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2025/01/13

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版~始動 序・「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「古い家」

[やぶちゃん注:昨日、堀辰雄の『ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄譯 「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』を公開したところ、私の最初の担任(彼は、唯一、私が三年間、担任を持ち、私の「現代国語」を三年も受け続けた結果、私の陰鬱なる思想に染みてしまった不幸な男子生徒であった)から、『還暦が見えてきた今こそ、飴色の憂愁に沈むリルケの世界が、五臓六腑に沁み渡る気がします。』と感想が来た。そこで、一念発起し、最愛の教え子である彼のために、ブログ・カテゴリ『茅野蕭々「リルケ詩抄」』を創始し、リルケの茅野蕭々氏の訳された「リルケ詩抄」を正規表現で電子化することに決した。

 茅野蕭々明治一六(一八八三)年~昭和二一(一九四六)年はドイツ文学者・歌人。本名は儀太郎。長野県出身。東京帝国大学独文科卒。第一高等学校在学中から、『明星』に短歌を発表している。代表著作は本「リルケ詩抄」・「獨逸浪漫主義」など(小学館「日本国語大辞典」)。当該ウィキによれば、『「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームで』、『『明星』廃刊後は、森鷗外、与謝野鉄幹らの『スバル』で活躍した』。『リルケ』の他、『ゲーテその他の翻訳書が多数ある』。『茅野は当時、与謝野晶子、山川登美子とともに『明星』に短歌を寄せ活躍していた』三『歳年上の増田雅子に熱烈な求婚をし、親の反対を受けた雅子が日本女子大の卒業を待って、絶縁覚悟で大学生の蕭々と結婚した』。『戦時中は』「日本文學報國会外國文學部会長」『であった』敗戦直前の『東京大空襲で被災し』、『顔面に火傷を負い、翌』『年』、『失意のうちに脳溢血で急死し、雅子も後を追う』ように、四日『日後に病死した。墓所は雑司ヶ谷霊園』にある、とある。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの茅野蕭々譯「リルケ詩抄」(昭和二(一九二七)年五月発行・第一書房刊)を用いる(リンク先は扉。実は、変則的に標題扉の前の見返しらしき箇所(ここ)に別に「譯詩集」とだけ縦書したものがある。奥附はここ)。

 私はドイツ語が出来ないので、原詩との詳細対照等は出来ないため、注は、訳文で必要と思った箇所にのみ限ることとする。なお、本書には「目次」は最後にある。「小序」と「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年)の「古い家」から始める。

 但し、若い読者や、日本語がネイティヴでない方のために、やや戸惑うかもしれない漢字・熟語については、読みの注を附すこととする。

 なお、所持する岩波文庫版茅野蕭々訳「リルケ詩抄」(二〇〇八年第一刷・二〇一五年第二刷(新字正仮名変更版・但し、「小序」は新仮名である)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。]

 

     小  序

 

 私がライネル・マリア・リルケの詩作に始めて接したのは、今から殆ど二十年前のことであるが、其後私は或る時期の間全く熱狂的に彼の詩を耽讀したものであった。ここに集めたものは、その頃から機會ある每に試譯したものに新に二、三十篇を加へて、時代順に配列したものであるが、一册の書物としての體裁を整へるために、以前の譯にも或る程度まで手を入れることにしてみた。當時文語脈を用いた詩も今は悉く口語に改めた如きは卽ちそれである。しかしながら譯語の選擇等に關しては成る可く譯した時の趣味を尊重して、多く改めることを敢てしなかつたのは、それに必要な多大の勞力を惜んだ故ばかりではなく、私にとっては忘れ難い追憶の幾つかがその間に織り込まれてゐるからでもある。そして選んだ詩は必ずしもリルケの代表的作品のみではないが、其數百五十餘、此詩人を知るに是非とも缺けてはならないと思ふやうな詩は出來るだけ入れることにした。しかし譯出不可能の爲に遺憾ながら其儘にしたものも少くはない。これは一つに譯者の伎倆の未熟に因るのであつて、原作者に對しても讀者に向つても深く恥ぢ入るところである。

 一體私の信條によると、西歐の詩を邦語に移すことは嚴格の意味に於ては全く不可能のことであって、特にリルケの場合のやうに、用語、詩形、律動等に複雜微妙な異色を持つてゐる時は尙更らである。從つて私の試みも原作の詩想の僅に一端を指唆し得ることを目標に置いて居るのみで、その滋味を完全に傳へるには遠く、寧ろリルケの詩を離れぬ私自身の詩作とも云ふべきものである。それ故私は卷末に此詩人に關する小論文を附して、他面から此詩抄の足りない處を補おうとしてみた。此論文は嘗て畏友阿部次郞君が主幹であった雜誌『思潮』に揭載したものに修補を加えたものであるが、此詩抄の中に採錄せられなかったリルケの其後の詩集『マリアの生涯』、『オルフォイスヘのソネット』、『ドゥイネエゼル・エレギエン』等には論及してはいないが、それによって此詩人の重大なものを云ひ落してはゐないだらうと思つてゐる。

