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2025/01/12

堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版

[やぶちゃん注:本篇は、堀辰雄が昭和一三(一九三八)年三月号の雑誌『むらさき』第五卷第三號に発表し、後に彼の著書「雉子日記」(昭和一五(一九四〇)年河出書房刊)の中の「讀書の日々」の一篇として収録したものである。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの堀辰雄「雉子日記」(昭和一五(一九四〇)年河出書房刊)の中の一篇『リルケの「窓」』を画像で視認し、電子化した。

 但し、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」(新字新仮名)にある、それをOCRで読み込み、加工データとしている。因みに、「青空文庫」で本篇は『詩集「窓」』の標題で、二〇一三年一月に『堀辰雄作品集第五卷』(昭和五七(一九八二)年九月三十日発行筑摩書房刊)を底本として旧字旧仮名で電子化されてあるが、私はそれを、一切、使用していない。「君の大嫌いな屋上屋をするのかね?」とツッコミを入れる御仁のために言っておくと、私は既に、昨日、堀辰雄が完全に訳した「窓」を正字正仮名で用意してあり、その校訂をしているうちに、本篇を正確に示す必要が生じたため、本日、これを以上の仕儀で、電子化することにしたのであり、「青空文庫」にそれがあることは、先程、知ったものである(私は、二〇一一年四月を以って、「青空文庫」の新着作品の完全蒐集ルーティンという下らない仕儀を、疾うに完全に罷めているのである)。既に、上記の通りで、オリジナルに電子化の用意を終えた後であった。言っておくと、管見したところ、「青空文庫」のものと、以下の私の電子化するものとは――★引用される詩篇訳が大きく異なっている★――ことが判る。これは、実は、昨日から気がついていた書誌学的校訂にとっては甚だ奇妙な異同なのだが……。他にも★――辰雄の説明の表現も――有意に――激しく――違う★――のである。これは、国立国会図書館デジタルコレクションで幾つかのフレーズ検索を掛けると、原本画像は見られないが、新潮社版(一九五四・五八年)・角川書店版(一九六三年)の全集による校訂された本文であることが判った。要するに、辰雄は後に、大きく手を加えていることが判るのである。無論、その違いも、注で、「立原道造・堀辰雄翻訳集」から引いて、比較させておいた。則ち、これは「屋上屋」どころか、★全然違う別ヴァージョン★――なのだよ!!!

 されば、本篇を公開後、私の既に出来上がっている『ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄譯 「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』を公開することとする。それは、「青空文庫」には、ない。但し、この電子化を受けて、そちらの注を追加することにしているため、多少のタイム・ラグは掛かることをお許しあれかし。

 なお、作中、翻訳詩の引用部分は、ポイント落ちになっているが、読み難くなるだけなので、無視し、本文と同ポイントで示した。]

 

   リルケの「窓」

 

 私はいま自分の前に「窓」といふ、插繪人りの、薄い、クワルト判の佛蘭西語の詩集をひろげてゐる。その表題の示すごとく、ことごとく、窓を主題にした十篇の詩を集めたもので、そのおのおのに一枚づつ插繪が入つてゐるのである。

 その詩のいづれもが、とある窓の下を通りすがりにちらつと垣間見たその内側の人生だの、或はその窓のみを通してその内側の人生と持ち合つたはかない交涉だのを歌つたものだが、所詮さう云つたはかなさそのものこそ此の人生にいかにも似つかはしく、さういふ點からしてもそれ等のふとゆきずりに見たやうな窓といふ窓がこのわれわれの人生に對して持つてゐる大きな意味――さう云つたやうなものが知らず識らずのうちにわれわれにひしひしと感ぜられて來ずにはおかないのである……

[やぶちゃん注:「クワルト判」英語“quarto”(元はラテン語の「四分の一」の意)。四つ折り紙(判)。クォート判(全紙の二度折りの製判に当たる)。]

 それ等の詩はどれも難解といふほどではないが、ちよつと風變りな佛蘭西語で書かれてあるので、私などにはすつかり吞み込めないやうな奴がないでもない。そんなのにもしかし揷繪がついてゐるので、ともかくも大體の意味はわかる。若い女の畫家の描いたものらしいが、(ひよつとしたら少女かも知れない)繪そのものはいかにも素人らしくつて、稚拙だ。

[やぶちゃん注:「若い女の畫家の描いたものらしい」これは、最後の「ノオト」で名が示されるので、そこで注する。辰雄は、以下で、かなり、挿絵を貶しているが、この女性、とんでもない人物なのである。

