今日は
今日は母の命日――
而して――今日――父の一周年の法事を円覚寺白雲庵で連れ合いと二人で行った――
今日は母の命日――
而して――今日――父の一周年の法事を円覚寺白雲庵で連れ合いと二人で行った――
和漢三才圖會卷第八十八目録
卷之八十八
夷果類
五雜組云歷考史傳所載果木如都念猪肉子猩猩果人
靣樹者今皆不可得見而今之果木又多出於紀載之外
者豈古今風氣不同或昔有而今無或未顯於昔而蕃行
於今也至佛手柑羅漢果之類不見紀載而山谷中可𭀚
口實而人不及知者益多矣
[やぶちゃん注:「𭀚」は「充」の異体字。]
*
和漢三才圖會卷第八十八目録
卷之八十八
夷果類
「五雜組」に云はく、『史傳に載する所の果木を歷考するに、都念・猪肉子・猩猩果・人靣樹《にんめんじゆ》と云《いふ》者≪の≫ごとき、今、皆、得て見るべからず。而今《じこん》[やぶちゃん注:現在只今。]の果木、又、紀載の外《ほか》に出《いづ》る者、多し。豈に、古今、風氣、同《おなじ》からず、或いは、昔、有《あり》て、今は、無く、或いは、未だ、昔に顯はれざるして、今に蕃-行(はびこ)り≪たるものある≫や。』。『佛手柑(ぶしゆかん)・羅漢果の類《るゐ》に至《いたり》ては、紀載に見へずして、山谷の中《なか》≪にて≫、口實《こうじつ》[やぶちゃん注:実を口にすること。]に𭀚《ある》るべくして、人、知るに及ばざる者、益《ますます》[やぶちゃん注:「益」には、送り仮名で踊り字「〱」が打たれてある。]多し。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「五雜組」複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「中國哲學書電子化計劃」から省略部(下線部)も含めて如何に示す(一部の漢字を正字に代え、コンマは読点に代えた。一部に字空けを施した)。
*
歷考史傳所載果木、如所云都念豬肉子、猩猩果、人面樹者、今皆不可得見、而今之果木又多出於紀載之外者。豈古今風氣不同、或昔有而今無、或未顯於昔而蕃衍於今也? 今閩中有無花果、淸香而味亦佳、此卽「倦游錄」所謂木饅頭者。又有一種、甚似皂莢、而實若蒸慄、土人謂之肥皂果、或云卽菩提果。至於佛手柑、羅漢果之類、皆不見紀載。山谷中、可充口實、而人不及知者、益多矣。
*
「都念」本巻に「都念子」として立項する。そこで子細に考証するが、まず、これは、私の好きな、双子葉植物綱キントラノオ目フクギ科フクギ属マンゴスチン Garcinia mangostana を指す。
「猪肉子」不詳。考証を続ける。
「猩猩果」不詳。考証を続ける。
「人靣樹」本巻に「都念子」として立項する。そこで子細に考証するが、これは、ムクロジ目ウルシ科の中国やベトナムに自生する、和名未定の Dracontomelon 属の、中文名「人面子」(レンミャンスイ)Dracontomelon duperreanum である。当該ウィキがあるが、そこには、『人面子の名前の由来は、実の窪みには柔らかい棘が入っていて』、『成熟すると抜け落ち、実の窪み部分の中身が入っていない場合、頭蓋骨の目の部分のように大きな穴が』一『つの方向から見て』五『つ見えていて、見る方向によっては、この実の窪みが苦悶した人面に見える事がある事から「人面子」と中国では呼ばれる』とある。いろいろ探したが、「中国科学院华南植物园」の「做“鬼脸”的水果—人面子」にある画像(キャプション「人面子果核」がよい。
「佛手柑(ぶしゆかん)」先行する「佛手柑」を見られよ。
「羅漢果」ウリ目ウリ科ラカンカ属ラカンカ Siraitia grosvenorii 。広西チワン族自治区を原産地とする多年生蔓植物。当該ウィキがあるが、そこに『産地において、特殊な薬効をもつ実であることから、仏教の聖人賢者である羅漢のようだということで名付けられたとも、まん丸の実が剃髪した羅漢の頭に見えるからとも言われる。薬効を発見した清朝の医師の名にちなむともいう』とある。]
[やぶちゃん注:原本では、以下、「卷之第八十九」の「味果類」、「卷之九十」の「蓏果類」、「卷之九十一」の「水果類」の目録が続いて出るが、それは、それぞれの後の巻の冒頭で示す。ルビの読みは、原本そのまま(歴史的仮名遣の誤りもママ)で、丸括弧で下に示す。]
荔枝(れいし)
龍眼肉(りうがんにく)
橄欖(かんらん)
木威子(もくれいし)
菴摩勒(あんまろく)
語斂子(ごれんし)
榧(かや)
海松子(かいしやうし)
㯽榔子(ひんろうし)
大腹子(たいふくし)
大腹皮(たいふくひ)
[やぶちゃん注:後の本文では、この間に「山檳榔(やまひんらう)」(読みは当該原文のママ)があるので、目録落ちである。]
椰子(やしほ)
無漏子(むろし)
桄榔子(たがやさん)
䔋木麪(さもめん)
波羅宻(はらみつ)
無果花(いちじゆく)
文光果(ぶんくわうくは)
天仙果(てんせんくは)
古度子(ことし)
阿勃勒(なんばんさいかし)
都念子(とねんし)
馬㯽榔(むまびんろう)
枳椇(けんぽのなし)
人靣子(にんめんし)
霸王樹(さゝらさつほう)
畨蕉(そてつ)
和漢三才圖會卷第八十八
攝陽 城醫法橋寺島良安尙順編
夷果類
れいし 離枝 丹荔
荔枝
唐音
リイ ツウ
本綱荔枝南方多有之以閩中爲第一蜀中次之嶺南爲
下其木髙二三𠀋自徑尺至于合抱木形團團如帷葢葉
如冬靑四時不凋性最畏寒甚耐久有經數百年猶結實
者花青白如橘花其實喜雙初青漸紅狀如初生松毬殼
有皺紋如羅其肉生時白乾時紅漿液甘酸如醴酪其核
黃黑色似半熟蓮子精者核如雞舌香瓤肉潔白如氷雪
凡實熟時人未采則百蟲不敢近人纔采之烏烏蝙蝠之
類無不傷殘之也故采荔枝者必日中而衆采之若離本
枝一日而色變二日而香變三日而味變四五日而外色
香味盡去矣五六月盛熟時人燕會其下以賞之取啖最
忌麝香觸之花實盡落也此樹炎方之果故不産於寒國
也凡此木結實時枝弱而蔕牢不可摘取必以刀斧劙取
其枝也性至堅勁取其根作阮咸槽及彈碁局
實【甘酸】止渴益人顏色通神益智治瘰癧多食則醉以
殼浸水飮之卽解此卽食物不消還以本物消之之意
[やぶちゃん注:原本では、最終行の頭の部分は、ご覧の通り、一字分が空白になっており、その空白の左下にレ点がある。脱字かと思ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を見ると、この部分は詰めてあり、訓読も全くおかしくないので、誤った空白(誤刻)であることが判明したので、訓読文では、詰めた。]
*
れいし 離枝 丹荔
荔枝
唐音
リイ ツウ
「本綱」に曰はく、荔枝は、南方に、多《おほく》、之れ、有り。閩中《びんちゆう》[やぶちゃん注:現在の福建省。]を以《もつて》、第一と爲す。蜀中[やぶちゃん注:四川省。]、之れに次ぐ。嶺南[やぶちゃん注:広東省・広西省。]、下と爲《なす》。其の木、髙さ、二、三𠀋、徑《わた》り、尺より、合-抱(ひとがかへ)に至る。木の形、團團《まろまろ》として、帷葢(いがい)[やぶちゃん注:日傘。]のごとく、葉は、冬靑(まさき)のごとく、四時、凋(しぼ)まず。性、最も、寒を畏《おそ》る。《✕→るるも、》甚だ、久《なが》きに耐へ、數百年を經て、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、實を結ぶ者、有り。花、青白にして、橘《きつ》の花のごとく、其の實、喜《よろこび》て、雙《なら》ぶ。初《はじめ》は、青く、漸《やうや》く、紅《くれなゐ》なり。狀《かたち》、初生の松毬(ちゝり)[やぶちゃん注:出来始めの松ぼっくり。]のごとく、殼(から)に皺紋(しは《もん》)、有り、羅《あみ》のごとく、其の肉、生《なま》なる時は、白く、乾ける時は、紅なり。漿-液(しる)、甘酸《かんさん》にして、醴酪《れいらく》[やぶちゃん注:甘酒や乳酪。]のごとく、其の核《さね》、黃黑色《きぐろ》にして、半熟の蓮《はす》の子《み》に似たり。精《よ》き者、核、「雞舌香(つやうじ《かう》)」のごとく、瓤肉《うるわたのにく》、潔白にして、水雪《みづゆき》のごとし。凡そ、實、熟する時、人、未だ采らざれば、則《すなはち》、百蟲、敢て近づかず。人、纔《わづか》に之れを采れば、烏-烏(からす)・蝙蝠(かはもり)の類、之れを傷殘《くらひのこ》さずと云《いふ》と[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。故《ゆゑ》、荔枝を采る者、必《かならず》、日中にして、衆《あまね》く、之れを、采る。若《も》し、本枝《もとえだ》を離《はなる》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、一日にして、色、變じ、二日にして、香《かをり》、變じ、三日にして、味、變じ、四、五日にして、外《そと》の色・香味、盡く、去る。五、六月≪の≫盛りに、熟する時、人、其の下に燕-會(さかもり)して、以つて、之れを、賞す。取-啖(《とり》くら)ふ。最も、麝香《じやかう》を忌む。之に觸《ふる》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、花・實、盡く、落《おつ》るなり。此の樹、炎方の果なる故、寒國に産せざるなり。凡そ、此の木、實を結ぶ時、枝、弱《よはく》して、蔕《へた》、牢《かたく》、摘取(むしり《と》)るべからず。必《かならず》、刀斧《たうふ》を以つて、其の枝を、劙-取《きりとる》なり。性、至《いたつ》て、堅《かたく》、勁《つよ》≪ければ≫、其の根を取《とり》、作「阮咸《げんかん》」の槽《さう》、及び彈碁《だんぎ》の局《きよく》[やぶちゃん注:古式の中国の碁盤。]
實【甘酸。】渴《かはき》を止め、人の顏色を益し、神を通し、智を益し、瘰癧《るいれき》を治す。多食すれば、則《すなはち》、醉ふ。≪剝いた荔枝の≫殼(から)を以《もつて》、水に浸し、之れを飮めば、卽ち、解す。此《これ》、卽ち、食物、消せざれば、還《かへつ》て、本物《もとのもの》を以つて、之れを、消《しゃう》するの意なり[やぶちゃん注:これは、私は、所謂、フレイザーの言う共感呪術であると思う。]。
[やぶちゃん注:「荔枝」は、一属一種の、
双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis
である。当該ウィキを引く(注記号や一部の項はカットした)。『特にその果実はライチと呼ばれる。中国の嶺南地方原産』。『バンレイシ』(蕃茘枝:モクレン目バンレイシ科 Annonaceaeバンレイシ亜科バンレイシ連バンレイシ属バンレイシ Annona squamosa )『およびバンレイシ科は目レベルより上で異なる別種である』。『常緑高木で、葉は偶数羽状複葉』『で互生する。花は黄緑色で春に咲く。果実は夏に熟し、表面は赤くうろこ状(新鮮な物ほどトゲが鋭い)、果皮をむくと食用になる白色半透明で多汁の果肉(正確には仮種皮)があり、その中に大きい種子が』一『個ある』。『中国においては紀元前から南方の温暖な地域において栽培されていた果樹で、上品な甘さと香りから中国では古来より珍重されたが、保存がきかず「ライチは枝を離れるや、』一『日で色が変わり』、二『日にして香りが失せ』、三『日後には色も香りも味わいもことごとく尽きてしまう」と伝えられる。唐の楊貴妃がこれを大変に好み、華南から都長安まで早馬で運ばせた話は有名である』。『中国語(普通話)での発音はリーヂー(拼音: Lìzhī』『)で、属名もこれに由来する。英語の“lychee”は、広東語/閩南語風にライチーと発音することも、普通話風にリーチーと発音することもある』。『弱酸性で水はけ、水持ちの良い土を好む。生育期は沢山の水を必要とする。冬はやや乾かしぎみに育て、カイガラムシやハダニを防ぐ為に、葉水を霧吹きで与える。越冬可能な温度は』摂氏〇『度以上であるが、確実に越冬させるには年最低気温が』五~十『度以上の環境で育てる必要がある。また、積雪や結氷、霜に非常に弱い為に、直植えできる地域は限られており、寒い地域で栽培する際は、鉢植えかつ室内で温度管理をするのが主流である。日向で栽培することが望ましいが、小さな苗の場合は盛夏時は半日陰で育てる方が良い。成木の場合』、二『月から』四『月に開花する。自然界ではハチやアリなどが受粉するが、栽培では人工的な受粉を行う』。十『度以下に殆ど下がることのない地域でも結実するが、品種によっては、厳冬時に』五~十『度の環境に』百~二百『時間程度当てる必要がある』。『大規模な商業的な栽培は、生育期の春から夏に高温多湿で多雨でありながら短い冬が存在し、無霜地帯で年最低気温が氷点下に下がらない事が条件となる。その為、栽培に適しているのは、熱帯に属する地域のうち丘陵、高原地帯と、温帯夏雨気候、温暖湿潤気候の地域のうちそれぞれ亜熱帯気候のみとなる。この気候条件を満たす中国南部の華南から四川省南部、雲南省にかけての地域、台湾、タイやベトナムなどの東南アジア、オーストラリア北部、フロリダ、ハワイ、レユニオン、マダガスカルで商業的な栽培が行われている。日本国内では沖縄県、鹿児島県、宮崎県などで小規模であるが栽培されている』。「毒性」の項。『未熟果が含有するヒポグリシン』(hypoglycin:アミノ酸の一種)『は、ヒトの糖新生を阻害して低血糖症の要因となる。インドの貧困層で幼児が未熟なライチで空腹を満たし、低血糖から脳炎に至り』、『死亡する事件が頻発している。これは症状が感染症に酷似することから、かつては未知の病原菌による風土病と考えられていた』とある。
「阮咸《げんかん》」中国のリュート属の撥弦楽器。中国語では「ルアンシエン」。かの「竹林の七賢」の一人であった阮咸に因んだ呼称。古くは「秦琵琶(チンピーパー)と呼ばれた。四弦で二弦ずつ同音に調律する。長い棹を持ち、共鳴胴は円形。明・清代には棹の短いものが出現して「月琴」と呼ばれたが、唐代の伝統を受け継いだものも残り、共鳴胴がやや小さい八角形のものも出現した。合奏や独奏に用いられる。日本には、唐代のものが奈良時代に伝来したが、すぐにすたれた。後に清楽用の阮咸が伝わったが、これは八角形の共鳴胴と長い棹を持つ(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った。ここで言う「槽」はその共鳴胴を指す。
「瘰癧」結核性頸部リンパ節(腺)炎の俗称。咽頭や扁桃などの初期感染巣からリンパ行性を経て、或いは、肺初期感染巣から血行性を経ることで感染する。頸部リンパ腺は、多数の腫脹を呈し、数珠状・腫瘤状・瘤状に連なる。慢性へと経過するが、初期の活動性の時期には、発熱やリンパ節の圧痛などが著しく、状況によっては次第に悪化し、膿を持ち、終には破れて膿汁を分泌する場合もある。]
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、記号等を加えて、読み易くした。]
「白髭社怪《しらひげしや》」 庵原郡押切原村《おしきりばらむら》にあり。
傳云《つたへいふ》。
