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2025/01/01

林檎みのる頃 シユトルム(立原道造譯) 正字正仮名版・オリジナル注附

[やぶちゃん注:立原道造の訳になる、ドイツの司法官で、詩的リアリズムの詩人・作家として知られるハンス・テーオドール・ウォルゼン・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm 一八一七年~一八八八年)の“ Wenn die Äpfel reif sind (「林檎の熟する時」:一八五六九年)。因みに、シュトルムは「みずうみ」( Immensee 一八四九年)を始めとして若き日より私の偏愛する作家である。立原道造のこの訳は、以下の底本に所収されたものである。

 底本はテオドル・シユトルム・立原道造譯「林檎みのる頃」(昭和一一(一九三六)年十一月山本書店刊。道造が肺結核で亡くなる直前の前年末の刊行。道造は昭和一四(一九三九)年三月二十九日に満二十四歳で没した)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。正字正仮名である。

 但し、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」をOCRで読み込み、加工データとした。

 なお、本底本にはルビは、極めて、少ない。それは《 》で示した。ただ、若い読者、日本語がネイティヴでない読者のために、私が附すべきだと感じたところに、ストイックに正仮名で丸括弧で読みを振った。

 さらに、特異的に、最初に簡単に注をしておく。なお、参照した本作の原文は、ドイツ語の文学サイト“LITERATUR PORT”の、こちらにある電子化されたものを参考にした。

●本作中、六ケ所、出てくる「ちようど」は総てママである。恐らくは、立原の慣用的な書き癖であったようである。

●第二段落の「黃鼬」は「てん」と読んでいるものと思われる。岩波文庫でもそう振っている。事実、原文は“Marder”であるから、それで――取り敢えずは――よい。但し、「黃鼬」は、私に言わせると、正直、全く戴けない訳で、せめても「黃貂」であってほしかったところなのである。何故かというと、結果的に、立原は多重的に誤っているからである。確かに、○本邦では、「黄鼬」(言うまでもないが、「鼬」は食肉(ネコ)目イタチ科イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela 、或いは、日本固有種ニホンイタチ Mustela itatsi を指す)と書いて「黄貂」を指す事実がある。また、○彼らを呼ぶ場合、個体異名として「キテン」(これは、見た目で、軀体部が黄色を呈する個体を指し、褐色の個体を「スス(煤)テン」と称する)があることも事実である。学名はイタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus である。立原は軽井沢で、このホンドテンを見かけているはずである。私は、小学生の時、軽井沢で、実際に見ているから確かである。則ち、「本土貂」の和名で判る通り、日本固有種であるから、①原作者のイメージしている種ではないものを、本邦の読者にイメージさせてしまう点で第一の大きな誤りであるのである。細かいことを言うと、実は、②「キテン」の語源も、「黄貂」ではなく、木登りが非常に上手いことに基づく「木貂」とする説があるのである(ウィキの「ホンドテン」を見られたい)。さらに、③シュトルムが知っているドイツに棲息するテンは、テン属マツテン Martes martes であり、当該ウィキを見て戴くと判るが、頰から頸部にかけてのみに明黄色、或いは、淡黄色の斑紋が入るだけで、軀体部は赤茶色・灰褐色・濃褐色の、言わば、「スステン」系であって、「黃鼬」ではないから、なのである。

●「マンチエスタア」原文“Manchester”。ここでは、「各種綿製品」の代名詞として使われているか。後に引用する高橋秀夫氏に解説によれば、『コール天』のこととされる。所謂、「コーデュロイ」(英語:corduroy)で、綿を横ビロード織りにしたパイル(pile:元は「平織か綾織で編地の片面または両面に下地から出ている繊維」を指すが、そうした加工を施した毛羽やループを有する生地で、タオルや絨毯などに使われる)織物の一つである。

