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2025/02/12

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「夏の雨の前」

 

 夏の雨の前

 

急に庭苑のすべての緣(へり)から、

何かしらぬ或物が取去られた。

庭苑が窗々に近よつて、默つてゐるのが

感ぜられる。木立からは雨告鳥が

 

さし迫つて强く聞えて來る。

ヒイロニムスのやうな人が思はれる。

それ程にある寂しさと熱意とが

この一つの聲から高まる。その聲を

 

大雨は聞くだらう。廣間の壁は

その畫と一所に我々から遠ざかつた。

我々の云ふことを聞いてはならぬやうに。

 

色のあせた壁紙のうつすのは、

子供の時に恐れられた

午後の、あの不確(ふたしか)な光。

 

[やぶちゃん注:この原詩は、ドイツ語の「Wikisource」のここで、電子化されてある(リルケのドイツ語フル・ネームと「ヒイロニムス」の綴り(ドイツ語の“Hieronymus Kirchenvater)”(“Kirchenvater”は、「教父」のドイツ語で(音写「キィルヒェン・ファータァ」)、ウィキの「教父」によれば、『キリスト教用語で古代から中世初期』、二『世紀から』八『世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々を』指す、とある)のフレーズで見出せた)。

   *

 

VOR DEM SOMMERREGEN

 

Auf einmal ist aus allem Grün im Park

man weiß nicht was, ein Etwas, fortgenommen;

man fühlt ihn näher an die Fenster kommen

und schweigsam sein. Inständig nur und stark

 

ertönt aus dem Gehölz der Regenpfeifer,

man denkt an einen Hieronymus:

so sehr steigt irgend Einsamkeit und Eifer

aus dieser einen Stimme, die der Guß

 

erhören wird. Des Saales Wände sind

mit ihren Bildern von uns fortgetreten,

als dürften sie nicht hören was wir sagen.

 

Es spiegeln die verblichenen Tapeten

das ungewisse Licht von Nachmittagen,

in denen man sich fürchtete als Kind.

 

   *

しかし、これを見ると、第一連一行目、

   *

Auf einmal ist aus allem Grün im Park

   *

は、機械翻訳に手を入れるなら、

   *

急に公園のすべての綠(みどり)から、

   *

の誤訳(茅野は、わざわざ「へり」とルビを振っていることから、恐らく、茅野自身の初期訳稿で「綠」としたものを、自ら判読を誤って――しかも、原詩との対照点検を怠って――「緣(へり)」としてしまったこと)が推定される。事実、岩波文庫の校注に、一『行目「縁(へり)」は』再版『『詩集』でもこのままだが、「緑」の誤りと思われる』とあるのである。

「雨告鳥」(あまごひどり)原詩“Regenpfeifer”。これは、ドイツ語のウィキのここによって、鳥綱新顎上目チドリ(千鳥)目 Charadriiformes を指すことが判る。チドリ目はウィキの「チドリ目」によれば、『チドリ類、カモメ類、アジサシ類などの水鳥・海鳥を中心に』十九『科、約』三百九十『種を含む』とあるが、そもそも「雨告鳥」という和語は、一般的ではない。小学館「日本国語大辞典」にも見出しがない。但し、同辞典には、「あまごい-どり」があり、『【雨乞鳥】』とあって、『(この鳥が鳴くと雨が降るというところから)』鳥の『「あかしょうびん(赤翡翠)」の異名(初出例を「大和本草」とする)とある。ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda は、当該ウィキによれば、「伝承」の項に、『和歌山県では本種を方言名でミズヒョロと呼ぶ』。「中辺路町誌」(なかへちちょうし)『に「ミズヒョロと呼ぶ鳥」との記事があり』、その内容は、『「果無山脈」(はてなしさんみゃく:和歌山県と奈良県の県境沿いに位置する山脈)『など』の『奥地に』、『赤く美しい鳥が』、『雨模様の時に限って』「ひょろひょろ」『と澄んだ声で鳴く。この鳥は』、『元は娘で、母子二人、この山の峰伝いで茶屋をしていた。母が病気になり、苦しんで娘に水を汲んでくるように頼んだ。娘は小桶を持って谷に下ったが、綺麗な赤い服を着た自分の姿が水面に映っているのに見とれてしまった。気がついて水を汲んで戻ったときには母はすでに事切れていた。娘は嘆き悲しんで』、『いつしか赤い鳥に生まれ変わった。だから普段は静かに山の中に隠れ、雨模様になると』「ひょろひょろ」『と鳴き渡る」』とあるとあり、和歌山県日高郡の旧『美山村での伝説として』「みずひょうろう」として、『母子がすんでいたのは』、『この話では』、『美山村の上初湯川(かみうぶゆかわ)で、娘は素直に母の言葉を聞かない子だった。そのため』、『明日をも知れぬ状態の母はどうしても水が飲みたくて』「赤い着物を着せてあげる」『から汲んできて欲しいと願う。娘は大喜びで着替えて井戸に向か』ったが、『井戸に映った』自身の『姿に見とれ、結局』、『汲んで戻ったものの』、『母はすでに死んでいた。娘は自分を恥じて泣き、とうとう井戸に飛び込んだ。そこに白い毛の神様が出てきて』「お前のように言うことを聞かない子は鳥にでもなってしまえ」『と言うと、娘は赤い鳥に変わり、今もこの地方の山奥で』「ミズヒョロ、ミズヒョロ」『と鳴いている、という』とあった。他に、『龍神村でも』、『この鳥の伝説を拾ってあ』るが、『上記二つの話を』、『さらに簡素にしたようなものである』。そこでは、『夏に日照りが続くほど』、『高いところで鳴き、雨が続くと』、『里に下』って『くること、その泣き声が哀調を帯びていて』、『母を助けられなかった嘆きのようだとある』。『龍神村では』、『また』、『単にミズヒョロが鳴くと雨が降る』、『との言い伝えもあったらしい。さらに上記の伝承との関連か』、『ミズヒョロは』「水欲しい、水欲しい」『と鳴いているとも伝えられ』、或いは、『子供に川に洗濯にやらせたとき、あまり遅いと』「そんなことをしていると、ミズヒョロになるぞ」『と脅したとも言う』と、興味深い民話しがあるものの、アカショウビンの分布は、『北は日本と朝鮮半島、南はフィリピンからスンダ列島、西は中国大陸からインドまで、東アジアと東南アジアに広く分布する。北に分布する個体はフィリピン諸島、マレー半島、ボルネオなどで越冬する』とあって、ドイツには棲息しないから、これには同定出来ない。茅野(長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身)が、何故、「チドリ」を「雨告鳥」と訳したのか、よく判らない。チドリ類は水辺に近いところに棲息するが、ドイツ語の「チドリ目」を機械翻訳しても、雨を告げるといった内容は、見当たらない。そもそも、「雨告鳥」という語を見た日本人は、まず、大多数は、燕の低空飛行を想起するであろう。ウィキの「ツバメ」によれば、『ツバメが低く飛ぶと雨が降る』という俚諺は、『観天望気(天気のことわざ)の一つで、天気が悪くなる前には湿度が高くなり、ツバメの餌である昆虫の羽根が水分で重くなって低く飛ぶようになり、それを餌とするツバメも低空を飛ぶことになるからと言われている』とある。しかし乍ら、ツバメはチドリ目とは無縁な、スズメ目 Passeriformesツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica である。万事休す。識者の御教授を切に乞うものである。

「ヒイロニムス」エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus 三四二年頃、或いは、三四七年頃~四二〇年)は、平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『聖書学者、聖人。英名ジェロームJerome。《ウルガタ》版ラテン語聖書の翻訳者』。イタリアの『アクイレイア近傍のストリドンの出身。ローマで学び』、三七四『年』頃、『東方に向かった。アンティオキア』(トルコ南部の小都市アンタキヤの古称)『でアポリナリオス』(Apollinarios:シリア生まれ。キリスト論に関する異端アポリナリオス主義の主唱者)『の講義を聞いて大いに刺激されたが、非キリスト教文学への関心が修道生活の妨げとなることを悟って、シリアの砂漠に逃れ』、四、五『年の間、隠修士の生活をおくり、その際にヘブライ語を習得した』。三八二年~三八五『年にはローマに戻り、教皇ダマスス』DamasusⅠ『世』『の秘書をつとめた。その後』、『再び東方に赴き、ベツレヘムに落ち着き、新設の修道院を主宰しながら聖書の研究と翻訳にたずさわった』。四『世紀の後半、聖書のラテン語訳はさまざまの版が流布し、混乱状態にあった。そこで教皇ダマススはヒエロニムスにラテン語訳の改訂をすすめた。新約聖書のうち』四『福音書の改訂』乃至『改訳は』三八四『年に終わったが、他の部分にはヒエロニムス自身は手をつけなかったらしい』「旧約聖書」『について、ヒエロニムスは』、『まず』、『正典の考え』方『に立ち、今日』、『外典』(がいてん:アポクリファ(Apocrypha))『とされる部分を省き、次にヘブライ語原典からの翻訳を主張して、それを実行した。ヒエロニムスの訳業が』直ちに『西方教会で採用されたわけではないが』、次第に『その優秀さが認められ、後代の手が加えられて、《ウルガタ》版が成立した。これが』十六『世紀後半のトリエント公会議で』、『カトリック教会の唯一の公認ラテン語訳聖書と定められた。ヒエロニムスはそのほか、エウセビオスの』「教会史」、オリゲネスやディデュモス『などの著作のラテン語訳を行い、異端との闘いにも積極的に加わった』。彼の図像は、『一般に老人の姿をとり、手にした石で裸の胸を打つなどの苦行場面(』十五~十八『世紀に好まれた)、机に向かって翻訳や読書に励むさま、枢機卿(彼はその役割を果たしていた)の服と帽子をつけた姿などが表される』。「四大ラテン教父」『の』一人『としても登場する。持物は、足の刺(とげ)を抜いて助けたところ、以後』、『聖人に仕えたと伝えられるライオン、悔悛を象徴する』髑髏(どくろ)、『伝説にまつわるツグミなど』である、とある。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「盲ひつつある女」

 

 盲ひつつある女

 

その女(ひと)は他の人々のやうにお茶に坐つてゐた。

私には何だか其女が茶椀を

他人とは少し違つて持つやうに思へた。

一度ほほ笑むだ。痛ましい程に。

 

終に人々が立上つて話をし、

偶然ではあつたが、徐ろに多くの部屋を

通つて行つた時、(人々は話した、笑つた、)

私はその女を見た。その女は他の人々の後をついて來た。

 

直ぐ歌はなくてはならない人のやうに、

しかも大勢の前で、控目に、

喜んでゐるその明るい眼の上には、

池の面へのやうに外からの光があつた。

 

その女は靜に從(つい)て來た。長くかかつた。

何かをなほ越さなかつたやうに、

しかし、越した後は、もう

步かずに飛翔するだらうと思ふやうに。

 

[やぶちゃん注:「終に」ここは、「つひに」だろう。

「面へ」これは、「おもへ」であろう。]

2025/02/11

ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全を鋭意修正中

今年秋の朝ドラ「ばけばけ」の関係かららしく、私の小泉八雲の作品群(私は2020年1月15日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」――現在は全659記事――で、彼の来日後の作品集全十二冊総ての電子化注を完遂している)へのアクセスが有意に増えている。しかし、その大半は、Unicodeを使いこなすようになる前のものであったため、正字表現が甚だ不全である。されば、諸電子化注の合間に、少しずつ、古い物から、本気を出して、正字への変更を始めている。完全に視認で確認し、底本を確認して打ち換えるため、かなりの時間が必要であるが、ドラマの開始までには、その作業を終えたいと思っている(よくアクセスされる一部は、既に、多少は修正済みではある)。御希望を下されば、フライングして修正しようとも思っている(実際、二、三年前からそうしたメールを戴き、修正している)。視力の低下が進み、なかなか、物理的に時間が掛かるが、頑張りたい。無論、何より――私の愛する小泉八雲ために――である。

なお、訳者によって、「!」「?」の後に一マス空ける仕儀を行っていない場合があったが、これは、やはり、躓くので、一字空けを恣意的に施した。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「蛇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。□は脱字。] 

 「蛇怪」  有渡郡澁川村《うどのこほりしぶかはむら》にあり。傳云、當村三島の社は、除地《じよち/よけち》也。是、寳龜十年[やぶちゃん注:七七九年。光仁天皇の治世。]爰《ここ》に祭る處也。今村中《むらぢゆう》の土神《うぶすな》とす。明和二年寅[やぶちゃん注:一七六五年。徳川家治の治世。但し、この年は「乙酉(きのととり)」である。これが、月の干支であるとすれば、戊寅(つちのえとら)の一月となる。]の□月、竿入《さをいれ》[やぶちゃん注:江戸時代の検地の別称。検地のために間竿(けんざお)で地積(ちせき:土地面積)を測量すること。「竿打ち」「繩打ち」とも言う。]の時、除を廢して收公《しうこう》とせんとす。時に大蛇出現して、怒《いかり》の色あり。官吏等《ら》忽《たちまち》氣絕す。爰に於て、其企《くわだて》を止《や》む。云云。神威を恐《おそる》るなるべし。

 [やぶちゃん注:「有渡郡澁川村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『渋川村』『しぶかわむら』とし、『静岡県』の旧『引佐郡引佐町渋川村』『現在地名』『引佐町渋川』とあり、『都田(みやこだ)川(久留女木川』(くるめきがわ:都田川の上流部の川名)『の上流域に位置し、西方の浅間(せんげん)山(』五百十九『メートル)から村域最北端の鳶(とび)ノ巣(す)山(』六百六十九『・五メートル)に至る尾根は三河国との国境をなす。東は豊田(とよだ)郡神沢(かんざわ)村(現天竜市)、南は別所(べっしよ)村・久留女木(くるめき)村。当地の長山家は天文八』(一五三九)年)『九月吉日の年紀銘をもつ鰐口を保管しており、その銘文から鰐口は同月に「伊那佐郡渋河大平村泉徳寺」に奉納されたものであることがわかる。天正三』(一五七五)年『五月六日の武田家禁制(写』本・『中村文書)は当村に下されたものとされており』、「三河長篠合戦」『に出陣する武田軍が当村を通行するにあたって』、『軍勢の濫妨狼藉を禁じている。寛文年中(一六六一』年~一六七三年)『以降に東光(とうこう)院の住持が書いたと推定される』「井伊家澁川村古跡之事」『(龍潭寺文書)によると、当村に居住した井伊直之(法名前遠州大守温渓良知大禅定門)は正和五』(一三一六)年『に没したと伝える』とあった。ここは、現在は静岡県浜松市浜名区引佐町渋川(いなさちょうしぶかわ)で、ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、現行のその地区には「三島の社」はない。最も近い静岡県浜松市浜名区細江町中川にある「三島神社」(グーグル・マップ・データ)でも、渋川の飛地の端からは、南方に八キロメートルも隔たっている(グーグル・マップ・データ)。この現在の三島神社を調べても、渋川村にあった三島神社を合祀した記録はない。ただ、「ひなたGPS」の戦前の地図を見るまでもなく、渋川は、かなりの山間部であること、戦前の地図を見ると、渋川周辺にあった神社(渋川地区の外延直近)が、現行では、消滅していることが確認出来る(例えば、ここ)。さらに、この消滅した神社は、都田川沿いの蛇行部にあったこと、さらに、何より、現在の「三島神社」自体も、都田川の下流の沿岸(分岐部)にあることから、この大蛇出現(大蛇は水界と強く関連する)も、都田川と強い連関を感じさせるのである。則ち、都田川上流の神社群が、明治の国策の神社合祀で、合祀されてしまった可能性を推測出来るように私には思われた。渋川周辺の郷土史研究家の見解を伺いたく存ずるものである。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「詩人」

 

 詩 人

 

時間よ、お前は私から遠ざかる。

お前の翼搏(はばたき)は私を傷つける。

しかし、私の口を、私の夜を、

私の日をどうしよう。

 

私は持たない、戀人を、

家を、その上に立つ處を。

私が自己を與へる萬物は

富むでまた私を出し與へる。

 

[やぶちゃん注:「出し」「いだし」。]

2025/02/10

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「奇獸」

[やぶちゃん注:底本はここ。割注で鍵括弧を施した。]

  

 「奇獸」  有渡郡大谷村《おほやむら》にあり。當村瑞現山大正寺《だいしやうじ》【「正」は「祥」に作る。曹洞、寺領三十石】〕の記云《いはく》。傳云《つたへいふ》、開山《かいさん》[やぶちゃん注:寺のそれは、一般に「かいさん」と清音で読む。]行之禪師《ぎやうしぜんじ》は長享年中[やぶちゃん注:一四八七年から一四八九年まで室町幕府将軍は足利義尚。]の人也。始《はじめ》、宮川村滿泉寺に住す。後、當寺を草創す。時に長尾《ちやうび》の白狐《びやくこ》、三足《みつあし》の野鷄《やけい》[やぶちゃん注:キジの別称。]あり、瑞兆の異を呈し、又《また》淺畑《あさばた》の湖神《こしん》、老女に變じ來《きたり》て護法師となる、云云。佛氏の奇を唱へて土俗を迷はす癖《くせ》にして信じ難し。

 [やぶちゃん注:「有渡郡大谷村」現在の静岡市駿河区大谷(グーグル・マップ・データ)などに相当する。

「瑞現山大正寺」現在の大谷のここに現存する(グーグル・マップ・データ)。応仁・文明の頃、今川氏の臣で桜井信濃守の子であった、行之正順和尚が創建した。本尊は薬師如来。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、やや低い丘陵地(寺の東北直近には軍の「大谷射擊場」とある)であったことが判る。

「淺畑の湖神」これは、平凡社「日本歴史地名大系」に、『浅畑沼』(「湖」ではなく、「沼」である)『あさばたぬま』とし、『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区浅畑沼』で、現在の『静岡市街の北東、麻機(あさばた)地区にあった沼。近世からの新田開発』及び『昭和』四十『年代から』五十『年代にかけて』、『集中的に実施された水路整備・県営圃場整備などによって、現在は』、『ほぼ消滅している。「静岡県史」』の『自然災害誌によると、沼が存在したのは巴(ともえ)川上流域の麻機低地とよばれる地域で、静岡平野の主体をなす安倍川扇状地の北の埋残』(うめのこ)『し部分に相当する。なかでも現在の流通』『センター付近』(グーグル・マップ・データでここ。右中央に「大正寺」を配した)『は最も標高が低く、六、七メートルにすぎない』とある。「ひなたGPS」で流通センター附近を見ても、沼のようなものは、認められない。されば、「淺畑沼」は既にその時点で消滅しているようである。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「臺所町無井」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「臺所町無井《だいどころまち ゐ なし》」  有渡郡府中臺所町にあり。傳云《つたへいふ》。府中臺所町は絕《たえ》て井戶なし。徃昔《わうじやく》、弘法大師東遊の時、玆《ここ》に來《きたり》て水を乞ふ。農夫、其形《かた》ちの寠《やつる》を見て、賤《いや》しめ謾《あなど》りて云《いふ》。乞食《こじき》賣僧《まいす》にあたふる水更になし、早くゆけ云。大師忿怒《いかり》[やぶちゃん注:「忿怒」二字で読む。]て曰《いはく》、「後《のち》必《かならず》思ひ知る事あらん」と詈《ののしり》て去玉《さりたま》ふ。是よりして今に至《いたる》迄、井を堀《ほる》[やぶちゃん注:「堀」はママ。]に水なし。只《ただ》田間《でんかん》の水を引《ひき》て井とし、日用とす。云云。大師の事、詳《つまびらか》ならず。此地水脈無《なき》に據《よる》のみ。

 

[やぶちゃん注:弘法大師の伝承として各地に見える、法力に拠って、以降、呪われるという伝承である。

「有渡郡府中臺所町」平凡社「日本歴史地名大系」に、『台所町』『だいどころまち』と立項し、『静岡県』『静岡市駿府城下台所町』、『現在地名』を『静岡市伝馬町(てんまちょう)・相生町(あいおいちょう)一丁目・横田町(よこたまち)』とし、『鋳物師(いものし)町から北に延びる小路の入口にある両側』の『町。御台所町』(みだいどころちょう)『ともいう(以上、「町方繪圖」)。『元亀四』(一五七三)年『八月』二十七『日の武田家朱印状(中村文書)は宛所を欠くが、旧規のように魚座役代官を命じている。これは当地の中村家に対してのもので、同家は寛文年間(一六六一』~一六七三)年『まで当町にあったといい(「駿河志料」など)、往古は横田魚(よこたうお)町と称した』(「駿河記」)とあった。現在は、冒頭のそれは、静岡県静岡市葵区伝馬町で、ここ(グーグル・マップ・データ)。この地域は駿府城の東南直近に当たる。NPO法人「静岡市観光ボランティアガイド」作成になる「駿府ウエイブ」のここに、町名碑の設置を報知(写真有り)する中に、「台所町」の碑『(つつじ通り・スギ薬局前)』として、『台所町は駿府城の台所門(横内門)に通じるところにあったことに由来すると言われています。昔は横田魚町ともいわれ元亀年間』(一五七〇年~一五七三年)、『武田家より魚座』(うおざ)『を免許され』、『魚座があったという。また』、『当町は井戸を掘っても水が出ないとされ、そのいわれは、昔』、『弘法大師が諸国巡錫中』、『ここを訪れて水を所望したが、みすぼらしい姿をしていたために土地の者が断ったためという』と載っている。碑はここ(葵区相生町:グーグル・マップ・データ)で、「ストリートビュー」でもここで、見ることが出来る。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「豹 ――巴里の植物園で」

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「豹」

 

 

    ――巴里の植物園で

 

格子(かうし)の通り過ぎる爲めに

彼の眼は疲れて、もう何にも見えない。

彼には數千の格子があるやうで、

その格子の後に世界はない。

 

しなやかに强い足なみの音もない步みは

最も小さな輪をかいて廻つて、

大きな意志がしびれて立つてゐる

中心を取卷く力の舞踊のやうだ。

 

唯をりをり瞳の帷が音もなく

あがる。――すると形象は入つて

四肢の緊張した靜さを通つて行く――

そして心で存在を止(や)めるのだ。

 

[やぶちゃん注:「帷」「とばり」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「女等が詩人に與へる歌」

 

 女等が詩人に與へる歌

 

すべてが開かれるのを御覽なさい。私だちもさうです。

私たちはさうした祝福に外ならない。

獸の中で血と闇とであつたものは

私たちの中で魂に育つた。そして

 

更に魂として叫んでゐる。あなたへも。

あなたは勿論それを風景のやうに

眼に入れるだけだ。軟かく、慾望もなく。

それ故私たちは思ふ、あなたは

 

呼ばれる人ではないと。しかしあなたは

私たちが殘りなく全く身を捧げる人ではないのか。

誰かの中で私たちはより多くなれませうか。

 

私たちと一緖に無限なものは過ぎ去る。

あなたはゐて下さい。口よ。私たちが聞く爲に。

あなたはゐて下さい。私たちに話す人よ、あなたはゐて下さい。

 

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫧木

 

Donguri

 

[やぶちゃん注:右下方に、殻斗(かくと:所謂、「どんぐり・団栗」の類の、実の基部に附いているもの。俗に「皿」「椀」「帽子」(最後のそれが私には親しい)等と呼ばれる部分)附きの「どんぐり」の実の図が添えてある。当たり前の絵のように見えるが、この添えた「どんぐり」には、甚だ、問題があるのである。このように「どんぐり」「先」がしっかり尖っており、全体がはっきりとスマート、細長いのは、実は、それほど多くない。私の認識では、私が跋渉の際に好んで食べるところの、双子葉植物綱ブナ(橅)目ブナ科シイ(椎)属スダジイCastanopsis sieboldii subsp. sieboldii が最もマッチする。但し、樹木図の方に描かれている実は、やや殻斗附近に至って、ふっくらとしているので、ブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis のそれと採れなくはない。ところが、東洋文庫訳の後注で、『良安は厳密にクヌギの子』(み)『のみを団栗としている』と断言しているのである。これは、確かに良安の評言の最後で、そのようにブイブイ言ってのだ! しかし、そうなると、この絵の実生の「どんぐり」も、右下のそれも、実は、ブナ科コナラ属  Cerris 亜属 Cerris 節クヌギ Quercus acutissima のそれということに採らないと、おかしいことになるのだ! しかし、クヌギの「どんぐり」は、直径が約二センチメートルと、「どんぐり」類の中では有意に大きく、しかも、ほぼ球形を成すから、逆立ちしても、こんな絵にはならないのだ! もし、良安が「どんぐり」をクヌギのみに限定しているのなら、こんな絵は絶対に描くはずがないのだ! 摩訶不思議なのである!?!

 

かしのき 苦櫧子

 かたき 【加之乃美】

櫧木

     橿【音江和名

       抄訓加之】

     唐韻此名萬年木

     字彙云鋤柄也

チュイ モツ   俗云樫木

 

本綱櫧山谷有之其木大者數抱髙二三𠀋葉長大如栗

葉稍尖而厚堅光澤鋸齒峻利凌冬不凋三四月開白花

成穗如栗花結實大如槲子外有小苞霜後苞裂子墜子

圓褐而有尖大如菩提子內仁如杏仁生食苦澀煑炒乃

帶甘亦可磨粉有苦甜二種此卽苦櫧子也【甜者鉤栗也】

 苦櫧子 大  粗赤  血櫧

    粒 木文  俗名

 甜櫧子 小  細白  麪櫧

又有子色黒者名鐵櫧並皆作屋柱棺材難腐也

                         衣笠內大臣

 新六切りたをす田上山のかしの木は宇治の川瀨に流れ來に

                          けり

[やぶちゃん字注:「たをす」はママ。「たふす」が正しい。訓読では訂した。]

△按苦櫧子【俗云加之堅字訓中畧也】其木堅剛故今俗多用樫字【猶以鰹字爲加豆於也】其

 花狀如栗花而短黃褐色長一寸許有白

 樫赤樫之二種而白樫葉稍小背淡白木理細宻以堪

 爲秤衡槍柄及棒杖等出肥州天草者最佳

赤樫以爲櫓櫂車軸及鋤柄等日向之產理宻而佳薩州

 之産次之

凡櫧之類皆冬亦葉不落伹木膚理色異

 六帖武士のやそ乙女らかふみとよむてらゐの上のかたかしの花

[やぶちゃん注:「六帖」は「万葉集」の誤り。作者は大伴家持である。訓読では訂した。]

  枕草帋云白樫は深山木の中にもいとけとをくて三位二位の

  うヘの衣そむる折はかりそ葉をたに人の見るめる

[やぶちゃん注:「けとをくて」はママ。「け遠(とほ)くて」が正しい。訓読文では、補正した。「はかりそ」も「は(=ば)かりこそ」が正しい。同前の仕儀を施した。]

 或以櫧子訓團栗者甚誤也團栗卽槲子也又以槲訓

 加之波者倍誤也

 

   *

 

かしのき  苦櫧子《くしよし》

 かたき  【「加之乃美」。】

櫧木

      橿《カウ》【音「江《カウ》」。

      「和名抄」、「加之《かし》」と訓ず。】

      「唐韻」、此れを「萬年木」と名づく。

      「字彙」に云はく、『鋤(くわ)の柄(え)

      なり。」≪と≫。

チュイ モツ   俗、云ふ、「樫木」。

[やぶちゃん注:「橿」の漢音は「キヤウ」(現代仮名遣「キョウ」)だが、それでは、「江」と合致しない。「橿」の呉音を見ると、「カウ」(コウ)であり「江」の漢音は「カウ」(コウ)で、呉音は「コウ」(コウ)であるから、厳密にはおかしいが、一応の辻褄は合うようには見える。「鋤(くわ)」はママ。「字彙」を確認すればいいのだが、膨大なため、まず、漢字は誤っていないとしてよいだろう。柄の強度を考えるなら、「クワ」より、より木部が支えのメインとなる「スキ」だと思う。「スキ」と振るべきところを、良安が勘違いしたと考えるべきであろう。本文にも出るが、再度出るが、そこは、補正記号で訂正した。

 

「本綱」に曰はく、『櫧《シヨ》は、山谷に、之れ、有り。其の木、大なる者、數抱《かかへ》、髙さ、二、三𠀋。葉、長大にして、栗《くり》の葉のごとく、稍《やや》尖《とが》りて、厚《あつく》、堅く、光澤≪あり≫。鋸齒、峻-利《しゆんり》[やぶちゃん注:非常に鋭いこと。]≪にて≫、冬を凌《しのぎ》て、凋まず。三、四月、白≪き≫花を開き、穗を成す≪こと≫、栗の花のごとく、實を結ぶ。大いさ、槲《コク》の子《み》のごとく、外(そと)に小≪さき≫苞《はう》、有り。霜の後、苞、裂(さ)けて、子、墜つ。子、圓《まろ》く褐≪色≫にして、尖《とがり》有り。大いさ、「菩提子《ぼだいし》」のごとく、內《うち》の仁《にん》、杏仁《きやうにん》のごとし。生《なま》にて食へば、苦く、澀《しぶ》く《✕→けれども》、煑《に》、炒《いため》れば、乃《すなはち》、甘《あまみ》を帶ぶ。亦、磨(ひ)いて、粉(こ)とす。苦《く》・甜《てん》[やぶちゃん注:甘い種。]の二種、有り。此れ、卽ち、「苦櫧子《くしよし》」【甜《あま》き者は、「鉤栗(いちい)」なり。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、共通する箇所は、それぞれに挿入して、二種の対比的記載を明らかにした。]

