阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛好酒」
[やぶちゃん注:底本はここ。]
「面形有靈《めんがた れい あり》」 有渡郡北矢部村補陀洛山久能寺にあり。「駿州古蹟畧」云。『久能寺に春日《かすが》の作のあまの面あり。此面を拜《はい》すれば、災難を除く。又旱魃《かんばつ》の時此の面を出《いだ》せば、雨《あめ》降《ふり》、七月七日は、暫時出《いだ》して風《かぜ》をあつる也。云云。』爰《ここ》に春日とす、非也。是《これ》赤鶴《しやくつる》の作にして、淺間《せんげん》の神事に用《もちひ》る處也。わづか一木《いちぼく》を以て造る處の面形、かく奇妙を顯《あらは》す。實《げ》に作者の德と云《いふ》べし。
[やぶちゃん注:「あまの面」「日本国語大辞典」の『あま【案摩】 の 面(おもて)』に、『①舞楽の案摩の舞に用いる雑面(ぞうめん)という紙製の仮面。厚紙に目、鼻、口などを幾何学模様風に描いたもの』とし、飛んで、『③能楽に使う面。「尼の面」「天の面」などとも書く』とあり、初出実例として、「わらんべ草」一(万治三(一六六〇)年刊。第四代徳川家綱の治世)『又金春座には、〈略〉又尼〔天の字か〕の面一面あり。是は自レ天降(ふる)と云説あり。故に天(アマ)の面と名付也云々』とあった。後者のそれであろう。「あま」に「尼」の他に「天」を宛てるとあるから、「天」は「雨」の属性と一致するから、この久能寺の面の場合の「あま」は「天」であろう。現在の久能山東照宮の「あまの面」が現存するかどうかは、検索では、掛かってこない。
「春日」吉田秀夫氏のサイト内の「能面打ち」の「第二章 作家の研究」に、『(トリ作とも云)人皇三十四代推古天皇の御宇、百済国より仏工来』、『改名蔵部の登里と云、大和春日里に住す、故に春日と云う、凡千二百年余』とあり、さらに、『伝えに曰く 金剛家には』『春日作の翁面、不動面、宝生家には春日作翁面、淡海公作の翁面、金春家には聖徳太子作の天面、翁面三番神、及び弘法大師作の翁面あり と。けれ共是らは何れも取るに足らぬ附曽』(ママ。思うに「附會」か?)『の説である。聖徳太子は音楽の奨励者であったが為に、音楽と云うとすぐに、聖徳太子に因縁をつける癖がある。此弊が重なって、古面を聖徳太子作等と云うは、頗る当を得ない。古能の如きは神作を疑って、「聖徳太師、淡海公』、『弘法大師、春日』『右その類見ること稀なり、弁じ難し、適適見ることありといえ共信じ難し、但裏の様子凡作を雑れたるもの稀に有之、是ら真なるものか云々」』とある人物であろう。
「赤鶴」原題仮名遣「しゃくつる」。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中世の能面作家。生没年不詳。名は吉成、一透(刀)斎と号した。世阿弥の』「申樂談儀」(さるがくだんぎ)『によると、近江在住の作家で、鬼系の作面を得意としたようで、その活躍期は南北朝時代と考えられる。後世の伝書類は十作の一人に数え、能楽諸家の所持面中、おもな鬼面は』、『ほとんど彼の作にあてられている。そのため』、『真作を同定することは困難で、むしろ』、『行道面』(ぎょうどうめん:寺院での「練り供養」である行道に用いられる仮面。唐朝の風習を受けた平安以降の遺品があり、仏界の守護神が多い。東寺の十二天面が古く、そのほか八部衆面・二十八部衆面・浄土信仰の盛行に伴って行われた「来迎会」(らいごうえ)に用いられる菩薩面などが含まれる)『中の各種』の『鬼面から』、『能面の鬼系の諸タイプが成立してくる過程で、最も名をのこした作家と考えるべきであろう』とある。
「淺間《せんげん》の神事」富士山の霊を祀った浅間神社に関する神事であるが、元は、神道系ではなく、修験道によって行われた神事である。]
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