阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「靈佛顯梢上」
[やぶちゃん注:底本はここから。鍵括弧類を追加し、やや長いので、段落を成形した。]
「靈佛顯梢上《れいぶつ こづえのうへに あらはる》」 有渡郡北矢部村補陀洛山《ふだらくさん》久能寺【眞言、京智積院末、寺領二百二十五石七斗。】にあり。傳云。當寺は舊久能山にあり。永祿十一年、武田信玄、今の所に移す、云云。
[やぶちゃん注:「永祿十一年」一五六八年。]
「風土記」云、
『有度山【又烏渡山】炊屋姬天皇之御宇、秦川勝之二男秦尊良之弟【或尊良之子】久能朝昏信ㇾ佛、願拜二千手觀音像一、連夢念二此事一、一老翁夢程示曰、「汝欲ㇾ拜二正身之觀音像一者、赴二薦河國有渡山一可ㇾ待二一浦之風至時一」。晨枕如ㇾ見二眞老翁一、忽進二杖履一、不ㇾ陪二家僕一、唯自己而赴ㇾ玆寄二身禽獸之栖穴一、專念二正身謁見之事一、松風改更、月落二潮海一之時、浦風陣々而成二寂寥之思一不ㇾ期着ㇾ睡、往時之老翁再來、「我是補陀落之僧也。今夜應二汝望一」【蟲喰脫落二十五行程歟】。云云。』。
[やぶちゃん注:自然流で推定訓読を試みる。一部に句読点・記号を変更・追加し、助詞を加え、さらに段落を成形した。
*
「風土記」云《いはく》、
『有度山【又、烏渡山《うどさん》。】炊屋姬天皇《かしきやひめのすめらぎ/かしきやひめのすめらみこと》の御宇、秦川勝《はたのかはかつ》の二男、秦尊良《はたのたかよし》の弟【或いは、尊良の子。】、久能の朝昏《てうこん》[やぶちゃん注:朝晩。]、佛《ほとけ》を信じ、願《ぐわん》して、千手觀音像を拜し、連《つらつら》、夢に、此の事を念《ねん》ず。一老翁、夢に程示《ていじ》して曰はく、
「汝《なんぢ》、正身《しやうしん》の觀音像を拜まんと欲《ほつ》さば、薦河國《するがのくに》有渡山に赴き、一浦《ひとうら》の風、至る時を待つべし。」
と。
晨枕《しんちん》[やぶちゃん注:早朝の枕辺。]、眞《まこと》の老翁を見るごとし。忽《たちまち》、杖履《じやうり》を進め、家僕を陪《とも》せず、唯《ただ》、自-己《おのれ》のみして、玆《ここ》に赴き、身《み》を禽獸の栖む穴に寄せ、專ら、正身謁見の事を念ず。松風《しようふう》、改更《かいかう》[やぶちゃん注:変わって良い状態になること。]、月、潮海《しほうみ》に落つるの時、浦風、陣々《ぢんぢん》として[やぶちゃん注:風が盛んに吹いて。]、寂寥《せきれう》[やぶちゃん注:ひっそりとして、もの寂しいさま。]の思ひを成し、期せずして、睡《ねむり》に着く。往時の老翁、再び來りて、
「我、是れ、補陀落の僧なり。今夜、汝が望みに應《おう》ずべし。」【蟲喰《むしくひ》の脫落、二十五行《ぎやう》程か。】。云云《うんぬん》。』。
*
「風土記」既出既注の正規の「風土記」ではない、怪しいもの。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記」(第九/十輯・三階屋仁右衛門道雄著・文政一三(一八三〇)年記・修訂足立鍬太郎訂・昭和九(一九三四)年志豆波多会刊・★謄写版★印刷)のここに、「秦氏」の記載があるので、見られたい。
「炊屋姬天皇」日本史上最初の女帝とされる推古天皇(在位:五九三年~六二八年)。
「秦川勝」秦河勝(生没年未詳)は、当該ウィキによれば、『秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる』。「上宮聖德法王帝說」『では「川勝秦公」と書かれる』とあった。
「秦尊良」前注のウィキには、『秦久能忠仁』(くのうただひと)『は河勝の孫にあたる』とある。「久能山東照宮」公式サイト内のこちらによれば、『久能山の歴史は『久能寺縁起』によると、推古天皇の御代』、『秦氏の久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し』、『補陀落山久能寺と称したことに始まります。久能山の名称もここから起こりました』とある。]
「駿河染」云、
『久能山を有渡山【有度山駒越、矢部、馬走、草薙、小鹿山の惣名也】共云。往昔久能【後皇子の諱に同し故に避て久乃と書す】と云人、此山に入て、狩し玉ふ時、杉の木立に光物あり、久能怪て射て落す。取上て見れば、閥浮檀金(えんぶだきん)の千手觀音の像也【丈五寸】。久能、則寺を建て安置す。其後聖武天皇の御宇、行基菩薩當山に入、千手の尊像を刻み、此佛を胎内に納。云云。』
[やぶちゃん注:同前で訓読する。
*
「駿河染」云《いはく》、
『久能山を有渡山【有度山は、駒越《こまごえ》・矢部《やべ》・馬走《まばせ》・草薙《くさなぎ》・小鹿山《おしかやま》の惣名なり。】とも云《いふ》。往昔、久能《くの》【後《のち》、皇子《みこ》の諱《いみな》に同《おな》し故《ゆゑ》に、避《さけ》て、「久乃《くの》」と書す。】と云《いふ》人、此《この》山に入《いり》て、狩し玉ふ時、杉の木立《こだち》に光物《ひかりもの》あり、久能、怪《あやしみ》て、射て、落す。取上《とりあげ》て見れば、閥浮檀金(えんぶだきん)の千手觀音の像なり【丈《たけ》、五寸。】。久能、則《すなはち》、寺を建《たて》て、安置す。其後《そののち》、聖武天皇の御宇、行基菩薩、當山に入《いり》、千手の尊像を刻み、此佛を胎内に納《をさむ》。云云。』
*]
「駿府案內記」云。
『補陀洛山妙音寺は、「元亨釋書微考」に曰、『昔久能と云し狩人の、此山に鹿を追《おひ》て入《いり》ぬ。奧山に至りて、正身の觀音を拜めり。それより發心修行して、此山に入り、觀音の像を安置す』云云。又云。此山に寺を建《たて》、彼《かの》像を安置して補陀落山妙音寺と名付く。云云。』
彼《かれ》といひ是《これ》といひ、共に奇ならずや。
[やぶちゃん注:「元亨釋書微考」天和二(一六八二)年刊。]
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