和漢三才圖會卷第八十七 山果類 銀杏
[やぶちゃん注:左下方の右にキャプションで「核」(さね)の二粒と、左に同じく「花莖」として、三本のそれが描かれてある。]
ぎんあん 白果 鴨脚子
いちえう 俗云一葉
銀杏
[やぶちゃん注:「いちえう」はママ。]
本綱銀杏原生江南樹髙二三𠀋葉薄縱理儼如鴨掌形
有刻缺靣綠背淡二月開花成簇青白色二更開花隨卽
卸落人罕見之一枝結子百十狀如棟子經霜乃熟爛去
肉取核爲果其核兩頭尖三稜爲雄二稜爲雌其仁嫩時
綠色久則黃須雌雄同種其樹相望乃結實或雌樹臨水
亦可或鑿一孔內雄木一塊泥之亦結陰陽相感之妙如
此其樹耐久肌理白膩術家取刻符印云能召使也
銀杏宋初始著名而修本草者不収近時方藥亦用之
銀杏【甘苦平濇】 入肺經益肺氣定喘嗽消毒治陰虱【嚼碎傅之】
多食壅氣動風小兒多食發驚引疳【同鰻鱺魚食患軟風】
△按銀杏𠙚𠙚皆有出於對州者良藝州者次之其葉刻
缺深者雄也不結實然三稜實爲雄二稜爲雌則雄亦
結實乎四月著花于莖頭其莖細長五七分其花淡青
色如椒粒無葩二顆一雙朝見樹下有落花莖
*
ぎんあん 白果《はくくわ》 鴨脚子《あふきやくし》
いちえう 俗、云ふ、「一葉《いちえふ》」。
銀杏
[やぶちゃん注:「いちえう」はママ。]
「本綱」に曰はく、『銀杏《ぎんきやう》、原(もと)、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]に生ず。樹の髙さ、二、三𠀋。葉、薄く、縱-理(たつすぢ)あり、儼《げん》に鴨《かも》の掌《てのひら》の形のごとし。刻缺《きざみかけ》、有《あり》て、靣《おもて》、綠《みど》りに、背《せ》、淡し。二月、花を開《ひらき》、簇《むらがり》を成《なし》、青白色。二更[やぶちゃん注:現在の午後九時、又は、午後十時から二時間を指す。「亥(ゐ)の刻」に同じ。]花を開《ひらく》≪も≫、隨《したがひ》て、卽《すなはち》、卸-落《おろしおつ》。≪さればこそ、≫人《ひと》、之《これ》≪を≫見ること、罕(まれ)なり。一枝《いつし》、子《み》を結ぶこと、百十狀《ひやくじふじやう》、「棟(せんだん)」の子(み)のごとし。霜を經(ふ)れば、乃《すなはち》、熟爛《じゆくらんす》。肉を去《さりて》、核《さね》を取《とり》て、果《くわ》と爲《なす》。其の核、兩頭、尖がり、三稜《さんれう》あるを、「雄《をす》」と爲し、二稜あるを、「雌」と爲《なす》。其《その》仁《にん》、嫩《わかやか》なる時、綠色、久《ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、黃なり。須《すべからく》、雌雄、同《おなじ》く種(う)ふべし。其《その》樹、相望《あひのぞみ》て、乃《すなはち》、實を結《むすぶ》。或≪いは≫、雌≪の≫樹、水に臨むも、亦、可なり。或いは、一孔を鑿《えぐ》り、雄木《をすぎ》を一塊《いつくわい》を內(い)れて、之れに泥《どろ》して、亦、結ぶ。陰陽相感の妙、此くのごとし。其の樹、久《ひさ》に耐ふ。肌-理《きめ》、白《しろく》膩《つややか》なり。術家《じゆつか》[やぶちゃん注:道士・方士の類い。]、取《とり》て、符印《ふいん》を刻《きざみ》て、云はく、「能《よ》く、≪鬼神を≫召-使《めしつかふ》なり。」≪と≫。
『銀杏、宋の初めに、始《はじめ》て、名を著《あらは》す。而《しかれど》も、本草を修《しゆ》す者、≪藥方に≫収《をさめず》、近時(ちかごろ)方藥にも亦、之《これを》用ふ。』≪と≫。
『銀杏【甘苦、平、濇《しぶし》。】 肺經に入り、肺氣を益し、喘嗽《ぜんがい》を定め、毒を消し、陰虱《つびじらみ》を治す【嚼《か》み碎《くだ》きて、之れを傅《つ》く。】。』≪と≫。『多《おほく》食へば、氣を壅《ふさ》ぎ、風《ふう》を動かす。小兒、多《おほく》食へば、驚《きやう/ひきつけ》を發し、疳《かん》を引く【鰻-鱺-魚《うなぎ》と同じく食へば、軟風《なんぷう》[やぶちゃん注:手足の麻痺。]を患ふ。】。』≪と≫。
△按ずるに、銀杏、𠙚𠙚、皆、有り。對州《つしう》[やぶちゃん注:対馬。]より出《いづ》る者、良し。藝州《げいしう/あきのくに》の者、之れに次ぐ。其の葉、刻缺《きざみかけ》、深き者は、「雄」なり。實を結ばず。然《しかれども》、三稜なる實を「雄《をす》」と爲し、二稜なるを「雌《めす》」と爲《なす》≪と≫云時《いふとき》は[やぶちゃん注:「云時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、雄≪も≫亦、實を結ぶか。四月、花を、莖の頭《かしら》に著《つ》く。其《その》莖《くき》、細く、長さ、五、七分。其《その》花、淡青色、椒(さんせう)の粒(つぶ)のごとし。葩(はなびら)、無く、二顆《くわ》一雙なり。朝、樹下を見れば、落花の莖、有り。
[やぶちゃん注:日中ともに、
裸子植物綱イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba
で、本邦では、漢字表記を「銀杏」「公孫樹」「鴨脚樹」とする。「維基百科」の同種によれば、中文名は「銀杏」、異名を「公孫樹」「鴨掌樹」「鴨腳樹」「鴨腳子」とし、種子を「白果」、葉を「蒲扇」とする。中国の食としての実の古代の呼称として「銀果」があり、現在の呼称として「白果」がある。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した。一部を指示せずに省略した箇所がある。なお、この学名についての歴史的記載は、特異的に詳細で、素晴らしい)。『日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また』、『寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用 としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)、ギンナン(銀杏)やギンナンノキと呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指すことが多い』。『街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり、特徴的な広葉を持っているが』、『広葉樹はなく、裸子植物ではあるが』、『針葉樹で』も『ない』。『世界で最古の現生樹種の一つである。イチョウ類は地史的にはペルム紀』(Permian period:約二億九千九百万年前から約二億五千百九十万年前まで(開始・終了時期にそれぞれ数百万年の誤差あり)に当たる「古生代」最後の地質時代の一つ)『に出現し、中生代(特にジュラ紀』(Jurassic period:約二億百三十万年前から約一億四千五百五十万年前までに当たる中生代の中心時代となる地質時代の一つ。所謂「恐竜の時代」である)『)まで全世界的に繁茂した。