茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(物の上にひかれてゐる、……)
物の上にひかれてゐる、
大きくなる輪の中に私は生活する。
恐らく最後の輪を完成はしなからう。
でも私は試みようと思つてゐる。
私は神をめぐり、太古の塔をめぐつて
千年も廻つてゐるが、
未だ知らない、私は鷹なのか、嵐なのか、
偉大な歌なのかを。
私等は自力ではあなたを畫けない。
朝の登つて來た薄明みゆくものよ。
私等はふるい繪具皿から、
聖者があなたをそれで默らせた、
同じ線、同じ光を持つて來る。
私等はあなたの前に繪を建てる、壁のやうに。
それ故千の塀がもうあなたを取卷いてゐる。
私たちの心があなたを開いて見る度に、
私等の敬虔な手があなたを蔽ふのだから。
[やぶちゃん注:この詩篇、岩波文庫の校注では、『この九行目以下の二連は実際には原詩では別の詩だと思われるが』、再版『「詩集」でも訂正されず一つの詩として扱われている。単なるミスか何らかの意図があったかは不明』とある。こう解説しながら、その原詩を指示していないのは、甚だ消化不良の感が強い。編集者は私と同様、ドイツ語には、実は、冥い人物であると推定される(この岩波文庫の校注では、原詩を示す注記は、一切、示されていないからである)。非力ながら、一応、調べてみた限りでは、「Internet archive」のここにある、‘ Das Stunden-Buch : enthaltend die drei Bücher : Vom moenchischen Leben , Von der Pilgerschaft, Von der Armuth und vom Tode ’(機械翻訳を参考にすると、『時禱書:修道生活:「巡禮」・「貧困」・「死に就いて」の三つの書を含む』)の中の二篇であろうか? と、私には思われた。違っていたら、御指摘を願いたい。
「畫けない」「ゑがけない」。
「朝の登つて來た薄明みゆくものよ」岩波文庫の校注に、この行は、再版「詩集」では、『薄明(うすあか)みゆくものよ、そこから朝は登つえ來た』に書き変えてあるとあった。]
« 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」「修道院生活」 | トップページ | 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(隣人の神樣、私が長い夜にをりをり……) »