和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫻桃
ゆすらむめ 鸎桃 含桃
荊桃
櫻桃 和名抄云鸚實
【宇久比須
乃岐乃美】
俗云由須良梅
本綱櫻桃雖非桃類以其形肖桃故名之如沐猴梨胡桃
之類皆取其形相似耳其樹不甚髙其葉團有尖及細齒
春初開白花繁英如雪結實一枝數十顆先百果而三月
熟其熟時須守護否則鳥食無遺也經雨則蟲自內生人
莫之見用水浸良久則䖝皆出乃可食也試之果然其實
熟時深紅色者名朱櫻紫色皮裏有細黃㸃者名紫櫻味
最珍重又有正黃明者名之蠟櫻小而紅者名櫻珠味皆
不及極大者若彈丸核細而肉厚者尤難得
子【廿熱濇】 調中益脾氣令人好顏色美志 処
小兒食之過多無不作熱舊有熱病及喘嗽者得之立
[やぶちゃん字注:「処」はママ。終りに打つつもりが、スペースがないため、急遽、右に刻んだものである。]
病且有死者
△按櫻桃樹髙四五尺葉大可拇指團末尖有細齒微似
木天蓼葉而厚皺其子半熟時大可大豆而有溝及毛
狀與桃無異既赤熟則大可小金柑脫毛如李亦似梅
味甘其花小二分許白色帶微赤伹謂如雪者不然
宇治左府頼長公記云天養二年五月三日權大納言
宗輔送嬰實云自和泉國所尋取之其色紅大如碁石
其體圓其核微小有三種食之甚美其味甘堪賞翫矣
禮記所謂仲夏月天子羞以含桃先薦寢廟者是也云云
*
ゆすらむめ 鸎桃《あうあう》 含桃《がんたう》
荊桃《けいたう》
櫻桃 「和名抄」に云ふ、「鸚實《あうじつ》」。
「宇久比須乃岐乃美《うぐひすのきのみ》。」
俗、云ふ、「由須良梅《ゆすらうめ》」。
「本綱」に曰はく、『櫻桃は、桃類に非ずと雖《いへども》、其の形、桃《もも》に肖(に)たるを以《もつて》、故に、之れを名づく。沐猴梨《もくこうり》◦胡桃《こたう/くるみ》の類のごとく、皆、其の形相《けいさう》、似るを取るのみ。其《その》樹、甚だ≪には≫、髙からず。其《その》葉、團《まどか》にして、尖り、及《および》、細かなる齒《ぎざ》、有り。春の初め、白花を開く。繁英《はんえい》なること[やぶちゃん注:花房の繁れるさまは。]、雪のごとく、實を結ぶ。一枝、數十顆。百果に先《さきんじ》て、三月に熟す。其の熟する時、須《すべからく》、守護すべし。否《しかざ》れば、則《すなはち》、鳥、食《くひ》て、遺(のこ)すこと、無きなり。雨を經《へ》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、蟲、內より、生ず。人、之れをみること、莫し。水を用《もちひ》て、浸し、良久《やや、ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、䖝《むし》、皆、出づ。乃《すなはち》、食ふべし。之れを試《こころみ》るに、果《はた》して然《しか》り。其《その》實、熟する時、深紅色なる者を「朱櫻《しゆわう》」と名づく。紫色にして、皮の裏、細≪かなる≫黃㸃、有る者、「紫櫻」と名づく。味、最《もつとも》、珍重《ちんちやう》なり。又、正黃≪の≫明《あきらか》なる者、有り。之れを、「蠟櫻《らうわう》」と名づく。小にして、紅《くれなゐ》なる者を「櫻珠」と名づく。味、皆、極《きはめ》て大なる者、及はず。彈丸のごとく、核《さね》、細《こまやか》にして、肉、厚き者、尤《もつとも》、得難し。』≪と≫。
『子【廿、熱、濇《しぶし》。】』『中《ちゆう》を調《ととのへ》、脾氣《ひき》を益し、人をして、顏色を好《よ》くし、志《こころざし》を美《び》ならしむ。』≪と≫。
『小兒、之れを、食ふこと、過多《かた》なれば、熱を作《な》さざると云《いふ》こと、無し[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。舊《も》と[やぶちゃん注:以前に。]、熱病、及《および》、喘-嗽《せき》、有る者、之れを得《う》れば、立処《たちどころ》に、病《やみ》て、且つ、死する者、有り。』≪と≫。
△按ずるに、櫻桃の樹、髙さ、四、五尺。葉の大いさ、拇指(をほゆび[やぶちゃん注:ママ。])ばかり、團《まろく》して、末へ[やぶちゃん注:ママ。]、尖り、細き齒、有《あり》て、微《やや》、「木天蓼(またゝび)」の葉に似て、厚く、皺《しは》む。其の子《み》、半《なかば》、熟する時、大いさ、大豆ばかりにして、溝、及《および》、毛、有り。狀(ありさま)、桃と異なること、無し。既に赤《あかく》して、熟する則、大いさ、小《ちさ》き金柑ばかり、毛を脫《だつ》して、李(すもゝ)のごとくにして、亦、梅に似たり。味、甘し。其の花、小《ちさ》く、二分ばかり。白色≪に≫微-赤(あかみ)を帶《おぶ》。伹《ただし》、≪「本草綱目」に≫『雪のごとし』と謂ふは、然《しか》らず。