 なほ最後に私の親愛な讀者に告げなくてはならないことは、此書の校正がほぼ終つた頃到着した獨逸新聞によると、リルケは近年住んでゐたスイスで壞血病の爲に舊臘二十九日終に永眠したといふ。療養地モントロェエで數週間病臥の後であるとのことである。私は此書が出來上った曉には、遙に一本を詩人の座右に送って、遠い東洋の果てにも彼の親しい友人のあることを知らせようと思っていたのに、今は此一卷が彼の在天の靈に捧げる私の誄辭に代ることになった。私はそれを心から悲しまずにはゐられない。

    昭和二年二月         譯  者

[やぶちゃん注:最後の「譯  者」は底本では三字上げ下インデント。

「卷末に此詩人に關する小論文を附して」この論文は国立国会図書館デジタルコレクションの右コンテンツの「目次」にはない(というか、この「目次」は不全である)。ここから始まる「ライネル・マリア・リルケ」が、それである。

「リルケは近年住んでゐたスイスで壞血病の爲に舊臘二十九日終に永眠したといふ。……」当該ウィキによれば、『晩年のリルケはヴァレリーの翻訳に精神を傾け(』一九二四『年にはヴァレリーがリルケを訪ねている)、またフランス語による詩作も行なっていたが』、一九二三『年より健康状態が悪化しヴァル・モンのサナトリウムに入院するようになった』。一九二六年十月、『白血病と診断されヴァルモン診療所に入院、同年』十二月二十九日、五十一『歳で死去した』。『遺言によって墓碑銘に指定された以下の詩は、「やってこい、わたしの認める・・・」ではじまる未完の遺稿とともに晩年の詩境を表すものとして名高い』。

   *

 

  Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,

  Niemandes Schlaf zu sein unter soviel

  Lidern.

 

  薔薇よ、おお純粋なる矛盾、

  それだけ多くのまぶたの下に、誰の眠りも宿さぬことの

  喜びよ。

 

   *

なお、私も聴いたことがあるが、鼻白んだ流言に、同脚注2に、『バラの棘を刺して白血病になった、という伝説があり、手塚富雄もそう書いているが』(「ドゥイノの悲歌」一九五七年岩波文庫刊)、『これは白血病の原因たりえず、英語版・ドイツ語版でも』、『この記述はない。神品芳夫』「リルケ 現代の吟遊詩人」(青土社・二〇一五年刊・294p)『には、ミュゾットの館で「彼女(ニメト・エルイ=ベルイ)のため庭に咲く薔薇を切ろうとして棘を指に刺し、出血が止まらなくなったという話はたちまち広まった。しかしそのときには』、『すでに彼は悪性の白血病との診断が確定していた」とある』とある。

「私は此書が出來上った曉には、遙に一本を詩人の座右に送って、遠い東洋の果てにも彼の親しい友人のあることを知らせようと思っていたのに、今は此一卷が彼の在天の靈に捧げる私の誄辭に代ることになった。私はそれを心から悲しまずにはゐられない」恐らく、生前に、この訳書をリルケが見ていたら、非常に喜んだものと思われる。リルケは晩年、日本の著作に強い関心を持ち、晩年の恋人であった、画家バラディーヌ・クロソウスカ(Baladine Klossowska 一八八六年~一九六九年)の子(夫であったエリク・クウォソフスキ(ドイツ語:Erich Klossowski)との間に生まれた第二子)であった、後の著名な画家として大成するバルテュス(Balthus)に、『リルケの薦めで』、『岡倉天心の』「茶の本」を読ん』(ウィキの「バルテュス」に拠る)でいるからである。

 なお、この「小序」は、岩波文庫の「校注」によれば、後の昭和一四(一九三九)年六月に、同じ第一書房から刊行された「リルケ詩集」(国立国会図書館デジタルコレクションでは出てこない)では、全面的に書き換えられてある。そこに載るものを、以下に示す(但し、新字新仮名に換えられており、適宜、読み仮名が附されてある。読み仮名は、かなり五月蠅いが(正直、総て不要である)、そのまま転写する)。

   *

 私がリルケ詩抄を公(おおやけ)にしたのは、今から既に十二年前のことである。当時我が国には、リルケについて何かを知っている人が必ずしも多いとは言い難かったが、今日に於(おい)てはその数も相当に達しているであろうし、この詩人について書く人も少くはないようである。詩人の本国及びフランス等に於て、リルケに関する研究や著述が今もなお引き続いて出版されることに刺戟(しげき)されるにも因るであろうが、兎に角喜ばしい現象と言わなくてはならない。私のように青年時から常に彼の詩作と親(したし)んで、殆ど心霊の生長を共にして来た者にとっては、特にその感が深い。実際この詩抄が再版を出そうなどとは、訳者の私自身さえ殆ど予期しなかったところである。