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世』(Oligocene:約三千四百万年前から約二千三百万年前までに当たる「古第三紀」の第三番目にして、最後の世である地質時代の一つ)『の山口県の大嶺炭田からバイエラ属 Baiera 、北海道からイチョウ属の Ginkgo adiantoides 』『などの化石が発見されている。しかし』、『新生代に入ると』、『各地で姿を消し』、『日本でも約』百『年前に』イチョウを除く他種が『絶滅したため、本種 Ginkgo biloba L. が唯一現存する種である。現在イチョウは、「生きている化石」として国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種(Endangered)に指定されている。原始植物としてのイチョウの受精メカニズムは特異で、シダ類やコケ類と同様に』、『動く精子が卵に向かって泳いでいき』、『受精する』。『種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは後述)』。『中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて鴨脚と呼ぶので、そこから転じたとする説がある。加納』(二〇〇八年)『では、「鴨脚」の中世漢語 ia-kiau の訛りであるとされる。亀田』(二〇一四年)『では、「鴨脚」の中国語読みイーチャオとして日本に伝わったとしている。しかし、室町時代の国語辞典』「下學集」(文安元(一四四四)年成立。序文は作者を東麓破衲(とうろくはのう:詳細未詳)と記す。但し、室町時代には抄本によってのみ伝わり、江戸時代はじめの元和三(一六一七)年になって初めて刊行された)『では、「銀杏」の文字に「イチヤウ」および「ギンキヤウ」と振り、その異名に挙げる「鴨脚」には「アフキヤク」と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていない。なお、鴨脚の名は中国では』十一『世紀』、北宋中期の詩人・官僚であった『梅堯臣』『や欧陽脩』『の詩に見られ、その種子は「鴨脚子」と呼ばれていた』。『それに対し、「イチョウ」の語は「銀杏」の明代の近古音(唐音)が転じたものとする説もある』。室町の文明一三(一四八一)『年頃に成立した一条兼良の』「尺素往來」や、一四八六年の「類集文字抄」、一四九二年頃の「新撰類聚往來」『にも「鴨脚」はなく、「銀杏」に「イチヤウ」とのみ振られており、これを支持する。「いちょう」の歴史的仮名遣は「いちやう」であるが、もとは「いてふ」とする例が多かった。この「いてふ」という仮名は「一葉」に当てたからだとされる』。一四五〇『年頃に成立した』「長倉追罰記」『には幔幕に描かれた家紋について』、「大石の源左衞門はいてうの木」『と表記される』。『種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが』、十一『世紀前半に上記「鴨脚子」から入貢のため改称され、用いられるようになったと考えられる』。「本草綱目」『に記載されている「銀杏」は、銀杏の初出が呉端の』「日用本草」(一三二九年:本邦では鎌倉末期)『であるとする。漢名の「銀杏」は種子が白いためである。「銀杏」の中世漢語はiən-hiəngであり、銀杏の唐音である』「ギンアン」『が転訛し(連声)、ギンナンと呼ばれるようになったものと考えられ』ている。『イチョウ属の学名 Ginkgo は、日本語「銀杏」に由来している。英語にも ginkgo』【gɪŋkoʊ】『として取り入れられている。ほかにも男性名詞として、ドイツ語 Ginkgo, Ginko【gɪŋko】』『や フランス語 ginkgo』【ʒɛ̃ŋko】『、イタリア語 ginkgo』『など諸言語に取り入れられている』。『イチョウ綱』Ginkgoopsida『が既に絶滅していたヨーロッパでは、本種イチョウは、オランダ商館付の医師で』「日本誌」『の著者であるドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル』(Engelbert Kämpfer 一六五一年~一七一六年:ドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」』(‘ Geschichte und Beschreibung von Japan ’)『の原著者として知られる。出島の三学者の一人)『による』「廻国奇観」(諸国奇談:‘ Amoenitatum exoticarum ’)(一七一二年)の「日本の植物相(‘ Flora Japonica ’)」『において初めて紹介されたが、そこで初めて“Ginkgo”という綴りが用いられた』。『ケンペルは』一六八九『年から』一六九一『年の間、長崎の出島にいたが、その間に』儒者で本草学者であった『中村惕斎』(てきさい)の「訓蒙圖彙」(寛文六(一六六六)年)『の写本を』二『冊入手した』。『ケンペルが得たイチョウに関する情報は』「訓蒙圖彙」第二版(貞享三(一六八六)年刊)『の「十八 果蓏」で書かれている。ケンペルは日本語が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に』二『つ目の番号が振られていた。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に』「269」、漢字の見出しには』「34」『と番号が振られている。多くの日本の文献は、助手の今村源右衛門から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった馬田市郎兵衛、名村権八と楢林新右衛門もケンペルの植物学の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であったハンス・スローンが保管していたケンペルの備忘録により分かっている。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる。Collectanea Japonica と題された手稿には』、「訓蒙圖彙」『の漢字の見出しがリスト化されているページがあり』、三十四『番目の見出しで “Ginkjo” もしくは “Ginkio” と書くべきところを、誤って“Ginkgo”と表記されている。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “Ginkgo” という綴りは、ケンペルの郷里レムゴーでの誤植や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる』のである。