉」の項。

「櫻伐(き)る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿。」『春先に咲く代表的な花である桜と梅のふたつを対比しつつ、栽培上の注意を示したもの。桜はむやみに伐ると』、『切り口から腐敗しがちであり、剪定には注意が必要。一方、梅の樹は剪定に強く、むしろかなり切り詰めないと徒枝が伸びて樹形が雑然となって台無しになるばかりでなく、実の付き方も悪くなる。花芽は年々枝先へと移動する結果、実が付く枝は通常数年で枯れ込んでしまう。実の収穫を目的とするのであれば、定期的に枝の更新を図る必要があるからである』。

 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花

  主(あるじ)なしとて春な忘れそ

『菅原道真が大宰府に左遷される時、道真の愛した庭の梅の花に別れを惜しんで詠んだ歌。道真の愛した紅梅殿の梅の小枝が空高く飛び、道真を追って大宰府に根付いた、という「飛梅伝説」がある』。

「桃栗三年、柹八年、柚の馬鹿野郞十八年、梅はすいすい十六年。」『種を植えてから実を収穫できるまでの期間を指す俚謡。本来は』「桃栗三年柹八年」で、『一つの諺』であり、『「物事は簡単にうまくいくものではなく、一人前になるには地道な努力と忍耐が必要だ」という教訓である』。

「梅の木學問」「広辞苑」『では「梅の木が成長は速いが大木にならないように、進み方は速いが学問を大成させないままで終わること」である。反対は「楠学問」で「クスノキが成長は遅いが大木になるように、進み方はゆっくりであるが学問を大成させること」』を喩える。

「梅と櫻」『美しい物が並んでいること』。似たものに、「梅に鶯」があり、こちらは、『とりあわせの良いこと』を言う。

「梅の木分限」『実を付けるのが早いが』、『大木がないことから、なりあがりのこと。反対は「楠分限」』。

「梅は食ふとも核(さね)食ふな、中に天神、寢てござる」『生梅の核に毒のあること。天神=道真なので、「祟りに遭って死ぬ」ことに掛けた言い回し』。

「鹽梅」(あんばい/えんばい)』『料理の味加減から、ものごとのかげん』を諭す語でもある。『この他、ウメとは直接関係ないが、音が「埋め」と同じであるために、田を埋めた場所である埋め田を「梅田」という漢字に変えるといったことが行われてきた』。以下、「日本以外における梅の文化」に、一一九四『年に、文化人の張功甫が著した』「梅品」『にて具体的な鑑賞法が書かれているように、中国では古来から愛されてきた花である。また』、一九八七『年に行われた中国伝統十大名花選挙』で、梅は第一『位となっている』。また、古くから、「春蘭花・夏荷花・秋菊花・冬梅花」の四『種を四君子(花中四君子)と呼び、芸術のモチーフとした。また、歳寒三友という冬の松・竹・梅を用いた芸術のモチーフにも使われる』とある。

「烏梅《うばい》」これは、梅の木ではなく、梅の実を加工した漢方生薬名である。ウィキの「烏梅」によれば、『漢方薬』『酸梅湯の原料、あるいはベニバナ染めの媒染剤・発色剤として使われる。生薬としての烏梅は主に中華人民共和国で作られて世界中に流通している。日本産の烏梅は、化学染料・薬剤を使わない日本の伝統的ベニバナ染めに使われる』。以下、「月ヶ瀬の烏梅製造の歴史」の項。「元弘の乱」(元徳三年四月二十九日(グレゴリオ暦換算一三三一年六月八日:元徳三年八月九日、後醍醐天皇(大覚寺統)により「元弘」に改元)から元弘三年六月五日(同前一三三三年七月二十五日)『にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱』。但し、元弘三/正慶二(一三三三)年の五~六月中の、『どの出来事をもって終期とするかは諸説ある』『)の際、笠置から後醍醐天皇が落ち延び、女官の一部が奈良県月ヶ瀬方面にも逃げたという。その』一『人』、『園生姫(そのうひめ・姫若:ひめわか又は姫宮:ひめみや)が滞留し、世話になった礼として烏梅の製法を教えたという。また』、後の『加賀藩主前田利家』『が』、『浪々の折り、この地を訪れて、天神神社(月ヶ瀬)境内に多くの梅の実が落ちている様を見て烏梅を作り、京都に送ったのが始まりとも言う』。『京都の染物屋に卸された烏梅は同重量の米よりも高価に取引され、田畑の少ない山間地において重要な収入源となった。その為、急峻な山の斜面すら切り開いて梅の木を植え、月ヶ瀬の渓谷を数万本の梅樹で埋め尽くしたという。これが月ヶ瀬梅渓の始まった原因である』。『収入源となっていた烏梅生産は、明治以降、安価な化学染料が輸入されるに及び、需要は激減して急速に衰退していった。作物の転換を余儀なくされ、梅の木を切り、桑や茶を植えるようになると、烏梅製造はほとんど絶えていった』。『第二次世界大戦前には、それでも数件あった烏梅製造も、戦後は』一『軒のみとなって現在に至る』。『現存する烏梅製造は日本唯一、奈良県奈良市月ヶ瀬でのみ確認されている。月ヶ瀬の烏梅製造は』七百『年以上の歴史があり、現在は国選定文化財保存技術者』『として、中西喜祥は「烏梅製造」としては初めて』『認定された。子の中西喜久も文部科学省から』二〇一一年『に認定を受けた』。但し、『日本国の奈良県月ヶ瀬に残る烏梅製造は、古代中国から伝わった製法を独自に進化させたもので、漢方薬の烏梅の製法とは異なる』。以下、「月ヶ瀬の烏梅と漢方薬の烏梅の違い」の項となるが、カットするので、リンク先を見られたい。

「布須倍牟女《ふすべむめ》」「烏梅」に同じ。梅の実の核を取り去り、しばらく火にあぶって、肉を黒くふすべたもの。薬用として咽喉の炎症の治療に用いる。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷二十九」の「果之一」の「五果類」の「梅」([073-12a]以下)のパッチワークである。

「杏《あんず》」サクラ属アンズ節 Armeniaca アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu 。前項「杏」を参照されたい。

「『江梅《かうばい》』【倭に云ふ、「野梅《のうめ》」。其の花、單葉《ひとへ》は、小≪さく≫白し。】『は、野生の者にて、栽接(《きり》つ)ぐことを經ず。花、小《ちさく》して、香《かんば》しく、子《み》、小にして、硬し』流石は、本家本元、「百度百科」の「江梅」に、学名を園芸品種 Prunus mume 'Jiang Mei' とし、『「野梅」、則ち、野生の梅の一種で、古くは山や川沿いの寒くて寂しい場所によく生えていた。今は、庭に移植されて栽培されている。江梅の開花時期は早生から遅生まであるが、比較的、早咲きの品種が多い。一部の江梅品種は、花弁が小さく、花糸』(かし:雄蕊の 葯を支える糸状の柄)『が長く、長い鬚様にある美しい花の形を成す。江梅は果実の梅と区別されているため、多くの江梅品種は現在でも、結実する習性を残していて、観賞用と食用の両方の価値を持つ梅となっている。います。宋代の范成大の「梅譜」には、『江梅、遺核野生、不經栽接者、又名直脚梅、或謂之野梅。凡山間水濱荒寒淸絕之趣、皆此本也。花稍小而疎瘦有韵、香最淸,實小而硬。』とある。

「綠萼梅《りよくがくばい》」同じく「百度百科」の「绿萼梅」に、学名を品種 Prunus mume f. viridicalyx とし、『樹皮は灰紫色で、若い枝は濃い緑色で、場合によっては、僅かに紫色を呈する。単葉は互生し、葉は広楕円形から倒卵形で、先端は長く尖り、基部は円形、又は。楔(くさび)形で、端には小さな鋭い鋸歯がある。花は白色で、花柄は非常に短く、萼は五枚、倒卵形、雌蘂は一本。花柱の上部は二裂しており、その殆んどは結実しない。中国全土で栽培されており、南部では露地で、北部では鉢植えで栽培される。灌木林・溝の脇・田畑の辺縁に植生する。花は白く、芳香があり、観賞価値が高く、景観にとっても重要な樹種である。この花は、薬として使用され、味は苦く、僅かに甘く、肝と胃を落ち着かせる効果があり、主に、胸肋部の腫れを伴う痛み・消化不良・神経衰弱に処方される』とある。