 私はいまその十篇の詩の大意を、その揷繪でもつて補ひながら、此處に書き竝べて見るが、それがおのづから一つの人生風景を美しく繰りひろげてくれたら好い。

 

       I

 

 最初の詩は、われわれがバルコンの上だとか、窓枠のなかにちらりと現はれたのを見たきりで、姿を消してしまつた女の、われわれの心に殘す何とも云ひやうのない寂しさを歌つてゐる。

 

   が、その女が髮を結はうとして、

   その腕を上げたなら、やさしい瓶よ、

   いかほどそれによつて私達の無氣力は

   たちまちに力づけられ、そして、

   私達の不幸はその光輝を增さうものを。

 

[やぶちゃん注:以上の訳詩部分は「立原道造・堀辰雄翻訳集」のものとは、大きく異なる。新字旧仮名のままで以下に示す(以下、同じ)。

   *

 

   が、その女が髪を結はうとして、その腕を

   やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、

   どんなにか、それを目に入れただけでも、

   私達の失意は一瞬にして力づけられ。

   私達の不幸は赫(かがや)くことだらう。

 

   *]

 插繪は、その窓枠のなかに一人の女が裸かの腕をもち上げて髮を結はうとしてゐる姿をちらりと見せてゐる。明け方、たつたいま起きたばかりのところと見える。窓枠の奧はまだ薄ぐらい……

 

       Ⅱ

 

 その次ぎの插繪も、同じやうに、鼠色の窓帷[やぶちゃん注:「さうゐ」。カーテン。]のかげから何かの花を揷した花瓶を窓ぎはに置かうとしかけてゐる女の手だけをちらりと覗かせてゐる。――つい云ふのを忘れてゐたが、插繪はみんなエッチングである。

 さて、肝心の詩だが、詩の方にはそんな女の手は現はれてはいないのである。さうして唯、その鼠色の窓帷がなんだかごそごそと動いたのが目に止つたきり。……それだけでももう、それを見た者の胸ははずんで、もうすこし待つてゐるやうにと合圖をされたのだらうかしらと思ふ。さうしてそれに應じたものかどうかと迷はずにはゐられない。が、それにしても自分の待たうとする者は一體誰なのだ?

 かうやつてその路傍に佇んで、何か見知らぬ者にしきりに注意深くしてゐる自分、ひよつとしたら夢がかうやつて自分を立ち止まらせているのではないかとまで疑ひ出してゐる自分、――こんな自分をいまを限りに、もう昔のやうな自分ではないのではないのか知らん?

[やぶちゃん注:以上の第二段落以降は「立原道造・堀辰雄翻訳集」のものとは、激しく異なる。

   *

 さて、本文の詩だが、詩の方にはまだそういう女の手は現われてはいないのである。そうして唯(ただ)、その鼠色の窓帷がなんだかごそごそと動いたのが目に止(とま)ったきり。……それだけでももう、それを見た者の胸ははずんで、それが自分に来てくれるようにという合図なのではないかしらと思う。そうしてそれに応じたものかどうかと迷わずにはいられない。が、それにしてもそれは一体誰なのだろうか?

 そうやってその窓帷のかげにそっと隠れているのは、ひょっとしたら恋を失った女ではないのか? そうして彼女の心から溢(あふ)れでている生命が、こうして窓の下に立っている行きずりの私にまで、その飛沫(ひまつ)を与えているのではないだろうか?

   *]

 

     Ⅲ

 

 窓はわれわれの幾何學、――それはわれわれの大いなる人生を容易に區切つている、非常に簡單な圖形だ。

 

   お前の額緣のなかに

   戀人が現はれるのを見る時くらゐ

   彼女の美しく見えることはない。

   おゝ、窓よ、お前は彼女の姿を殆ど永遠化する。

 

 此處では偶然はすべて許されない。戀人は戀の眞只中にいる。彼女のものになり切つた、ささやかな空間にだけ取り圍まれながら。……この明瞭な詩の揷繪は、なんのことやらよく分からない。一人の女の片手をちよつと胸にあてがつてゐる立ち姿が描かれているが、さうやつて片手をしをらしく胸にあてながら、物思はしげに窓に倚つてゐる姿、――それこそ戀人の永遠の像だといふのであらうか。此處のところ、どうもすこし詩よりも插繪の方が晦澁である。

[やぶちゃん注:これは、最集段落の一箇所を除き、その間遠部分の異同が激し過ぎるので、全文を提示する。

   *

 窓はわれわれの幾何学、――それはわれわれの大いなる人生を無雑作に区切っている、いとも簡単な図形だ。

 