『なお、Webster 』(一九五八年)『では ginkgo は、日本語の ginko, gingkoに由来するとしているが、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない。小西・南出』(二〇〇六年)『では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしているが、この読みは日本語であり』、『正しくない』。『このケンペルの綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは』一七七一『年、著書 』‘ Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II ’ 『でイチョウの属名をGinkgo として記載した。Moule や Thommen は、Ginkyo bilobaに修正すべきだと主張し、牧野』(一九八八年)『では、ケンペルの著書中ではkjoをkgoに書き誤ったのであり、直すならGinkjoであるというが』、「植物命名規則」『においては恣意的に学名を変更することはできないとされている』。一七一二『年のケンペルのGinkgoという誤った綴りは命名規約上』、『有効ではなく、それを引用した』一七七一『年のリンネの命名Ginkgo bilobaが命名上』、『有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる』。『ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的にk と g を入れ替えてしばしば gingko と記される。このほか、ゲーテは』「西東詩集」(‘ West-östlicher Diwan ’)『「ズライカの書」』(一八一九年)『で、「銀杏の葉」』(‘ Ginkgo biloba ’)『という詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では " Gingo biloba "と表記されている。これはUnseld』(一九九九年)『によれば、ゲーテは科学者として学名 Ginkgo biloba を正しく認識していたが、詩人として Gingo という語を創作して付けたという』。『種小名の biloba はラテン語による造語で、「』二『つの裂片(two lobes)」の意味であり、葉が大きく』二『浅裂することに由っている』。『英語では "maidenhair tree" ともいう。"maidenhair" は通常はホウライシダ属 Adiantumのシダ(= maidenhair fern )を指し、英語の"maiden" には「処女(名詞)」または「処女の(形容詞)」の意味がある。maidenhair tree という語は maidenhair fern によく似ているためであるとされる。語源はよく議論されてこなかったが、葉がよく似たホウライシダを表す maidenhairとともに、陰毛が形作る三角形から名付けられたと考えられている。「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる』。『ほかにも fossil tree、Japanese silver apricot、baiguo、yinhsingなどと呼ばれる』。『漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、祖父(公)が植えると』、『孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている。漢方(中国医学)では』「日用本草」にみられるように、「白果(びゃっか、はっか)」と呼ばれることが多い』。『本種は現生では少なくとも綱レベル以下全てで単型の種であるとされ、イチョウ綱 Ginkgoopsida・イチョウ目 Ginkgoales・イチョウ科 Ginkgoaceae・イチョウ属 Ginkgo に属する唯一の現生種である。門は維管束植物門 Tracheophytaとされるが、独立したイチョウ植物門 Ginkgophyta(あるいは裸子植物門 Gymnospermae)に置かれることもある』。『イチョウ綱に置かれる。イチョウは雄性配偶子として自由運動可能な精子を作るが、これはソテツと共通である。そのため』、『ソテツ類とイチョウ類を合わせてソテツ類(ソテツ綱』(Cycadopsida)『)とすることもあった。また』一八九六『年の「精子の発見」以前は球果植物(マツ綱)』(Pinopsida)『のイチイ科』(Taxaceae)『に置かれていた』。『元来』、『裸子植物は(化石種を含め)種子植物から被子植物を除いた側系統群と定義された』ため、『側系統群を認めない立場から裸子植物門は解体されて』四『植物門に分類され、イチョウ植物門は現生種としてはイチョウのみの単型の門となった』。『裸子植物の』四『分類群は形態的には大きくかけ離れ、被子植物の側系統群と定義された為、単系統性は明らかでなかったが、Hasebe et al. (1992) による分子系統解析の結果、現生裸子植物と現生被子植物はそれぞれ単系統群であることが分かり、現在これはChaw et al. (2000)など』、『ほとんどの研究で支持されている。そこで単系統群としての裸子植物が再び置かれる事になる。これまで裸子植物を分類群として建てる場合は門の階級に置かれ裸子植物門 Gymnospermae とされてきたが、近年では門として』、『より上位の分類群である維管束植物門 Tracheophyta を立て、その下に小葉植物亜門 Lycophytina と大葉植物亜門(真葉植物亜門)Euphyllophytina を置くことがあり、裸子植物はその下位分類となる。この場合イチョウ類は大葉植物亜門の中の(裸子植物の一綱)イチョウ綱 Ginkgopsida とされる。イチョウ綱はソテツ綱と姉妹群をなし、ペルム紀に分岐したと考えられている』。『イチョウ綱にはイチョウ目 Ginkgoales 』一『目、イチョウ科 Ginkgoaceae 』一『科のみが属しているが、これはペルム紀から中生代に繁栄した植物群である。いずれも現生では本種のみが属する』。
以下に長谷部氏(二〇二〇)年によるイチョウ類より上位の系統樹が示されてあるので、見られたい。
以下、「下位分類」の項。『現生はGinkgo biloba 』一『種のみしか知られていないが、変異が見られ、下位分類群として』九十四『品種が知られている。代表的な変種または品種は以下のものである。食用の銀杏の品種は種子の節を参照』。
●キレハイチョウ Ginkgo biloba var. aciniata (『「切れ葉」の意』)
●フイリイチョウ Ginkgo biloba var. variegata(『「斑入り」の意。葉に黄白色の斑が入るもの』)