「重葉梅《じふやうばい》は、花・葉、重疊《じふじやう》≪して≫、實を結ぶに、《實は》雙《ふたつ》≪の者(もの)≫、多し。」しばしばお世話になる個人のサイト「GKZ植物事典」の「ヤツブサウメ(八房梅)」によれば、和名は後に出る「ザロンバイ」で、学名を変種Prunus mume var. pleiocarpa とする。「別名・異名」には、『ヤツウメ(八梅)』・『ミザロン(実座論)』・『ヒンジバイ(品字梅)』・『スズナリ(鈴生り)』とあって、『和名は、本種の花が枝に対になって開花する様子を、中国の賢人(孔子とその弟子)が座論しているに見立てものと言われている。故牧野富太郎博士は、本種の場合、1箇所に実が集まって結実し、熟す前に落果する様子を、座諭(数人が集まって議諭を闘わせ、論に負けた者から座を外す)にたとえたものとしている。(他にも諸説あり)』とあり、『属名は小アジアのアルメニアの」の意』で、『変種名は「たくさんの果実がある」の意』とある。「解説」の項には、『樹高は最大では4m程度に。ウメの分類の中では野梅性八重咲き板に分類される。葉は広卵形で、縁部には鋸歯があり、先端部は尾状に尖り、枝に互生する。2~3月頃、葉の展開前に紅色で八重咲きの花をつける。花後には、花托上に3~5個の核果をつける。この果実は完熟する前に、互いが人きく生長するにつれ、お互いに押し合い、1個ずつ落下して行くことから「座論梅」と命名されたと言われている。また、実の付き方からは「品字梅」とも呼ばれている。』とあった。

「消梅《しやうばい》は、實、圓《まろ》く、鬆《やはら》≪かにして≫、脆《もろ》≪く≫、液《しる》、多く、滓(かす)、無し。惟《ただ》、生にて噉《くらふ》べし。煎造《いりづくり》≪には≫入れず。」日中辞典では「小梅」の別名とする。「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「こうめ(小梅)」に、学名を変種コウメPrunus mume var. microcarpa とし、異名和名を『シナノウメ(信濃梅)』とある。

「紅梅《こうばい》は、花の色、杏のごとし」これは、紅梅系の品種群の総称。但し、アンズの花の色は、莟の間は、鮮やかなピンク色をしているが、徐々に、薄く、白くなってゆくので、「紅」というニュアンスとは、莟ならまだしも、普通に開花しているそれとは、イメージ的にはかなり異なる。

「鴛鴦梅《ゑんあうばい》は、卽ち、葉、多≪き≫、紅梅《こうばい》なり」和名は「エンオウ」で、学名は品種 Prunus mume 'Enou' 。「日本国語大辞典」によれば、『ウメの園芸品種。花は重弁、濃紅色で、花弁の縁は淡紅色。実が二個ずつ集まって付く。盆栽および庭木として観賞されるが、果実は食用にされない』とある。

「杏梅《きやうばい》」「【今、云ふ、「豊後梅《ぶんごうめ》」か。】」「は、花≪の≫色、淡《あはき》紅。實、扁《ひらた》くして、斑《はん》≪有り≫。味、全く、杏に似たり」生成AI による概要によれば、学名は変種 Prunus mume var. bungo で、和名は、後に良安が掲げる「ブンゴウメ」(豊後梅)であるから、良安の割注は正しい。『梅と杏や山杏などが天然に雑交した種と考えられてい』るとし、『主な特徴』については、『枝葉は梅や杏の中間で、干枝は褐色、小枝は正面が紫紅色、背面が緑色で』、『葉は革質』に近く、『深緑色、卵形で尾尖、葉縁に部分的に重鋸歯があ』るとあり、『花は単瓣で白色で、花期は一月』、『果実は、円形または略長円形で、縫合線は深く、頂端は少し歪斜して』おり、『熟すると』、『黄緑色になり、果肉は黄色で』肌理が細かい『多汁で』、『果肉には杏の芳香味があり』、生『食のほか』、乾燥物、『果醬・果汁・罐詰などに加工され』るとある。恐らく、AIが元としたものと推定される「百度百科」の「杏梅」には(太字は後注と関係があるので私が附した)、『梅と杏、又は、タイプ種のアンズとの自然交雑種で、枝と葉が、梅と杏の中間にあるように見受けられる。乾いた枝は茶色で、小枝の表側は赤紫、裏側は緑色で、枝には棘(とげ)が殆んどない。葉は、ほぼ革質様で、濃い緑色の卵形を成し、先が尖り、葉の縁には部分的に鋸歯があり、葉の基部は、ほぼ、ハート形、又は、ほぼ切れた形を成し、毛は少なく、葉は大きめ。花は一重、白色。果実は、円形、又は、僅かに長方形で、深い縫合があり、上部が僅かに歪んでおり、熟すと、黄緑色となる。開花期は一月、果実の熟期は六月上旬から中旬から八月まで』。『中国の殆んどの地域に分布しており、殆んどが、雲南省と四川省で半野生化している。溝や畑の畦などに生える。生育力が旺盛で、耐寒性も強い』。『殆んどの本種の開花期は、中咲き品種と、遅咲き品種の間に当たり、梅園に植えると、中咲き品種と遅咲き品種の間を繋ぐ役割を果たす。されば、観賞価値が高く、花径も大きく、色も鮮やかで、開花期も長いため、春の花を観賞する樹としては重要な樹種である。果肉は黄色で、繊細にして潤いがあり、芳香と強い杏の風味があり、主に生鮮食品として使用され、ジャム・ジュース・缶詰などに加工される。果肉百グラムには抗がん物質が百七十・八七ミリグラム含まれて』いるとある。

「鶴頂梅《かくちやうばい》」ブンゴウメの異名。私は割注で、別名「金剛拳」に対し、『不審。この名は「本草綱目」では「杏」の一種の名として、「漢籍リポジトリ」[073-4b]の四行目に出現する。』と述べたが、前注の引用から、目から鱗である。なお、次注も必ず、参照されたい。

『「三才圖會」に云はく、『梅に、四貴《しき》、有り。稀《まれ》なるを貴《たうとび》て、繁きを貴ばず、老《おい》たるを貴て、嫩(わか)きを貴て、瘦《やせ》たるを貴て、肥《こえ》たるを貴ばず、莟(つぼみ)を貴て、《花、》開くを貴ばず。』』例の東京大学の「三才図会データベース」で、当該画像をダウンロード(図ページ、及び、次の解説ページ)し、トリミングして、画像の汚損と判断したものを清拭したものを以下に示す。

 

Sansaizueumee

 

Sansaizueumekaisetu

 

この解説の四行目に、『鶴頂梅【花少香子甚大一名金剛拳】』とある。ダメ押しで納得である。

「黃精《わうせい》」これは、単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目キジカクシ科スズラン亜科アマドコロ(甘野老)連アマドコロ属(ナルコユリ(鳴子百合属)カギクルマバナルコユリ(鈎車葉鳴子百合) Polygonatum verticillatum を基原植物とする生薬名。「熊本大学薬学部薬用植物園 薬草データベース」の「カギクルマバナルコユリ」によれば(コンマ・ピリオドを句読点に代えた)、『中国、モンゴル、ダフリア』(ロシア語でДау́рия。ウィキの「ダウリヤ」によれば、『ザバイカルと沿アムール西部の』十七『世紀以前の古称』で、そこ頃『までダウール族の領域であったことに由来する』とあった)『に分布し、山地の低木林などに生える』。『多年草。草丈』五十~九十センチメートル。『根茎は横に伸び,茎は直立するが』、『上部は他に巻き付く。葉は無柄で線状披針形』で、四~六『枚が輪生する.花は腋性で』、二~四『個の散形花序となり、白か』、『淡黄色をしている。液果は球形、熟すと黒紫色』。『滋養強壮、補気作用があり、胃腸虚弱や慢性の肺疾患、食欲不振、咳、糖尿病などに用いる。リウマチや痛風などで体が弱っている人にもよい。焼酎漬けは強壮作用があり、体力が付く』とあった。なお、「東邦大学 薬学部付属 薬用植物園」の「カギクルマバナルコユリ」には、「利用部位」を『根茎』とし、『春か』、『秋に掘りあげ』、二『日程』、『日干しした後、篭でよく揉んでから、再度乾燥することを何度か繰り返して完全に乾燥させ』て生成するとあり、『生薬の黄精は、本種のほかに日本原産のナルコユリP.falucatumの根茎も用いられてい』るとあった。

「備後の三原」現在の広島県三原市(グーグル・マップ・データ)。今も梅林で知られる。

「春の夜のやみはあやなし梅の花色社《こそ》みえね香《か》やはかくるゝ」は、「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」に載る凡河内躬恒の一首(四一番)。

   *

   春の夜(よ)、梅(むめ)の花を、よめる

 春の夜の闇はあやなし梅の花

  色こそ見えね香(か)やはかくるゝ

   *

「新日本古典文学大系」版「古今和歌集」(小島憲之・新井栄蔵校注一九八九年刊)の脚注に、『昼の花の香りは、六朝以来、詩に多いが、夜の花の香りは、白楽天・元稹たちが好んでよんだ。』とある。

「鶴林玉露」中国の随筆集。南宋の羅大経(らたいけい)著。一二四八年から一二五二年に成立。三十六巻。天・地・人の三部からなり、詩や文学の批評を中心に逸話・見聞を収録したものだが、東洋文庫の書名注には、『議論は詳しいが、考証に疎略であるといわれる』と添えている。当該箇所は「漢籍リポジトリ」のここの[004-2b]以下で、当該部が視認出来る。影印本で読まれんことを薦める。

「古今醫統」正確には「古今醫統大全」。既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「苦棟樹《くとうじゆ》」私は、ムクロジ目ニガキ科ニガキ属ニガキ Picrasma quassioides としようと思ったのだが、東洋文庫訳では、この三字に『(とうせんだん)』と振っていた。