●「石庭」原文“Steinhof”。「石をあしらった中庭」。「せきてい」と読むと、本邦では、概ね、寺院の「枯山水」を指すので、「いしには」と訓じておいた。

●「二タアレル貨幣」原文“Doppeltaler”。これは、当該ウィキによれば、『ターラー(ターレル、ThalerTalerとも)は』、十六『世紀以来』、『数百年に』亙って、『ヨーロッパ中で使われていた大型銀貨』を指す。同ウィキには、「ドイツのターラー」の項があるが、本作が発表されたのは、一八五六九年であるが、『プロイセン王国は』十四『分の』一『ケルンマルクの銀を含むターラー銀貨を使用していたが、プロイセンの勢力伸長とともに』、一八三七年『の関税同盟ではプロイセン・ターラーが「南ドイツグルデン」』(Gulden:七分の四ターラーに等しい)『とともにドイツ南部やラインラントの通貨となった』、一八五〇年『には、多くの領邦が自前通貨とともにこのターラーを用いていた』。一八五七年に『オーストリア帝国がフェアアインスターラー(統一ターラー、ユニオンダラー、Vereinsthaler)を定め、ドイツ全土で通用するようになった。各地でこれに』伴い、『フェアアインスターラーが通貨となった(プロイセン王国のプロイセン・フェアアインスターラー、ザクセン王国のザクセン・フェアアインスターラーなど)。フェアアインスターラーは』「普墺(ふおう)戦争」(一八六六年に起こった『プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後』、『ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった』「ケーニヒグレーツの戦い」で、『プロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した』。「七週間戦争」・「プロイセン=オーストリア戦争」『とも呼ばれる。この戦争によって、ドイツ統一は』、『オーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった』とウィキの「普墺戦争」にあった)の結果』、一八六七年、『オーストリア帝国での』ターラーの『打刻が停止され、ドイツ統一後の』一八七二年『には』、『ドイツ帝国でも金マルクに切り替えられた』とある。

●「つぐのんでゐる」「噤吞んでゐる」。「ぐっと口を結んで黙っている」の意。

●「思ひもうけぬ」ママ。「思ひ設(まう)けぬ」。「思いもしていなかった」の意。

 私はドイツ語には冥いのだが、それでも、読んでみると、三人しか登場しないのに、人物の認識が錯雑して、思わず、読み返す箇所がある。「立原道造・堀辰雄翻訳集」の末尾にある著名なドイツ文学者で、優れた文芸評論家でもあられた高橋秀夫氏(二〇一九年に逝去された)の解説に当たる「青春の本訳」にも、以下のように記されてある。

   《引用開始》

 実際、立原でも堀でもところどころ、誤訳やピンボケに出あう。立原訳「林檎みのる頃」では、幹に攀じ登り林檎を盗んでいる腕白小僧のズボンの尻を、青年がぐいと摑(つか)む個所がある。そこの青年の科白を、立原は「おまえに何かしるしをつけといてやる!」を「まあ何て、ひどい布なんだ!」と訳しているのだが、これは「おまえにお灸をすえてやる!」「何て丈夫な布なんだ!」ぐらいが正しいだろう。ズボンは「マンチェスタア」(Manchester)と原文にあるが、これは英国マンチェスターから製造が始まって普及した「コール天」のこと。ただし「林檎みのる頃」はどうやら立原道造訳が本邦初訳らしいので、あちこちに点在するミスは、あえて肯定的かつ比喩的に受け取るならば、満天に鏤(ちりば)められた言葉の星空に、ときどき流れ星が走って消えるようなものか、こんなふうに思うことはできよう。

   《引用終了》

とあった。

 なお、本公開は、二〇二五年元旦に公開した。昨年の後半は、「和漢三才圖會」植物部 に入れ込んで、純文学の電子化が、例年に比して、有意に少なかったのが、甚だ、不満であったので、大晦日に用意を開始し、今朝未明に起き、やっと今、公開に漕ぎつけた。私はシュトルムも立原道造も、偏愛する詩人であるが、今回は、別に意識して選んだのではなかったが、たまたま、リンク先のプロジェクトで、リンゴ類で七転八倒した直後であったからであろう、半無意識的に題名に引かれたものででも、あったのかも知れない。昨年は、実父の逝去があり、年始の挨拶はしない代わりに、本作を年初の儀礼的エポックとして配しておく。

 

   林檎みのる頃

     Wenn die Äpfel reif sind  Theodor Storm 

                   立原道造譯

 