 しかしリルケの詩のよさは決して十年や二十年の歳月によって変るべきものではない。彼が世界の到(いた)る処(ところ)でなお盛(さかん)に読まれるのは当然と言わなくてはならない。しかし彼の詩作の価値が飜訳(ほんやく)によって果してよく伝えられるか否(いな)かとの疑は、私にとって昔も今も変らずに存している。今回版をかえるに際して増加したリルケ晩年の三詩集からの訳の如(ごと)き、その複雑多岐の思想情感を伝えることのみでも困難を感じたものが一、二に留まらない。況(いわ)んやその音響の美と意義との如きは、全く失われてしまった。実に、原詩の妙にうたれる時は、彼のすべての作を訳さずにはいられない切望に燃えるのであるが、訳筆の遠く及ばないことを顧(かえりみ)る時は、全訳詩を火中に投じたいほどの羞恥(しゅうち)にうたれる。旧訳についてもこれは同様であり、辞句の改訂したいものも少くないが、若い日の記念の為(ため)にと、成るべく旧体のままにし、僅(わずか)に数篇を削除したに過ぎない。巻末に附した論評も今日に於ては当時に於(お)けるほどの必要は無いように思われなくはないが、リルケを未(いま)だ多く知らない人には何等かの参考になろうと、敢(あえ)てその儘(まま)にした。更に附加した一節は、新に加えた三詩集の解説を主としたものである。書き出せば難解と思われる多くの詩句の註釈的説明をさえ試みたくなったが、またそれにも及ぶまいと考え直して、ただ概略に止(とど)めて置いた。彼の死後発表された書簡集、伝記、研究書等についても言いたいことがなくはないが、今はそれには言及しなかった。

  昭和十四年五月

                      訳 者

   *]

 

 

     第一詩集

 

 

     家神奉幣

       (一八九五年)

 

 

[やぶちゃん注:リルケ、二十歳の詩群より。原題は“ Larenopfer ”。「ラーレスへの捧げもの」の意。ラレース(Lares:古いスペルは“Lases”)は古代ローマ時代の守護神的な神々(複数)を指す。当該ウィキによれば、『その起源はよくわかっていない。家庭、道路、海路、境界、実り、無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで』、二『体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的だった』。『ラレースは、その境界内で起きたあらゆることを観察し、影響を与えると考えられていた。家庭内のラレース像は、家族が食事中はそのテーブル上に置かれた。家族の重要な場面では、ラレース像が必須となっていたと見られている。このため古代の学者らはこれを「家の守護神」に分類していた。古代ローマの作家の記述を見ると、ラレースと同様の家の守護神とされていたペナーテースを混同している場合もある。ローマ神話の主な神々に比べると守備範囲も力も小さいが、ローマの文化には深く根付いていた。アナロジーから、本国に戻るローマ人を』“ ad Larem ”「ラレースに戻る」『と称した』。『ラレースはいくつかの公けの祭りで祝福され』、『礼拝された。中には vici (行政区)全体を守護するとされたラレースもある。また、ラレースを祭った交差点や境界線にある祠(コンピタレス;Compitales)は、宗教、社会生活、政治活動の自然な焦点となっていた。これらの文化はローマ帝国初期の宗教・社会・政治改革に取り込まれた。ラレースを家庭内に祭るという文化は変化しなかったようである。これらは少なくとも紀元』四『世紀まで持ちこたえた』とある(以下、詳細な記載があるので、そちらを見られたい)。]

 

 

 古い家

 

 

古い家の中で。私の前は開(ひら)けて

全プラアハが廣い圓になつて見える。

深く下を薄明(はくめい)の時間が

音もなく輕い步みで行きすぎる。

 

町は模糊として硝子で張つたやう。

ただ高く、甲を著(つけ)た巨人かと

眼前に判然(はつきり)聳える聖ニコラスの

綠靑(りよくしやう)いろの塔の圓屋根。

 

もう此處彼處(ここかしこ)に燈火(ともしび)が、遠く

蒸暑い町のどよみに瞬きだす――

古い家の中で、今、一つの聲が

『アアメン』といふやうに思はれる。

 

[やぶちゃん注:「プラアハ」現在のチェコ共和国の首都。プラハ(チェコ語・スロヴァキア語:Praha)。

「聖ニコラス」(二七〇年頃~三四五年または三五二年)はキリスト教の主教(司教)・神学者。「ミラのニコラオス」・「ミラの聖ニコラオ」とも呼ばれる。ウィキの「ミラのニコラオス」によれば、『小アジアのローマ帝国リュキア属州のパタラの町に生まれ、リュキアのミラで大主教をつとめた』。一〇八七『年にイタリアのバーリに聖遺物(不朽体)が移されたため』、『「バーリのニコラウス」とも呼ばれる』。『聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている』。『その生涯は早くから伝説化され、ニコラオス伝は好んでイコンに描かれる。東方教会および南イタリアで重視されたが、のちには西方教会全域にもその崇敬が広まった』。『西方教会では「無実の罪に苦しむ人」の守護聖人ともされる』。『正教会の伝える聖伝』『には弱い者を助けた話や、信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っている。特に弱者を助ける際には、他人に知られないように行う事が常であった。また、数多くの奇蹟を行った事から奇蹟者との称号がある』とある。以下、詳しくはそちらを参照されたい。

「綠靑(りよくしやう)」読みはママ。岩波文庫の校注に、前掲した本詩集の再版である「詩集」で「綠靑(ろくしやう)」『に訂正された』とある。]

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