ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄譯 「窓」 正字正仮名・オリジナル注版
[やぶちゃん注:オーストリア生まれで、ドイツ語詩人として知られるライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)が、晩年にフランス語で書いた詩“ Les Fenêtres ”を、堀辰雄(明治三七(一九〇四)年~昭和二八(一九五三)年)が、昭和九(一九三四)年から昭和一一(一九三六)年にかけて翻訳したものである。
さて、訳詩本文は、国立国会図書館デジタルコレクションの堀辰雄著「晩夏」(昭和一六(一九四一)年甲鳥書林刊)に収録されているものを底本とし(リンク先は標題部。そこでは「窓」とリルケ姓名の欧文表記のみがある)、画像で視認した。但し、底本では、各節は独立して印刷され、新規連は常に左丁から始まっているが、これは、再現していない。
また、訳詩の後に附されてある、堀辰雄の「ノオト」の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの堀辰雄「雉子日記」(昭和一五(一九四〇)年河出書房刊)の中の一篇『リルケの「窓」』の末尾に置かれてある「ノオト」を参考として、画像で視認し、正字正仮名となるよう、電子化したものである。
但し、この訳詩と「ノオト」をカップリングしたものは、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」であって、それをOCRで読み込み、加工データとしている。
なお、ブログ標題の「ライネル・マリア・リルケ」の表記は、後者の「ノオト」の初めに書かれてあるリルケの辰雄の音写に基づいて示したものである。]
「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題に拠れば、この訳詩は、全篇を纏めて公開したのではなく、
「Ⅰ」と「Ⅲ」は、雑誌『文藝』(昭和 九(一九三四)年十二月号)
「Ⅱ」は、 雑誌『手帖』(昭和一一(一九三六)年四月発行)
「Ⅴ」と「Ⅹ」は、雑誌『四季』(昭和一〇(一九三五)年 六月号)
に、部分的に発表したが、『以上の本訳を推敲し、全十篇の翻訳を完成させ』、上記の前者の著作「晩夏」に収めたものであった。『末尾に付された「ノオト」は』、後者の著作「雉子日記」『の巻末記として書いたものを、のちに加筆訂正(年代未詳)したものだという』とあった。
なお、この公開に先立ち、先ほど、『堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』を公開しておいたので、先ずは、そちらを見られんことを、強くお薦めするものである。]
窓
Ⅰ
バルコンの上だとか、
窓枠のなかに、
一人の女がためらつてさへゐれば好い……
目のあたりに見ながらそれを失はなければならぬ
失意の人閒に私達がさせられるには。
が、その女が髮を結はうとして、その腕を
やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、
どんなにか、それを目に入れただけでも、
私達の失意は一瞬にして力づけられ、
私達の不幸は赫(かゞや)くことだらう!
Ⅱ
お前は、不思議な窓よ、私に待つてゐてくれと合圖してゐる、
既にもうお前の鼠色の窓掛けは動きかけてゐる。
おお窓よ、私はお前の招待に應じなければならないだらうか?
それとも拒絕すべきだらうか、窓よ? 私の待つてゐるのは誰だ?
私はもう無緣ではないのではないか、この耳をそば立ててゐる生命に對して?
この戀を失つた女の充溢した心に對して?
私にはなほ行くべき道があるのに、かうして私を此處に引き止めながら、
私に夢みさせてゐる、かの女の心の過剩を、窓よ、お前は私に與へることが出來るのだらうか?
Ⅲ
お前はわれわれの幾何學ではないのか?
窓よ、われわれの大きな人生を
雜作もなく區限(くぎ)つてゐる
いとも簡單な圖形。
お前の額緣のなかに、われわれの戀人が
姿を現はすのを見るときくらゐ、
かの女の美しく思はれることはない。おお窓よ、
お前はかの女の姿を殆ど永遠のものにする。
此處にはどんな偶然も入り込めない。
戀人は自分の戀の眞只中にゐる。
時分のものになり切つた
ささやかな空間に取り圍まれながら。
IIII
窓よ、お前は期待の計量器だ。
一つの生命が他の生命の方ヘ
氣短かに自分を注がうとして
何遍それを一ぱいにさせたことか!