「苦櫧子《くしよし》」は、粒《つぶ》、大≪にして≫、木の文《もん》、粗《あらき》赤、俗名、「血櫧《けつしよ》」。

「甜櫧子《てんしよし》」は、粒、小≪にして≫、木の文《もん》、細≪き≫白、俗名、「麪櫧《めんしよ》」。

又、子《み》の色黒《いろぐろ》の者、有り。「鐵櫧《てつしよ》」と名づく。≪「苦櫧子」《くしよし》」・「甜櫧子」と≫、並《ならびに》、皆、屋(いへ)の柱、棺(ひつぎ)の材と作《ざい》と作《なす》。腐り難き[やぶちゃん注:レ点はないが、返して読んだ。]なり。

「新六」

  切りたふす

     田上山《たなかみやま》の

   かしの木は

     宇治の川瀨に

          流れ來にけり  衣笠內大臣

△按ずるに、「苦--子(かし)」は【俗、云ふ、「加之《かし》」。「堅(かた)し」の字の訓≪の≫中畧なり。】。其《その》木、堅剛《けんかう》なる故《ゆゑ》、今、俗、多く、「樫」の字≪を≫用ふ【猶ほ、「鰹《かつを》」の字を以つて、「加豆於《かつお》」と爲《す》るがごときなり。】。其《その》花の狀《かたち》、栗の花のごとくにして、短く、黃褐色、長さ一寸ばかり。「白樫《しらかし》」・「赤樫《あかがし》」の二種、有りて、白樫は、葉、稍《やや》、小《ちさ》く、背《せ》、淡白《あはじろ》く、木《き》の理(きめ)、細宻《さいみつ》なり。以《もつて》、秤(はかり)の衡(さほ[やぶちゃん注:ママ。「竿(さを)」。])・槍(やり)の柄(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])、及び、棒・杖等と爲《なす》≪に≫堪《たへ》たり。肥州天草より出≪づる≫者、最も佳し。

「赤樫《あかがし》」は、以つて、櫓・櫂、車軸、及び、鋤(くわ《✕→すき》)の柄(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])等と爲すに堪《たへ》たり。日向の產、理《きめ》、宻《みつ》にして、薩州の産、之に次ぐ。

凡《およそ》、櫧《かし》の類《るゐ》、皆、冬も亦、葉、落ちず。伹《ただし》、木の膚《はだへ》・理《きめ》・色、異《こと》なり。

 「万葉」

   武士《もののふ》の

      やそ乙女《をとめ》らが

    ふみとよむ

        てらゐの上の

          かたかしの花

 「枕草帋《まくらのさうし》」云はく、『白樫《しらかし》は』、『深山木《みやまぎ》の中にも、いとけとほくて、三位《さんみ》、二位のうヘの衣《きぬ》、そむる折《をり》ばかりこそ、葉をだに、人の見るめる』≪と≫。

 或いは、櫧-子《かしのみ》を以《もつて》、「團栗(どんくり)」と訓ずるは、甚だ、誤《あやまり》なり。團栗(どんくり)は、卽ち、「槲(くぬぎ)の子(み)」なり。又、「槲《コク》」を以つて、「加之波《かしは》」と訓《くんずづ》は、倍(ますます)、誤《あやまり》なり。

 

[やぶちゃん注:まず、「本草綱目」の言う「櫧木」「櫧」(「苦・甜」を頭に持つ)「櫧子」というのは、

双子葉植物綱ブナ(橅)目ブナ科マテバシイ(馬刀葉椎・待椎)属シリブカガシ(尻深樫) Lithocarpus glaber

である。「維基百科」の同種「柯」に、『别名』に『子(江西)』とあるからである。

まず、私は不学にして、聴いたことがない樹木名であるが、ウィキの「シリブカガシ」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『ブナ科マテバシイ属の常緑高木である。日本に自生するマテバシイ属』二『種(シリブカガシとマテバシイ』(マテバシイ属 Lithocarpus)『)のうちの』一『種』(マテバシイ(馬手葉椎)Lithocarpus edulis であろう)。『和名はドングリの底(お椀状の殻斗を被っていた部分)が凹んでいることに由来する。なお、カーム』(恐らく英語の“calm”(落ち着き:語源はイタリア語の「凪」由来)『と呼ばれることもある』。『常緑性の高木で、樹高は』十~十五『メートル』、『幹は直立、分枝する。樹皮は灰褐色でなめらか。若枝には短毛が密生する』。葉柄』一~一・五『センチメートル 』、『葉は長さ』八~十五センチメートル『で肉厚で革質、葉形は長楕円形で先が鋭く尖る。葉縁は全縁、ときに葉上部に浅い鋸歯が』一、二『個ある。葉の表面は緑』から『濃緑色で光沢があり、葉裏は淡緑色で』、『鱗状毛が密生し』、『金色または銀色の光沢がある。側脈は』六~八『対。その葉質や形はアカガシ』(赤樫:コナラ属アカガシ Quercus acuta )『によく似ている』。『雌雄同株で、花期は』九~十『月。枝先や葉腋に淡黄色で長さ』五~十センチメートル『の雌雄の花穂を斜め上向に数個』、『分枝してつける。強い匂いを放つ虫媒花。雄花序は長さ』五~九センチメートル。『花序の軸には黄褐色の短毛が密生する。雄花は苞腋に』三『個ずつつく。花被』(かひ:花に於ける雄蘂や雌蘂の外側にある葉のような要素の集合名称)『は直径』二『ミリメートル』『ほどの皿形で、雄』蘂『が』十『個つく。雌花序は長さ』五~九センチメートル、『花径は』〇・五~一センチメートル『で、円柱形の花柱が』三『個つく』。『果期は翌秋。楕円形の堅果(ドングリ)が実り、濃褐色に熟すと落下する。果長は』一・五~二・五センチメートル、『果下部』の二十~三十『%は殻斗に包まれる。堅果は粉をふいたように表面に蝋状の物質が付着しているが、落下して間もない堅果を柔らかい布で磨くと』、『漆器のように艶やかな光沢が出る。秋に地面に落ちた堅果が発芽するのは翌年の春になってからである』。『暖帯性であり、近畿地方以西の本州、四国、九州、沖縄の比較的海岸に近い標高』五百『メートル』『以下の地域に分布し、京都府の保津峡が分布北限である。分布北限に近い近畿地方の個体数はごく少ない。日本以外に中国南東部・台湾にも分布する。日本では、マテバシイよりもさらに南の地域に分布する』。『マテバシイ属の樹木は』、『日本にはシリブカガシとマテバシイしか自生していないが、世界全体では』百『種以上知られており、主に東南アジアの熱帯』から『亜熱帯の山地に分布している。シリブカガシとマテバシイは、熱帯地方に広く分布するマテバシイ属の中で最も北に進出してきた種のひとつであり、日本のブナ科の樹木の中では冬の寒さに弱い方である』。『用途』は、『樹木』が『街路樹、公園樹、庭木』に、『木材』としては『建築材・器具材』に使われ、『材質は堅く、中国では農具に使われる』(本項の「字彙」に載る「鋤柄」とするという記載と完全に合致する)。『果実』は、『ドングリとしては渋味が少なく、渋抜きをせず』、『そのまま炒って食べられる』。『同属のマテバシイとは葉の形などがはっきり異なる(マテバシイは葉が長めで全縁、葉面はなめらか)ため』、『区別は容易い。むしろ、先述のように』、『見かけはコナラ属のアカガシによく似ている。アラカシよりやや葉が短めであるが、葉だけで区別するのは難しい。もちろん』、『果実が付けば見分けがつく。なお、日本のブナ科植物は春から初夏に花をつけるものがほとんどであり、この種のように秋に花をつける例は他にない』とある。

 さて、ここで、東洋文庫訳の後注を全文示す。当該本文は最後の、『或いは、櫧-子《かしのみ》を以《もつて》、「團栗(どんくり)」と訓ずるは、甚だ、誤《あやまり》なり。團栗(どんくり)は、卽ち、「槲(くぬぎ)の子(み)」なり。又、「槲《コク》」を以つて、「加之波《かしは》」と訓《くんずづ》は、倍(ますます)、誤《あやまり》なり。』に対するものである。

   《引用開始》

『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂)[やぶちゃん注:当該巻(「第卷三十」)を所収する当該書は国立国会図書館デジタルコレクションでは見ることが出来ない。]によれば、櫧子はアラカシ、槲はカシワに比定されている。良安は厳密にクヌギの子[やぶちゃん注:「み」。]のみを団栗としているが、現在ではそれほど厳密ではなく、クヌギ・ナラ・カシなど、ブナ科ナラ属の果実を総称して団栗としている。

   《引用終了》

この注が指す「アラカシ」は、本邦での「アラカシ」であり、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節アラカシ(粗樫)Quercus glauca

である。また、同じく本邦の「カシワ」となり、

コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

である。以上の竹島淳夫氏の注は、良安の評言に対する注としては、無論、問題がない正当なものである。

しかし、「新註校定国訳本草綱目」の種同定が絶対的真命題であるかどうかは、私は、無批判に賛同することは、全く、出来ないのである!

例えば、「櫧子」で「百度百科」を検索すると、「子」が出るが、そこにある学名は、

Castanopsis sclerophylla

とあるからである。★この「カステロプシス・スクレロフィラ」は和名がない。則ち、日本に分布しないので、まず、「アラカシ」ではないことがはっきりするのである。現在の分類では、

★ブナ目ブナ科シイ属カステロプシス・スクレロフィラ

なのである!

さらに、本邦の「カシワ」が、中国の「槲」と同種でないことは、既に本プロジェクトの初回の「柏」の私の迂遠なダラダラ注で(この煩雑な行為が、トラウマとなりつつ、今も、私の比定同定への慎重な立場を確立させて呉れたのである!)

★「柏」≠「槲」=カシワ Quercus dentata

であることを考証しているからである。あまりに長いので、私のそれを再録する気にはならないので、是非、そちらを見られたいのである!

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「櫧子」([075-56b]以下)をパッチワークしたものである。短いし、以上の通り、ブイブイと批判した関係上、全文を引いておく(一部に手を加えた)。

   *

櫧子【拾遺】  校正【原附鈎栗今析出】

 集解【藏器曰櫧子生江南皮樹如栗冬月不凋子小於橡子穎曰櫧子有苦甜二種治作粉食餻食褐色甚佳時珍曰櫧子處處山谷有之其木大者數抱髙二三丈葉長大如栗葉稍尖而厚堅光澤鋸齒峭利凌冬不凋三四月開白花成穗如栗花結實大如槲子外有小苞霜後苞裂子墜子圓褐而有尖大如菩提子内仁如杏仁生食苦澀煑炒乃帶甘亦可磨粉甜櫧子粒小木文細白俗名麫櫧苦櫧子粒大木文粗赤俗名血櫧其色黑者名鐵櫧案山海經云前山有木其名曰櫧郭璞註曰櫧子似柞子可食冬月采之木作屋柱棺材難腐也】

 仁氣味苦澀平無毒【時珍曰案正要云酸甘微寒不可多食】主治食之不飢令人健行止洩痢破惡血止渴【藏器】

 皮葉主治煑汁飮止產婦血【藏器】嫩葉貼臁瘡一日三換良【吳瑞】

   *

「菩提子《ぼだいし》」これも、先行する「無患子」で、迂遠な考証同定をしているので、そちらを見られたい。

「杏仁《きやうにん》」講談社「漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典」によれば(一部の読みを省略した)、『漢方薬に用いる生薬の一つ。バラ科アンズの種子を乾燥させたもの。鎮咳、去痰の作用があり、気管支炎、喘息などに用いる。感冒、肺炎、気管支喘息に効く麻黄湯(まおうとう)、気管支炎、小児喘息に効く麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)、気管支炎、気管支喘息に効く苓甘姜味辛夏仁湯(りょうかんきょうみしんげにんとう)などに含まれる。また、あんず酒は疲労回復に効く』とある。

「苦櫧子《くしよし》」前掲の「百度百科」の「子」で、「苦栲」とある。則ち、ブナ目ブナ科シイ属カステロプシス・スクレロフィラCastanopsis sclerophylla である。

『甜《あま》き者は、「鉤栗(いちい)」なり。】』良安のルビは完全アウト! これも、和名がないシイ属カスタノプシス・チベタナ  Castanopsis tibetana で、日本に分布しないので、まず、「イチイ」ではないことがはっきりする。但し、この良安の「イチイ」は、

裸子植物門イチイ(一位)綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata

ではなく、「どんぐり」の生る、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属イチイガシ(一位樫)Quercus gilva

である。

「鐵櫧《てつしよ》」はいはい! やっと登場しましたね! これこそが、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節アラカシ(粗樫)Quercus glauca なのでござりまする。もう、疲れましたので、ウィキの「アラカシ」と、「維基百科」の「青剛櫟」(別名に似たような「鐵椆」がありまする)を御覧下さいませな。

「新六」「切りたふす田上山(たなかみやま)のかしの木は宇治の川瀨に流れ來にけり」「衣笠內大臣」日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認したが(「第六 木」のガイド・ナンバー「02461」。衣笠家良(いえよし)の一首)、これ(太字は私が附した)、

   *

きりたふす-たなかみやまの-かしはきは-うちのかはせに-なかれきにけり

   *

となっているので、引用としてダメである! 但し、「かしはぎ」=「槲木」=カシワは「どんぐり」が成るから、いいかとも思ったが、良安は、『「どんぐり」はクヌギ限定!』と、狭量にのたもうてるんだから、やっぱ、引用としては――あかん!――ということになりまっせ!

「白樫《しらかし》」コナラ属シラカシ Quercus myrsinaefoliaウィキの「シラカシ」を見ておくれやす。

「赤樫《あかがし》」コナラ属アカガシ Quercus acutaウィキの「アカガシ」を見ておくれやす。

「万葉」「武士《もののふ》のやそ乙女《をとめ》らがふみとよむてらゐの上のかたかしの花」「万葉集」の「卷第十九」の大伴家持の非常に知られた一首(四一四三番)、

   *

   堅香子(かたかご)の花を攀(よ)ぢ折れる歌

 物部(もののふ)の

  八十娘子(やそをとめ)らが

    汲み亂(まが)ふ

   寺井(てらゐ)の上の

           堅香子の花

   *

「堅香子(かたかご)」日本原産とされる単子葉植物綱ユリ目ユリ科カタクリ属カタクリ Erythronium japonicum 。「攀(よ)ぢ」は「引き寄せる」の意。「物部(もののふ)の」は「八十」の枕詞。

『「枕草帋《まくらのさうし》」云はく、『白樫《しらかし》は』、『深山木《みやまぎ》の中にも、いとけとほくて、三位《さんみ》、二位のうヘの衣《きぬ》、そむる折《をり》ばかりこそ、葉をだに、人の見るめる』』「枕草子」の「ものづくし」の章段の「木の花づくし」の一節。やや引用に難があるので、この際、全文を示す。基礎底本は、所持する石田穣二訳注「枕草子 上巻」(昭和五四(一九七九)年角川文庫刊)を参考とし、恣意的に正字化した。良安が不全に示した部分を太字で示しておいた。

   *

 花の木ならぬは かへで。桂(かつら)。五葉(ごえふ)[やぶちゃん注:五葉松。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ  Pinus parviflora 。]。

 そばの木[やぶちゃん注:カナメモチ。]、しななき[やぶちゃん注:品がない。]心地すれど、花の木ども散り果てて、おしなべて綠になりたるなかに、時もわかず、こき紅葉(もみぢ)のつやめきて、思ひもかけぬ靑葉の中よりさし出でたる、めづらし。

 まゆみ[やぶちゃん注:双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ変種マユミEuonymus sieboldianus var. sieboldianus 。]、さらにもいはず。

 やどり木といふ名、いとあはれなり。

 榊(さかき)、臨時の祭の御神樂(みかぐら)のをりなど、いとをかし。世に木どもこそあれ、神の御前(おまへ)のものと生(お)ひはじめけむも、とりわきて、をかし。

 楠の木は、木立(こだち)おほかる所にも、ことにまじらひたてえらず、おどろおどろしき思ひやりなど、うとましきを[やぶちゃん注:近寄り難いのだが。]、千枝(ちえ)にわかれて、戀する人のためしにいはれたるこそ、誰(たれ)かは數を知りていひはじめけむと思ふに、をかしけれ。

 檜の木、またけ近(ちか)からぬものなれど[やぶちゃん注:人里近くには生えていないものであるが。]、「三葉(みつば)四葉の殿(との)づくり」[やぶちゃん注:里方の民謡。]も、をかし。五月(さつき)に雨の聲をまなぶらむも、あはれなり。

 かへでの木のささやかなるに、もえいでたる葉末(はずゑ)のあかみて、おなじかたにひろごりたる、葉のさま、花も、いと物はかなげに、蟲などのかれたるに[やぶちゃん注:干乾びたのに。]似て、をかし。

 あすはひ[やぶちゃん注:翌檜・明檜。裸子植物植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科アスナロ属アスナロ 属 Thujopsis dolabrata 。]の木、この世に、ちかくも、みえきこえず。御獄(みたけ)[やぶちゃん注:吉野の金峰山。]にまうでて歸りたる人などの、持(も)て來(く)める、枝ざしなどは、いと、手にふれにくげにあらくましけれど、なにの心ありて、あすはひの木と、つけけむ。あぢきなきかねごと[やぶちゃん注:つまらぬ予言。]なりや。誰(たれ)にたのめたるにか[やぶちゃん注:保証したのかしら?]と思ふに、聞かまほしく、をかし。

 ねずもち[やぶちゃん注:鼠糯・鼠黐。双子葉植物綱ゴマノハグサ(胡麻の葉草)目モクセイ科イボタノキ(水蝋の木・疣取木)属ネズミモチ Ligustrum japonicum 。]の木、人なみなみになるべき[やぶちゃん注:一人前の木として扱うべき。]にもあらねど、葉の、いみじう、こまかに、ちひさきが、をかしきなり。

 楝(あふち)の木[やぶちゃん注:ムクロジ目センダン科センダン属センダン(栴檀) Melia azedarach var. subtripinnata の古名。]。山橘(やまたちばな)[やぶちゃん注:サクラソウ科ヤブコウジ(藪柑子)亜科ヤブコウジ属ヤブコウジ Ardisia japonica の別名。]。山梨の木[やぶちゃん注:バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属ヤマナシ Pyrus pyrifolia 。]。

 椎の木、常磐木(ときはぎ)は、いづれもあるを、それしも、葉がへせぬためしに[やぶちゃん注:葉が落ち変わらない例に。]いはれたるも、をかし。

 白樫(しらかし)といふものは、まいて、深山木のなかにも、いとけどほくて[やぶちゃん注:たいそう我等とは縁が遠くて。]、三位(さんみ)、二位のうへのきぬ、染むるをりばかりこそ、葉をだに人の見るめれば、をかしきこと、めでたきことに、とり出づべくもあらねど、いつともなく雪のふりおきたるに見まがへられ、素盞鳴尊(すさのをのみこと)、出雲の國におはしける御(おほん)ことを思ひて、人丸(ひとまろ)が詠みたる歌などを思ふに、いみじくあはれなり。をりにつけても、ひとふしあはれともをかしとも聞きおきつるものは、草、木、鳥、蟲もおろかにこそおぼえね。

 ゆづり葉[やぶちゃん注:ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum 。漢字表記は「楪・交譲木・譲葉・杠」。]の、いみじうふさやかにつやめき、莖は、いとあかく、きらきらしく見えたるこそ、あやしきけれど、をかし。なべての月には見えぬ物の、師走のつごもりのみ、時めきて、亡き人の食ひ物に敷く物にやとあはれなるに、また、齡(よはひ)をのぶる齒固めの具にも、もてつかひためるは。いかなる世にか、「紅葉せむ世や」といひたるも、賴(たの)もし。

 柏木(かしはぎ)[やぶちゃん注:ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata 。]、いとをかし。葉守(はもり)の神[やぶちゃん注:樹木を守護する神。カシワやナラなどに宿るとされる。]のいますらむも、かしこし。「兵衞(ひやうゑ)の督(すけ)」、「佐(すけ)」、「尉(ぞう)」など言ふも、をかし。

 姿なけれど、棕櫚(しゆろ)の木、唐(から)めきて、わるき家の物とは、見えず。

   *

少納言の「ゆづり葉」の民俗は、市井のそれを、しっかり見、意味を調べることを怠った結果、奇妙な一部が誤った語りとなってしまっている。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)『新しい葉が伸びてから古い葉が落ちるので』「譲り葉」『とよばれ』、「交譲木」』『と』も『書く。正月を待ちわびるわらべうたに』「お正月がござった ユズリハに乗って ユズリ ユズリ ござった」『とあるように、常緑のユズリハは』、『松、ウラジロ(裏白)、ダイダイ(橙)などとともに』、『正月飾りや農始めなどに使われる。ユズリハは絶えることなく世代が継承される常緑の聖なる樹として、正月にふさわしいものであり、長崎県壱岐島では正月』二『日の縫い初めにユズリハ』二『枚を縫い合わせて』、『神に供えたという。また』、『穀霊の再生継承の象徴として、石川県小松市小原では』、『かつて』、十二『月』九『日の山祭の前後に』、『各戸でナギカエシという焼畑の収穫祭を行い、その神座となるアワ、キビ、ヒエの穂を入れた輪蔵にユズリハの枝を』三『本挿したという』。「万葉集」には「弓弦葉(ゆづるは)」とよまれ、大嘗会に酒を盛る』、『縁起のよい酒柏として用いられることもあった。はしかにかかると、ユズリハに病気を託して払うという呪(まじな)いも行われ、民間療法として』、『葉や樹皮を煎じて下剤、利尿、駆虫薬などとする所がある』とある。]

2025/02/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「楠皮治瘧」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「楠皮治瘧《くすのきの かは おこりを ぢす》」  有渡郡草薙村草薙社《くさなぎのやしろ》にあり。「駿州古蹟畧」云。『草薙社の坂上、左の方に大楠《おほくす》あり。うろの內《うち》八疊を敷《しく》ベし。瘧を患ふる人、此楠の皮を取《とり》て拜服《はいふく》すれば、忽《あちまち》愈ゆ。云云。疫神《えきじん》靈木の威光を恐《おそれて》て、害をなすあたはず、奇妙と云べし。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡草薙村草薙社」現在の静岡県静岡市清水区草薙にある、草薙神社(グーグル・マップ・データ)。当該個体のクスノキ(双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora )も現存する。ウィキの「草薙神社」によれば(注記号はカットした)、『祭神は』『日本武尊 (やまとたけるのみこと)』『一体』。「古事記」「日本書紀」の『伝承によれば、ヤマトタケルの東征の際』、『賊がヤマトタケルのいる野に火をかけて焼き殺そうとしたが、ヤマトタケルは天叢雲剣』(あまのむらくものつるぎ)『で草を薙ぎ払い』、『向い火を放って難を逃れた。そのため』、「天叢雲剣」『を「草薙剣」』(くさなぎのつるぎ)『と称するという。当社の北東方には同じく「クサナギ」を称する式内社として久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)が知られるが、両社は』、『ともに』、『そのヤマトタケルの火難伝説に関連する神社と伝えられ、一説に火難伝承地は当地に比定される』とされる。『社伝では、景行天皇』五十三『年』、『天皇が日本武尊ゆかりの地を巡幸した際』、九月二十日に『天皇が当地に着き』、『日本武尊の霊を奉斎したのが創建という。また、天皇は当社に神体として草薙剣を奉納したが、この草薙剣が朱鳥元』(六八六)年『に天武天皇の勅命により』、『熱田神宮に移されたとも伝えている。また』、『社伝では、当社は古くは清水区草薙』一『丁目』(ここ。グーグル・マップ・データ(以下、無指示は同じ)。中央に現在の草薙神社を配した。以下でも同様の仕儀を行った)『の「天皇原(てんのうばら)」と称される地に鎮座したという。現在地への遷座時期は明らかでないが、一説に天正』一八(一五九〇)年『の造営時とする』。『歴史考証の上では、前述の通り』、『当社の創建にはヤマトタケル伝説が大きく関係するとされる。静岡市一帯には、大規模古墳として葵区の谷津山』(やつやま)『古墳(全長』百十『メートル)』(前方後円墳。ここ)『や』、『清水区の三池平』(みいけだいら)『古墳(全長』六十五『メートル』(前方後円墳。ここ)『)が残るが、これらの古墳を築いた勢力の服属が』、『伝説成立の背景にあると推測される。なお、当地の首長古墳』(しゅちょうこふん:これは古墳時代後期の静岡平野に於ける最有力の首長(しゅちょう)勢力を生んだ、四つ以上(三つは確定)の古墳群で、正式には、「賤機山古墳群(しずはたやまこふんぐん)」(同ウィキ)と呼ぶ。ここ。名にし負う「賤機山古墳」(同ウィキ)は円墳である)『は「清水区庵原や谷津山丘陵(前期:』四『世紀代)→瀬名丘陵(中期:』五『世紀代)→有度山北麓(後期:』六『世紀代)」と変遷したと推測されるが、これらのうち』、『清水区庵原付近に久佐奈岐神社』(くさなぎじんじゃ:ここ)『が、有度山北麓に当社が鎮座する』。『また、「クサナギ」の名を焼畑系地名に由来するとする説もある。その中で、伝説の中でヤマトタケルが向』い『火をつける』さま『も』、『野焼きの延焼防止としてよく知られる手法であることも併せて指摘され、先行する焼畑系地名に基いて』、『ヤマトタケルの火難伝説が成立したと推測される。ヤマトタケル伝説の成立以前の当社については、山の神として焼畑作物を与える神であったとも、谷部』分『にあることから』(グーグル・マップ・データ航空写真の「草薙神社」。より地形が判るように、「ひなたGPS」の同書の地図もリンクさせておく)、『水の神であったとも考えられている』。延長五(九二七)年『成立の』「延喜式」の「神名帳」では、『駿河国有度郡に「草薙神社」と記載され、式内社に列している。ヤマトタケル伝承との関連から』、『武家から信仰され、天慶年間』(八七七年~八八五年)『には』「平将門の乱」の『平定に奉賽がなされたと伝える』。『中世には、永享』四(一四三二)年『に将軍足利義教の駿河下向に従った尭孝』(ぎょうこう:僧で歌人。出自は武家の二階堂氏。父は僧で歌人の尭尋。「和歌四天王」の一人として、とみに知られる頓阿の曾孫。曽祖父の代から引き継いだ「和歌所」を預かった。二条派の歌壇の中心的歌人となり、冷泉派の清巌正徹(しょうてつ)に対抗した。勅撰和歌集「新續古今和歌集」を撰出している。ここは当該ウィキに拠った)『が草薙社について記述している。天正』八(一五八〇)年『には、願主森民部太夫』(もりのみんぶたゆう)『により』、『釣燈籠と鰐口(ともに静岡市指定文化財)が奉納された。天正』一〇(一五八二)年『には』、『竹木の伐採が禁止され、天正』一八(一五九〇)年『には』、『社領として草薙郷』十八『石が社人の民部大輔』(たいふ)『に安堵された。この社領は、慶長』四(一五九九)年『にも横田村詮』(よこたむらあき:伯耆国米子藩執政家老である人物であろう。当該ウィキをリンクさせておく)『により安堵されている』。『江戸時代の社領(朱印地)は』五十『石』。『境内は有度山北麓、草薙川上流の谷部に位置する。広さは』〇・七『ヘクタール』。『境内に立つクスノキは幹心が枯れ、外皮のみを残すが、樹高』六『メートル・周囲』二十五『メートルで』、『樹齢は』千『年以上と言われる古木で、静岡市指定天然記念物に指定されている』。また、静岡清水線の『草薙駅』(ここ)『付近の平地は「天皇原(てんのうばら)」と称される。かつて草薙神社は』、『この天皇原の地にあったといわれ、その地は現在も「古宮」』(ふるみや:ここ)『として伝わっている』とあった。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「PIETÀ」

 

 P I E T À

 

かうして、イエスよ、私はまたあなたの、

私が靴を取つて洗つてあげた頃は

未だ靑年の足だつた、足を見ます。

あの棘の藪の中の白い獸のやうに、

あなたの足は私の髮の中にと迷つてゐました。

 

あなたの一度も愛されなかつた四肢を、

私はかうして初めて此愛の夜に見ます。

私たちは未だ一度も一緖に寢ませんでした。

そして今は褒め、守るだけです。

 

しかし、ご覽なさい、あなたの手は裂かれました――

戀人よ、私ではない。私が嚙むだのではない。

あなたの心臟は開いて、入ることが出來る。

これがただ私だけの入口ならよいのだが。

 

今あなたは疲れてゐる。疲れたその口は

私の痛む口に觸れる氣もなさらない。

おお、イエスよ、イエスよ、我々の時間はいつでした。

何て不思議に私だち二人は亡びるのでせう。

 

