阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「神戱」
「神戱」 有渡郡石部村《うどのこほりいしべむら》に、天白明神【土神《うぶすな》也《なり》、別社を木玉明神《こだまみやうじん》と號す。】の社《やしろ》にあり。傳云。大崩《おほくづれ》を夜行《やぎやう》すれば、此神、戲《たはむれ》に磐石《ばんじやく》を落す音夥《おびただし》く、雷《かみなり》の如し。翌日見れば、聊事《いささか、こと》なし。云云。
[やぶちゃん注:「有渡郡石部村に、天白明神【土神也、別社を木玉明神と號す。】の社にあり」現行の静岡市駿河区石部地区には、「石部神社」がここにある(グーグル・マップ・データ)。しかし、かえる氏のブログ「かえるのうち」の「維新前の石部の神々、天白社と木魂社と白髭神社」に、『石部神社は、明治時代以前には天伯社と呼ばれていた。また、現在相殿になっている白髭神社や山神社は以前はそれぞれ別所に祀られていた。明治維新以前、石部神社と改称される前には、これらの社に祀られる神はどのような存在と考えられていたのだろうか。江戸時代後期の地誌にみられる伝説から想像してみた』と枕されて、『石部神社境内の説明板によると、石部神社は明治初年に現在の社名に改称される前は天伯社と呼ばれていた。その当時、現在』、『相殿となっている白髭神社と山神社は大崩山中に鎮座していた。これらが石部神社へ移されたのは昭和』五二(一九七七)年『のことで、山神社旧地は高草山系石部大ニヨウ、白髭神社旧地は大崩山腹コツサ沢だという』。『境内社の津島神社は来歴不詳だが、古い地誌には記載がないところをみると、比較的新しい時代に末社として迎え入れられたのかもしれない。津島神社だけが別の社殿を設けているところからもそのような印象を受けた』。『石部神社の前身である天伯社は、江戸時代後期の地誌』「駿河國新風土記」や「駿河志料」『などでは、天白社あるいは天白大明神などと紹介されている。その所在地は『駿河記』』(全三十七巻。駿河国地誌。編者桑原藤泰(号・黙斎)は島田宿の素封家。文化九(一八一二)年、駿府町奉行服部貞勝が、駿河国地誌の編纂を企図し、与力佐藤吉十郎をその掛りに充て、山梨稲川を総裁、駿府宝泰寺住職峻嶽を補佐とし、在野の学者等に郡ごとの担当を決めて調査執筆を委嘱、藤泰は志太郡の撰者を命じられた。地誌編纂は服部が松前奉行に転出し、また編纂を委嘱されていた六人の内、四人が途中で死亡したために実現されなかった。藤泰は、この計画より前の文化六年から、地誌の編纂を企てて、志太・益頭・有渡三郡を巡村、文化九年には大井川を遡行、志太郡境を踏査していたが、さらに撰者を命じられてからは、志太・益頭・有渡三郡を歴巡した。文化一〇年・同一二年に安倍郡を巡村し、文政元(一八一八)年には、庵原・富士・駿東の三郡を回って、前担当者の遺漏を補って草稿を完成させた。構成は首巻を国号総論として、国郡名・田租・駅伝路・式内社・国府・国司・城主の記述に当て、巻一以下が各村の地誌で、一村ごとに村名・行程・村高(寛永改高・新田高)・神社・寺院・旧家・城跡・山川・旧跡・産物などについて記述する。古典籍・古文書を引用し、現地での調査・聞取りを行って綿密な考証を加えている。凡例では、調査に際し、古文書の閲覧や聞取りが出来なかった苦労が披瀝されている。以上は平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)『では「在浜」、おそらく現在の石部神社と同じ場所かそれより少し海に近い位置に鎮座していたものと推測される』。『これら江戸時代の地誌によると、当時』、『石部には、天白、木魂、白髭の』三『社があったという。このうち』、『木魂社というのが山神社だったらしい。これを木玉大明神と紹介しているものもあり、木魂と書いてキムスビと読む神社も埼玉県秩父地方にあるが、石部の場合はおそらくコダマと読んだのだろう』(本文の読みは、この「かえる」氏の読みを採用させて戴いた)。『この木魂社を』、「駿國雜志」(私の底本である本書)『では天白明神の別社としている。この場合の別社とは、仏教寺院でいう別院のようなものだろう。また、前掲』「駿河記」『は所在地を「在大岩」としており、元は磐座を御神体としていたのかもしれない。もしそうだとしたら天白社とは山宮里宮のような関係だったのだろうか』とされておられる。これは、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、神社はなく、少し離れた東北直近に寺院の記号がある。しかし、当該場所をグーグル・マップ・データ航空写真と寺の記号箇所をストリートビューで見ても、反対に、寺院は、ない。「かえる」氏は以下、「白髭神社と滝と蛇」は直に読まれたいが、次の「戯れをする天伯の神」で、『今回参照した江戸時代の地誌はいずれも神社の祭神を記載していない。天白明神とか木魂明神というのが神名のようでもあるが、これらはどちらかといえば神社自体に対する尊称と考えたほうがよさそうだ。たとえば、日本武尊を祭神とする焼津神社がかつては入江大明神と呼ばれていたというような類だ』。『天白社で祀られていた神はどのような性質の神だったのだろうか。現在の石部神社の祭神は天照大神とされているが、これは天白社だった時代からそうだったのか』。「駿國雜志」『では天白明神について「土神也」としている。この土神の意味がはっきりしないのだが、あるいは当地周辺では地の神と呼ぶ屋敷神のような祭祀形態をとっていたのだろうか』。