これは、ムクロジ目センダン科センダン科センダン変種トウセンダン Melia azedarach var. toosendan である。ウメの接ぎ木というところが、正直、信じ難い感じがする。並置して示すに留める。識者の御教授を乞う。

『「續日本紀」に云はく、『聖武帝天平十年七月、殿前の梅樹を指《さし》、諸才子に勅して曰はく、「朕、去《さる》春より、『此の樹を翫《もてあそば》ん。』と欲して、未だ、賞翫に及ばず。宜しく、各々《おのおの》、此の梅の樹を詠ずべし。」≪と≫。文人、三十人、皆、春の意《おもひ》を賦す。』≪卽ち≫、詩、有り』以上は、天平一〇(七三八)年七月癸酉(みづのととり)(朔日は丁卯(かのととり)でこの日は七日)の以下。

   *

秋七月癸酉【丁卯朔七】。天皇御大藏省、覽相撲。晚頭、轉御西池宮。因指殿前梅樹。勅右衞士督下道朝臣眞備及諸才子曰。人皆有志。所好不同。朕、去春、欲翫此樹。而未及賞翫。花葉遽落。意甚惜焉。宜各賦春意、詠此梅樹。文人卅人、奉詔賦之。因賜五位已上絁廿疋。六位已下各六疋。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの「訓讀續日本紀」(今泉忠義訳・(一九八六)年臨川書店刊)の当該部を参考に、以下に書き下した。

   *

秋、七月(ふむづき)【丁卯朔の癸酉(七日(なぬか)。】。天皇、大藏省に御(いでま)し、相撲(すまひ)を覽(みそなは)す。。晚頭に轉(めぐ)りて、西池宮に御す。因りて、殿前の梅樹(ばいじゆ)を指(さ)し、右衞士(うゑじ)の督(かみ)下道(しもつみち)の朝臣(あそん)眞備(まきび)、及び、諸(もろもろ)の才子(さいし)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「人皆(ひとみな)、志(こころざし)、有り、好む所、同じからず。朕(われ)、去(い)にし春より、此の樹(き)を翫(み)むと欲(ほり)せり。而(しか)れども、未だ、賞翫(しやうぐわん)に及ばず。花葉(はえふ)、遽(にはか)に落ちて、意(こころ)、甚だ、惜(を)しむ。宜しく、各(おのおの)、春意(きゆんい)を賦して、此の梅樹を詠(えい)ずべし。文人(もんにん)卅人(さんじふにん)、詔(みことのり)を奉(う)けて、之れを、賦す。因りて、五位已上(ごゐいじゃう)には、絁(あしぎぬ)廿疋(はたむら)、六位已下(ろくゐいげ)には、各、六疋(むむら)を賜ふ。

   *

『百濟の王仁《わに》、梅を、謂《いひ》て、「此の花」と稱し≪たり≫』王仁(生没年不詳)は当該ウィキによれば、『応神天皇の時代に辰孫王』((しんそんおう 三五六年~?:百済(くだら)の王族。近仇首王(きんきゅうしゅおう ?~三八四年)の孫で辰斯王(しんしおう)の息子。この時、祖父近仇首王の命を受けて学者であった王仁とともに「論語」十巻と「千字文」一巻を携え、全羅南道霊岩郡から船で日本に渡った人物。当該ウィキによれば、『その後、百済には帰国せずに日本に定着し』、『菅野氏』(すがのうじ)『と葛井連』(しらいむらじ)『の始祖となる。息子太阿郎王』(たあろうおう)『は』後の『仁徳天皇の近侍となった』とある)『と共に百済から日本に渡来した百済人』である。この王仁が梅を本邦に齎したという説が古くからあった。詳しくは、「月向農園」公式サイトの「なんでも梅学」『仁徳朝に「咲くやこの花」「『古今和歌集・仮名序』」『その一節に、この短歌がある』のページを見られたいが、そこにある通り、知られた紀貫之の書いた「古今和歌集」の「假名序」(全体は「ウィキソース」のこちらを見られたい)の中の和歌六体を語る冒頭で(以下は、所持する昭和二(一九二七)年初版・昭和五〇(一九七五)年四十九刷を参考にした。「そもそも」の後半の踊り字「〱」は正字化した)、

   *

そもそも、歌のさま、むつ、なり。からのうたにも、かくぞあるべき。 そのむくさのひとつにはそへうた、おほさゝきのみかどを、そへたてまつれるうた。

 なにはづにさくやこの花冬ごもりいまははるべとさくやこの花、と、いへるなるべし。

   *

而して、この歌は、当時にあって、既に先の注で示した王仁が、仁徳天皇に奉ったとされる歌なのである。漢字表記に代えると、

   *

 難波津に咲くや此の花冬籠り今は春べと咲くや此の花

   *

となる。実は、この前の部分に、「古注」と呼ばれる、「假名序」が書かれた後、書き添えされた部分があり(先の「ウィキソース」にはない)、原文の三段落目にある(先の底本を参考に漢字に代え、読点を附加した)「かくてぞ、花(はな)をめで、鳥(とり)をうらやみ、霞(かすみ)をあはれび、露(つゆ)をかなしぶ心言葉(こころことば)、多(おほ)く、さまざまに、なりにける。遠(と)き所(ところ)も、いでたつ足(あし)もとより、はじまりて、年月(としつき)をわたり、高(たか)き山(やま)も、ふもとのちりひぢよりなりて、天雲(あまぐも)、たなびくまで、おひのぼれるごとくに、この歌も、かくのごとくなるべし。難波津(なにはづ)の歌(うた)は、帝(みかど)の御(おほん)初(はじ)めなり。」の後に、

   *

おほざきの帝(みかど)の難波津(なにはづ)にて皇子(みこ)ときこえける時(とき)、 東宮(とうぐう)を、たがひに讓(ゆづ)りて、位(くらゐ)につき給(たま)はで、三年(みとせ)になりにければ、王仁(わうにん)といふ人(ひと)の、いぶかり思(おも)ひて、よみて奉(たてまつ)りける歌(うた)なり。此(こ)の花(はな)は梅(むめ)の花(はな)を、いふべし。

   *

とあるのである。因みに、先にリンクさせた「月向農園」のページの二項目に「『魏志倭人伝』に記されていた梅」というのがあるが、同書の画像の五行目の九字目に書かれてある漢字=「グリフウィキ」のこれの(つくり)の中央縱画が下を突き抜いた字体であるが、これは「」の字の異体字であり、」は、「說文解字」に「梅也」とし(「字統网」のここを見よ)、「爾雅」の「釋木」に『梅、。』とあって(「中國哲學書電子化計劃」のここを見よ)、「梅」と同字と考えてよいのである。そして、渡来時期は、その下の「弥生時代の遺跡から梅の遺物が出土」によって、『それ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないことから、 梅は、弥生時代に渡来したと考えられる』とあることで、遙か昔(弥生時代は紀元前十世紀、或いは、紀元前九~八世紀から紀元後三世紀中頃迄に相当する)に遡ることが判明しているのである。

「飛梅」言わずもがなだが、せめても、「日本大百科全書」の「飛梅伝説」を引いておく(読みは一つを除き、カットした)。『梅の木が飛来して、その場所に根づいたという伝説である。福岡県の太宰府天満宮にある飛梅が有名である。菅原道真が左大臣藤原時平の讒言によって大宰府に左遷されるとき、邸内の梅の木に』、

 東風(こち)吹かば匂ひ起こせよ梅の花

        あるじなしとて春な忘れそ

(この歌、文献により末句は「春を忘るな」とあるが、私は断然、「春な忘れそ」派である)『と詠んだので、その梅の木が天満宮に飛んだという。歌の威力を示す内容で、早くから『十訓抄』などの説話集に取り上げられている。悲憤の死後、雷神となって天下を震撼させる道真の威力を、生前のできごとで印象づけるかっこうの材料となった伝説である。ただ、この伝説の背景には「飛び神信仰」があるといわれる』。『元来、神霊は空中を自由に飛び回り、人々の求めに応じて降臨すると考えられていた。その代表的なものが飛び神明(しんめい)である。伊勢の神が各地に飛来してはその地の守護神となったという伝えがある。このような飛び神信仰と道真の威光とが結び付いた伝説なのであろう』とある。

「晉の起居が言《げん》に從《したがひ》て、「好文木《こうぶんぼく》」の稱、有り」「晉」は二六五年から四二〇年は、司馬炎が、魏の最後の元帝から禅譲を受けて建国した国。二八〇年に呉を滅ぼし、「三国時代」を完全に終焉させた。そして「起居が言」というのは、「起居注」を指す。これは、人名ではなく、「起居注」という役職、及び、その職務、更には、その記録した文書を指す。小学館「日本国語大辞典」によれば、『中国で、天子のそばにいて、その言行を記録すること。また、その官や記録。』とある。「好文木」については、東洋文庫の後注に、『晋の武帝(在位二六六~二九〇)が學問に親しむと梅が開き、學問をやめる梅は開かなかったという。晋の「起居注」にあるところから出た故事。』とあった。

