茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「PIETÀ」
P I E T À
かうして、イエスよ、私はまたあなたの、
私が靴を取つて洗つてあげた頃は
未だ靑年の足だつた、足を見ます。
あの棘の藪の中の白い獸のやうに、
あなたの足は私の髮の中にと迷つてゐました。
あなたの一度も愛されなかつた四肢を、
私はかうして初めて此愛の夜に見ます。
私たちは未だ一度も一緖に寢ませんでした。
そして今は褒め、守るだけです。
しかし、ご覽なさい、あなたの手は裂かれました――
戀人よ、私ではない。私が嚙むだのではない。
あなたの心臟は開いて、入ることが出來る。
これがただ私だけの入口ならよいのだが。
今あなたは疲れてゐる。疲れたその口は
私の痛む口に觸れる氣もなさらない。
おお、イエスよ、イエスよ、我々の時間はいつでした。
何て不思議に私だち二人は亡びるのでせう。
[やぶちゃん注:「PIETÀ」ピエタ。平凡社「世界大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた)。『死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像』。十四『世紀初頭にドイツで創出された新しい図像で』、『埋葬する前に』、『わが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を、説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。中世末期に出現したいわゆる』「アンダハツビルト」( Andachtsbild :「祈念像」)『の一つで、個人が自己の魂の救済を願ってその前で祈ることを目的として作られた。ドイツでは』「フェスパービルト」( Vesperbild :「夕べの祈りの像」)『と呼ばれ、これは埋葬の祈りが聖金曜日の夕べに』捧げ『られることに由来する。この像の成立の経緯は』詳らか『ではないが』、ハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse 一二九五年~一三六六年:エックハルトの神秘思想を強く受け継ぎ、タウラーと並び称せられるドイツのドミニコ会士。コンスタンツ副修道院長になるが、讒言に遭い、以後。司牧者・説教師として、主に南ドイツを巡回、外面的には不遇に終わった。彼の本領は、キリストの受難の観想によって苦の積極的意義を明らかにし、且つ、自ら徹底した苦行を実践した点にある。また、仲介者としてのマリアの役割を、高く評価した。すぐれた幻視者でもあり、「真理の書」(一三二七年頃)・「永遠の知恵の書」(一三二八年頃)・「生涯」(一三六二年頃)等の著書がある。同一の事典を引いた)『などの神秘主義者の著作との関係がしばしば指摘されている。また、造形的には、死せるキリストが幼子のように小さい作例もあることから、この像は』、『聖母子像の幼子を』、『キリストの遺骸に置き換えることによって生まれたのではないかとも考えられ』れてい『る。聖母の悲痛な表情、硬直したキリストの肉体のなまなましい聖痕は、見る者に苦痛と悲しみの感情を呼び起こさずにはいない。イタリアでは』十五『世紀以降』、『作例が見られるようになり』、イタリア語で、「ピエタ」(Pietà:「哀れみ・慈悲」などの意『と名づけられた。ミケランジェロの』「バチカンのピエタ」(一五〇〇年頃)『は伝統的な図像にのっとりながら、若く美しい聖母と理想化された肉体をもつキリストによって、この主題にまったく新たな表現を与えている。しかし』、『晩年の』「ロンダニーニのピエタ」(一五六四年頃。『未完)に至ると、聖母とキリストは垂直に重なる独自の群像を形づくることになる』(ここはウィキの「ピエタ」の「ギャラりー」を見られたい。私は二体とも見たが、圧倒的に前者の方がよい)。『絵画においても、フランスの逸名の画家の名作』「アビニョンのピエタ」(Pietà de Villeneuve-lès-Avignon:十五世紀末)』(フランス語の画題でグーグル画像検索を掛けたものをリンクさせておく)『など多くの作例がある。ピエタは原則として聖母とキリストの』二『人の像であるが、福音書記者ヨハネ、マグダラのマリアや聖女たちなど』「キリストの哀悼」『に登場する人物や寄進者が加わることもある』(「アビニョンのピエタ」は、その構成)『ルネサンス以降、キリストが聖母の膝の上ではなく、足元に横たわる、より自然な構成も用いられるようになった』とある。
「棘」「いばら」。]
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