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2025/02/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「楠皮治瘧」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「楠皮治瘧《くすのきの かは おこりを ぢす》」  有渡郡草薙村草薙社《くさなぎのやしろ》にあり。「駿州古蹟畧」云。『草薙社の坂上、左の方に大楠《おほくす》あり。うろの內《うち》八疊を敷《しく》ベし。瘧を患ふる人、此楠の皮を取《とり》て拜服《はいふく》すれば、忽《あちまち》愈ゆ。云云。疫神《えきじん》靈木の威光を恐《おそれて》て、害をなすあたはず、奇妙と云べし。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡草薙村草薙社」現在の静岡県静岡市清水区草薙にある、草薙神社(グーグル・マップ・データ)。当該個体のクスノキ(双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora )も現存する。ウィキの「草薙神社」によれば(注記号はカットした)、『祭神は』『日本武尊 (やまとたけるのみこと)』『一体』。「古事記」「日本書紀」の『伝承によれば、ヤマトタケルの東征の際』、『賊がヤマトタケルのいる野に火をかけて焼き殺そうとしたが、ヤマトタケルは天叢雲剣』(あまのむらくものつるぎ)『で草を薙ぎ払い』、『向い火を放って難を逃れた。そのため』、「天叢雲剣」『を「草薙剣」』(くさなぎのつるぎ)『と称するという。当社の北東方には同じく「クサナギ」を称する式内社として久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)が知られるが、両社は』、『ともに』、『そのヤマトタケルの火難伝説に関連する神社と伝えられ、一説に火難伝承地は当地に比定される』とされる。『社伝では、景行天皇』五十三『年』、『天皇が日本武尊ゆかりの地を巡幸した際』、九月二十日に『天皇が当地に着き』、『日本武尊の霊を奉斎したのが創建という。また、天皇は当社に神体として草薙剣を奉納したが、この草薙剣が朱鳥元』(六八六)年『に天武天皇の勅命により』、『熱田神宮に移されたとも伝えている。また』、『社伝では、当社は古くは清水区草薙』一『丁目』(ここ。グーグル・マップ・データ(以下、無指示は同じ)。中央に現在の草薙神社を配した。以下でも同様の仕儀を行った)『の「天皇原(てんのうばら)」と称される地に鎮座したという。現在地への遷座時期は明らかでないが、一説に天正』一八(一五九〇)年『の造営時とする』。『歴史考証の上では、前述の通り』、『当社の創建にはヤマトタケル伝説が大きく関係するとされる。静岡市一帯には、大規模古墳として葵区の谷津山』(やつやま)『古墳(全長』百十『メートル)』(前方後円墳。ここ)『や』、『清水区の三池平』(みいけだいら)『古墳(全長』六十五『メートル』(前方後円墳。ここ)『)が残るが、これらの古墳を築いた勢力の服属が』、『伝説成立の背景にあると推測される。なお、当地の首長古墳』(しゅちょうこふん:これは古墳時代後期の静岡平野に於ける最有力の首長(しゅちょう)勢力を生んだ、四つ以上(三つは確定)の古墳群で、正式には、「賤機山古墳群(しずはたやまこふんぐん)」(同ウィキ)と呼ぶ。ここ。名にし負う「賤機山古墳」(同ウィキ)は円墳である)『は「清水区庵原や谷津山丘陵(前期:』四『世紀代)→瀬名丘陵(中期:』五『世紀代)→有度山北麓(後期:』六『世紀代)」と変遷したと推測されるが、これらのうち』、『清水区庵原付近に久佐奈岐神社』(くさなぎじんじゃ:ここ)『が、有度山北麓に当社が鎮座する』。『また、「クサナギ」の名を焼畑系地名に由来するとする説もある。その中で、伝説の中でヤマトタケルが向』い『火をつける』さま『も』、『野焼きの延焼防止としてよく知られる手法であることも併せて指摘され、先行する焼畑系地名に基いて』、『ヤマトタケルの火難伝説が成立したと推測される。ヤマトタケル伝説の成立以前の当社については、山の神として焼畑作物を与える神であったとも、谷部』分『にあることから』(グーグル・マップ・データ航空写真の「草薙神社」。より地形が判るように、「ひなたGPS」の同書の地図もリンクさせておく)、『水の神であったとも考えられている』。延長五(九二七)年『成立の』「延喜式」の「神名帳」では、『駿河国有度郡に「草薙神社」と記載され、式内社に列している。ヤマトタケル伝承との関連から』、『武家から信仰され、天慶年間』(八七七年~八八五年)『には』「平将門の乱」の『平定に奉賽がなされたと伝える』。『中世には、永享』四(一四三二)年『に将軍足利義教の駿河下向に従った尭孝』(ぎょうこう:僧で歌人。出自は武家の二階堂氏。父は僧で歌人の尭尋。「和歌四天王」の一人として、とみに知られる頓阿の曾孫。曽祖父の代から引き継いだ「和歌所」を預かった。二条派の歌壇の中心的歌人となり、冷泉派の清巌正徹(しょうてつ)に対抗した。勅撰和歌集「新續古今和歌集」を撰出している。ここは当該ウィキに拠った)『が草薙社について記述している。天正』八(一五八〇)年『には、願主森民部太夫』(もりのみんぶたゆう)『により』、『釣燈籠と鰐口(ともに静岡市指定文化財)が奉納された。天正』一〇(一五八二)年『には』、『竹木の伐採が禁止され、天正』一八(一五九〇)年『には』、『社領として草薙郷』十八『石が社人の民部大輔』(たいふ)『に安堵された。この社領は、慶長』四(一五九九)年『にも横田村詮』(よこたむらあき:伯耆国米子藩執政家老である人物であろう。当該ウィキをリンクさせておく)『により安堵されている』。『江戸時代の社領(朱印地)は』五十『石』。『境内は有度山北麓、草薙川上流の谷部に位置する。広さは』〇・七『ヘクタール』。『境内に立つクスノキは幹心が枯れ、外皮のみを残すが、樹高』六『メートル・周囲』二十五『メートルで』、『樹齢は』千『年以上と言われる古木で、静岡市指定天然記念物に指定されている』。また、静岡清水線の『草薙駅』(ここ)『付近の平地は「天皇原(てんのうばら)」と称される。かつて草薙神社は』、『この天皇原の地にあったといわれ、その地は現在も「古宮」』(ふるみや:ここ)『として伝わっている』とあった。]

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