宇治の左府頼長公の「記」、云はく、『天養二年五月三日、權大納言宗輔、嬰實《えいじつ》を送《おくり》て云はく、「和泉國より、之れを尋-取《たづねとる》所《ところ》なり。其《その》色、紅にして、大いさ、碁石のごとく、其の體《てい》、圓《まろく》、其《その》核《さね》、微《やや》、小≪さく≫、三種、有り。之れを食へば、甚《はなはだ》美≪にして≫、其《その》味、甘く、賞翫に堪《たへ》たり。」≪と≫。』≪と≫。「禮記《らいき》」に所謂《いはゆ》る、『仲夏の月、天子、≪農民より≫、羞(すゝ)むるに、「含桃《がんたう》」を以《もつて》、先《まづ》、寢廟《しんべう》[やぶちゃん注:天子の祖先を祀る廟。]に薦(すゝ)む。』と云《いふ》は、是なり云云《うんぬん》。
[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に、「櫻桃」に注して、『桜桃 中国の桜桃はバラ科のシロバナカラミザクラ。日本のウスラウメは次項「山嬰桃」を参照。但し、良安は桜桃を「ゆすら」と認識している。それで、あちこちに出てくる良安の説の中の桜桃はすべて「ゆすらうめ」または「ゆすら」の訓をそのままに残した。』とある。これは、既に先行する諸項の中で(十項以上に亙るのである)、しつこく、私が指摘してきたものである。良安が盛んに誤比定同定したり、比喩でしょっちゅう、用いているもので、彼は、「ゆすらうめ」が、大のお好みの植物・花・果実であるのである。
「櫻桃(ゆすら)」は双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa
である。後注で考証するが、取り敢えず、当該ウィキを参照されたい。また、シロバナカラミザクラとあるのは(異名・シノニムが、やたら、多い)、現行では、「カラミザクラ」(唐実桜)で、中文名(「維基百科」の同種「中國櫻桃」(この漢字表記は中文公式名ではなく、英名を漢字表記にしたに過ぎない)に拠れば、「櫻桃」の他、古称「楔荊桃」・「荊桃」・「崖蜜」・「鶯桃」・「含桃」・「櫻珠」・「朱櫻」・「紫櫻」・「蠟櫻」・「英桃」・「牛桃」・「會桃」・「楔桃」・「梅桃」・「樂桃」・「表桃」など、枚挙に遑がないのである。
サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus
である。同前であるが、当該ウィキを見られたい。]
[やぶちゃん注:まず、「本草綱目」の「櫻桃」=カラミザクラの当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『名の通り、中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ(支那実桜)、シナノミザクラ、中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では櫻桃と呼ばれる。日本へは明治時代に中国から渡来した』。『花期は早く』、三『月上旬からとなる。このため、花が咲いているときには』、『まだ』、『葉が生えていないことも多い。花は五枚一重で直径は』二『センチメートル』『程度と小輪。花の色は白から若干』、『紅色を帯びる程度。ひと房に』二『輪か』、三『輪の花を咲かせ、実もこれに準じ、二つがひと房になっていることが多い(自家受粉する)。雄蕊が長いのが特徴。花びらは』百八十度『近くに開く。果実は核果で、紅色に熟し』、『食用になる』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』二~三『メートル』『ほどである。根元から枝を束生し、気根を出す。樹皮は茶褐色から黒褐色で、ふくらみがある横に長い皮目がある。枝を多く伸ばす傾向があり、枝は横に伸び』、『若干』、『下向きになっている。葉は深く』、『鋸歯のようになっている』。『冬芽は鱗芽で、芽鱗は茶色で』、『やや』、『つやがある。枝先には仮頂芽がつき、側芽は枝に互生する。冬芽のうち、丸いものは花芽で、細いのは葉芽で花後に展開する。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個つく』。『実は食用になることが知られている。大きさは』一・五『程度であり、始めは緑色で徐々に黄色を経て』、『赤く熟する。セイヨウミザクラ』(サクラ亜属セイヨウミザクラ(西洋実桜)Prunus avium )『よりも小粒のサクランボで美味である』。