まるで移り氣な海のやうに
引き離したり、引き寄せたりするお前、――
かと思ふと、お前はその硝子に映る私達の姿を
その向う側に見えるものと混んぐらかせたりする。
運命の存在と妥協する
或種の自由の標本。
お前に調節されて、外部の過剩も、
われわれの内部では平衡する。
V
お前は、窓よ、すべてのものに
儀式のやうな嚴肅な感じを加へる。
お前の窓枠の中で、何かを待つたり、物思ひにふけりながら、
人が直立不動になつてゐるのは、その所爲(せゐ)なのだ。
そんな風に、放心(うつけ)者だの、怠け者だのを、
お前はお小姓のやうに立たさせて置くのだ。
それはいつも似たりよつたりの姿勢をしてゐる。
それは自分の肖像畫となる。
漠とした倦怠にうち沈みながら、
少年がそれに凭(もた)れて、ぼんやりしてゐることがある。
少年は夢みてゐる。さうしてかれの上衣を汚してゐるのは、
少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間だ。
また戀する少女たちが、そこ居ることもある。
身じろがずに、いかにも脆さうに、
あたかもその翅の美しいために、
貼りつけられてゐる蝶のやうに。
[やぶちゃん注:実は、何故か、全く理由が判らないのだが(編集部注にも記載がない)、「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、この「Ⅴ」の表現が、全体に有意に、違っている。以下に新字体のままで示す。異なる箇所に傍線を引いた。
*
V
窓よ、お前は、どんなものでも
何んと儀式めかしてしまふのだらう!
お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて
何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。
そんな風に、放心者(うつけもの)だの、怠け者だのを、
お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。
彼はいつも同じやうな姿勢をしてゐる。
彼は自分の肖像画みたいになつてゐる。
漠とした倦怠にうち沈みながら、
少年が窓に凭(もた)れて、ぼんやりしてゐることがある。
少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、
少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間なのだ。
又、恋する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。
身じろがずに、いかにも脆さうに、
あたかもその翅の美しいために、
貼りつけられてゐる蝶のやうに。
*
フランス語原文は、何故か、フランス語圏のサイトでは見当たらず、アメリカの作曲家のサイトで見つけたと思ったら、「Ⅲ」で終りで、全体を見ることが出来なかった。しかし、この「立原道造・堀辰雄翻訳集」の方の「Ⅴ」の方が、全体に、語彙の表現や順列が、より、自然であり、妙な躓きがなく、すらりと読めるとは言えると思う。先行させた『堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』で述べたが、国立国会図書館デジタルコレクションで、幾つかの、ここに出る書き換えで、フレーズ検索を掛けると、原本画像は見られないが、新潮社版(一九五四・五八年)・角川書店版(一九六三年)の全集による校訂された本文であることが判明した。則ち、辰雄は後に、大きく手を加えていることが判るのである。なお、第三連の「汚してゐるのは、」の「汚して」は、言わずもがなだと思うけれど、敢えて言っておくと、「けがして」ではなく、「よごして」と読んでいると思われる。]
Ⅵ
部屋の奧、寢臺のあたりには、そこはかとない薄明しか漂はせてゐなかつた、
星形の窓は、いまや貪婪な窓と交代して、
飽くことなく日光を求めてゐる。
ああ、誰れか窓に走り寄り、それに凭れかかつて、ぢつとしてゐる。
夜の去つた跡で、こんどはその神聖なみづみづしい若さの番が來たのだ!
その戀する少女の眺めてゐる朝の空には、
靑空そのもの――あの大いなる模範、
深さと高さと――それ以外にはなんにもない。
その空の一部を圓舞臺にして、
ゆるやかな曲線を描いて飛び交ひながら
愛の復歸を告げ知らせてゐる鳩たちを除いては。
(朝 の 空)
[やぶちゃん注:「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、第一行末には読点も句点もない。]
Ⅶ
私達の區限(くぎ)られた部屋に、
闇が絕えず增大させる
未知の擴がりを與へるやうにと、
屢〻工夫せられた窓。
昔、その傍らにいつも坐つて、
一人の婦人が、俯向いたまま、
身じろぎもせず、物靜かな樣子で、
縫ひ物をしつづけてゐた窓。
明るい壜の中に嚥みこまれたまま、
そのなかで或像(すがた)の芽ばえてゐる窓。
われわれの廣漠たる眼界の
帶を結んでゐる環。
Ⅷ
かの女は窓に凭れたまま、
何もかも任せ切つたやうな氣もちで、
うつとりと、心を張りつめて、
夢中で何時間も過すのだ。
獵犬たちが橫たはるとき
その前肢(まへあし)を揃へるやうに、
かの女の夢の本能が
不意と襲つて、そのしなやかな手を、
氣もちのいい具合に竝べてくれる。
その餘のものはそれに準(なら)つて落着くのだ。
さうしてしまふと、その腕も、胸も、肩も、
かの女自身も言はない、「もう飽(あ)いた」と。
[やぶちゃん注:「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、第二連一行目の「橫たはるとき」は、「横はるとき」となっている。]
Ⅸ
忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、
あの誰も凭れてゐない窓!