[やぶちゃん注:「PIETÀ」ピエタ。平凡社「世界大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた)。『死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像』。十四『世紀初頭にドイツで創出された新しい図像で』、『埋葬する前に』、『わが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を、説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。中世末期に出現したいわゆる』「アンダハツビルト」( Andachtsbild :「祈念像」)『の一つで、個人が自己の魂の救済を願ってその前で祈ることを目的として作られた。ドイツでは』「フェスパービルト」( Vesperbild :「夕べの祈りの像」)『と呼ばれ、これは埋葬の祈りが聖金曜日の夕べに』捧げ『られることに由来する。この像の成立の経緯は』詳らか『ではないが』、ハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse 一二九五年~一三六六年:エックハルトの神秘思想を強く受け継ぎ、タウラーと並び称せられるドイツのドミニコ会士。コンスタンツ副修道院長になるが、讒言に遭い、以後。司牧者・説教師として、主に南ドイツを巡回、外面的には不遇に終わった。彼の本領は、キリストの受難の観想によって苦の積極的意義を明らかにし、且つ、自ら徹底した苦行を実践した点にある。また、仲介者としてのマリアの役割を、高く評価した。すぐれた幻視者でもあり、「真理の書」(一三二七年頃)・「永遠の知恵の書」(一三二八年頃)・「生涯」(一三六二年頃)等の著書がある。同一の事典を引いた)『などの神秘主義者の著作との関係がしばしば指摘されている。また、造形的には、死せるキリストが幼子のように小さい作例もあることから、この像は』、『聖母子像の幼子を』、『キリストの遺骸に置き換えることによって生まれたのではないかとも考えられ』れてい『る。聖母の悲痛な表情、硬直したキリストの肉体のなまなましい聖痕は、見る者に苦痛と悲しみの感情を呼び起こさずにはいない。イタリアでは』十五『世紀以降』、『作例が見られるようになり』、イタリア語で、「ピエタ」(Pietà:「哀れみ・慈悲」などの意『と名づけられた。ミケランジェロの』「バチカンのピエタ」(一五〇〇年頃)『は伝統的な図像にのっとりながら、若く美しい聖母と理想化された肉体をもつキリストによって、この主題にまったく新たな表現を与えている。しかし』、『晩年の』「ロンダニーニのピエタ」(一五六四年頃。『未完)に至ると、聖母とキリストは垂直に重なる独自の群像を形づくることになる』(ここはウィキの「ピエタ」の「ギャラりー」を見られたい。私は二体とも見たが、圧倒的に前者の方がよい)。『絵画においても、フランスの逸名の画家の名作』「アビニョンのピエタ」(Pietà de Villeneuve-lès-Avignon:十五世紀末)』(フランス語の画題でグーグル画像検索を掛けたものをリンクさせておく)『など多くの作例がある。ピエタは原則として聖母とキリストの』二『人の像であるが、福音書記者ヨハネ、マグダラのマリアや聖女たちなど』「キリストの哀悼」『に登場する人物や寄進者が加わることもある』(「アビニョンのピエタ」は、その構成)『ルネサンス以降、キリストが聖母の膝の上ではなく、足元に横たわる、より自然な構成も用いられるようになった』とある。

「棘」「いばら」。]

2025/02/08

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 榛

 

Oohasibami

 

[やぶちゃん注:左下方に、三角形をした「実」(右)の図、左に頭が丸い「仁」(にん)の図が添えてある。]

 

はしぱみ

      和名波之波美

【亲同】

 

 

ツイン

 

本綱榛關中甚多【關中卽秦地也】故字从秦新羅國之榛子肥白

最良其木低小如荆叢生冬末開花如櫟花成條下埀長

二三寸二月生葉如初生櫻桃葉多皺文而有細齒及尖

其實作苞三五相粘一苞一實其實如櫟實下壯上銳生

青熟褐其殼厚而堅其仁白而圓大如杏仁亦有皮尖然

多空者故諺云十榛九空

一種大小枝葉皮樹皆如栗而子小形如橡子味亦如栗

 枝莖可以爲燭

一種高𠀋餘枝葉如水蓼子作胡桃味久留亦易油壞

榛仁【甘平】益氣力實腸胃令人不飢健行

△按榛其葉皺故稱波之波美藝州廣島之產良丹波次

 之

 

   *

 

はしぱみ

      和名、「波之波美」。

【「亲《シン》」、同じ。】

 

 

ツイン

 

「本綱」に曰はく、『榛《シン》は、關中に、甚《はなはだ》、多し【關中は、卽ち、秦《しん》の地なり[やぶちゃん注:現在の陝西省。]】。故《ゆゑに》、字、「秦」に从《したがふ》。新羅國《しんらこく》の榛の子《み》、肥《こえ》、白《しろ》≪して≫、最も良し。其の木、低(ひき)く、小にして、荆《いばら》のごとし。叢生《むらがりしやう》ず。冬の末に、花を開き、櫟《レキ》の花のごとく、條《すぢ》を成し、下-埀(たれ)る。長さ、二、三寸。二月に、葉を生《しやうじ》、初生の櫻桃(ゆすらむめ)の葉のごとく、皺文《しはもん》、多くして、細≪かな≫齒《ぎざ》、及《および》、尖《とがり》、有り。其の實、苞《はう》を作《なし》、三つ、五つ、相《あひ》粘《ねん》ず[やぶちゃん注:くっ付いている。]。一苞、一實、其の實、櫟《レキ》の實ごとく、下、壯《おほきく》、上、銳(する)どなり。生《わかき》は、青く、熟≪せば≫、褐《かつ》≪色≫なり。其の殼、厚くして、堅く、其の仁《にん》、白くして、圓《まろ》く、大いさ、杏仁《きやうにん》のごとく、亦、皮、尖《とがり》、有り。然れども、空《から》なる者、多し。故に、諺《ことわざ》に云《いはく》、『十《とを》の榛《シン》、九《きう》は空(から)。』≪と≫。』≪と≫。

[やぶちゃん注:後注するが、「本草綱目」中の「榛《シン》」、及び、「櫟《レキ》」は、「榛《はしばみ》」、及び、「櫟《くぬぎ》」と訓じては、いけない。厳密に言うと、別種だからである(後者は、既に「伽羅木」の注で考証済みである)。無論、良安は、それに気づいていない。

『一種、大小・枝・葉・皮・樹、皆、栗《くり》のごとくにして、子《み》、小《ちさ》く、形、橡《とち》≪の≫子のごとく、味も亦、栗のごとし。枝・莖、以《もつて》、「燭《ともし》」と爲《なす》。』≪と≫。

『一種、高さ、𠀋餘。枝葉、「水蓼《みづたで》」の子のごとく、胡桃《こたう》の味を作《なす》。≪但し、≫久《ひさしく》留《とどむ》れば、亦、油壞《ゆくわい》≪し≫易し。』≪と≫。

『榛仁《しんにん》【甘、平。】氣力を益し、腸胃を實《じつ》≪と成し≫、人をして飢へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、健行《すくやかにゆか》しむるなり。』≪と≫。

△按ずるに、榛《はしばみ》は、其の葉、皺(しは)む。故《ゆゑ》、「波之波美《はしばみ》」と稱す。藝州廣島の產、良し。丹波、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:まず、変則的に、本邦の「榛」、則ち、

双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii学名については、以下のウィキの中でも致命的矛盾がある。後で考証する

について、ウィキの「ハシバミ」を引用してみよう(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『和名は、葉にしわがあるので「ハシワミ」の転訛したものといわれている』。『ロシア沿海地方から東アジア北東部の全域、詳しくは、ウスリー川流域(ロシア沿海地方)、および、アムール川流域(中国東北部を含む)から中国陝西省にかけての地域、ならびに朝鮮半島、日本列島(北海道・本州・四国・九州)に分布する。山地や丘陵の日当たりのよい林縁などに自生する』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』一~五『メートル』『になり、成木でも幹は細い。株立ちになることが多い』。『樹皮は、灰褐色で浅い裂け目が入る。ごく若い樹皮では皮目』(ひもく:樹木の幹や根にある小裂孔)『が多い。若い枝には毛がある』。『葉は互生し、葉身は長さ』六~十二『センチメートル』、『幅』五~十二センチメートル『ぐらいの広卵形から円形で、丸くて硬くザラザラしている。葉縁には不揃いな重鋸歯がある。先端は急に尖って、若い葉の中心部が赤茶色になっていることがある』。『花期は初春から春(』三~四『月ごろ)で、雌雄同株。春に葉が展開するよりも先に開花する。雄花は黄褐色で、尾状花序が枝の上部の葉のわきから穂のように垂れ下がり、長さ』三~七センチメートル『ほどある。雌花序は数個つき、雌花は芽鱗に包まれたまま開花して』、『赤い柱頭が突き出ていて目立つ』。『果期は』九~十『月。果実は堅果で、大きさは直径約』一・五センチメートル『の球形で、葉状の総苞に包まれている。実は食用にできるが、世界的に流通しているヘーゼルナッツ』(Hazelnut)『は本種の同属異種にあたるセイヨウハシバミ(西洋榛)』 Corylus avellana 『である』。『冬芽は雄花序以外は鱗芽で、やや平たい倒卵形で、仮頂芽と互生する側芽があり』、八~十『枚の芽鱗に包まれている。雄花序は裸芽で、赤味を帯びた』、『くすんだ色で』、『円柱形をしており、枝先に』二~六『個』、『ぶら下がってつく。雄花序の冬芽はツノハシバミ』(角榛:ハシバミ属ツノハシバミ変種ツノハシバミCorylus sieboldiana var. sieboldiana  当該ウィキによれば、『実を包む総苞片の先が角のように伸びている様子からこの名がある』とあり、『日本の北海道・本州・四国・九州、朝鮮半島に分布する』が、『四国と九州は少なく、伊豆半島には分布しない』とある)『に似るが、ハシバミの方が』、『数がより多い。側芽のわきにある葉痕は半円形で、維管束痕が』五~七『個つく』。『果実は食用になり、植栽として庭などにも植えられる』。『古くは占い棒として使われていた。また、英国では、この木の枝と葉で冠を作り頭に乗せると、幸運が訪れると信じられている』。『日本の伝統的色名の一つ』とされる『「榛色(はしばみいろ)」』だが、これは、実は、本種ではなく、『セイヨウハシバミの実(ヘーゼルナッツ)の色に由来している』という。しかし、この記載は、ド素人が読んでも、如何もおかしい。『日本の伝統的色名』なのに、『セイヨウハシバミの実』が由来というのは、話しにならない。

さて、さらに問題の箇所に出くわすのである。『日本でハシバミとよばれる植物には、オオハシバミ( Corylus heterophylla var. heterophylla )、ツノハシバミ( Corylus sieboldiana var. sieboldiana )、ハシバミ(本種)』(:ママである。)『などがあり、世界にはセイヨウハシバミ( Corylus avellana )、アメリカハシバミ( Corylus americana )、そ』の二種の『中間種とされるフィルバート』(英語:FilbertCorylus maxima の学名が与えられてある)『とよばれるものがある』というのだ! 言った口が干る間もなく、学名について、違ったことを平気で言っている本記載は、全部が無効・即退場レベルの致命的欠陥を追うている!!!

『この中ではツノハシバミが外見上の特徴として、果実を包む総苞が筒状に長く角のように伸びているので、よく区別される。ハシバミはオオハシバミの変種で、その果実からシバグリ(柴栗)の名を与えられている』とあるのである

 一方、「維基百科」の「榛」を見ると、

Corylus heterophylla

則ち、本邦の和名ハシバミの学名で載り、「変種」として、

Corylus heterophylla var. heterophylla(=オオハシバミ)

川榛 Corylus heterophylla var. sutchuenensis(和名、無し)

が掲げられてあるのである。

 ところが、流石! 「跡見群芳譜」の「樹木譜 ハシバミ」では、

Corylus heterophylla

の大項の下に、

『ハシバミ(オヒョウハシバミ・オオハシバミ)』として、Corylus heterophylla var. heterophylla

となっているのである。これは、学名に於いては、ハシバミとオオハシバミを別種と見る見解と、同一でシノニムとする見解の二様があることがはっきりしてくる。

そんなことは、前々から何となく感じていたが、そんなことは、もう、どうでもよくなる事態が、このページで判ってくる! 何故なら、さらに、同ページには、別に、

● Corylus chinensis(中文名『華榛・山白果・榛樹』。『雲南・四川産』)

● Corylus fargesii(中文名『披針葉榛』。『河南・陝甘・四川・貴州産』) 

● Corylus ferox(中文名『刺榛・滇刺榛』。『四川・雲南・チベット・ヒマラヤ産』)

● ハシバミ変種 Corylus heterophylla var. thibetica(中文名『藏刺榛・西藏榛樹』。『陝甘・湖北・四川産』)

の他に、

● Corylus nobilis(中文名『滇虎榛』)

● ツノハシバミ変種オオツノハシバミCorylus sieboldiana var. mandshurica(中文名『毛榛・胡榛子・火榛子』。『東北・華北・陝甘・四川産』)

● Corylus wangii(中文名『維西榛』。『雲南産』)

● Corylus yunnanensis(シノニム:Corylus heterophylla var. yunnanensis 。中文名『滇榛』。『西南産』)

という種群が、ゾロゾロと出ているのである。

以上を見るに、「本草綱目」の「榛」と、本邦に分布する三種を、同一種(個体変異)と見ることは、到底、出来ないのであり、邦文の「ハシバミ」の記述は、学名の指定部分に於いて、到底、信ずるに足らないと言わざるを得ないのである。同時に、「実の形が違う」という一種、『「水蓼」に似ている、胡桃味」の一種を、以上の膨大な数の中国産「榛」から同定することは、私には、全く出来ないのである。カオスをブチ撒いて、以上を終わり、ただただ、識者の中国産の謎の二種の同定について御教授を乞い願うものである。★

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「榛」([075-55a]以下)をパッチワークしたものである。

「櫟《レキ》」これは、先行する「伽羅木」で考証した通り、本邦で、「一位」「櫟」と漢字表記する、

裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata

或いは、その変種で、本邦で「伽羅木」と漢字表記する、

イチイ変種キャラボク Taxus cuspidata var. nana

の孰れかである。ところが、「櫟」という本邦の漢字表記では、私などは、真っ先に、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属 Cerris 亜属 Cerris 節クヌギ Quercus acutissima

を想起していしまう人種である。さればこそ、注意喚起をした次第である。

「橡《とち》」は日中ともに、ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata を指すので、問題ない。

「水蓼《みづたで》」これは、日中ともに、ナデシコ目タデ科 Polygonoideae 亜科 Persicarieae 連 Persicariinae 亜連イヌタデ属ヤナギタデ  Persicaria hydropiper である。詳しくは、ウィキの「ヤナギタデ」、及び、「維基百科」の「水蓼」を見られたい。

「胡桃《こたう》」先行する「胡桃」で考証に苦しんだ。そちらの私の注の冒頭を見られたい。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「村神忌縨」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

  「村神忌縨《むらのかみ ほろを いむ》」  有渡郡國吉田村《うどのこほりくによしだむら》にあり。「駿州古蹟畧」云。『吉田村に、栗島明神の社《やしろ》あり。民俗の說に、「此神の嫌玉《きらひたまふ》ふ」とて、此村五月の縨をたてず。云云。』粟島の神縨を嫌玉ふ神慮いかにぞや。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡國吉田村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡』(いはらぐん:呼称「いほはらのこほり」『地区』の『国吉田村』で、『現在地名』は『静岡市国吉田一』~『六丁目・国吉田・中吉田(なかよしだ)・栗原(くりはら)』とし、『有度山(うどさん)丘陵北西麓に位置し、西は聖一色(ひじりいっしき)村・栗原村など。東海道が通る。寛永九』(一六三二)年)、『幕府領、宝永二』(一七〇五)年、『一部が旗本桜井領となり』、『幕末に至る』(「寬政重修諸家譜」等)。「元祿鄕帳」『では高』五百三十『石余。旧高旧領取調帳では幕府領』三百二十八『石余・桜井領』百九十二『・桃源(とうげん)寺領八石余、津島八幡社除地七石余・護国寺除地』(じよち/よけち)『二石余』とある。

「栗島明神」は、現在は表記が変わって、「中吉田津嶋神社」となっている。現行の住所は静岡県静岡市駿河区中吉田で、ここ(グーグル・マップ・データ)である。「ひなたGPS」の戦前の地図では、神社記号は見当たらない(但し、国土地理院図にはある)。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの平成七(一九九五)年に建立された「神社誌」の碑に拠れば、才神は『素戔嗚尊(スサノオノミコト)』とある(歴史的仮名遣では「すさのをのみこと」である)。

「縨」狭義には、南北朝時代以降の軍陣で背に背負う大形の布帛(ふはく)(実戦上、矢を防ぐ目的で鎧の上に掛けた)を指し、別に「母衣・保侶」と書く(詳しくはウィキの「母衣」を見られたい)。一般には「風雨を防ぐための乗り物の覆い」を謂い、この漢字は国字である。何故、忌避するかは、よく判らないが、或いは、例の、高天原(たかまがはら)で素戔嗚尊が暴虐を行い、「天(あま)の斑(ふちこま)」を尾の方から逆に皮を剥いだものを機織り小屋に落とし入れた結果、「天の機織女(はたおりめ)」が驚き、オサ(筬・梭:機織りで横糸を通す尖った道具)で「ほと」(陰部)を突いて死んだ結果、天照大神(あまてらすおおみかみ)が遂にキレて、天の岩戸に入ってしまったこととの関連を私は想起した。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「犧牲」

 

 犧 牲

 

ああ、お前を知つてから私の體は

總べての脈管から匂高く花咲く。

ご覽、私は一層細つて、一層眞直ぐに步く。

それにお前は唯待つてゐる。――お前は――體誰なのだ。

 

ご覽、私は自分を遠ざけ、古いものを

一葉一葉に失ふのを感じてゐる。

ただお前の微笑が星空のやうだ、

お前の上に、また直ぐに私の上にも。

 

私が子供だつた年頃、末だ名もなく

水のやうに輝いてゐる總べてのものに、

私はお前の名をつけよう、聖壇で。

お前の髮で灯ともされ、輕く

お前の乳房で花環をつける聖壇で。

 

[やぶちゃん注:「一葉一葉」「ひとはひとは」であろう。

「灯ともされ」「ともされ」と続く以上、「ともしび」ではなく、「ひ」であろう。]

2025/02/07

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「戀歌」

 

 戀 歌

 

お前の魂に觸れないやうに、

私は自分の魂を何う保てばいいのだ。

どうそれをお前越しに他の物へ高めよう。

ああ私はそれを何か闇黑(くらやみ)の

失はれたものの許で葬りたい、

お前の深い心が搖らいでも搖らがない、

知られない靜かな場處に。

しかしお前と私とに觸れる總べてのものは、

二つの絃から一つの聲を引出す

弓の摩擦のやうに、我々を一緖に取る。

どんな樂器の上に我々は張られてゐるか。

どんな彈手が我々を手にしてゐるか。

ああ甘い歌。

 

[やぶちゃん注:「彈手」「ひきて」。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 毗梨勒

 

Momotamana

 

なんばんくるみ  三果

 

毗梨勒

         出本艸夷果

          之部

 

 

本綱毗梨勒出西域及南國樹似胡桃子形似胡桃核

似訶梨勒而圓短無稜有毗卽臍也

 

   *

 

なんばんくるみ  三果《さんくわ》

 

毗梨勒 

          「本艸≪綱目≫」の

          「夷果《いくわ》」

           の部に出づ。

 

 

「本綱」に曰はく、『毗梨勒《ひりろく》は西域、及び、南國に出づ。樹、胡桃《こたう》に似て、子《み》の形も、胡桃に似たり。核《さね》は、「訶梨勒《かりろく》」に似て、圓《まろ》く、短く、稜《かど》、無く、毗《ほぞ》[やぶちゃん注:ここは以下の「臍」から、「出っ張り」或いは「有意な凹(へこ)み」の意であろう。]、有り。卽ち、臍《へそ》なり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱」の「訶子(カシ)」

によって、

「毗梨勒」は、

双子葉植物綱フトモモ目シクンシ(使君子)科モモタマナ属モモタマナ Terminalia bellirica

で、

「訶梨勒」は、

モモタマナ属ミロバラン Terminalia chebula

である。さらに、この二種の『果実はもともとアーユルヴェーダ』(ラテン文字転写:Āyurveda:インド亜大陸の伝統的医学)『薬物で』、中国では、『この』二『種に』、「庵摩勒」、則ち、

キントラノオ目コミカンソウ(小蜜柑草)科コミカンソウ属ユカン(油甘) Phyllanthus emblica

『の果実を加えて』、★☞『「アーユルヴェーダ三果」』☜★『と呼ばれるほど有名な生薬で』ある、とあった。

 まず、「モモタマナ」のウィキを見ると(注記号はカットした。下線・太字は私が附した)、『シクンシ科』Combretaceae『に所属する植物は』、『熱帯を中心に種数が多いが、日本に産するものは』三『種ほどしかない。本種はそのうちの』一『つである。太平洋諸島からインドにわたる熱帯域を中心に分布し、日本では琉球列島と小笠原に分布する。葉が大きくて倒卵形をしている。果実が水に浮いて分散する』。『大きな木になるが、枝が水平に伸び、また大きな葉をまとめて広げるので、木陰を作る。その』ため『もあり、古くから村落の集会所や墓地などに植栽されてきた。現在でも街路樹や公園樹としてよく利用される。また果実は食用にもなる』。『半落葉性の高木。大きいものでは高さ』二十五メートル、『幹の径は』一メートル『にも達し、樹冠は平らに広がる。小枝は輪生するように出て、無毛、またはほぼ無毛。葉はその先端に束生する。葉は革質で、長さ』二十~二十五センチメートル、『全体にほぼ無毛ながら』、『葉柄と中脈に多少の毛がある。葉柄は短くて太く、溝があり、先端には蜜腺がある場合がある。葉身は倒卵形で、縁は滑らかで先端は丸く、基部は耳状、つまり葉柄に着くところは』、『くぼんで』、『両側が丸く突き出す。落葉する前には、往々にして紅葉する』。『花期は』五~七『月。穂状花序を葉腋に生じる。花序は長さ』六~八センチメートル『で、先端の方には雄性花を、基部の方には雌性花、あるいは両性花をつける。花は白くて径』五ミリメートル、萼『は鐘型で内側に星状毛が密生し、萼裂片』五『個は早くに脱落する。花弁はない。果実は熟すると長さ』三~六センチメートル『になり、楕円形で多少とも扁平、両側に竜骨状の突起があって、緑色か、その上に赤みを帯びる。果皮は繊維質で、内側の内果皮は硬く、海水に浮くことが出来る』。『この木は枝が横に広がり、上が平らな樹形になりやすい。これは上向きの枝があまり伸長せず、その前にその下から側方に伸びる枝がより発達するためである。その側枝が横に伸びてゆくために、平らに広がった枝振りが作られる。この様な茎の伸び方を添伸型(てんしんけい)と言うが、本種はこの型の成長をするものの代表的なものである』。『モモタマナが標準和名であるが、別名はコバテイシである。ただし初島』(一九七五年)『はコバテイシの方を標準名に採用している。この名は沖縄における方言名に由来するようで、沖縄県各地でコバテイシ、あるいはクファディーサ、あるいはそれらに類する方言名が伝えられる』。『日本では沖縄島以南の琉球列島、及び小笠原諸島に分布し、国外では台湾、中国南部から旧世界の熱帯域に広く分布する』。『下述のようによく栽培されるが、自生のものは海岸にある。果実が水に浮くため、海水に浮かんで漂流し、潮流によって分散するものと考えられる』。『モモタマナ属には世界に』二百五十『種ほどが知られる。日本には本種ともう』一『種』、『テリハモモタマナ』 Terminalia nitens 『葉は本種よりやや小さくて長さ』十~十五センチメートル、『葉の基部はくさび形であること、全株無毛である点などで区別出来る。日本では琉球列島の西表島にのみ産し、国外ではフィリピンから知られる』。『水平に広がって出る枝先に束生する大きな葉が広がり、その下は気持ちの良い木陰となる。そのため』、『日陰を作る街路樹として広く植栽される。沖縄では古来より村落の集会所や墓地によく栽培され』てきている。『材質として、辺材は淡黄色で、中心はより色濃くて暗褐色になる。材質は緻密で、工作は比較的容易である。建材や家具材、造船材に使われる。南洋ではカヌーを作るのに用いる』。『果実からは油が取れる。仁を炒って食べるとラッカセイに似て美味である。これを Country almond と呼ぶ。小笠原諸島では、子供を中心に食べる文化がある』。『他に、葉が染料に使われる』とある。

 次に、英文のミロバランのページを見ると(後のために言っておくと、そこにある果実の写真は、有意に延びたアーモンド型であり、表面に多数の襞状の凹みが確認出来る)、『多くの変種が知られている』として、

Terminalia chebula var. chebula 

Terminalia chebula var. tomentella

の二種が挙がっている。それらには、実・種子の違いは記されていないが、ここで時珍が、『「訶梨勒(かりろく)」に似て、円く、短く、稜部がなく、毗(ほぞ)があって、それは「臍」である。』と言っているのは、種子ではなく、実のことと採らないと、話しが通らない。されば、実は、ミロバラン(訶梨勒)の変種の中には、時珍の言うような形状の実(果実)を持つ種があるのではあるまいか? その証拠に、「維基百科」の同種「子」にある実生の果実の写真は、「丸い」感じで、キャプションにも『果実は楕円形』(☜)『または長楕円形』とある(本文解説にもある)からである。同ウィキの解説には、『元の呼称は「訶梨勒」で、これは、同種のアラビア語“halileh”由来の“halilehに由来するHallile”漢字を当てたもの』とあり、『「本草綱目」の解釈に拠ると、Halile はサンスクリット語で「神が来る」という意味である』とある。但し、この部分の原文は『据《本草目》解黎勒在梵中意“天主持来”』であり、これ、「本草綱目」当該部(「漢籍リポジトリ」の「卷三十一の果之三【夷果類三十一種内附四種】」の「毗梨勒」(ガイド・ナンバー[077-10b]以下)には、逆立ちしても、そんなことは書いてないから、これは、同ウィキの注にある、『程超寰』著の「本草名考訂」(北京・中国中医出版社・二〇一三年刊)で、程氏が注で新たに明らかにしたということであるので注意が必要である。以下、『ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・ネパール・インド・中国雲南省に分布している。標高八百から千八百四十メートルの疎林に生育する』。『樹高は三十メートルに達し、樹皮は、灰黒から灰色、葉は互生、又は、ほぼ対生し、卵形、又は、楕円形から長楕円形で、腋生、又は、先端生の穂があり、円錐花序を形成することもあり、実は硬く、卵形、または、楕円形で、緑色で無毛であり、熟すと、暗褐色になる。開花期は五月、結実期は七月から九月である』と言った内容が書かれてある。されば、少なくとも、「本草綱目」で時珍の言う、「毗梨勒」が、本当にモモタマナであることには、やや疑義を感じたからである。それは、先の「モモタマナ」のウィキには、漢方としての薬用が記されていないからであったのだが、しかし、「維基百科」の同種「榄仁树」(學名: Terminalia catappa )』には、『樹皮は苦くて冷たく、収斂作用がある。解毒、瘀血の解消、痰の解消、咳、赤痢、痰熱咳嗽、潰瘍の緩和などの治療効果がある。葉と若葉にはヘルニア・頭痛・発熱・関節リウマチに治療効果がある。葉の汁には皮膚病・ハンセン病・疥癬に治療効果がある。種子は苦味、収斂性、清涼性があり、熱を奪い解毒する作用がある。喉の痛み、赤痢や浮腫に治療効果がある』としっかり記されてあったので、不審は解消されたのであった。

 因みに、三つ目の「庵摩」は、「和漢三才圖會」の次の「卷第八十八」の「夷果類」に「菴摩勒」として立項されてあるので、ウィキの「ユカン」をリンクさせるに留め、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂の当該項を示しておく。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛好酒」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「面形有靈《めんがた れい あり》」  有渡郡北矢部村補陀洛山久能寺にあり。「駿州古蹟畧」云。『久能寺に春日《かすが》の作のあまの面あり。此面を拜《はい》すれば、災難を除く。又旱魃《かんばつ》の時此の面を出《いだ》せば、雨《あめ》降《ふり》、七月七日は、暫時出《いだ》して風《かぜ》をあつる也。云云。』爰《ここ》に春日とす、非也。是《これ》赤鶴《しやくつる》の作にして、淺間《せんげん》の神事に用《もちひ》る處也。わづか一木《いちぼく》を以て造る處の面形、かく奇妙を顯《あらは》す。實《げ》に作者の德と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:「あまの面」「日本国語大辞典」の『あま【案摩】 の 面(おもて)』に、『①舞楽の案摩の舞に用いる雑面(ぞうめん)という紙製の仮面。厚紙に目、鼻、口などを幾何学模様風に描いたもの』とし、飛んで、『③能楽に使う面。「尼の面」「天の面」などとも書く』とあり、初出実例として、「わらんべ草」一(万治三(一六六〇)年刊。第四代徳川家綱の治世)『又金春座には、〈略〉又尼〔天の字か〕の面一面あり。是は自レ天降(ふる)と云説あり。故に天(アマ)の面と名付也云々』とあった。後者のそれであろう。「あま」に「尼」の他に「天」を宛てるとあるから、「天」は「雨」の属性と一致するから、この久能寺の面の場合の「あま」は「天」であろう。現在の久能山東照宮の「あまの面」が現存するかどうかは、検索では、掛かってこない。