『因りて、橘の直幹《なをもと》が歌に、「鶯宿梅《わうしゆくばい》」の號(な)、有り』東洋文庫の後注に、『『禁秘抄』に、「仁寿殿艮』(うしとら)『角梅。自延喜御時有ㇾ之。又、天暦ノ御時被ㇾ栽直幹家樹也」とあるが、橘直幹の鶯宿梅の歌というのはよく分からない。普通に鶯宿梅の歌とされるのは『大鏡』にのっている、天暦の御時、清涼殿の梅が枯れたので、代りの梅をさがし求めさせたところ、西の京あたりで手頃なのが見つかった。そこで召し上げようとしたところ、その家の主人が歌を付けて宮中に持ってかえらせたという話で、そのときの歌とは「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はととはばいかが答へむ」というものである。歌は貫之の娘の作とされる。橘直幹が平安時代の学者。天暦二年』『文章博士。冷泉天皇の侍読となった。』とある。

『西行の歌に𢴃《より》て、「求來願(とめこかし)の梅」有り』「新古今和歌集」「卷第一 春歌上」に載る一首(五一番)、

   *

  題しらず

 とめ來(こ)かし梅(むめ)さかりなるわが宿を

        うときも人は折(をり)にこそよれ 西行

   *

『新日本古典文学大系』版(第十一巻)「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注・一九二二年刊)の脚注によれば、『尋ねてきてくれよ。梅の花盛りであるわが宿を。疎遠にしているのも時節によりけりだ。』と訳され、『西行法師家集』は前書『「梅」』で、最晩年の成立と見られている小家集『聞書集』は前書『「對梅待客」』とし、『御裳濯河歌合』(みもすそがはうたあわせ:西行の自歌合(じかあはせ)。藤原俊成の判)にも載る。『参考』で、「和漢朗詠集」の「花」の白居易の以下の詩句を示す。「遙見人家花便入 不論貴賤與親疎」。これは「白氏文集」「卷六十六」にある、「尋春題諸家園林」の二首目の「又題一絕」の転・結句である。

   *

 尋春題諸家園林

聞健朝朝出

乘春處處尋

天供閑日月

人借好園林

漸以狂爲態

都無悶到心

平生身得所

未省似而今

 

 又題一絕

貌隨年老欲何如

興遇春牽尙有餘

遙見人家花便入

不論貴賤與親疎

   *

必要な二首目のみ、訓読する。題は一首目を使用する。

   *

 春を尋ねて諸家の園林に題す

貌(かたち)は年に隨ひて老ゆ 何如(いかん)せんと欲す

興(きよう)は春に遇ひて 牽(ひか)れて 尙ほ餘り有り

遙かに人家を見て 花あれば 便(すなは)ち入る

論ぜず 貴賤と親疎とを

   *

白居易らしい、思わせぶりの全くない、素直な詩篇である。

 

★以下、良安が列記する品種名を注する。

 

『「難波梅(なにはの《うめ》)」【中花《ちゆうくわ》、淡白。千葉《やへ》。香《かをり》、有り。】』まず、私がこのプロジェクトで最も信頼する(その理由は極めて明白で、各種の学名は勿論、中国語名・異名漢名等を、ピンイン附きでちゃんと示してあるのは、本文サイトでは、ここだけだからである)「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「うめ(梅)」によれば、『ウメの品種は、普通』、『次の』九『性(しょう)に分ける。』とされ(『 C. 綠萼 lǜè 』は中国語に於いて、同グループを指す中国語漢字と、そのピンインを示したものである)

   《引用開始》

野梅系 最も野生種に近く、開花期が早く、結実能が高い

  野梅性(やばいしょう)

  紅筆性(べにふでしょう)

  難波性(なにわしょう)

  青軸性(あおじくしょう;  C. 綠萼 lǜè

緋梅系 開花期は野梅系と同、一般に紅色花が多く、枝の髄に赤い色素がある

  紅梅性(こうばいしょう)

  緋梅性(ひばいしょう)

  唐梅性(とうばいしょう)

豊後系 形態的にアンズに近く、開花期は遅く、花・果実は大きいが、結実能は劣る

  豊後性(ぶんごしょう)

  杏 性 (あんずしょう)

   《引用終了》

とある。そこで、次に、サイト「川崎みどり研究所」の「ウメの園芸品種図鑑」を見ると、『難波性:‘難波紅’に似た品種群。枝が密に茂り、矮性気味。挿木の発根性が良い。』とあり、そのリンク先「難波紅(ナニワコウ)」には、『野梅系・難波性』『系統』で、『花色・花径』は『紅色・中輪』、『花期』は、二『月中旬』から、三『月中旬』とあり、『難波性の代表品種。』とされ、『よく分枝し、花つきも良いため、枝を埋めつくすように開花する』こと、『挿木が容易で、台木に利用される』とある。而して、戻って、「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「なにわこう(難波紅)」で、学名が、Prunus mume 'Naniwa-kō' とあった。恐らく、品種名の学名まで、ちゃんと示して呉れるのは、この「跡見群芳譜」以外には、ないから、入口と出口はこうしたルートを辿ることとする。なお、検索で瓢簞からコマっぽかった(海産生物フルークの私にとって)のは、そちらの方で何時もお世話になる「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」に植物の「アンズ」のページがあり(!)、その「加工品・名産品」に「梅干し」とあって、『東北などで見かけるもの。青森で「八助」、秋田で「なにわ梅」という。梅で漬けたものよりも酸味が穏やか。』とあった。今度、行ったら、絶対、食べたい! 民俗学的には、「Web版尼崎地域史事典apediaアペディア」の「難波の梅 なにわのうめ」に、『伝説。難波の里(現東難波町・西難波町)の香り高いウメの木を、仁徳天皇がとくに好まれたので、村人が毎年ウメの花を献上してきた。あるとき、このウメの木を勅命で都に移した。都では難波に向いている枝には花をつけたが、ほかの枝には花を咲かせることがなかったので、もとの地に返したところ、また昔のように多くの香り高い花を咲かせるようになったという。』とある。

『「淺香山(あさか《やま》)」【小花、淡白。八重《やへ》。最も香《かん》ばし。】』小学館「日本国語大辞典」の「浅香山」には、「こうばい(紅梅)」の古名とし、用例を「大和本草」とする。しかし、「紅梅」なのに、花が「淡白」というのは、解せない。調べてみると、Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ウメ(園芸品種) 梅」のページの「日本の梅の歴史」の項にある、『【江戸中期の「梅品」(1760年)の掲載種】』(宝暦十年刊で松岡怡顔斉著(この版は死後の出版)。これは、儒学者で本草学者の松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~ 延享三(一七四六)年)の号。名は玄達、恕庵は通称)の「●白梅の部」に、『浅香山』とあるのだ! 早稲田大学図書館「古典総合データベース」の出版年不明の同書を見たところ、ここに絵入りであった。而して、そこには、『淺香山』とあり、以下、読み易く、勝手に訓読すると、「○達、按ずるに、白花、八重、淡紅の暈(ぼかし/くま)ありて、香り、有り。」であろう。やっぱり、花は白いのだ! 検索で、「梅 浅香山 白 花」を調べたが、ない。されば、これは、私には、失われた品種の一つと言えるように思われるのである。

『「一入梅(《ひと》しほの《うめ》)」【大花、淡白。單葉。甚だ、愛すべし。】』多様に検索すること、十五分……不詳。いい名前なのになぁ……。

『「花香實梅(はなかみの《うめ》)」【中花、白。形、美≪くし≫。香《かを》り、有り。實も亦、良し。】』「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「はなかみ (花香実)」に、Prunus mume 'Hanakami' とあった。AIの概要だが、実梅の品種の一つで、桃紅色の八咲きの花が美しく、観賞価値が高いため、庭木としても適している。また、梅干や梅酒にも適した実が収穫できるため、実を採取する品種としても人気がある、とあった。確かに、漢字名での検索が多数、掛る。

『「鞍馬梅(くらま《うめ》)」【大花、雪白《せつぱく》。八重。形、美≪くし≫。香り、有り。子《み》を結ぶ。】』鞍馬山の梅は観光では知られるが、特に梅の名所と言う感じではない。この名の品種も確認出来なかった。

『「㲊山白《えいざんはく》」【大花、雪白色《せつぱくしよく》。香り、有り。】』Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ウメ(園芸品種) 梅」のページの「梅の園芸品種」の項の、「豊後性(ぶんごしょう)」に『杏に梅を掛け合わせた品種。 花は大輪、普通、ピンク色、白色。 遅咲き。 枝はやや太く、有毛。丸葉。香りは弱い』とあって、以下の品種名の『一の谷(いちのたに)、伊那豊後(いなぶんご)、入日の海(いりひのうみ)、 薄色縮緬(うすいろちりめん)、』の後に、『叡山白(えいざんはく)』があった。「日本国語大辞典」の 「叡山白」には、『梅の園芸品種。花は純白色、重弁の大輪で香りが高い。盆栽および庭木として観賞用に植えられる』とあった。「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「えいざんはく (叡山白)」に、Prunus mume 'Eizanhaku' と学名があった。