慰みやうもなく、淚に咽(むせ)んでゐる、
あの被覆(おほひ)をせられたもの!
遲過ぎてからか、それとも早過ぎないと、
お前の姿ははつきりと摑めない。
いまは全くその姿を包んでゐるお前の窓掛け、
おお、空虛の衣!
X
最後の日の窓に身を傾けてゐた
お前の姿を目のあたりに見ながらだつた、
私がわが身の深淵を隈なく知つて、
それをはじめてわが物となしたのは。
お前はその腕を闇の方へ向けて
私にそれを振つて見せながら、
私がお前から切り離して自分と一しよに持つて來たものを
私から更に切り離して、逃げて行つてしまはせた……
お前のその別離の手振りは、
永い別離の印なのではなかつただらうか?
遂には私が風に變身せしめられ、
水となつて川に注がれてしまふ日までの……
ノオト
この「窓」(Les Fenêtres)一卷は、ライネル・マリア・リルケがその晚年餘技として佛蘭西語で試みたいくつかの小さな詩集のうちの一つである。その死後、詩人の女友達の一人だったバラデインといふ閨秀畫家が十枚の插繪を描いて、一九二七年に巴里のリブレリイ・ド・フランスといふ本屋から五百部限定で刊行せられた。
リルケにはかういふ揷話がある。「リルケの思ひ出」といふ本を書いた、トウルン・ウント・タクジス公爵夫人といふ婦人が、その本の中に引用してゐる詩人の手紙の一節に據ると、――一月の或日(それは一九一三年のことで、リルケは巴里に居た)詩人はなんとも說明しがたい誘引を感じて、聖ルイ島の、ホテル・ラムベエルの方へ向ひ、アンジュウ河岸に沿つて步いて行つた。一つの町から他の町へと、簇がり起つてくるさまざまな思ひ出に一ぱいになりながら。それは本當に奇妙な午後だつた。町々の、注意深く覆はれた、ひつそりした、高い窓の下を通りかかると、きまつてその窓帷がふいと持ち上げられたやうな氣がし、そしてそれが何んだか自分のためにされたやうに思はれるのだつた。その度每に、自分が其處へはひつて行きさへすればいい、さうすれば何もかもが、そこいらに漂つてゐる匂まで、說明されるやうな氣がされた、――恰も自分が其處ではずつと前から待たれて居つて、そしてその中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい家は思はずほつとするであらうやうな……
この「窓」一卷を成してゐるすべての詩は、さういつた詩人の巴里滯在中のかずかずの經驗を背景にしてゐるのであらう。一九一九年以來、殆どその晚年を「ドウイノ悲歌」を書くために瑞西に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來たらしい。しかし巴里にいても殆ど彼が何處でどう暮らしてゐるのかは誰にも分からなかつた。時としてリュクサンブウル公園などで小さな手帳をとり出して卽興的に短い詩などを書き込んでゐる、いかにも人生に疲憊したような詩人の姿が見うけられたとも云はれる。……
これらの未熟な佛蘭西語で書かれた卽興詩だけではこの大いなる詩人の全貌が窺へないことは云ふを埃たない。しかし、これらの詩の或物、――たとへばその最後の「窓」の詩など――にも、詩人の心血を注いで書いた「悲歌」の沈痛なアクセントのほのかな餘韻のやうなものは感ぜられるのである。
[やぶちゃん注:参考底本では、最終行の下インデントで、『一九三七年二月』とある。なお、この「ノオト」は、先ほど、公開した『堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』で原型を電子化して、注を附し、一部の読みも割注してあるので、ここでは、添えていない。]
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