『現在、食用種としてはセイヨウミザクラが使われることが多い。佐藤錦などの種もセイヨウミザクラを改良したものである。これはカラミザクラは若干酸味が強いためである』とある。「維基百科」の同種には、『標高三百から千二百メートルの日当たりの良い丘の中腹や溝の脇に生える。遼寧省、河北省、河南省、山東省、山西省、陝西省、甘粛省、四川省、貴州省、雲南省、湖南省、湖北省、安徽省、江蘇省、浙江省、江西省、福建省で生産されている』。『南宋時代、臨安城の櫻桃は重要な産地である紹興から招来されていた』。『この種は中国で古くから栽培されており、食用に利用されるほか、櫻桃酒の製造にも使用される。枝・葉・根・花も薬用に用られる。「泰山香櫻」 Prunus pseudocerasus 』(シノニム)『'Taishan Xiang' や、和劍橋櫻 Prunus pseudocerasus 'Cantabrigiensis' などのいくつかの品種は鑑賞可能品種である』。『この種の果樹の栽培数量は甜櫻桃』=セイヨウミザクラ『 Prunus avium に比べ、遙かに少なく、原産地の中国でも甜櫻桃が主に栽培されている』。『中國櫻桃は、椿寒桜・明正寺桜・多賀紅桜・啓翁桜など多くの桜の親である。中国櫻桃は幹に気根が生えるという特徴があり、中国系の櫻桃を祖先とする一部の桜でも、気根が見られることがある』とある。
次に、良安が好きな「ユスラウメ」を当該ウィキから引く(同前の処理をした)。漢字表記は『梅桃、桜桃、山桜桃』で、『若枝や葉に毛が生えているのが特徴』で、『単にユスラとも』呼ばれる。『庭園などに植えられる。サクランボに似た赤い小さな実をつけ、食用になる。漢名は英桃。俗名はユスラゴ』。『和名ユスラウメの由来について、植物学者の牧野富太郎の説によれば、食用できる果実を収穫するのに』、『木をゆするので』、『この名がつけられたのではないかとしている』。一説に、『サクラを意味する漢字「櫻」は、元々はユスラウメを指す字であった』ともする。『茨城県西南地域ではユスラウメとは呼ばず』、『「よそらんめ」と方言で呼ぶ。福島県相馬地方では「リッサ」と方言で呼ぶ』。『中国北西部、朝鮮半島、モンゴル高原原産。日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』三~四『メートル』『で』、『よく分枝する。樹皮は紫褐色や暗褐色で、生長とともに灰色を帯び、めくれるように不規則に剥がれる。一年枝や若枝は褐色で、短毛が密に生えている。葉は長さ』四~七『センチメートル』『の楕円形で、葉脈に沿って凹凸があり、全体に細かい毛を生じる』。『花期は』四『月。葉が開くのと同時、または』、『葉が展開する前に、桜に似た白色または淡紅色の五弁の花が葉腋に』一『つずつ』、『咲く。果期は』六『月。花後は』、『小ぶりな丸い果実をつけ、赤色に熟して食用になる。果実はニワウメ』(庭梅:バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica )『よりやや大きく、ほぼ球形ながら』、『モモの実のように』、『かすかな縦割れがあり、表面には毛がない』。『冬芽は互生し、暗褐色の先が鋭くとがった長楕円形で芽鱗』六~八『枚に包まれており』、一『か所にほぼ』三『個つく。短枝には花芽が集中する。葉痕は心形や半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『植栽として』、『庭や庭園などに植えられて栽培される。性質は強健で、耐寒性・耐暑性ともに強く、病害虫にも強い。用土は過湿を嫌うので、水はけの良い土に植える。日照不足になると、株が弱ってしまうだけでなく、果実の収穫も減ってしまうため、なるべく日当たりの良い場所に植える』。三『月頃と果実の収穫後に化成肥料を、また』十一『月頃には有機肥料の寒肥を施す』。『普段の剪定は特に必要ないが、日当たりの悪い枝は枯れやすいので、込み合う枝の間引きと、長く伸びた枝の切り戻しを必要に応じて行う』。『増やし方は、タネを採取しての実生』だが、『その他、挿し木、接ぎ木で増やすことができる』。一『年生接木苗では植え付け後』二~三『年、実生でも』三~四『年で果実がなり始める』。『果実は薄甘くて酸味が少なく、サクランボに似た味がする。そのままでの生食、あるいは果実酒などに利用される』。『大分県豊後大野市清川地区では、ユスラウメにモモを接ぎ木して栽培した「クリーンピーチ」が特産品となっている』とある。