●オハツキイチョウGinkgo biloba var. epiphylla(『「お葉付き」の意。葉に種子が付くもの。epiphylla は葉上生の意である』)
●シダレイチョウ Ginkgo biloba var. pendula (『「枝垂れ」の意』)
●ラッパイチョウ Ginkgo biloba cv. tubifolia (『ラッパのような筒状の葉を付けるもの』)
『本格的な木本性の植物であり、樹高』二十~三十メートル、『幹直径』二メートル『の落葉高木となる。大きいものは樹高』四十~四十五メートル、『直径』四~五メートル『に達する。茎は真正中心柱をもち、形成層の活動は活発で、発達した二次木部を形成する。多数の太い枝を箒状に出し、長大な卵形の樹冠を形成する。概ね円錐形の樹形となるが、枝振りが乱れるものもある。樹形は単幹だけでなく』、『株立ちのこともある』。『樹皮はコルク質がやや発達して柔らかく、淡黄褐色で粗面。若い樹皮は褐色から灰褐色で、縦に長い網目状であるが、成長とともに縦方向に裂けてコルク層が厚く発達する。枝には長枝と短枝があり、どちらも無毛である。長枝は節や葉の間隔が離れているのに対し、短枝では節間が短く込み入っており』、一『年に数枚しか葉を付けない。長枝は無毛でややジグザグ状になる。冬芽は半球形や円錐形で』、五~六『枚の芽鱗に覆われる。雄花、雌花の冬芽は短枝につく。葉痕は半円形で、維管束痕が』二『個つく。短枝は葉が複数束生するため、葉痕が輪生状に並ぶ。春の芽生えは、短枝から数枚の葉が出て、のちに花が出てくる』。『葉は単葉で、葉身は扇形で長い葉柄を持つ(長柄)。葉柄は』三~八センチメートル、『葉身長』四~八センチメートル、『葉幅は』五~十センチメートル。『葉脈は原始的な平行脈を持ち、二又分枝して付け根から先端まで伸びる。中央脈はなく、多数の脈が基部から開出し葉縁に達する。このように葉脈が二又に分かれ、網目を作らない脈系を二又脈系(ふたまたみゃくけい、dichotomous system)と呼ぶ。葉の上端は不規則の波状縁となり、基本的に葉の中央部は浅裂となるが、切れ込みの入らないものや、深裂となるものもあり、栽培品種では差異が大きい。葉の形が同じように見えるものでも、葉の幅、広がり角度、切れ込みの数や深さ、葉柄の長さなど、同じものは二つとないといわれる。若いものや』、『徒長枝』(とちょうし:伸びたままの勢いの強い枝のこと)『ほど』、『切れ込みがよく入り、複数の切れ込みがあるものもある。剪定されていない老木では切れ込みのない葉が多い。葉脚は楔形。雌雄異株であり、葉の輪郭で雌雄を判別できるという俗説があるが、実際には生殖器の観察が必要である。葉は表裏ともに無毛。葉の付き方は長枝上では螺旋状に互生し、短枝上では束生である。また、秋になると比較的温度に関係なく、暖地でも落葉前の葉は鮮やかな黄色に黄葉する。地上に落ちてからも、落ち葉は』、『しばらくのあいだ』、『色を失わないため、黄色の絨毯を敷いたような情景を見ることができる。落葉した後、翌春には古い枝から再び』、『葉が芽吹くように見えるが、実際は葉柄が付くのに必要な長さ』一ミリメートル『程度の短い枝が新しくでき、そこに新葉が付く』。『ラッパのような筒状の葉を付けるラッパイチョウなどの変異も見られる。また、葉の縁に不完全に発達した雄性胞子嚢(葯)または襟付きの胚珠(および種子)が生じる変種をオハツキイチョウ Ginkgo biloba var. epiphylla 』『と呼び、本種の系統を示す重要な形質だと考えられている。天然記念物に指定されているものもあるが、あまり珍しくない。矢頭』(一九六四年)『では変種として区別する必要がないとしている。また、オハツキイチョウでは雌性胞子嚢穂に』二『つ以上の胚珠が形成され、イチョウの化石種に似ているが』、『その理由も不明である』。『樹木としては長寿で、各地に幹周が』十メートル『を超えるような巨木が点在している。老木になると』、『幹や大枝から円錐形の気根状突起を生じることがあり、これをイチョウの乳と呼ぶ。これは「乳根」や「乳頭」、「乳柱」ともよばれる。若木のうちから乳を作る個体は、チチイチョウ(乳銀杏)と呼ばれ、古来、日本各地で』、『安産や子育ての信仰対象とされてきた。造園ではチチノキとも呼ばれる。この乳は不定芽や発育を妨げられた短枝、あるいはそれから発育した潜伏芽に由来し、内部の構造は材とは違って柔らかい細胞からなり、多量の澱粉を貯蔵している。イチョウの乳は解剖学的研究から維管束形成層が過剰成長することで形成されることが分かってきたが、その機能と相同性は分かっていない』。『雌雄異株』で、『花期は春(』四~五『月頃)で、花びらのない花(生殖器)が咲いた後、秋になると雌株にギンナン(銀杏)が実る』。『日本の関東地方など、北半球の温帯では』、四~五『月に新芽が伸び』、『開花する。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。風媒花であり、雄性胞子嚢穂の花粉は風により』、『遠方まで飛散し、かなりの遠距離でも受粉可能である。まず』、『開花後』四『月に胚珠が露出した雌性胞子嚢穂に受粉した花粉は、胚珠端部に染み出た液とともに取り込まれて花粉室に』五『か月ほど保持され、その間に胚珠は直径約』二センチメートル『程度に肥大して、花粉から成長した透明な袋の中ではふつう』二『個の精子が作られる』。九~十『月頃、精子が成熟すると袋から放出され、花粉室から』一『個の精子のみが造卵器に泳いで入り、ここで受精が完了する。受精によって胚珠は成熟を開始し』、十~十一『月頃』、『種子は成熟して落果する』。『種子は、球形から広楕円形で、長さ 』一~二センチメートル『の石果様を呈する。種皮の外表皮は橙黄色で、軟化し』、『臭気を発する。内表皮は堅く、紡錘形で、長さ約 』一センチメートル『で黄白色である。普通は』二『稜あるが』、三『稜のものも少なくなく、子葉は』二『または』三『個』。一キログラム『当りの種子数は約』九百『個である。実生の発芽率は高い』。『本種の雌性生殖器官である雌性胞子嚢穂は、短枝の葉腋に形成され、二又に分かれ両先端に』一『個ずつ雌性胞子嚢(珠心)が形成されることで、胚珠柄 (peduncle)の先端に通常』二『個の胚珠が付く構造をしている』。『胚珠は柄の先端の「襟」と呼ばれる構造(退化した心皮?)に囲まれているが、ほぼむき出しの状態である。襟と呼ばれる隆起は葉の名残ではないかと考えられたこともあったが、葉の上に胚珠ができる突然変異体(オハツキイチョウ)では、葉の上にできた胚珠にも襟ができることから、葉の変形ではないのかもしれず、襟の相同性は謎である』。『胚珠は』一『枚の肉厚で円筒状の珠皮が珠心を包み込んでいて、珠皮は外から外表皮(銀杏の一番外側の皮になる)、肉質部(銀杏の臭い肉質部となる)、石層部構造(銀杏の堅い殻となる)、内表皮(銀杏の薄皮のうち外側の皮となる)からなる。