阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「姥か池」
[やぶちゃん注:底本はここから。引用書名・引用部その他の部分に括弧を施し、改行・改段落を行った。標題・本文の「姥か池」(うばがいけ)は総て、ママ。]
「姥か池」 有渡郡元追分村《もとおひわけむら》、海道の北松陰にあり。傳云。往昔《わうじやく》郡家某の乳母、嬰兒を抱《いだき》て此所《このところ》を過ぐ。時に兒咳《せき》甚《はなはだ》急也。其苦を見るに忍びず、乳母兒を地上に居置《ゐおき》て、池水を掬《きく》して與《あたへ》んとす。兒咳に堪《たへ》かね、池中に落入《おちいり》たり。乳母苦辛《くしん》して、共に池に入《いれ》て死せり。今、小兒咳の病《やまひ》あれば、此池に祈《いのり》、必《かならず》驗《しるし》あり、云云。
「甲陽軍艦」云。
『字《あざ》八原云云』、『卽《すなはち》此《ここ》にして姥原《うばはら》也。』。
「駿河染《するがぞめ》」云。
『姥か池、江尻の手前小吉田[やぶちゃん注:この地名は確認不能。「ひなたGPS」の戦前の地図では、「姥が池」の東直近に「吉川」という地名はある。]の先《さき》也。文祿二年[やぶちゃん注:一五九三年。「文禄の役」の翌年。]二月八日、龜屋九左衞門が妻、嫉妬にて此池に身を投《なげ》、今に靈魂殘れり。云云。』『或云。平川地村《ひらかはちむら》[やぶちゃん注:「ひなたGPS」の戦前の地図では、「姥が池」の南直近の東海道本線を跨いだところに「平川地」の地名を確認出来る。]の畑中にあり。方三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。現行の池はコンクリートで固められており、池は手前(鳥居が池の前にある)で計測しても、池自体は四メートル以下である。]計りの盆池[やぶちゃん注:「ぼんち」。庭などに作る小さな池。]也。其傍《かたはら》に松・榎の古木二株あり[やぶちゃん注:ストリートビューを見ると、エノキらしい木が池と弁天社の間にあるのが、確認出来る。]。文祿二年二月八日、龜氏の妻嫉妬深く、爰《ここ》に身を投《なげ》て空しくなる。人、「姥《うば》」とよべば涌上《わきあが》る、「姥甲斐なし」といへば、彌《いよいよ》高く浡潏《ぼつけつ》して泡を出《いだ》す。云云』。『姥池の由來云《いはく》、「延曆年中[やぶちゃん注:七八二年から八〇六年まで。桓武天皇の御世。]、江尻の側《そば》に、金谷長者《かなやちやうじや》といふ農民あり。家富榮《とみさか》ふ。神佛に祈《いのり》て男子を儲《まう》く。一歲、疳咳《かんせき》[やぶちゃん注:乳幼児の感染症・咳喘息・気管支喘息・慢性閉塞性肺疾患・肺炎等の疾患であろう。]流行《るかう》す時、此小兒も是を愁ふ。乳母歎《なげき》て、此地邊の地藏佛の石像に祈誓して、小兒の命に代り、入水《じゆすい》して死せり。是より小兒の病《やまひ》、とみに平快せり。今此池に祈て疳咳の難を免《まぬか》る者多きは、此緣なり。云云。」』
「遊方名所畧」云。
『駿河國姥池、手越ヨリ三里半東、狐崎《きつねざき》ノ南ニ有二姥原一、彼《か(に)》有二小池一、名《なづけ》テ曰二姥池ト一、池《いけ(の)》砌《みぎり》有二標榜《へうばう》ノ松二株一。昔シ江尻村某氏之妻、其性姦《よこしま》ニ乄而嫉妬甚深シ。不ㇾ堪三自制二其心一[やぶちゃん訓読:自(みづか)ら其の心を制するに堪へず。]、而遂ニ投二身ス此池ニ一[やぶちゃん注:(而(しか)して)此の池に投身す。]、其靈魂今在、往來ノ諸人臨二池邊一、呼二其名一、云ㇾ姥則自二池底一吹ㇾ泡、動スㇾ水ヲ、又「拙哉姥」ト、如ㇾ此呼ベバ、則又吹出、投身ノ時、百八代後陽成院御宇文祿二年八月八日也。云云。』
[やぶちゃん注:「姥か池」(うばがいけ)「有渡郡元追分村」平凡社『日本歴史地名大系』によれば、『元追分村(もとおいわけむら)』は、『静岡県』『清水市旧有渡郡地区元追分村』で、『現在地名』清水市元追分・追分一』~『三丁目・桜橋町(さくらばしちょう)など』とあり、『巴(ともえ)川支流の大沢(おおさわ)川下流部右岸に位置し、東は入江(いりえ)町、西は上野原(うえのはら)村。東海道が通り』、「宿村大概帳」『によれば』、『当村の往還五町余のうち家居三町ほどで、ほかは並木。江戸時代の領主の変遷は清水町に同じ。元禄郷帳では高』百六十二『石余』とある。同地区は、現在、静岡県静岡市清水区で、現在の清水区追分四丁目に「姥が池弁天様」が現存する(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルのここに池の画像があり(現行のものはかなり小さい。今は住宅地である)、また、由来解説板の画像(かなり老朽化しているが、辛うじて読める)もある。「ひなたGPS」の戦前の地図では、周囲は田圃である。
「江尻」は「ひなたGPS」を拡大すると、「姥が池」の東北部に「江尻町」が確認出来る。
「駿河染」(するがぞめ)は「駿河染名所記」で駿河地誌。刊行年未詳。『江府小川住花枝自序』と載せる。
「遊方名所畧」元禄一〇(一六九七)年刊。作者不詳。この引用の訓点は不全であるので、ここで、私が訓読文を試みておく。
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『駿河國、「姥池《うばいけ》」、手越《てごし》[やぶちゃん注:現在の静岡市駿河区手越(グーグル・マップ・データ)。]より三里半東、狐崎《きつねざき》[やぶちゃん注:静岡清水線の「狐ヶ崎駅」(グーグル・マップ・データ)がある。しかし、この附近から「姥が池」は、「南」ではなく、東北東である。不審。]の南に姥原《うばはら》有り。彼《か》≪に≫、小池、有り。名《なづけ》て「姥池」と曰ふ。池《いけ(の)》砌《みぎり》、標榜《へうばう》の松、二株、有り。昔し、江尻村某氏の妻、其の性、姦《よこしま》にして、嫉妬、甚《はなはだ》、深し。自《みづか》ら、其の心を制するに堪へず、而《しか》≪して≫、遂《つひ》に、此の池に投身す。其の靈魂、今≪も≫在り。往來の諸人《しよにん》、池邊《ちへん》に臨み、其の名を呼べば、姥、云《いはく》、則《すなはち、池底より、泡を吹き、水を動《うごか》す。又、「拙《つたなき》かな、姥。」と、此《かく》のごとく呼べば、則《すなはち》、又、吹出《ふきいだ》す。投身の時、百八代後陽成院御宇、文祿二年八月八日也。云云《うんぬん》。』。
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