「春日」吉田秀夫氏のサイト内の「能面打ち」の「第二章  作家の研究」に、『(トリ作とも云)人皇三十四代推古天皇の御宇、百済国より仏工来』、『改名蔵部の登里と云、大和春日里に住す、故に春日と云う、凡千二百年余』とあり、さらに、『伝えに曰く 金剛家には』『春日作の翁面、不動面、宝生家には春日作翁面、淡海公作の翁面、金春家には聖徳太子作の天面、翁面三番神、及び弘法大師作の翁面あり と。けれ共是らは何れも取るに足らぬ附曽』(ママ。思うに「附會」か?)『の説である。聖徳太子は音楽の奨励者であったが為に、音楽と云うとすぐに、聖徳太子に因縁をつける癖がある。此弊が重なって、古面を聖徳太子作等と云うは、頗る当を得ない。古能の如きは神作を疑って、「聖徳太師、淡海公』、『弘法大師、春日』『右その類見ること稀なり、弁じ難し、適適見ることありといえ共信じ難し、但裏の様子凡作を雑れたるもの稀に有之、是ら真なるものか云々」』とある人物であろう。

「赤鶴」原題仮名遣「しゃくつる」。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中世の能面作家。生没年不詳。名は吉成、一透(刀)斎と号した。世阿弥の』「申樂談儀」(さるがくだんぎ)『によると、近江在住の作家で、鬼系の作面を得意としたようで、その活躍期は南北朝時代と考えられる。後世の伝書類は十作の一人に数え、能楽諸家の所持面中、おもな鬼面は』、『ほとんど彼の作にあてられている。そのため』、『真作を同定することは困難で、むしろ』、『行道面』(ぎょうどうめん:寺院での「練り供養」である行道に用いられる仮面。唐朝の風習を受けた平安以降の遺品があり、仏界の守護神が多い。東寺の十二天面が古く、そのほか八部衆面・二十八部衆面・浄土信仰の盛行に伴って行われた「来迎会」(らいごうえ)に用いられる菩薩面などが含まれる)『中の各種』の『鬼面から』、『能面の鬼系の諸タイプが成立してくる過程で、最も名をのこした作家と考えるべきであろう』とある。

「淺間《せんげん》の神事」富士山の霊を祀った浅間神社に関する神事であるが、元は、神道系ではなく、修験道によって行われた神事である。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛好酒」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「地藏佛好酒《ぢざうぶつ さけを このむ》」  有渡郡北矢部村補陀洛山久能寺にあり。「駿州古蹟畧」云。『久能寺の坂中にちせふ坊地藏あり。酒を備《そなへ》て祈念すれば、瘧疾《ぎやくしつ》忽《たちまち》愈ゆ。云云。』上戶《じやうご》の佛にましますにや。

 

[やぶちゃん注:「駿州古蹟畧」国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、本書を含め、江戸時代の駿河地誌書や、現代の風土記等、三十三件ヒットするものの、書誌を記すものが、ない。ネット検索でも書名自体が、掛かってこない。識者の御教授を乞うものである。

「ちせふ坊地藏」現存を確認出来ない。

「瘧疾」何度も出ている「瘧(おこり)」。熱性マラリア。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「前のアポロ」

 

 

   新 詩 集

 

 

   第 一 卷

 

 

 前のアポロ

 

をりをり末だ葉のない枝を透いて、

もう全く春になつた朝が

覗くやうに、彼の頭には

あらゆる詩の輝が死ぬばかり我々にあたるのを

 

妨げうるものが全くない。

實際彼の視(し)には未だ一つの蔭もなく

顳顬(こめかみ)はまだ桂で飾るには冷た過ぎるから。

さうして薔薇の園が眉から幹高く聳え、

 

それから花片が、一つ一つ、離れて

口の戰慄へ散りかかるのは、

やつと後になつてのことだらう。

 

その口は今は未だ沈默し、用ひられず、

輝いて、微笑みながら或物を飮むでゐる。

恰も彼の歌が流しこまれでもするやうに。

 

[やぶちゃん注:底本では、ここ

「視(し)」古代ギリシア神話の太陽神アポロン(ラテン転写:Apóllōn:音写は「アポローン」)の全神話世界の総てを照らし出し、彼が見渡すところの全視界を指す。

「顳顬(こめかみ)」「蟀谷」に同じ。

「桂」アポロンの桂冠は、月桂樹(被子植物門双子葉植物綱(*その古型類群)クスノキ目クスノキ科ゲッケイジュ属ゲッケイジュ Laurus nobilis )であるから、ここは「けい」と音読みすべきであろう。]

2025/02/06

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「靈佛顯梢上」

[やぶちゃん注:底本はここから。鍵括弧類を追加し、やや長いので、段落を成形した。]

 

 「靈佛顯梢上《れいぶつ こづえのうへに あらはる》」  有渡郡北矢部村補陀洛山《ふだらくさん》久能寺【眞言、京智積院末、寺領二百二十五石七斗。】にあり。傳云。當寺は舊久能山にあり。永祿十一年、武田信玄、今の所に移す、云云。

[やぶちゃん注:「永祿十一年」一五六八年。]

 「風土記」云、

『有度山【又烏渡山】炊屋姬天皇之御宇、秦川勝之二男秦尊良之弟【或尊良之子】久能朝昏信ㇾ佛、願拜千手觀音像、連夢念此事、一老翁夢程示曰、「汝欲ㇾ拜正身之觀音像者、赴薦河國有渡山可ㇾ待一浦之風至時」。晨枕如ㇾ見眞老翁、忽進杖履、不ㇾ陪家僕、唯自己而赴ㇾ玆寄身禽獸之栖穴、專念正身謁見之事、松風改更、月落潮海之時、浦風陣々而成寂寥之思不ㇾ期着ㇾ睡、往時之老翁再來、「我是補陀落之僧也。今夜應汝望」【蟲喰脫落二十五行程歟】。云云。』。

[やぶちゃん注:自然流で推定訓読を試みる。一部に句読点・記号を変更・追加し、助詞を加え、さらに段落を成形した。

   *

 「風土記」云《いはく》、

『有度山【又、烏渡山《うどさん》。】炊屋姬天皇《かしきやひめのすめらぎ/かしきやひめのすめらみこと》の御宇、秦川勝《はたのかはかつ》の二男、秦尊良《はたのたかよし》の弟【或いは、尊良の子。】、久能の朝昏《てうこん》[やぶちゃん注:朝晩。]、佛《ほとけ》を信じ、願《ぐわん》して、千手觀音像を拜し、連《つらつら》、夢に、此の事を念《ねん》ず。一老翁、夢に程示《ていじ》して曰はく、

「汝《なんぢ》、正身《しやうしん》の觀音像を拜まんと欲《ほつ》さば、薦河國《するがのくに》有渡山に赴き、一浦《ひとうら》の風、至る時を待つべし。」

と。

 晨枕《しんちん》[やぶちゃん注:早朝の枕辺。]、眞《まこと》の老翁を見るごとし。忽《たちまち》、杖履《じやうり》を進め、家僕を陪《とも》せず、唯《ただ》、自-己《おのれ》のみして、玆《ここ》に赴き、身《み》を禽獸の栖む穴に寄せ、專ら、正身謁見の事を念ず。松風《しようふう》、改更《かいかう》[やぶちゃん注:変わって良い状態になること。]、月、潮海《しほうみ》に落つるの時、浦風、陣々《ぢんぢん》として[やぶちゃん注:風が盛んに吹いて。]、寂寥《せきれう》[やぶちゃん注:ひっそりとして、もの寂しいさま。]の思ひを成し、期せずして、睡《ねむり》に着く。往時の老翁、再び來りて、

「我、是れ、補陀落の僧なり。今夜、汝が望みに應《おう》ずべし。」【蟲喰《むしくひ》の脫落、二十五行《ぎやう》程か。】。云云《うんぬん》。』。

   *

「風土記」既出既注の正規の「風土記」ではない、怪しいもの。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記」(第九/十輯・三階屋仁右衛門道雄著・文政一三(一八三〇)年記・修訂足立鍬太郎訂・昭和九(一九三四)年志豆波多会刊・★謄写版★印刷)のここに、「秦氏」の記載があるので、見られたい。

「炊屋姬天皇」日本史上最初の女帝とされる推古天皇(在位:五九三年~六二八年)。

「秦川勝」秦河勝(生没年未詳)は、当該ウィキによれば、『秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる』。「上宮聖德法王帝說」『では「川勝秦公」と書かれる』とあった。

「秦尊良」前注のウィキには、『秦久能忠仁』(くのうただひと)『は河勝の孫にあたる』とある。「久能山東照宮」公式サイト内のこちらによれば、『久能山の歴史は『久能寺縁起』によると、推古天皇の御代』、『秦氏の久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し』、『補陀落山久能寺と称したことに始まります。久能山の名称もここから起こりました』とある。]

 「駿河染」云、

『久能山を有渡山【有度山駒越、矢部、馬走、草薙、小鹿山の惣名也】共云。往昔久能【後皇子の諱に同し故に避て久乃と書す】と云人、此山に入て、狩し玉ふ時、杉の木立に光物あり、久能怪て射て落す。取上て見れば、閥浮檀金(えんぶだきん)の千手觀音の像也【丈五寸】。久能、則寺を建て安置す。其後聖武天皇の御宇、行基菩薩當山に入、千手の尊像を刻み、此佛を胎内に納。云云。』

[やぶちゃん注:同前で訓読する。

   *

 「駿河染」云《いはく》、

『久能山を有渡山【有度山は、駒越《こまごえ》・矢部《やべ》・馬走《まばせ》・草薙《くさなぎ》・小鹿山《おしかやま》の惣名なり。】とも云《いふ》。往昔、久能《くの》【後《のち》、皇子《みこ》の諱《いみな》に同《おな》し故《ゆゑ》に、避《さけ》て、「久乃《くの》」と書す。】と云《いふ》人、此《この》山に入《いり》て、狩し玉ふ時、杉の木立《こだち》に光物《ひかりもの》あり、久能、怪《あやしみ》て、射て、落す。取上《とりあげ》て見れば、閥浮檀金(えんぶだきん)の千手觀音の像なり【丈《たけ》、五寸。】。久能、則《すなはち》、寺を建《たて》て、安置す。其後《そののち》、聖武天皇の御宇、行基菩薩、當山に入《いり》、千手の尊像を刻み、此佛を胎内に納《をさむ》。云云。』

   *]

 「駿府案內記」云。

『補陀洛山妙音寺は、「元亨釋書微考」に曰、『昔久能と云し狩人の、此山に鹿を追《おひ》て入《いり》ぬ。奧山に至りて、正身の觀音を拜めり。それより發心修行して、此山に入り、觀音の像を安置す』云云。又云。此山に寺を建《たて》、彼《かの》像を安置して補陀落山妙音寺と名付く。云云。』

 彼《かれ》といひ是《これ》といひ、共に奇ならずや。

[やぶちゃん注:「元亨釋書微考」天和二(一六八二)年刊。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (彼等の口は胸像の口のやうで……) / 「時禱篇」~了

 

彼等の口は胸像の口のやうで

響いたことも、息したことも、接吻したこともないが、

消え過ぎた生命から、總べてを

上手に纒めて受取つた、

そして總べてを知つてるやうに盛上つてゐる――

しかしただ比喩だ、石だ、物だ……

 

2025/02/05

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (彼等の手は女の手のやうで……)

 

彼等の手は女の手のやうで

何とない母らしさがある。

建てるときは、鳥のやうに快活で、

摑かむに暖く、賴るに安心で。

さはると盞のやうだ。

 

[やぶちゃん注:「盞」「さかずき」。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 胡桃

 

Kurumi

 

[やぶちゃん注:右下に「唐胡桃ノ葉」とキャプションを附して、本文で、『「唐胡桃」(からぐるみ)なるものが、中国から近年、本邦に齎されたとして、最近では、結構、植えている』などと言っており、特に、『葉が、本邦の胡桃の葉と異なり、檞(かしわ)の葉に似ていて、葉の末の部分は尖っておらず、葉の辺縁のギザギザもない』とも言っていて、その「違う」ところの葉を描いているのだが、肝心のその違いが、全然、上手く描かれていないのは、ガッカりだ。

 

くるみ   羗桃  核桃

      播羅師【梵書】

      呉桃【延喜式】

胡挑

       久留美

      言呉菓也

フウ タウ

[やぶちゃん字注:「播」は、原本では、(つくり)の第一画がない、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、標準字で示した。]

 

本綱胡桃本出羗胡漢時張鶱使西域始得種還植之北

土多有之南方亦有伹不佳其樹髙𠀋許春初生葉長四

五寸微似大青葉兩兩相對頗作惡氣三月開花如栗花

穗蒼黃色結實至秋如青桃狀熟時漚爛皮肉取核爲果

人多以欅柳接之

山胡挑 南方有之底平如檳榔皮厚而大堅多肉少穰

其壳甚厚須椎之方破

[やぶちゃん字注:「壳」(「殼」の異体字)は、原本では、第六画の横画がない、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、標準字で示した。]

胡桃仁【甘熱】能入腎肺最虛寒者宜【痰火積熱者不宜多食】利三焦

 益氣養血潤肌黑鬚髮多食去五痔【多食動風脫人眉同酒食多咯血】

 與破故紙同爲補下焦腎命門之藥故古有云黃壁無

 知母破故紙無胡桃猶水母之無蝦也胡桃能制銅

胡桃青皮【苦濇】烏髭髮【與科蚪等分擣泥塗之一染卽黒】 治白癜風【與硫黃同摻之】 染帛黒色【枯皮亦佳水煎染之】

  新六山からのまはすくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり光俊

△按胡桃有數種唐胡桃自中𬜻多來近頃本朝亦徃徃

 種之其葉似檞之軰而末不尖無刻齒長五六寸伹兩

 兩不對生此與本草之說少異其實核圓大而色淡皮

 薄易破仁脂多味最美也養山雀者破以餌之喜食之

鬼胡桃 核形似桃核而團甚堅硬炒過入水破之其仁

 脂少味不美

姬胡桃 核微扁仁脂多味美本草所謂南方山胡桃而

[やぶちゃん字注:「姬」は原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通用字とした。]

 倭胡桃是也其油磨木噐甚光澤用其皮染帛黒色久

 久不變凡胡桃與銅錢共嚼合則錢成粉制銅之證也

一種有澤胡桃 岸澤多有之雖結實不堪食其材畧似

 欅而理粗匠人以僞爲欅

 

   *

 

くるみ   羗桃《きやうたう》  核桃

      播羅師《ばんらし》【梵書。】

      呉桃《ごたう》【「延喜式」。】

胡挑

      「久留美」。

      言《いふ》心は、「呉菓(くれ

      のこのみ)」なり。

フウ タウ

[やぶちゃん注:「言《いふ》心は」の「心」は、送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『胡桃は、本《も》と、羗胡(ゑびすくに《キヤウコ》[やぶちゃん注:「ゑ(ヱ)」はママ。])より出づ。漢の時、張鶱《ちやうけん》、西域《さいいき》に使《つかひ》して、始《はじめ》て、種を得て、還り、之《これを》植う。北土《ほくど》に、多く、之れ、有り。南方にも亦、有れども、伹《た》だ、佳《か》ならず。其の樹の髙さ、𠀋ばかり。春の初《はじめ》、葉を生《しやうじ》、長さ、四、五寸。微《やや》、「大青《たいせい》」の葉に似て、兩《ふた》つ兩《ながら》、相《あひ》對す。頗《すこぶ》る、惡(わる)き氣(かざ)を作《なす》。三月、花を開く。栗の花のごとし。穗《ほ》、蒼黃色。實を結ぶ。秋に至《いたり》、青桃《せいたう》の狀《かたち》≪の≫ごとし。熟《じゆくす》る時、皮肉を漚爛《おうらん》≪す≫[やぶちゃん注:水分を含んで腐ったようになる。]、核《さね》を取《とり》て、果《くわ》と爲《なす》。人、多《おほく》≪は≫、欅《けやき》・柳《やなぎ》を以つて、之れを接《つ》ぐ。』≪と≫。

『山胡挑《さんこたう》』『南方に、之れ、有り。底《そこ》、平《ひらた》にして、「檳榔《びんろう》」のごとく、皮、厚《あつく》して、大《はなは》だ、堅く、肉、多く、穰《たね》、少《すくな》し。其《その》壳《から》、甚だ、厚《あつし》。須らく、之れを椎(う)つて、方《まさに》破るべし。

『胡桃《こたう》の仁《にん》【甘、熱。】≪は≫、能《よ》く、腎・肺に入り、最も、虛寒の者に、宜《よろし》【痰火《たんくわ》・積熱《しやくねつ》の者、多食、宜《よろ》しからず。】。三焦を利し、氣を益し、血を養《やしなひ》、肌を潤《うるほし》、鬚《ひげ》・髮を黑くす。多《おほく》食へば、五痔を去る【多く食へば、風《ふう》を動かし、人の眉を脫《ぬ》く。酒と同じく食ふこと、多ければ、血を咯《はく》。】』≪と≫。『破--紙《はこし》と同《おなじ》く下焦《げしやう》≪の≫腎命門《じんめいもん》を補《おぎな》ふ藥と爲《なす》。故に、古《いにし》へより、云へる有《あり》、「黃檗《わうばく》、知母《ちも》、無く、破故紙に、胡桃、無きは、猶《な》を[やぶちゃん注:ママ。]、水母(くらげ)の、蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])、無《なき》がごとし。」≪と≫。胡桃、能《よ》く、銅を制す。』≪と≫。

『胡桃の青皮《せいひ》【苦、濇《しぶし》。】≪は≫、髭《ひげ》・髮を烏(くろ)くす【科-蚪(かへるのこ)[やぶちゃん注:「科蚪」はママ。「蝌蚪」(おたまじやくし)。]≪と≫等分≪に≫、泥に擣《つ》き[やぶちゃん注:レ点はないが、返して訓じた。]、之れを塗れば、一染《いつせん》にして、卽ち、黒し。】』『白--風(《しろ》なまづ)を治す【硫黃《いわう》と同《おなじく》、之れを、摻《すりこむ》。】』『帛(きぬ)を染《そむ》≪るに≫黒色≪と成す≫【枯皮《かれかは》も亦、佳《よ》し。水≪に≫煎じて、之れを染む。】。』≪と≫。

  「新六」

    山がらの

       まはすくるみの

     とにかくに

         持ちあつかふは

        心なりけり    光俊

△按ずるに、胡桃《くるみ》、數種《すしゆ》、有り。「唐胡桃《たうくるみ》」、中𬜻より、多《おほく》、來《きた》る。近頃、本朝にも亦、徃徃《わうわう》、之れを、種《うふ》。其の葉、檞(かしは)の軰《はい》に似て、末《すゑ》、尖(《と》が)らず、刻-齒《ぎざ》、無く、長さ、五、六寸。伹《ただし》、兩兩《ふたつながら》、對生せず。此れ、「本

草≪綱目≫」の說と、少異あり。其の實・核《さね》、圓《まろく》、大にして、色、淡く、皮、薄く、破《やぶ》れ易し。仁《にん》、脂《あぶら》、多く、味、最も、美なり。山雀《やまがら》を養(か)ふ者、破りて、以つて、之れを、餌(ゑ)にす。喜んで、之れを、食ふ。

鬼胡桃《おにぐるみ》 核《さね》の形、桃の核に似て、團《まろく》、甚だ、堅硬≪なり≫。炒過《いりすご》≪して≫、水に入《いれ》て、之れを破れば、其の仁《にん》、脂《あぶら》、少≪なく≫、味、美ならず。

姬胡桃《ひめぐるみ》 核、微《やや》、扁《ひらた》く、仁、脂、多く、味、美なり。「本草≪綱目≫」、所謂《いはゆ》る、『南方の山胡桃《さんこたう》』にして、倭≪の≫胡桃《くるみ》、是れなり。其の油、木噐《きのうつは》を磨(みが)き、甚だ、光澤≪出づる≫なり。其の皮を用《もちひ》て、帛《きぬ》を染《そむ》れば、黒色にして、久久《ひさびさ》≪に≫變ぜず。凡そ、胡桃と、銅錢と、共に、嚼-合《かみあは》すれば、則《すなはち》、錢、粉《こ》と成る。銅を制するの證《しやう》なり。

一種、「澤胡桃《さはぐるみ》」有り。岸澤《きしざは》に多《おほく》、之れ、有り。實を結《むすぶ》と雖も、食《くふ》に堪へず。其材、畧《ちと》、欅(けやき)に似て、理(きめ)、粗(あら)く、匠-人《たくみ》、以つて、僞《いつはり》て、「欅」と爲《なす》。

 

[やぶちゃん注:先行する「櫻桃」の注で、

   *

「胡桃《こたう/くるみ》」日中では同種ではないので、注意が必要である。中国に分布するのは、ブナ目クルミ科クルミ属 Juglans 止まりである。「維基百科」の同属には、九種を挙げてあるが、これらが総て中国に分布するかどうかは、判らない。本邦の知られた「クルミ」としては、クルミ属マンシュウグルミ(満州胡桃:中文名「胡桃楸」)変種オニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis であるからである。

   *

と述べたが、ここでは、仕切り直しをし、跡見群芳譜」の「樹木譜 オニグルミ」、及び、同サイトの「外来植物譜 カリヤ・オウァタ」等にあるブナ目クルミ科Juglandaceae・クルミ属 Juglans の中国(周辺国を含む)産・日本産のクルミ類の解説に拠って整理する。まず、クルミ科(クルミ科)には』世界で九『属、約』六十『種が含まれ』るとあって、

■クチバシクルミ属Annamocarya

*クチバシクルミ Annamocarya sinensis(中文名『喙桃屬』。『廣西・四川・貴州・雲南・ベトナム産』)

■ペカン属 Carya(中文名『山核桃屬』)

Carya cathayensis(中文名『山核桃』。『浙江・安徽産』)

Carya hunanensis(中文名『湖南山核桃』。『湖南・廣西・貴州産』)

Carya kweichowensis(中文名『貴州山核桃』。『貴州産』)

Carya tonkinensis(中文名『越南山核桃・安南山核桃』。『廣西・雲南・ベトナム産』)

Cyclocarya 属(中文名『靑錢柳屬』)

Cyclocarya paliurus(中文名『靑錢柳・靑錢李・山麻柳』。『臺灣・華東・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南産』)

■フジバシデ属 Engelhardia(中文名『烟包樹屬』。五種)

Engelhardia hainanensis(中文名『海南黃杞』)

Engelhardia roxburghiana(中文名『黃杞』・『黃欅』。『臺灣・福建・江西・湖南・兩廣・四川・貴州・雲南・東南アジア産』

Engelhardia serrata(中文名『齒葉黃杞』)

Engelhardia spicata(中文名『雲南黃杞』。『雲南・廣西・インドシナ・インドネシア・フィリピン産』)

*変種Engelhardia var. colebrookiana(中文名『毛葉黃杞』。『兩廣・四川・貴州・雲南・インドシナ・ヒマラヤ産』)

■クルミ属 Juglans(中文名『胡桃屬』。『世界に約』二十一『種がある』)

Juglans hopeiensis(中文名『麻核桃』。『河北産』)

*マンシュウグルミ Juglans mandshurica(中文名『胡桃楸・核桃楸・山核桃・楸樹』。『樹皮(秦皮・核桃楸皮・楸皮)を薬用』。『朝鮮(北部)・遼寧・吉林・黑龍江・華北・陝甘・華東・兩湖・四川・貴州・雲南・臺灣産』)

*カシグルミ(ペルシアグルミ)Juglans regia(中文名『胡桃・核桃』。『小アジア・カフカス・イラン・カラコルム産』。『長野県などで栽培』

*変種テウチグルミ(チョウセングルミ・カシグルミ)Juglans var. orientalis

Juglans sigillata(中文名『鐵核桃』。『雲南・ヒマラヤ産』)

※一方、本邦のクルミは、代表種は、

★クルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミJuglans mandshurica var. sachalinensis

で、他に、

★カシグルミ(ペルシアグルミ)変種テウチグルミ(信濃胡桃) Juglans mandshurica var. sachalinensis

がある(但し、当該ウィキによれば、『アメリカから輸入されたペルシャグルミとテウチグルミが自然交雑してできたとされている』。『なお、栽培特性の優れた株の実生選抜により残ったものであるが、現在では、品種として扱われる』。『仮果とよばれる実をつけ、その中に核果があり、さらに内側の仁を食用とすることができる。核果が成熟すると』、『外皮が割れ、核果が落下するため収穫が行いやすい。自生しているヒメグルミ』Juglans mandshurica var. cordiformis M.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」の「ヒメグルミ」のページによれば、『オニグルミ』『とそっくりで』、『実も区別が難しいが、実の皮がはがれた後の殻がオニグルミと比べ、あまりごつごつしていない。その他』、『クルミの仲間には』、『ノグルミ』(野胡桃: Platycarya strobilacea )『サワグルミ』(沢胡桃:Pterocarya rhoifolia )『などがある』とある)『やオニグルミより大粒で殻を割りやすく食べられる部分も多いため、一般に市販されているクルミはこの種類が多い。日本では主に長野県で栽培されており、長野県東御市が生産量日本一である。別名菓子クルミ、手打ちクルミ』とある)。

