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2025/01/16

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「基督降誕節」(一八九八年) 「贈物」

 

 贈  物

   さまざまの友ヘ

 

これが私の爭だ。

憧憬に身をささげて

每日を步み過ぎる。

それから、强く廣く

數千の根の條で

深く人生に摑み入る――

惱みを經て

遠く人生の外に熟す。

時代の外に。

 

 

 

私は好く、途方に暮れて

誰かを待つ、忘られた野中の聖母を。

寂しい泉へ夢みながら行く

ブロンドの髮に花を揷した少女を。

 

太陽に向いて歌ひ、

驚いて星を大きく見守る子供を。

私に歌を持つて來る晝を。

花の咲きさかつてゐる夜々を。

 

 

 

塵まみれな飾のついた

あはれな古い禮拜堂よ――

春は明るいお寺を

お前の側に立てる。

 

凍える澤山の女たちは

お前の香(かう)の安けさへ足をひく。

外では子供等が

總べての薔薇を麾(さしまね)く。

 

 

 

私はもう一度お前を見たい。

古い菩提樹の並木のある庭苑よ。

さうして一番もの靜かな女と

神聖な池へ行きたい。

 

輝く白鳥らは誇らしげな容姿で

滑かに光る水面をそつとすべり、

沈むだ町の傳說のやうに、

水底から浮ぶ蓮の花。

 

庭には私たちばかり、

そこに花は子供等のやうに立ち、

私たちは微笑み、耳傾けて待つてゐる。

そして互に訊ねない、誰をとは……

 

 

 

私の神聖な孤獨よ、

お前は富むで、純粹で、廣くて、

眼をさます園のやうだ。

私の神聖な孤獨よ――

その前に願らが待つてゐる

黃金の扉を閉めておいで。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注に、『『詩抄』では「贈物 さまざまの友へ」がこの詩[やぶちゃん注:以上の第一連の詩を指す。]のタイトルであるかのように活字が組まれているが、これは以下の詩全体のタイトルであり、『詩集』[やぶちゃん注:再版「詩集」のこと。]では扉として立てられているため、これを反映させて体裁を訂正』したとあって、「贈物 さまざまの友へ」として、左丁で独立して以上の五篇の総て(総てが改ページされている)の中標題化されてある。私は、原本に則り、各々の四つの詩の間を三行空けて示した。

 則ち、岩波文庫のそれは、この五篇の詩が、連続した「連」ということになるわけだが、然し乍ら、ドイツ語の電子テクストを調べてみても、これら五篇をソリッドに纏めた電子化物を見出すことが出来なかった。私はドイツ語が読めないので、自動翻訳で、以上の各詩篇をドイツ語のWikisource、第一篇・第二篇・第三篇・第五篇までの四篇まで、捜し得ることが出来た。以下に示す(リンクは前掲のドイツ語の「Wikisource」の「Advent(Sammelband)」の当該原詩。一部は、訳に合わせて行空けをしたものがある)。標題のうち、後の三篇の“,”内の人名は、その詩篇をリルケが、「贈り物」として捧げた人物名である。

 

〈第一篇〉=[9] “MirRilke)”

   *

 

Mir.

 

Das ist mein Streit:

Sehnsuchtgeweiht

Durch alle Tage schweifen.

Dann, stark und breit,

 

Mit tausend Wurzelstreifen

Tief in das Leben greifen –

Und durch das Leid

Weit aus dem Leben reifen,

Weit aus der Zeit!

 

   *

 

第二篇=[12] “Prinz Emil zu Schönaich-Carolath.

   *

 

Ich liebe vergessene Flurmadonnen,

Die rathlos warten auf irgendwen,

Und Mädchen, die an einsame Bronnen,

Blumen im Blondhaar, träumen gehn.

 

Und Kinder, die in die Sonne singen

Und staunend gross zu den Sternen sehn,

Und die Tage, wenn sie mir Lieder bringen,

Und die Nächte, wenn sie in Blüten stehn.