   お前の額縁のなかに、われわれの恋人が

   姿を現はすのを見るときくらゐ、

   かの女の美しく見えることはない。おお窓よ、

   お前はかの女の姿を殆ど永遠化する。

 

 此処にはどんな偶然も入り込めない。恋人は恋の真只中にいる。彼女のものになり切った、ささやかな空間にだけ取り囲まれながら。……この詩の挿絵は、なんのことやらよく分からない。一人の女の片手をちょっと胸にあてがっている立ち姿が描かれているが、そうやって片手をしおらしく胸にあてながら、物思わしげに窓に倚っている姿――それこそ恋人の永遠の像だというのであろうか。此処のところ、どうもすこし詩よりも挿絵の方が晦渋である。

   *]

 

       Ⅳ

 

 第三の詩で窓を幾何學的なものとして取扱つた詩人は、こんどは反對にそれを海のはうに千變萬化のものとして取扱はうとしてゐるとでも云へようか?

 揷繪もこんどはいくぶん詩に卽してゐる。一人の女が窓のところに手をかけながら、冲を走つてゆく船へぢつと切なさうな目を注いでゐる。無雜作にひつかけた肩掛けを强い海風になびくががままに任せながら……

 

   窓よ、お前は奇体の桝だ、――

   一つの生が他の方ヘ

   注ぎゆかんとしきりに焦つては

   それを何度一ぱいにさせたことか。……

 

[やぶちゃん注:訳詩の引用部が、全く異なる。

   *

 

   窓よ、お前は期待を量る器だ――

   の生命の方ヘ

   気短かに自分を注がうとして

   それを何度一ぱいにさせたことか。……

 

   *]

 

       V

 

 此處いらへんで、下手な譯だが、まあ一つ見本にその詩をそつくり譯してお目にかけて置くのも好かろう。あんまり間違つてゐないで吳れるといい。

 

   窓よ、何んとお前はすべてのものを

   そんなに儀式ばらせてしまふのだ!

   お前の窓枠の中に、ぢつと立つたきりで、

   何者かがよく人を待つたり、物思ひにふけつたりしてゐる。

 

   そんな放心者だの、怠け者ばかりを

   お前はお前の侍女に立たせてゐるのだ。

   彼女は彼女自身の繪姿になつてしまふ。

 

   又、漠とした倦怠に沈みながら、

   子供がそれに靠れて、ぽんやりしてゐることがある。

   その子は夢みてゐるのだ。そしてその上衣の汚れるのは、

   その子のせゐではなくて、そただ時間のせゐなのだ。

 

   又、戀人たちが、窓に倚つてゐることもある。

   身じろがずに、いかにも脆さうに、

   あたかもその翅の美しいために、

   貼りつけられてゐる蝶のやうに。

   [やぶちゃん注:「靠れて」「もたれて」。]

 

 この詩の揷繪は、窓から三人の少女が顏を出してゐるところが描かれてゐる。その中の一人の少女だけが唐草模樣のある欄干に腰かけて、何かをしきりに見ようとしてこちらへ體を捩ぢ向けてゐると、その背後からも二人の少女が肩に手をかけ合ひながら、やつぱりこちらへ注意深さうな目を注いでゐる。

[やぶちゃん注:訳詩が大きく異なる。

   *

 

   窓よ、お前はどんなものでも

   何んと儀式めかしてしまふのだらう!

   お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて、

   何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。

 

   そんな風に放心者だの、怠け者だのを

   お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。

   彼はいつも同じような姿勢をしてゐる。

   彼は自分の肖像画みたいになつてゐる。

 

   漠とした倦怠にうち沈みながら、

   少年が窓に靠れて、ぽんやりしてゐることがある。

   少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、

   少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間だ。

 

   又、恋する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。

   身じろがずに、いかにも脆さうに、

   あたかもその知の美しいために、

   貼りつけられてゐる蝶のやうに。

 

   *]

 

       Ⅵ

 

 この第六の詩にだけは特に「朝の空」といふ傍題が附せられてゐる。

 まだ部屋の奧にある寢臺のあたりは暗くつて、そこに寢てゐる者が誰だかさへもはつきりとは見分けられない位。だが窓ぎわはもう徐々に明るみ出してゐる。そのとき突然、寢臺から飛び下りて、その窓ぎわに走りより、それに倚りかかる者がある。それは一人のみづみづしい少女だ。