以下、ウィキの「オニグルミ」を引く(注記号はカットした)。『落葉広葉樹の高木で樹高は』二十~三十メートル『に達する。樹冠は広葉樹らしい丸いものであるが、太い枝を分枝させる割に小枝が少なく、全体的に樹形は粗い印象になる。樹皮は褐色で若い頃は平滑、老木になると縦に大きく裂ける。若い枝は褐色に毛を密生させる。葉は枝に互生する奇数羽状複葉で小葉の数は』九『枚から』二十一『枚(』四『対から』十『対)、小葉の縁には明確な鋸歯を持つ。葉柄は短くて根元が太い』。『花は』一『つの個体に雄花と雌花の』二『種類が咲く』、『いわゆる雌雄同株である。雄花は尾状花序で』、『前年枝から垂れ下がり、逆に雌花は当年生の若枝に直立する。雌花は』十~二十『花ほどが付き、花穂には褐色の毛が密生する。雌花の』萼『片は緑色、柱頭部は二又に分かれ赤くなる。風媒花であり特に強いにおいなどは無い。開花時期は展葉とほぼ同じ時期である。花粉は棘状の構造物で覆われる。クルミ属の花粉は形態的に同科のサワグルミ属のものに近いが、ノグルミ属のものとはやや異なる』。『果実は初夏に受粉後同年の秋には熟す。果実はほぼ球形の緑色で熟すにつれて』、『やや黄色っぽくなる。毛が密生し』、『ざらざらした手触りである。果実内の果肉は薄く、殆どは核が占める。核は厚い殻を持ち、広卵形から球形で表面には深いひだを持ち』、『縫合部はやや飛び出る』。『ドングリ類やトチノキと同じく、発芽は地下性』『で子葉は地中に残したまま本葉が地上に出てくる。このタイプの子葉は栄養分の貯蔵と吸出しに特化し、最初に根を伸長させ、次に本葉を展開させ自身は地中で枯死する』。『根系は』、『あまり分岐せず』、『水平痕が多いタイプである。垂下根であっても条件の良い層を見つけると水平根を』、『よく伸ばす。細根は根端肥厚が見られ、これは菌類との共生による菌根である』。『冬芽は裸芽と言われることが多いが、特に頂芽に形成される雌花を含む混芽は早落性の鱗片を持つ鱗芽であるという。枝先の頂芽は円錐形で特に大きく、外側につく』一『対の葉は芽鱗の役目をして、早くに脱落する。枝に互生する側芽は小さい。葉痕は倒松形や三角形で、維管束痕が』三『個つく』。『近縁種との判別ポイントとしては』、『小葉の鋸歯の有無』、『及び、葉の表面のざらつきと大きさ、果穂の長さに注目する』。『ニレ類、トチノキ類、ヤナギ類、ハンノキ類などと共に渓流沿いに出現する代表的な樹種である』。『前述のように雌雄同株の植物であるが、開花初期のある時点で見たときに雄花だけ咲かせる個体と雌花だけ咲かせる個体が』あ『るといい、一時的に雌雄異株的な一面があるという。このような繁殖様式をヘテロダイコガミー(英:Heterodichogamy)と呼び、日本語では通例「雌雄異熟」、「異型異熟」もしくはこれに近い表現で訳される。現象自体は古くから知られており、また分類的には』十『科以上で見られるという。雌雄の反転はオニグルミの場合は』、『集団内で開花期間中に一回だけであるが、個体ごとに複数回繰り返すものも知られる』。『種子散布としてはドングリやトチノキなどと同じく、重力散布や小動物、特にネズミ類による貯食行動に依存した散布を行っている。渓流沿いに出現する種ではあるが、流水による分布拡大は比較的少ないとみられている。貯食による散布の結果平地から斜面上部に分布を広げるようになった例もしばしば報告されている。種子散布者としてはネズミ類の中でもアカネズミよりリスの方が望ましく、アカネズミはササ藪に種子を持ち込むので不適である。リスの場合貯食後に積雪があっても掘り起こしており、貯食場所の記憶は嗅覚や単なる視覚ではなく総合的に判断しているという。飛び飛びのパッチ状態でも地域内にオニグルミが存在することは、リスの生存に重要なことの一つだという』。『カラスもよくオニグルミを食べ、この時に空中からクルミを落として割る行動が見られる。クルミの割れやすさは季節によって差があり、晩秋ほど割れやすいという。また、カラスは重いクルミを選んで割る傾向があるという。カラス類はクルミを自動車に踏ませて割らせるという行動も知られている。ツキノワグマもクルミを利用している。クマはサクラ類の種子散布者としては重要であるが、クルミの場合はかみ砕いてしまうために不適である』。『動物散布型の種子ということで虫害果に対する動物の反応も調べられており、動物の種類によって反応が違うという。ミズナラで行った実験では雌雄で差が見られたものもあった』。『結実状況は豊凶の差がある。ブナやミズナラほど不規則ではないが』、『概ね』、『隔年で豊凶を繰り返すという。ある程度の埋土種子能力はあると見られるが、単に林床で保存すると』一『年の保存で発芽率は大きく低下する。人工的に低温恒温条件でビニール袋に入れることで数年程度の保存ができるが、その場合も発芽率は徐々に低下する。ビニール袋に入れるか封筒に入れるかで生存率が大きく変わる樹種もある』。『クルミ類はアレロパシー』(Allelopathy:ある植物が他の植物の生長を抑える物質(アレロケミカル)を放出したり、あるいは動物や微生物を防いだり、或いは、引き寄せたりする効果の総称。邦訳では「他感作用」という。ギリシア語の(ラテン文字転写:allēlōn:「互いに」)+(同前:pathos・「感受」「あるものに降りかかるもの」)からなる合成語で、一九三七年にドイツの植物学者ハンス・モーリッシュ(Hans Molisch(一八五六年~一九三七年)により提唱された)『が強いとされ、他の植物の生育を阻害する例がしばしば報告される。原因物質とされるジュグロンは生の果実からのエーテル処理でセイヨウグルミの数十倍得られるという。降雨時に生じる樹冠流によってオニグルミの周辺土壌は中性化するという』。『海水で育てると』、『速やかに枯死するといい』、『耐塩性は低いと見られる。一方でクルミの種子は時に海岸に漂着することがあるという』。『オニグルミは年間成長期間の中では比較的短期に伸ばすタイプだと見られている。土用芽(』(土用の頃に萌え出る新芽。梅雨明けの頃の気温上昇で芽吹く)『英:lammas shoot)も出さず、成長期間中の二度伸びはない。これは樹種毎に傾向があることが知られている。種子の大きさの割に実生の初期成長は遅いというが、成木伐採後の萌芽更新の際は巨大な根系の資源を使い非常に成長が速い』。『大型のテントウムシの一種、カメノコテントウの幼虫はアブラムシではなく、ハムシの幼虫を捕食する。特にクルミ類に付くクルミハムシを好み、オニグルミの葉の上でも見られる。オニグルミに付く昆虫、特にチョウやガの幼虫は多い。北海道における調査ではオニグルミやヤナギ類などからなる河畔林は、大量の昆虫を川面に落とし』、『魚類などの餌の供給源になっていると見られている』。本種は『日本の北海道・本州・四国・九州と、樺太にかけて広く分布する。沖縄にはなく、鹿児島県の屋久島が南限とされる。本州の中北部に最も多い』。『核の中身は食用になる。形態節の通り』、『地下性の発芽様式を採り、人間や動物が食べている部分は栄養を蓄えた子葉の部分である』。『クルミ類を食べる際』、『僅かに渋みを感じるのは、渋皮に含まれるポリフェノールやタンニンのためである。渋み成分の種類と量はクルミの種類によっても差があるという。果皮や葉にはさらに多くのタンニンが含まれており食用にはできない。ただし、新芽は食べることがある』。『オニグルミの実は食用にでき、日本産のクルミでは唯一の食用種である。採取時期は』九~十『月ごろで、熟した果実を竿などでたたき落とすか、落ちているものを拾い集める。果実は外皮をかぶっているので、土に浅く埋めて外皮を腐らせたり、靴底で地面に強く踏みつけて転がすなどして取り除き、殻を水洗いして天日干しして保存する。広く市販されるテウチグルミやシナノグルミと比較して実はやや小さく、殻(核果)が厚めで非常に堅いので、食べられる殻の中の種子(仁)を綺麗に取り出す事は容易ではない。クルミを割って食べるときは、尖っているほうを下にして縦位置に置いて、金槌で底を叩き、渋皮は熱湯に通して竹串で剥く』。『種子はそのまま生で食べるか、軽く炒って食べる。多くの油分とたんぱく質を含み、味は濃厚で保存性が良い。山菜をクルミ和えで楽しむほか、クルミ豆腐、クルミ味噌、甘煮、和菓子、洋菓子、パンの材料、料理のトッピングなど、広範囲に利用される。中部地方や東北地方では、オニグルミを使った菓子や餅も多い。長期保存が利くので、かつては山村の各家の保存食に利用したり、和・洋菓子用に出荷するなどもされたが、昨今では扱いやすいテウチグルミやシナノグルミのほうが人気が高く、オニグルミは自家消費用に採るぐらいだという』。『植物体としては土の中でも残り易く、古くから食用にされていたことを示すものとして、日本列島の縄文時代の遺跡からも、多量のオニグルミの殻が出土している。特に東北・関東・中部地方に多い。クルミだけを捨てる場所、トチノキだけを捨てる場所などの使い分けが見られる遺跡もある。脂質、特に脂肪酸は種に特異的な組成比を残したまま、土壌中に長期残存するとされており、殻の痕跡など間接的な証拠だけでなく骨の分析などからの古代人の植生解明も期待できるという』。『道管の配置は散孔材。心材は赤褐色で辺材は黄白色で境界は明瞭であるが年輪は不明瞭。気乾比重は』〇・五『程度』。『木材としてはかたく、「ウォールナット」』(walnut)『の名で知られる。ウォールナットは製材後の狂いが少なく、加工も容易という長所を有するため、机や椅子、洋風家具、建築、フローリング、彫刻、小銃の銃床などにも用いられる』。『秋田県の古民家における調査では屋根を支える梁桁』(はりげた)、『床を支える大引』(おおびき)『などの重要な構造材にオニグルミ材が使用されていた家があった。ただし、スギ、クリ、ケヤキなどに比べると使用頻度は少ない。遺跡からはクルミの殻だけでなく木片も見つかることから、古くから木材としても利用されていたとみられる』。『種子が薬用され、生薬名を胡桃仁(ことうじん)と称し、喘息、便秘、インポテンツ、腎結石に薬効があるといわれている。一般的にはオニグルミよりもテウチグルミ(胡桃)がよく使われる。民間療法では』、一『日量』五~十『グラムを』四百『ccの水で煎じて』、三『回に分けて服用する用法が知られるが、そのまま食べても同様に効果があるとされる。体力が落ちてころころしたときの便秘や、咳をしたときに尿漏れするような喘息に良いといわれている』。『魚毒として漁に使ったという記録が各地に残る。殺魚成分はナフトキノン』(1,4-naphthoquinoneC10H6O2)『だとされる。魚毒漁は使用する植物はもちろん、漁の目的から参加者まで多種多様のものがあることが各地で報告されているが、クルミを用いる場合の』、『この辺のことはよくわかっていない』。『殻』は『根付細工などに利用された』。また、『粉砕した殻を埋め込んだ冬用タイヤが開発されている。クルミの殻は硬く鋭利であるが、スパイクタイヤではなくスタッドレスタイヤ扱いとなっている』。『観賞性はあまり高くないが、収穫を楽しむことができる植栽として庭木などにも使われる。植栽する場合、植え込みの適期は』十二~三『月とされる』。『正月の魔除け的な習慣である削掛』(けずりかけ:木を削って花や稲穂のように作った飾り物や幣(ぬさ)。神棚・仏壇・門・墓などに飾られ、農作物の豊作を祈願するもの)『の材料にオニグルミを使うという。削掛に似たアイヌの習慣にイナウがある。イナウに用いる樹種は儀式の目的によっては、それほど制限されないものもあると言い、中にはオニグルミで作るものもあるという』。『クルミを庭に植えることは魔除けになるという地域と、逆に災いごとを呼び込むとして禁忌とする地域があるという』。『「クルミ」』という名は、『タンニンで真っ黒になった様を指して「黒い実」、熟しても果皮に包まれた様から「くるまれた実」、クリに似て食用にできるから「栗実(くりみ)」など諸説ある。「オニ(鬼)」は核果が大きく凹凸も多いことを在来クルミ類、特にヒメグルミとの対比した命名と見られる』。『実際に』、『オニグルミの方言名では「オオクルミ」「オトコクルミ」などのヒメグルミと比較した名前が東北から北陸にかけてみられる。方言名は種類としては多くなく』、『「クルミ」が訛った程度のものが多く、「クルミ」「クルミノキ」などという名前も全国的に知られる。大阪周辺では「ウルシ」と呼ぶという。ウルシは複葉である点と発音が若干似ている。「黒い実」説に近い「クロビ」「クロベ」などは北陸に見られる。四国や九州北部はクリやウメが付く名前が多く、「クリミ」、「コーグリ」、「クリウメ」、「ノグウメ」などがみられる。「ウメ」は』、『幼果がウメのそれに似ていることに因むとみられる。四国はトチノキも「クリ」の付く方言で呼ぶことが多い。変わった名前として「ヤマギリ」(長崎県)「モモタロ」(石川県)「ボヤ」(紀伊半島)「ノブ」(愛媛県・山口県)などがある。九州はサワグルミなどを「ギリ」と付けて呼ぶところが他にも知られる。アイヌは「ニヌム」「ニヌムニ」などと呼んでいた。同じく食用になるヒメグルミと区別しない方言も全国的に多く、「ボヤ」「ノブ」などは』、『実が食用にならないノグルミやサワグルミと同じだという』。『カラフトグルミ(樺太胡桃)、カラフトオニグルミ(樺太鬼胡桃)ともよばれる中国植物名では「核桃楸」(かくとうしゅう)という』。『種小名mandshuricaは「満州の」、変種名sachalinensisは「サハリンの」で何れも分布地に因む命名である。本項ではシノニムとなっているJuglans ailanthifoliaの種小名ailanthifoliaは「ニワウルシ属( Ailanthus )の葉」という意味で』、『いずれも葉が複葉で似ていることからの命名である』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「胡桃」([075-49b]以下)をパッチワークしたものである。

「播羅師【梵書。】」とあるが、「大蔵経データベース」で検索しても、出てこない。不審。

「呉桃《ごたう》【「延喜式」。】」「呉菓(くれのこのみ)」本邦での呼称。呉地方を渡来した中国の代わりに用いたもの。

「羗胡(ゑびすくに《キヤウコ》)」「羌」(きょう)は中国の古代より中国西部に住んでいる異民族を指し、「西羌」とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。「胡」は中国の北西方の未開民族。また一般に、「異民族・外国」の意を表わす。本邦の「夷」(えびす:歴史的仮名遣も同じ)で、孰れも中国で異民族の卑称である。

「張鶱」(?~紀元前一一四年)は前漢の軍人・外交官。本貫は漢中郡城固県。小学館「日本国語大辞典」に、紀元前一三九年頃、『武帝の時、匈奴を牽制するため』、『大月氏と同盟を結ぼうと出発』、『同盟は不成立だったが、大宛、大月氏、大夏などをまわり、のちに烏孫にも使』い『して、西域への交通路と知識を中国にもたらした。また、その間、匈奴征伐に従って功をたて、博望侯に封ぜられた』(その翌年に没した)とある。当該ウィキが詳しい。

「大青《たいせい》」シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ(臭木)属クサギClerodendrum trichotomum、或いは変種クサギ Clerodendrum trichotomum var. trichotomum 。中国・朝鮮・日本全国に分布する。和名は、枝や葉に、やや悪臭があることに由来する。六年を過ごした、富山県高岡市伏木の裏山である二上山に多く生えていた。確かに、臭いが、私は、跋渉するごとに、花を好んだ。

「頗《すこぶ》る、惡(わる)き氣(かざ)を作《なす》」不審。クルミの葉が悪臭を持つという記載は、中文のクルミ類の記載をいくら見ても、「臭い」とする記述はない。

「青桃」不詳。中文サイトでも掛かってこない。

「山胡挑《さんこたう》」前掲の Carya cathayensis のことと思われる。

「檳榔《びんろう》」ヤシ科の植物檳榔樹である、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu のこと。果実を薬用・染色用とする。「檳榔子」(びんろうじ)と書くと、ビンロウの果実を指すが、ここでは、それ。本種は本邦では産しないが、薬用・染料とするため、奈良時代の天平勝宝八(七五六)年頃、輸入された記録が既にある。

「痰火《たんくわ》」熱があって痰が激しく出る病気。

「積熱《しやくねつ》」脾胃に熱が溜まっている状態を指す。

「三焦」既出既注だが、再掲すると、伝統中医学に於ける仮想の「六腑」の一つ「三焦」(さんしょう)。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官で、心・肺を含み、その生理機能は呼吸や血脈を掌り、飲食物の栄養分(飲食水穀の精気)を全身に巡らし、全身の臓腑・組織を滋養する器官とされる」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。

「五痔」複数回既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫の「丁子」の割注に、『内痔の脈痔・腸痔・血痔、外痔の牡痔・牝痔をあわせて五痔という』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げる。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。

「風《ふう》を動かし」漢方では、体の揺れ動く症状を言う。

「黃檗《わうばく》、知母《ちも》、無く」東洋文庫訳は、そのまま訳しているが、意味が判ってない! これは「黃柏」の誤りである! 「黃柏」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の黄色い樹皮を乾した漢方生薬で、「八ッ目漢方薬局」の「黄柏(おうばく/キハダ)」を見ると、『化膿症や炎症のある場合に使用する外用薬の「中黄膏」には、オウバクが含まれている』。『漢方処方としては、虚熱(消耗性疾患における発熱)を清熱することを目標に(滋陰降火湯)、あるいは』、『ほてりなどの症状にも、知母』(☜)『などとともに配合されている(知柏地黄丸:知柏壮健丸』とある。則ち、補薬として、カップリングに外せないものであることを言っているのである。

「破故紙《はこし》」マメ目マメ科オランダビユ属オランダビユ Psoralea corylifolia の成熟果実を指す。「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱」の「破故紙(ハコシ)/補骨脂(ホコツシ)」に以下のようにある。かなりの分量があるが、まさに、この「本草綱目」も引用されてあるので、全文を示す。

   《引用開始》

 「破故紙」は別名「補骨脂」とも称します。『本草綱目』には「補骨脂とはその効力を表した名である。胡人がこれを婆固脂と呼んだのを俗に訛って破故紙といったのだ」とあります。その由来について『図経本草』には「今は嶺外の山坂の地に多くある。四川、合州にもまたあるが、いずれも外国の舶来品の優良なるに及ばない」と、さらに「この物は元来外国から商船で輸入されるもので、中華には産せぬものだ」とあります。明らかに中国以外から導入されたことが分かります。原植物の形態について『本草綱目』ではまた、「この植物は茎の高さ三四尺、葉は小さくして薄荷に似ている。花は微紫色だ。実は麻子のようで円く平たくして黒い」と記載があります。これは現在のマメ科植物であるオタンダビユの形態と一致しています。

 オランダビユは、その名称とは異なりインド、スリランカに自生している植物ですから、アーユルヴェーダ文化圏から導入された薬物ということになります。一年生草本で高さ 90 cm ほど、全草が黄白色の毛および黒褐色の腺点に覆われています。茎には縦の稜があり堅く、粗い鋸歯がある広卵形の葉を互生します。7月から8月には花が多数密集した総状花序をつけます。個々の花は蝶形で淡紫色か黄色です。花後にだ円形の豆果をつけます。豆果には宿存する萼があり、果皮は中にある1個の黒色の種子にはりついています。秋に果実が成熟した頃に果序を採取し、日干しにし、果実を揉み出し異物を除きます。この乾燥した果実が破故紙(補骨脂)です。

 生薬は腎臓形でやや扁平、黒色から黒褐色で、長さ 35 mm、直径 24 mm、厚さ 1.5 mm で表面には微細な網状のしわがあります。薄い果皮の中には種子が1粒あります。古来、粒が大きく充実し、黒色のものが良いとされています。その薬効は、脾腎陽虚の要薬で、脾が陽虚で溏泄(泥状便のこと)し、腎が寒冷で精流するときに有効な薬物です。破故紙の腎を補い、陽を助ける力は、脾を暖める作用に優るとされています。病状としては、遺尿や頻尿、失精やインポテンツ、足腰の冷えなどに使用されてきました。

 『図経本草』には「破故紙は今世間で多く胡桃と合わせて服するが、この法は唐の鄭相國から出たものだ」と、胡桃(クルミ)との配合が重要であることが述べられています。実際に破故紙と胡桃が同時に配合される処方には青娥丸(破故紙、胡桃、杜仲)や、唐鄭相國方(破故紙、胡桃肉)があります。『図経本草』では鄭相國の自叙を引用して破故紙の使用経験を紹介しています。すなわち「予が南海の節度史となったのは七十有五の年であったが、任地、越地方は卑湿のところで、ために身体の内外を傷め、種々の病気が俱発して陽気が衰絶し、乳石などの補薬あらゆるものを服したが、すべてその応験が見えなかった。(中略)不承不承に破故紙を服んで見ると、七八日経つとその反応が現はれて来た。爾来常に服しているが、その効力は誠に不思議なものである」とし、処方の作成方法も紹介しています。「破故紙十両を用い、皮を取り去って洗い、曝しついて細かに篩い、胡桃仁二十両を湯に浸し、皮を去り細かに研いて泥状にして、前述の粉末を入れ、良質な蜜で和し飴糖のようにして磁器に盛って、朝、昼この薬一匙を暖酒二合で調えて服し、飯を食って圧へる。若し酒を飲めぬ人ならば暖かい水で調えて用いる。久しきに互つて[やぶちゃん注:ママ。「互(わた)って」。]服すれば天年を延べ、気力を益し、精神を爽快にし、目を明らかにし、筋骨を補添する」とあります。破故紙と胡桃との関係については『本草綱目』でも「破故紙は神明を収斂し、よく心胞の火と命門の火とを相通じさせるので元陽は堅固になり、骨髄は充実し、渋で脱を治すとある。胡桃は燥を潤し血を養い、血は陰に属して燥を悪む。そこで油でこれを潤し、破故紙を佐ければ木火相生の妙がある。したがって破故紙に胡桃がなければ水母(クラゲ)に蝦(エビ)がないようなものであるという言葉がある」と、両者の組み合わせの重要性が記されています。我が国では使用される機会がほとんどない薬物ですが、これからの高齢社会には重要な薬物であるように思われます。

   《引用終了》

「水母(くらげ)の、蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])、無《なき》がごとし。」東洋文庫訳の後注に、『水母と鰕』(=「蝦」=海産の「エビ」)『は共生し、蝦は水母の眼の役目をしてあちこち水母を誘導し、その代り水母の涎沫』(よだれ)『を飲んで生きている、という。』とある。但し、無論、この共生説は、誤りであり、クラゲ類(刺胞動物門ヒドロ虫綱 Hydrozoa・十文字クラゲ綱 Staurozoa・箱虫綱 Cubozoa・鉢虫綱 Scyphozoa)やホヤ(脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea)・サルパ(脊索動物門尾索動物亜門 タリア綱 Thaliaceaサルパ目 Salpidaサルパ科 Salpidae:この類は、一見、クラゲに見えるが、前のホヤ類同様、脊椎動物である魚類のすぐ前の高等な動物である。因みに、私はクラゲ・フリークであり、ホヤ・フリークである(「ホヤ伝道師」の資格も持っているノダ!))等に勝手に寄生している種群を指している。最も知られるものでは、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目クラゲノミ(水母蚤)亜目 Hyperiideaのクラゲノミ類:当該ウィキを見られたい)や、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目コエビ下目タラバエビ上科タラバエビ科クラゲエビ属クラゲエビ  Chlorotocella gracilis (名にし負う種だが、実際には、クラゲに寄生しているというのは、私は、見たことがない。サイト「海と島の雑貨屋さん」の「クラゲエビ」を見られたい)等を指す。

「白--風(《しろ》なまづ)」尋常性白斑。小学館「日本大百科全書」によれば、『後天性の色素減少症の一つで、俗称白なまず。大小の類円形または不整形の完全脱色素斑で、白斑周囲の健常皮膚は色素増強を示すことが多いため境界ははっきりしている。脱色素斑部の毳毛(ぜいもう)(うぶ毛)または剛毛は、長期間存在する患部では白毛となることが多い。通常は自覚症状に乏しいが、ときにかゆみが先行したり、随伴することもある。好発部位はとくになく、全身至る所に発生するが、顔、胸、手背、腋窩(えきか)(わきの下)、外陰部、肘(ひじ)、膝(ひざ)などによくみられる。臨床的に身体の一部にだけ発症する限局型、一定の神経支配領域に一致して片側性に発症する分節型、比較的広範囲に散在する汎発(はんぱつ)型に分類される。原因については自己免疫説、神経障害説などがあるが、まだ定説はない。治療はソラレン療法、副腎』『皮質ホルモン外用療法などがあるが、難治であることが多い』とある。

「新六」「山がらのまはすくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり「光俊」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02430」である。本文にも良安が述べている「山がら」は、朝鮮半島及び日本(北海道・本州・四国・九州・伊豆大島・佐渡島・五島列島)に分布するスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius varius(背中や下面は橙褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は黄褐色)。本邦には他に限定地固有種亜種として以下の三種がいる。ナミエヤマガラParus varius varius namiyei(神津島・新島・利島(としま)固有亜種。背中や下面は橙褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は淡黄色)・オリイヤマガラParus varius varius olivaceus(西表島固有亜種。頭部の明色斑は赤褐色で、背中は灰褐色、下面は赤褐色の羽毛で被われる)・Parus varius varius owstoni オーストンヤマガラ(八丈島・御蔵島・三宅島固有亜種。最大亜種で、下面は赤褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は細く、色彩は赤褐色。嘴が太い)がいる。詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)」を見られたい。そこで、良安が、『好んで胡桃(くるみ)を食ひ、飽〔(くひあ)〕くときは、則ち、胡桃を覆(うつむ)け〔置き、後に〕飢〔うれば〕、則ち、之れを飜〔(ひるが)へして〕中の肉を啄む。』と記している。

「唐胡桃《たうくるみ》」種としては、前掲のカシグルミ(ペルシアグルミ)変種テウチグルミ(信濃胡桃) Juglans mandshurica var. sachalinensis を指す。

「山胡桃《さんこたう》」本邦では、オニグルミの別称だが、良安が言うようには、同一種では、ない。まず、中国の同種のウィキがないこと、さらに、同種の英文ウィキを見ると、『日本とサハリン原産のクルミの一種』とあるからである。

「欅(けやき)」これは、良安が本邦の話として言っているので、双子葉植物綱バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata でよいのあるが、これは、大いに注意が必要である。何故なら、既に、「櫸」で述べた通り、現代中国語では、ケヤキを「榉树」(繁体字「欅樹」)とし、別名でも「櫸木」と書きはするが、時珍の時代のそれは、「ケヤキ」ではなく、現代の中文名を、「枫杨(繁体字「楓楊」)とし、別名は、「水麻柳」及び「柳」(繁体字「欅柳」)である、中国中南部原産の落葉高木である、

!★!双子葉植物綱マンサク亜綱クルミ目クルミ科サワグルミ属シナサワグルミ Pterocarya stenoptera

を指すからである! ウィキの「シナサワグルミ」によれば、『別名はカンポウフウ、カンベイジュ』で、『中国原産の落葉高木。雌雄同株で花期は』五『月頃、雄花は黄緑色、雌花は黄緑色で柱頭は紅色である』。『公園樹、街路樹として植栽される』とある。因みに、本邦に同種が渡来したのは、調べたところ、明治初期である。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「古墳靈驗」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「古墳靈驗」  有渡郡聖一色村《うどのこほりいつしきむら》にあり。傳云《つたへいふ》。當村靈光院屋敷と云所の傍に、五輪の古墓《ふるばか》あり。其左右にも、小五輪巨多《きよた》なり。土俗是を足利尊氏公の墓とす。非也《ひなり》。嫡子竹若の墓也。瘧《おこり》を煩ふ者、此塚に祈る、必《かならず》愈ゆ。柳を以て太刀を造り、賽《さい》す。云云。按《あんず》るに、竹若は北條高時の爲に討たる。何の故に瘧を祈れば驗《しるし》あるか、詳《つまびらか》ならず。里人《さとびと》云《いはく》、竹若は元弘三年五月、伊豆の御山を出《いで》て、伯父宰相法印良遍《りやうべん》、同宿十三人、山伏の姿に成《なり》て、潛《ひそか》に上洛す。鎌倉の使《つかひ》、長崎勘解由《かげゆ》左衞門入道・諏訪杢左衞門《もくざゑもん》入道が爲に、浮島《うきしま》か[やぶちゃん注:ママ。]原にて害せらる。後、爰《ここ》に葬《はふ》る成《なる》べし。云云。又云。慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]、由井正雪、謀《はかりごと》を以て楠正成の料《れう》と號し、菊水の紋付たる旗を、五輪の塔の傍《かたはら》なる大松二本のもとに埋置《うめおき》、僞《いつはり》て後に堀[やぶちゃん注:ママ。]得たるは、卽《すなはち》此所也。近歲《きんさい/ちかごろ》、此松大風に倒《たふれ》たり。

[やぶちゃん注:「聖一色村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区聖一色村』は、『現在地名』は『静岡市聖一色・古庄(ふるしょう)一丁目・栗原(くりはら)・国吉田(くによしだ)四丁目』とし、『有度山(うどさん)丘陵北西麓に位置し、南は池田(いけだ)村。応永五』(一三九八)年『六月の』「密嚴院領關東知行地注文案」『(醍醐寺文書)に「聖一色」がみえ、伊豆走湯山(伊豆山神社)密厳(みつごん)院領と判明する。永禄一二』(一五六九)年『四月』十五『日の武田信玄判物(臨済寺文書)で林際寺(臨済寺)に寄進された』「栗原一色兩鄕」百『貫文の一色は、栗原と隣接する聖一色と推測される』とある。現在の冒頭のそれは、静岡県静岡市駿河区聖一色。「ひなたGPS」の戦前の地図を参照されたい。

「靈光院屋敷」不詳。

「五輪の古墓あり」不詳。

「巨多」多くあること。

「嫡子竹若」足利竹若丸(たけわかまる 正中元(一三二四)年~元弘三/正慶二(一三三三)年五月二日)。鎌倉末期の足利氏の棟梁で、室町幕府初代将軍足利尊氏の庶長子。当該ウィキによれば、『母は足利氏の一族の加古基氏の娘』。『基氏は尊氏の曾祖父である足利頼氏の庶弟にあたるため、尊氏にとって竹若丸の母である基氏の娘は「祖父の従姉妹」という関係だが、世代的にはほとんど同じだったとみられる。後に』「太平記」にれば、『竹若丸は尊氏の男子の中で長男とされ、伊豆走湯山の伊豆山神社に居住した』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、父の尊氏が鎌倉幕府に対して謀反を起こし』、『六波羅探題を攻撃したため、走湯山密巌院』(そうとうざんみつごんいん)『別当であった覚遍(母の兄)に伴われて』、『山伏姿で密かに上洛しようとしたが、駿河浮嶋が原(現在の静岡県沼津市』及び富士市)(ここ)『で幕府・北条氏の刺客』長崎為基・諏訪宗経『によって刺殺された』(同ウィキの生年が正しければ、僅か享年数え十歳であった)。『山伏姿で上洛しようとしたことから元服前、少なくとも他の史料で庶長子とされる直冬』(嘉暦二(一三二七)年生まれか)『より年長者と推測され、尊氏は後年に竹若丸と覚遍の後世』(ごぜ)『供養を行っている』とある(現在の供養塔(非常に新しいもの)はさいたま市西区指扇(さしおうぎ)の清河寺(せいがんじ:グーグル・マップ・データ)にある)。Santalab氏のブログ「Santa Lab's Blog」の『「太平記」千寿王殿被落大蔵谷事(その2)』(新字正仮名)を見られたい。

「瘧」熱性マラリア。

「慶安年中」一六四八年から一六五二年であるが、「慶安の変」は、慶安四(一六五一)年四月に徳川家光が病死し、後を十一歳の徳川家綱が継ぐこととなったのを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始したが、一味の奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見、慶安四年七月二十三日に、別働隊の主犯丸橋忠弥が江戸で捕縛された。その前日、既に正雪は江戸を出発し、計画の露見を知らぬまま、七月二十五日、駿府に到着、駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌二十六日早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決した(以上はウィキの「慶安の変」に拠った)。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (見よ、彼等を。彼等に何を比べよう。……)