珠皮は種子の形成に伴い』、『種皮となる。被子植物は内珠皮と外珠皮の』二『枚があるので、種皮も内種皮と外種皮の』二『枚あるのに対し、イチョウを含む裸子植物は珠皮が』一『枚なので、種皮も』一『枚である。銀杏は臭い肉質の部分と内側の硬い殻が印象的であるため、外種皮と内種皮と呼ぶ記述も見られるがこれは誤りである』。『本種の雌性配偶体や造卵器の形成過程はソテツに類似している。遊離核分裂による多核性段階を経て、細胞壁の発達した多細胞段階になる。胚珠の発生初期において、珠皮と雌性胞子嚢の間に隙間があるが、発生が進むにつれ両者は融合する。この間に、珠皮と雌性胞子嚢ともに細胞分裂と伸長を行い』、『大きくなるが、雌性胞子嚢の先端部分が伸び出し』、『しばらくすると先端部内側の細胞が崩壊し、花粉室と呼ばれるクレーター上の構造ができる。雌性胞子嚢の外側にある珠皮は先端部分が伸びて珠孔となる。雌性胞子嚢の中の雌性胞子は』四『月の受粉後、遊離核分裂を行い、その後』、『細胞質分裂によって数百細胞からなる雌性配偶体が形成される。雌性配偶体の細胞は分裂と伸長を繰り返し、雌性胞子嚢の花粉室側にまで拡がる一方、雌性胞子嚢は退縮して薄くなる。雌性配偶体上に通常』二『個の造卵器(』一『個から』五『個までの変異がある)が形成される。始原細胞は珠孔側の表皮細胞であり、並層分裂により』、『中央細胞と第一次頸細胞(第一次首細胞)ができ、それがすぐに垂直分裂をして』二『個の頸細胞(首細胞)となる。造卵器は頸細胞、腹溝細胞、卵細胞からなり、頸細胞が花粉室にむき出しとなる』。『雄性器官も短枝の葉腋上に雄性胞子嚢穂として形成される。雄性胞子葉は軸のみに退縮していて先端に』二『つの雄性胞子嚢を形成する。雄性胞子嚢穂は尾状花序様で、軸上に多数の付属体(雄蕊)が付き、各付属体は通常』、二『個の雄性胞子嚢(小胞子嚢、葯)を先端につける。雌性胞子嚢の中には』一『つの雌性胞子しか形成されなかったが、雄性胞子嚢の中では減数分裂によって数』千『個の雄性胞子が形成される。雄性胞子(小胞子母細胞)は雄性胞子嚢の中で分裂して』、一『つの雄原細胞(受精後分裂して』二『つの精子になる細胞)』、一『つの花粉管細胞』、二『つの配偶体細胞の合計』四『細胞からなる雄性配偶体となり、これが花粉である。小胞子嚢の中のが分裂し』、四『分子の小胞子(核相: n)をつくる』。『雄性配偶体はソテツに似ており、花粉散布時には生殖細胞、花粉管細胞』、二『個の前葉体細胞の』四『細胞性の構造をとる。花粉が風で胚珠まで運ばれると、珠孔にできた受粉滴に付着して胚珠の内部に運ばれる。生殖細胞は不稔細胞と精原細胞に分裂し、精原細胞はもう一度分裂し』、二『個の精子となる。花粉は分枝する花粉管を伸ばし、吸器として働く』。『裸子植物の雄性配偶子は花粉によって運ばれ、うちグネツム類』(裸子植物門グネツム綱 Gnetopsidaグネツム目グネツム科グネツム属 Gnetum:タイプ種グネモン Gnetum gnemon )『や球果植物では花粉粒から花粉管を伸ばして胚嚢まで有性配偶子が運ばれるが、本種及びソテツは花粉管から自由運動可能な精子が放出されて受精が行われる』。明治二八(一八九五)『年、帝国大学(現、東京大学)理科大学植物学教室の助手平瀬作五郎が、種子植物として初めて鞭毛をもって遊泳するイチョウの精子を発見した。平瀬は当時、ギンナンの内部にあった生物らしきものを寄生虫と考えたが、当時助教授であった池野成一郎に見せたところ、池野は精子であると直感したという。その後の観察で、精子が花粉管を出て動き回ることを確認し、平勢は』明治二十九年十月二十日『に発行された』『植物學雜誌』第』十『巻第』百十六『号に』「いてふノ精蟲ニ就テ」『という論文を発表した。裸子植物であるイチョウが被子植物と同じように胚珠(種子)を進化させながら、同時に雄性生殖細胞として原始的な精子を持つということは、進化的に見てシダ植物と種子植物の中間的な位置にあるということを示している。この業績は』一八六八『年の明治維新以降、欧米に学んで近代科学を発展させようとした黎明期において、世界に誇る研究として国際的にも高く評価された。後年、平瀬はこの功績によって学士院恩賜賞を授与されている。加藤』(一九九九年)『は、当時植物園教室は小石川植物園内にあり、身近にイチョウが植えられて研究材料として簡単に利用できる状態であったということが、この研究の一助となったとしている。精子の発見された樹は樹高』二十五メートル、『直径約』一・五メートル『の雌木であり、今日も小石川植物園に現存している』。『耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が』摂氏零度から二十度『の降水量』五百~二千ミリ『の地域に分布している。IUCNレッドリスト』一九九七『年版で希少種(Rare)に』、一九九八『年版で絶滅危惧(絶滅危惧Ⅱ類)に評価された』。『自生地は確認されていないが』、『中国原産とされる。中国でも』十『世紀』(五代から北宋相当)『以前に記録はなく、古い記録としては、欧陽脩が』「歐陽文忠公集」(一〇五四年)『に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが』、十一『世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている』。『その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、憶測や風説でしかないものも混じっている[。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため』、一二〇〇『年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている。行誉により』文安二(一四四五)年『年頃に書かれた問答式の辞書』「壒囊鈔」には『深根輔仁』「本草和名」(延喜一四(九一四)年)『にも記述がないとある』。鎌倉幕府滅亡に近い至治三(一三二三)年、『当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船の海底遺物のなかからイチョウが発見されている』。正平二五・建徳元/応安三(一三七〇)『年頃に成立したとみられる』「異制庭訓往來」『が文字資料としては最古と考えられる。そのため』、一三〇〇『年代に貿易船により』、『輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる。南北朝時代の近衛道嗣の日記』「愚管記」(天授七・弘和元年/ 康暦三・永徳元(一三八一)年)『には銀杏の木について、室町時代の国語辞書』「下學集」(嘉吉四・文安元(一四四四)年)にも樹木として記載がある。また』、十五『世紀の』「新撰類聚往來」『 には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し』、一五〇〇『年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる』。『幹周』八メートル『以上の巨樹イチョウの日本列島における分布は、東日本』八十九『本(雄株』八十一『・雌株』八『)、中部日本』二十一『本(雄株』十五『・雌株』六『)、西日本』五十『本(雄株