 その窓から少女の眺め入る曙の空には、しかし、それを見上げてゐる彼女自身の他には何も見えまい。その大空たるや、その深みにせよ、その高さにせよ、全くその少女とそつくりな生き寫しであるから、――ただ、その空中にやさしく飛び交つてゐる澤山の鳩たちを除いたら。――

 この「朝の空」と題された一篇の大意はまあさう云つたものだが、揷繪では、一人の裸體の少女がいま目を覺ましたばかりと云つたやうに、寢臺の上で半ば身を起しながら、窓のところに飛んできた二羽の鳩を無心さうに眺めてゐるところを繪にしてゐる。これでは、詩にあるように、その少女が夜そのものからのやうに寢臺から夜間着のまま拔け出し、窓に駈けよつて、身じろぎもせずに自分の新鮮な若さそのもののやうな曉の空を見入つてゐる、と云つた何か潑溂とした感じがあまり出ないやうだ。まあ、この揷繪は所詮讀者が詩を解するための何かの役に立てばいいと云つた位に考へてやつて置いた方がいい。餘人は知らず、少くとも私のためにいままでその方ではかなり役に立つたのだから、いまさらそれを知らん顔して、揷繪の惡口ばかり云ふのもすこし氣がさすといふもの。

[やぶちゃん注:この章も、激しく異なる。後半部がゴッソりカットされている。

   *

 この第六の詩にだけは特に「朝の空」という傍題が附(ふ)せられている。

 まだ部屋の奥にある寝台のあたりは暗くって、そこに寝ている者が誰だかさえもはっきりとは見分けられない位。だが窓ぎわはもう徐々に明るみ出している。そのとき突然、寝台から飛び下りて、その窓ぎわに走りより、それに倚りかかる者がある。それは一人のみずみずしい少女だ。

 しかし、その窓から少女の眺め入る曙の空には、青空そのものしかない。ただ、その空の一部に鳩たちがゆるやかに飛び交っているばかり。……

 この「朝の空」と題された一篇の大意はまあそう云ったものだが、挿絵では、一人の裸体の少女がいま目を覚ましたばかりと云ったように、寝台の上で半ば身を起しながら、窓のところに飛んできた二羽の鳩を無心そうに眺めているところを絵にしている。これでは、詩にあるように、その恋する少女が夜そのものからのように寝台から素足のまま抜け出し、窓に駈けよって、うっとりとして明けゆく空を見入っている、いかにもみずみずしい姿が、あまり描けていないのではないだろうか?

   *]

 

     Ⅶ

 

 とは云へ、この次ぎの頁をめくつたら、いやはや、一番困りものの揷繪が出て來てしまつた。どう見ても美しいとはいはれない女がぼんやりと窓のところで頰杖をついてゐる……

 その物思はしげな女の繪と詩との關係もよく分からない。まあ、大體この七番目の詩そのものが私にはよく分からない。意味は分かつても、その分かつた範圍だけでは面白いと思へない。ここいらへんから、詩集全體がどうも少し倦れてきたやうに見える。[やぶちゃん注:「倦れてきた」「うまれてきた」。意味からは「もてあやされてきた」と読むことも可能であろう。]

 この詩はその前の「朝の窓」に次いで、さまざまな夜の窓を歌つてゐるものと見える。狹い、限界のある部屋に闇を增させて無限の擴がりを與へることも出來る窓、昔その傍らで一人の女が俯向きながら、身じろぎもせずに、靜かに縫ひ物をしつづけてゐた窓、等々……

[やぶちゃん注:これは――全文圧縮系の書き直し――に近い。

   *

 次ぎの頁をめくると、どう見ても美しいとはいわれない女がぽんやりと窓のところで頰杖(ほおづえ)をついている挿絵がある……

 さて、その物思わしげな女の絵と詩との関係だが、それもどうも自分にはよく分からない。この詩は、私達の、狭い、限度のある部屋に無限の拡がりを与えるようにと工夫せられた窓だの、昔その傍らで一人の婦人が俯向いたまま、身じろぎもせずに、静かに縫い物をしつづけていた窓などを歌っているのだが……

   *]

 

     Ⅷ

 

 此處にも、いまのと似たり寄つたりの揷繪がついている。しかし、詩にはずつと卽してゐるから好い。その若い女は、何時間も何時間も、無心さうに、しかも緊張した面もちで、その窓に靠れながら過ごす。獵犬が橫になるや、きちんとその兩足を揃へるやうに、彼女の夢の本能といつたやうなものが、先づ、彼女しなやかな兩手を揃へさせる。それからはじめてその腕だとか、胸だとか、肩だとかがめいめいの配置につく。さうしていつまでもさうやつて凝つとしたまま、それらのものは「もういいの」なんぞとはおくびにも出さない……