  

見よ、彼等を。彼等に何を比べよう。

彼等は風の中に置かれたやうに搖らぎ、

人が持つ物のやうに休んでゐる。

その眼の中には、俄の夏の雨が

落ちかかる明るい牧場の

嚴に暗がつてゆくやうなものがある。

 

2025/02/04

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「櫻塚」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「櫻塚」  有渡郡上島村《うどのこおりかみじまむら》田間《たのあひだ》にあり。「風土記」云。有豐炊禰乃陵。云云。卽《すなはち》是か。或云。有度采女藪子の塚也。云云。今瘧《おこり》を煩ふ者、此塚に祈念す、必《かならず》愈ゆ。何の故を以て、瘧の病《やまひ》に驗《しるし》ある、其據《そのよりどころ》を知らず。

 

[やぶちゃん注:所持する岩波文庫「風土記」(武田祐吉編・一九三七年岩波文庫刊)には、見当たらない。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「古事類苑」(神宮司庁古事類苑出版事務所編・大正二(一九一三)年神宮司庁刊)の「地部四」の「地部九」の「駿河國」の「有度郡」に、

   *

〔駿河國新風土記〕郡名考

 有渡郡 万葉集有度ニ作リ、風土記烏渡ニ作リ、和名抄延喜式有度ニ作リ、今有渡ト書ス、中古ヨリ同ジ、萬葉集二十有度郡牛麿ト云名アリ、コノ國人ナリ、風土記ニ、有度淸水、有度采女、藪子陵アリ、有度山アリ、中古ノ歌ニ有度濱トヨム、皆此ナリ、其有度テフ語意ハ、有ハ借字ニテ、ウウノ約リテウトナリ、度ハ所(ト)ノ意ニテ、植所(ウト)ノ義ナリ、植トハ稻苗ヲ植ル所ト云意ナリ、其有度ノ里トサス所、今ノ有東村成ベシ、

   *

とあるのが、唯一の別記載である。ネットで検索しても、他には、記載を見ないため、「豐炊禰乃陵」、及び「有度采女藪子」の陵墓の主や、その「読み」さえも判らない(前者は「とよかしぎねのみささぎ」、後者は「うどのうねめやぶし」だろうか? こんなに全く不明なのも珍しい)。識者の御教授を乞うものである。

「有渡郡上島村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『上島村』『かみじまむら』として、『静岡県』、『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区上島村』で、『現在地名』を『静岡市中田(なかだ)一』~『四丁目・中田本町(なかだほんちょう)・馬渕(まぶち)三』~『四丁目・石田(いしだ)三丁目・稲川(いながわ)一丁目』とし、『稲川村の南に位置する』(「天保國繪圖」)。『村名は中島・下島・西島に対するもので、旧安倍(あべ)川の』支『流の間にある地形(島)に由来するとの説がある』(「修訂駿河國新風土記」)。『戦国期は上島郷と称された。永禄八』『(一五六五)』『年』十一『月七日の今川氏真判物(増善寺文書)によると、「上嶋郷」内の浮免二町などが増善(ぞうぜん)寺領として同寺の宗佐に安堵されている。元亀四』(一五七三)』年十『月』二十一『日の武田家朱印状(写、判物証文写)は神尾左近丞に上島のうち』、『六貫文を、天正二』『(一五七四)』年『三月』二十九『日の武田勝頼判物(写、土佐国蠧簡集残篇)は岡部長教に上島のうち』百三十九『貫文を与えている』とある。現在、冒頭に記されるそれは、静岡県静岡市駿河区中田で、「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。駿府城の南東の一帯に当たる。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (知る者よ、その廣い知識は……)

 

 

知る者よ、その廣い知識は

貧しさから成り、貧しさの溢れである者よ。

最早や貧しい人々が嫌惡の中ヘ

捨てられたり蹴込まれたりしないやうにせよ。

他の人々は裂かれたやうだ、

しかし彼等は花のやうに根から立上り

メリサのやうに薰り、

その葉はぎざぎざで軟かい。

 

[やぶちゃん注:「メリサ」双子葉植物綱シソ(紫蘇)目シソ科コウスイハッカ属コウスイハッカ Melissa officinalis 。今や、正式和名よりも、英語のハーブ( herb )の一種で、英語の「レモン・バーム」“ Lemon balm ”の方が知られる。当該ウィキ(注記号はカットした)によれば、『南ヨーロッパ原産。和名はコウスイハッカ(香水薄荷)、セイヨウヤマハッカ(西洋山薄荷)、コウスイヤマハッカ(香水山薄荷)、メリッサソウ。食べ物や飲料の香り付けや、ハーブとして医療に利用されてきた』。『葉の形はミント』(英語“mint”。漢字表記「女無天」。シソ科ハッカ属 Mentha の総称)『にも似ており、シトラールなどの製油成分を含み、レモンを思わせる香りがする』。『繁殖力が非常に強く、かつては人間より長生きすると考えられていた』。『地上部は冬には枯れるが』、『根は数年』、『生きるため、雪解けと同時に成長を始める。雪が積もる頃に出た葉が』、『雪の下で』、『枯れずに冬越しすることからもわかるように、非常に耐寒性に優れている』。『建物の間や』、『年中』、『太陽の当たらない湿った場所を』、『浅く』、『耕しておき、種を撒いた後に』、『水をかけて放置する。荒地でもよく育つので、手が掛からない。また、毎年』、『種を周囲に零すので』、『一度』、『撒いたら』、『毎年』、『どんどん増える』。『古代ギリシア名ではレモン』・『バームを蜜源植物として珍重していた。ギリシア語でメリッサ(』(ラテン文字転写)『Melissa』:『メリッタとも呼ばれる)は蜜蜂を意味し、メリッサという名はこれに由来する。ギリシア神話ではメリッセウス(蜜蜂男)の娘(メリッサ)が、蜂蜜を与えてゼウスを育てた。 その後』、『アラブ人によって、強胃、強心、強壮作用のもった薬草であること』が『伝えられた。 ペダニウス・ディオスコリデスの「薬物誌」に』、『サソリや毒グモの解毒剤として有効などと書かれている』。『ハーブとして葉が利用される。主な旬は』四~十一『月とされ、しおれていない新鮮なものは香りが強い。香りのもととなっている精油成分は、シトラール、シトロネラール、オイゲノールアセテートなどで、不眠症の改善や抗』鬱『効果が期待されている』とある。ドイツ語では、“ Zitronenmelisse ”(ツィトローネンメリッサ)。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (何故なら貧は内からの大きな輝だから)

 

 

何故なら貧は内からの大きな輝だから

 

 

[やぶちゃん注:一行詩体裁。底本は、ここの右ページ中央に配されてあり、岩波文庫の校注でも、独立詩篇として扱っている。しかし、私には、前の詩篇「(彼等はそれではない。彼等はただ……)」の最終独立の一行「實際あるままに貧しくてよいといふこと。」を直に受けたものとしか、読めないからである。原詩が判る方の御教授を切に乞うものである。

2025/02/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「姥か池」

[やぶちゃん注:底本はここから。引用書名・引用部その他の部分に括弧を施し、改行・改段落を行った。標題・本文の「姥か池」(うばがいけ)は総て、ママ。]

 

 「姥か池」  有渡郡元追分村《もとおひわけむら》、海道の北松陰にあり。傳云。往昔《わうじやく》郡家某の乳母、嬰兒を抱《いだき》て此所《このところ》を過ぐ。時に兒咳《せき》甚《はなはだ》急也。其苦を見るに忍びず、乳母兒を地上に居置《ゐおき》て、池水を掬《きく》して與《あたへ》んとす。兒咳に堪《たへ》かね、池中に落入《おちいり》たり。乳母苦辛《くしん》して、共に池に入《いれ》て死せり。今、小兒咳の病《やまひ》あれば、此池に祈《いのり》、必《かならず》驗《しるし》あり、云云。

 「甲陽軍艦」云。

『字《あざ》八原云云』、『卽《すなはち》此《ここ》にして姥原《うばはら》也。』。

 「駿河染《するがぞめ》」云。

『姥か池、江尻の手前小吉田[やぶちゃん注:この地名は確認不能。「ひなたGPS」の戦前の地図では、「姥が池」の東直近に「吉川」という地名はある。]の先《さき》也。文祿二年[やぶちゃん注:一五九三年。「文禄の役」の翌年。]二月八日、龜屋九左衞門が妻、嫉妬にて此池に身を投《なげ》、今に靈魂殘れり。云云。』『或云。平川地村《ひらかはちむら》[やぶちゃん注:「ひなたGPS」の戦前の地図では、「姥が池」の南直近の東海道本線を跨いだところに「平川地」の地名を確認出来る。]の畑中にあり。方三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。現行の池はコンクリートで固められており、池は手前(鳥居が池の前にある)で計測しても、池自体は四メートル以下である。]計りの盆池[やぶちゃん注:「ぼんち」。庭などに作る小さな池。]也。其傍《かたはら》に松・榎の古木二株あり[やぶちゃん注:ストリートビューを見ると、エノキらしい木が池と弁天社の間にあるのが、確認出来る。]。文祿二年二月八日、龜氏の妻嫉妬深く、爰《ここ》に身を投《なげ》て空しくなる。人、「姥《うば》」とよべば涌上《わきあが》る、「姥甲斐なし」といへば、彌《いよいよ》高く浡潏《ぼつけつ》して泡を出《いだ》す。云云』。『姥池の由來云《いはく》、「延曆年中[やぶちゃん注:七八二年から八〇六年まで。桓武天皇の御世。]、江尻の側《そば》に、金谷長者《かなやちやうじや》といふ農民あり。家富榮《とみさか》ふ。神佛に祈《いのり》て男子を儲《まう》く。一歲、疳咳《かんせき》[やぶちゃん注:乳幼児の感染症・咳喘息・気管支喘息・慢性閉塞性肺疾患・肺炎等の疾患であろう。]流行《るかう》す時、此小兒も是を愁ふ。乳母歎《なげき》て、此地邊の地藏佛の石像に祈誓して、小兒の命に代り、入水《じゆすい》して死せり。是より小兒の病《やまひ》、とみに平快せり。今此池に祈て疳咳の難を免《まぬか》る者多きは、此緣なり。云云。」』

「遊方名所畧」云。

『駿河國姥池、手越ヨリ三里半東、狐崎《きつねざき》姥原、彼《か(に)》有小池、名《なづけ》姥池、池《いけ(の)》砌《みぎり》有標榜《へうばう》松二株。昔江尻村某氏之妻、其性姦《よこしま》ニ乄而嫉妬甚深。不ㇾ堪自制其心[やぶちゃん訓読:自(みづか)ら其の心を制するに堪へず。]、而遂此池[やぶちゃん注:(而(しか)して)此の池に投身す。]、其靈魂今在、往來諸人臨池邊、呼其名、云ㇾ姥則自池底吹ㇾ泡、動ㇾ水、又「拙哉姥」ト、如ㇾ此呼ベバ、則又吹出、投身時、百八代後陽成院御宇文祿二年八月八日也。云云。』

 

[やぶちゃん注:「姥か池」(うばがいけ)「有渡郡元追分村」平凡社『日本歴史地名大系』によれば、『元追分村(もとおいわけむら)』は、『静岡県』『清水市旧有渡郡地区元追分村』で、『現在地名』清水市元追分・追分一』~『三丁目・桜橋町(さくらばしちょう)など』とあり、『巴(ともえ)川支流の大沢(おおさわ)川下流部右岸に位置し、東は入江(いりえ)町、西は上野原(うえのはら)村。東海道が通り』、「宿村大概帳」『によれば』、『当村の往還五町余のうち家居三町ほどで、ほかは並木。江戸時代の領主の変遷は清水町に同じ。元禄郷帳では高』百六十二『石余』とある。同地区は、現在、静岡県静岡市清水区で、現在の清水区追分四丁目に「姥が池弁天様」が現存する(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルのここに池の画像があり(現行のものはかなり小さい。今は住宅地である)、また、由来解説板の画像(かなり老朽化しているが、辛うじて読める)もある。「ひなたGPS」の戦前の地図では、周囲は田圃である。

「江尻」は「ひなたGPS」を拡大すると、「姥が池」の東北部に「江尻町」が確認出来る。

「駿河染」(するがぞめ)は「駿河染名所記」で駿河地誌。刊行年未詳。『江府小川住花枝自序』と載せる。

「遊方名所畧」元禄一〇(一六九七)年刊。作者不詳。この引用の訓点は不全であるので、ここで、私が訓読文を試みておく。

   *

『駿河國、「姥池《うばいけ》」、手越《てごし》[やぶちゃん注:現在の静岡市駿河区手越(グーグル・マップ・データ)。]より三里半東、狐崎《きつねざき》[やぶちゃん注:静岡清水線の「狐ヶ崎駅」(グーグル・マップ・データ)がある。しかし、この附近から「姥が池」は、「南」ではなく、東北東である。不審。]の南に姥原《うばはら》有り。彼《か》≪に≫、小池、有り。名《なづけ》て「姥池」と曰ふ。池《いけ(の)》砌《みぎり》、標榜《へうばう》の松、二株、有り。昔し、江尻村某氏の妻、其の性、姦《よこしま》にして、嫉妬、甚《はなはだ》、深し。自《みづか》ら、其の心を制するに堪へず、而《しか》≪して≫、遂《つひ》に、此の池に投身す。其の靈魂、今≪も≫在り。往來の諸人《しよにん》、池邊《ちへん》に臨み、其の名を呼べば、姥、云《いはく》、則《すなはち、池底より、泡を吹き、水を動《うごか》す。又、「拙《つたなき》かな、姥。」と、此《かく》のごとく呼べば、則《すなはち》、又、吹出《ふきいだ》す。投身の時、百八代後陽成院御宇、文祿二年八月八日也。云云《うんぬん》。』。

   *]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (彼等はそれではない。彼等はただ……)

 

彼等はそれではない。彼等はただ

意志も世界もない富まぬ者だ。

どん底の心配で刻印され、

到る處で葉をむしられ醜くされてゐる。

都會のあらゆる塵は彼等に迫り、

あらゆる汚物は彼等に懸つてゐる。

彼等は痘瘡の床のやうに惡名を負ひ、

破片のやうに捨てられ、骸骨のやう、

また過去つた年の曆のやうだ――

しかし、爾の地に厄あらば、

彼等を竝べて薔薇の鎖とし

それを護符として持つがいい。

 

何故となら彼等は純な石よりは純で、

初めて始める盲の獸のやうで、

單純に充ち、無限に爾のものだ。

そして何にも欲しないのだから。ただ一つ要することは

 

實際あるままに貧しくてよいといふこと。

 

 

[やぶちゃん注:「爾」「なんぢ」。

 なお、次(改ページのここで、右ページ中央に一行のみが記されてある。本篇はここ)の一行詩

   *

 

何故なら貧は内からの大きな輝だから

 

   *

も見られたい。冒頭の「何故なら」は、明らかに、本詩篇の最終行を受けているとしか読めないからである。しかし、岩波文庫の校注では、あくまで一行詩として記してある。原詩を確認出来ないので、注で示しておく。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (大都會は眞ではない。彼等は詐いてる……)

 

 

大都會は眞ではない。彼等は詐いてる

晝を、夜を、動物等を、小兒を。

彼等の沈默は僞つてゐる。彼等はまた

騷音と、おとなしい事物で僞る。

生成する者よ、あなたを繞つて動く

廣い眞實の出來事の一つも

都會には起らない。あなたの風は吹いても

街々に落ちてその向を變へる。

その颯々の聲は彼方此方にゆく中に、

亂され、激せられる。

その街々はまた花檀にも並木にも來る――

 

[やぶちゃん注:「詐いてる」「あざむいてる」。

「繞つて」「めぐつて」。再版「詩集」で、かく、ルビを振っている。

「街々は」★再版「詩集」では、「風は」に書き変えてある。

2025/02/02

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「神戱」

 

 「神戱」  有渡郡石部村《うどのこほりいしべむら》に、天白明神【土神《うぶすな》也《なり》、別社を木玉明神《こだまみやうじん》と號す。】の社《やしろ》にあり。傳云。大崩《おほくづれ》を夜行《やぎやう》すれば、此神、戲《たはむれ》に磐石《ばんじやく》を落す音夥《おびただし》く、雷《かみなり》の如し。翌日見れば、聊事《いささか、こと》なし。云云。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡石部村に、天白明神【土神也、別社を木玉明神と號す。】の社にあり」現行の静岡市駿河区石部地区には、「石部神社」がここにある(グーグル・マップ・データ)。しかし、かえる氏のブログ「かえるのうち」の「維新前の石部の神々、天白社と木魂社と白髭神社」に、『石部神社は、明治時代以前には天伯社と呼ばれていた。また、現在相殿になっている白髭神社や山神社は以前はそれぞれ別所に祀られていた。明治維新以前、石部神社と改称される前には、これらの社に祀られる神はどのような存在と考えられていたのだろうか。江戸時代後期の地誌にみられる伝説から想像してみた』と枕されて、『石部神社境内の説明板によると、石部神社は明治初年に現在の社名に改称される前は天伯社と呼ばれていた。その当時、現在』、『相殿となっている白髭神社と山神社は大崩山中に鎮座していた。これらが石部神社へ移されたのは昭和』五二(一九七七)年『のことで、山神社旧地は高草山系石部大ニヨウ、白髭神社旧地は大崩山腹コツサ沢だという』。『境内社の津島神社は来歴不詳だが、古い地誌には記載がないところをみると、比較的新しい時代に末社として迎え入れられたのかもしれない。津島神社だけが別の社殿を設けているところからもそのような印象を受けた』。『石部神社の前身である天伯社は、江戸時代後期の地誌』「駿河國新風土記」や「駿河志料」『などでは、天白社あるいは天白大明神などと紹介されている。その所在地は『駿河記』では「在浜」、おそらく現在の石部神社と同じ場所かそれより少し海に近い位置に鎮座していたものと推測される』。『これら江戸時代の地誌によると、当時』、『石部には、天白、木魂、白髭の』三『社があったという。このうち』、『木魂社というのが山神社だったらしい。これを木玉大明神と紹介しているものもあり、木魂と書いてキムスビと読む神社も埼玉県秩父地方にあるが、石部の場合はおそらくコダマと読んだのだろう』(本文の読みは、この「かえる」氏の読みを採用させて戴いた)。『この木魂社を』、「駿國雜志」(私の底本である本書)『では天白明神の別社としている。この場合の別社とは、仏教寺院でいう別院のようなものだろう。また、前掲』「駿河記」『は所在地を「在大岩」としており、元は磐座を御神体としていたのかもしれない。もしそうだとしたら天白社とは山宮里宮のような関係だったのだろうか』とされておられる。これは、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、神社はなく、少し離れた東北直近に寺院の記号がある。しかし、当該場所をグーグル・マップ・データ航空写真と寺の記号箇所をストリートビューで見ても、反対に、寺院は、ない。「かえる」氏は以下、「白髭神社と滝と蛇」は直に読まれたいが、次の「戯れをする天伯の神」で、『今回参照した江戸時代の地誌はいずれも神社の祭神を記載していない。天白明神とか木魂明神というのが神名のようでもあるが、これらはどちらかといえば神社自体に対する尊称と考えたほうがよさそうだ。たとえば、日本武尊を祭神とする焼津神社がかつては入江大明神と呼ばれていたというような類だ』。『天白社で祀られていた神はどのような性質の神だったのだろうか。現在の石部神社の祭神は天照大神とされているが、これは天白社だった時代からそうだったのか』。「駿國雜志」『では天白明神について「土神也」としている。この土神の意味がはっきりしないのだが、あるいは当地周辺では地の神と呼ぶ屋敷神のような祭祀形態をとっていたのだろうか』。『しかし、この土神の天白明神の振る舞いがまた天照大神らしくない。大崩を夜に通行する者があると、戯れに大岩を落とすというのだ。雷のような音がとどろくが、翌日見れば何事もないという。これを題して「神戯」。江戸時代の人々には天白社の祭神について現代とは異なる考えがあった可能性を思わせる話だ』。『天白と呼ばれる神の起源は、江戸時代にはすでに不明瞭になっていたという。現在も天白を名乗る神社には石部と同じく天照大神を祭神とするところもあるが、それ以外にもさまざまな神の名がみられる。たとえば静岡県内では、磐田市池田の天白神社は猿田彦命が祭神だというし、浜松市天竜区横山町の天白神社の祭神は伊邪那岐と伊邪那美だそうだ。また、信州方面では天白神を星や天狗と関連付けているところもあるという』。「駿河志料」『では、駿河国内』十五『か所に祀られる天白社について、天一神と太白神を合わせて祀ったものとの説を論じている。この説の正否はおくとして、このような推考をせねばならなかったということは、結局のところ天白神を明確に説明するものは』、『それを祀る地元にも存在しなかったということだろう』。『石部の天白神は戯れに大岩を落とす、岩に祀られる別社があるなどという点からすると、この神は大崩海岸を形成するあのごつごつとした岩とこそ関わりが深いのではないかとも思われる。大崩は奇岩で知られたところでもあるが、それは石部から現在の焼津市小浜にかけての区間のことだった。石部はその名のとおり岩の辺の村だったのだ』と記しておられ、次の「大崩の天狗」では、『大崩といえば、天狗の怪談がきかれた場所でもある。たとえば』「駿河國新風土記」では、『大崩を夜歩くと天狗火を見たり山伏のような怪しのものに出会うなどという話が紹介されている。また、どういう由来があったか不明だが、天狗岩と呼ばれる大岩があったと』「駿國雜志」『にはある』。『新潟県に、天狗の石ころがしという音の怪現象が伝わっている。夜に山中にいると石が転がり落ちる音が聞こえるが、翌朝見ても何事もない。これは天狗の仕業とされた。同じく天狗が起こす音の怪に天狗倒しという木を切り倒す音が聞こえるものがあるが、これも岩が転がる音がする場合があったという』。『先に紹介した天白神の戯れは、この天狗の行いとよく似ている。大崩に棲む天狗のいたずらが神の仕業にされてしまったのか。あるいは、天白神を天狗の神とするところもあるくらいなのだから、石部の天白神にも天狗の面影があったのかもしれない』。『天狗というと、白髭神社の猿田彦命も気になる。この神は天狗のような容貌で、天狗の原型とされることもある。ついでにいうと、埼玉の木魂神社(きむすびじんじゃ)では天狗を祀っているらしい。なにか関係があるのだろうか……』。『とはいえ、白髭神社の祭神が江戸時代にも猿田彦命だったかどうかは不明であり、木魂神社にいたってはそもそも名前の読み方が違うのだから、天狗との関連付けは牽強付会以外のなにものでもない。だがしかし、なんとなく気になる存在ではある大崩の天狗』。『ところで、大崩が奇岩で知られていたといっても、現在では』、『その岩の大半が失われており、かつての姿は想像しづらいかもしれない。そういう場合は、静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーで「大崩」と検索すると、大崩海岸の古写真をいくつか見ることができる。女子高生の運動会の写真も見られるよ。小浜付近の浜が日傘をさしたお嬢さんで埋まっていたりするのだが、当時の運動会ってどういう行事だったのだろう。遠足的ななにかだったんだろうか』とある(リンクを張っておく)。さて、思うに、この合祀の過程には、明治の「廃仏毀釈」・「判然令」等の影響も考えられるようにも思われる。なお、以上の「天狗岩」は、本底本の「卷之二十八」の、ここにあるので、以下に視認して電子化しておく。

   *

 「天狗岩」  益頭郡《ましづのこほり》當目村《たうめむら》、大崩の海岸にあり。「駿河染《するがぞめ》」云。『大崩の先に行《ゆけ》ば、海の中、磯際に十五間程續きし大岩あり。是に和布類多くとり付《つき》て、波のうつ每にゆられて、みゆるなど、又面白し。此岩までは、波の引くに付て、行《ゆき》かける人も有り。又それより山を登り、谷へ下りなどして行ば、天狗岩とて、同じやうなる岩二《ふたつ》有り。二ながら上に松生《はえ》たり。古《いにしへ》は天狗岩のある海邊を通りしに、いつの頃よりか、海と一つゞきに成《なり》て、今は通ふ人もなし。今も山の上よりは見ゆる也。云云。』

   *

この「駿河染」は、「駿河染名所記」で駿河地誌。刊行年未詳。江府小川住花枝自序と載せる。

「大崩《おほくづれ》」先の「ひなたGPS」の国土地理院図で判る通り、南西に下った急崖の岩礁海岸の名が「大崩海岸」である。前注の「天狗岩」(跡)を探してみたが、見当たらなかった。底本の時代に既に陸(砂地)と繋がってしまっていたとなると、先のリンクに、二つ、見られる、屹立する岩塊(山の裾の崖の先端部が崩落したような感じのもの)が、まずは、候補となろうかとは思うが。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「笛吹松」

 

 「笛吹松」  有渡郡北長沼村《うどのこほりながぬまむら》、八町啜《はちちやうなわて》に出《いづ》る切通しにあり。一株の松にして、五郞松共《とも》云《いへ》り。是、某《なにがし》五郞が塚也。云云。笛を習ふ者、此松に祈誓すれば、必《かならず》上達す。

 

[やぶちゃん注:「長沼村八町啜」現在の静岡市葵区長沼。「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、「八町啜」は不詳。但し、旧長沼村の西には現在は谷津山(やつやま)と呼ばれる標高百七・九メートルを含む里山があり、当該ウィキによれば、『かつて谷津山は統一された名前がなく、峰によって(西から)清水山、柚木山(谷津山の「山頂」にあたる)、正木山、愛宕山と呼ばれていた』とあり、長沼の周辺は水田であるから、ここで、「八町啜に出」る「切通し」というのは、この丘陵地帯を西、或いは、北西に越える山道を指しているようにも思われる。長沼の真南に「天白松」というのがあるが(針葉樹記号が打たれてある)、田圃の真ん中であるから、これではない。

「五郞松」不詳。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (私は彼を褒めたたへよう。軍勢の先に……)

 

私は彼を褒めたたへよう。軍勢の先に

角笛の行くやうに、行つて叫ばう。

私の血を海よりも高く鳴響かさう。

私の言葉を人が好むやうに甘くしよう、

でも葡萄酒のやうに人を惑はせてはならない。

 

そして春の夜々、私の休息處をめぐつて

僅かの人々のゐる時には、

私は絃を彈いて喜ばう。

一葉一葉を遲々として憂ひめぐる

北方の四月のやうに微かに。

 

何故となら私の聲は兩面に育つて

匂ともなり、叫びともなつたから。

一つは遠い者を準備し、

他は自分の寂寥の幻や

幸や天使でなくてはならない。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (私に二つの聲を伴はし給へ。……)

 

私に二つの聲を伴はし給へ。

私を再び都會と心配の中へ蒔散らし給へ。

彼等と共に私は時代の怒の中にゐませう。

私の歌の響であなたの寢床を作りませう。

あなたが望む到る處に。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (おお主よ。各自に彼みづからの死を與へ給へ。……)

 

 

    貧 困 と 死

 

 

おお主よ。各自に彼みづからの死を與へ給へ。

彼が愛と、意義と、困厄とを持つた

その生活から出て行く死を。

 

[やぶちゃん注:底本は、ここ。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 銀杏

 

Ginanan

 

[やぶちゃん注:左下方の右にキャプションで「核」(さね)の二粒と、左に同じく「花莖」として、三本のそれが描かれてある。]

 

ぎんあん  白果 鴨脚子

いちえう   俗云一葉

銀杏

 

 

[やぶちゃん注:「いちえう」はママ。]

 

本綱銀杏原生江南樹髙二三𠀋葉薄縱理儼如鴨掌形

有刻缺靣綠背淡二月開花成簇青白色二更開花隨卽

卸落人罕見之一枝結子百十狀如棟子經霜乃熟爛去

肉取核爲果其核兩頭尖三稜爲雄二稜爲雌其仁嫩時

綠色久則黃須雌雄同種其樹相望乃結實或雌樹臨水

亦可或鑿一孔內雄木一塊泥之亦結陰陽相感之妙如

此其樹耐久肌理白膩術家取刻符印云能召使也

 銀杏宋初始著名而修本草者不収近時方藥亦用之

銀杏【甘苦平濇】 入肺經益肺氣定喘嗽消毒治陰虱【嚼碎傅之】

 多食壅氣動風小兒多食發驚引疳【同鰻鱺魚食患軟風】

△按銀杏𠙚𠙚皆有出於對州者良藝州者次之其葉刻

 缺深者雄也不結實然三稜實爲雄二稜爲雌則雄亦

 結實乎四月著花于莖頭其莖細長五七分其花淡青

 色如椒粒無葩二顆一雙朝見樹下有落花莖

 

   *

 

ぎんあん  白果《はくくわ》 鴨脚子《あふきやくし》

いちえう   俗、云ふ、「一葉《いちえふ》」。

銀杏

 

 