』二十四『・雌株』二十六『)となっている』。『ヨーロッパには』一六九二『年、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から始まり、オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園で栽培され、開花したという』。一七三〇『年ごろには生樹がヨーロッパに導入され』十八『世紀にはドイツをはじめ』、『ヨーロッパ各地での植栽が進み』、一八一五『年にはゲーテが』「銀杏の葉」(‘ Gingo biloba ’)と名付けた恋愛詩を記している』。『木材としての利用はあまり知られていないが、火や大気汚染に強く、病害虫にも強い特性を持っていることから、街路樹、寺院や神社、学校などの植栽樹として重用されている。長寿で、寺社には樹齢が数百年以上といわれるイチョウの大木があるところもある。種子の仁であるギンナン(銀杏)は、秋の味覚として食べられている』。『木材としての知名度は低い。組織は針葉樹のものと似ている。材は黄白色で、心材と辺材の色の差はほとんどない。早材と晩材の差が少ないため、年輪ははっきりとせず』、『広葉樹材のようであり、材は緻密で均一、柔らかいため』、『加工性に優れる。肌目は精で、木理は通直で、反曲折裂および収縮が少なく、歪みが出にくい良材である。木材の中に異形細胞をもち、その中に金平糖型のシュウ酸カルシウムを含む。気乾比重は』〇・五五『で、やや軽軟で、耐久性は低い。器具・建具・家具・彫刻、カウンターの天板・構造材・造作材・水廻りなど』、『広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされる。ただし、カヤ』(榧:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ(一位)科カヤ属カヤ Torreya nucifera )『に比べ』、『音が良くないため評価は低い。その他、古くは鶏屋のまな板に好まれた。用材はほかに和服の裁ち板としても使われる』。『土地を選ばず生育し、萌芽力がさかんで、病虫害が少なく、強い剪定にも耐えるため、庭園樹、公園樹、街路樹、防風樹、防火樹などとして植栽される。日本では庭園や公園に植栽されたり、寺社の境内にも多く植えられるが、大規模な造林地になっているものはない。古い社寺の境内には樹齢数百年を経たと称される「大銀杏」が多くみられる。外国の植物園でもよく見られる。盆栽にも利用される。盆栽は実生または挿し木によって作られる。チチイチョウはよく盆栽につくられる。高木になるため庭木としての利用は少ないが、成長が遅いチチイチョウは庭木としても用いられる』。『また、樹皮が厚く、コルク質で気泡があるため、耐火力に優れているとみなされ、防火植林に用いられる。江戸時代の火除け地に多く植えられた。大正時代の関東大震災の際には延焼を防いだ例もあったため、防災を兼ねて次項で記載する街路樹にイチョウが多く植えられるようになったという。これを提案したのは造園家の長岡安平であった』。『病害や虫害がほとんどなく、黄葉時の美しさと、大気汚染や剪定、火災に強いという特性から、街路樹としても利用される。黄葉したイチョウはいちょうもみじ(銀杏黄葉)と呼ばれ、並木道などは秋の風物詩となる』。二〇〇七『年の国土交通省の調査によれば、街路樹として』五十七『万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京都の明治神宮外苑や、大阪市御堂筋の街路樹などが、銀杏並木として知られている。大阪を代表する御堂筋のイチョウ並木は』一九六六『年時点で樹齢約』五十『年』、八百六十七『(うち雌株』百十一『本)あった。雌株では秋期に落下した種子(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある。移植は容易で、大木であっても移植することができる』。以下、「著名なイチョウの木」の項があるが、カットする。
以下、「食用」の項。『イチョウの葉や種子は古くから薬用に利用され、中国の』「神農本草經」や「本草綱目」に遡る。アメリカの衛生センターによると、健康な一般成人では、イチョウは適切な量(』一、二『粒程度)であれば食用として安全である』するが、『しかし』、『生もしくは加熱したイチョウ種子は、有毒であり』、『深刻な副作用を起こす可能性がある。一般的には日本では、大人』一『日』十『個まで、子ども』一『日』五『個までを目安とされている』。『イチョウの種子は、銀杏(ぎんなん)といい、硬い種皮の内表皮(殻)の中に含まれる胚乳(さね、核、仁)が食用となる。実と説明されることもあるが、果実ではない。これを食用とするのは日本や中国など、東アジアにおける習慣である。これは中国の本草学図書である』南宋の「紹興本草」(一一五九年)『にも記載される。薬用(漢方)として利用されていたことが、明代の龔廷賢』(ぎょうていけん)が一五八一『年に著した』「萬病回春」に『記されている。鎮咳作用があるとされる』。『仁は直径』一センチメートル『程度の紡錘形で、新鮮な状態では光合成色素のクロロフィルの存在により緑色を呈するが、収穫後は殻付きで保存しても常温に置くと短期間のうちに黄色に褪色化する。加熱により半透明の鮮やかな緑色になるが、加熱を続けると微酸性である死んだ細胞の内容物との作用でクロロフィルのマグネシウムがはずれ、黄褐色のフェオフィチン』(Pheophytin)『となる』。『食材としての旬の時期は秋』九~十一月『で、雌株の下に落ちているイチョウの実(正確には種子)を拾ったら、周囲の外種皮部分を取り除き、よく洗って乾燥させる。旬に先走って収穫される「走り」のぎんなんは、翡翠に似た鮮やかな緑色を呈し、やわらかく匂いも少ないことから通常の時期に収穫されるものより』、『高級とされる。茶碗蒸しやおこわなどの具に使われたり、煮物や鍋物、揚げ物、炒め物など広汎な料理に用いられ、酒の肴としても用いられる。和食料理のあしらいとして欠かせない食材で、殻は割り、渋皮は弱火で炒るか、ゆでるときれいにむける。韓国では、露店でも炒った銀杏を販売している。加工品としては砂糖漬やオリーブ油漬、水煮などの瓶詰や缶詰が売られている。ただし、独特の苦味および種皮の外表皮には悪臭がある。