[やぶちゃん注:言っていることは変わらないが、細部の表記・表現を書き換えてあるので全文を示す。

   *

 此処にも、いまのと似たり寄ったりの挿絵がついている。しかし、詩にはずっと即しているから好い。その若い女は、何時間も何時聞も、無心そうに、しかも緊張した面もちで、その窓に凭(もた)れがら過ごす。猟犬が横になるや、きちんとその前肢(まえあし)を揃えるように、彼女の夢の本能といつたようなものが、先(ま)ず、彼女のしなやかな手を気もちのいい具合に揃えさせる。それからはじめてその余(よ)の、腕だとか、胸だとか、肩だとかがめいめいの配置につく。そうしていつまでもそうやって凝(じ)っとしたままでいて、「もううんざり」なんぞとはおくびにも出さない……

   *]

 

     Ⅸ

 

 九番目の插繪は、これまでとはぐつと異つて、二本の木立ごしに或アパアトらしい二階建の小家をやや遠くに離して描いてゐる。二階には窓が三つ見え、地階には扉と窓が一つづつ見える。二階の一番左端の窓はひらかれて、窓帷をもたげながら一人の女が立つてゐる。それから地階の中央の窓からはやつぱり一人の女が格子ごしに顏を出してゐる。その上方の窓も、同じやうにひらかれてはゐるが、窓帷がひつそりと垂れたまま、人かげはない……

 さて、本文だが、その揷繪で補つて見ても、いまのところ私にはよく分からない。ただ、どうもその揷繪のなかで、窓帷で覆はれたまま何も見えない窓が、この詩の對象になつてゐるのらしい。その誰も見えない窓こそ、自分の歎きの原因だが、その正軆を知らうにはもう遲過ぎる、(それともまた早過ぎるのかしら?)いまは窓帷がそれをすつかり覆つてゐる、――と云つた意味らしいが、この自分の解釋には自信はない。ただ

   Sanglot, sanglot, pur sanglot !

 といふこの詩の第一行を口のなかで繰り返へし繰り返へししながら、その何かしら侘しげな揷繪を見てゐると、分かつたような分からないやうな裡[やぶちゃん注:「うち」。]にも、少しづつ自分の身についてくるやうな氣もしないことはない。

[やぶちゃん注:“ Sanglot ”(サァングロ)は名詞で、「しゃくり上げて泣くこと・咽び泣き・嗚咽」の意。因みに、フライングすると、辰雄は、この一行を、『忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、』と訳している。]

 

       Ⅹ

 

 さて、最後の詩である。これはなかなか好い詩だ。揷繪は一人の若い女が窓に身をのり出して、去りゆく戀人にみ向つて絕望したやうに手を振つてゐる。髮さへふりみだしながら……

 

   別れの窓に身をかしげてゐた

   お前を見たがためだつた、

   私が自分の深淵のすべてを理解し、

   それを嚥み込んだのは。

   闇の方に差し伸べたお前の腕を

   私に示しながら、お前は

   私の裡ではとつくにお前から離れてゐたものを、

   徐(しづ)かに私から離し、私から出て行かせた。……

 

   お前の身ぶりは、本當に

   大なる別離の印(しるし)だつたのだ?

   それが私を風に變化させ、

   私の中に注ぎこませたほどに……

 

[やぶちゃん注:やはり前振りの一部と、訳詩が有意に異なるので、全文を示す。

   *

 さて、最後の詩である。これは恋人の別離を歌った詩だ。挿絵は一人の若い女が窓に身をのり出して、去りゆく恋人に向って絶望したように手を振っている。髪さえふりみだしながら……

 

   別れるとき窓から身をのり出すやうにしてゐた

   お前の姿をまざまざと目にしながら、

   私ははじめてわが身うちの深淵に気づき、

   それを隈なく知つてわが物となした……

   お前はその腕を闇の方へ向けて

   私にそれを振つて見せながら、

   私がお前から切り離して自分と一しよに持つて来たものを、

   私から更に切り離して、それを出て行かせた。……

   お前のその別離の手ぶりは、

   永久の別離の印(しるし)なのではなかつたらうか?

