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2025/01/14

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「夢みる(二十八章の中)」「一」

 

 

     冠せられた夢

      (一八九七年)

 

 

[やぶちゃん注:リルケ、二十一歳の詩群より。ドイツ語の「Wikisource」のここで、原綴りがあり、“ Traumgekrönt ”である。茅野のこの「冠せられた夢」という訳に、少し違和感を持ったが、サイト『梅丘歌曲会館「詩と音楽」』(管理者・藤井宏行氏)のここに、かの「十二音技法」の創始者として知られるオーストリアの作曲家シェーンベルク(Arnold Franz Walter Schönberg 一八七四年~一九五一年)に師事したアルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg 一八八五年~一九三五年)が(二人ともレコードで、数枚、持っている)、この詩篇の中の『「愛 Liebe」と名のついたサブセクションの』二『番目の詩』に曲をつけたものが紹介されている(この詩は茅野も採用して、後で訳しているので、このページをそこで、また、紹介させて貰う)が、そこに、『リルケの詩のタイトルは厳密にいうと「夢が冠をかぶって」と主語と目的語の関係が違っているようではありますが、ここでは私の受けたイメージで「私」が夢をかぶっているようにしました』とされ、本総題を『夢を戴きて』と訳しておられるのを見、私の夢が頭に堕ちてくる杞憂は解消した。藤井氏に御礼申し上げるものである。]

 

 

     夢みる(二十八章の中)

 

 

[やぶちゃん注:原題は“Träumen”。ネイティヴの音写は「トロィメン」。「夢見る・夢を見る・夢に見る」の他に、ネットの辞書を管見するに、情動上の「夢想する・空想する」から、情態的に「空想に耽る」や「憧れる」、及び、見かけの様態上の「ぼんやりしている」の意にも用いるようである。なお、“Traum”(同前「トォム」)は名詞で、「夢」・「夢現(ゆめうつつ)・夢想・空想」の他、ポジティヴに「希望・(望むところの)夢・憧れ」、さらに派生的に「夢かと思われるほどに素敵な物・状況」をも指す。また、これらの発音から、現代では、直ちに想起されるのは、「トラウマ」であるが、これは、“Trauma”で、他にドイツ語では、“TraumasTraumenTraumata”とも表記する。所謂、現行通りの、心理学・精神医学用語である「精神的ショック・心的外傷・心的傷痕」の他、医学用語で、普通に「外傷」の意もある(所持する同学社版「新修ドイツ語辞典」一九七七年七版)。しかし、これは、本来は、後者の「外傷」が原義である。何故なら、この語源は、ギリシャ語の「τραύμα」(ギリシャ語のネイティヴの音写は、まさに「トラウマ」であった)に由来し、「傷」や「怪我」の意だからである。所持する「羅和辭典」(田中秀夫編・昭和三七(一九六二)年研究者辞書部刊)でも、“trauma”(能動態現在直接法二人称複数“-atis”)として、医学用語とのみあって、『多傷・傷瘡』とするからである。ネットを見ると、オーストリアの精神科医が「精神的な傷」という意味で使い始めたもので、ドイツ語圏で広がり、英語になった、とある。他にサンスクリット語源とする書き込みがあったが、これは、信が措けない。]

 

   

 

私の心は忘られた禮拜堂に等しい。

聖壇の上には荒い五月が光つてゐる。

倨傲な若者の嵐は

疾うにもう小さい窓を破つたが、

今は寶庫(サクリスタイ)へまでも忍入つて、

其處で助祭の鈴を引くのだ。

けたたましい鈴の臆した憧憬の叫びは

疾うに廢れた犧牲(いけにへ)の場處ヘ

驚いてゐる遠くの神を呼び寄せる。

そこで風は笑つて窓から飛出したが、

怒つた神は響の波を摑むで

床石へ投げつけて碎いてしまふ。

 

あはれな願は長い列を作つて

門前に跪き、苔の生えた閾際で物乞ひする。

しかし最う一人の祈る者も行過ぎない。

 

[やぶちゃん注:これは、凄絶な――リルケのトラウマの信心の荒廃の記憶――である。

「倨傲」「きよがう」(きょごう)は、「おごり高ぶること・そのさま・傲慢」の意。

「疾うに」「とうに」。

「寶庫(サクリスタイ)」ドイツ語の「Wikisource」のここで、原綴りがあり、“ Sakristei ”とある。これは、カトリック用語では、祭服や、その他の教会の備品・聖餐用の道具や教区の記録などを保管する部屋「聖具室」を指し、日本のカトリック教会では「香部屋(こうべや)」と呼ぶ。参考にしたウィキの「聖具室」によれば、『大抵の古い教会堂では、聖具室は祭壇の近くの横方面に位置するか、もっと一般的には教会堂の主となる祭壇の裏か、横側に位置する』とあった。

「助祭」当該ウィキによれば、『キリスト教における教会職務のひとつで、ギリシャ語のδιάκονος』(ネィティヴの音写「ディアーコノゥス」)』(「奉仕者」の意)を語源とする。カトリック教会では、司祭につぐ職位。正教会では「輔祭」の訳語を、聖公会などプロテスタントでは「執事」という訳語を用いている』。『ラテン語ではdiaconus』(ディアコヌス)『といい、トリエント公会議では「聖職位階の上位」であったが、第』二『バチカン公会議では』、『それまで存在した副助祭、祓魔師、読師、守門という四つの下級叙品が廃止されたため、現代では「聖職位階の下位」』『となっている』。『第二バチカン公会議以来、助祭を司祭への通過点や、ミサなどの典礼における単なる「司祭の補助」と見なすのではなく、助祭として固有の職務を再確認する方向に進んでいる。これに伴い』、『司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭(permanent deacon)の制度が復活し、最近では日本でも登場し始めている』とある。

「疾うに」「とうに」。

「廢れた」「すたれた」。

「床石」「ゆかいし」。

「閾際」「しきゐぎは」。]

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