阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「軍神坊の奇」
[やぶちゃん注:やや長いので、一部に段落・改行を成形した。]
「軍神坊《ぐんしんばう》の奇」 有渡郡曲金村《うどのこほりまがりかねむら》「山神《やまがみ》の森」にあり。淺間《せんげん》・軍神・天王《てんわう》・稻荷・白髭《しらひげ》・金山《かなやま》の六坐を祭る處也。
傳云《つたへいふ》。
徃昔《わうじやく》、宮社《みややしろ》破壞の時、童部《わらはべ》集りて神像を取出し、御首《みぐし》に繩を付《つけ》、破履《はり》に載《のせ》て官道《くわんだう》を引廻《ひきまは》し、或は上に乘り步《ありき》て、牛馬の糞土《ふんど》に穢《けが》し奉る。
村老、是を見て、子供を叱り、神躰《しんたい》を淨めて社中《やしろうち》に納む。
時に彼《かの》老人、忽《たちまち》病《やまひ》を發し、自《みづか》ら口走りて云《いふ》、
「吾《われ》快《こころよ》く兒童と遊戯す。然るを、己《おのれ》是を妨《さまたげ》て窮屈の思《おもひ》をなさしむ」
と、甚《はなだ》怒《いか》れる顏色あり。
爰《ここ》に於て、一族《いちぞく》大《おほき》に驚き、神前に至り種々《しゆじゆ》詫《わび》奉る。病漸《やうや》く愈ゆ。
此後《こののち》、諸人《しよにん》軍神を尊信して、餘神《よのかみ》五坐いますを知らず、只《ただ》「軍神坊」と稱す。云云。
「風土記」云《いはく》、『有渡郡、眞壁《まかべ》、公穀《こうこく》六百束、假粟《かあは》二百丸《ぐわん》。眞弓《まゆみ》神社一坐。武甕槌神《たけみかづち》也。云云』。『眞壁は今の曲金村、眞弓の神は此軍神を云也。神體は木像にして、本社、拜殿共に西向《にしむき》に立《たた》せ玉ふ。此神兒童を愛し玉ふ故、今每年六月十八九兩日、花火をあげて祭事とするも、遊戯を好み玉ふに起《おこ》れり。云云』。
[やぶちゃん注:「有渡郡曲金村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『曲金村』『まがりかねむら』で立項し、『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区曲金村』、『現在地名』『静岡市曲金一』~『七丁目・曲金・春日(かすが)二丁目・小鹿(おしか)一』~『三丁目・豊田(とよだ)一』~『二丁目』とし、『小黒(おぐろ)村の東に位置し、北西部を東海道が通る。地名は「和名抄」にみえる有度(うど)郡真壁(まかべ)郷がマカネと転訛し、マガリカネとなったとする説がある(』「修訂駿河國新風土記」』)。『中世は曲金郷と称された。領主は手越(てごし)村と同じ』「元祿鄕帳」『では高一千』三百九十一『石余。旧高』は旧「領取調帳」『では』、『曲金村は幕府領一千』二十六『石余・久能山総御門番旗本榊原領一石余、龍泉(りゅうせん)寺除地二石余・法蔵(ほうぞう)寺除地三石余、曲金新田は幕府領』三百六十四『石余。享保一六』(一七三一)年『の』「駿府代官所村高帳」『に府中宿助郷とある。天保一二』(一八四一)年、『花野井有年』(はなのい ありとし 寛政一一(一七九九)年~慶応元(一八六六)年:江戸後期の医師で、江戸・大坂などで漢方・蘭方を学び、文政八(一八二五)年、郷里の駿府で開業した。後、皇国医方(日本固有の医術。「和方」とも呼ぶ)に転向した。著作に「医方正伝」「辛丑雜記」(しんちゅうざっき)などがある。以上は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)は「辛丑雜記」に『橫田をはずれて松原の右手に平澤道てふ立石あり、その所をたどりつつ軍陣』(「神」が正しい)『坊の森の前をうちすぎける』と記してある由の記載があった。当該地域を「ひなたGPS」で示す。駿府城の東方近い地区である。