『「見歸り梅」【大花、雪白。單葉。其の葩《はなびら》、大にして、子を結ぶ。】』AI による概要だが、『見帰り梅は、鎌倉や江の島などの神社仏閣の境内や江の島を中心に、毎年』、『早咲きの梅が』、『一月下旬頃から開花し、遅咲きの梅は』三『月上旬ごろまで観賞できる梅で』ある由、あった。私は、二十代から、鎌倉郷土史を研究しているが、不学にして知らなかった。う~ん、しかし、AIが元にしたものが、見当たらない。鎌倉の梅では、寒紅梅が有名だから、それの異名じゃないかいな? 本項には、だいたい、寒紅梅ば載っとらんからな。取り敢えず、「寒紅梅」に、しとこうか。「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「かんこうばい (寒紅梅)」に、Prunus mume 'Kankobai' 'Hitoe-kankō')とし、『八重ざきの品種に、ヤエカンコウがある』とあり、『野梅性』(のうめしょう)で、本邦最初の園芸辞典で、伊藤三之丞(伊兵衛)著の《「花壇地錦抄」』(かだんじきんしょう)『(元禄八(一六九五)年刊)の『巻二「梅のるひ」に、「寒紅(かんかう) ひとへ、紅梅。色吉シ。寒中より花咲」と。』とあった。「ヤエカンコウ」は、リンク先に、学名を、Prunus mume 'Yae-kankō' とあった。

『「身延(みのぶ)梅」【最も大なり。單葉。白色。香り、有り。木に星≪の≫㸃、有り。故に、「星降《ほしくだり》」と名づく。】』「身延梅」では検索に掛らないので、「星降梅」で「身延梅」では全く検索に掛ってこない。そこで、「星降《ほしくだり》」でやらかしてみたところが、日蓮の奇蹟関連(「身延」で気がつくべきだったな。遅かりし)で、ワンサカ出てきて、返って困ったがな! 神奈川県厚木市上依知(かみえち)には、ズバり、日蓮宗星梅山(せいばいさん)妙傳寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)という寺まであった。こんなにいっぱいあると、却って、注が面倒になるのが目に見えてきたのだが、ここまでやってきた以上、グッと堪えて(個人的には、親鸞に次いで、日蓮は興味深い思想家(多分に政治戦略的な技巧に於いてである)であると思っている)、調べたところ、実は、この辺りには、日蓮宗で「星下り三ヵ寺」と呼ぶ三つの寺があって、その本山が厚木市金田にある明星山(みょうじょうざん)妙純寺で、今一つが、厚木市中依知にある寳塔山蓮生寺なのである。なお、私は本文の読みで、当初、無批判に東洋文庫訳が『ほしふり』としてあるのを、受け入れていたのだが、『こりゃ、「ほしくだり」だ!』と気がついて訂したことを告白しておく。

『「冬梅《ふゆうめ》」【中花。常のごとし。實、秋、熟す。≪故に≫、「秋梅」と謂ふべきのみ。】』この項、読んだ時に、どうも、品種名ではない気がした。良安の謂いも、実際の特殊な梅を指して名前がおかしいと言っているニュアンスがまるでないではないか? 駐輪の花で、普通の梅と同じで、実は秋に熟すという。実は、私は、中国の「四君子」の「冬梅」を想起していたのだ。「維基百科」の「梅」の「文化」の項を見られたい。そこには、『梅花通常在晚冬至早春開放,故亦称「冬梅」和「春梅」。在中國傳統文化上,梅與蘭、竹、菊一起列為「四君子」,也與松、竹一起稱為「歲寒三友」。並有所謂「春蘭花、夏荷花、秋菊花、冬梅花」,梅花憑着耐寒的特性,成為代表冬季的花。』とあるのだが、これは、気機械翻訳する必要もなく、中学生でも、「梅の花は、通常、晩冬から初春にかけて咲き、故に『冬梅』『春梅』とも呼ばれる。中国の伝統文化にあっては、梅は蘭・竹・菊とともに『四君子』に数えられ、松・竹とともに『冬の三友』とも呼ばれている。加えて、所謂、『春蘭・夏蓮・秋菊・冬梅』もあり、梅は、その耐寒性から冬を代表する花となっている。」という意味であることは明白だ。則ち、初読時の、何だか尻が座らない空々しい良安の割注が、実は、中国の「四君子」の「冬梅」への疑義として、ここに掲げたものだ、と推理しているのである。なお、本邦のウメの品種には、「冬至」(とうじ: Prunus mume 'Tōji' )・「紅冬至」(こうとうじ: Prunus mume 'Kōtōji' )・「新冬至」(しんとうじ: Prunus mume  'Shin-tōji')・「八重冬至」(やえとうじ: Prunus mume 'Yaetouji' )や、「冬の谷」(ふゆのたに: Prunus mume 'Fuyunotani' )といったものが、あることはある(リンクは総て「跡見群芳譜」の独立ページである)。なお、サイト「nae-ya|herbal tree shop」の「ウメ(花梅):冬至梅」は、品種「冬至」と思われるが、『冬至梅(とうじばい/とうじうめ)は、野梅性の早咲き品種で白花の花梅の代表格で』、『花は白の中輪花で一重咲きです』。『開花期が』十二『月中旬』から二『月中旬と早く、冬至のころに咲くのが名前の由来です』。『お正月用の梅として使用されています』。『枝が細く、鉢植えや盆栽に向きます』とある。

『「甲州梅《かうしううめ》」【小白花。其の子、最も小さし。一名、「信濃梅《しなのうめ》」。「本艸≪綱目≫」の謂ふ所の、「消梅《しやうばい》」、是れなり。】「消梅《しやうばい》」の注で出した通り、「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「こうめ(小梅)」に、学名を変種コウメPrunus mume var. microcarpa とし、異名和名を『シナノウメ(信濃梅)』とある。また、割注で示したが、再掲しておくと、「本草綱目」の「消梅」は、「漢籍リポジトリ」の、ここの、「梅」の「集解」の[073-12b]以下の二行目に、『消梅實圎鬆脆多液無滓惟可生噉不入煎造』がそれである。これは、機械翻訳を参考にすると、「消梅の実は、サクサクしていて液状であり、生でも食べられるが、成分を煮出すことは出来ない。」か。しかし、Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ウメ(園芸品種) 梅」のページの「梅の園芸品種」の項には、「甲州小梅実梅(こうしゅうこうめみうめ)」・「甲州最小実梅(こうしゅうさいしょうみうめ)」・「小梅実梅(こうめみうめ)」が並ぶこと、この内の、「甲州最小」は、「跡見群芳譜」の独立ページでは、学名を、Prunus mume 'Kōshū-saishō' としている点で、私には、疑問が残る。一方、「日本国語大辞典」の「小梅」には、『①ウメの栽培品種。早生種で』、『深緑色で』、『しなやかな小枝を多く分岐する。花は白く』、『径約二センチメートルで』、『香気があり』、『単弁。果実は多数枝に群がりつき、径八~』十『ミリメートルになり』、『黄熟する。梅干や粕漬にされるほか、大晦日や節分の福茶や、黒豆とともに正月の食積(くいつみ)に用いられる。漢名、消梅』(!☜★☞)『甲州梅。信濃梅』とあった。これを、植物学上、完全に正しいものと信頼するならば、中国語の「消梅」は同種であることになる。更に、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の先に示した「梅品」には、ここと、ここで、「消梅」として、極めて詳細に語っている(黃山谷(=かの北宋銘の名詩人黃庭堅)の漢詩二首を掲げてある)のである。しかし、問題は、中文サイトで「消梅」が見当たらないこと、変種コウメPrunus mume var. microcarpa の記載がないことである。一応、同一とみてよかろうかとは思うものの、安易に同一種とすることは、私には出来ない。明の時代以降に、滅んでしまった小型の全く別種のウメであった可能性を排除出来ないからである。

