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« 和漢三才圖會卷第八十七 山果類 柚 | トップページ | 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「四月から」 »

2025/01/20

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (我々の夢は大理石の兜、……:序詩)・(高臺にはなほ日ざしがある。……)・(これは私が自分を見出す時間だ。……)・(夕ぐれは私の書物。花緞子の、……)・(屢〻臆病に身震ひして、私は……)・(そして我々の最初の沈默はかうだ。……)・(しかし夕ぐれは重くなる。……)・(私は人間の言葉を恐れる。……)・(誰が私に言ひ得る。……) / 「舊詩集」~了

 

 

我々の夢は大理石の兜、

それを我々は御寺(みてら)に置き、

我々の花輪で明るくし、

我々の願で暖める。

 

我々の言葉は黃金の胸像、

それを我々は我々の日に運び入れる、――

いきいきとした神々は

向ふ岸の涼しい中に聳えてゐる。

 

我々はいつも同じ無氣力の中にゐる、

働らかうとまた休まうと。

しかも我々は永久の身振をする

光る影を持つてゐる。

 

[やぶちゃん注:私が、ここを前のパートとは切れていると判断したのは、岩波文庫の校注に、再版の『『詩集』ではこの詩全体が小さい活字で組み直された』とある(以下、訳詩の四箇所を書き変えていることが書かれてある)。それは、今までの二箇所の前例によって、それが、謂わば、「序詩」に当たるものとして、茅野が、改変した、と考えざるを得ないからである無論、ここの校注では、「序詩」という語は使われていないのだが、私は、これを「序詩」として、以下の無題の詩篇を、ソリッドなものとして電子化することとした。

 なお、底本の終りにある、「目次」を見ると、「マリアヘ少女の祈禱(十一章)」とあった、後に、一行空けで、以上の九篇を載せている。則ち、これらの詩は、特にパート標題を使用せずに、リルケが「舊詩集」に記した詩篇群(全部ではあるまい)であることが判る。

 なお、再版「詩集」で訳文を変えたというのは、読者には、気になるであろうから、以下に、復元しておく。ポイント落ちは、再現していない。書き変えた箇所に下線を引いた。

   *

 

我々の夢は大理石の兜、

それを我々は御寺に置き、

我々の花輪で明るくし、

我々の願で暖める。

 

我々の言葉は黃金の胸像、

それを我々は我々の日に運び入れる、――

いきいきとした神々は

向ふ岸の涼しい中に聳えてゐる。

 

我々はいつもと同じ無氣力の中にゐる、

働らかうとまた休まうと。

しかも我々は永久の科(しぐさ)をする

輝く影を持つてゐる。

 

   *]

 

 

 

高臺にはなほ日ざしがある。

それで私は新しい喜悅を感ずる。

今若し私が夕ぐれの中を摑めたら、

私は凡ての街に黃金を

私の靜けさから蒔くことが出來るだらう。

 

私は今世の中から遠く離れ、

その晚い輝きで、

私の嚴肅な孤獨に笹緣をつける。

 

あだかも今誰かが

私が耻ぢない程にやさしく、

そつと私の名を奪ふやうだ。

 

それから私は最う名が要らないのを知つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「晚い」「くらい」。

「笹緣」複数回既出既注。「ささべり」「ささへり」とも読む。衣服の縁、或いは、袋物や茣蓙(ござ)などの縁(へり)を、補強や装飾の目的で、布や扁平な組紐で細く縁取(ふちど)ったものを指す。

「最う」「もう」。]

 

 

 

これは私が自分を見出す時間だ。

うす暗く牧場は風の中にゆれ、

凡ての白樺の樹皮は輝いて、

夕暮がその上に來る。

 

私はその沈默の中に生ひ育つて、

多くの枝で花咲きたい、

それもただ總べてのものと一緖に

一つの調和に踊り入る爲め……

 

 

 

夕ぐれは私の書物。花緞子の

土の表紙が眼もあやだ。

佛はその金の止金(とめがね)を

冷たい手で外(はづ)す。急がずに。

 

それからその第一ペエヂを讀む、

馴染み深い調子に嬉しくなつて――

それから第二ペエヂを更にそつと讀むと、

もう第三ペエヂが夢想される。

 

[やぶちゃん注:「花緞子」「くわどんす」。「花曇子」とも書く。絹織物の一つ。花形(はながた)の紋様を織り出した緞子(どんす:それぞれの「ドン」・「ス」は、それぞれ、「緞」「子」の唐宋音)は、練糸で製し、地が厚く、光沢の多い絹織物を指す(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 

 

 

臆病に身震ひして、私は

どんなに深く自分が人生の中にゐるかを感ずる。

言葉はただ牆壁だ。

その背後(うしろ)、いつも一層靑い

山々に、其意味はかがやいてゐる。

 

何についても私は標號を知らないが、

私はその國に耳を傾ける。

そして聞く傾斜地に熊手を、

小舟等の沐浴を、

波うつ際の沈默を。

 

[やぶちゃん注:「牆壁」「しやうへき」。

「小舟等の沐浴を」「こぶねらの」。ここは擬人法である。

「際」「きは」。これは茅野が再版「詩集」で漢字をやめて、ひらがなで「きは」と、している。]

 

 

 

そして我々の最初の沈默はかうだ。

我々は身を風のものにし、

ふるへながら木の枝となり、

五月に耳を傾ける。

其處には影が一つ路上にある、

聞きいると――雨がはらはら。

全世界はそれを迎へて生ひ育つ、

その惠みに近づかうと。

 

 

 

しかし夕ぐれは重くなる。

すべては今孤兒(みなしご)に等しく、

大方は最う互に解らない。

知らない國の中のやうに、

家々の緣に沿つて徐に步いて

あらゆる園に耳を傾ける――

知りはしない、彼等が

一事の起るのを待つてゐるのだとは。

見え難い兩手が、

知らない生活から、

小聲に自分の歌を高めるとは。

 

 

 

私は人間の言葉を恐れる。

しかも人々は萬事を明瞭に云ふ、

これは犬、あれは家、

此處に始があり、彼處に終があると。

 

私に氣づかはれるは彼等の感覺と、嘲笑の戲れだ、

彼等は未來をも過去をも皆知つてゐる。

山も彼等には最早や不思議ではなく、

彼等の花園と屋敷とは丁度神に境してゐる。

 

私は幾時も離れて居ろと戒め防がう。

私は好く、物の歌ふを聞くのを。

お前等が物に觸れると、物は硬く默る。

お前等は皆私に物を殺すのだ。

 

[やぶちゃん注:「此處に始があり、彼處に終があると。」「ここにはじまりがあり、かしこにをはりがあると。」。

「幾時も」「いつも」。

「防がう」「ふせがう」。

「好く」「すく」。再版「詩集」で、これでルビを振っている。]

 

 

 

誰が私に言ひ得る。

何處に私の生が行きつくかを。

私も亦た嵐の中に過ぎゆき、

波として池に住むのではないか。

また私は末だ春に蒼白く凍つてゐる

白樺ではないのか。

 

 

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