茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「民謠」
民 謠
私を大變に動かす
ボヘミアの民謠の節。
あれがそつと忍び込むと
私の心は重くなる。
馬鈴薯掘りの子供が
そつと歌ふと、
その歌はなほ
夜の遲い夢にも響く。
國を越えて遠くヘ
旅をしてゐても、
幾年か經た後でも、
いつもそれが思ひ出される。
[やぶちゃん注:「ボヘミア」リルケは、当該ウィキによれば、『オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが早くに亡くなり、その後一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが』九『歳のとき』、『母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことからリルケを』五『歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によって』、『リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情は』後(のち)、『ルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし』、『父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった』とある。一方、ウィキの「ボヘミア」によれば、『ボヘミア(ラテン語: Bohemia、チェコ語: Čechy、チェコ語発音: [ˈt͡ʃɛxɪ]、ドイツ語: Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西に接するのはドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである』。『この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い革の帽子に革のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに好まれた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり』、(☞)『芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアン』(多様な意味があるので、ウィキの「ボヘミアン」(英語:Bohemian)を参照されたいが、ここで、私は、中でも、『ロマ』(Roma)『のこと。北インド起源の移動型民族。移動生活者、放浪者として知られてきたが、現代では定住生活をする者も多い。かつてはジプシーとも呼ばれたが、最近では彼等の自称とされるロマ(その単数形のロム)が使用されるようになってきている』と、『ボヘミアン・アーティスト』で、『芸術家や作家、世間に背を向けた者などで、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。上記のロマの多くがフランスにおいてボヘミアからやってきたことから「ボヘミア人」=流浪の人と考えられ、転用された』とある部分に着目する。リルケは、まさに、真正の、後者の「ボヘミアン・アーティスト」であったから、である)『やボヘミアニズム』(当該ウィキによれば、(英語『:Bohemianism)は、自由奔放な生活を追求することを指す。そうした生き方を実践する者をボヘミアン(Bohemian)ないしはボエーム(仏: Bohème)と呼び、そうした人々が多く住むコミュニティーをボヘミア(Bohemia)という』。十五『世紀にフランスに流入していたジプシー(ロマ)が主にボヘミア地方(現在のチェコ)からの民であったため、フランス語でボエミアン(bohémien)という語はボヘミア人からジプシーの意味に変化した』。十九『世紀の中』頃、『フランスの小説家アンリ・ミュルジェールが』「ボヘミアン生活の情景」(‘ Scènes de la vie de bohème ’)の序文『で、「ボヘミアン」とは定職を持たない芸術家や作家、または世間に背を向けた者のことであると宣言した。この小説はプッチーニのオペラ』「ラ・ボエーム」(‘ La Bohème ’)にもなり、以降』、『ボヘミアンとは伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている芸術家気質の若者を指す言葉となった。そのニュアンスとしては、良い意味では「他人に使われることなく質素に暮らし、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」という含意、悪い意味では「定職がなく貧しい暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」とい』った『含意がある』とある)『という言い方も生まれた』(☜)。『ボヘミアをチェコ語ではチェヒ(チェコ語: Čechy)と呼び、チェコ共和国(チェコ語: Česká republika)、通称チェコ(チェコ語: Česko)をチェヒとも呼ぶ。由来は』六『世紀頃までに形成されたチェコ人(チェコ語: Češi)にあり、意味は「『人々/光』の土地」である』(☜)。『ラテン語における『ボヘミア』(ラテン語: Bohemia)の呼称は、古代にボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人(古代ギリシア語』の『ラテン語』転写『:Boii )に由来し』、『意味は「『(戦士の)人々』の土地」』(☜)『と考えられている。ドイツ語ではベーメン(ドイツ語: Böhmen)と言い、ラテン語の』「ボヘミア」『の語源と同じ由来と考えられている』とあり、後の「ルクセンブルク家」の項に、十二世紀にボヘミア王国を打ち立てた『プシェミスル家』が『断絶』した『後の』一三一〇『年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。ローマ皇帝カール』Ⅳ『世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル』『Ⅰ世は』、一三四八『年にプラハ』(☜ ☞)『にプラハ大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した』。十五『世紀には』、『プラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出した』。一四一〇『年に始まった』「グルンヴァルトの戦い」で、『ヤン・ジシュカ率いるボヘミア義勇隊が、それまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目される。外圧により』、一四一五『年』、『フスがジギスムントに処刑されて宗教改革が失敗に終わると』、一四一九『年のプラハ窓外投擲事件をきっかけにフス戦争が始まった』とある。
――因みに、私は、今回、この詩を読んで、はた! と膝を打ったのであった!……それは……この「私を大變に動かす/ボヘミアの民謠の節。/あれがそつと忍び込むと/私の心は重くなる。」によって繰り出される以下の詩の全部が……私には……ある作品の「ボヘミア」の「歌」である――ことに気づいたからである! 語ると、エンドレスになるから、私のブログ・カテゴリ「プルートゥ」の、「ノース2号論ノート2 作品構造分析(完全版)」、及び、『ノース2号の「あの」曲』を、是非、見られたい!]
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