「當村、八幡社、白髭社、三狐神《さんこしん/さくじ》三社は、相殿《あひどの》の社あり【除《ぢよ》二石《にこく》。】。當村の生土神《うぶすながみ》也【八幡の古跡は、谷川山の腰にあり。白髭の古跡は、石川村の堺。六反田にあり。三狐神の古蹟は、今宮の腰にあり。】。後、爰に移す所也。」。
「巡村記」云《いはく》、
『往昔、白髭の社、森田の中に建《たち》て、「田地のさまたげあり。」とて、里民、今の地に遷し、跡を六段計りの田に開《ひら》けり。時に村中《むらぢゆう》、續《つづき》て、大災あり。
又、近ごろ、藤枝某の下女、「虎」と云者、狐の付《つけ》るが如く、衣中《ころもうり》より、光明《こうみやう》を發し、口走りて云《はく》、
「我、もとより、人を腦《なやま》すに、あらず。土神《つちのかみ》の祭、疎《おそろか》なるが故に、其《その》告《つげ》に立《たつ》のみ。」
とて、甚《はなはだ》、怒《いかれ》れる色《いろ》あり。
然して後、大古《たいこ》よりの事を委細に語り、主《あるじ》に扇箱《おふぎばこ》を請ひ、土神の神前に至り、
「是は、女《をんな》が土產(みやげ)也。」
と、彼《かの》箱を捧げ、仰向《あふむけ》に伏《ふす》か、と見れば、氣絕して物付《ものつき》は、離れけり。
凡《およそ》二日計りを經て、常の如し。云云。』。
又、云《いはく》、
『南摸氣奈(《みなみ》をしきな)、白鷦鷯神社と、「民部省圖蝶」に載《のせ》たるは、此社也。云云。』。
[やぶちゃん注:「庵原郡押切原村」現在の静岡県静岡市清水区押切(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「八幡社」現在の押切に、「押切八幡神社」がある。そのサイド・パネルの画像のうち、鳥居の中央に神社名の額があるが、そこには、中央に大きく「八幡神社」とあり、その左に「白髭神社」、右に「左口神社」とあるので、ここに出る「白髭社」は合祀されている。取り敢えず、この押切周辺で「白髭神社」を検索すると、周辺に多く確認出来る。なお、「左口神社」は「さぐち」と読み、これは、他の同名の神社を調べるに、「農業」や「養蚕」を教えたとされる「珊瑚珠姫」(さんごずひめ)を祀るものを指す。
「三狐神三社」この祭神は、本来は、農家で祭る田畑の守り神で、本来は、日本神話の食物をつかさどる複数の「御食津神」(みけつかみ)であるが、そのうち、「古事記」の「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、或いは、「倉稻魂命(うかのみたまのみこと)が知られるが、この「宇迦」は「穀物・食物」の意味で、「穀物神」である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形語で、特に「稻魂」は「稻靈(いなだま)」で、これは、伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されていることから、宇迦御魂が、後に稲荷神の異称となり、それが、「三狐神」とも当字したので、キツネに、こじつけられたものである。但し、ウィキの「ウカノミタマ」によれば、稲荷の主神としてこの「うかのみたま」の神名が文献に登場するのは、室町以降のことであるとある。同前で、押切周辺で稲荷神社を探すと、やはり、周縁にやはり多く確認できる。
「谷川山」不詳。なお、底本違いの「近世民間異聞怪談集成」では、『谷つ川』となっているが、これも不詳。なお、探すのに用いた「ひなたGIS」の、この周辺を示しておく。そこに出る旧「石川村」が、「押切」の東北に接していたことが判る。
「巡村記」前にも出たが、不詳。
「森田」地名ではなく、「森」と「田」である。
「南摸氣奈(《みなみ》をしきな)、白鷦鷯神社」不詳だが、「国書データベース」の「民部省圖蝶」のここで、確認出来たが、この頭の「南摸氣奈」には「ミナミオシキナ」というルビが振られており、記載から見て、これは地目であろうと思われる。因みに、「白鷦鷯」というのは、「しろさざき」と読めるか?(仁徳天皇の名は「日本書紀」に「大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)、及び、「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」とあるからである」。なお、「鷦鷯」は、スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指すが、本邦産のミソサザイに白が目立つ種なんて、いるんかなぁ? そこまで調べる気は、ありんせん。]
にはむめ 正字未詳
庭梅
【灌木類也然以
櫻桃之類故附
于此】
△按庭梅叢生髙三四尺三月開花形似梅而小白色帯
紅色蘂黃而甚繁艶美也花落葉生狹長似庭櫻葉結
子小於櫻桃生青熟赤味酸甘
*
にはむめ 正字、未だ、詳《つまびらか》≪なら≫ず。
庭梅
【灌木類なり。然《しかれども》、
櫻桃(ゆすら)の類なるを以つて、
故《ゆゑ》、此《ここ》に附す。】
△按ずるに、庭梅、叢生≪して≫、髙さ、三、四尺。三月、花を開《ひらく》。形、梅に似て、小《ちさ》し。白色≪を≫帯《おび》て、紅色にして、蘂《しべ》、黃にして、甚《はなはだ》、繁く、艶美なり。花、落《おち》て、葉、生じて、狹《せば》く、長《ながく》しえ、庭櫻の葉に似たり。子《み》を結《むすぶ》。櫻桃(ゆすら)より小《ちさ》く、生《わかき》は、青く、熟《じゆくせ》ば、赤《あかく》して、味、酸甘《あますつぱ》し。
[やぶちゃん注:これは、
双子葉植物綱バラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属 Lithocerasus ニワウメ Prunus japonica
である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ニワウメ』は『落葉低木。庭などに植えられる。和名の由来は、庭園に植えられウメのような花が咲くことから名付けられている。英語ではJapanese bush cherry、またはOriental bush cherryなどと呼ばれる。中国語では郁李』。『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来した。観賞用のために広く栽培されている』。『Japanese bush cherryはミヤマザクラ』(深山桜:バラ科サクラ亜科サクラ属ミヤマザクラ Cerasus maximowiczii )『をさすこともある』。「詩經」の「小雅」の「常棣」『で常棣や棠棣と呼ばれ、兄弟に喩える』。『落葉広葉樹の低木で、根元からひこばえを出して株立状になり、大きさは』一・五『×』一・五『メートル』『ほどの大きさになる。若木の樹皮は暗紫褐色で、次第に灰色を帯びて縦に裂ける。一年枝は赤褐色で無毛である』。『花期は』四『月で、淡紅色の花を咲かせる。花は雌雄同体で虫媒花である』。『実は甘い香りがし、径』一『センチメートル』『ほどの大きさになり、赤く熟して食べられる』。『パイやジャムなどに利用されることもあるが』、『味はスミミザクラ』(酸実実桜:サクラ属スミミザクラ Prunus cerasus :ヨーロッパや南西アジアに自生する)『と似て酸味が強い』。『各果実には種が一つ入っている。種から増やすことが一般的であるが、取り木』(とりき:layering・marcotting:立木の幼枝や若枝の一部から発根させ、または根から発芽させたものを切り取って新たな株を得る方法)『でも増やせる』。『冬芽は鱗芽で互生し、卵形や球形で』五~七『枚の芽鱗に包まれており、一カ所に数個つく。花芽は球形で、葉芽は小さな卵形をしている。葉痕はほぼ腎形で、維管束痕が』三『個つく』。『森林地帯や日当たりの良い場所で発見された植物で、水はけは良いが』、『湿り気のあるローム状の土を好み、ややかげる程度か』、『日向を好む。土壌中にいくらか石灰が入っているほうが良いが、多くなくて良い』。『果実は乾燥させて利尿薬にする』。『ニワウメの仁は汎用性が高く下剤、利尿剤、血圧降下などに使われ、便秘、浮腫、不眠症に内服として処方される』。『仁以外もまれに利用される。たとえば根は便秘、子供の熱、歯の問題などに利用される』。また、『葉は緑の染料となり、実は灰色がかった緑の染料になる』。以下、「品種および変種」の項には、品種七種と、変種十八種が並んでいる。
「櫻桃(ゆすら)の類なる」良安が、甚だ――異常と言っていい――偏愛する「ゆすらうめ」である。今まで電子化でも、そこらじゅうで、「似てる」「その仲間」的な謂いで出現し、十項目を超えるのである。学名は、
バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa
である。考証で、えらく手古摺った「櫻桃」を見られたい。そこで引いた当該ウィキから引く(同前の処理をした。太字・下線は私が附した)。漢字表記は『梅桃、桜桃、山桜桃』で、『若枝や葉に毛が生えているのが特徴』で、『単にユスラとも』呼ばれる。『庭園などに植えられる。サクランボに似た赤い小さな実をつけ、食用になる。漢名は英桃。俗名はユスラゴ』。『和名ユスラウメの由来について、植物学者の牧野富太郎の説によれば、食用できる果実を収穫するのに』、『木をゆするので』、『この名がつけられたのではないかとしている』。一説に、『サクラを意味する漢字「櫻」は、元々はユスラウメを指す字であった』ともする。『茨城県西南地域ではユスラウメとは呼ばず』、『「よそらんめ」と方言で呼ぶ。福島県相馬地方では「リッサ」と方言で呼ぶ』。『中国北西部、朝鮮半島、モンゴル高原原産。日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』三~四『メートル』『で』、『よく分枝する。樹皮は紫褐色や暗褐色で、生長とともに灰色を帯び、めくれるように不規則に剥がれる。一年枝や若枝は褐色で、短毛が密に生えている。葉は長さ』四~七『センチメートル』『の楕円形で、葉脈に沿って凹凸があり、全体に細かい毛を生じる』。『花期は』四『月。葉が開くのと同時、または』、『葉が展開する前に、桜に似た白色または淡紅色の五弁の花が葉腋に』一『つずつ』、『咲く。果期は』六『月。花後は』、『小ぶりな丸い果実をつけ、赤色に熟して食用になる。果実はニワウメ』(庭梅:バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica )『よりやや大きく、ほぼ球形ながら』、『モモの実のように』、『かすかな縦割れがあり、表面には毛がない』。『冬芽は互生し、暗褐色の先が鋭くとがった長楕円形で芽鱗』六~八『枚に包まれており』、一『か所にほぼ』三『個つく。短枝には花芽が集中する。葉痕は心形や半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『植栽として』、『庭や庭園などに植えられて栽培される。性質は強健で、耐寒性・耐暑性ともに強く、病害虫にも強い。用土は過湿を嫌うので、水はけの良い土に植える。日照不足になると、株が弱ってしまうだけでなく、果実の収穫も減ってしまうため、なるべく日当たりの良い場所に植える』。三『月頃と果実の収穫後に化成肥料を、また』十一『月頃には有機肥料の寒肥を施す』。『普段の剪定は特に必要ないが、日当たりの悪い枝は枯れやすいので、込み合う枝の間引きと、長く伸びた枝の切り戻しを必要に応じて行う』。『増やし方は、タネを採取しての実生』だが、『その他、挿し木、接ぎ木で増やすことができる』。一『年生接木苗では植え付け後』二~三『年、実生でも』三~四『年で果実がなり始める』。『果実は薄甘くて酸味が少なく、サクランボに似た味がする。そのままでの生食、あるいは果実酒などに利用される』。『大分県豊後大野市清川地区では、ユスラウメにモモを接ぎ木して栽培した「クリーンピーチ」が特産品となっている』とある。
*
最後に。
本『「和漢三才圖會」植物部』は、昨年の二〇二四年四月二十七日に、『ブログ2,150,000アクセス突破記念 「和漢三才圖會」植物部 始動 / 卷第八十二 木部 香木類 目録・柏』として始めた。東洋文庫訳全十八巻の植物部最初の一巻である第十五巻が、この「庭梅」で終っている。植物部は後、二巻と最終巻の百七十六ページ(約最終巻の半分強)で終わっている。このペースだと、今から三年弱で完遂出来そうである。――父の一周忌(三月二十一日)を前に一区切りを終えた――。感慨無量である……]
★
ぶな 撫與模同
俗用之而
橅【音巴】 字義不當
附奈木
△按橅阿波土佐紀州勢州江州深山多有之人家栽者
希也俗云橿有八種橅亦其一也葉似橿葉而團小冬
凋落【橿葉冬亦不落】花似空疏花形而小白色最不美結實有
稜畧似蕎麥形而大褐色熬食之中子香美也其木膚
白無繧柔脆不堪材用唯斫成作紀州黒江椀江州多
賀杓子爾最下品也
*
ぶな 「撫」は「模」と同《おなじ》。
俗に、之れを用ふ。而《しかれ》ども、
字義、當らず。
橅【音「謨」。】
附奈木(ぶな《のき》)
△按ずるに、橅は、阿波・土佐・紀州・勢州・江州、深山に多《おほく》、之れ、有《あり》て、人家に栽《うう》る者、希《まれ》なり。俗、云《いふ》、「橿(かし)に、八種、有り。」≪と≫。橅も亦、其《その》一《ひとつ》なり。葉は、橿の葉に似て、團《まろ》く、小《ちさ》く、冬、凋落《しぼみお》つ【橿の葉は、冬、亦、落ちず。】。花、「空疏(うつぎ)」の花の形に似て、小く、白色。最《もつとも》、美ならず。實を結ぶ。稜(かど)、有《あり》、畧《ちと》、蕎麥(そば)の≪實の≫形に似て、大《おほき》く、褐色(きぐろ)。熬《い》り、之れを食ふ。中子《なかご》、香(かうば)しく、美なり。其の木の膚(はだ)、白く、繧(もくめ)、無く、柔《やはらか》に≪して≫、脆《もろ》く、材用に堪へず、唯《ただ》、斫(はつ)り成して、紀州黒江《くろえ》の椀、江州の多賀の杓子《しやくし》に作るのみ。最下品なり。
[やぶちゃん注:これは、
双子葉植物綱ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata
である。「日本大百科全書」から引く(読みは一部を除いてカットした)。『ブナ科(APG分類:ブナ科)ブナ属の落葉高木。高さ』二十『メートル以上、直径』一『メートルにも達する。樹皮は灰白色で平滑であるが、地衣類がつきやすくさまざまな斑紋をつくる。葉は左右不対称の卵形から菱形で、縁(へり)は波状の鋸歯がある。側脈は』七~十一『対で、先端は上部へ流れる。花は新葉より』、『すこし早く開く。雌花は新枝の上部の葉腋につき、緑色の総包内に、赤紫色の柱頭をもつ』二『個の花をつける。雄花は新枝の下部につき、細い柄をもつ頭状花序を下垂し、黄色の葯が割れ』、『大量の花粉を放出する。風媒花で、雌性先熟である。一雌花内には三つの子房と六つの胚珠があるが、一胚珠だけが成長して殻斗内に二堅果を結ぶ。秋、黄葉に先だって成熟する。堅果は褐色で三稜のある卵形なので、ソバの実にたとえてソバグリともいう。隔年結果の性質が強く、豊作は』六~七『年に』一『回程度と少ない。堅果はシギゾウムシ』(甲虫目ゾウムシ科シギゾウムシ属 Curculio )『の食害や粃(しいな)が多く、落下後の乾燥にもきわめて弱いことから、天然更新上の一つの障害になっている。ほかのブナ科の種は、発芽のときに地下に種子が残る地下子葉型であるが、ブナだけは双葉が地上に出る特性をもつ。北海道渡島(おしま)半島の尻別川流域を北限とし、鹿児島県高隈(たかくま)山まで分布する。温帯林の肥沃な土地の優占種となり、いわゆるブナ帯を形成する。とくに多雪な日本海型気候下では他種との競争に強く、近年の伐採を免れた美林が残存する。材は人工乾燥と防腐の技術により、最近では家具材やフロアリングのベニヤ板などとして重要となっている』。『ブナ属には、日本産のイヌブナのほか、ヨーロッパブナ、アメリカブナ、タイワンブナなど』十『種以上知られている。かつてヨーロッパ文明をはぐくみ、「森の母」と尊ばれたブナの広大な自然林も、今日では牧畜や農耕や植林のため、その大半が失われてしまった』とある。当該ウィキもリンクしておく。
『「撫」は「模」と同《おなじ》』は、音が「ブ・モ」である。但し、「橅」を樹種ブナに当てるのは、国字としての用法である。漢語としての「橅」は「かた(形・型)・のり(法・法式)」の意味しかなく、「模」と同義とする。「而《しかれ》ども、字義、當らず」とあるのは、それを指している。
「橿(かし)」「かし」は八種どころか、数々、ありまする! 先行する「櫧木」の私の迂遠注を御覧あれかし! 「日本大百科全書」の「カシ」「かし/樫」「橿」も引用しておく(読みは一部を除きカットした)。『一般にはブナ科(APG分類:ブナ科)の常緑性の種を総称する。分類学的にはコナラ属Quercusのアカガシ亜属Cyclobalanopsisに含まれ、殻斗の鱗片が同心円状に合一し、数層の横輪をつくり、鱗片が瓦』を『重ね』たように『並ぶコナラ亜属とは区別される。したがって、落葉樹が多く』、『かつ』、『コナラ亜属に分類されるoakはナラ類であり、カシと邦訳するのは正確ではない。中国では近年、アカガシ亜属に』「椆」『の字をあて他と区別している。アカガシ亜属以外でカシの名のつくものに、ウバメガシ、コルクガシ(コナラ亜属)とシリブカガシ(マテバシイ属)がある。晩春、尾状の雄花序と』一~三『個の雌花を新葉のわきにつける。堅果(どんぐり)は楕円状球形で、当年の秋までに成熟するアラカシ、シラカシ、イチイガシと、翌年の秋までかかるアカガシ、ハナガガシ、ウラジロガシ、オキナワウラジロガシ、ツクバネガシがある。日本では宮城県以南の暖帯におもに分布し、耐陰性が強く、樹齢も長く、極相林の優占木となる。世界に約』四十『種あり、おもに東アジアに分布し、いわゆる照葉樹林文化の発祥の舞台となった地域と重なる。材は輻射孔材で、カシ(堅木)の名のとおり』、『ブナ科のなかでも強靭で重く、弾力があり』、『水湿にも強いため、古来より農機具、建築、船舶、車両用材に用いられ、果実は飼料、食料として重要であった。庭園樹としても用いられ、関西地方に多いアラカシの生け垣や、関東の農家に残るシラカシの防風・防火林は有名である』。『なお、民間薬の「うらじろがし」は胆石症や腎結石に効くといわれる。この民間薬の薬用起源はきわめて新しく、徳島県東部の勝浦町で』大正一四(一九二五)年頃、『同地方でシラカシとよばれる植物の葉を煎じて服用すると胆嚢結石に著効があったといわれた』昭和三三(一九五八)年、『徳島大学医学部では』十年『年間にわたって』、『この研究を行い、薬効が証明された。このころから多く市販されるようになった』。『カシの材は堅くて弾力性があり、用途が広い。福井県の鳥浜貝塚遺跡(縄文時代)の遺物には、カシの弓、尖り棒、杭などがみられ、なかでも、弓の』六『割がカシ類で、尖り棒もカシ類がもっとも多い。またアカガシ、アラカシ、イチイガシの種子は食用になるが、佐賀県西石田遺跡などからは、貯蔵された種子が大量に出土している。建築材としても優れ、沖縄の守礼門にはオキナワウラジロガシが使われている。ウバメガシは紀伊(和歌山)産の備長炭の原木である』とあった。
「空疏(うつぎ)」漢字表記は「空木」「卯木」で、ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata 。
「紀州黒江《くろえ》」現在の和歌山県海南市黒江(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。
「江州の多賀」滋賀県犬上(いぬかみ)郡多賀町(たがちょう)。]
なら 楢
【和名奈良
俗云古奈良】
楢【音秋】
△按楢樹高𠀋許葉花實如槲柞之輩秋月紅葉時人以
賞之 德大寺左大臣
夕かけてならのはそよき吹く風にまたき秋めく
神なひの森
[やぶちゃん注:この歌の作者は「後德大寺左大臣」が正しい。訓読文では、添えておいた。]
*
なら 楢
【和名、「奈良」。
俗に云ふ、「古奈良《こなら》」。】
楢【音秋】
△按ずるに、楢≪の≫樹、高《たかさ》、𠀋ばかり。葉・花・實、槲(くぬぎ)・柞(はゝそ)の輩《うから》のごとし。秋月《あきづき》、紅葉する時、人、以《もつて》、之れを、賞す。 後德大寺左大臣
夕かけてならのはそよぎ吹く風に
まだき秋めく神なびの森
[やぶちゃん注:これは、「小楢」「楢」で、
双子葉類植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ Quercus serrata
である。「日本大百科全書」から引く(読みは一部のみでカットした)。『ブナ科(APG分類:ブナ科)の落葉高木。高さ』十五『メートル前後で、大きいものは』二十五『メートル以上、胸高直径』八十『センチメートルに達する。樹皮は灰黒褐色で縦に不規則に浅裂する。老樹では灰白色となり深裂する。主根は垂直、深根型で、地下』三『メートルに達し、稚苗も主根は太く棒状となる。枝は斜上し、先端は細く分枝する』。一『年枝は灰褐色で有毛であるが、のちに無毛となる。皮目は白色で散生し、冬芽は』五『稜のある円錐形で、褐色の鱗片で密に包まれる。葉は互生し、葉柄は』三~二十『ミリメートル、裏面は軟毛が残り灰緑色、葉身は倒卵形ないし長楕円形をなし、長さ』六~十五『センチメートル、葉縁にはやや内曲する粗い鋸歯がある。側脈は』九~十二『対。雄花序は開葉直後に新枝の下部に数個下垂し、長さ』四~八『センチメートル、花は多数』で、四~六『個の雄しべから無数の花粉を放出する風媒花である。雌花序は新枝の上部の葉腋から斜上し、長さ』一~二『センチメートルで、花は総包に包まれて』二『個ないし』、『数個つき、柱頭は心臓形に』三『裂する。秋には子房が発達して堅果となり、総包は瓦』を『重ね』たように『癒着しながら成長し』、『殻斗となる。堅果は円柱状楕円形で褐色、上端に柱頭が残存し、下部は殻斗に』三『分の』一『ないし』四『分の』一『が包まれる。堅果に休眠性がなく、落下して』一『か月足らずで長さ』二十『センチメートルほどの根を出すが、子葉は種子内にとどまり、地下子葉として冬を越す。乾燥には極端に弱い』。『陽樹で若木の成長は早い。萌芽力が強く、伐採後』二十『年で樹高』十五『メートルに達し、薪炭林(しんたんりん)としてクヌギとともに日本を代表する雑木林をつくる。種子島以北の日本全土および朝鮮半島の低山帯にもっとも普通にみられるが、天然林はまれである。タバコの栽培では落ち葉を畑にすき込んだり、シイタケの原木として利用するために、人為的に管理された林も残るが、近年の燃料革命で放置された林は、マツ林と同様に、より耐陰性の強いカシ類の林に変わりつつある。材は環孔材で木目は美しい。針葉樹とは逆に、成長の早いものほど比重は重く良材となるが、大径木がなくなったため、家具などのナラ材はほとんどがより良質の北海道産のミズナラを用いる』。『外国語の oak(英語)、chêne(フランス語)、Eiche(ドイツ語)はコナラを含むナラ属 Quercus をさすが、狭義には、常緑で殻斗に輪紋様があるカシ類と対比されるコナラ亜属 Lepidobalanus に含まれ、殻斗に鱗片が瓦重ね状につく特徴があるものをさす。このナラ類は』、『北アメリカを中心に北半球の温帯に広く分布し』、二百『種以上を含む大きなグループである。ヨーロッパナラ Q. robur 、Q. petraea は大木となり、「森の王者」と尊ばれ、建築材、家具材、洋酒の樽材として、また大量の実はブナとともにブタの飼料として』大切『であった。地中海沿岸や暖帯、亜熱帯には常緑のナラもあり、holm oak、live oak として区別することもある。単なる oak は落葉性のナラをさし、カシと訳すのは正確ではない。中国では「栎」の字をあて、カシの「椆」と区別する。和名のナラは、単にコナラ、ときにミズナラをさすのが普通である。ハハソ(柞)はコナラやクヌギの古名である』とある。
「槲(くぬぎ)」先行する「橡」の私の冒頭注を見られたい。
「柞(はゝそ)」前項の「柞」の私の冒頭注を見られたい。
「夕かけてならのはそよぎ吹く風にまだき秋めく神なびの森」「後德大寺左大臣」本歌は、「夫木和歌抄」所収の一首である。「後德大寺左大臣」は平安後期から鎌倉初期にかけての公卿・歌人である徳大寺実定(保延五(一一三九)年~建久二(一一九二)年)のこと。「百人一首」(第八十一「ほととぎす鳴きつる方(かた)をながむればただありあけの月ぞ殘れる」)で知られる。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「13990」)。]
[やぶちゃん注:底本はここ。]
「三角白鹿《みつつののはくしか》」 庵原郡杉山村杉山にあり。「類聚國史」云《いはく》。『欽明天皇二十五年甲申冬、令乄下二蘇我稻目ヲ一狩中蕣河國ノ庵原郡杉山ニ上、得テ二三角白鹿ヲ一献ㇾ官、終ニ連歲有二洪水ノ之災一。云云』。謂《いひ》は山の神の類《たぐゐ》にや。杉山、今、猶村、名、存《そん》せり。
[やぶちゃん注:まず、訓読しておく。
*
欽明天皇二十五年甲申《かうしん》冬、蘇我稻目《そがのいなめ》をして、蕣河國《しゆんがのくに》の庵原郡《いほはらのこほり/いはらのこほり》杉山《すぎやま》に狩《かり》、「三角白鹿」を得て、官に献《けんず》、終《つひ》に、連歲《れんさい》、洪水の災《わざはひ》、有り。云云《うんぬん》。
*
「連歲」「年を続けて」の意。
「庵原郡杉山村杉山」現在の静岡市清水区杉山(グーグル・マップ・データ)。
「類聚國史」(るゐじゆこくし/るゐじゆうこくし)は編年体である「六國史」(りっこくし)の記事を、中国の「類書」に倣って、分類・再編集した歴史書。菅原道真の編纂になるもので、寛平四(八九二)年に完成した。但し、参照した当該ウィキによれば、『宇多天皇の勅令を受けて、菅原道真が編纂した書籍であ』るが、「日本三代實錄」『部分については』、『後世の加筆とされる』。『編纂の目的は政治での運用とされる』。『仁和寺書籍目録によれば、もとは本文』二百『巻、目録』二『巻、系図』三『巻の計』二百五『巻であったが』「応仁の乱」『以降』、『散逸し、現存するのは』六十一『巻のみである』。『現存分は神祇、帝王、後宮、人、歳時、音楽、賞宴、奉献、政理、刑法、職官、文、田地、祥瑞、災異、仏道、風俗、殊俗という』十八『の分類(類聚)ごとにまとめられている。特筆すべきは』、『検索を容易にし、先例を調べる便宜を図っていること、原文主義をとって』、『余計な文章の改変を一切排していることである。たとえば、神祇部の巻』一と『巻』二『は』、「日本書紀」『をそのまま転載している』。『また』、「日本後紀」『の多くが失われているため、復元する資料としても貴重である』。『中国の唐代では、詩文の作成や知識の整理のために、古典の中から必要な箇所を抜き書きして分類編纂することが広く行われ、これを』「類書」『と称した』。『この書も類書の形態を踏襲しており、日本における類書の一つと言える』とある。
「欽明天皇二十五年」ユリウス暦五六四年。
「蘇我稻目」(?~五七〇年)は飛鳥時代の豪族。「崇仏派」の中心となり、物部(もののべ)・中臣(なかとみ)氏らと対立した。皇室と姻戚関係を結び、蘇我氏全盛の礎を作った人物である(「デジタル大辞泉」に拠った)。
まんず、この三つの角を持った白鹿は、山の神であったか、或いは、その使者であったということであろう。]
はヽそ 俗云波波曽
柞【音作】
【又俗稱保於曽
大和有名柞園
地】
本綱柞乃爲橡櫟之異【灌木類亦有柞木可以梳木也】
△按槲枹屬髙者二三𠀋葉似枹而狹尖婆娑秋紅
葉冬黃落五月有花似枹花而長一二寸實亦似枹子
【苦澀】不堪食木心白色亦似檞伹檞木理粗堅而割昜
柞木理細堅而割難以爲異不𭀚材惟可爲薪及炭
詩小雅曰維柞之枝其葉蓬蓬又云折其柞薪曹氏注云
柞堅忍之木新葉將生故葉乃落附著甚固
凡櫧鉤栗椎者一類而其葉冬亦不落新舊交代也
栗櫟檞枹柞橅一類而其葉冬凋落然曹氏謂柞葉
新舊相交者未審 知家
新六鳴く鹿の声聞山のははそ原下葉かつ散秋風そ吹
[やぶちゃん注:「鳴く鹿の」の「鹿」は「雁」(かり)の誤り。訓読文では訂した。]
*
はゝそ 俗、云ふ、「波波曽」。
柞【音「作」。】
【又、俗、「保於曽《ほおそ》」と稱す。
大和に、
「柞園(ほをその[やぶちゃん注:ママ。])」
と名のる地に有り。】
本綱に曰はく、『柞《サク》は、乃《すなはち》、橡《シヤウ》・櫟《レキ》の異≪名≫と爲《なす》。』≪と≫。【灌木類にも亦、「柞」の木、有り。以つて、≪其れは≫「梳木」と作《な》すべきなり。】[やぶちゃん注:割注は良安のもの。]
△按ずるに、槲(くぬぎ)・枹(かしは)の屬、髙き者、二、三𠀋。葉は、枹に似て、狹《せば》く、尖り、婆娑として、秋、紅葉(もみぢ)し、冬、黃(きば)み、落つ。五月、花、有り、枹の花に似て、長さ、一、二寸。實も亦、枹の子《み》に似て【苦澀。】、食ふに堪へず。木の心、白色。亦、檞(くぬぎ)に似《にる》。伹《ただ》し、檞は、木理(きめ)、粗(あら)く堅《かたく》して、割り昜《やす》し。柞は、木理、細(こまか)に、堅くして、割り難し。以つて、異と爲す。材に𭀚《あて》ず、惟だ、薪《まき》及び炭《すみ》と爲べし。
「詩≪經≫」の「小雅」に曰はく、『維《こ》れ 柞《さく》の枝 其の葉 蓬蓬たり』、又、云はく、「其の柞《さく》 薪《まき》を折《き》る」と。曹氏が注に云≪はく≫、『柞は堅忍の木≪たり≫。新葉《しんば》、將に生《しやうぜ》んとする時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、故葉(ふるば)は、乃《すなはち》、落《おち》て、附著す。甚《はなはだ》、固し。』≪と≫。
凡《およそ》、櫧(かし)・鉤栗(いちい)・椎(しゐ)は、一類にして、其の葉、冬も亦、落ちず、新舊、交代す。