[やぶちゃん注:「いちえう」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『銀杏《ぎんきやう》、原(もと)、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]に生ず。樹の髙さ、二、三𠀋。葉、薄く、縱-理(たつすぢ)あり、儼《げん》に鴨《かも》の掌《てのひら》の形のごとし。刻缺《きざみかけ》、有《あり》て、靣《おもて》、綠《みど》りに、背《せ》、淡し。二月、花を開《ひらき》、簇《むらがり》を成《なし》、青白色。二更[やぶちゃん注:現在の午後九時、又は、午後十時から二時間を指す。「亥(ゐ)の刻」に同じ。]花を開《ひらく》≪も≫、隨《したがひ》て、卽《すなはち》、卸-落《おろしおつ》。≪さればこそ、≫人《ひと》、之《これ》≪を≫見ること、罕(まれ)なり。一枝《いつし》、子《み》を結ぶこと、百十狀《ひやくじふじやう》、「棟(せんだん)」の子(み)のごとし。霜を經(ふ)れば、乃《すなはち》、熟爛《じゆくらんす》。肉を去《さりて》、核《さね》を取《とり》て、果《くわ》と爲《なす》。其の核、兩頭、尖がり、三稜《さんれう》あるを、「雄《をす》」と爲し、二稜あるを、「雌」と爲《なす》。其《その》仁《にん》、嫩《わかやか》なる時、綠色、久《ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、黃なり。須《すべからく》、雌雄、同《おなじ》く種(う)ふべし。其《その》樹、相望《あひのぞみ》て、乃《すなはち》、實を結《むすぶ》。或≪いは≫、雌≪の≫樹、水に臨むも、亦、可なり。或いは、一孔を鑿《えぐ》り、雄木《をすぎ》を一塊《いつくわい》を內(い)れて、之れに泥《どろ》して、亦、結ぶ。陰陽相感の妙、此くのごとし。其の樹、久《ひさ》に耐ふ。肌-理《きめ》、白《しろく》膩《つややか》なり。術家《じゆつか》[やぶちゃん注:道士・方士の類い。]、取《とり》て、符印《ふいん》を刻《きざみ》て、云はく、「能《よ》く、≪鬼神を≫召-使《めしつかふ》なり。」≪と≫。

『銀杏、宋の初めに、始《はじめ》て、名を著《あらは》す。而《しかれど》も、本草を修《しゆ》す者、≪藥方に≫収《をさめず》、近時(ちかごろ)方藥にも亦、之《これを》用ふ。』≪と≫。

『銀杏【甘苦、平、濇《しぶし》。】 肺經に入り、肺氣を益し、喘嗽《ぜんがい》を定め、毒を消し、陰虱《つびじらみ》を治す【嚼《か》み碎《くだ》きて、之れを傅《つ》く。】。』≪と≫。『多《おほく》食へば、氣を壅《ふさ》ぎ、風《ふう》を動かす。小兒、多《おほく》食へば、驚《きやう/ひきつけ》を發し、疳《かん》を引く【鰻--魚《うなぎ》と同じく食へば、軟風《なんぷう》[やぶちゃん注:手足の麻痺。]を患ふ。】。』≪と≫。

△按ずるに、銀杏、𠙚𠙚、皆、有り。對州《つしう》[やぶちゃん注:対馬。]より出《いづ》る者、良し。藝州《げいしう/あきのくに》の者、之れに次ぐ。其の葉、刻缺《きざみかけ》、深き者は、「雄」なり。實を結ばず。然《しかれども》、三稜なる實を「雄《をす》」と爲し、二稜なるを「雌《めす》」と爲《なす》≪と≫云時《いふとき》は[やぶちゃん注:「云時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、雄≪も≫亦、實を結ぶか。四月、花を、莖の頭《かしら》に著《つ》く。其《その》莖《くき》、細く、長さ、五、七分。其《その》花、淡青色、椒(さんせう)の粒(つぶ)のごとし。葩(はなびら)、無く、二顆《くわ》一雙なり。朝、樹下を見れば、落花の莖、有り。

 

[やぶちゃん注:日中ともに、

裸子植物綱イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba

で、本邦では、漢字表記を「銀杏」「公孫樹」「鴨脚樹」とする。「維基百科」の同種によれば、中文名は「銀杏」、異名を「公孫樹」「鴨掌樹」「鴨腳樹」「鴨腳子」とし、種子を「白果」、葉を「蒲扇」とする。中国の食としての実の古代の呼称として「銀果」があり、現在の呼称として「白果」がある。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した。一部を指示せずに省略した箇所がある。なお、この学名についての歴史的記載は、特異的に詳細で、素晴らしい)。『日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また』、『寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用 としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)、ギンナン(銀杏)やギンナンノキと呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指すことが多い』。『街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり、特徴的な広葉を持っているが』、『広葉樹はなく、裸子植物ではあるが』、『針葉樹で』も『ない』。『世界で最古の現生樹種の一つである。イチョウ類は地史的にはペルム紀』(Permian period:約二億九千九百万年前から約二億五千百九十万年前まで(開始・終了時期にそれぞれ数百万年の誤差あり)に当たる「古生代」最後の地質時代の一つ)『に出現し、中生代(特にジュラ紀』(Jurassic period:約二億百三十万年前から約一億四千五百五十万年前までに当たる中生代の中心時代となる地質時代の一つ。所謂「恐竜の時代」である)『)まで全世界的に繁茂した。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世』(Oligocene:約三千四百万年前から約二千三百万年前までに当たる「古第三紀」の第三番目にして、最後の世である地質時代の一つ)『の山口県の大嶺炭田からバイエラ属 Baiera 、北海道からイチョウ属の Ginkgo adiantoides 』『などの化石が発見されている。しかし』、『新生代に入ると』、『各地で姿を消し』、『日本でも約』百『年前に』イチョウを除く他種が『絶滅したため、本種 Ginkgo biloba L. が唯一現存する種である。現在イチョウは、「生きている化石」として国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種(Endangered)に指定されている。原始植物としてのイチョウの受精メカニズムは特異で、シダ類やコケ類と同様に』、『動く精子が卵に向かって泳いでいき』、『受精する』。『種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは後述)』。『中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて鴨脚と呼ぶので、そこから転じたとする説がある。加納』(二〇〇八年)『では、「鴨脚」の中世漢語 ia-kiau の訛りであるとされる。亀田』(二〇一四年)『では、「鴨脚」の中国語読みイーチャオとして日本に伝わったとしている。しかし、室町時代の国語辞典』「下學集」(文安元(一四四四)年成立。序文は作者を東麓破衲(とうろくはのう:詳細未詳)と記す。但し、室町時代には抄本によってのみ伝わり、江戸時代はじめの元和三(一六一七)年になって初めて刊行された)『では、「銀杏」の文字に「イチヤウ」および「ギンキヤウ」と振り、その異名に挙げる「鴨脚」には「アフキヤク」と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていない。なお、鴨脚の名は中国では』十一『世紀』、北宋中期の詩人・官僚であった『梅堯臣』『や欧陽脩』『の詩に見られ、その種子は「鴨脚子」と呼ばれていた』。『それに対し、「イチョウ」の語は「銀杏」の明代の近古音(唐音)が転じたものとする説もある』。室町の文明一三(一四八一)『年頃に成立した一条兼良の』「尺素往來」や、一四八六年の「類集文字抄」、一四九二年頃の「新撰類聚往來」『にも「鴨脚」はなく、「銀杏」に「イチヤウ」とのみ振られており、これを支持する。「いちょう」の歴史的仮名遣は「いちやう」であるが、もとは「いてふ」とする例が多かった。この「いてふ」という仮名は「一葉」に当てたからだとされる』。一四五〇『年頃に成立した』「長倉追罰記」『には幔幕に描かれた家紋について』、「大石の源左衞門はいてうの木」『と表記される』。『種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが』、十一『世紀前半に上記「鴨脚子」から入貢のため改称され、用いられるようになったと考えられる』。「本草綱目」『に記載されている「銀杏」は、銀杏の初出が呉端の』「日用本草」(一三二九年:本邦では鎌倉末期)『であるとする。漢名の「銀杏」は種子が白いためである。「銀杏」の中世漢語はiən-hiəngであり、銀杏の唐音である』「ギンアン」『が転訛し(連声)、ギンナンと呼ばれるようになったものと考えられ』ている。『イチョウ属の学名 Ginkgo は、日本語「銀杏」に由来している。英語にも ginkgo』【gɪŋkoʊ】『として取り入れられている。ほかにも男性名詞として、ドイツ語 Ginkgo, Ginkogɪŋko】』『や フランス語 ginkgo』【ʒɛ̃ŋko】『、イタリア語 ginkgo』『など諸言語に取り入れられている』。『イチョウ綱』Ginkgoopsida『が既に絶滅していたヨーロッパでは、本種イチョウは、オランダ商館付の医師で』「日本誌」『の著者であるドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル』(Engelbert Kämpfer 一六五一年~一七一六年:ドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」』(‘ Geschichte und Beschreibung von Japan ’)『の原著者として知られる。出島の三学者の一人)『による』「廻国奇観」(諸国奇談:‘ Amoenitatum exoticarum ’)(一七一二年)の「日本の植物相(‘ Flora Japonica ’)」『において初めて紹介されたが、そこで初めて“Ginkgo”という綴りが用いられた』。『ケンペルは』一六八九『年から』一六九一『年の間、長崎の出島にいたが、その間に』儒者で本草学者であった『中村惕斎』(てきさい)の「訓蒙圖彙」(寛文六(一六六六)年)『の写本を』二『冊入手した』。『ケンペルが得たイチョウに関する情報は』「訓蒙圖彙」第二版(貞享三(一六八六)年刊)『の「十八 果蓏」で書かれている。ケンペルは日本語が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に』二『つ目の番号が振られていた。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に』「269」、漢字の見出しには』「34」『と番号が振られている。多くの日本の文献は、助手の今村源右衛門から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった馬田市郎兵衛、名村権八と楢林新右衛門もケンペルの植物学の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であったハンス・スローンが保管していたケンペルの備忘録により分かっている。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる。Collectanea Japonica と題された手稿には』、「訓蒙圖彙」『の漢字の見出しがリスト化されているページがあり』、三十四『番目の見出しで “Ginkjo” もしくは “Ginkio” と書くべきところを、誤って“Ginkgo”と表記されている。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “Ginkgo” という綴りは、ケンペルの郷里レムゴーでの誤植や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる』のである。『なお、Webster 』(一九五八年)『では ginkgo は、日本語の ginko, gingkoに由来するとしているが、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない。小西・南出』(二〇〇六年)『では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしているが、この読みは日本語であり』、『正しくない』。『このケンペルの綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは』一七七一『年、著書 』‘ Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II ’ 『でイチョウの属名をGinkgo として記載した。Moule Thommen は、Ginkyo bilobaに修正すべきだと主張し、牧野』(一九八八年)『では、ケンペルの著書中ではkjokgoに書き誤ったのであり、直すならGinkjoであるというが』、「植物命名規則」『においては恣意的に学名を変更することはできないとされている』。一七一二『年のケンペルのGinkgoという誤った綴りは命名規約上』、『有効ではなく、それを引用した』一七七一『年のリンネの命名Ginkgo bilobaが命名上』、『有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる』。『ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的にk g を入れ替えてしばしば gingko と記される。このほか、ゲーテは』「西東詩集」(‘ West-östlicher Diwan ’)『「ズライカの書」』(一八一九年)『で、「銀杏の葉」』(‘ Ginkgo biloba ’)『という詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では " Gingo biloba "と表記されている。これはUnseld』(一九九九年)『によれば、ゲーテは科学者として学名 Ginkgo biloba を正しく認識していたが、詩人として Gingo という語を創作して付けたという』。『種小名の biloba はラテン語による造語で、「』二『つの裂片(two lobes)」の意味であり、葉が大きく』二『浅裂することに由っている』。『英語では "maidenhair tree" ともいう。"maidenhair" は通常はホウライシダ属 Adiantumのシダ(= maidenhair fern )を指し、英語の"maiden" には「処女(名詞)」または「処女の(形容詞)」の意味がある。maidenhair tree という語は maidenhair fern によく似ているためであるとされる。語源はよく議論されてこなかったが、葉がよく似たホウライシダを表す maidenhairとともに、陰毛が形作る三角形から名付けられたと考えられている。「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる』。『ほかにも fossil treeJapanese silver apricotbaiguoyinhsingなどと呼ばれる』。『漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、祖父(公)が植えると』、『孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている。漢方(中国医学)では』「日用本草」にみられるように、「白果(びゃっか、はっか)」と呼ばれることが多い』。『本種は現生では少なくとも綱レベル以下全てで単型の種であるとされ、イチョウ綱 Ginkgoopsida・イチョウ目 Ginkgoales・イチョウ科 Ginkgoaceae・イチョウ属 Ginkgo に属する唯一の現生種である。門は維管束植物門 Tracheophytaとされるが、独立したイチョウ植物門 Ginkgophyta(あるいは裸子植物門 Gymnospermae)に置かれることもある』。『イチョウ綱に置かれる。イチョウは雄性配偶子として自由運動可能な精子を作るが、これはソテツと共通である。そのため』、『ソテツ類とイチョウ類を合わせてソテツ類(ソテツ綱』(Cycadopsida)『)とすることもあった。また』一八九六『年の「精子の発見」以前は球果植物(マツ綱)』(Pinopsida)『のイチイ科』(Taxaceae)『に置かれていた』。『元来』、『裸子植物は(化石種を含め)種子植物から被子植物を除いた側系統群と定義された』ため、『側系統群を認めない立場から裸子植物門は解体されて』四『植物門に分類され、イチョウ植物門は現生種としてはイチョウのみの単型の門となった』。『裸子植物の』四『分類群は形態的には大きくかけ離れ、被子植物の側系統群と定義された為、単系統性は明らかでなかったが、Hasebe et al. (1992) による分子系統解析の結果、現生裸子植物と現生被子植物はそれぞれ単系統群であることが分かり、現在これはChaw et al. (2000)など』、『ほとんどの研究で支持されている。そこで単系統群としての裸子植物が再び置かれる事になる。これまで裸子植物を分類群として建てる場合は門の階級に置かれ裸子植物門 Gymnospermae とされてきたが、近年では門として』、『より上位の分類群である維管束植物門 Tracheophyta を立て、その下に小葉植物亜門 Lycophytina と大葉植物亜門(真葉植物亜門)Euphyllophytina を置くことがあり、裸子植物はその下位分類となる。この場合イチョウ類は大葉植物亜門の中の(裸子植物の一綱)イチョウ綱 Ginkgopsida とされる。イチョウ綱はソテツ綱と姉妹群をなし、ペルム紀に分岐したと考えられている』。『イチョウ綱にはイチョウ目 Ginkgoales 』一『目、イチョウ科 Ginkgoaceae 』一『科のみが属しているが、これはペルム紀から中生代に繁栄した植物群である。いずれも現生では本種のみが属する』。

以下に長谷部氏(二〇二〇)年によるイチョウ類より上位の系統樹が示されてあるので、見られたい。

以下、「下位分類」の項。『現生はGinkgo biloba 』一『種のみしか知られていないが、変異が見られ、下位分類群として』九十四『品種が知られている。代表的な変種または品種は以下のものである。食用の銀杏の品種は種子の節を参照』。

●キレハイチョウ Ginkgo biloba var. aciniata (『「切れ葉」の意』)

●フイリイチョウ Ginkgo biloba var. variegata(『「斑入り」の意。葉に黄白色の斑が入るもの』)

●オハツキイチョウGinkgo biloba var. epiphylla(『「お葉付き」の意。葉に種子が付くもの。epiphylla は葉上生の意である』)

●シダレイチョウ Ginkgo biloba var. pendula (『「枝垂れ」の意』)

●ラッパイチョウ Ginkgo biloba cv. tubifolia (『ラッパのような筒状の葉を付けるもの』)

『本格的な木本性の植物であり、樹高』二十~三十メートル、『幹直径』二メートル『の落葉高木となる。大きいものは樹高』四十~四十五メートル、『直径』四~五メートル『に達する。茎は真正中心柱をもち、形成層の活動は活発で、発達した二次木部を形成する。多数の太い枝を箒状に出し、長大な卵形の樹冠を形成する。概ね円錐形の樹形となるが、枝振りが乱れるものもある。樹形は単幹だけでなく』、『株立ちのこともある』。『樹皮はコルク質がやや発達して柔らかく、淡黄褐色で粗面。若い樹皮は褐色から灰褐色で、縦に長い網目状であるが、成長とともに縦方向に裂けてコルク層が厚く発達する。枝には長枝と短枝があり、どちらも無毛である。長枝は節や葉の間隔が離れているのに対し、短枝では節間が短く込み入っており』、一『年に数枚しか葉を付けない。長枝は無毛でややジグザグ状になる。冬芽は半球形や円錐形で』、五~六『枚の芽鱗に覆われる。雄花、雌花の冬芽は短枝につく。葉痕は半円形で、維管束痕が』二『個つく。短枝は葉が複数束生するため、葉痕が輪生状に並ぶ。春の芽生えは、短枝から数枚の葉が出て、のちに花が出てくる』。『葉は単葉で、葉身は扇形で長い葉柄を持つ(長柄)。葉柄は』三~八センチメートル、『葉身長』四~八センチメートル、『葉幅は』五~十センチメートル。『葉脈は原始的な平行脈を持ち、二又分枝して付け根から先端まで伸びる。中央脈はなく、多数の脈が基部から開出し葉縁に達する。このように葉脈が二又に分かれ、網目を作らない脈系を二又脈系(ふたまたみゃくけい、dichotomous system)と呼ぶ。葉の上端は不規則の波状縁となり、基本的に葉の中央部は浅裂となるが、切れ込みの入らないものや、深裂となるものもあり、栽培品種では差異が大きい。葉の形が同じように見えるものでも、葉の幅、広がり角度、切れ込みの数や深さ、葉柄の長さなど、同じものは二つとないといわれる。若いものや』、『徒長枝』(とちょうし:伸びたままの勢いの強い枝のこと)『ほど』、『切れ込みがよく入り、複数の切れ込みがあるものもある。剪定されていない老木では切れ込みのない葉が多い。葉脚は楔形。雌雄異株であり、葉の輪郭で雌雄を判別できるという俗説があるが、実際には生殖器の観察が必要である。葉は表裏ともに無毛。葉の付き方は長枝上では螺旋状に互生し、短枝上では束生である。また、秋になると比較的温度に関係なく、暖地でも落葉前の葉は鮮やかな黄色に黄葉する。地上に落ちてからも、落ち葉は』、『しばらくのあいだ』、『色を失わないため、黄色の絨毯を敷いたような情景を見ることができる。落葉した後、翌春には古い枝から再び』、『葉が芽吹くように見えるが、実際は葉柄が付くのに必要な長さ』一ミリメートル『程度の短い枝が新しくでき、そこに新葉が付く』。『ラッパのような筒状の葉を付けるラッパイチョウなどの変異も見られる。また、葉の縁に不完全に発達した雄性胞子嚢(葯)または襟付きの胚珠(および種子)が生じる変種をオハツキイチョウ Ginkgo biloba var. epiphylla 』『と呼び、本種の系統を示す重要な形質だと考えられている。天然記念物に指定されているものもあるが、あまり珍しくない。矢頭』(一九六四年)『では変種として区別する必要がないとしている。また、オハツキイチョウでは雌性胞子嚢穂に』二『つ以上の胚珠が形成され、イチョウの化石種に似ているが』、『その理由も不明である』。『樹木としては長寿で、各地に幹周が』十メートル『を超えるような巨木が点在している。老木になると』、『幹や大枝から円錐形の気根状突起を生じることがあり、これをイチョウの乳と呼ぶ。これは「乳根」や「乳頭」、「乳柱」ともよばれる。若木のうちから乳を作る個体は、チチイチョウ(乳銀杏)と呼ばれ、古来、日本各地で』、『安産や子育ての信仰対象とされてきた。造園ではチチノキとも呼ばれる。この乳は不定芽や発育を妨げられた短枝、あるいはそれから発育した潜伏芽に由来し、内部の構造は材とは違って柔らかい細胞からなり、多量の澱粉を貯蔵している。イチョウの乳は解剖学的研究から維管束形成層が過剰成長することで形成されることが分かってきたが、その機能と相同性は分かっていない』。『雌雄異株』で、『花期は春(』四~五『月頃)で、花びらのない花(生殖器)が咲いた後、秋になると雌株にギンナン(銀杏)が実る』。『日本の関東地方など、北半球の温帯では』、四~五『月に新芽が伸び』、『開花する。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。風媒花であり、雄性胞子嚢穂の花粉は風により』、『遠方まで飛散し、かなりの遠距離でも受粉可能である。まず』、『開花後』四『月に胚珠が露出した雌性胞子嚢穂に受粉した花粉は、胚珠端部に染み出た液とともに取り込まれて花粉室に』五『か月ほど保持され、その間に胚珠は直径約』二センチメートル『程度に肥大して、花粉から成長した透明な袋の中ではふつう』二『個の精子が作られる』。九~十『月頃、精子が成熟すると袋から放出され、花粉室から』一『個の精子のみが造卵器に泳いで入り、ここで受精が完了する。受精によって胚珠は成熟を開始し』、十~十一『月頃』、『種子は成熟して落果する』。『種子は、球形から広楕円形で、長さ 』一~二センチメートル『の石果様を呈する。種皮の外表皮は橙黄色で、軟化し』、『臭気を発する。内表皮は堅く、紡錘形で、長さ約 』一センチメートル『で黄白色である。普通は』二『稜あるが』、三『稜のものも少なくなく、子葉は』二『または』三『個』。一キログラム『当りの種子数は約』九百『個である。実生の発芽率は高い』。『本種の雌性生殖器官である雌性胞子嚢穂は、短枝の葉腋に形成され、二又に分かれ両先端に』一『個ずつ雌性胞子嚢(珠心)が形成されることで、胚珠柄 (peduncle)の先端に通常』二『個の胚珠が付く構造をしている』。『胚珠は柄の先端の「襟」と呼ばれる構造(退化した心皮?)に囲まれているが、ほぼむき出しの状態である。襟と呼ばれる隆起は葉の名残ではないかと考えられたこともあったが、葉の上に胚珠ができる突然変異体(オハツキイチョウ)では、葉の上にできた胚珠にも襟ができることから、葉の変形ではないのかもしれず、襟の相同性は謎である』。『胚珠は』一『枚の肉厚で円筒状の珠皮が珠心を包み込んでいて、珠皮は外から外表皮(銀杏の一番外側の皮になる)、肉質部(銀杏の臭い肉質部となる)、石層部構造(銀杏の堅い殻となる)、内表皮(銀杏の薄皮のうち外側の皮となる)からなる。珠皮は種子の形成に伴い』、『種皮となる。被子植物は内珠皮と外珠皮の』二『枚があるので、種皮も内種皮と外種皮の』二『枚あるのに対し、イチョウを含む裸子植物は珠皮が』一『枚なので、種皮も』一『枚である。銀杏は臭い肉質の部分と内側の硬い殻が印象的であるため、外種皮と内種皮と呼ぶ記述も見られるがこれは誤りである』。『本種の雌性配偶体や造卵器の形成過程はソテツに類似している。遊離核分裂による多核性段階を経て、細胞壁の発達した多細胞段階になる。胚珠の発生初期において、珠皮と雌性胞子嚢の間に隙間があるが、発生が進むにつれ両者は融合する。この間に、珠皮と雌性胞子嚢ともに細胞分裂と伸長を行い』、『大きくなるが、雌性胞子嚢の先端部分が伸び出し』、『しばらくすると先端部内側の細胞が崩壊し、花粉室と呼ばれるクレーター上の構造ができる。雌性胞子嚢の外側にある珠皮は先端部分が伸びて珠孔となる。雌性胞子嚢の中の雌性胞子は』四『月の受粉後、遊離核分裂を行い、その後』、『細胞質分裂によって数百細胞からなる雌性配偶体が形成される。雌性配偶体の細胞は分裂と伸長を繰り返し、雌性胞子嚢の花粉室側にまで拡がる一方、雌性胞子嚢は退縮して薄くなる。雌性配偶体上に通常』二『個の造卵器(』一『個から』五『個までの変異がある)が形成される。始原細胞は珠孔側の表皮細胞であり、並層分裂により』、『中央細胞と第一次頸細胞(第一次首細胞)ができ、それがすぐに垂直分裂をして』二『個の頸細胞(首細胞)となる。造卵器は頸細胞、腹溝細胞、卵細胞からなり、頸細胞が花粉室にむき出しとなる』。『雄性器官も短枝の葉腋上に雄性胞子嚢穂として形成される。雄性胞子葉は軸のみに退縮していて先端に』二『つの雄性胞子嚢を形成する。雄性胞子嚢穂は尾状花序様で、軸上に多数の付属体(雄蕊)が付き、各付属体は通常』、二『個の雄性胞子嚢(小胞子嚢、葯)を先端につける。雌性胞子嚢の中には』一『つの雌性胞子しか形成されなかったが、雄性胞子嚢の中では減数分裂によって数』千『個の雄性胞子が形成される。雄性胞子(小胞子母細胞)は雄性胞子嚢の中で分裂して』、一『つの雄原細胞(受精後分裂して』二『つの精子になる細胞)』、一『つの花粉管細胞』、二『つの配偶体細胞の合計』四『細胞からなる雄性配偶体となり、これが花粉である。小胞子嚢の中のが分裂し』、四『分子の小胞子(核相: n)をつくる』。『雄性配偶体はソテツに似ており、花粉散布時には生殖細胞、花粉管細胞』、二『個の前葉体細胞の』四『細胞性の構造をとる。花粉が風で胚珠まで運ばれると、珠孔にできた受粉滴に付着して胚珠の内部に運ばれる。生殖細胞は不稔細胞と精原細胞に分裂し、精原細胞はもう一度分裂し』、二『個の精子となる。花粉は分枝する花粉管を伸ばし、吸器として働く』。『裸子植物の雄性配偶子は花粉によって運ばれ、うちグネツム類』(裸子植物門グネツム綱 Gnetopsidaグネツム目グネツム科グネツム属 Gnetum:タイプ種グネモン Gnetum gnemon )『や球果植物では花粉粒から花粉管を伸ばして胚嚢まで有性配偶子が運ばれるが、本種及びソテツは花粉管から自由運動可能な精子が放出されて受精が行われる』。明治二八(一八九五)『年、帝国大学(現、東京大学)理科大学植物学教室の助手平瀬作五郎が、種子植物として初めて鞭毛をもって遊泳するイチョウの精子を発見した。平瀬は当時、ギンナンの内部にあった生物らしきものを寄生虫と考えたが、当時助教授であった池野成一郎に見せたところ、池野は精子であると直感したという。その後の観察で、精子が花粉管を出て動き回ることを確認し、平勢は』明治二十九年十月二十日『に発行された』『植物學雜誌』第』十『巻第』百十六『号に』「いてふノ精蟲ニ就テ」『という論文を発表した。裸子植物であるイチョウが被子植物と同じように胚珠(種子)を進化させながら、同時に雄性生殖細胞として原始的な精子を持つということは、進化的に見てシダ植物と種子植物の中間的な位置にあるということを示している。この業績は』一八六八『年の明治維新以降、欧米に学んで近代科学を発展させようとした黎明期において、世界に誇る研究として国際的にも高く評価された。後年、平瀬はこの功績によって学士院恩賜賞を授与されている。加藤』(一九九九年)『は、当時植物園教室は小石川植物園内にあり、身近にイチョウが植えられて研究材料として簡単に利用できる状態であったということが、この研究の一助となったとしている。精子の発見された樹は樹高』二十五メートル、『直径約』一・五メートル『の雌木であり、今日も小石川植物園に現存している』。『耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が』摂氏零度から二十度『の降水量』五百~二千ミリ『の地域に分布している。IUCNレッドリスト』一九九七『年版で希少種(Rare)に』、一九九八『年版で絶滅危惧(絶滅危惧Ⅱ類)に評価された』。『自生地は確認されていないが』、『中国原産とされる。中国でも』十『世紀』(五代から北宋相当)『以前に記録はなく、古い記録としては、欧陽脩が』「歐陽文忠公集」(一〇五四年)『に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが』、十一『世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている』。『その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、憶測や風説でしかないものも混じっている[。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため』、一二〇〇『年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている。行誉により』文安二(一四四五)年『年頃に書かれた問答式の辞書』「壒囊鈔」には『深根輔仁』「本草和名」(延喜一四(九一四)年)『にも記述がないとある』。鎌倉幕府滅亡に近い至治三(一三二三)年、『当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船の海底遺物のなかからイチョウが発見されている』。正平二五・建徳元/応安三(一三七〇)『年頃に成立したとみられる』「異制庭訓往來」『が文字資料としては最古と考えられる。そのため』、一三〇〇『年代に貿易船により』、『輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる。南北朝時代の近衛道嗣の日記』「愚管記」(天授七・弘和元年/ 康暦三・永徳元(一三八一)年)『には銀杏の木について、室町時代の国語辞書』「下學集」(嘉吉四・文安元(一四四四)年)にも樹木として記載がある。また』、十五『世紀の』「新撰類聚往來」『 には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し』、一五〇〇『年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる』。『幹周』八メートル『以上の巨樹イチョウの日本列島における分布は、東日本』八十九『本(雄株』八十一『・雌株』八『)、中部日本』二十一『本(雄株』十五『・雌株』六『)、西日本』五十『本(雄株