 

・この“Prinz Emil zu Schönaich-Carolath”は、プロイセンの皇子の子で、詩人・小説家であったエミール・ルドルフ・オスマン シェーナイヒ=カロラート=シルデン王子(Emil Rudolf Osman Prinz von Schoenaich-Carolath-Schilden(一八五二年~一九〇八年)。彼はリルケを支持した詩人であった。リルケより二十三歳も年上である(ドイツ語の彼のウィキに拠る)。

 

   *

 

第三篇=[22] “Hugo Salus.

   *

 

Du arme, alte Kapelle

Mit deiner verstaubten Zier –

Der Frühling baut eine helle

Kirche neben dir.

 

Viel frierende Frauen hinken

In deine Weihrauchruh,

Draussen die Kinder winken

Allen Rosen zu.

 

・この“Hugo Salus”は、ボヘミア生まれの婦人科医にして、ドイツ語の作家であったヒューゴ・サルース(Hugo Salus 一八六六年~一九二九年)で、ドイツ語の当該ウィキによれば、彼は『数多くの詩や物語を出版し、当時のドイツのプラハ文学の最も重要な代表者の一人であった』とある。リルケより九歳、年上である。

   *

 

第五篇=[10] “Jens Peter Jacobsen.

 

Du meine heilige Einsamkeit,

Du bist so reich und rein und weit

Wie ein erwachender Garten.

Meine heilige Einsamkeit du –

 

Halte die goldenen Thüren zu

Vor denen die Wünsche warten.

 

・この“Jens Peter Jacobsen”「イエンス・ペーター・ヤコブセン (Jens Peter Jacobsen184747日-1885430) は、邦文ウィキがあった。デンマークの詩人・小説家で、植物学者(専攻は藻類らしい)。『デンマーク語ではイェンス・ピーダ・ヤコプスンに近い発音で発音される』。一八七六『年の末に』「マリィエ・グルベ夫人」( Fru Marie Grubbe )』刊行。これは17世紀に実在した美貌の貴族女性で、国王の弟・姉婿の騎士・自家の下僕と男性遍歴を重ね、最後は渡船場の女将となったその生涯と内面を描いたものである。反響は大きく、諸外国からも翻訳の申し込みを受ける」。一八八〇『年、病』(ドイツ語の彼のウィキに“Tuberkulose”(音写「トゥベルクロゥーゼ」:薬剤「ツベルクリン」(ドイツ語:Tuberkulinはこの病原由来)=結核)と明記されてある)『が重くなる中で』、『奇跡的に』「ニルス・リューネ」( Niels Lyhne ’)を故郷の家で完成させる。イプセン、ドイツの詩人リルケ』(☜)『などをも感動させたこの作で、ヤコブセンは』、『神に反抗して』、『詩作と恋愛で人間性を高揚させようとし、生きる根拠と目的を失いつつ』、『信念を曲げない人物を創造し、〈無神論者の聖書〉と一部の人には呼ばれた』とある。

   *

 さて、私が、ここで、甚だ、疑問に思うのは、

――このドイツ語「Wikisource」での――順列ナンバー――

なのである。最後の第五篇が、第[10]であって、

★――前の三篇のうち――二篇が後にある詩篇である――★

ということなのである。無論、この「贈り物」と総題された詩篇群は、個々に、それぞれの人々に贈られた詩篇であって、独立しているのだから、「訳として並べるのは、おかしい。」とは言えない。しかし、まず、今までの茅野氏の、長い詩篇の抄訳では、順列で示されており、何より、

――読者は、当然、これが、原本の順列で並べられている――と百%――思って、読んでしまう

に違いないのである。則ち、

――茅野氏は、同詩群の中から、私には出所不明であった第四篇も含め、恣意的に組み替えられた訳詩であった――

ことが、はっきりしたのである。これは、茅野氏の不親切、というよりも

――この五篇を一つの通底した流れとして読者に錯覚させてしまう――

という点で、非常に問題がある、と、私は、感ずるのである。少なくとも、岩波文庫版の校注では、この恣意的な組み合わせについて、指摘すべき義務があると私は考えるのである(再版「詩集」で、どこに読みを振ったかなんてことより、こっちの方が、超必要だろ!)。未発見の第四篇の原詩を含め、識者のお考えをお教え下さると、幸いである。

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