阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「櫻塚」
[やぶちゃん注:底本はここ。]
「櫻塚」 有渡郡上島村《うどのこおりかみじまむら》田間《たのあひだ》にあり。「風土記」云。有二豐炊禰乃陵一。云云。卽《すなはち》是か。或云。有度采女藪子の塚也。云云。今瘧《おこり》を煩ふ者、此塚に祈念す、必《かならず》愈ゆ。何の故を以て、瘧の病《やまひ》に驗《しるし》ある、其據《そのよりどころ》を知らず。
[やぶちゃん注:所持する岩波文庫「風土記」(武田祐吉編・一九三七年岩波文庫刊)には、見当たらない。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「古事類苑」(神宮司庁古事類苑出版事務所編・大正二(一九一三)年神宮司庁刊)の「地部四」の「地部九」の「駿河國」の「有度郡」に、
*
〔駿河國新風土記一〕郡名考
有渡郡 万葉集有度ニ作リ、風土記烏渡ニ作リ、和名抄延喜式有度ニ作リ、今有渡ト書ス、中古ヨリ同ジ、萬葉集二十有度郡牛麿ト云名アリ、コノ國人ナリ、風土記ニ、有度淸水、有度采女、藪子陵アリ、有度山アリ、中古ノ歌ニ有度濱トヨム、皆此ナリ、其有度テフ語意ハ、有ハ借字ニテ、ウウノ約リテウトナリ、度ハ所(ト)ノ意ニテ、植所(ウト)ノ義ナリ、植トハ稻苗ヲ植ル所ト云意ナリ、其有度ノ里トサス所、今ノ有東村成ベシ、
*
とあるのが、唯一の別記載である。ネットで検索しても、他には、記載を見ないため、「豐炊禰乃陵」、及び「有度采女藪子」の陵墓の主や、その「読み」さえも判らない(前者は「とよかしぎねのみささぎ」、後者は「うどのうねめやぶし」だろうか? こんなに全く不明なのも珍しい)。識者の御教授を乞うものである。
「有渡郡上島村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『上島村』『かみじまむら』として、『静岡県』、『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区上島村』で、『現在地名』を『静岡市中田(なかだ)一』~『四丁目・中田本町(なかだほんちょう)・馬渕(まぶち)三』~『四丁目・石田(いしだ)三丁目・稲川(いながわ)一丁目』とし、『稲川村の南に位置する』(「天保國繪圖」)。『村名は中島・下島・西島に対するもので、旧安倍(あべ)川の』支『流の間にある地形(島)に由来するとの説がある』(「修訂駿河國新風土記」)。『戦国期は上島郷と称された。永禄八』『(一五六五)』『年』十一『月七日の今川氏真判物(増善寺文書)によると、「上嶋郷」内の浮免二町などが増善(ぞうぜん)寺領として同寺の宗佐に安堵されている。元亀四』(一五七三)』年十『月』二十一『日の武田家朱印状(写、判物証文写)は神尾左近丞に上島のうち』、『六貫文を、天正二』『(一五七四)』年『三月』二十九『日の武田勝頼判物(写、土佐国蠧簡集残篇)は岡部長教に上島のうち』百三十九『貫文を与えている』とある。現在、冒頭に記されるそれは、静岡県静岡市駿河区中田で、「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。駿府城の南東の一帯に当たる。]
« 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (知る者よ、その廣い知識は……) | トップページ | 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (見よ、彼等を。彼等に何を比べよう。……) »