』二十四『・雌株』二十六『)となっている』。『ヨーロッパには』一六九二『年、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から始まり、オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園で栽培され、開花したという』。一七三〇『年ごろには生樹がヨーロッパに導入され』十八『世紀にはドイツをはじめ』、『ヨーロッパ各地での植栽が進み』、一八一五『年にはゲーテが』「銀杏の葉」(‘ Gingo biloba ’)と名付けた恋愛詩を記している』。『木材としての利用はあまり知られていないが、火や大気汚染に強く、病害虫にも強い特性を持っていることから、街路樹、寺院や神社、学校などの植栽樹として重用されている。長寿で、寺社には樹齢が数百年以上といわれるイチョウの大木があるところもある。種子の仁であるギンナン(銀杏)は、秋の味覚として食べられている』。『木材としての知名度は低い。組織は針葉樹のものと似ている。材は黄白色で、心材と辺材の色の差はほとんどない。早材と晩材の差が少ないため、年輪ははっきりとせず』、『広葉樹材のようであり、材は緻密で均一、柔らかいため』、『加工性に優れる。肌目は精で、木理は通直で、反曲折裂および収縮が少なく、歪みが出にくい良材である。木材の中に異形細胞をもち、その中に金平糖型のシュウ酸カルシウムを含む。気乾比重は』〇・五五『で、やや軽軟で、耐久性は低い。器具・建具・家具・彫刻、カウンターの天板・構造材・造作材・水廻りなど』、『広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされる。ただし、カヤ』(榧:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ(一位)科カヤ属カヤ Torreya nucifera )『に比べ』、『音が良くないため評価は低い。その他、古くは鶏屋のまな板に好まれた。用材はほかに和服の裁ち板としても使われる』。『土地を選ばず生育し、萌芽力がさかんで、病虫害が少なく、強い剪定にも耐えるため、庭園樹、公園樹、街路樹、防風樹、防火樹などとして植栽される。日本では庭園や公園に植栽されたり、寺社の境内にも多く植えられるが、大規模な造林地になっているものはない。古い社寺の境内には樹齢数百年を経たと称される「大銀杏」が多くみられる。外国の植物園でもよく見られる。盆栽にも利用される。盆栽は実生または挿し木によって作られる。チチイチョウはよく盆栽につくられる。高木になるため庭木としての利用は少ないが、成長が遅いチチイチョウは庭木としても用いられる』。『また、樹皮が厚く、コルク質で気泡があるため、耐火力に優れているとみなされ、防火植林に用いられる。江戸時代の火除け地に多く植えられた。大正時代の関東大震災の際には延焼を防いだ例もあったため、防災を兼ねて次項で記載する街路樹にイチョウが多く植えられるようになったという。これを提案したのは造園家の長岡安平であった』。『病害や虫害がほとんどなく、黄葉時の美しさと、大気汚染や剪定、火災に強いという特性から、街路樹としても利用される。黄葉したイチョウはいちょうもみじ(銀杏黄葉)と呼ばれ、並木道などは秋の風物詩となる』。二〇〇七『年の国土交通省の調査によれば、街路樹として』五十七『万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京都の明治神宮外苑や、大阪市御堂筋の街路樹などが、銀杏並木として知られている。大阪を代表する御堂筋のイチョウ並木は』一九六六『年時点で樹齢約』五十『年』、八百六十七『(うち雌株』百十一『本)あった。雌株では秋期に落下した種子(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある。移植は容易で、大木であっても移植することができる』。以下、「著名なイチョウの木」の項があるが、カットする。

以下、「食用」の項。『イチョウの葉や種子は古くから薬用に利用され、中国の』「神農本草經」や「本草綱目」に遡る。アメリカの衛生センターによると、健康な一般成人では、イチョウは適切な量(』一、二『粒程度)であれば食用として安全である』するが、『しかし』、『生もしくは加熱したイチョウ種子は、有毒であり』、『深刻な副作用を起こす可能性がある。一般的には日本では、大人』一『日』十『個まで、子ども』一『日』五『個までを目安とされている』。『イチョウの種子は、銀杏(ぎんなん)といい、硬い種皮の内表皮(殻)の中に含まれる胚乳(さね、核、仁)が食用となる。実と説明されることもあるが、果実ではない。これを食用とするのは日本や中国など、東アジアにおける習慣である。これは中国の本草学図書である』南宋の「紹興本草」(一一五九年)『にも記載される。薬用(漢方)として利用されていたことが、明代の龔廷賢』(ぎょうていけん)が一五八一『年に著した』「萬病回春」に『記されている。鎮咳作用があるとされる』。『仁は直径』一センチメートル『程度の紡錘形で、新鮮な状態では光合成色素のクロロフィルの存在により緑色を呈するが、収穫後は殻付きで保存しても常温に置くと短期間のうちに黄色に褪色化する。加熱により半透明の鮮やかな緑色になるが、加熱を続けると微酸性である死んだ細胞の内容物との作用でクロロフィルのマグネシウムがはずれ、黄褐色のフェオフィチン』(Pheophytin)『となる』。『食材としての旬の時期は秋』九~十一月『で、雌株の下に落ちているイチョウの実(正確には種子)を拾ったら、周囲の外種皮部分を取り除き、よく洗って乾燥させる。旬に先走って収穫される「走り」のぎんなんは、翡翠に似た鮮やかな緑色を呈し、やわらかく匂いも少ないことから通常の時期に収穫されるものより』、『高級とされる。茶碗蒸しやおこわなどの具に使われたり、煮物や鍋物、揚げ物、炒め物など広汎な料理に用いられ、酒の肴としても用いられる。和食料理のあしらいとして欠かせない食材で、殻は割り、渋皮は弱火で炒るか、ゆでるときれいにむける。韓国では、露店でも炒った銀杏を販売している。加工品としては砂糖漬やオリーブ油漬、水煮などの瓶詰や缶詰が売られている。ただし、独特の苦味および種皮の外表皮には悪臭がある。秋の食材だが、加熱して真空パック詰めにした商品は年中』、『手に入る。銀杏を保存するときは殻付きのままビンや袋に入れて、冷蔵しておけば数か月は保存できる』。『栄養素としてデンプンが豊富に含まれ、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。ほかにもレシチンやエルゴステリン、パントテン酸、カリウム、カロテン、ビタミンC、ビタミンB1も含有している。銀杏の食用部分にはメチルピリドキシン』(4-O-methylpyridoxine=ギンコトキシン(Ginkgotoxin)=C9H13O3N:癲癇発作を誘発し得る物質である)『という成分が含まれていて、大量に食べると、まれに食中毒による痙攣を引き起こすこともある。このため、銀杏を食べ過ぎないことと』、五『歳以下の幼児には食べさせないように注意喚起されている』。『銀杏は古くは米の凶作時の備蓄食糧に使われたといわれており、今日では日本全土で生産されているが、特に愛知県稲沢市(旧:中島郡祖父江町)は銀杏の生産量日本一である。ぎんなん採取を目的としたイチョウの栽培は』、天保一一(一八四一)年『祖父江町に富田栄左衛門がのちの「久寿(久治)」となるイチョウ苗を植えたことに始まるとされる。愛知県ではぎんなん収穫用に畑で低く仕立てられ、栽培される。佐賀県でも嬉野市の塩田町でウンシュウミカンからの転作としてよく栽培される。ぎんなんの収穫・流通を目的とした栽培品種があり、大粒晩生の「藤九郎」、大粒中生の「久寿(久治)」(くじゅ)、大粒早生の「喜平」、中粒早生の「金兵衛」(きんべえ)、中粒中生の「栄神」などが主なものとして挙げられる。「藤九郎」は岐阜県瑞穂市(旧穂積町)、「久寿(久治)」「金兵衛」「栄神(栄信)」は愛知県稲沢市(旧祖父江町)、「長瀬」は愛知県海部郡発祥の品種である』。『イチョウの種子が熟すと』、『肉質化した種皮の外表皮が異臭を放ち、素手で直接触れるとかぶれやすい。異臭の主成分は下記の皮膚炎の原因となるギンコール酸』(Ginkgolic acid)『である。異臭によりニホンザル、ネズミなどの動物は食べようとしないが、アライグマは食べると言われている。この外表皮を塗ると』、『黒子が取れるとする薬効が』南宋の王継先「昭興本草」(紹興二九(一一五九)年刊)『にある』。『イチョウの種子は皮膚炎及び食中毒を起こすことが知られている』。明の一三七九年の「種樹書」『にはすでに銀杏に毒性のあることが記載されている。銀杏中毒になる危険性があるため、日本では「歳の数以上は食べてはいけない」という言い伝えがある』。『種皮の外表皮には乳白色の乳液があり、それにはアレルギー性皮膚炎を誘発するギンコールやビロボールといったギンコール酸(ギンゴール酸)と呼ばれるアルキルフェノール類の脱炭酸化合物を含んでいる。これはウルシのウルシオールと類似し、かぶれなどの皮膚炎を引き起こす。イチョウの乾葉は、シミなどに対する防虫剤として用いられる。これは、ギンコール・ギンコール酸が葉にも含まれているからである』。

以下、「食中毒(銀杏中毒)」の項。『食用とする種子にはビタミンB6の類縁体4'-O-メチルピリドキシン (4'-O-methylpyridoxine, MPN) が含まれているが、これはビタミンB6に拮抗して(抗ビタミンB6作用)ビタミンB6欠乏となり』、『GABA』(γ-アミノ酪酸(ガンマ-アミノらくさんgamma-Aminobutyric acid:抑制性の神経伝達物質として機能している物質)の生合成を阻害し、まれに痙攣などを引き起こす。銀杏の大量摂取により中毒を発症するのは小児に多く、成人では少ない。大人の場合かなりの数を摂取しなければ問題はないが、『一日』五~六『粒程度でも中毒になることがあり、特に報告数の』七十『%程度が』五『歳未満の小児である。小児では』七『個以上、大人では』四十『個以上の摂取で発症するとされる』。『太平洋戦争前後などの食糧難の時代に中毒報告が多く、大量に摂取したために死に至った例もある』一九六〇『年代以降』、『銀杏中毒は減少に転じ』、一九七〇『年代以降』、『死亡例はない。上記の通り』、『ビタミンB6欠乏により中毒が起こるため、食糧事情の改善に伴う栄養状態の改善により減少したと考えられている』。『症状は主に下痢、嘔気、嘔吐等の消化器症状および縮瞳、眩暈、痙攣や振戦等の中枢神経症状で、加えて不整脈や発熱、呼吸促拍等の症状も報告されている』。『アルキルフェノール類であるギンコール酸は葉にも含まれる。ギンコール酸はヒトの癌細胞に対する増殖抑制作用が知られている』。『イチョウ葉エキスの生理作用は主に抗酸化作用と血液凝固抑制作用、神経保護作用、抗炎症作用であり、その他、血液循環改善作用、血圧上昇抑制作用、血糖上昇抑制作用の報告もある』。『また、イチョウ葉エキスの中のギンコライドBは特異的な血小板活性化因子の阻害物質ということが確認され、脳梗塞や動脈硬化の予防の効果が期待されている』。『中国では古くから薬用に用いられていたが、イチョウ葉エキスが現代医学において効果があると示されたのは』一九六〇『年代、ドイツの製薬会社で開発されたイチョウ葉エキスが脳や末梢の血流改善に使用されたことに端を発する。ただし』、『中国でもイチョウ葉を薬用とするようになったのはおそらく漢朝以降であると考えられている』。「本草品彙精要」(明・清代を通じて、中国の王朝が作成した唯一の貴重な勅撰本草書。最初は明の一五〇五年成立)『には』、『胸悶心痛や激しい動悸、痰喘咳嗽、水様の下痢、白帯を治すとある』。『EGb761というイチョウ葉エキスを用いた臨床試験において、記憶力衰退の改善、認知症の改善、眩暈や耳鳴り、頭痛など脳機能障害の改善、不安感の解消などの有効性が報告されている』。『しかし、イチョウ葉エキスの効果に関する信頼性の高い研究はほとんどない。アメリカ国立補完統合衛生センター(NCCIH)はイチョウ葉エキスの効果に対して否定的な態度を示しており、「イチョウがさまざまな健康上の問題に関して、有用であるという決定的な科学的証拠は存在しない」「認知症もしくは認知機能低下の予防や緩和、高血圧、耳鳴り、多発性硬化症、季節性情動障害、および心臓発作や脳卒中のリスクに対しては、イチョウは有用ではないことが、示唆されている」と述べている。これは、NCCIHによって行われた大規模なRCT実験(被験者』三千『人)を含む研究に基づいている』。『日本と欧米では製造方法が異なり、日本では健康食品として使用されるため食品衛生法の規制により、エタノール抽出が行われるが、欧米ではアセトン抽出が行われている。欧米のアセトン抽出によるイチョウ葉エキスはEGb761というコードネームがつけられ、この薬理学研究は多数行われている。イチョウ葉エキスで特定されている成分は、含量がエキス全体の半分にも満たないフラボノイドやテルペノイドなどであるため、フラボノイドやテルペノイドなどの含有量が同じであってもアセトン抽出品とエタノール抽出品が同等かどうかの判断はできない』。『雑誌などでイチョウ葉茶の作り方が掲載されることがあるが、イチョウ葉を集めてきて、自分で調製したお茶にはかなり多量のギンコール酸が含まれると予想され、推奨されない』。『日本では、イチョウ葉を素材とした健康食品は食品として流通しているが、医薬品として認可されておらず、食品であるため』、『効能を謳うことはできない。しかし、消費者に対し』、『過大な期待を抱かせたり、医薬品医療機器等法で問題となるような広告も散見される』。『国民生活センターのレポートによると、アレルギー物質であるギンコール酸、有効物質であるテルペノイド、フラボノイドの含有量には製法と原料由来の大きな差がみられる。また、「お茶として長時間煮詰めると、ドイツの医薬品規格以上のギンコール酸を摂取してしまう場合がある」とし、異常などが表れた場合は、すぐに利用を中止し医師へ相談するよう呼び掛けている』。『医薬品規格を満たすイチョウ葉エキスについては、適切に用いれば経口摂取でおそらく安全と評価されている』。二百四十ミリグラム『以上のイチョウ葉エキスの摂取や医薬品規格を満たさないものについては、安全性は明確になっていない。副作用として、胃腸障害、頭痛やめまい、動機、皮膚のアレルギー症状、血液凝固抑制薬(ワルファリンやアスピリン)との併用による出血の恐れが高まることなどが知られている。まれな副作用としては、スティーブンス・ジョンソン症候群』(Stevens-Johnson syndrome:皮膚や粘膜の過敏症であるが、当該ウィキを見るに、重症化すると、壊死や失明に至る重い疾患である)、『下痢、吐き気、筋弛緩、発疹、口内炎などが報告されている』。『イチョウ葉エキスには血液の抗凝固促進作用があり、アスピリンなど抗凝固作用を持つ薬との併用には注意を要する。インスリン分泌にも影響を及ぼすため、糖尿病患者が摂取する場合は医師と相談した方がよい。また、抗うつ剤や肝臓で代謝されやすい薬』『も相互作用が生じる可能性がある。原因は明らかでないものの、トラゾドンとイチョウ葉エキスを摂取した高齢のアルツハイマー病患者が、昏睡状態に陥った例も報告されている。利尿剤との併用により、高血圧を起こしたとの報告も』一『例ある』。

以下、「社会や文化とのかかわり」の項。『イチョウは日本では神社や寺院などに多く植栽され、全国的に、民家に植えるのはどちらかといえば』、『忌み嫌われる傾向にある』。『イチョウに関しては多くの伝承が伝わっている。「杖銀杏」とは、空海や親鸞、日蓮といった高僧・名僧が携えた杖を地面に刺したものが成長し、根を張り、枝葉を生じたというもので、東京都港区麻布善福寺の「善福寺のイチョウ」(国の天然記念物)、山梨県南巨摩郡身延町の「上沢寺のオハツキイチョウ」(国の天然記念物)などはその一例である。また、しばしば見かける「逆さ銀杏」とは枝葉が下を向いて生えることを称しており、「善福寺のイチョウ」「上沢寺のイチョウ」のほか、京都市下京区の「西本願寺の逆さイチョウ」(京都市天然記念物)などが有名であるが、それ以外にも全国各地に点在している』。『古いイチョウの樹に生じる気根にふれたり、気根を削って煎じたものを飲んだりすると乳の出がよくなるという「乳イチョウ」の古木も全国各地にみられる。川崎市の影向寺のイチョウや仙台市宮城野区の「苦竹のイチョウ(姥銀杏)」(宮城県天然記念物)、富山県氷見市の「上日寺のイチョウ」(国の天然記念物)、千葉県勝浦市の「高照寺の乳イチョウ」(千葉県天然記念物)が特に知られている。青森県西津軽郡深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」(国の天然記念物)は「垂乳根(たらちね)の公孫樹」とも呼ばれて崇敬されてきた樹で、母乳の不足する女性が青森県内はもとより』、『秋田県や北海道からも願掛けに訪れ、気根にお神酒と米を供えて祈る風習が』一九八〇『年代半ばまで続いていたといわれる。徳島県板野郡上板町の乳保神社のイチョウ(国の天然記念物)も「乳イチョウ」で、これは神社名の由来になった樹木であり、神木である。ここでは気根の先を白紙で結んでおくと病気平癒や乳の出がよくなるといった御利益があると信じられてきた』。『「子授け銀杏」には、東京都豊島区法明寺鬼子母神堂境内のイチョウが知られ、その木を女性が抱き、その葉や樹皮を肌につけると子宝が授かるという伝承がある』。『「泣き銀杏」には、千葉県市川市の弘法寺のイチョウが有名で、弘法寺』一『世日頂が養父富木常忍の勘当を受けて、この木の周りを泣きながら読経したという伝承に由来する。各地の「泣き銀杏」の伝承には、さまざまなタイプがある』。『明治年間、日比谷通りの拡幅工事が実施されてイチョウの木が伐採されようとしたとき、造園家の本多静六が「私の首をかける」として伐採に反対したのが、東京都千代田区の日比谷公園内にある「首かけイチョウ」である。日比谷公園は』、一九〇三『年に本多によって造園され、イチョウは』二十五『日かけてレールを用いて同地に移植された』。『イチョウは火災に強く、生命力が旺盛なところから「復興のシンボル」とされることがある。千代田区大手町の「震災イチョウ」は』大正一二(一九二三)『年の関東大震災にともなう周囲の火災から唯一焼失を免れた個体であり、栃木県宇都宮市の旭町の大いちょうも』昭和二〇(一九四五)『年の宇都宮空襲で被災し、いったんは焼け焦げたものの、翌春に芽吹いたものである』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「銀杏」([075-47b]以下)をパッチワークしたものである。

『「棟(せんだん)」の子(み)』日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata

である。

但し、中国では、漢方薬の基原植物としては、同属の、

トウセンダン  Melia toosendan

も挙げられてあるので(終りの方の注で後述する)、「本草綱目」の方では、そちらも挙げておく必要がある。先行する「楝」を見られたい。

『三稜《さんれう》あるを、「雄《をす》」と爲し、二稜あるを、「雌」と爲《なす》』この分類法は、真柳誠氏の「イチョウの出現と日本への伝来」(暫定的論文稿・引用不可)で、現在は疑問視されている、とある。

「陰虱《つびじらみ》」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis による、陰部のケジラミ症のこと。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 陰蝨」を見られたい。]

2025/02/01

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛食麪」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。直説話法の箇所に鍵括弧を添え、改行した。更に、後半の引用部前後を改行・改段落し、二重鍵括弧を施した。]

 

 「地藏佛食麪《ぢざうぶつ めんを くふ》」  有渡郡宇津乃谷村《うどのこほりうつのやむら》、西の麓、坂下にあり[やぶちゃん注:静岡県藤枝市岡部町岡部に「坂下地蔵堂」(グーグル・マップ・データ航空写真)として現存する。]。傳云《つたへていふ》、此地藏堂【聖德太子御作】は、一名鼻取地藏と云。往昔此本尊、此邊り、はい原村と云所に出《いで》て、人に代り、牛の鼻取せし故に然云《しかいへ》り。云云[やぶちゃん注:「藤枝市スポーツ文化観光部」の「街道・文化課」公式サイト内の「宇津ノ谷峠(藤枝側) 坂下地蔵堂 さかしたじぞうどう」があり(写真の銘板には『延命地蔵尊 坂下堂』とある)、『旧東海道宇津ノ谷峠越えの西の入口にある地蔵堂です。創建年は不明ですが、境内には寛文・元禄の年号が刻まれた燈籠があり、古くから峠を越す旅人の安全や村人の暮らしを守る存在として信仰されてきました。お地蔵様が、牛の鼻に付いた手綱を引いて歩かなくなってしまった牛を動かしたり、稲刈りをして困っていた百姓を手助けしたという伝説から「鼻取地蔵」や「稲刈地蔵」とも呼ばれています。祈願成就のお礼として鎌を奉納する風習があり、お堂の中には鎌や農具が残されています』とある。]。里人云。徃昔《わうじやく》修行の僧某、下野國《しもつけのくに》日光山に赳き、別野に至り食を乞ふ。彼山《かのやま》の例《ためし》として、其乞物《こふもの》を責與《せめあた》ふ。然るに彼僧、索麪《さうめん》を乞へり。衆《しゆ》擧《こぞり》て是を與ふるに、更に饜《あく》事なし。悉《ことごと》く是を盡《つく》し終《をは》る。故に責《せめ》の儀に及ばず、衆皆怪《あやし》む。時に彼僧曰《いはく》、

「我はこれ駿州宇都谷の麓に住《すむ》者也。かさねて衆、彼道を過《すぐれ》ば、必《かならず》我庵《わがいほり》を尋《たづぬ》べし。是をして後《のち》證《あかし》とせん」

と、持所《もつところ》の錫杖《しやくじやう》・半輪《はんりん》を割與《わりあた》へて歸れり。衆是を奇とし、不日《ふじつ》に玆《ここ》に來《きたり》て尋《たづぬ》るに庵なし。唯《ただ》延命地藏のみ立《たて》り。是を拜するに、彼持所《かのもつとこころ》の錫杖・半輪也。玆に於て益々怪《あやし》み、彼《か》の證として携《たづさ》へ來《きた》る所の半輸を出《いだ》して、これに合《あは》するに、分厘《ぶりん》も差《たが》ひなし。此時に至《いたり》て、僧は此地藏なるを知る。云云。彼半輪、今に本尊の御手《みて》にあり。今一《いつ》の半輪は日光山にあり。是よりして、索麪地藏共《とも》云也。里人《さとびと》祈願のため鎌を納《をさむ》るは、かの鼻取の緣《えん》に據れり、云云。

 「駿府巡見記」云。『宇津の谷宿の入口、石川忠左衞門と云《いふ》百姓あり。是より峠[やぶちゃん注:「宇津谷峠」。「ひなたGPS」の戦前の地図と国土地理院図の双方で確認出来る。後者では、『東海道宇津ノ谷峠越』となっている。]迄十町[やぶちゃん注:約一・〇九一キロメートル。]ほど登り、峠の地藏堂あり。堂は萱《かや》ふきにて、三間《さんげん》[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方也。地藏は弘法大師の作にして、二尺計りの坐像の石佛也。此地藏、古《いにしへ》より宇津の谷の百姓彥五郞と云者、支配する由《よし》。地藏の由來尋《たづぬ》るに詳《つまびらか》ならず。堂は、徃昔飛驒内匠《ひだのたくみ》の建《たつ》る所也。峠より二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]計り行《ゆき》、地藏堂少し上の方《かた》に、杭《くひ》あり、云云。』

 此《この》地藏成《なる》べし。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡宇津乃谷村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『宇津谷村』『うつのやむら』は、旧『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区宇津谷村』で『現在地名』を『静岡市宇津ノ谷』(うつのや:ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)で、『丸子(まりこ)宿の西に位置する。中世は宇津谷郷などと称された。東海道が通る。領主は手越(てごし)村と同じ。元禄郷帳では高一八石余。旧高旧領取調帳では幕府領』十八『石余。一里塚がある(宿村大概帳)。天正一八『(一五九〇)』『年』、『豊臣秀吉は小田原攻めの途中で当村の郷民から』、『勝栗と馬の沓を捧げられ、郷民に胴服と黄金を与えた』(「駿河志料」)とある。

「別野」「べつの」か。調べてみると、日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)別宮(飛び地)瀧尾神社の境内に、「別所跡」(べっしょあと)というのが、存在する。サイト「日光東照宮・御朱印」の「別所跡 滝尾神社」に「別所跡」の案内板の内容が電子化されている(引用出来ないようになっているので、各自で見られたい。地図有り)。この「別野」は「別所」と同義であるように思われる。そこに記されてある儀式「強飯式」(ごうはんしき)なるものについては、サイト「とちぎ旅ネット」の「強飯式(ごうはんしき)」のページがあり、「全国でも日光山だけの儀式」として、『強飯式(ごうはんしき)は、全国でも日光山だけに古くから伝わる独特な儀式で、古く奈良時代、勝道上人の日光開山の時に遡ります。日光山は神仏習合の霊山として開かれ、山伏の山岳修行が盛んになり、行者たちが山中のご本尊に供えたお供物を持ち帰り、里の人々に分かち与えたことが始まりとされています』。『その後、日光三社権現(本地は千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)から御供をいただく儀式へと発展し、江戸時代にほぼ現在の形になったといわれています』。『儀式全体は、「三天合行供(さんてんごうぎょうく)・採灯大護摩供(さいとうだいごまく)」「強飯頂戴の儀」「がらまき」のおおよそ』三『つの部分から成っています』。『まず、僧侶・山伏・頂戴人、約』二十『名の行列が法螺貝の響き渡る中、大護摩堂に入堂します。お堂の全ての扉が閉じられ、照明も全て消され、明かりは壇上に灯された一本のロウソクのみとなります。やがて、堂奥から「三天合行供」の読経の声が立ち上り、壇上には「採灯大護摩供」の赤々とした炎が上がり、堂内は神秘的な雰囲気で満たされます』。『この秘法が終わると、堂内が明るくなり、頂戴人が壇上に並び、いよいよ「強飯頂戴の儀」が始まります。式は「御神酒(ごじんしゅ)」「祈願文」「強飯」「菜膳」「金甲」「供養」の順で進みます。中でも、山伏姿の強飯僧が裃姿の頂戴人に三升もの山盛り飯を差し出して「』七十五『杯、残さず食べろ」と責め立てる儀式は見ものです。飯を強いられ、飯を頭上に乗せられた滑稽な頂戴人の姿は、参観者の笑いを誘います』。『この儀式を無事済ませた頂戴人たちが、儀式で授かった福徳を「自分だけのものとせず、他の人にも分けてあげる」という仏教の教えにのっとり、一般参拝者へ向けて一斉にまく「がらまき」で総仕上げ、めでたく強飯式は結びとなります』。『強飯頂戴人は、江戸時代には、十万石以上の大名でなければ勤めることができず、徳川将軍家の名代や全国の名だたる大名たちも「我が藩の名誉」として強飯頂戴人に名を連ねました。当時、日光山といえば天皇の皇子を「輪王寺の宮」として迎えた鎮護国家の道場として天下に知られ、大名といえども、おいそれとはこの儀式に参加できなかったからです。そうした伝統に従い、現代においても、頂戴人を十万石以上の大名の格式でお迎えしています』とある。

「駿府巡見記」著者不明で、元禄一六(一七〇三)年稿。国立国会図書館デジタルコレクションの『家藏日本地誌目錄』の「二篇・續篇」(高木利太編・昭和五(一九三〇)年刊)のここを見られたい。

 結構、注が面倒臭いものになったが、最後に、「まんが日本昔ばなし」公式サイト内の「そうめん地蔵」をリンクさせておくので、読まれたい。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (深夜に私はお前を堀る。寶よ。……) / 「巡禮の歌」~了

 

 

深夜に私はお前を堀る。寶よ。

私が見た總べての盈溢も、

まだ來ないお前の美に比べると、

貧しくまた見すぼらしい補足だ。

 

しかしお前にゆく路は恐しく遠く、

久しく通つた者もないので埋れてゐる。

ああお前は寂しい。お前こそ寂寥だ、

ああ遠い谷へゆく心よ。

 

堀るために血が出る兩手を

私は風の中に開きかかげる、

樹のやうに枝を出せよと。

私はその手でお前を空間から飮む、

丁度氣短かな身振をして

お前が彼處に碎け散つたかのやうに、

さうして今は塵のやうに碎けた世界が

遠い星からまた地の上に、

春雨の降るやうに軟く落ちるかのやうに。

 

[やぶちゃん注:二箇所の「堀る」はママ。

「盈溢」「えいいつ」。満ち溢れること。

「寂寥」「せきれう」(現代仮名遣「せきりょう」)。心が満ち足りず、もの寂しいこと。

「彼處」「かしこ」、或いは、「あそこ」。私は前者を採る。]

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