茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「第二卷」 「鏡の前の夫人」
鏡の前の夫人
寢酒の中の香料のやうに、
流れるやうに澄む鏡の中へそつと
夫人は疲れた容姿を溶かして
その微笑を全く入れる。
そして待つ、液體の上るのを。
それから髮の毛を鏡へ注ぎ、
驚くべき肩をば
夕暮の物著から出しながら、
靜に夫人は自分の姿を飮む。
愛する男が陶醉して飮むやうに、
疑惑に溢れて、試(ため)しながら。
そして鏡の底に、燭光や、
簞笥や、遲い時間の薄暗さを見ると
始めて夫人は侍女(こしもと)をさしまねく。
[やぶちゃん注:岩波文庫の校注には、後の本詩集の再版である「詩集」で「著物」『に訂正された』とあるが、「物著」(ものぎ)という語は「衣服を着(き)て、飾ること」の意があり、私は初読の際も、誤記・誤植のようには全く感じなかった。]
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