『しかし、この土神の天白明神の振る舞いがまた天照大神らしくない。大崩を夜に通行する者があると、戯れに大岩を落とすというのだ。雷のような音がとどろくが、翌日見れば何事もないという。これを題して「神戯」。江戸時代の人々には天白社の祭神について現代とは異なる考えがあった可能性を思わせる話だ』。『天白と呼ばれる神の起源は、江戸時代にはすでに不明瞭になっていたという。現在も天白を名乗る神社には石部と同じく天照大神を祭神とするところもあるが、それ以外にもさまざまな神の名がみられる。たとえば静岡県内では、磐田市池田の天白神社は猿田彦命が祭神だというし、浜松市天竜区横山町の天白神社の祭神は伊邪那岐と伊邪那美だそうだ。また、信州方面では天白神を星や天狗と関連付けているところもあるという』。「駿河志料」『では、駿河国内』十五『か所に祀られる天白社について、天一神と太白神を合わせて祀ったものとの説を論じている。この説の正否はおくとして、このような推考をせねばならなかったということは、結局のところ天白神を明確に説明するものは』、『それを祀る地元にも存在しなかったということだろう』。『石部の天白神は戯れに大岩を落とす、岩に祀られる別社があるなどという点からすると、この神は大崩海岸を形成するあのごつごつとした岩とこそ関わりが深いのではないかとも思われる。大崩は奇岩で知られたところでもあるが、それは石部から現在の焼津市小浜にかけての区間のことだった。石部はその名のとおり岩の辺の村だったのだ』と記しておられ、次の「大崩の天狗」では、『大崩といえば、天狗の怪談がきかれた場所でもある。たとえば』「駿河國新風土記」では、『大崩を夜歩くと天狗火を見たり山伏のような怪しのものに出会うなどという話が紹介されている。また、どういう由来があったか不明だが、天狗岩と呼ばれる大岩があったと』「駿國雜志」『にはある』。『新潟県に、天狗の石ころがしという音の怪現象が伝わっている。夜に山中にいると石が転がり落ちる音が聞こえるが、翌朝見ても何事もない。これは天狗の仕業とされた。同じく天狗が起こす音の怪に天狗倒しという木を切り倒す音が聞こえるものがあるが、これも岩が転がる音がする場合があったという』。『先に紹介した天白神の戯れは、この天狗の行いとよく似ている。大崩に棲む天狗のいたずらが神の仕業にされてしまったのか。あるいは、天白神を天狗の神とするところもあるくらいなのだから、石部の天白神にも天狗の面影があったのかもしれない』。『天狗というと、白髭神社の猿田彦命も気になる。この神は天狗のような容貌で、天狗の原型とされることもある。ついでにいうと、埼玉の木魂神社(きむすびじんじゃ)では天狗を祀っているらしい。なにか関係があるのだろうか……』。『とはいえ、白髭神社の祭神が江戸時代にも猿田彦命だったかどうかは不明であり、木魂神社にいたってはそもそも名前の読み方が違うのだから、天狗との関連付けは牽強付会以外のなにものでもない。だがしかし、なんとなく気になる存在ではある大崩の天狗』。『ところで、大崩が奇岩で知られていたといっても、現在では』、『その岩の大半が失われており、かつての姿は想像しづらいかもしれない。そういう場合は、静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーで「大崩」と検索すると、大崩海岸の古写真をいくつか見ることができる。女子高生の運動会の写真も見られるよ。小浜付近の浜が日傘をさしたお嬢さんで埋まっていたりするのだが、当時の運動会ってどういう行事だったのだろう。遠足的ななにかだったんだろうか』とある(リンクを張っておく)。さて、思うに、この合祀の過程には、明治の「廃仏毀釈」・「判然令」等の影響も考えられるようにも思われる。なお、以上の「天狗岩」は、本底本の「卷之二十八」の、ここにあるので、以下に視認して電子化しておく。
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「天狗岩」 益頭郡《ましづのこほり》當目村《たうめむら》、大崩の海岸にあり。「駿河染《するがぞめ》」云。『大崩の先に行《ゆけ》ば、海の中、磯際に十五間程續きし大岩あり。是に和布類多くとり付《つき》て、波のうつ每にゆられて、みゆるなど、又面白し。此岩までは、波の引くに付て、行《ゆき》かける人も有り。又それより山を登り、谷へ下りなどして行ば、天狗岩とて、同じやうなる岩二《ふたつ》有り。二ながら上に松生《はえ》たり。古《いにしへ》は天狗岩のある海邊を通りしに、いつの頃よりか、海と一つゞきに成《なり》て、今は通ふ人もなし。今も山の上よりは見ゆる也。云云。』
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この「駿河染」は、「駿河染名所記」で駿河地誌。刊行年未詳。江府小川住花枝自序と載せる。
「大崩《おほくづれ》」先の「ひなたGIS」の国土地理院図で判る通り、南西に下った急崖の岩礁海岸の名が「大崩海岸」である。前注の「天狗岩」(跡)を探してみたが、見当たらなかった。底本の時代に既に陸(砂地)と繋がってしまっていたとなると、先のリンクに、二つ、見られる、屹立する岩塊(山の裾の崖の先端部が崩落したような感じのもの)が、まずは、候補となろうかとは思うが。]
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