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2025/01/13

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「大學へ入つた時」

 

 大學へ入つた時

 

私は顧る、年また年が

勞苦に重くころげて行つたのを。

今やつと私は、願つてゐたものに、

努力したものに、學徒になつた。

 

最初は『法』の硏究が私の計畫だつた。

しかし嚴しい塵埃(ほこり)つぽいパンデクテンは

私の輕い氣持を驚かした。

それで計畫は妄想になつた。

 

神學を私の愛が禁じた。

醫學に身を投ずることも出來なかつた。

それ故私の弱い神經には

哲理を考へる――ほか殘るものはなかつた。

 

高貴な母(アルマ・マアテル)の私に渡す

自由な藝術の華美な索引。――

マギスタアには成れないまでも、

私は努力した者に、學徒になつた。

 

 註 *高貴な母とは大學專門校に對する尊稱である。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注によれば、再版「詩集」では、本篇は削除されている。原詩はドイツ語の「Wikisource」のここで、電子化されてある。

「大學へ入つた時」当該ウィキによれば(幾つかのリンクを残して引用した。太字は私が附した)、一八八六『年に』十『歳のリルケはザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入学したが、周囲に溶け込めず早くから詩作を始めた』。一八九〇『年にヴァイスキルヒェンの士官学校に進学したが』、一八九一年六月、『ついに病弱を理由に中途退学し』、九『月にリンツの商業学校に入学した。しかし』、『商業学校もリルケの性にあわず、恋愛事件を起こしたこともあり』、一『年足らずで退学してしまう(この出来事はリルケに軍人になる期待をかけていた父を失望させた)。一方』、一八九一『年にはウィーンの『ダス・インテレサント・ブラット』誌に懸賞応募した詩が掲載され、翌年より』、『各誌に詩の発表を始めている』。『プラハに戻ったリルケは大学進学を目指すことになり、貴族の称号を持つ富豪であった伯父ヤロスラフ・リルケの援助を受けてプラハ・ノエシュタットのギムナジウムの特別聴講生となった。すでに』十七『歳になっていたリルケは』、『伯父のはからいで』、『個人授業を受けることができ、ギムナジウムの全コース』八『年分を』三『年でやり遂げ』、『優秀な成績で卒業した。このギムナジウム時代にリルケは母の妹の紹介で知り合ったヴァリー(ダーフィト・ローエンフェルト・ヴァレリー)という年上の女性と恋に落ち』、三『年の交際期間の間に彼女のために多くの詩を書いた。これらの詩は』、一八九四『年に刊行された処女詩集『いのちと歌』として結実した』。一八九五より』、『リルケはプラハ大学、ついでミュンヘン大学文学、美術、哲学などを学び、その傍ら』、『詩や散文を多数』、『執筆した。初期の詩作品は自らの感情を詩篇にのせて歌う優美さによって特徴付けられ、そのころ隆盛してきていたユーゲントシュティールと軌を一にしていると見る向きもある』。『南ドイツの文化の中心であったミュンヘンでは他の作家・詩人と積極的に交流を持ち、リーリエンクローンデーメルゲオルゲなどと知り合い、またヤーコプ・ヴァッサーマンを通してデンマークの詩人ヤコブセンの作品を知り』、『大きな影響を受けた。またヴァッサーマンからはツルゲーネフを読むことを勧められ、ロシア文学への興味のきっかけとなった』。一八九七には』、『終生に渡って影響を受けた女性著述家ルー・アンドレアス・ザロメと知り合う』。同年十月、『ザロメ夫妻の後を追ってベルリンに移り、夫妻の近くの住居に住み』、『ベルリン大学に学んだ。翌』『年にはイタリアに旅しながら』、『ザロメに宛てて』、「フィレンツェ日記」『を執筆』し、また、『この頃にライナー・マリア・リルケに改名している』。一八九九年四月、『リルケが「本来の意味における私の最初の本」とエレン・ケイに語った詩集』「わがための祝い」『を出版する』。(『この詩集は』一九〇九年、「旧詩集」『として、多くの改訂が施されたうえで再刊され』ている)。『リルケはミュンヘン時代すでに一定の文名を得ていたが、これまで若さに任せて矢継ぎ早に模倣的な恋愛詩を多数描いたことを悔やみ』、「旧詩集」『以前の初期の詩集は生前に再刊を許さなかった』。一八九九年の四月下旬から六月『中旬にかけて、リルケはザロメ夫妻の案内でロシア旅行を行なった。ロシアでは多くの芸術家と交流を持ち、ことにモスクワで』七十一『歳のトルストイを訪れ』、『その人となりに多大な感銘を受けている』。翌一九〇〇『年にも』五『月上旬から』八『月下旬にかけて』再び、『ザロメとともにロシアを訪れた』。二『度のロシア旅行はリルケの精神生活に深い影響を与えることになり、また人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は』物語集「神さまの話」や「時禱詩集」『を生む契機の一つとなった』。『ロシア旅行に先立つ』一八九八年、『リルケはイタリア旅行を行なったが、このときフィレンツェで青年画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合い親交を結んだ。フォーゲラーは北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでおり、リルケは』一九〇〇年八月、『彼の招きを受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家のオットー・モーダーゾーン女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家と交流を持った』。一九〇一年四月、『リルケは』、『彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた』とある、一八九五年から一九〇〇年辺りの閉区間内が、リルケの大学時代と考えてよかろう。

「顧る」「かへりみる」。

「パンデクテン」小学館「日本大百科全書」によれば、ドイツ語で“Pandekten” (ラテン語の“Pandectae”由来)で、『普通名詞では』「百科辞典」の意だが、『法学上は』、『次のような意味に用いられる。(1)古典時代ローマの法学者の学説を集成したユスティニアヌス帝の』「学説彙纂(いさん)」。『(2)後期注釈学派により形成され』、『ドイツに継受された普通法。法実務を通してローマ法を』、『当時の社会的』・『経済的条件に適合するように理論化』・『体系化する試みを「パンデクテンの現代的慣用」と称した。さらに』十九『世紀に』なると、『プフタ、ウィントシャイトを代表者とする』「パンデクテン法学」『が隆盛となり』、「ドイツ民法典」(一九〇〇年)や「スイス民法典」(一九〇七年)に『決定的役割を果たした』。『また、ドイツ法を継受した日本の民法典や民法学にも大きな影響を与えた』とある。

「高貴な母(アルマ・マアテル)」原文“ Alma mater ”。日本語の「母校」に同じであるが、茅野が述べているように、特に出身大学に対しての尊称である。

「マギスタア」“Magister”。マギスター。ドイツでは、主に文学部・理学部で“Diplom”(ディプロム:学士)と並ぶ学位である「修士」を指す。]

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