栗(くり)・櫟(とち)・檞(くぬぎ)・枹(かしは)・柞(はゝそ)・橅(ぶな)は、一類にして、其の葉、冬、凋落《しぼみお》つ。然《しか》るに、曹氏、『柞葉《さくやふ》、新舊、相交《あひまじ》はる』と謂《いふ》は、未-審(いぶか)し。
「新六」
鳴く雁の
声《こゑ》聞《きく》山の
ははそ原《はら》
下葉《したは》かつ散《ちる》
秋風ぞ吹《ふく》 知家
[やぶちゃん注:「柞」「ははそ」(「はわそ」と表記した時代もあった)は、ナラ(楢・柞・枹)で、
ブナ科Quercoideaeコナラ亜科 Quercoideaeコナラ属 Quercus コナラ亜属 subgenesis Quercus の内で、落葉性の広葉樹の総称
であり、
秋には葉が茶色くなる
ものを指す。具体的には、本邦では、
クヌギ Quercus actissima
ナラガシワ Quercus aliena
ミズナラ Quercus crispula (シノニム :Quercus mongolica var.grosseserrata)
カシワ Quercus dentata
コナラ Quercus serrata
アベマキ Quercus variabilis
である(以上は、ウィキの「ナラ」に拠った。リンクは同ウィキの各種)。
一方、現代中国では、「拼音百科」の「柞树」(「树」は「樹」の簡体字)によって、
コナラ属モンゴリナラ Quercus mongolica
に限定されている。当該の本邦のウィキによれば(下線は私が附した)、『モンゴリナラ』。『中国東北部、モンゴル、ロシア原産。モウコガシワとも呼ばれる』。『ユーラシア大陸産と同一とも、ミズナラとカシワの交雑種とも言われるが、はっきりと特定されていない。しかし近年ではマイクロサテライトマーカー等を使用したコナラ属全体の遺伝構造の研究によって、日本の(少なくとも)東海地方に分布する“モンゴリナラ”は大陸産のものではなく、国内に分布するミズナラから分化したものであることが示唆されたため、“モンゴリナラ”と呼ぶのは不適当との見方が強い。それを受け、「フモトミズナラ」という新しい名称が近年提案されて現在に至っている。なお、通常は山地帯にしか分布しないミズナラがなぜ一部の地域では低標高に分布して「フモトミズナラ」林を形成しているかについては十分な検討がなされていないものの、分布地がいずれも荒地などの植物の生育にあまり適していない場所であることから、通常侵入し易い暖地性植物が侵入・生育しない空間に、空きのニッチが生じて、ミズナラの遺存集団が残ったままになっているという可能性が指摘されている』とあり、『岩手県、宮城県、福島県、栃木県、山梨県、福井県、岐阜県、愛知県、島根県などに分布する』とあった。
但し、引用された「本草綱目」のそれは、またしても、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「槲實」([075-60a]以下)からの極小の部分引用★に過ぎず、前項と同様に、良安は、「本草綱目」を明らかに軽視しており、
『柞《サク》は、乃《すなはち》、橡《シヤウ》・櫟《レキ》の異≪名≫と爲《なす》。』の
「橡」は先行する「橡」で考証した通り、コナラ属 Cerris 亜属 Cerris 節クヌギ Quercus acutissima
であり、
「櫟」は、同じく、「橡」で示したように、同じくクヌギの漢名の異字に過ぎない
のであって、「橡」と「櫟」は別々な種を指すものではないのである。良安は、恐らく、それに気づいていたのであろう。ただ、
時珍は、そこに、モンゴリナラ Quercus mongolica を含めていた可能性は非常に高い
と思われる。
『大和に、「柞園(ほをその[やぶちゃん注:ママ。])」と名のる地に有り』この「柞園」という地名は、思うに、現在の奈良県吉野郡野迫川(のせがわ)村柞原(ほそはら)のことかと思われる(グーグル・マップ・データ)。
『【灌木類にも亦、「柞」の木、有り。以つて、≪其れは≫「梳木」と作《な》すべきなり。】』この割注は、良安が、「本草綱目」に対抗して、「ははそ」を、一樹種として、強引に断定し、別に、灌木類の一群に、別の「梳木」を差別化して、ブチ挙げ、己(おの)が見解を主張したに過ぎない。良安は、厳密な種同定をしているわけではなく、時珍の見解に「物言い」をしただけのことなのである。
『「詩≪經≫」の「小雅」に曰はく、『維《こ》れ 柞《さく》の枝 其の葉 蓬蓬たり』、又、云はく、「其の柞《さく》 薪《まき》を折《き》る」と』前者は、「詩經」の「小雅」「桑扈之什(さうこのじふ)」の「采菽(さいしゆく)」の一節である。「中國哲學書電子化計劃」の同詩を見られたい。第四聯の冒頭の二句である。『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』の「采菽(引用2:諸侯歓待の宴)」の訳と解説が、よい。また、後者は、「詩經」の「小雅」「桑扈之什」の「車舝(しやかつ)」の一節である。同前で、ここで同詩を見られたい。第四聯の冒頭の二句である。また、『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』の「車舝(引用3:嫁取り歌)」をリンクさせておく。
「曹氏が注に云≪はく≫、『柞は堅忍の木≪たり≫。新葉《しんば》、將に生《しやうぜ》んとする時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、故葉(ふるば)は、乃《すなはち》、落《おち》て、附著す。甚《はなはだ》、固し。』≪と≫」この注がどこに出るかは、判らなかったが、「漢籍リポジトリ」の「欽定四庫全書」の「詩緝卷二十四」(宋・嚴粲撰)の[024-5a]以下に、
*
維柞之枝【柞音鑿○曰柞櫟也即唐鴇羽所謂栩也解見鴇羽○曹氏曰柞堅忍之木其新葉將生故葉乃落葢附著之甚固也】其葉蓬蓬【傳曰蓬蓬盛貌】
*
と確認は出来た。
「新六」「鳴く雁の声《こゑ》聞《きく》山のははそ原《はら》下葉《したは》かつ散《ちる》秋風ぞ吹《ふく》」「知家」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良:この歌の作者)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02303」である。そこでの表記は、
*
なくかりの-こゑきくやまの-ははそはら-したはかつちる-あきかせそふく
*
となっている。]
[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落を成形し、記号を大幅に附加した。本話は、必ず、前項の「龍落爪爲山名」をまず、読まれたい。]
「龍爪神異《りゆうさうしんい》」 庵原郡由井驛《ゆひえき》にあり。「※雜物語』云《いはく》。
[やぶちゃん注:「庵原郡」この郡(こおり)名の読み方は、二つ前の「孕女爲崇」を見られたい。
「由井驛」東海道の宿駅「由比」(ゆい)である。ここで、右中央に旧「由比宿」を、左中央に「竜爪山」(りゅうそうざん)をグーグル・マップ・データで配しておいた。
「爼」の(へん)+(つくり)「交」。但し、底本の異なる国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」では、『爼雑物語』となっている。国立国会図書館デジタルコレクションの「駿國雜志」の別の六冊のここには、「爼雑物語」で載る。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの全く別の本で確認出来るので、確かにある書物であるのだが、詳細は不詳である。識者の御教授を乞うものである。]
『庵原郡由井鄕《ゆひがう》、櫻野に藥師堂あり。
[やぶちゃん注:「櫻野」グーグル・マップでは探せなかったが、「ひなたGIS」で探し当てた。由比川の上流のここに「桜野」とある。国土地理院図の方には、「卍」「⛩」記号もあるので、ここであろうと思われる。但し、この寺、検索では掛かってこない。強度研究家の方の御教授を乞うものである。]
別當を「玄慈坊」と云《いふ》、時宗の僧也。此人、片鬢《かたびん》、禿《はげ》て、一方、赤く光りし故、異名して「光る玄慈坊」とぞ云けり。生《うま》れ付《つき》、愚直にして、善惡によらず、人の云《いふ》事を誠《まこと》と聞受《ききうけ》て、さらに違《たが》ふことなし。
あまりに正直成《なる》に依《より》て、里村の若者、うち寄合《よりあひ》、
「御僧《ごそう》は、朝夕の食事のしざま、よからず。總《すべ》て、食事と云ものは、まづ、食せんとする前、手をたゝきて、三度、膳を𢌞り、三度、禮拜して、食し終りて、又、斯《かく》の如くする物也。」
と欺《あざむ》けり。
此僧、
「扨は。左《さ》にこそ。」
とて、是より、敎《をしへ》の如くして、食事す。
或時、村老の云やう、
「一宇の別當と謂《いは》れん者、愚痴文盲にしては、いかゞ、御身は年も、よりぬ、人も免《ゆる》すべし。弟子の尊海は、せめて、學問させて、物の道理も知れかし。むかしより、叶《かなは》ぬ事は神佛に祈り、成就する事あり。同じくは、所の神社に祈《いのり》て、尊海を人となし給《たまへ》。」
と云。
僧、道理に思ひて、十四歲に成《なり》ける尊海を伴ひ、龍爪權現《りゆうさうごんげん》に日參し、道德の出家とならん事を祈り、是が爲に、水食《すいしよく》をも絕《たつ》が如し、朝暮《てうぼ》の信心怠《おこたり》なかりき。
其しるしや有けん、尊海、日々我儘にのみ振舞《ふるまひ》て、師の敎育に隨はず。
或時、此僧、近隣の村老及び農人、寺僧等を集め、尊海を眞中《まなか》に引居《ひきす》へ、或は叱《しつ》し、或は怖《おど》し、異見さまざま也。
然《しか》るに、尊海、俄然として氣色《きしよく》を損《そん》し、懷《ふところ》より硯筆《けんひつ》を取出《とりいだ》し、物、書《かき》、見るに、其筆勢、點畫《てんが》の美なる、恰《あたか》も、和漢高名の人の書に、ことならず。眞・草・行・假名字に至る迄、
「さらさら」
と、かきくだせり。
衆人、膽《きも》を消し、奇異の思《おもひ》を、しけり。
尊海、また、
「天竺の文字は、斯《かく》の如き物ぞ。」
とて、「あびらうんけん」の五字を書き、懷より、赤き頭巾の、角々《かどかど》に鈴《すず》付《つき》たるを出《いだ》して、頭《かしら》にいたゞき、劍《つるぎ》と、片齒《かたば》の鐵足駄《てつあしだ》を取出《とりいだし》、是を、はき、劍を携へ、
「我に、龍爪權現の乘付《のりつか》せ玉ひぬ。凡夫の族《やから》、願《ねがひ》・望《のぞみ》あらば、卽時に叶ふべし。」
と、飛揚《とびあが》り、飛揚りする事、一、二丈、其《その》する事、元より、知らざる所也。
かく、口走る事、止《やま》ず、
「早く、御湯《みゆ》、奉れ。」
となり。
卽《すなはち》、御湯を捧《たてまつ》るに、託《たく》して曰《いはく》、
「病《やまひ》ある者、望《のぞみ》ある者は、來《きた》れ。」
と云《いふ》。
近里遠村、これを傳へ、藥師の堂前、群《むれ》をして、是を祈り、悉く、望み、足れり。
故に、人、あがめて、尊海を「一《いち》の森《もり》」とぞ、稱しける。
其《その》諸願祈念の時は、火を改め、身を淸淨にす。
婦人は、是を、いとはず、唯《ただ》、賑《にぎや》か成《なる》を、此神は、悅び玉ひける。云云。』。
「巡村記《じゆんそんき》」云《いはく》。[やぶちゃん注:書不詳。]
『庵原郡平山村、龍爪山權現の事を尋《たづぬ》るに、延享年、奧樽村に、權兵衞と云《いふ》樵夫《きこり》あり。
[やぶちゃん注:「延享年」一七四四年から一七四八年まで。徳川吉宗・徳川家重の治世。
「奧樽村」「ひなたGIS」の「樽」がそれであろう。龍爪山の東北方向の山間地である。サイト「やちまた工房」の「Ⅰ 龍爪山開創のこと(―樽の権兵衛の話―)」にこの伝承が、恐ろしく詳しく検証されてあるので(本篇も引用されてある)、見られたい。]
或時、物付《ものつき》の如く、狂《くるひ》て曰《いはく》、
「吾は龍爪權現也。願《ねがひ》あらば、吾に告《つげ》よ。」
と云《いひ》て、日々、濱に出《いで》、髮を洗ひ、身を淸む。
[やぶちゃん注:「濱」これは、恐らく、「樽」のローケーションからは、海の浜ではなく、中河内川の川辺の謂いであろうと思われる。]
病《やまひ》ある者、路頭に迎《むかへ》て、是を祈るに、大《おほき》に驗《しるし》あり。
是より、流行して、「瀧紀伊《りゆうきい》」と號す。云云。』。
按《あんず》るに、「奧樽名寄牒《おくたるなよりてう》」に、なし。小地名ならん。
[やぶちゃん注:「瀧紀伊《りゆうきい》」の読みは、あてずっぽである。
「奧樽名寄牒」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションでもヒットしない。]
又云《いふ》。
「徃昔の夏、雲たな引《びき》、一龍《いちりゆう》下《くだ》り、誤《あやまり》て、梢上《こづえがみ》に爪《つめ》を落《おと》す。人、是を、拾ひ取れり。是より、此山を龍爪山《りゆうさうざん》と云。もとの名は「時雨峯《しうみね》」と號《がうす》。云云。」。
「玉滴隱見」云《いはく》。
『寬文元年九月、駿州由比の櫻野といふ云所に、希有の事ありけり。所謂、櫻野の藥師堂の別當を「玄慈坊」と云《いひ》て、時宗の僧也。此玄慈坊、片小髮《かたこがみ》、駁(はげ)て、きらきらと、しければ、時の人、異名を付《つけ》て、「光る源氏坊」とぞ、云《いひ》ける。云云。』。
已下の文、前に同じ。故に是を畧す。
[やぶちゃん注:「玉滴隱見」天正(一五七三年~一五九二年)の頃から、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱(同年逝去)・徳川綱吉の治世)に至る雑説を年代順に記した雑史で、作者は、江戸前期の儒者で林羅山の三男であった林鵞峰(はやし がほう 元和四(一六一八)年~延宝八(一六八〇)年)。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば、『斎藤道三が土岐家を逐う出世話・本能寺の変・関ヶ原の合戦・大坂の陣・島原の乱・慶安事件・承応事件・伊達騒動・浄瑠璃坂の敵討・末次平蔵の密貿易事件など』、『ほか』、『多くの逸事、 落書・落首を収めた近世期の生の史料』とある。「国書データベース」のここ(写本)で視認出来る。
「寬文元年九月」万治四(一六六一)年四月二十五日に改元している。]
[やぶちゃん注:底本はここ。記号を附加した。]
