茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「私の父の若い肖像」
私の父の若い肖像
眼には夢。額は何か遠いものに
觸れてゐるやう。口を繞(めぐ)つては
異常に多い靑春、微笑まぬ誘惑、
それからすらりとした貴族の制服の
澤山の美しい紐飾の前には
剱の籃柄(かごつか)と兩手――それは
何事をするやうにも迫られず、靜に待つてゐる。
そして殆どもう見えない。丁度
遠いものを摑むものが先づ消えるかのやうに。
そして他の總べては自づから蔽ひ、消されてゐる。
我々がそれを解りでもしないやうに、
そして自分の奧底から深く曇る――
ああ、速く消えゆくダゲロタイプよ、
やや徐に消えてゆく私の兩手の中で。
[やぶちゃん注:「私の父」何度か引用しているが、ウィキの「ライナー・マリア・リルケ」によれば、『オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。父ヨーゼフ・リルケ(Josef Rilke 一八三九年~一九〇六年)は軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後』、『プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが』、『早くに亡くなり、その後』、『一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが』九『歳のとき』、『母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことから』、『リルケを』五『歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によって』、『リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情は』、『のちルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし』、『父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった』。一八八六年に十歳の『リルケはザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入学したが、周囲に溶け込めず』、『早くから詩作を始めた』。一八九〇『年にヴァイスキルヒェンの士官学校に進学したが』、一八九一年六月、遂に『病弱を理由に中途退学し』、九『月にリンツの商業学校に入学した。しかし商業学校もリルケの性にあわず、恋愛事件を起こしたこともあり』、一『年足らずで退学してしまう(この出来事はリルケに軍人になる期待をかけていた父を失望させた)。一方』、一八九一『にはウィーンの『ダス・インテレサント・ブラット』誌に懸賞応募した詩が掲載され、翌年より各誌に詩の発表を始めている』とある。
父ヨーゼフは本詩集「新詩集」の刊行の前年に亡くなっている。その前後を、同ウィキから引くと、一九〇一年四月『リルケは』、『女性彫刻家クララ・ヴェストホフ』(Clara Westhoff 一八七八年~一九五四年:ブレーメン出身。彼女の当該ウィキによれば、一九〇〇『年に』『パリに出て、オーギュスト・ロダンに学び、私立の美術学校、アカデミー・コラロッシでも学んだ』。『リルケと結婚し、娘のルート・リルケが生まれるが』、『その後、離婚した』。一九一九『年にルート・リルケとフィッシャフーデに移り』、『亡くなるまで』、『そこで暮らした』とある)『と結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた』。一九〇一年十二月『には一人娘であるルートが生まれるが、しかし間もなく』、『父からの援助が断ち切られることになり生活難がリルケを襲った。クララは弟子をとって彫刻の教授を始め、リルケも知人に仕事の斡旋を頼み、画家評論『ヴォルプスヴェーデ』と『ロダン論』執筆の仕事を得た。やがてヴェスターヴェーデでの生活は解散を余儀なくされ』、一九〇二年八月、『リルケは『ロダン論』執筆のためパリに渡り』、九『月』、『初めてオーギュスト・ロダン』(フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin 一八四〇年~一九一七年:パリ生まれ)『に会った。また』、『妻クララも』、『娘を自分の実家に預けてパリに渡り』、『ロダンに師事したが、しかし貧しさのため』、『夫妻は同居することができず、それぞれ別々に仕事をしながら』、『日曜にだけ会うという生活であった。夫妻が安定した結婚生活を送ることができたのは新婚当時の』一『年と数ヶ月に過ぎず、これ以後』、『リルケがヨーロッパ各地を転々としたことから』、『一家は離散状態となった』。『リルケは図書館通いをして』「ロダン論」『の執筆を進めながら』、『親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けた。ことにロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事とは、リルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」』(本茅野訳の『形象篇』パートであろう)『を始めとする、対象を言葉によって内側から形作ろうとする作風に向かわせた。またリルケが直面したパリの現実と深い孤独も、その詩風と芸術や人生に対する態度を転換する大きな契機となった。その末に辿りついた成果が』一九〇七『年の』、この「新詩集」『である。またこの転換を端的に示すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」というリルケの言葉が残っている。リルケは一時』、『ロダンの私設秘書になり各地でロダンについての講演旅行なども行なっており、その後』、『誤解がもとで不和となったものの、リルケのロダンに対する尊敬は終生変わることがなかった』とある。
「剱の籃柄(かごつか)」「刀剣ワールド」の『西洋 剣・刀剣・甲冑(鎧兜)編「ヨーロッパ軍における剣」』の『多種多様な「サーベル」の使い方』によれば、サーベルは、ナポレオン時代、いろいろなタイプが出現したが、その中で、『指を護るためにバーが付いたヒルト』(英語:hilt:「柄(え)」)『やバスケットヒルト』( basket hilt )『(籠柄)になっているタイプの物』があったとあり、別ページ『西洋 剣・刀剣・甲冑(鎧兜)編「近世ヨーロッパの代表的な剣」』の、『大きなヒルトと幅広な剣身を持つ「バックソード」』に、『ヒルト(柄)も中世から続くバスケットヒルトタイプの物で、大きな林檎のような形状のポンメル(柄頭)が付けられています。これはもともとドイツと北欧で誕生したデザインで、その影響を受けたスコットランドの職人が、さらにデザインに磨きをかけクオリティーの高いヒルトの形式を完成させました。この大きな形式のヒルトは、ヨーロッパ中で多くのバックソードに取り付けられ、将校や紳士が愛用していたスモールソードと同じく近世初期の西洋剣の定番となっていきました』とあって、写真も添えられてある。グーグル画像検索“basket hilt”をリンクさせておく。
「ダゲロタイプ」(フランス語:daguerréotype/ドイツ語:Daguerreotypie)は、フランスの画家・写真家であったルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre 一七八七年~一八五一年)によって発明され、一八三九年八月、「フランス学士院」で発表された世界初の実用的写真撮影法。参照した当該ウィキによれば、『湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法。銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる』とある。岩波文庫の校注に、再版「詩集」では、ここを「金屬版寫眞(ダゲロタイプ)」と代えてある由の記載がある。
「徐に」「おもむろに」。]
« 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「夏の雨の前」 | トップページ | 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「弁忍田池龍」 »