『「鸎宿梅《あうしゆくばい》」【中花。白。八重。赤き㸃の文《もん》、有り。香り、佳し。京の相國寺《しやうこくじ》の塔頭《たつちゆう》、林光院、初め、之れ、有≪りしが≫、今は、殘株《ざんしゆ》有る≪のみ≫。】』割注したが、再掲すると、「鸎」は「鶯」の別字。「京の相國寺の塔頭、林光院」は、京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派大本山萬年山相国寺の塔頭林光院(グーグル・マップ・データ)「臨済宗相国寺派」公式サイト内の「林光院の鶯宿梅」を見られたい。現在も、この梅は、代々、守られている(画像有り)。]他に、Wiktionaryの「鶯宿梅」があり、『村上天皇の時代に、宮中の梅が枯れたので、天皇が命じて市中の美しい梅を求め移し替えたところ、その持ち主であった紀貫之の娘が、権柄づくを諫めた梅の歌を詠じ、天皇が恥じ入ったという故事、又はその詠われた梅』とあり、「参考」として、『天曆の御時に、淸涼殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、もとめさせ給ひしに(中略)西の京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木の、やうだい美しきが侍りしを掘り取りしかば、家のあるじの、木にこれ結びつけてもて參れと(中略)勅なればいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答へん(中略)貫之のぬしの娘の住む所なりけり』という、「大鏡」からの引用が記されてある(引用部は漢字の一部を正字化した)。これは、「大鏡」の「道長下(雜々物語)」の中に出る。サイト「四季の美」のこちらで、原文と現代語訳が載るので、参照されたい。しかし、「大鏡」の本文を見る限り、梅の特異な種であるようには全く見受けられず、これは、《文学上の説話に語られた梅》であって、種同定を云々するものではないと思ったのだが、ウィキの「ウメ」では、『鴬宿(おうしゅく)』が立項されており、『徳島県の主要品種。豊産性だが、ヤニ果の発生が極めて多いため』、『梅干し加工には向かず、梅酒・梅ジュース向けの青梅専用品種である。花は淡紅の一重、果実重』二十五~四十グラム。『自家不和合性のため』、『受粉樹が必要』とあり、しかし、『花梅の鴬宿とは異なる品種である』から、この「花梅の鴬宿」なるものがあるはずであるから、調べた。やっぱり、「跡見群芳譜」のここにあった。学名は Prunus mume 'Ōshukubai' 、或いは、Prunus mume 'Oushukubai' である。流石だ、『実梅で一重の花を咲かせるオウシュク(鶯宿)は別品種』とあり、そちらを見ると、学名は Prunus mume 'Ōshuku'、或いは、Prunus mume 'Ōushuku' とあって、そこに「大鏡」の話が引用されているのだが、但し書きがあって、やっぱ! 『和名の由来については、下の誌を見よ。ただし「敕なれば・・・」の梅は紅梅。』とあるのである。この紅梅を狭義のものととるなら、Prunus mume 'Kankobai' となるが、う~ん、どうでしょうかねぇ……。

『「細川梅《ほそかはうめ》」【大花。白。單葉。赤き㸃の文、有り。】』割注で『「細川梅」の読みは不明。取り敢えず、訓読しておいた。』と書いたが、現在、「細川梅(ほそかわうめ)」に酷似した梅加工会社「紀州ほそ川」と称する会社が存在する。それは、サイト「紀州ほそ川グループ」によって確認でき、「紀州ほそ川創薬」もある。現在の本社は和歌山県日高郡みなべ町(グーグル・マップ・データ)である。但し、そこに書かれた「ヒストリー」を見るに、梅栽培の初代当主は明治期までしか、遡れない。しかも「ほそ川」は代々の当主の姓であり、良安の時代まで遡ることは出来ない。しかし、これは、思うに、知られた梅の名品「南高」のフィールドである。「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「なんこう(南高)」に、学名を Prunus mume 'Nankō' とある。そこには、『実梅。野梅性』で、『和歌山県産』、『実の粒が大きく、紅色がかかる』とある。ところが、これまた、困ったことに、本品種は、そこに、『品種名南高は』、二十世紀『初に和歌山県日高郡上南部(かみみなべ)村』(☜★☞)現在の『和歌山県日高郡みなべ町』『の高田貞楠が育てた高田梅と、のちに品種育成に協力した南部(みなべ)高等学校の頭文字から合成して』(『一説に南部の高田梅を略して、また一説に南部高校の通称南高(なんこう)から』とも)、『竹中勝太郎』(明治四三(一九一〇)年~?)『が南高梅(なんこううめ)と命名』し、昭和四〇(一九六五)年、『名称登録』とあるのである。これは、サイト「川崎みどり研究所」の「ウメの園芸品種図鑑」の「南高(ナンコウ)」にも、『系統』を『野梅系』とし、『花色・花径』は『白色・中輪』、『花期』は二『月下旬~三『月中旬』とあり、而して、やはり、』明治三五(一九〇二)『年に』、『和歌山県みなべ町にて、高田貞楠氏により見いだされ、「高田梅」と呼ばれていた。「南高」は、昭和』二十『年代における優良品種調査を行ない、和歌山県立南部高校の竹中正太郎氏が、南部高校と高田梅を組み合わせて、名づけた』とある。さらに『梅の一大産地である和歌山県を代表する品種で、果実は非常に大きく、果肉が厚くて柔らかいのが特徴。主に梅干しや梅酒に利用され』、『自家不結実性で、樹勢は強い』とある。最も詳しいのは、ウィキの「南高」で、『江戸時代』、紀伊国田辺藩(紀州藩附家老)初代藩主『安藤直次』(弘治元(一五五五)年~寛永一二(一六三五)年「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年)『が』、『治めていた現在の和歌山県みなべ町、田辺市周辺では、やせ地や傾斜地が多く、農民は年貢の負担に苦しんでいた。安藤直次は土地の山に自生していた「藪梅」をみて、民衆にこれを育てれば』、『年貢を減らすとして』、『育成を推奨した。当地で育てられた梅は、徳川幕府』八『代将軍』吉宗『の頃には将軍も絶賛するほどになった』。『明治時代になると、コレラや赤痢などの流行病対策品として、また日清戦争・日露戦争などの影響で軍隊の常備食として梅干しの需要が増え、価格が高騰したため』、『梅の栽培が急激に増加した』。『和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)では』、明治一二(一八七九)『年頃に内本徳松が晩稲(読みは、おしね)の山林で優良系統の梅を発見。これを母樹にした「内本梅」の苗木を増殖する』。明治三四(一九〇一『年、内本徳松の親類であった内中為七・源蔵親子が同村の土地を大規模開墾し、「内本梅」の大規模栽培を始め、同園の梅は「内中梅」とも呼ばれるようにな』り、翌『年、同村の村長の息子であった高田貞楠(さだぐす)が「内中梅」の実生苗木を』六十『本購入し、園地に植え』、『その中に』、『果実が大きく豊産性で』、『紅がさす』、『優良樹を発見し、「高田梅」と名付ける』。その翌『年、同村の小山貞一が』、『高田貞楠より「高田梅」の穂木を譲り受け、栽培を拡大』した。後の敗戦後の昭和二五(一九五〇)『年、上南部村で優良品種へ栽培を統一するための「梅優良母樹種選定会」が発足』、五『年にわたる調査の結果』、三十七『種の候補から「高田梅」を最優良品種と認定』した。『調査に尽力したのが』、『南部高校の教諭竹中勝太郎(調査委員長、後南部川村教育長)であったことから、高田の「高」と「南高」をとって南高梅と名付けられ種苗名称登録される』。『「南高梅」は他の梅品種に比べ栽培しやすく』、『豊産性であり、果実品質も優れていたため、その後の梅需要の高まりとともに近隣の田辺市や印南町に加え他県でも栽培が急拡大し、国内』一『位の栽培面積を誇る梅品種となった。』とあるので、やはり、「細川梅」で江戸時代に遡ることは出来ない。この会社に聴けば、或いは、この良安の「細川」という梅と、現行の「南高」との血族が明らかになるように思われるが、そこまでやる精神的なエネルギは、今はないし、それを待っていては、本項「梅」は何時まで経っても、公開出来ないから、諦める。悪しからず。

『「金梅《きんばい》」【中花。白。八重。初めて開く時、黃色。】』割注で、『品種としては不明。但し、本邦では、梅とは全く縁のない黄色い花を咲かす、蔓性落葉低木である、双子葉植物綱シソ目モクセイ科 Jasmineae連ソケイ属 Primulina 節オウバイ(黄梅)Jasminum nudiflorum の異名であり、また、多年草のキンポウゲ目キンポウゲ科 キンバイソウ(金梅草)属キンバイソウ Trollius hondoensis の異名でもあり、更に黄色い花を持つ複数の種の和名に「~キンバイ」(「~金梅」)が、多数、あるので、極めて注意が必要。』と記したが、やはり、ありそうな「金梅」は品種名にない。「古金襴」( Prunus mume 'Kokinran' )・「黄金梅(おうごんばい)」( Prunus mume 'Ōgonbai' )が「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「うめ(梅)」にあるが、これらは画像を見るに「八重」ではないから違う。しかし、検索するうちに、一つ、龍氏のブログ「植物図鑑ブログ」の「黄金鶴(こがねづる)」Prunus mume 'Koganezuru' )に、俄然、目が止まった。白い八重だ! そこには、『黄金鶴(コガネヅル)はその栽培品種の』一『つである』。『読み方は「オウゴンカク」とするものもある』。『樹高は』三『メートルから』六『メートルくらいで』、『葉は楕円形で、互い違いに生える(互生)』。『開花時期は』一『月から』三『月である』。『葉の展開に先立って花を咲かせる』。『野梅系・野梅性の白い八重咲きの小輪』で、十五『から』二十『ミリ』メートル『である』。『花弁は黄味を帯びていて波打つ』。四、五『輪が房咲きをする』とあった。名前に多少のズレがあるが、私は、これを最大候補とする。

『「玉井梅(《たま》の《ゐうめ》)」【大花。白の單葉。微赤色を帶びたるごとし。香り、有り。實も亦、多く生ず。】』この品種名は見当たらない。愛媛県産南高梅を用いた梅干を作る「玉井民友商店」があった(愛媛県大洲市で大正四(一九一五)年創業)が、これは、流石に偶然だろう。