秋の食材だが、加熱して真空パック詰めにした商品は年中』、『手に入る。銀杏を保存するときは殻付きのままビンや袋に入れて、冷蔵しておけば数か月は保存できる』。『栄養素としてデンプンが豊富に含まれ、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。ほかにもレシチンやエルゴステリン、パントテン酸、カリウム、カロテン、ビタミンC、ビタミンB1も含有している。銀杏の食用部分にはメチルピリドキシン』(4-O-methylpyridoxine=ギンコトキシン(Ginkgotoxin)=C9H13O3N:癲癇発作を誘発し得る物質である)『という成分が含まれていて、大量に食べると、まれに食中毒による痙攣を引き起こすこともある。このため、銀杏を食べ過ぎないことと』、五『歳以下の幼児には食べさせないように注意喚起されている』。『銀杏は古くは米の凶作時の備蓄食糧に使われたといわれており、今日では日本全土で生産されているが、特に愛知県稲沢市(旧:中島郡祖父江町)は銀杏の生産量日本一である。ぎんなん採取を目的としたイチョウの栽培は』、天保一一(一八四一)年『祖父江町に富田栄左衛門がのちの「久寿(久治)」となるイチョウ苗を植えたことに始まるとされる。愛知県ではぎんなん収穫用に畑で低く仕立てられ、栽培される。佐賀県でも嬉野市の塩田町でウンシュウミカンからの転作としてよく栽培される。ぎんなんの収穫・流通を目的とした栽培品種があり、大粒晩生の「藤九郎」、大粒中生の「久寿(久治)」(くじゅ)、大粒早生の「喜平」、中粒早生の「金兵衛」(きんべえ)、中粒中生の「栄神」などが主なものとして挙げられる。「藤九郎」は岐阜県瑞穂市(旧穂積町)、「久寿(久治)」「金兵衛」「栄神(栄信)」は愛知県稲沢市(旧祖父江町)、「長瀬」は愛知県海部郡発祥の品種である』。『イチョウの種子が熟すと』、『肉質化した種皮の外表皮が異臭を放ち、素手で直接触れるとかぶれやすい。異臭の主成分は下記の皮膚炎の原因となるギンコール酸』(Ginkgolic acid)『である。異臭によりニホンザル、ネズミなどの動物は食べようとしないが、アライグマは食べると言われている。この外表皮を塗ると』、『黒子が取れるとする薬効が』南宋の王継先「昭興本草」(紹興二九(一一五九)年刊)『にある』。『イチョウの種子は皮膚炎及び食中毒を起こすことが知られている』。明の一三七九年の「種樹書」『にはすでに銀杏に毒性のあることが記載されている。銀杏中毒になる危険性があるため、日本では「歳の数以上は食べてはいけない」という言い伝えがある』。『種皮の外表皮には乳白色の乳液があり、それにはアレルギー性皮膚炎を誘発するギンコールやビロボールといったギンコール酸(ギンゴール酸)と呼ばれるアルキルフェノール類の脱炭酸化合物を含んでいる。これはウルシのウルシオールと類似し、かぶれなどの皮膚炎を引き起こす。イチョウの乾葉は、シミなどに対する防虫剤として用いられる。これは、ギンコール・ギンコール酸が葉にも含まれているからである』。
以下、「食中毒(銀杏中毒)」の項。『食用とする種子にはビタミンB6の類縁体4'-O-メチルピリドキシン (4'-O-methylpyridoxine, MPN) が含まれているが、これはビタミンB6に拮抗して(抗ビタミンB6作用)ビタミンB6欠乏となり』、『GABA』(γ-アミノ酪酸(ガンマ-アミノらくさんgamma-Aminobutyric acid:抑制性の神経伝達物質として機能している物質)の生合成を阻害し、まれに痙攣などを引き起こす。銀杏の大量摂取により中毒を発症するのは小児に多く、成人では少ない。大人の場合かなりの数を摂取しなければ問題はないが、『一日』五~六『粒程度でも中毒になることがあり、特に報告数の』七十『%程度が』五『歳未満の小児である。小児では』七『個以上、大人では』四十『個以上の摂取で発症するとされる』。『太平洋戦争前後などの食糧難の時代に中毒報告が多く、大量に摂取したために死に至った例もある』一九六〇『年代以降』、『銀杏中毒は減少に転じ』、一九七〇『年代以降』、『死亡例はない。上記の通り』、『ビタミンB6欠乏により中毒が起こるため、食糧事情の改善に伴う栄養状態の改善により減少したと考えられている』。『症状は主に下痢、嘔気、嘔吐等の消化器症状および縮瞳、眩暈、痙攣や振戦等の中枢神経症状で、加えて不整脈や発熱、呼吸促拍等の症状も報告されている』。『アルキルフェノール類であるギンコール酸は葉にも含まれる。ギンコール酸はヒトの癌細胞に対する増殖抑制作用が知られている』。『イチョウ葉エキスの生理作用は主に抗酸化作用と血液凝固抑制作用、神経保護作用、抗炎症作用であり、その他、血液循環改善作用、血圧上昇抑制作用、血糖上昇抑制作用の報告もある』。『また、イチョウ葉エキスの中のギンコライドBは特異的な血小板活性化因子の阻害物質ということが確認され、脳梗塞や動脈硬化の予防の効果が期待されている』。『中国では古くから薬用に用いられていたが、イチョウ葉エキスが現代医学において効果があると示されたのは』一九六〇『年代、ドイツの製薬会社で開発されたイチョウ葉エキスが脳や末梢の血流改善に使用されたことに端を発する。ただし』、『中国でもイチョウ葉を薬用とするようになったのはおそらく漢朝以降であると考えられている』。「本草品彙精要」(明・清代を通じて、中国の王朝が作成した唯一の貴重な勅撰本草書。最初は明の一五〇五年成立)『には』、『胸悶心痛や激しい動悸、痰喘咳嗽、水様の下痢、白帯を治すとある』。『EGb761というイチョウ葉エキスを用いた臨床試験において、記憶力衰退の改善、認知症の改善、眩暈や耳鳴り、頭痛など脳機能障害の改善、不安感の解消などの有効性が報告されている』。『しかし、イチョウ葉エキスの効果に関する信頼性の高い研究はほとんどない。アメリカ国立補完統合衛生センター(NCCIH)はイチョウ葉エキスの効果に対して否定的な態度を示しており、「イチョウがさまざまな健康上の問題に関して、有用であるという決定的な科学的証拠は存在しない」「認知症もしくは認知機能低下の予防や緩和、高血圧、耳鳴り、多発性硬化症、季節性情動障害、および心臓発作や脳卒中のリスクに対しては、イチョウは有用ではないことが、示唆されている」と述べている。これは、NCCIHによって行われた大規模なRCT実験(被験者』三千『人)を含む研究に基づいている』。『日本と欧米では製造方法が異なり、日本では健康食品として使用されるため食品衛生法の規制により、エタノール抽出が行われるが、欧米ではアセトン抽出が行われている。欧米のアセトン抽出によるイチョウ葉エキスはEGb761というコードネームがつけられ、この薬理学研究は多数行われている。イチョウ葉エキスで特定されている成分は、含量がエキス全体の半分にも満たないフラボノイドやテルペノイドなどであるため、フラボノイドやテルペノイドなどの含有量が同じであってもアセトン抽出品とエタノール抽出品が同等かどうかの判断はできない』。