「龍落爪爲山名《りゆう つめを おとし さんめいと なす》」 庵原郡平山村、龍爪山にあり。「駿河誌」云、『龍爪山の嶽に龍爪權現の社あり。其嶺に徃昔の夏、雲靉《たなびき》て一龍くだり、あやまりて木の枝に爪を落せり。野叟(やさう)拾ひとりてより、此山を龍爪山《りゆうさうさん》と號《なづけ》たり。或說に、此山を時雨匝(しうさう)[やぶちゃん注:珍しい底本のルビである。後も同じ。]山と云。時雨《しぐれ》いつも山の巓《いただき》を匝(めぐる)が故、この名あり。宗長法師《さうちやうほふし》の「龍ある峯」と讀《よみ》しも、此山の事也。云云。宗長の歌、未見當らず、追て加ふべし。此山、常に雲深く、實《げ》に時雨の名、據《よりどころ》あり。權現の神異は近頃の事にして、古くは有《あり》とも聞へず。』。
[やぶちゃん注:「庵原郡平山村、龍爪山」現在の静岡県静岡市葵区平山にある龍爪山(りゅうそうざん:グーグル・マップ・データ)。現在、竜爪山静岡穂積神社がある。サイト「BODHI SVAHA」の「穂積神社(ほづみじんじゃ)竜爪山 静岡穂積神社」によれば、『恵水(龍)の他、弓矢の時代より矢、弾除けの神社として広く知られております』。『山そのものが信仰の対象だった竜爪山』の項に、『遠足やハイキングで、登ったことがある人も多いはずの「竜爪山(りゅうそうざん)」』は、『標高』千『メートルを越す文珠山と薬師山の両方を合わせて呼ばれているその山頂近くに、この地に逃れた武田軍の残党により、慶長』一四(一六〇九)『年に祀られたという「穂積神社(昔の呼称は竜爪権現)」が鎮座しています』。『「落人の一人、望月権兵衛がある時真っ白な鹿を撃ち殺し、その夜から病の床に就くようになった。ある日』、『夢枕に一人の老人が立ち、『お前が以前撃った鹿はわが使いのものである。お前が竜爪山に社を建て、われを祀るなら、その病気を治してやろう』と伝えた』。『言われた通り、早速社を建て竜爪権現と崇め、自ら神主となった」。以上が通説とされていますが、神社総代の古本万吉さんは、空海が作らせたと思われる経文が発見されていることから、平安時代以降の歴史があるのでは…と考えています。また高野山と同じく、山そのものを権現とする山岳宗教という点からも、空海や真言宗との関わりが深いと考えられています。このように徳川期までは神仏二道が慣習でしたが、明治の神仏分離令で、竜爪権現は仏教色が払拭され、現在の穂積神社の誕生となりました。古本さんは』二十五『年にわたり』、『竜爪のことを調べていて、本当の歴史を伝えていきたいと研究を続けています』。『権兵衛が鹿を撃った伝説や、竜爪山が恰好の猟場だったことに起因しているそうですが、武田家の残党が密かに鉄砲の練習をする際、音が響いても言い訳できるよう、祭りとして認めてもらったとも。諸説紛々の竜爪山と穂積神社、山登り以外にも魅力が盛りだくさんです』とあった。本引用の最後の「權現の神異は近頃の事にして、古くは有《あり》とも聞へず。」というのとは、齟齬がある。]
[やぶちゃん注:右下に殻斗附きの「どんぐり」の絵が一個、配されてある。]
かしは 大葉櫟 樸樕
槲樕
枹【音孚】 今云加之波
【和名抄以檞訓加
之波或柏字亦用共非
也】
本綱槲有二種一種叢生小者名枹一種高者名大葉櫟
一名樸樕樸樕者婆娑蓬然之貌俗稱衣物不整者爲樸
樕此樹偃蹇其葉芃芃搖動故也
△按上件之說混雜未審今名加之波者樹似槲而叢生
無髙大者性不堅皮易剥中心白微空伹爲薪耳其葉
婆娑厚𤄃本窄中𤄃末不尖有大刻缺不潤以可裹粽
至冬凋落花似栗花而短凡一寸許其實似櫧子而最
小【苦澀】不堪食
*
かしは 大葉櫟《だいえふれき》 樸樕《ぼくそく》
槲樕《こくそく》
枹【音孚】 今、「加之波《かしは》」と云ふ。
【「和名抄」に、「檞」を以つて「加之波」と訓ず。
或いは、「柏」の字、亦、用ふ。共に非なり。】
「本綱」に曰はく、槲(くぬぎ)に、二種、有り。一種、叢生して小《ちさ》き者、「枹(かしは)」と名づく。一種、高き者を「大葉櫟」と名づく。一名、「樸樕」。「樸樕」とは、「婆娑《ばさ》≪として≫蓬然《はうぜん》」の貌《ばう》≪なり≫。俗、衣物≪の≫整(とゝの)なはざる者を稱して、「樸樕」と爲《なす》。此の樹の偃蹇《えんけん》[やぶちゃん注:高く聳えるさま。]≪として≫、其の葉、芃芃《ほうほう》≪として≫[やぶちゃん注:盛んに茂るさま。]搖動する故なり。
△按うるに、上件の說、混雜して、未だ審かならず。今、「加之波」と名《なづく》る者は、樹、槲(くぬぎ)に似て、叢生し、髙大なる者、無く、性、堅からず、皮、剥(む)け易し。中心、白く、微《やや》、空(うつけ)、伹《ただ》、薪《まき》と爲すのみ。其の葉、婆娑として、厚く𤄃《ひろく》、本《もと》、窄(すぼ)く、中、𤄃く、末《す》へ[やぶちゃん注:ママ。]、尖(とが)らず。大なる刻-缺《きれこみ》、有り、潤《うるほ》はず。以つて、粽《ちまき》を裹《つつ》むべし。冬に至りて、凋落《しぼみお》つ。花、栗の花に似て、短く。凡そ一寸ばかり。其の實、櫧子(かしのみ)に似て、最も小く【苦澀。】、食ふに堪へず。
[やぶちゃん注:流石に、「どんぐり好き」の私も、この一連の「どんぐり」の「族(うから)」の波状的痙攣的連打には、飽きてきた。そもそもが、★この項は、前項の「槲實」と同じ、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「槲實」([075-60a]以下)からのパッチワーク★なのである。則ち、良安が遂に、一種の、時珍への「物申す」ところの「反乱」を企て、己(おの)れの「どんぐり」分類をブチ挙げ、「本草綱目」を批判し、その「混雜」ぶりを、「非論理的な意味でおかしな混乱である」と正面から指弾しているのである。
それに御小姓よろしく、馬鹿みたいに附き随うつもりは、私には、全くない。ここまでで私が考証した事実に従って、以下の注を進める。
「枹」(なお、既に記した通り、この漢字は本邦では「ホウ」と「フ」の二音がある)は、前項で示した通り、中国では、「百度百科」の「枹」の、「現代釈義」の項に、『枹树。有的地区叫小橡树 [glandbearing oak;Japanese silkworm oak]』とあることから、これは、
ブナ科コナラ属 Quercus 、及び、コナラ Quercus serrata
を指す。
反して、良安は「かしは」の訓を示し、後の表現を見ても、狭義の種としての、
コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata
を支持してしているだけのことである。……「良安先生、これを以って、ここは我らは、退場させて戴きまする……」……]
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点を追加し、直接話法部分に鍵括弧を添えた。]
「孕女爲崇《はらみめ たたりを なす》」 庵原郡《いほはらのこほり/いはらのこほり》中河內村《なかがうちむら》にあり。傳云《つたへいふ》。
徃昔《わうじやく》、當村に帶金甚藏某《なにがし》と云《いふ》鄕吏あり。私欲深く、上を畧し、民を貪る事、年あり。
里民、連署して公《おほやけ》に訴へ、帶金が一命を絕《たた》ん事を乞ひ、かの人支配する所の村々より、十五歲を始とし、六十歲迄の農夫を集め、河原に柱を建《たて》て、手足を結付《むつびつけ》、手每《てごと》に石をうち、終《つひ》に嬲殺《なぶりごろし》にす。
其妻、一子、十郞某を背負ひ、布澤村《ぬのざはむら》の方に逃《のがれ》んとす。
時に、追人《おつて》、頻《しきり》にして、迚も遁《のがれ》まじきを知り、一子に敎《をしへ》て曰《いはく》、
「今日《けふ》の怨《うらみ》、必《かならず》、報《むくふ》べし。」
と言畢《いひをはり》て、傍《かたはら》の瀧に投入《とびいり》て、殺しつ【今《いま》其瀧を「十郞の瀧」と云《いへ》り】。
里民、遙《はるか》に後《おく》れて、漸《やうや》く尋來《たづねきた》り、妻を捕へて夫の死地に殺さんとす。
其妻、歎じて云《いふ》、
「吾、既に臨月也《なり》。願くは、此子を產《うみ》て後《のち》、殺せ。」
と。
聽《きか》ずして、石を以《も》て、打殺《うちころ》す。
是より、此村、婦女子、產前後、病《やまひ》、多く、死する者、勝《かつ》て計《おあぞ》ふべからず。
依《よつ》て、帶金が屋敷を點《てん》じ、社《やしろ》を建《たて》て、帶金權現と崇《あが》む。
また、是より、奧の村里、小兒、四、五歲にして、災《わざはひ》多きは、其妻、逃《にぐ》る時、十郞に敎《をしへ》し憤《いきどほり》による也《なり》。
これ、近代の靈社にして、步を運ぶ者、最《もつとも》多し。云云。
[やぶちゃん注:「中河內村」現在の静岡県静岡市清水区中河内(なかごうち:グーグル・マップ・データ航空写真)。興津川支流、中河内川の流域に位置し、北は駿甲国境峠越えで、甲斐国巨摩(こま)郡福士(ふくし)村(現在の旧山梨県富沢町。この附近:グーグル・マップ・データ)に通じた。山間部である。
「帶金甚藏」「おびかねじんざう」或いは「おびがねじんざう」。サイト「苗字由来net」の「帶金」によれば、『現山梨県である甲斐国八代郡帯金村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏族』で、『近年、千葉県、神奈川県にみられる。』とある。
「上を畧し」この場合の「りやくす」は、「攻略す」で、「上役を上手くおだてて、己が自由を恣にし」の意であろう。
「布澤村」「ひなたGIS」のここ。
「十郞の瀧」不詳。逃げ道の方向と、瀧があると思われる辺りを、「ひなたGIS」で示しておいた。
「點じ」地を占って。
「近代の靈社にして、步を運ぶ者、最多し」というのだから、現存していて、おかしくない。それとなく探してみたが、『これかも?』と感ずる神社は、あったが、忌まわしい惨殺と祟りを根っことするものであるから、その伝承があっても、隠されてあるものであろうからして、ここは不詳としておき、これ以上、穿鑿はしない。]
[やぶちゃん注:左下に殻斗附きの「どんぐり」の絵が一個、配されてある。]
どんぐり 櫟橿子
くぬき 俗云止牟久利
其木曰久奴木
槲實 日本紀用櫪木字
和名抄以擧樹釣樟
訓久奴木並誤也
本綱檞山林有之木髙𠀋餘有二種一種叢生小者名枹
[やぶちゃん注:「檞」とあるが、この「本草綱目」の引用部は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「槲實」([075-60a]以下)のパッチワークであるのだが、同項には「檞」は、どこにも、ないのである。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも「檞」であるが、おかしい。従って、これは、「檞」ではなく、「槲實」或いは「槲」の誤りである。東洋文庫は注無しで、訳文を『槲(ブナ科カシワ)は山林にある。』と始めている。訓読文は「槲」と書き変える。]
一種高者名大葉櫟樹葉俱似栗長大粗厚冬月凋落三
四月開花亦如栗花八九月結實似橡子而稍短小其蒂
亦有斗其實苦澀味惡荒歳人亦食之其木理粗不及橡
木雖堅而不堪充材止宜作柴爲炭
赤龍皮
槲木皮【苦澀】煎服除蟲及漏止赤白痢腸風下血煎湯洗
惡瘡 新六帖髙瀨さすさほの河原のくぬき原色つくみれは衣笠內大臣
秋の暮かも
△按【今云久沼木】其實【今云止牟久利】一物二名或二物有少異
枹【今云加之波】灌木而大葉婆娑者本草和名抄皆相混
註之今立各條解之
檞木葉似櫧子木而葉至深秋黃落其子似栗而小團故
俗呼名團栗蒂有斗【苦澀味惡】不可食其樹皮赤色粗厚名
赤龍皮者是也倭方與忍冬藤同煎用熊治癰疔其木
[やぶちゃん注:この「熊」はおかしい。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも「熊」とあるが、読めない。思うに、これは「能」の誤刻ではないかと思われる。東洋文庫は字自体を無視して訳しているが、それで訓読した。]
不堪爲柱材止宜爲薪爲炭攝州池田炭多槲也其樹
有髙大者乎日本紀云景行天皇十八年築石國有僵
樹長九百七十𠀋行人常蹈其樹有一老夫曰是樹櫪
木【久奴木】嘗未僵先朝日隱杵島山【肥前】夕日覆吾夫山【肥後】
詔曰是神木故名是國號御木國【今属筑後謂三毛者訛也云云】
*
どんぐり 櫟橿子《れききやうし》
くぬぎ 俗、云ふ、「止牟久利《どんぐり》」。
其の木を、「久奴木《くぬぎ》」と曰ふ。
槲實 「日本紀」、「櫪木」の字を用ふ。
「和名抄」に「擧樹《きよじゆ》」・
「釣樟《てうしやう》」を以つて、
「久奴木」と訓ず。並《ならび》に
誤りなり。
「本綱」に曰はく、『槲《コク》、山林に、之れ、有り。木の髙さ、𠀋餘。二種、有り。一種は叢生して、小なる者を「枹《フウ》」と名づく。一種は、高き者を「大葉櫟」と名づく。樹・葉、俱に、栗に似、長大、粗《あらく》、厚く、冬月、凋落す。三、四月、花を開く。亦た、栗の花のごとく、八、九月、實を結ぶ。橡《とち》の子《み》に似て、稍《やや》、短かく、小《ちさ》し。其の蒂《へた》も亦、斗《と》[やぶちゃん注:殼斗。]、有り。其の實、苦く澀《しぶく》して、味、惡し。荒歳《こうさい》[やぶちゃん注:飢饉の年。]には、人、亦た、之れを食ふ。其の木の理(きめ)、粗(あら)く、橡の木に及ばず。堅《かたし》と雖も、材に充つるに堪へず。止《た》だ、宜しく柴《しば》と作《なし》、炭《すみ》と爲すべし。』≪と≫。
『赤龍皮《せきりゆうひ》』
『槲木(くすき)の皮【苦、澀。】煎《せん》≪じて≫服すれば、蟲、及《および》、漏《らう》[やぶちゃん注:消化器の內出血であろう。]を除き、赤白痢・腸風[やぶちゃん注:出血性大腸炎。東洋文庫に拠った。]≪の≫下血を止む。煎じて、湯に惡瘡を洗ふ。』≪と≫。
「新六帖」
髙瀨さす
さほの河原の
くぬぎ原
色つくみれば
秋の暮かも 衣笠內大臣
△按ずるに、《槲》【今、「久沼木《くぬぎ》」と云ふ。】、其の實【今、「止牟久利《どんぐり》」と云ふ。】、一物、二名なり。或いは、二物、少異、有り。枹《はう》【今、「加之波《かしは》」と云ふ。】、灌木にして、大≪きなる≫葉、婆娑《ばさ》たる者、「本草≪綱目≫」・「和名抄」、皆、相混《あひこん》≪じて≫、之れを註す。今、各條を立《たて》て、之れを、解《かい》す[やぶちゃん注:糺して解明する。]。