『「飛鳥川(あすか《がは》)」【中花。白の千葉。初め、紅色。既に開かば、白く、子を結ぶ。】』不詳。但し、奈良の飛鳥川(グーグル・マップ・データ)の沿岸には梅の名所が多い。「奈良の宿 料理旅館大正楼」公式サイト内の「飛鳥川沿いの梅の花」を見られたい。にしても、「飛鳥川」、品種に使いそうなものだがなぁ……。

『「中妻梅(《なか》つま《うめ》)」【大花。白の千葉にして、紅を交ず。或いは、全く、紅・白、扁分《へんぶん》して、「源平桃《げんぺいもも》」のごとし。】』不詳。割注で示したが、再掲すると、「源平桃」は桃の品種。バラ目バラ科モモ亜科スモモ属モモ品種ゲンペイモモ Prunus persica 'Genpei' で、一本の木に紅白二色や、紅白の絞りの花を咲かせる桃を指す。

『「花布梅(さらさ《うめ》)」【大花。白く、單葉。紅㸃の葩《はなびら》、五つ、或いは、八つ、九つ、有り。其の子も亦、佳し。】』不詳。しかし、前掲の江戸中期の「梅品」の「紅梅」の部に、この名が、ある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の九芒人の写本(明治三一(一八九八)年)の、ここ(右:図)と、ここ(左:解説)で、視認出来る。その解説は、やや良安に謂いとは、花の大きさに異なる箇所もあるが(以下私の訓読)、『臘月』(旧暦十二月)『より春に至て開く。花は『小輪、淡紅色、白色の中に紅暈』(こううん:赤い斑点)『あり。故に「さらさむめ」と名』(なづ)『く』。『実、小なり。又、白梅・八重にて、中輪にして、紅のしぼり、有る物、あり。「しぼり梅」と云ふ』とあるから、これは、後者の「しぼり梅」である可能性が高いと思われる。而して、「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「うめ(梅)」の品種リストの中で、「絞」の附く三種の画像を見たところ、花が紅色に特に強く見えるのは、「司絞」( Prunus mume 'Tsukasa-shibori' )であった。因みに、他の二種は、「長谷川絞」( Prunus mume 'Hasegawa-shibori' )と、「無類絞」( Prunus mume 'Muruishibori' )であった。この二種は同定比定の二番候補になろう

『「江南梅《かうなんばい》」【大花。卵色のごとし。形、杏《あんず》の花に似て、子を結ぶ。】』「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「こうなんしょむ (江南所無)」に、Prunus mume 'Kōnanshomu' とし、解説で、『豊後性、神代植物公園によれば杏性』とし、『「江南に無き所」とは、「江南には無い(他のところにはある)」というのではなく、「(梅の名所と言われる)江南にすら無い(つまり、世の中でここにしか無い、それほどこの木の花はきれいだ)」の意。なお、「江南(コウナン,jiāngnán)」とは江水(今日の名は長江 chángjiāng)の南の意、具体的には安徽南部・江蘇南部及び浙江を指す』とあった。なお、同「うめ(梅)」には、梅の総論を述べておられる中に、『早くから春の花の代表とされ、百花に魁(さきが)けてさくので花魁(かかい)と呼ばれた』。『劉向』(紀元前七九年~紀元前七九年)の「説苑(ぜいえん)」の『奉使篇に、「一枝の梅を執って、梁王に遺(おく)る」』とあり、『また』これは『漢嬰』の「韓詩外傳」(巻八)にも載る。而して、『これを踏まえ、隆宋』(四二〇年~四七九年)の『陸凱』の詩『「贈范曄」に』(以下は私が原詩を添え、正字に代えて、訓読にも手を入れてある。引用先では第一句の「花」は「梅」であるが、中文サイトで確認して訂した。無論、この花は「梅」ではある)、

   *

 贈范曄   陸凱

折花逢驛使

寄與隴頭人

江南無所有

聊贈一枝春

  范曄(はんえふ)に贈る

 花を折りて 驛使(えきし)に逢ひ

 寄せ與ふ 隴頭(ろうとう:長安の西の隴山の畔(ほとり))の人に

 江南(南朝の都である建康) 有る所 無し

 聊(いささ)か贈る 一枝の春

   *

『これより、梅を「一枝の春」と呼ぶ』。『また、王十朋』(一一一二年~一一七一年)の『「江梅」に、「預報春消息、花中第一枝」とあり、「春消息」、ひいては「報春花(春の知らせをもたらす花)」とも呼ばれた』とある。言わずもがなだが、中華では「花」と言えば、「牡丹」と「梅」なのである。

『「豊後梅《ぶんごうめ》」【大花。白に淡紅色を帶ぶ。八重。其の子、最も大にして、此れ、所謂《いはゆる》、「杏梅《あんずうめ》」・「鶴頂梅《かくちやうばい》」の類《るゐ》か。】』割注した通り、これは、変種ブンゴウメ Prumus mume var. bungo 。「杏梅」及び「鶴頂梅」(この異名は、好きだな)は、孰れも、その異名であるから、良安の謂いは正しい。』「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「うめ(梅)」に」「豊後系」は『形態的にアンズに近く、開花期は遅く、花・果実は大きいが、結実能は劣る』とし、『豊後性(ぶんごしょう)』と『杏性(あんずしょう)』の二群の下位分類を示す。小学館「日本国語大辞典」には、『ウメの変種。アンズとの雑種に由来するとみられ、葉・花・果実が大きい。花は半八重のものが多く淡紅色で遅咲き。果実は径約五センチメートルの球形で黄赤色に熟し赤褐色の斑点がある。果肉は厚く甘酸っぱく、梅干や煮梅にされる。鶴頂梅。肥後梅。越中梅。』とある。ウィキの「ウメ」では、『豊後梅』、異名を『鵞梅』・『鶴頂梅』・『ぶんご梅』とし、『梅とアンズの交雑種。豊後国(現在の大分県)が原産地だが、耐寒性が強いので』、『東北地方などの寒冷地で栽培が多い。耐病性は弱く、また果肉の繊維が多くて粗いため』、『加工品の品質はあまり良くない』。『花は淡紅、白の一重、八重など系統により異なる。果実重』四十~七十グラム。『自家不和合性のため』、『受粉樹が必要。また、雄性不稔性のため』、『他品種の受粉樹には使えない。他の主要品種に比べ』、『開花時期が遅いため』、『受粉樹もその時期に合うものが必要。「豊後梅」の名は、豊後を親として品種改良された豊後系品種の総称としても用いられる。豊後系品種の中には自家和合性や稔性を持つものもある』とある。

『「大梅《おほうめ》」【花、「豊後梅」のごとし。其の實、更に、大なり。】』ブンゴウメ Prumus mume var. bungo は、もともと、大粒で果肉が厚く、種が小さく、果肉の割合が多い種である。植物販売サイトのこちらに、「大株豊後」とあって、『実付きまでが早』く、『果重』四十~七十グラム『の巨大梅』(写真あり)で、『桃花も美しく、寒さに強い』とある。

『「越中梅《えちちゆううめ》」【大花。白に淡紅を帶ぶ。千葉。實も亦、大なり。】』Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ウメ(園芸品種) 梅」のページの「日本の梅の歴史」の項に、著者未詳の本邦最初の総合園芸書である「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年刊)の「梅(むめ)珍花異名の事」に「越中梅」の名が載るが、「日本国語大辞典」の「越中梅」では、『ぶんごうめ(豊後梅)」の異名』と、ケンもホロロ。

『「楊貴妃《やうきひ》」【花の形、「越中梅」に似て、莟《つぼみ》の時、紅。其の實、小さし。】』 Prunus mume 'Yōkihi' 「跡見群芳譜」の「ようきひ(楊貴妃)」を見られたい。

『「求來願(とめこかし)」【小花。形、「豊後梅」の花のごとし。】』既注の西行の一首に基づいた名梅の名であるが、「日文研」の「拾遺都名所圖會」のデータベースにある当該部の画像をトリミングして掲げ、そこにある添え書きを電子化しておく(句読点を附した)。また、同データベースの国土地理院図の当該ポイントのそれも、リンクしておく。

Tomekokasi

とめこかしの梅(むめ)
西行上人(さいぎやうしやうにん)「とめこかしの梅」は、
上加茂(かみがも)の堤(つゝみ)の南、西念寺(さいねんじ)
といふに、あり。此所、堤(つゝみ)の
下(もと)にて、地形(ちけい)低(ひきゝ)により、世に
「窪寺(くぼてら)ともいふ。

「新古今」
 とめこかし
  梅(むめ)さかりなる
 わか宿(やと)を
 うときも
   人は
 をりに
  こそ
  すれ
  西行法師

『「箙梅(えびらの)《うめ》)」【中花。「越中梅」のごとくして、小さし。香り、有り。】』前掲の「梅品」の「紅梅」の部に載る。ここ(図)と、ここ(解説)。それを訓読すると、『桃花に似て、色、淡紅・「かば色」なり。花、まばらに付き、大輪にして、花・枝ともに、桃に、よく似たり。二月末に開く。木北野菅庿』(「廟」に同じ)『東門の墻』(かき・垣根)『下に、二、三株あり。』とある。小学館「日本国語大辞典」に、『梅の一品種の名。花はまばらにつき、淡紅色、大形でやや桃の花に似ている』とある。学名は、かなり探したが、見当たらない。