 それは眞夜中であつた。庭の板塀に沿うて立つてゐる菩提樹のかげからちようど月がのぼり果樹の尖(さき)を透して家の裏壁をてらした。やがて垣で庭とは仕切られてゐる狹い石庭にさしいつた。白い窓掛が低い小窓のかげにすつかりその光にてらされた。ときをり小さい手がその窓掛を摑(つか)むと、こつそりとおしあけるのである。そこには少女の姿が窓臺に凭れてゐた。かの女は白い小さな首卷を頤(あご)の下に結んでゐた。女持ちの小型の時計を月の光に向けては針の向きを注意ぶかく讀まうとするやうに見えた。外の敎會の塔から四十五分を知らせる鐘がちようど鳴ったのである。

 下の方では、庭の茂みの間に、坂徑(さかみち)や芝生はくらくひつそりしてゐた。ただすももの木のなかにゐる黃鼬ばかりは舌鼓を打つて食事をしてゐた。爪で樹皮を引搔いてゐた。不意に黃鼬は鼻をあげた。何かが塀の外を滑る音がした、大きな頭がこちらを覗いてゐるのである。黃鼬は一跳(ひとつと)びで地に飛びおりると家の間(あひだ)に消えてしまつた。すると外からはずんぐりした腕白小僧がのそりのそりと庭のなかに塀を攀(よ)ぢてしのびいつた。

 すももの木と向ひあひに、塀から間近に、そんなにも高くはない林檎の木があつた、林檎はちようど實つてゐて、枝は折れさうに鈴生(すずな)りであった。腕白小憎はずつと前からそれを知つてゐたにちがひない、齒をむき出して笑ふとその木に向つてうなづいたから。さうして爪先立ちでそのまはりをぐるりと一まはりしたのである。それから、しばらくぢつと佇(たたず)んで聞き耳をたててから、身體(からだ)から大きな袋をとりはづし、考へぶかげに木登りにとりかかつた。間もなく上の方の枝の間でぽきぽきと小枝が折れ、林檎はひとつびとつ短い規則正しい時をおいて袋のなかに落ちこむのである。

 そのうちに、ひとつの林檎が偶然に地に落ちてころころと轉がるとすこし先の茂みのなかにころげこんだ、そこには茂みにすつかり蔽(おほ)はれて、石で出來た庭卓《にはづくゑ》の前にひとつのベンチがおいてあつた。その卓(つくゑ)には――小僧の思ひもよらなかつたことだが――ひとりの若い男が頰杖(ほおづゑ)をついて身動(み)《じろ》ぎもせずに坐つてゐたのである。林檎が足もとに觸《さは》ると、その男はびつくりして飛びあがつた。ほんのしばらくのあと、彼は用心ぶかく小徑(こみち)に踏み出してゐた。見上げると、月の照つてゐるところに、よく熟(う)れた實をつけた林檎の枝がはじめは氣づかない程だつたがやがて次第次第にはげしくあちらこちらへと搖れうごいていた。そしてひとつの手が月の光のなかに飛び出してすぐにまた林檎をひとつ摑むと木の葉のふかいかげのなかに隱れてしまつた。

 下にゐる男はこつそりと木の下にしのびよつて、たうとう腕白小僧が大きい眞黑な毛蟲のやうに幹にぶらさがってゐるのを見つけた。この男が獵人《かりうど》かどうかは、小さい口髭(くちひげ)と刻目(きざみめ)のある獵服(れうふく)にも拘らず、定めることはむずかしい。しかしこの時には彼に何かはげしい獵の熱病のようなものが取憑(とりつ)いたにちがひない。この腕白小僧を林檎の木のなかに捕へるためにのみここにかうして半夜を待つてゐたかのやうに、枝のなかに手を延ばして、しづかにしかししつかりと力なく幹にぶらさがつてゐる長靴を手に摑んだのである。長靴はぴくりぴくりと動いた、上の方の林檎むしりはやんだ。しかしまだ何の言葉もかわされないのである。腕白小僧は足をひいた、獵人はそれを捕へてかかつた、しばらくの間は全くこのままである。しかしたうとう腕白小僧は命乞ひにとりかかつた。