檞木(くすのき)の葉、櫧子木(かしの《き》)に似て、葉、深秋に至《いたり》て、黃(きば)み、落(を[やぶちゃん注:ママ。])つ。其の子《み》、栗に似て、小く、團《まろ》き故、俗、呼んで、「團栗(どんぐり)」と名づく。蒂《へた》に、「斗」、有り【苦、澀。味、惡し。】食ふべからず。其の樹皮、赤色、粗厚《そあつ》≪にして≫、「赤龍皮」と名づく者、是れなり。倭方に、忍冬藤(すいかづら)と同じく煎用《せんじもちひ》、能《よく》、癰疔《ようちやう》[やぶちゃん注:悪性のできもの。]を治す。其の木、柱材と爲《す》るに堪へず。止(たゞ)、宜しく薪と爲《し》、炭と爲《す》るに《✕→るべし》。攝州、「池田炭《いけだずみ》」、多くは、槲(くぬぎ)なり。其の樹、髙大なる者、有るか。「日本紀」に云はく、『景行天皇十八年、築石(つくし)の國に、僵(たをれ[やぶちゃん注:ママ。])樹《ぎ》、有り。長《ながさ》九百七十𠀋、行人(みちゆくひと)、常に其の樹を蹈む。一《ひと》りの老夫、有りて、曰はく、「是の樹は、櫪木(くぬ《ぎ》)なり【久奴木。】。嘗て、未だ僵《たふ》れざる先き、朝日には、杵島山(きしま《やま》)【肥前。】を隱し、夕日には、吾夫山(あそさん)【肥後。】覆へり。」≪と≫。詔《のり》して曰はく、「是れ、神木なり。故に、是の國を名《なづけ》て、『御木國(みきの《くに》)』と號す。」≪と≫【今、筑後に属し、「三毛《みけ》」と謂ふ者、訛《あやまり》なり云云。】。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「槲實」は、文字列から判るように、樹種ではなく、所謂、「どんぐり」を指す。ウィキの「ドングリ」によれば、『広義にはブナ科』(双子葉植物綱ブナ目 Fagalesブナ科 Fagaceae)『の果実の俗称』とし、次いで、『狭義には』、『クリ、ブナ、イヌブナ以外のブナ科の果実』、而して、『最狭義には』、『ブナ科のうち』、『特にカシ・ナラ・カシワなど』、『コナラ属』 Quercus の『樹木の果実の総称をいう』とある。これは、現代中国でも同じであることは、「維基百科」の「橡子」で確認出来る。但し、時珍が、厳密にそれと同じであったかどうかは、確定は出来ないが、上記の広義の「どんぐり」と採っておけば、まずは、一応は、問題はない、と推定出来ると思われる。但し、全然、異なる複数種が含まれている可能性は高いので、一律には言えない。
但し、東洋文庫訳では、「一物、二名なり」の訳に、竹島淳夫氏は、『一物で名が二つある 良安のいうところは、槲には枹と大葉櫟の兩方の名があるということであろうか。良安は中國の槲をクヌギとしているが、カシワとするのが妥当かと思われる。』と後注するので、ここは、取り敢えず、時珍が独立項(種或いは種群)として並べている関係上からは、狭義には、竹島氏の支持される、
ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata
に比定同定しておくこととする。これは、掲げられた挿絵に描かれている実と殼斗からも首肯出来る(ウィキの「カシワ」の実の写真を見られたい)。
カシワについては、詳しくは当該ウィキを見られたい。ここでは、「日本大百科全書」の「カシワ かしわ/柏 槲 檞 daimyo oak」「Quercus dentata Thunb.」を引いておく(読みは一部を除き、カットした)。『ブナ科(APG分類:ブナ科)の落葉高木。太い枝を出し、通常は』十五『メートル以下。樹皮は厚く、深い割れ目がある。新枝も太く黄褐色の短い毛を密生する。頂芽は大きく卵状円錐形で』五『稜がある。葉は倒卵形で基部は耳状となり、長さ』十五~三十『センチメートル、幅』六~十八『センチメートルで、裏面は灰白色の軟らかい毛を密生する。縁(へり)は波形の深い鋸歯がある。枯れ葉は翌春まで枝に残るものが多い』。四~五『月、新枝の基部から黄褐色の多数の雄花穂を下垂し、雌花は上部の葉腋に小さな花序をつける。殻斗は』三『ミリメートルほどの柄があり、褐色、広線形の多数の鱗片を螺旋状につけた椀形で堅果の半分以上を包む。堅果は卵形ないし卵状球形で長さ』一・七~二・五『センチメートル。厚い葉と厚い樹皮があるため』、『風衝地や火山周辺地域、山火事跡地に低木状の純林を』、『よく』、『つくる。また寒暖の差の大きい内陸気候の地域にもよく生える。日本全土、とくに関東地方以北に多く、関西地方では同様の立地にナラガシワ』( Quercus aliena :樹皮は厚く、不規則な裂け目がある。葉は長さ十~二十五センチメートルで、日本産ブナ科では最大。葉柄は一~三センチメートルで、縁は大形の波状鋸歯があり、下面は灰白色の星状毛を密生する。柏餅に用いるカシワの葉は本種のものである。堅果はミズナラ Quercus crispula に似るが、微毛が一面に生え、殻斗の三角状の小鱗片が明瞭である。中部地方以西の本州の里山にみられ、朝鮮半島・中国・インドシナからヒマラヤまで分布する。以上は同書に拠った)『が多い。台湾、朝鮮、モンゴルまで分布する。樹皮はタンニンの含有率がブナ科でもっとも高く、染色や革なめしとして用いられた。カシワは炊(かしい)葉の意味で柏餅に、また神事に用いられ柏手となり』、『残っている。漢字の柏は』、『中国ではヒノキ科』(裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae)『の植物をさす』(既に先行する初回の「柏」で、十全に考証しておいた)。『槲・檞も俗字である。葉形や樹形がヨーロッパのoakに類似するためdaimyo oakの英名が一般的であるが、daimyoの意味には諸説がある』。以下、「文化史」の項。『今日』、『カシワの種子は食用とされないが、縄文時代にはなんらかの方法で渋を抜き、食されていたのであろう。長野県の有明(ありあけ)山社大門北遺跡からは、種子が出土している』。「古事記」に『出る』「御綱柏(みつながしは)」『の正体については、カクレミノ、フユイチゴ、オオタニワタリなどとする諸説があり、さだかではない。またカシワの名は、「炊(かし)く葉」から由来したとする説が有力で、古くは蒸し焼きに使われた葉の総称であったと思われる。現在でも柏餅にサルトリイバラ科のサルトリイバラ』(猿捕茨・菝葜:単子葉植物門ユリ目サルトリイバラ科 Smilacaceaeシオデ(牛尾菜)属サルトリイバラ Smilax china )『の葉を用いる所がある』とある。
「枹《フウ》」「百度百科」の「枹」には、「現代釈義」の項に、『枹树。有的地区叫小橡树 [glandbearing oak;Japanese silkworm oak]』とあった。これは、ブナ科コナラ属 Quercus 、及び、コナラ Quercus serrata を指す。
「大葉櫟」これは、和名のない、Quercus griffithii を指す。「維基百科」の同種「大叶栎」(「栎」は「櫟」の簡体字)によれば、『スリランカ・ミャンマー・インド、雲南省・貴州省・四川省・チベットなどの中国大陸に分布し、標高七百~二千八百メートルの地域の、主に森林に植生する。人工的に栽培されたことはない』とあった。
「赤龍皮」コナラの樹皮の漢方名。サイト「くすきの杜」の「くすきの杜 薬木図鑑」の「小楢」に(一部の記号を句読点や中黒に代えた)、生薬名を、『①樸樕(ボクソク)』『・赤龍皮(セキリュウヒ)、②赤龍葉(セキリュウヨウ)』とあり(葉も薬用とする)、『樹皮・葉、駆瘀血(体の血の滞りを消す)・止瀉(下痢止め)・解毒作用・腫瘍・痔・下血・打ち身・下痢などに用いる。漢方処方では、樹皮が十味敗毒湯,治打撲一方などに配合』されるとあった。
「新六帖」「髙瀨さすさほの河原のくぬぎ原色つくみれば秋の暮かも」「衣笠內大臣」「新六帖」鎌倉中期に成った類題和歌集「新撰六帖題和歌集」(全六巻)。藤原家良(彼が「衣笠內大臣」)・藤原為家(定家の次男)・藤原知家・藤原信実・藤原光俊の五人が、仁治四・寛元(一二四三)年頃から翌年頃にかけて詠んだ和歌二千六百三十五首が収められてある。奇矯・特異な歌風を特徴とする(ここは東洋文庫版書名注に拠った)。当該和歌集は所持しないので校訂不能だが、日文研の「和歌データベース」(全ひらがな濁点なし)で同歌集を確認したところ、「第六 木」で(ガイド・ナンバー「02466」)確認出来た。
『「本草≪綱目≫」・「和名抄」、皆、相混《あひこん》≪じて≫、之れを註す。今、各條を立《たて》て、之れを、解《かい》す』東洋文庫訳の後注に、『『和名抄』(草木部木類)には、釣樟の和名は久沼木。槲の和名は加之波。『唐韻』では柏という。挙樹の和名は久沼木、とある。なお、『和名抄』では枹は太鼓のばち(術芸部雑芸具)である。』とあった。「和名類聚鈔」の、「卷第二十」の「草木部第三十二」・「木類第二百四十八」に(以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本を視認して独自に訓読した。ここと、ここである)、
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釣樟(クヌキ) 「本草」云はく、『釣樟《てうしやう》、一名は鳥樟《てうしやう》【音、「章」。和名「久沼木《くぬぎ》」】』≪と≫。
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その少し後に、
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槲(カシハ) 「本草」に云はく、『槲【音「斗」。斛の「斛」、和名「加之波《かしは》」。】は、「唐韻」に云はく、『柏【音、「帛《はく》」。和名、上に同じ。】は木の名なり。』≪と≫』≪と≫。
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とあった。東洋文庫後注には、『『和名抄』(草木部木類)には、釣樟の和名は久沼木。槲の和名は加之波。『唐韻』では柏という。挙樹の和名は久沼木、とある。なお、『和名抄』では枹は太鼓のばち(術芸部雑芸具)である。』とあった。序でに、その「枹」は、同じく、ここで、「卷第四」の「音樂部第十」・「鐘鼓類第四十六」の以下。
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大鼓(ヲホツヽミ)【枹(ツヽラハチ)附《つけたり》】「律書樂圖」に云はく、『「爾雅」に大皷、之れを「鼖(フン)」と謂ふ【音、「墳」。和名、「於保豆々美《おほつづみ》」。一《いつ》に云ふ、「四乃豆々美《しのつづみ》」。今、案ずるに、「細腰鼓」、一・二・三の名、有り。皆、以つて、節《ふし》に應ず。次第に名を取るなり。】卽ち、「建鼓」なり。「兼名苑」に云はく、『槌(ツイ)の一名は「枹(フ)」。【音、「浮」。字、亦、「桴」に作る。俗に云ふ、「豆々美乃波知《つづみのばち》」。】大鼓を擊つ所以《ゆゑん》なり。』≪と』。
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なお、「枹」には「フ」の音もある。
「櫧子木(かしの《き》)」「本草綱目」と良安のルビは同一種を指さない。先行する「櫧木」を見られたい。
「忍冬藤(すいかづら)」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の漢方生薬名は「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を天日で乾燥したもの。
『攝州、「池田炭《いけだずみ》」』「池田市立図書館」公式サイト内の「池田炭」に、『池田炭は、奥郷と呼ばれた猪名川』(兵庫県川辺郡猪名川町(いながわちょう:グーグル・マップ・データ)を貫流する川)『上流域の山間部で生産されたもので、集散地となった池田の名をとってこう呼ばれるようになりました。佐倉(千葉県)の白炭などとともに日本を代表する炭として広く知られています。クヌギ材を使用した火もちのよい良質な炭で、切り口が菊の花のように美しいことから「菊炭」ともいい、茶の湯では今日でも珍重されています』とある。
『「日本紀」に云はく、『景行天皇十八年、築石(つくし)の國に、僵(たをれ[やぶちゃん注:ママ。])樹《ぎ》、有り。長《ながさ》九百七十𠀋、行人(みちゆくひと)、常に其の樹を蹈む。一《ひと》りの老夫、有りて、曰はく、「是の樹は、櫪木(くぬ《ぎ》)なり【久奴木。】。嘗て、未だ僵《たふ》れざる先き、朝日には、杵島山(きしま《やま》)【肥前。】を隱し、夕日には、吾夫山(あそさん)【肥後。】覆へり。」≪と≫。詔《のり》して曰はく、「是れ、神木なり。故に、是の國を名《なづけ》て、『御木國(みきの《くに》)』と號す。」≪と≫』「筑石」は「筑紫」の誤記。原文は以下。良安のものは、かなりカットがある。少し前から引く。
*
六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑、時殺其處之土蜘蛛津頰焉。丙子、到阿蘇國、其國也郊原曠遠、不見人居、天皇曰、「是國有人乎。」。時有二神、曰阿蘇都彥・阿蘇都媛、忽化人以遊詣之曰「吾二人在、何無人耶。」。故號其國曰阿蘇。秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後國御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、
阿佐志毛能 瀰槪能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮 瀰開能佐烏麼志
爰天皇問之曰「是何樹也。」。有一老夫曰、「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」。天皇曰、「是樹者神木、故是國宜號御木國。」。丁酉、到八女縣。則越前山、以南望粟岬、詔之曰、「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言、「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」。故八女國之名、由此而起也。八月、到的邑而進食。是曰、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞曰浮羽。
*
国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和6(一九三一)年岩波文庫刊)の当該部を視認して参考とし、訓読を示す。
*
六月辛酉朔癸亥、高來(たかく)の縣(あがた)より、杵名(たまきな)の邑(むら)に渡り玉(ま)す。時に、其の處の土蜘蛛「津頰(つつら)」を殺したまふ。
丙子、阿蘇の國に到ります。其の國や、郊原(のはら)、曠く遠くて、人の居(いへ)を見ず。天皇(すめらみこと)曰(のたま)はく、
「是の國に、人、有りや。」。
時に、二神、有り、阿蘇都彥(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)と曰ふ。忽ちに、人に化(な)り、以つて、遊-詣(いた)りて曰はく、
「吾れ、二人、在り、何ぞ、人、無からむや。」
と。故(か)れ、其の國を號づけて、「阿蘇」と曰ふ。
秋七月辛卯朔甲午、筑紫の後りの國の御木(みけ)に到り、高田の行宮(あんぐう)に居(ゐ)ます。時に、僵(すぐ)れたる樹、有り、長さ、九百七十丈(ここのほつゑあまりななそつゑ)。百寮(ももちのつかさ)、其の樹を蹈(ほ)むで、往-來(かよ)ふ。時の人、歌ひて曰はく、
阿佐志毛能(あさしもの)
瀰槪能佐烏麼志(みけのさをはし)
魔幣菟耆瀰(まへつきみ)
伊和哆羅秀暮(いわたらすも)
瀰開能佐烏麼志(みけのさをはし)
爰(ここ)に、天皇、問ひて曰はく、
「是れ、何の樹ぞ。」
一(ひとり)の老夫(おきな)、有りて曰く、