「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「櫻桃」([075-45b]以下)をパッチワークしたものである。
『「和名抄」に云ふ、「鸚實《あうじつ》」』「和名類聚鈔」の「卷十七」の「菓蓏部第二十六」の「菓類第二百二十一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年板本の当該部を視認して、訓読して起こす。
*
鸎實(うくひすのきのみ) 「漢語抄」に云はく、『鸎實【は、俗に云ふ、「阿宇之智《あうしち》[やぶちゃん注:これは呉音による記載のようである。]」。一《いつ》に云《いふ》、「宇久比須乃岐乃美《うくひすのきのみ》」。今、按《あんずる》に、出《いづる》所、未だ詳《つまびらか》ならず。】。』≪と≫。
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但し、中国の「鸎」=「鶯」は、スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス(高麗鶯)属コウライウグイス Oriolus chinensis であって、これは本邦の普通種であるスズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone cantans(北海道から九州まで広く分布する普通種)とは全くの別種で、類縁関係はないので注意が必要である。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす) (ウグイス)」を見られたい。
「沐猴梨《もくこうり》」不詳。識者の御教授を乞う。時珍の謂いから、実が「梨」に似ているだけで、バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属 Pyrus の属ではないだろう。
「胡桃《こたう/くるみ》」日中では同種ではないので、注意が必要である。中国に分布するのは、ブナ目クルミ科クルミ属 Juglans 止まりである。「維基百科」の同属には、九種を挙げてあるが、これらが総て中国に分布するかどうかは、判らない。本邦の知られた「クルミ」としては、クルミ属マンシュウグルミ(満州胡桃:中文名「胡桃楸」)変種オニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis であるからである。
「木天蓼(またゝび)」先行する「木天蓼」により、日中ともに、ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama で問題ない。
『宇治の左府頼長公の「記」』藤原頼長(保安元(一一二〇)年~保元元(一一五六)年:当該ウィキによれば、『通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより』、『藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った』。『後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚』し、『政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ』、「保元の乱」『で敗死した』)の「台記」(たいき)を指す。ウィキの「台記」によれば、保延二(一一三六)年から久寿二(一一五五)年までの十九年に亙る日記であるが、『自筆原本は失われて存在しない』。「保元の乱」『前夜の摂関家や当時の故実を知る上で優れた史料である。頼長が稚児や舞人、源義賢ら武士や貴族たちと男色を嗜んでいたことも書かれており、当時の公家の性風俗を知る上で貴重なものとされる』。『また』、『藤原忠通のもとに、鸚鵡と孔雀が献上された際に、鸚鵡を観察したときのことを記している。それによると鸚鵡の舌は人間の舌に似ているから、よくものを言うのだろうとある。鳴声は、中国から渡来したものなので中国語を話し、日本人には聞いてもわからないのだろうと考えた。平安期の日本の鸚鵡の観察記事としても珍しい資料である。ともあれ、逸話の記載も多く、かつ孤高の英才政治家の栄達と失脚の記として官界の実態を活写している』とある。
