阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附~始動 /「卷之二十四上」・「怪異」(序)・「天女失羽衣」
[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ『怪奇談集Ⅱ』にて、阿部正信編揖「駿國雜志」の「卷之二十四上」の「怪異」、及び、「卷之二十四下」の「怪異」を正規表現・オリジナル注附で始動する。昨年四月二十七日に『「和漢三才圖會」植物部』を始動してより、意識が植物化してしまい、鬱っぽくなってしまったので、本日、かく、怪奇談を復活起動させることとした。
「駿國雜志(すんこくざつし)」は、江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:当該ウィキによれば、『忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、正章(旗本・知行』六千『石)の子。通称は大学』。『文化』一四(一八一七)年九月、『駿府加番となり』、『駿府城の守衛などを担う。任期は』一『年だったが、在任中から』、また、『江戸に戻ってからも』、『駿河国七郡の歴史・風土などを調査した』。本書は、先行する江戸中期の旗本で、儒学者・有職故実の大家であった榊原香山(さかきばらこうざん 享保一九(一七三四)年~寛政九(一七九八)年:名は長俊。香山は号、通称は一学。江戸生まれ。伊勢貞丈に師事し、武家の故実に長け、武器研究家としても著名だった。宝暦四(一七五四)年と、天明三(一七八三)年、駿府勤番となって駿府に赴任した。以上は当該ウィキに拠った)の著した「駿河國志(するがこくし)」を『ベースとし』、天保一四(一八四三)年、本「駿國雜志」『全四十九巻を著した』とある。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの明治四三(一九一〇)年吉見書店(靜岡)刊の「自卷廿四上至卷之三十」の当該部(リンク先は「卷之廿四上」の「怪異」(序)冒頭ページ)を視認した。
但し、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(堤邦彦氏校訂)をOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。その堤氏の解題によれば、同『大系』の底本は国立公文書館内閣文庫本(旧米花文庫蔵の七十八冊本)で、本底本とは、体裁が異なり、句読点が全く異なり、郡(こほり)名が中見出しに出、書名に太字の鈎括弧が用いられたりしている(私の電子化では、通常の鈎括弧に代えた.。書名は鍵括弧を添えた)。各卷の前に「目錄」が出るが、本電子化では、最後に回す。割注は【 】で挟んだ。
底本は、ごく僅かにルビが附されてあるのみであるが、若い読者のため、読みが振れると判断した箇所には、《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを振った(一部は、「近世民間異聞怪談集成」に打たれたルビを参考にした)。注は、ごくストイックに附した。]
駿 國 雜 志 卷之二十四上
阿 部 正 信 編 揖
怪 異
怪は理外也、故に聖賢の道、怪を語らず。又云。佛家の怪は方便也。其理の知り難きを以て怪とす。是を奇怪といひ、怪異といひ、俗に變化(ばけもの)と云。すべて見馴《みなれ》ざると、聞馴ざるの二にして、謂《いひ》は不思議成《なる》べし。
有 渡 郡〔うどのこほり〕
「天女失羽衣」 有渡郡三保村にあり。傳云。往昔三保の松原に神女天降〔あまくだり〕て、羽衣を松枝にさらし、終日(ひねもす)遊戲す。玆に漁夫伯梁と云者あり。其羽衣を拾ひ藏〔かく〕す、是織女の機中六珠衣也。神女家に來り、悲み乞といへども與へず。故に天上に歸の術なし。依て伯梁と夫婦の語らひす。或日、夫の家に在らざるを窺ひ、彼羽衣を盜て去る。伯梁もまた登天して、僊となる。其地に社《やしろ》を建て、羽衣の神と祭る。後歲、道守(きもり)氏《うぢ》の翁、此舞曲を傳へて世に弘めたり。東遊の駿河舞、是より起る。云々。
[やぶちゃん注:「有渡郡三保村」現在の静岡県静岡市清水区三保。「ひなたGPS」の戦前の地図で旧三保村を確認出来る。後に出る「天人の宮とし、八幡宮を以て攝社とす」は、旧地図の旧地名「宮方」(みやかた)にある「三穗神社」とあるのが、駿河国三之宮御穗神社(祭神は大山積命)である。]