「且那!」

「泥棒め!」

「夏中あいつらは塀の上からちらちらしてゐたんですもの!」

「まあ、待て、おれがおまへに何かしるしをつけといてやる!」

 さう言ひながら、男は高く摑みかかり、腕白小僧のズボンの尻を鷲摑みにした。

「まあ何て、ひどい布なんだ!」と言つた。

「マンチエスタアなんです、且那!」

 獵人はポケツトからナイフを取り出した、あいている方の手で刄(は)をひらこうとした。腕白小僧はばねのぱちんという音を聞くとじたばたと木から降りようとした。一方では降りさせまいとするのである。

「すこしさうしてゐろよ!」と男は言つた、「おまへがぶらさがつてゐる方が、こつちは都合がいいんだ!」

 腕白小僧はすつかり面喰(めんくら)つてしまつた。

「ヒヤア……!」と言つた。「そいつは師匠のズボンなんです!――旦那(だんな)鞭(むち)を持つちやいらつしやいませんか? この身體《からだ》だけで御勘辨(ごかんべん)なすって! それでどうか御滿足なすって! これや運動服なんです。師匠も言つてます、散步服にもいい位(ぐらゐ)だって!」

 だが駄目だった――獵人は切つてしまつた。腕白小僧は、つめたいナイフが肌近く辷(すべ)り落ちたのを感じると、いつぱいになつてゐた袋を地に落してしまつた。しかし男の方では切取つた布を大切にチョツキのボケットにおさめた[やぶちゃん注:ママ。]。

「さあ、もうおりて來たつていいんだよ!」と彼は言つた。

 何の答もそれにはなかつた。刻一刻と時が移って行った、しかし腕白小僧はおりては來なかつた。下からひどい目にあわされてゐる間に、彼は高見から、突然に向うの狹い小窓が開くのを眺めてゐたのである。小さな足が突出(つきで)た――腕白小僧は白い靴下が月の光にてらされるのを見た――そして間もなく娘の姿がすつかりと石庭(いしには)の上におり立つてゐた。しばらくの間、娘は片手に明け開いたままの窓の扉の片方をおさへてゐた。それからかの女(をんな)はゆっくりと木栅(もくさく)の潛門《くぐり》のところに步みより暗い庭の方に半身を埋(う)め凭(もた)れかかつてゐた。

 腕白小僧は何もかも見屆けようとして頸(くび)が外(はづ)れさうになる程つき出してゐた。その間(あひだ)にいろいろなことがわかったらしく見えた、口を耳のあたりまでずるそうに歪(ゆが)めると、向ひの二本の枝の間に橫柄(わうへい)な格好で足をのせたのである、その間も片方の手では切られたズボンをかき合はせてゐた。

「さあ、もういいかい?」と一方では尋ねた。

「もうでせう」と腕白小僧は言つた。

「さうなら、降りて來い!」

「はじまりませんや」と腕白小僧は答えて林檎に喰(くら)ひついた、下で獵人はさくさくと嚙(か)む音を聞いた。「はじまりませんや、正(まさ)に靴屋なんですからね。」

「どうなるんだい、もしおまへが靴屋ぢやなかったら!」

「仕立屋だったら、自分でこの穴をかがつちまふんですよ。」かう言ふと、また林檎を食(く)ひつづけた。

 若い男はポケットをさぐつて見た、小錢(こぜに)がありはしないかとおもつたが、ただ大きな二タアレル貨幣があるきりだった。それでもう彼は手を引(ひつ)こめようとした、そのとき下の方の庭門のところでかけがねが鳴るのをはつきりと耳にしたのである。敎會の塔の上からは、ちようど十二時の鐘が鴫った。――若い男はちぢみ上る程びつくりした。

「ばかみた!」

 若い男は呟(つぶや)きながら額(ひたひ)を平手で叩いた。それからもう一度ポケットに手をつつこむと優しく言つた。

「おまえは貧乏人の子供なんだろうね?」

「御承知のとおりです」と腕白小憎は言った。「みんな骨の折れる儲(まう)けばつかりでさ!」

「ぢやこれを投げてやる、それで縫つておもらひ!」

 さうして若い男は貨幣を腕白小僧の方に投げてやつた。腕白小憎はそれを摑むと、月の光にあちらこちらと引(ひつ)くりかへしてみて檢(しら)べた擧句(あげく)、ほくそ笑(ゑみ)ながらポケットにねぢこんだ。