「天養二年五月三日」ユリウス暦一一四五年五月二十六日(グレゴリオ暦換算六月二日)。この天養二年七月二十二日(ユリウス暦一一四五年八月十二日)に久安に改元している。なお、先の「台記」には、この直後の天養二年五月九日に、かのハレー彗星が出現したことが、詳細に書かれており、ウィキの「ハレー彗星」によれば、五月十九日から同月二十二日に姿を現さず、五月二十三日に、今一度、現れたことが、記されてある、とある。
「權大納言宗輔」公卿藤原宗輔(承暦元(一〇七七)年~応保二(一一六二)年)。当該ウィキによれば、『藤原北家中御門家(松木家)の祖、権大納言・藤原宗俊の子。官位は従一位・太政大臣。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で』「今鏡」・「十訓抄」『にも登場する』。『漢籍や有職故実に通じ、音楽に秀で、かつ控えめな人物であったが、非常な健脚であり、そのほか個性的な逸話を数多く残した』。嘉保(かほう)二(一〇九六)年、『まだ五位蔵人という低い官職の時に父・宗俊が死去、さらに側近として仕え』、『主君であり』、『笛を通じた友人でもあった堀河天皇が早世するなどの不幸もあり、昇進が遅れ』、四十六『歳で』、『ようやく参議として公卿に列した』。大治(だいじ)三(一一二九)年の除目では、宗輔が外戚の伯父である源師頼の任官された職務を誤って書き写した公文書を作成してしまい、除目のやり直しが行われた』。『平素からあまり政治に口出しすることはなく、趣味の世界に没頭していく。音楽においては、笛や琵琶・箏に秀でており、当人も「死ぬのは怖くないが、笛が吹けなくなるのが困る」と語った。また、娘・若御前も父に勝るとも劣らない才能を持ち(「若御前」とは、鳥羽法皇が彼女の曲を聞くために男装をさせて院の御所に上げさせた事に由来している)、後に当代随一の音楽家として名を残した藤原師長(頼長の子、後の太政大臣)もこの親子から箏を習った』。『もう一つの趣味は自然への親しみであった。公家が自ら草花を育てる事は考えられなかったが、宗輔は自ら菊や牡丹を育てて、藤原頼長や鳥羽上皇ら親しい人々に献上している。何よりも人々を驚かせたのは』、『蜂を飼いならしていたと言う話である。当時の日本にも養蜂は伝わっていたとはいえ』、「古事談」では、『それを「無益な事」と人々から嘲笑されていたが、宮廷に蜂が大発生した際に宗輔だけが冷静に蜂の好物である枇杷を差し出したところ、蜂はその蜜を吸って大人しくなったと伝え』、「十訓抄」『では』、『飼っている蜂の一匹一匹に名前を付けては自由に飼い慣らして、気に入らない人間を蜂に命じて刺させたとしている』。『宗輔が権中納言であった』五十六『歳の時に、関白・藤原忠実の子で僅か』『歳の頼長が同僚となった』。四十三『歳と親子以上の年齢差があった二人であったが、才気に溢れて敵が多かった頼長に対して、宗輔は年長者として接し、頼長も宗輔に対して敬意を払った。この信頼関係は』、『頼長が大臣に昇進した後も続き、頼長はしばしば宗輔と政治的な相談をしたり、子』の『師長への音楽の教授を依頼するなどの繋がりを深めた。頼長から見れば』、『宗輔は高齢になってもなお職務を忠実にこなしている模範となる人物であり、大臣に昇進させないのはおかしい事であると鳥羽法皇らに』、『度々』、『奏上したが、頼長存命の間には実現しなかった。なお』、久安五(一一四九)年、『藤原氏として初めて、淳和院別当に任』ぜ『られている』。保元元(一一五六)年、「保元の乱」『によって頼長が討たれると、頼長側近の貴族らは宮廷から追放された。だが、その筆頭であった大納言宗輔には何の処分も下らなかった。既に宗輔は』八十『歳の高齢であり、このような老人が反乱の企てに参加出来る訳が無いと、後白河天皇らから思われたからだと言われている』。しかも、『その数ヵ月後、頼長死亡に伴う人事異動によって右大臣に任命された(これは平安時代を通じて大臣初任の最高齢記録である)。そして翌年には遂に太政官の最高位である太政大臣へと昇進』した。『宗輔の太政大臣時代には』、『後白河上皇と二条天皇の確執、院近臣間の対立など事態は激動し、やがて』「平治の乱」が『発生する』が、『宗輔は』、『その健脚を駆使して難局を乗り切り』、八十四『歳で引退するまで長い政治生活を送った』。私の偏愛する「堤中納言物語」に『登場する「虫愛づる姫君」のモデルは宗輔・若御前父娘であるとされる』とある。よろしければ、私の古い電子化注『柴田宵曲 續妖異博物館 「蜂」』を見られたい。「十訓抄」のそれを、注で電子化してある。Unicode以前で正字化不全であった箇所も、今回、全面的に修正しておいた。]
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