   遂に私が風となり、

   水となつて川に注がれてしまふ日までの……

 

   *]

 

 

 

ノオト

 

 この詩集の著者はライネル・マリア・リルケ。――この「窓」(Les Fenêtres)一卷は、この詩人がその晚年「ドウイノ悲歌」などを完成した後、卽興的に佛蘭西語で試みたいくつかの小さな詩集のうちの一つである。それにどうも些か稚拙がすぎるやうな揷繪をもつて飾つたのは、この詩人の年少の女友達らしい、バラデインといふ閨秀畫家。詩人の死後、一九二七年に五百部を限つて刊行せられた。その書肆はリブレリイ・ド・フランス。

 リルケにはかういふ揷話がある。「リルケの思ひ出」といふ本を書いた、トウルン・ウント・タクジス公爵夫人といふ婦人が、その本の中に引用してゐる詩人の手紙の一節に據ると、――一月の或日(それは一九一三年のことで、リルケは巴里に居た)詩人はなんとも說明しがたい誘引を感じて、聖ルイ島の、ホテル・ラムベエルの方へ向ひ、アンジュウ河岸[やぶちゃん注:「かし」。]に沿つて步いて行つた。一つの町から他の町へと、簇がり起つてくるさまざまな思ひ出に一ぱいになりながら。それは本當に奇妙な午後だつた。町々の、注意深く覆はれた、ひつそりした、高い窓の下を通りかかると、きまつてその窓帷がふいと持ち上げられたやうな氣がし、そしてそれが何んだか自分のためにされたやうに思はれるのだつた。その度每に[やぶちゃん注:「たびごとに」。]、自分が其處へはひつて行きさへすればいい、さうすれば何もかもが、そこいらに漂つてゐる匂[やぶちゃん注:「にほひ」。]まで、說明されるやうな氣がされた、――恰も[やぶちゃん注:「あたかも」。]自分が其處ではずつと前から待たれて居つて[やぶちゃん注:「をつて」。]、そしてその中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]家は思はずほつとするであらうやうな……

 この「窓」一卷を成してゐるすべての詩は、さういつた詩人の巴里滯在中のかずかずの經驗を背景にしてゐるのであらう。一九一九年以來、殆どその晚年を「ドウイノ悲歌」を書くために瑞西[やぶちゃん注:「スイス」。]に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來たらしい。しかし巴里にいても殆ど彼が何處でどう暮らしてゐるのかは誰にも分からなかつた。時としてリュクサンブウル公園などで小さな手帳をとり出して卽興的に短い詩などを書き込んでゐる、いかにも人生に疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。]したような詩人の姿が見うけられたとも云はれる。……

 これらの未熟な佛蘭西語で書かれた卽興詩だけではこの大いなる詩人の全貌が窺へない[やぶちゃん注:「うかがへない」。]ことは云ふを埃たない。しかし、これらの詩の或物、――たとへばその最後の「窓」の詩など――にも、詩人の心血を注いで書いた「悲歌」の沈痛なアクセントのほのかな餘韻のやうなものは感ぜられるのである。

                                 一九三七年二月

[やぶちゃん注:底本では、「一九三七年二月」のクレジットは最終行の下インデントである。

「詩人の女友達の一人だったバラデインといふ閨秀畫家」これはバラディーヌ・クロソウスカ(リルケは彼女に「メルリーヌ」( Merline )という愛称をつけている)(Baladine Klossowska 一八八六年~一九六九年)である。彼女はリルケの「最後の恋人」としても知られている。邦文記事は皆無に等しいのだが、ポーランド西部にある古い都市ヴロツワフ(ポーランド語:Wrocław)生まれの女流画家で、驚くべきことに、彼女は、後に小説家・画家・思想家として知られる、かのピエール・クロソフスキー(Pierre Klossowski  一九〇五年~二〇〇一年)と、ピカソが「二十世紀最後の巨匠」と讃えた私の好きな画家バルテュス(Balthus  一九〇八年~ 二〇〇一年)の母親なのである。兄クロソフスキーリルケの知己だった作家アンドレ・ジッドの秘書を務めながら勉学に勤しんでおり、若き弟のバルテュスも、リルケに薦められて、岡倉天心の「茶の本」を読んだりしている。なお、彼女の刊行したそれを、主にフランスのネット上で捜したが、販売サイトばかりで、公開されたものは、見出せなかった。但し、その彼女が描いたその挿絵は、グーグル画像検索「Baladine Klossowska Les Fenêtres Rainer Maria Rilke」の中に、それらしいものが、数枚、見出すことは出来る。]

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