 林檎の木は花園のなかに立つていたが、それに通じて長い小徑(こみち)がつづいてゐた。そこを小刻(こきざ)みな足音と砂の上を觸れる衣摺(きぬず)れの音が向うからだんだんと聞えて來た。獵人は唇を嚙んだ。力ずくで腕白小僧を引きずり下(おろ)さうとした、しかし彼は大事そうに片方づつ足を引き上げた。どうにもならないのである。

「わかったかい?」と喘(あへ)ぐやうに男は言つた。「さあ、行つてもいいんだよ!」

「勿論!」と腕白小僧は言った。「ただ袋さへあつたら!」

「袋だつて?」

「先刻(さつき)、落したんです。」

「それがおれにどうしたつていふのかい?」

「ところで、旦那、あなたはちようど下においでです。」

 一方は身を屈(かが)めて袋を取り、ほんのすこし地(ぢ)から持上(もちあ)げて、また落した。

「かまはずにぐつと投げて下さい!」と腕白小僧は言つた。「たしかに受けとめますから。」

 獵人は諦(あき)らめきつた眼つきで木の上を見やつた、そこには薄黑いずんぐりした姿が枝の間に立つてゐる、大股をひろげて身動きもせずにつぐのんでゐるのである。しかし外から小刻みな足音が短い間をおいてだんだんと近よつて來たとき、男はあはてきつて小徑に步み出(で)た。

 思ひもうけぬうちにもう娘が男の頸(くび)にぶらさがつた。

「ハインリッヒ!」

「まあまあすこし!」と男は娘の口をふさぎ木の上を指さした。娘は男をぼんやりとして眺めた。しかし男はそんなことには頓着なく、兩手でもつて娘を茂みのなかへと押しこんだ。

「いまいましい腕白小僧め!――だが、もう二度とは來るな!」と言ひながら男は重い袋を地から引摑(ひつつか)むと、ふうふう言ふつて枝の方へ投げあげた。

「わかった、わかった!」と腕白小僧は、男の手から用心ぶかく自分の荷物を受け取りながら、言った。「これは熟したやつです、目方(めかた)もありますよ。」

 そこで、彼は紐のきれはしをポケットから取出(とりだ)して、齒で袋の端(はし)を引つぱりながら、林檎袋の上の方五寸ばかりのところにその紐を卷きつけた。それから用心深くきちんと、それを肩にのせた、荷はおなじように胸の方と脊中の方とに分(わか)たれた。この仕事を滿足のゆくようにやりをへると、頭の上に聳えてゐる大枝を握つて、兩方の掌(てのひら)でゆさぶつた。

「林檎盜人(りんごぬすつと)!」と腕白小僧は叫んだ。さうして、四方八方へ熟(う)れた實が枝を通してぱらぱらと飛散った。

 すると下の茂みから娘の聲で銳い叫び聲がした、庭のくぐり門がきしんだ。そして、腕白小僧がもう一度頸(くび)をさし出したときには、ちようどあの小さな窓がまたぱたんと言つて閉じ白い靴下がそのなかに消えるのが見えた。

 間もなく、腕白小僧は庭の板塀(いたべい)に馬乘りになり、道のかなたをうかがつた、そこにはたつた今知り合いになつたばかりの男が大股で月の光のなかをあちらへ駈け去つて行くのである。腕白小僧はポケットのなかに手をいれて銀貨を指で撫でてみて、うす氣味わるくしのび笑ひを洩(も)らした、それで肩の上では林檎が踊るのである。たうとう、家の人たちが出そろつて杖やあかりを持つて庭のなかをあちらこちらと走つてゐる間に、音も立てずに塀のあちら側に滑りおりた。さうして、道を橫切るとぶらりと隣りの庭にはいつた、そこが實に腕白小僧の家であつたのである。

 

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