有渡濱に、天の羽衣、稀にきて、ふりけん袖や、けふのはふり子。 能 因 法 師
世にしらぬ、詠《ながめ》なれはや、天人の、天降りにし、三保の松はら。
[やぶちゃん注:前者の一首は、「後拾遺和歌集」の「卷第二十 雜六」に、
*
式部大輔資業(しきぶのたいふすけなり)、
伊豫守に侍りける時、かの國の三島の明神
に東遊(あづまあそび)して奉りけるに、
詠める
有度濱(うどはま)に
天羽衣(あまのはごろも)
昔來て
振りけむ袖や
今日(けふ)の祝子(ほふりこ)
*
で、「式部大輔資業」は廷臣藤原資業(永延二(九八八)年~延久二(一〇七〇)年)。父は参議有国、母は典侍橘徳子(一条天皇乳母)。長保五(一〇〇三)年、文章得業生。以後、式部少・大丞、六位蔵人、大内記、右少弁。東宮学士、五位蔵人、左衛門権佐・検非違使、文章博士、左少弁、丹波守、式部大輔、播磨守など、内外の要職を歴任し、寛徳二(一〇四五)年に従三位となった。永承六(一〇五一)出家し、法名は素舜。日野法界寺は彼の建立。男子の実政は後三条・白河朝に重用された。「祝子(ほふりこ)」は「巫女(みこ)」を指す。但し、これは、現在の静岡市有度山・久能山東照宮の南麓の海岸(グーグル・マップ・データ)である。
後者の一首は、江戸前期の公卿・歌人・能書家として知られる烏丸光広(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)の詠歌。
*
世に知らぬ
眺(ながめ)なればや
天人(あまびと)の
あまくだりにし
三保の松原
*]
或云。羽衣は羽車《はぐるま》也。云云。然云《しかいふ》時は、天女の事せんなし。又云。安閑天皇の御時、當國有渡濱に、天女降現して歌舞をなす。道守(きもり)氏の翁、此曲を傳ふ。天女は卽《すなはち》平松・靑澤二村の土神《うぶすな》と崇《あが》む[やぶちゃん注:底本は『祟む』であるが、これでは、読めないので、「近世民間異聞怪談集成」の表記を採用した。]。今の中平松村、天人の宮是也、云云。傳云。中平松村、天人の社は、往昔八幡宮を祭る處なり。後、有度濱に降現する所の天女を祭りて天人の宮とし、八幡宮を以て攝社とす。是いにしへの土神也。云云。里人云。中平松村に長右衞門と云者あり、淸水に至《いたり》て䀋《しほ》を商ふ。一日《いちじつ》皈路《かへりみち》、駒越村の濱に於て、松樹に羽衣の掛《かく》るを見る。卽《すなはち》是を拾ひとり、家に歸る。天女、此羽衣を取《とら》んがため、其夜長右衞門が許に來り、仕《つかへ》ん事を望む。主、天女なる事を知らず、家に居らしむる事三歲あまり、一朝、前磯《まへいそ》に材木の漂流する事あり。里民悉く出《いで》て是を拾ふ。時に長右衞門が家擧《あげ》て至る。天女、其隙《すき》を伺ひ、羽衣を取《とり》て去《さら》んとするに、ひさしく下界に有《あり》て身《み》穢《けがる》る故に、飛揚《ひやう》の術《じゆつ》盡《つき》たり。天女、土神八幡の社頭に上《のぼり》て祓《はらひ》す。折ふし長右衞門歸來る。天女、事の序《ついで》を語り、誓《ちかひ》て曰《いはく》、我を以て土神に祭らば、永く當村の守護神たらんと、卽《すなはち》土神とす。云云。今當社、鏡を以て神躰とす。又彼《かの》長右衞門が子孫、今に相繼して其事跡を記す、證文あり。近年火災に燒失して傳へず。云云。惜哉《をしきかな》。
[やぶちゃん注:「羽車」「デジタル大辞泉」では、『神体・経典などを移すときに使う輿(こし) 。天の羽車。御羽車(おはぐるま)』とある。
「安閑天皇」在位は継体天皇二五(五三一)年(?)から安閑天皇二(五三六)年(?)とされる。当該ウィキによれば、『継体天皇の後を受けて』、六十六『歳にして即位したが、わずか』四『年で崩御した』とある。
「道守(きもり)氏の翁、此曲を傳ふ」サイト「日本服飾史」の「神楽・東遊(あずまあそび) 舞人青摺袍姿」に、『楽が唐、高麗の楽により宮廷における宴楽として発達し』、『華美な所があるのに対し、神楽は奈良朝以来の唐楽等の長所をとり入れて、神聖にして格調の高き、高貴にして直截簡明な精神美を求めたもので、人長舞、久米舞、東遊などがある』。『この東遊は東国地方の風俗舞であり、一説には安閑天皇の頃(』六『世紀)、駿河国の有度浜に天女が舞い降りたさまを国人道守が作ったと言われている』。『宇多天皇の寛平元年』十一『月』、『賀茂の臨時祭の時に初めて用いられてから、神事舞として諸社の祭典に奏されるようになった』とある。]
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