茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (我々の夢は大理石の兜、……:序詩)・(高臺にはなほ日ざしがある。……)・(これは私が自分を見出す時間だ。……)・(夕ぐれは私の書物。花緞子の、……)・(屢〻臆病に身震ひして、私は……)・(そして我々の最初の沈默はかうだ。……)・(しかし夕ぐれは重くなる。……)・(私は人間の言葉を恐れる。……)・(誰が私に言ひ得る。……) / 「舊詩集」~了
我々の夢は大理石の兜、
それを我々は御寺(みてら)に置き、
我々の花輪で明るくし、
我々の願で暖める。
我々の言葉は黃金の胸像、
それを我々は我々の日に運び入れる、――
いきいきとした神々は
向ふ岸の涼しい中に聳えてゐる。
我々はいつも同じ無氣力の中にゐる、
働らかうとまた休まうと。
しかも我々は永久の身振をする
光る影を持つてゐる。
[やぶちゃん注:私が、ここを前のパートとは切れていると判断したのは、岩波文庫の校注に、再版の『『詩集』ではこの詩全体が小さい活字で組み直された』とある(以下、訳詩の四箇所を書き変えていることが書かれてある)。それは、今までの二箇所の前例によって、それが、謂わば、「序詩」に当たるものとして、茅野が、改変した、と考えざるを得ないからである。無論、ここの校注では、「序詩」という語は使われていないのだが、私は、これを「序詩」として、以下の無題の詩篇を、ソリッドなものとして電子化することとした。
なお、底本の終りにある、「目次」を見ると、「マリアヘ少女の祈禱(十一章)」とあった、後に、一行空けで、以上の九篇を載せている。則ち、これらの詩は、特にパート標題を使用せずに、リルケが「舊詩集」に記した詩篇群(全部ではあるまい)であることが判る。
なお、再版「詩集」で訳文を変えたというのは、読者には、気になるであろうから、以下に、復元しておく。ポイント落ちは、再現していない。書き変えた箇所に下線を引いた。
*
我々の夢は大理石の兜、
それを我々は御寺に置き、
我々の花輪で明るくし、
我々の願で暖める。
我々の言葉は黃金の胸像、
それを我々は我々の日に運び入れる、――
いきいきとした神々は
向ふ岸の涼しい中に聳えてゐる。
我々はいつもと同じ無氣力の中にゐる、
働らかうとまた休まうと。
しかも我々は永久の科(しぐさ)をする
輝く影を持つてゐる。
*]
高臺にはなほ日ざしがある。
それで私は新しい喜悅を感ずる。
今若し私が夕ぐれの中を摑めたら、
私は凡ての街に黃金を
私の靜けさから蒔くことが出來るだらう。
私は今世の中から遠く離れ、
その晚い輝きで、
私の嚴肅な孤獨に笹緣をつける。
あだかも今誰かが
私が耻ぢない程にやさしく、
そつと私の名を奪ふやうだ。
それから私は最う名が要らないのを知つてゐる。
[やぶちゃん注:「晚い」「くらい」。
「笹緣」複数回既出既注。「ささべり」「ささへり」とも読む。衣服の縁、或いは、袋物や茣蓙(ござ)などの縁(へり)を、補強や装飾の目的で、布や扁平な組紐で細く縁取(ふちど)ったものを指す。
「最う」「もう」。]
これは私が自分を見出す時間だ。
うす暗く牧場は風の中にゆれ、
凡ての白樺の樹皮は輝いて、
夕暮がその上に來る。
私はその沈默の中に生ひ育つて、
多くの枝で花咲きたい、
それもただ總べてのものと一緖に
一つの調和に踊り入る爲め……
夕ぐれは私の書物。花緞子の
土の表紙が眼もあやだ。
佛はその金の止金(とめがね)を
冷たい手で外(はづ)す。急がずに。
それからその第一ペエヂを讀む、
馴染み深い調子に嬉しくなつて――
それから第二ペエヂを更にそつと讀むと、
もう第三ペエヂが夢想される。
[やぶちゃん注:「花緞子」「くわどんす」。「花曇子」とも書く。絹織物の一つ。花形(はながた)の紋様を織り出した緞子(どんす:それぞれの「ドン」・「ス」は、それぞれ、「緞」「子」の唐宋音)は、練糸で製し、地が厚く、光沢の多い絹織物を指す(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
屢〻臆病に身震ひして、私は
どんなに深く自分が人生の中にゐるかを感ずる。
言葉はただ牆壁だ。
その背後(うしろ)、いつも一層靑い
山々に、其意味はかがやいてゐる。
何についても私は標號を知らないが、
私はその國に耳を傾ける。
そして聞く傾斜地に熊手を、
小舟等の沐浴を、
波うつ際の沈默を。
[やぶちゃん注:「牆壁」「しやうへき」。
「小舟等の沐浴を」「こぶねらの」。ここは擬人法である。
「際」「きは」。これは茅野が再版「詩集」で漢字をやめて、ひらがなで「きは」と、している。]
そして我々の最初の沈默はかうだ。
我々は身を風のものにし、
ふるへながら木の枝となり、
五月に耳を傾ける。
其處には影が一つ路上にある、
聞きいると――雨がはらはら。
全世界はそれを迎へて生ひ育つ、
その惠みに近づかうと。
しかし夕ぐれは重くなる。
すべては今孤兒(みなしご)に等しく、
大方は最う互に解らない。
知らない國の中のやうに、
家々の緣に沿つて徐に步いて
あらゆる園に耳を傾ける――
知りはしない、彼等が
一事の起るのを待つてゐるのだとは。
見え難い兩手が、
知らない生活から、
小聲に自分の歌を高めるとは。
私は人間の言葉を恐れる。
しかも人々は萬事を明瞭に云ふ、
これは犬、あれは家、
此處に始があり、彼處に終があると。
私に氣づかはれるは彼等の感覺と、嘲笑の戲れだ、
彼等は未來をも過去をも皆知つてゐる。
山も彼等には最早や不思議ではなく、
彼等の花園と屋敷とは丁度神に境してゐる。
私は幾時も離れて居ろと戒め防がう。
私は好く、物の歌ふを聞くのを。
お前等が物に觸れると、物は硬く默る。
お前等は皆私に物を殺すのだ。
[やぶちゃん注:「此處に始があり、彼處に終があると。」「ここにはじまりがあり、かしこにをはりがあると。」。
「幾時も」「いつも」。
「防がう」「ふせがう」。
「好く」「すく」。再版「詩集」で、これでルビを振っている。]
誰が私に言ひ得る。
何處に私の生が行きつくかを。
私も亦た嵐の中に過ぎゆき、
波として池に住むのではないか。
また私は末だ春に蒼白く凍つてゐる
白樺ではないのか。
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