「是の樹は歷木(くぬぎ)なり。嘗つて未だ、僵(たふ)れざる先に、朝日の暉(ひかり)、當りては、則ち、杵嶋(きしま)の山を隱しき。夕日の暉に當りては、亦、阿蘇山を覆(かく)しき。」と。
天皇曰はく、
「是の樹は神木(あやしきき)なり。故(か)れ、是の國を、宜(よろ)しく、「御木の國」と號(なづ)くべし。」と。
丁酉、八女(やめ)の縣に到ります。則ち、前山を越えて、以つて、南のかた、粟岬(あはのさき)を望(おせ)ちたまふ。
詔(のり)して曰はく、
「其の山の峯(みね)の岫(くき)、重-疊(あさな)りて、且つ、美-麗(うるは)しきこと、甚し。若(も)し、神、其の山に有るか。」と。
時に、水沼(みぬま)の縣主(あがたぬし)、猨大海(さるおほあま/さるおほみ)、奏して言ふさく、
「女神(ひめがみ)、有り、名を八女津媛(やめつひめ)と曰ふ。常に山中に居る。」
と。故れ、八女國の名、此れに由りて起これり。
八月、的(いくは)の邑に到りまして、進-食(みをし)す。
是の日に、膳夫等、盞(うき)を遺(わす)る。故れ、時の人、其の盞を忘れし處を號けて、「浮羽(うくは)」と曰ふ。今、「的(いくは)」と謂ふは、訛(あやま)れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)、盞を號づけて、「浮羽」と曰ふ。
*
『今、筑後に属し、「三毛《みけ》」と謂ふ者、訛《あやまり》なり云云。】。』「御木」を「三毛」と誤ったということである。これについては、私の南方熊楠「巨樹の翁の話(その「五」)」を見られたい。]
[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落を成形した。]
「北條氏堯現靈」 庵原郡蒲原驛城山にあり。傳云、永祿十二年十二月六日、武田信玄當城を攻落し、城主北條新三郞氏堯《うぢたか》以下七百餘人を殺す。時に氏堯、靈を此山に止《とどめ》て祟《たたり》をなす。見る者、往々あり。
「草枕」云《いはく》、『昔小田原の北條より、此うしろ成《なる》城山に、北條新三郞と云《いふ》武勇の士をこめ置《おか》れしに、永祿十二年極月五日、武田信玄此濱路を小田原へうち越えんとせしを、新三郞、上なる山よりかけ出《いで》、信玄の先陣小山田備中と合ひ戰《たたかひ》、すでに小山田を追ひなびけしに、城の後《うしろ》にあたりぬる道場山より、四郞勝賴、密《ひそか》にまはりて、さうなく城を乘取《のつとり》ぬれば、新三郞、前後の敵にかこまれ、終《つひ》に討《うた》れはべりぬ。其手のつわもの、舍弟少將、其外淸見・笠原・荒川・多目、以上侍大將六人、雜兵《ざいひやう》七百餘人討死してけり。其妄念や殘りけん、一眼《ひとつめ》の靈鬼と成《なり》て、常に此山をさすらへありく。是を見る野人《やじん》・村老おぢおのヽく事限りなし。天正の末つ方、三浦海法院の住僧、此山に庵を結び、松門《しやうもん》獨《ひとり》閉《とっぢ》て年月《としつき》を送る。坐禪繩床《なはどこ》の庵の內には、本尊持經の外《hか》なくして、身を孤山の嵐の袖にやどし、心を淨域の雲の外にすます。常に讀經のおりおり[やぶちゃん注:ママ。「をりをり」。]、けしかる姿の者見えきたりぬれば、
「いか成物ぞ」
と尋《たづぬ》るに、
「昔此山の城主なりしが、最期の一念に引れて、永く惡趣墮《おち》ずして、かゝる鬼となれり。いと有難き御經《おきやう》のくりきにて、此苦を免《まぬがれ》んとす。猶も御經讀み給へ」
とて、行方知らず成にけりと語る。まことにふしぎ成ける物語りなり。』
[やぶちゃん注:ロケーションや「北條新三郞氏堯」については、前の「諸貝化石」を参考にされたい。「北條新三郞氏堯」事績が事実として確認出来ないので、その他の武将なども注さない。悪しからず。
「草枕」前にも出たが、不詳。]
[やぶちゃん注:底本はここ。]
庵 原 郡
「諸貝化石」 庵原郡蒲原驛城山にあり。里人云《いふ》、「當驛に城山あり、蒲原城と號す。永祿年中、北條新三郞氏堯《うぢたか》籠る所也。今猶石垣存せり。此石を破《やぶり》くだくに、石中より蛤・蜆・あさり等の諸貝出《いづ》。其貝、悉く石となりて、形全く存す。或は小魚の化石あり。鱗形《うろこがた》を顯《あらは》し、肉より割るは其半身骨の形あり。云云。石中《いしなか》にはさまれて小魚諸貝の石と化す、又奇ならずや。
[やぶちゃん注:「庵原郡」これは「いほはらのこほり・いはらのこほり」と読む。旧郡域は当該ウィキを見られたい。
「蒲原驛」現在の静岡県静岡市清水区庵原町(いはらちょう)の位置はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)だが、この地区には東海道の駅宿はないので、傍系街道のそれらしい。
「城山」これは、庵原(「庵原町」の表示を中央に配した)に、東で接する清水区草ヶ谷(くさやが:海抜十六メートル程)に「庵原城跡」(いはらじょうあと)があるが、これか。但し、この城跡については、サイト「城郭放浪記」の「駿河 庵原山城(するが いはらやまじょう)」には、『築城年代は定かではない。今川氏の家臣庵原氏の城と考えられているが定かではない』。『永禄』一一(一五六八)年、『駿河国に侵攻した武田信玄の城となると、今川の旧臣で武田氏についた朝比奈駿河守信置が庵原を領して庵原山城を居城とした。天正』一〇(一五八二)年、『武田氏滅亡の際に大軍に攻められ落城し、朝比奈信置父子は庵原館にて自刃したとも戦死したともいわれる』。『庵原山城は山切川の西岸にあり、川に沿って南へ伸びた尾根に築かれている』。『現在城山の西側に新しい高架橋の道路(新東名?)が建設されており、それによって一部破壊されているようである』。『西と北に堀切を設けていたようであるが、西側の堀切は道路建設によって残っていないようである。曲輪は南の尾根先に向かって伸びており、段は低い石塁によって区画されているようである』とあり、「北條新三郞氏堯」が籠った事実は見当たらない。次の注も参照。なお、この城跡ならば、縄文海進の際に海の中であった可能性が極めて高いので、貝や魚類の化石が出ても、なんら、おかしくない。私の家の近くの、この山(「ひなたGIS」。海抜六十メートル超)の崖で、私は少年期に、多量の貝や魚の化石を、多数、発掘している。
「北條新三郞氏堯」echigoya氏のサイト「戦国猛人」のこちらに、大永二(一五二二)年出生(『?』附き)とし、没年不詳として、『北条氏綱の四男。通称は竹王丸。左衛門佐。通説では北条氏康の六男または七男とされていたが、氏康嫡男の北条氏政らと比較しても明らかに年長であることから、氏康の実子ではなく養子とされたものと思われる』。『活動の初見は天文』二四年(=弘治元(一五五五)年)六月に、『上野国平井の統治に係る人事を差配したことであり、このとき』三十四『歳であったと思われる。かつ、叔父にあたる北条幻庵の後見を受けている。氏堯の活動開始が遅かった理由は不明だが、この翌月には一軍の将として安房国へ出陣している』。永禄元(一五五八)年四月、『古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮への参詣を終えて小田原城内の氏康亭を訪れた際、寝殿での給仕役の筆頭として饗応した』。永禄三(一五六〇)年七月、『幻庵の子で武蔵国小机城主であった北条三郎(宝泉寺殿)が没すると、小机城主に任じられた』。『同年』八『月末に越後国の上杉謙信が関東への侵攻』『を開始すると、永禄』四(一五六一)年二月『頃に防衛戦の最前線となっていた武蔵国河越城へ救援に赴き、その指揮を執った』。「小田原北條記」『等の軍記物語では、天正』九(一五八一)年の『の駿河国戸倉城』(現在の伊豆半島の西側の根にある静岡県駿東郡清水町徳倉のここ)『の戦いで、氏堯(ただし、官途が右衛門佐とされている)が武田氏に寝返った松田新六郎に敗れたことが記されているが、近年の研究では、氏堯の動向は永禄』五(一五六二)年十『月までしか確認できないこと、忌日が年次不詳ながらも』四月八日『であること、永禄』七(一五六四)年一『月の時点での河越城代が北条氏信で、この氏信は小机城主でもあり、つまりは氏堯の後任としての地位にあったことなどから勘案して、氏堯は』永禄六(一五六三)年四月八日に『没したとも考えられている』とあって、ここでも、この庵原山城に城主となった事実は、見当たらない。]
八
リルケの作品の思想内容等に就いては以上で不完全ながら大體を述べた。彼は此内容を盛るに如何なる樣式を用ひ、如何なる手法技巧言語を使つたか。
先づ第一に氣づくことはリルケの詩の著しく感覺的なことである。彼が事物に對する洞察も直感も悉く精細微妙な感覺の中に溶解されて讀者の心に傳へられる。それ故粗大な精鍊されぬ感覺を持つてゐる人々の側からは、彼の詩は常に難解であり朦朧であるとの非雅を免れない。しかしながら感覺の纖細を誇り神經の遊戲に陷つて其處に美の源泉があると信ずる人々からも、彼の詩は眞の賞讃を酬いらる可きでは無い。リルケの詩は一見それ等の人々の詩風に似て居るものの、其本質に於て莫大な徑庭が橫はつて居るからである。
あらゆる因襲を斥けて新に生れた者のやうに事物に對するリルケに取つては、その感覺も全く淸新で少しの濁りも無いものでなくてはならない。其の銳感なことは云ふ迄もない。總べての傳習的な感情の影は出來得る限りこれを避けようとしてゐる。此點でホオフマンスタアルとは可なり激しい對照をしてゐる。ホオフマンスタアルの感情は極めて精細で選練されたものであるが、同時にまた人工的であり幾分の無理があるを免れない。云はば中年の女の神經病者を見るやうであつて、異常な銳さはあるが初々しさがない。リルケの感性もまた世紀末の空氣に觸れて稍〻病的に亢進して居るを免れないけれども、常に子供らしい新鮮さに溢れてゐる。實際それは單に新鮮といふ位の弱い言葉では云ひ現はし難い。卒然として彼を讀む人にとつては寧ろ奇異に感ぜられる程の新鮮さである。丁度小兒の感覺が動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば大人に不思議に思はれて、實は云ふ可からざる新味の盡きないものがあると同樣である。そして之は我々が屢〻マウリス・マアテルリンクに見出す特色であるが、マアテルリンクの感覺が何時も神祕な美に向けられて居るのに對して、リルケの感覺は遙に明るく且つ表現に向いて居る。時に淸新ではあるが、その幼稚さに微笑[やぶちゃん注:「ほほ」。]まれることのあるは兩者共通である。憧憬にふるへる少女のこころを、「クリスマスの雪のやうに感じながら、しかし燃える」と云ひ、寂しい森の中に啼く鳥の聲を聞いては、「圓い鳥の聲はその生れた瞬閒に大空のやうに廣く枯れた森の上に休む」と云ひ、秋の歌では、「主よ、爾の影を太陽の時計に投げよ」、噴水の美しい詩では
俄に私は噴水のことが澤山解る、
硝子で出來た不思議の樹々のことが。
私は大きな夢につかまれて
嘗て流した、そして忘れてゐた、
自分の淚のことのやうに語ることが出來る。
と云つて居る。「太陽の時計も」「硝子の樹」も「クリスマスの雪」も、決して理智が考え出した比喩ではなくして、子供らしい純粹の感覺でなくて何であらう。これ等はただ思ひ出す儘に二、三の例を擧げたのみで、もつと適當な例はなほ隨處に發見されるであらう。
言葉に對する彼の感覺の細かさ新しさは既に前に說いた通りである。彼の用ふる單語は決して所謂詩語ではない。寧ろ我々が日常の會話に於て使ひ古されたものが大半である。しかしそれが一度彼の詩の中に用ひられると、其の一語一語が悉く從來隱してゐた本來の意義と色彩と調子とを發揮して、全く別な語であるかと思はれる。物、時間、祈禱、歌、樹、池、手等、我々が平素何の氣もなく使用してゐる言葉が、彼の詩の中では特殊な響を帶びて聞える。思ふにこれには二つの原因がある。その一つは一語一語の持つ音樂的效果が嚴密に感受せられてゐるからである。就中リルケの詩で最も顯著なのは母音の配列法である。出來得る限り母音を生かして響かせることは純一明快な感じを讀者に與へるものであるが、其の細心な工夫と成功とに於ては近代の獨逸詩人中全くその比を見ないと云つてよい。脚韻は勿論、久しく近代の詩に用ひられなかつた頭韻、句中韻を復活按排したのも其爲であらうと思ふ。その二は語と語との連繋法である。凡そ何處の國語に於ても一つの語には他の語と連繋すべき幾つかの絲が出て居る。そして其の何れの絲で他に繋がるかといふことによつて、その語の意義の傾向は勿論、色彩も陰影も形狀も規定されるものである。これは今此處で詳論するまでもなく、少しく言葉の性質を考へた人には殆ど自明なことであらう。リルケは此點に至大な注意を拂つて居るやうに見える。そして成る可く日常普通に用ゐられる語の連繋絲を避けて、新しい連繋絲、久しく忘られてゐた連繋絲を用ゐる。その爲め彼に取つては特に詩語を選ぶ必要は毫末[やぶちゃん注:「がうまつ」。]もなく、手近にある語が悉く自在に詩の中に入れられたのである。その點に於ては彼は殆ど第一人者であると云つてよからうと思うふ。
更に彼の詩に於て驚異に値することは、其の比喩象徵の創意的で、而もよく物の本質を剔抉する力に富むことと、其の律動の自在で且つ根原的なことである。リルケは語と語の全く新しい連繋を試みたやうに、比喩するものと比喩せられるものとを繋ぐのにも從來の詩人と全く其の趣を異にして居る。彼は一見して到底比較し得ざるようなものを比喩として用ふる。しかも兩者を相互に聯關させ、完全に統一感を呼起させる原因は、何時も其の内面的な解剖にある。彼は外面的な類似で比喩象徵を用ひない。比較される二つの物を分解して、其の最も內面的本質的に接近してゐる點で繋ぎ合せる。それ故その比喩の感能上の效果は決して喩へられるものと平行せずして、それの補充となり深めるものとなつてゐる。或は比喩されるものを征服し、それが爲に比喩されるものが解體して、一層價値の高いものに高まるのは、リルケの詩に於て屢〻出逢ふ處である。彼の比喩象徵はインテレクトからではなく、想像力から來てゐる。それを理解しようとする者もまた想像力を必要とする。一例を擧げてみよう。[やぶちゃん注:「インテレクト」(英語:intellect)は「知性・知恵・理知」。ここは「理知」がよかろう。]
鎖に繋がれて搖らぐ小舟のやうに、
花園は不確になつて、懸つてゐる、
風に搖られるやうに黃昏の上に。
誰がそれを解くのだらう。
「しかし之等の比喩の眞實は決して拒否することは出來ない。それは淚ぐましい程に尖つた神經生活を示してゐる。詩人をしてファウストの母の最深の祕密への長い洞察を可能ならしめた、受苦の魂の驚嘆すべき構造編成の先覺的な心理生理的作用を語つてゐる。これは人をして魂のヒステリイを信ぜしめる程に尖らせられてゐる。」ツェッヒの此言は少しく極端に失する懼[やぶちゃん注:「おそれ」。]がないではないが、『新詩集』の中の數章は、全くこの評を至言だと思はしめる程に微に入り細に入つて、遂に痙攣に終つてゐるかと思はれる。