『雑誌などでイチョウ葉茶の作り方が掲載されることがあるが、イチョウ葉を集めてきて、自分で調製したお茶にはかなり多量のギンコール酸が含まれると予想され、推奨されない』。『日本では、イチョウ葉を素材とした健康食品は食品として流通しているが、医薬品として認可されておらず、食品であるため』、『効能を謳うことはできない。しかし、消費者に対し』、『過大な期待を抱かせたり、医薬品医療機器等法で問題となるような広告も散見される』。『国民生活センターのレポートによると、アレルギー物質であるギンコール酸、有効物質であるテルペノイド、フラボノイドの含有量には製法と原料由来の大きな差がみられる。また、「お茶として長時間煮詰めると、ドイツの医薬品規格以上のギンコール酸を摂取してしまう場合がある」とし、異常などが表れた場合は、すぐに利用を中止し医師へ相談するよう呼び掛けている』。『医薬品規格を満たすイチョウ葉エキスについては、適切に用いれば経口摂取でおそらく安全と評価されている』。二百四十ミリグラム『以上のイチョウ葉エキスの摂取や医薬品規格を満たさないものについては、安全性は明確になっていない。副作用として、胃腸障害、頭痛やめまい、動機、皮膚のアレルギー症状、血液凝固抑制薬(ワルファリンやアスピリン)との併用による出血の恐れが高まることなどが知られている。まれな副作用としては、スティーブンス・ジョンソン症候群』(Stevens-Johnson syndrome:皮膚や粘膜の過敏症であるが、当該ウィキを見るに、重症化すると、壊死や失明に至る重い疾患である)、『下痢、吐き気、筋弛緩、発疹、口内炎などが報告されている』。『イチョウ葉エキスには血液の抗凝固促進作用があり、アスピリンなど抗凝固作用を持つ薬との併用には注意を要する。インスリン分泌にも影響を及ぼすため、糖尿病患者が摂取する場合は医師と相談した方がよい。また、抗うつ剤や肝臓で代謝されやすい薬』『も相互作用が生じる可能性がある。原因は明らかでないものの、トラゾドンとイチョウ葉エキスを摂取した高齢のアルツハイマー病患者が、昏睡状態に陥った例も報告されている。利尿剤との併用により、高血圧を起こしたとの報告も』一『例ある』。
以下、「社会や文化とのかかわり」の項。『イチョウは日本では神社や寺院などに多く植栽され、全国的に、民家に植えるのはどちらかといえば』、『忌み嫌われる傾向にある』。『イチョウに関しては多くの伝承が伝わっている。「杖銀杏」とは、空海や親鸞、日蓮といった高僧・名僧が携えた杖を地面に刺したものが成長し、根を張り、枝葉を生じたというもので、東京都港区麻布善福寺の「善福寺のイチョウ」(国の天然記念物)、山梨県南巨摩郡身延町の「上沢寺のオハツキイチョウ」(国の天然記念物)などはその一例である。また、しばしば見かける「逆さ銀杏」とは枝葉が下を向いて生えることを称しており、「善福寺のイチョウ」「上沢寺のイチョウ」のほか、京都市下京区の「西本願寺の逆さイチョウ」(京都市天然記念物)などが有名であるが、それ以外にも全国各地に点在している』。『古いイチョウの樹に生じる気根にふれたり、気根を削って煎じたものを飲んだりすると乳の出がよくなるという「乳イチョウ」の古木も全国各地にみられる。川崎市の影向寺のイチョウや仙台市宮城野区の「苦竹のイチョウ(姥銀杏)」(宮城県天然記念物)、富山県氷見市の「上日寺のイチョウ」(国の天然記念物)、千葉県勝浦市の「高照寺の乳イチョウ」(千葉県天然記念物)が特に知られている。青森県西津軽郡深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」(国の天然記念物)は「垂乳根(たらちね)の公孫樹」とも呼ばれて崇敬されてきた樹で、母乳の不足する女性が青森県内はもとより』、『秋田県や北海道からも願掛けに訪れ、気根にお神酒と米を供えて祈る風習が』一九八〇『年代半ばまで続いていたといわれる。徳島県板野郡上板町の乳保神社のイチョウ(国の天然記念物)も「乳イチョウ」で、これは神社名の由来になった樹木であり、神木である。ここでは気根の先を白紙で結んでおくと病気平癒や乳の出がよくなるといった御利益があると信じられてきた』。『「子授け銀杏」には、東京都豊島区法明寺鬼子母神堂境内のイチョウが知られ、その木を女性が抱き、その葉や樹皮を肌につけると子宝が授かるという伝承がある』。『「泣き銀杏」には、千葉県市川市の弘法寺のイチョウが有名で、弘法寺』一『世日頂が養父富木常忍の勘当を受けて、この木の周りを泣きながら読経したという伝承に由来する。各地の「泣き銀杏」の伝承には、さまざまなタイプがある』。『明治年間、日比谷通りの拡幅工事が実施されてイチョウの木が伐採されようとしたとき、造園家の本多静六が「私の首をかける」として伐採に反対したのが、東京都千代田区の日比谷公園内にある「首かけイチョウ」である。日比谷公園は』、一九〇三『年に本多によって造園され、イチョウは』二十五『日かけてレールを用いて同地に移植された』。『イチョウは火災に強く、生命力が旺盛なところから「復興のシンボル」とされることがある。千代田区大手町の「震災イチョウ」は』大正一二(一九二三)『年の関東大震災にともなう周囲の火災から唯一焼失を免れた個体であり、栃木県宇都宮市の旭町の大いちょうも』昭和二〇(一九四五)『年の宇都宮空襲で被災し、いったんは焼け焦げたものの、翌春に芽吹いたものである』とある。
「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「銀杏」([075-47b]以下)をパッチワークしたものである。
『「棟(せんだん)」の子(み)』日中ともに、
双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata
である。
但し、中国では、漢方薬の基原植物としては、同属の、
トウセンダン Melia toosendan
も挙げられてあるので(終りの方の注で後述する)、「本草綱目」の方では、そちらも挙げておく必要がある。先行する「楝」を見られたい。
『三稜《さんれう》あるを、「雄《をす》」と爲し、二稜あるを、「雌」と爲《なす》』この分類法は、真柳誠氏の「イチョウの出現と日本への伝来」(暫定的論文稿・引用不可)で、現在は疑問視されている、とある。
「陰虱《つびじらみ》」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis による、陰部のケジラミ症のこと。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 陰蝨」を見られたい。]
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