「軍神坊」まず、間違いなく、現在の曲金二丁目に鎮座する「軍神社」(ぐんじんじゃ:(グーグル・マップ・データ)がその後裔である(ここに出る本来の鎮座していたとする「山神の森」と同一地であるかどうかは不明である。「徃昔、宮社破壞の時」とあり、また、ここは「八津山」の南東の麓ではあるが、南西直近に「八幡山」もあるからである)。「静岡観光おでかけガイド」の「日本武尊が東征の戦勝祈願をした伝説の地 軍神社」に詳しい。転載出来ないようになっているので、補正を加えつつ示すと、伝承によれば、日本武尊(やまとけるのみこと)が東征した際、この地で戦勝祈願したとあり、祭神は、孰れも軍神である、武甕槌命(かけみかずちのみこと)と、経津主命(ふつぬしのみこと:当該ウィキを見られたい)とする。延暦二〇(八〇一)年、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)平定をした記念に創建されたと伝承にある。徳川吉宗の治世であった寛保四(一七四四)年、この地の名主海野(うんの)氏(元は源平時代に信州で栄えた豪族。大坂城陥落後、海野久右衛門源忠宗がこの曲金北原の郷士となた)が社殿を再建したとある。天明年間(一七八一年から一七八九年まで:徳川家治・家斉の治世)に、ここに出る「花火」の由来が書かれてあり、駿府城代であった本多(ほんだ)氏が、この神社に花火を奉納したことから、現在も、八月一日の「夏祭り」の「打ち上げ花火」を上げる風習が残る、とある。
「淺間」「浅間(せんげん)信仰」は「富士浅間信仰」とも言い、富士山そのものを神と見立て、何らかの形で富士山を信仰・崇拝の対象とするもの。
「天王」祇園(ぎおん)信仰に同じ。牛頭天王(ごずでんのう)や素戔嗚尊(すさのうのみこと)に対する神仏習合の信仰。詳しくは、参照したウィキの「祇園信仰」を見られたい。
「白髭」白鬚神社・白髭神社・白髯神社は、主に猿田彦命(さるたひこのみこと)を祭神とする神社。ウィキの「白鬚神社(曖昧さ回避)」によれば、『総本宮は、滋賀県高島市の白鬚神社である。「ひげ」の漢字が』三『種類使い分けられており、なかには白髪神社と書く神社もある。ほとんどの場合、猿田彦命が祭神となっているが、「ひげ」に』、『どの字を使うかにかかわらず、まれに猿田彦命ではなく塩土老翁神(シオツチオジ)を祭神としている神社もある』とある。詳しくは、滋賀県高島市に鎮座する「白鬚神社」のリンクを見られたい。
「金山」金山神社(かなやまじんじゃ/きんざんじんじゃ)は、当該ウィキによれば、『日本各地に鎮座する神社。金山彦神・金山毘売神等、金属および鉱山とその関連業(鍛冶、鉱業、ほか)にまつわる神を祀るものが多い』とある。詳しくは、残したリンク先を読まれたい。
「破履」破れ壊れた草履。
「修訂駿河國新風土記」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記」第四・五輯(修訂・足立鍬太郎訂・新庄道雄著・昭和九(一九三四)年志豆波多会刊)の当該部を見られたい。ガリ版刷りであるが、非常に読み易い。本篇よりも、より詳しく書かれてあるので、是非、読まれたい。当該リンク先は、「ログインなしで閲覧可能」のものであるから、本登録されていなくても、視認出来る。]
« 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「西班牙の舞妓」 / 「新詩集」「第一卷」~了 | トップページ | 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「第二卷」 「アポロの考古學的トルソオ」 »