阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「献蠶產成字」
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]
「献蠶產成字」 有渡郡《うどのこほり》川鍋村にあり。「續日本紀」云。廢帝天平寳字元年秋八月己丑。駿河國益頭郡人金刺舍人麻自献二蠶兒成一字。其文云。五月八日開二下帝釋標ヲ一知二天皇命百年ナルヲ一云云。此年詔して年號を天平寳字と改む。云云。「駿府案內記」云。川奈邊、「風土記」には川鍋とも書ける。其昔孝謙天皇の御宇、此村より蠶の紙の上に皇帝命百年と云文字を作りしを、此國司の帝に奉ければ、則天平寶字と年號を改玉《かへたま》へり。又或說に、唐の僧鑑眞、此國の菩提樹院に居玉ひて、修法せられし故、此奇瑞ありと也。云云。爰に菩提樹院とあるは、安倍郡府中、寺町四町目、正覺山菩提樹院【濟家】の事にして寺記に詳也。云云。
[やぶちゃん注:ウィキに「金刺舎人麻自」(かなさしのとねり の まじ)があるので、それを引用する。彼『は、奈良時代の人物。姓はなし。駿河国益頭郡(』(ましづのこほり)『現在の静岡県焼津市の一部、藤枝市東南部の一部に』(この中央附近。グーグル・マップ・データ)『あたる)の人物。位階は従六位上』。『物部氏の一族である珠流河国造の嫡流的氏族である金刺舎人』(かなさしのとねり)『氏の人物。金刺舎人の氏名は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮』(しきしまかなさしのみや:伝承地は奈良県桜井市外山(とび)の旧初瀬川(はせがわ:奈良県北部を流れる大和川上流の古称)南方附近。ここ:グーグル・マップ・データ)『に仕えた舎人に因むもので、駿河国・信濃国(科野国造後裔)に分布している。駿河国に限定すると、天平』九(七三七)『年』の『駿河国正税帳に「主政无位金刺舎人祖父万侶」』、「續日本紀」(しよくにほんぎ)の延暦一〇(七九一)年『には』、「駿河國駿河郡大領」「正六位上金刺舎人廣名を國造と爲す」と『あり、駿河国の国造の一族であったと思われる』。「續日本紀」「卷第二十」『に、孝謙朝の天平勝宝』九『歳』(七五七)年八月、「駿河國益頭郡(やきづのこほり)の人金刺舍人麻自、蠶(こ)、產みて字を成すを獻(たてまつ)る」『とある』。『これにより、天皇は勅を出して、以下のような内容のことを述べた』。
――『自分は徳が薄いにもかかわらず、皇位を継いで』九『年になるが、これまで善政を行わず、淵に臨んでいるように危うい気分でおり、氷を踏んでいるように慎重にしている。去る』三月二十日『に、皇天(天の神)は「天下太平」の』四『文字をお示しになった。しかるに』、『橘奈良麻呂らの陰謀が発覚し、天の責を受け、ことごとく罪に服し、事件は大事に至らずに落着した』。『ここに、駿河国益頭郡の人、金刺舎人麻自が献上した蚕の卵が自然に書いた文字を得た。それは』、「五月八日開下(かいか)帝釋(たいさく)標知天皇命百年息」とあった。国内はこの瑞祥を』戴いて『喜んだが、どうすれば良いのか分からなかった。そこで群臣に議論させたところ』、五月八日『は太上天皇の一周忌のために法会を設けて悔過(けか』:『罪を悔いて改めること)が終わる日です。帝釈天は皇帝と皇太后(光明皇太后)の至誠に感じて、天門を開き、地上界の陛下の優れた仕事を見て、陛下の御世が百年続くことを示したものです。日月の照らすところ、聖胤(天子の子孫)が繁栄し、乾坤の載せるところ、宝祚(ほうそ』:『皇位が長く続くこと)が延長することを知っています。この瑞兆は国家が全く平らかになるしるしです。謹んで考えると、蚕は虎のような模様を持ち、時に皮を脱ぎ、馬のような口を持ちながら』、『争うことなく、室内で成長して』、『衣服を人々に与え、朝廷や祭礼の服もこれから作られる。このため、神虫をして、字を作り、用いて神異をあらわそうとしている。今、禍も収まった時、自然に霊字を呈し、戈を止める日に、朝廷に奏上した。これは天祐であり、吉兆であって、五八の数を並べると』、『宝寿の不惑(』数え四十『歳)に通じ、日月はともに明るく皇居の末永い栄えを象徴します』」――『と』上奏した。
帝は、『朕は自身の徳の薄さを恥じ、この瑞兆は賢明な補佐のもたらした功である。この天の恩恵を天下に知らしめるために、改元し、天平宝字元年とする』と『述べ、調庸の減免、雑徭の半減、公出挙の利子の免除、天下の租の半分の免除(寺院・神社は除く)などを決め、瑞兆を献上した無位の庶民である麻自は従六位上に叙し、絁』(あしぎぬ:古代日本に存在した絹織物の一種。交換手段・課税対象・給与賜物・官人僧侶の制服などに用いられた)二十『疋、調の綿』四十『屯』(とん:古代日本に於ける真綿の質量・取引単位。「主計式」に基づけば、一屯は四十匁(現在の百五十グラム)となるとするが、百二十匁(四百五十グラム)説もある)、『調の布』八十『端、正税』二『千束を与えられ、取り次ぎをした駅使の中衛舎人』(ちゆうゑのとねり:「中衛府」は日本古代に於いて、天皇側近の警固にあたった官の一つ)『も昇叙され、奏上をしなかった国司や郡司には加増しないが、益頭郡の人民の租税を』一『年間』、『免除された、とある』。『この瑞祥の上奏は、国司や郡司の手続きを経ず、直接』、『中衛舎人によってなされたことが異例である』とある。なお、茂木(もてぎ)直人氏の論文「祥瑞に関する制度の実態」(駒澤史学会編『駒沢史学』二〇〇四年七月発行・「駒澤大学 学術機関リポジトリ」のここでダウンロード可能(PDF))にも、この一件への言及がある。
「有渡郡《うどのこほり》川鍋村」かなり手間取ったが、旧有渡郡を調べてみたところ、「ひなたGPS」の戦前の地図の中央に、現在の静岡県駿河区内のここに、「川邊」とあるのが、そこであろうと思われる。]
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