『「鎗梅《やりうめ》」【中花。白く、淡紅色を帶ぶ。香り、有り。】』小学館「日本国語大辞典」に、『ウメの一品種。花は白く、やや淡紅色を帯びる。』とある。学名、同前。

『「關東紅梅《かんとうこうばい》」【大花。正紅。八重。始終、色香、佳美なり。】』不詳。

『「唐紅梅(から《こうばい》)」【大花。深紅色。八重。】』「跡見群芳譜」の「とうばい (唐梅)」とあるのが、それであろう。学名 Prunus mume 'Tōbai' だが、「一重唐梅」をPrunus mume 'Hitoe-tōbai'、「八重唐梅」Prunus mume 'Yae-tōbai' 『を区別することがある』とある(学名の品種表記部分の二つの異名を載せる)。

『「濃紅梅(こひ《こうばい》)」【大花。深赤に、微《やや》、紫を帶び、美くし。葉も麗《うるは》し。】』不詳。「紅梅性」(こうばいしょう)の古い品種名であろう。

『「香紅梅《かうこうばい》」【小花。紅。八重。香り、有り。子を結ぶ。】』不詳。同前。

『「㲊山紅梅《えいざんこうばい》」【大花。紅。八重。其の周緣、色、特に濃し。】』「㲊」は「叡」の異体字。前掲の「梅品」の「紅梅」の部に載る。ここ(右)。それを訓読すると、『ゑい山』(「ゑ」(原本「ヱ」)はママ)『白梅に似て、花、遲く、紅の八重なり。』とある。学名不詳。先の「㲊山白」 Prunus mume 'Eizanhaku' の白花品種とは、軽々には言えない。

『「未開紅(みかいこう)」【大花。紅。八重。未だ、開かざる時、深赤。實、大にして、杏《あんず》のごとし。誓願寺の鎭守の社前に在り。】』割注で示した通り、「誓願寺」は京都府京都市中京区新京極通三条下ル桜之町(さくらのちょう)にある浄土宗西山深草(せいざんふかくさ)派総本山深草山誓願寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。サイト「京都もよう」の「誓願寺 京都の女人往生の寺と未開紅の梅」のページで、この梅の木が、同寺の東方にある塔頭長仙院で、代々、守られて現存していることが判った。そこに『蕾の頃は紅色であり、開花すると白い花になります』。『「新京極の七不思議の一つ」とされています』とあった。「跡見群芳譜」の「みかいこう(未開紅)」に、Prunus mume 'Mikaikō' とあり、『「未開紅」の名は、開花のとき花びらが』、一、二『枚』、『開き遅れることから、という』とあり、また、『神戸市有馬の林渓寺(湯山御坊』・『東本願寺別院』に古木がある。本山)十九『世乗如が』、(一七八一)年、『有馬に入湯した折に、蕾のうちから紅いことから、この木を未開紅と名づけたという伝説がある』とある。林渓寺はここ(グーグル・マップ・データ)。「有馬温泉」公式サイト内の「林渓寺(真宗大谷派)」に、『樹齢二百余年の紅梅があります』とあって、『江戸時代は、東本願寺の別院で「湯山御坊」と呼ばれており、境内には樹齢二百余年の紅梅があります』。『この紅梅は、江戸時代、本山の十九世乗如上人が蕾のうちから紅いところから未開紅と名づけられ、この実を食べれば子宝に恵まれると伝えられ、「はらみの梅」「にむしんの梅」ともいわれてます』とあった。

『「行幸《ぎやうかう》」【大花。紅。千葉。微《やや》、柹色を帶ぶ。】』前掲の「梅品」の「紅梅」の部に載る。ここ(左)に載る。その解説に、『紅梅なり。花、しこし、遲し。』とある。小学館「日本国語大辞典」に、『行幸梅』(ぎょうこうばい)で載り、『ウメの一品種。花は紅色で大きい。』とある。学名は確認出来ない。

『「奧乃紅梅(おくの《こうばい》)」【大花。紅。八重。美くし。】』不詳。

『「本立寺《ほんりゆうじ》」【大花。單葉。其れ、開くこと、稍《やや》、遲し。】』不詳。「本立寺」という寺名は、比較的に多く、特定も不可能である。幾つかのフレーズで試みたが、品種名としても、見出せなかった。

『「虎尾(《とら》の《を》)」【中花。紅。千葉にして、翹楚《ずはえ》も亦、悉く、花、有り。甚だ、繁くして、「虎の尾」に似たり。】』割注で示した通り、「翹楚《ずはえ》」は、木の枝や幹から、まっすぐに細く長く伸びた若い小枝。「すわい」「ずわい」「すわえぎ」とも読む。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ウメ(園芸品種) 梅」のページに、「難波性(なにわしょう:『枝が細く、トゲ状の小枝が少ない。新しい枝には赤みがある。葉も小型、丸葉。 花は八重、比較的遅咲き(普通』、二~三『月)、白色~淡紅色、香りがよい』とある)に、品種として『虎の尾』とある。「偕楽園」公式サイト内の「梅図鑑」に、「虎の尾」として、『花梅』とし、開花は、二『月上旬~』三『月中旬』とあり、『花色』は『白』、『大きさ』は『中大輪』とし、二・五~三・五センチメートルとある。『八重』の『難波性』で、『水戸の六名木の一つ』とする。学名は、Prunus mume 'Toranoo'

『「軒端梅(のきばの《うめ》)」【中花。深赤≪なるも≫、紫のごとし。單葉。其の葩《はなびら》五つより、八つ、九つに至る。洛陽の誠心院の「和泉式部の墓」の傍らに在り。】』Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ウメ(園芸品種) 梅」のページに、現在の和名は「小川梅」とするが、学名は検索では出ない。『洛陽の誠心院の「和泉式部の墓」』は、和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝筐印塔)で、グーグル・マップのここである。私は行ったことがあるが、梅の木は、ない。サイド・パネルの誠心院による解説板の写真があり、そこには、『江戸時代の名所絵図には、石塔と共に、傍らにあった軒端の梅が描かれています』とある。私の持っている「都名所圖會」(安永九(一七八〇)年に町人吉野家為八が企画・発行したもの)には、挿絵があるが、「梅」と判るようには、描かれていない。ネットの画像検索で探したが、見つからなかった。識者の御教授を乞う。

『「單葉冬至梅(ひとへの《とうじばい》)」【中花。單《ひとへ》。紅。冬月、開く。】』注で先行す『「冬梅《ふゆうめ》」の、「紅冬至」(こうとうじ: Prunus mume 'Kōtōji' )であろう。

『「八重冬至梅(《やへ》の《とうじばい》)」【中花。淺紅。八重。冬、開く。】』同前の「八重冬至」(やえとうじ: Prunus mume 'Yaetouji' )であろう。

『「座論梅(《ざろん》の《うめ》)」【中花。淺紅。千葉。其の實、朶《えだ》毎《ごと》に、四、五顆《くわ》。長ずるに隨ひて、揠《ぬ》け落ちて、坐を論《あげつら》ふがごとし。】』「重葉梅《じふやうばい》は、花・葉、重疊《じふじやう》≪して≫、實を結ぶに、《實は》雙《ふたつ》≪の者(もの)≫、多し。」で注した通り、「ザロンバイ」で、学名を変種Prunus mume var. pleiocarpa とする。

『「源氏紅梅《げんじこうばい》」【中花。淺紅。千葉。最も繁く、實も亦、生ず。】』「跡見群芳譜」に「げんじさらさ (源氏更紗)」 Prunus mume 'Genjisarasa' )があるが、これか。

「江戸の龜井戸に、名木の梅、有り。枝、地に着く處、根を生じ、方《はう》六丈余《あまり》に蕃(はびこ)る【白花。香り、甚し。】」サイト「亀戸梅屋敷」の「亀戸梅屋敷について」に、『江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や竪川を船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます』。『特に庭園のなかを数十丈』(百五十メートル)『にわたり』、『枝が地中に入ったり出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけ』、『この地を訪れた水戸光圀は、まるで竜が臥しているようであると感嘆し、その木に「臥竜梅」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえ、「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです』。『「亀戸梅屋敷」の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重が安政三年』(一八五七年)『に描いた』『名所江戶百景』の中の「龜戶梅屋敷」『は、江戸の時代に』、『海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホ』(Vincent Willem van Gogh 一八五三年~一八九〇年七月二十九日)は、オランダのポスト印象派の画家。)『が模写(作品名「日本趣味:梅の花」/』(原題‘ Japonaiserie : l'arbre ( Prunier en fleurs )’:一八八七年:明治二十年)『するなど、日本のみならず』、『世界から評価された傑作と言えるでしょう』とある。残念ながら、この「臥龍梅」は現存しない。]

« 現在作業中の「和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 梅」について | トップページ | 西尾正 守宮(いもり)の眼 »