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2025/02/11

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「蛇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。□は脱字。] 

 「蛇怪」  有渡郡澁川村《うどのこほりしぶかはむら》にあり。傳云、當村三島の社は、除地《じよち/よけち》也。是、寳龜十年[やぶちゃん注:七七九年。光仁天皇の治世。]爰《ここ》に祭る處也。今村中《むらぢゆう》の土神《うぶすな》とす。明和二年寅[やぶちゃん注:一七六五年。徳川家治の治世。但し、この年は「乙酉(きのととり)」である。これが、月の干支であるとすれば、戊寅(つちのえとら)の一月となる。]の□月、竿入《さをいれ》[やぶちゃん注:江戸時代の検地の別称。検地のために間竿(けんざお)で地積(ちせき:土地面積)を測量すること。「竿打ち」「繩打ち」とも言う。]の時、除を廢して收公《しうこう》とせんとす。時に大蛇出現して、怒《いかり》の色あり。官吏等《ら》忽《たちまち》氣絕す。爰に於て、其企《くわだて》を止《や》む。云云。神威を恐《おそる》るなるべし。

 [やぶちゃん注:「有渡郡澁川村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『渋川村』『しぶかわむら』とし、『静岡県』の旧『引佐郡引佐町渋川村』『現在地名』『引佐町渋川』とあり、『都田(みやこだ)川(久留女木川』(くるめきがわ:都田川の上流部の川名)『の上流域に位置し、西方の浅間(せんげん)山(』五百十九『メートル)から村域最北端の鳶(とび)ノ巣(す)山(』六百六十九『・五メートル)に至る尾根は三河国との国境をなす。東は豊田(とよだ)郡神沢(かんざわ)村(現天竜市)、南は別所(べっしよ)村・久留女木(くるめき)村。当地の長山家は天文八』(一五三九)年)『九月吉日の年紀銘をもつ鰐口を保管しており、その銘文から鰐口は同月に「伊那佐郡渋河大平村泉徳寺」に奉納されたものであることがわかる。天正三』(一五七五)年『五月六日の武田家禁制(写』本・『中村文書)は当村に下されたものとされており』、「三河長篠合戦」『に出陣する武田軍が当村を通行するにあたって』、『軍勢の濫妨狼藉を禁じている。寛文年中(一六六一』年~一六七三年)『以降に東光(とうこう)院の住持が書いたと推定される』「井伊家澁川村古跡之事」『(龍潭寺文書)によると、当村に居住した井伊直之(法名前遠州大守温渓良知大禅定門)は正和五』(一三一六)年『に没したと伝える』とあった。ここは、現在は静岡県浜松市浜名区引佐町渋川(いなさちょうしぶかわ)で、ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、現行のその地区には「三島の社」はない。最も近い静岡県浜松市浜名区細江町中川にある「三島神社」(グーグル・マップ・データ)でも、渋川の飛地の端からは、南方に八キロメートルも隔たっている(グーグル・マップ・データ)。この現在の三島神社を調べても、渋川村にあった三島神社を合祀した記録はない。ただ、「ひなたGPS」の戦前の地図を見るまでもなく、渋川は、かなりの山間部であること、戦前の地図を見ると、渋川周辺にあった神社(渋川地区の外延直近)が、現行では、消滅していることが確認出来る(例えば、ここ)。さらに、この消滅した神社は、都田川沿いの蛇行部にあったこと、さらに、何より、現在の「三島神社」自体も、都田川の下流の沿岸(分岐部)にあることから、この大蛇出現(大蛇は水界と強く関連する)も、都田川と強い連関を感じさせるのである。則ち、都田川上流の神社群が、明治の国策の神社合祀で、合祀されてしまった可能性を推測出来るように私には思われた。渋川周辺の郷土史研究家の見解を伺いたく存ずるものである。

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