大多數がソネットである『新詩集』を除いて、其他の集に於てリルケは、殆どあらゆる詩形と律動とを試みて居る。イャムブスは常に基調をなして居るけれども、そこには種々の變形が使用され、或は長短句を按排し、或は一聯の行數を自由にし、中世戀愛曲の風格に交へるに騷人調の手法を以てし、或は古詩の長所を學び、時に新詩の長所を攝取する等、工夫選練の刻苦は眞に言語に絕して居ると思ふ。就中同時代の詩人としては、矢張りゲオルゲ、ホオフマンスタアル等の影響を指摘することが出來、マアテルリンクにも一味の相通ずるものがあることは前にも述べた通りである。又リルケが好んで『時禱扁』で用ひて居る數行或は十數行に亙る長句は、ゲオルゲに見る外、在來餘り多く見ない處であつて、しかもリルケ以後の靑年詩人によつては往々路襲されてゐるものである。[やぶちゃん注:この最後の句点は、底本では、読点になっている。後の再版「詩集」で句点に訂しているので、特異的に修正した。]其他、用語、語感、手法、律動の上でリルケが現代靑年詩人に及ぼした絕大な影響は、短い紙數のよく盡し得ない程であつて、表現主義の抒情詩人の第一人者を以て許されるフランツ・ヅェルフェルの詩なぞも如何にリルケに負ふ處が多いかは、既に識者の等しく認める處である。
[やぶちゃん注:「イャムブス」ドイツ語“Jambus”。音写「イャァムブゥス」。詩学用語で抑揚(短長・弱強)格を指す。
「騷人調」中世ヨーロッパで。恋愛歌や民衆的な歌を歌いながら。各地を遍歴した吟遊詩人の詠んだ、風流染みた読み方の意か。
「フランツ・ヅェルフェル」オーストリアの小説家・劇作家・詩人のフランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel 一八九〇年~一九四五年)。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、『グスタフ・マーラーの未亡人アルマの最後の結婚相手としても知られる』。一九二〇『年代にはジュゼッペ・ヴェルディの多くのオペラをドイツ語に翻訳し、ドイツ語圏におけるヴェルディ・ブーム、いわゆる「ヴェルディ・ルネサンス」に貢献した』したとある。]
九
ライネル・マリア・リルケに就いて述ぶべきことは以上で盡されたとは云ひ難い。特に彼が獨逸抒情詩史上に於ける意義と貢獻とに就いてはなほ云ひたいことが少くないが、彼が同時代者との關係、及び後進に與へた影響については、極めて槪略ではあるが既に處々で觸れて置いた故に、改めて書くまい。リルケの人と藝術とを說明して其理解の一助としたいのが此論文の主眼であつて、批判評價するのは他目に讓らうと思ふからである。唯〻しかしながらリルケが二十世紀初頭の獨逸詩壇に於ける生れながらの先覺者であつて、十九世紀が殘したものと、二十世紀が齎らすものとを一身に集め、相續者であつて同時に祖先であつた事實は、自分の特に指摘したいと思ふ處であつて、此意味から云つてもリルケの硏究は實に興味の津々たるものがある。實證主義的卽物的であると共に、靈性を高唱し神に祈禱し、近代的神經質であつて、而も原始と素朴を愛してゐる。その汎神論的な展 開の思想は可なり科學的でありながら、其の根抵には詩人的空想と憧憬とを藏してゐる。事物の靜觀に沒入してゐる沙門のよやうであつて、貧者の禮讃は往々社會的階級打破の叫びに似たものがある。そして之等種々の矛盾と見えるものが不思議な統一をなして渾然たる趣をなしてゐる。それは西歐羅巴の血と、スラヴ卽ち東洋の血とが彼の中に一つとなつて流れてゐるに似てゐるのである。
[やぶちゃん注:以下、「目次」。リーダーとノンブルは省略した。ポイントは、各所で、かなり異なるが、面倒なのと、ポイント違いでは、却って読み難くなると判断し、私の注を除き、総て12ポイントで揃えた。]
リルケ詩集目次
小 序
第一詩集
家神奉幣
古い家
若い彫塑家
冬の朝
夢
夕の王
大學へ入つた時
民謠
中部ビョエメンの風景
私の生家
冠せられた夢
夢みる(四章)
私の心は忘られた禮拜堂に等しい
あの上に漂ふことの出來る
一體私はどうしたのかしら
灰白な天
愛する(五章)
それから愛は
それは白菊の日であつた
我々は考込むで
春に、それとも夢に
長いことだ――
基督降誕節
基督降誕節
贈 物(五章)
これが私の爭だ
私は好く
塵まみれな飾のついた
私は最う一度
私の神聖な孤獨よ
母たち(二章)
私は折々一人の母に
痛みと憂とが
舊 詩 篇
[やぶちゃん注:以上の「舊詩篇」はママ。本文中の冒頭の表紙では、「舊詩集」である。]
序 詩
日常の中に滅びた憐れな言葉
私は今いつまでも
私は晝と夢との間に住む
お前は人生を理解してはならない
傾聽と驚きのみで
はじめての薔薇が眼ざめた
平な國では期待てゐた
幾度か深い夜に
少女の歌(八章)
序 詩
今彼等はもうみんな人妻
女王だ、お前らは
波はお前らに默つては
少女らは見てゐる
お前ら少女は小舟のやうだ
少女等がうたふ
一人の少女が歌ふ
マリアヘ少女の祈禱(十一章)
序 詩
みそなはせ、私等の目は
多くのことの意味が
最初私はあなたの園となり
マリアよ
何うして、どうしてあなたの膝から
私には明るい髮が
それから昔はいつも
皆は云ひます
この激しい荒い憧れが
祈りの後
我々の夢は大理石の兜
高臺にはなほ日ざしがある
これは私が自分を見出す時間だ
夕ぐれは私の書物
屢〻臆病に身震ひして
そして我々の最初の沈默は
しかし夕ぐれは重くなる
私は人間の言葉を恐れる
誰が私に言ひ得る
形 象 篇
第 一 卷
四月から
少女の憂鬱
少 女
石像の歌
花 嫁
隣 人
最終の人
ものおぢ
愁 訴
孤 獨
秋の日
追 憶
秋
進 步
豫 感
嚴肅な時
第 二 卷
自殺者の歌
孤兒の歌
侏儒の歌
嵐の夜から(二章)
こんな夜々には、私の前に居て
こんな夜々にお前は街の上で
[やぶちゃん注:底本では、「嵐の夜から(二章)」の最後の丸括弧閉じるがないが、誤植と断じて、補った。]
時 禱 篇
修道院生活
時間は傾いて
物の上にひかれてゐる
隣人の神樣
若したつた一度
私が生れて來た闇黑よ
私は總べての未だ云はれなかつた事を信ずる
我々は慄ふ手で
私の生活は
私が親しくし兄弟のやうな
若き兄弟の聲
どうなさります、神樣
番人が葡萄畑に
[やぶちゃん注:「どうなさります、神樣」ママ。同無題の冒頭は「何うなさります、神樣、私が死にましたら、」である。]
巡禮の歌
私は嵐の重壓に驚かない
今お前はお前のところへ
閣下よ
永遠者よ
彼の氣遣は
お前は世嗣だ
私の眼を消せ
あなたを推測る噂が
あなたを求める人は皆
この村に最後の家が
あなたは未來だ
神よ、私は數多の巡禮でありたい
深夜に私はお前を掘る
[やぶちゃん注:「あなたを求める人は皆」で始まるそれは、冒頭は「あなたを求める人は皆な」である。]
貧困と死
おお主よ
私に二つの聲を伴はし給へ
私は彼を褒めたたへよう
大都會は眞ではない
彼等はそれではない
何故なら貧は
知る者よ
見よ、彼等を
彼等の手は女の手のやうで
彼等の口は胸像の口のやうで
ああ、何處に彼の明かなる者は鳴消えたぞ
新詩集
第 一 卷
前のアポロ
戀 歌
犧 牲
PIETÀ
女等が詩人に與へる歌
豹
詩 人
盲ひつつある女
夏の雨の前
私の父の若い肖像
一九〇六年の自像
橙園の階段
佛 陀
西班牙の舞妓
第 二 卷
アポロの考古學的トルソオ
鍊金術者
衰へた女
露 臺
海の歌
ピアノの練習
愛する女
薔薇の內部
鏡の前の夫人
戀人の死
ライネル・マリア・リルケ(譯者)
[やぶちゃん注:以下、ここに奥附があるが、リンクに留める。言っておくと、本詩集には、特装版があることが「定價三圓八十錢」の右肩に記されてあり、そこに『特製は初版限り 口繪一枚。』とあるが、本書はそれではなく、挿絵はない。なお、第一刷は『昭和二年』(一九二七年)『五月七日發行』『千五百部』とある。]
『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (二)』で、ハーンは、『日本最古の社殿――杵築――の廣い境域中に、狐の像を發見し得ないのは、注目に價する。』と述べているが、大社の広義の境内地の辺縁内には、稲荷神社は、存在する。狐の像四枚とともに追加注記をしておいたので見られたい。
七
『形象篇』、『新詩集』を以てリルケの藝術的完成を告げるものとすれば、一九〇五年に始めて上梓せられた『時禱篇』は、彼の內面生活が漸く圓熟の境地に入つて、個々事物の凝視から漸く統一的な神に到達したことを示す詩集である。此集は『僧侶生活の卷』、『巡禮の卷』、『貧困と死との卷』三部から成立つてゐるが、其の發生から云へば第一部は一八九九年、第二部は一九〇一年、第三部は一九〇三年であつて、市に出る迄には如何に推敲選練が重ねられたかを想像することが出來る。
リルケの思想が此『時禱篇』のやうな信仰に到達することの必然なことは、彼の作品を閱讀する者の悉く首肯する處であつて、恰も春日を浴びて薔薇の育つやうに、順次『基督降誕節』以後その發達を示して來たが、その思想の中心に明瞭に「神」の名を與へたのは、實に一九〇〇年に出版された童話集『神の話及び其他』であつた。此數篇の童話は實に「事物の神に成る」ことを中心に持つてゐた。しかし時代に對する反抗や、小兒に對する讃美や、比喩の興味やに重心が傾いてゐる爲めに、的確に率直にリルケの信仰を我々に傳へる效果が稍〻稀薄である。しかし彼の神の話はドグマからも敎會からも十字架像からも出發してゐないで、「物」から始まつてゐる。其處にリルケらしい最大の特色がある。「どんな物でも神樣になれる。ただそれを物に云はなくてはいけない。動物にはそれが出來ない。あれは走つて行つてしまふから。しかし一つの物は、そらね、それは立つてゐる。晝でも夜でもお前が部屋へ歸つて來ると、幾時でも其處にゐる。それは神樣になれる。」彼は個々の事物の奧深く眺め入るに從つて、其中に普遍で等しい力の働いて居るのを認め、それによつて自己と萬物とが漸次親和融合するもののあるのを感じたのである。リルケはそれに「神」と云ふ名を與へた。それ故神という名に拘泥して、直ちにクリスト敎の神や、希臘の神々の一つを思い浮べるものがあればそれは大きな謬であろう。
私が親しくし兄弟のやうな
これ等總べての物に私はあなたを見出す。
種子としては小さい物の中で日に照らされ
大な物の中では大きく身を與へてゐられる。
此句にも明かであるやうに、リルケの神は萬物の中に內在してゐる。歌の中にも、石の中にも、老人、嬰兒、乞食の中にも、幸福の中、死の中にも、又指拔きの如き小さな物にも。人はただそれを見出せばよい。それを云へばよい。「視は祈禱」であると云ひ、「視ることは解脫だ」と歌つてゐるのも、表面現象の奧にある神の存在を確實に知つてゐたからである。そして其の同じ神はまた自己の中にもある。
此處の內心に我の生きてるものが、彼處にある。
彼處とここと總べての物に限界はない。
斯う事物と我とが漸く親和融合するのを感じたリルケは、最も近いものにも、最も遠いものにも自己が流通してゐるのを見たのである。嘗て
誰かまた私に云ひ得る
何處に私の生が行きつくかを。
私もまた嵐の中に過ぎゆき、
波として池に往むのではないか、
また私は末だ春に蒼白く凍つてゐる
白樺では無いのか。
と『我の祝に』で問を發していたリルケは、今や「之等總べての物に神を見出す」と云ひ得るに至つたのである。神は露でもある、女、他人、母でもある。死でもある。鷄鳴でもあり、未來でもある。綠の樹でもある。
根の中に育ち、莖の中へ消え。
梢では再生のやうになる。
船には岸と見え、陸には船と見えるやうに、視點の相違によつて絕えず其形を異にしてゐるものの、神は要するに「事物の深い含蓄」である。そして此深い含蓄である神は、光や形や名稱に執著するものの知り能わぬ所である。外面的狀態の關係變化等を整理規定する理知の作用のみでは會得せられない。小兒の如き謙虛敏感な心と、沙門のような靜寂とによつて始めて近づき得るのである。リルケの信念によれば神は到る所にある。我々がそれを見ないのは、これを凝視する用意と訓練と忍耐とが缺けて居るからである。我々は神は何處に在るかと問ふ可きではない。ただ眼を開いて凝視すればよい。「問ふ者に神は來ない」。リルケは明にさう云つて居る。彼は神の心に熟するのは、丁度藝術が藝術家の心に熟するのと同樣であつて、幾多の事物の凝視が「名無きもの」となり、血と肉とに溶け入つて、始めて中から湧き來るものであると云つて居る。
斯ういふやうにリルケの信仰は著しく汎神的である。彼の神は物卽ち自然の本質であつて、神と萬物との關係は造物主と被造物との關係でもなく、原因と結果の關係でもない。本質と狀態、内容と外形との關係である。
しかし人は各〻牢獄(ひとや)から遁れようとするに似て、
自我から出ようと力めるらしい。――
これは實に大きな不思議である。
私は感ずる、凡ての生命は生きられてゐると。
では誰がそれを生きてゐるのだ。
夕ぐれの竪琴の中に籠るやうな
奏でられない諧調に似たものか、
水から吹く風か。
うなづき合つてゐる枝か。
薰を織る花であるか。
もの古りた長い並樹か。
步いてゆく暖かい獸か。
驚いて立つ鳥であるか。
一體誰だらうそれを生きるは。神よ、神であるか――
その生命を生きるのは。
[やぶちゃん注:「力める」「つとめる」と読んでおく。]
リルケは萬物の中に內在する神を知り得たけれども、個々の事物を以て直に完全な神の現れと考へることは出來なかつた。彼は萬物の生命を生き甲斐あるものとは感じながらも、各個體はその與へられた形體の故に、圈圓の中に呻吟するような嵯嘆と憧憬とを持つて居ることをも認めずには居られなかつた。「我を爾(神)の側に置けば、我は殆ど無きに等しい程爾は大きい。爾は暗い。爾の緣(へり)にあると我が小さい明りは無意味だ。爾の意志は波の如くに行き、日每の日はその中に溺れ死ぬ。ただ我が憧憬のみが爾の顎の邊まで聳えてゆく」と歌つてゐるのも、一面微小な個體に囚はれた生活のみじめさを嘆いたものである。そして斯うした個體の囮囘を開いてその憧憬の中に解放する。それが卽ちリルケの藝術的創作であつたのである。彼の神の思想と藝術觀とは實に密接にして離るべからざる關係を持して居る。
リルケは個體を囹圄[やぶちゃん注:「れいご」。牢屋・獄舎。]と見てゐる。しかし既にその內に神の存在を信じて居る故に、外的自我の貧弱微小は必ずしも意に介する處ではなかつた。寧ろそれは貧しければ貧しい程よかつた。『時禱篇』第三部に於て專ら貧者を讃美してゐるのは全く此處に由來する。彼が弱い者、惱む者、苦しむ者に多大の同情と暖い心を寄せたことは既に述べた。それが今は
貧者の家は聖檀の龕のやうだ、
その中では永遠なものが食物となる。
といふ禮讃に高まつて居る。而も貧者は倨傲な富者の閒に苦しむで、熱病の發作に見るやうな惡寒に慄へながら燃えてゐる。あらゆる家から逐はれて見知らぬ白痴のやうに夜中に彷徨してゐる。でも「貧こそは內部からの偉大な光耀である。」
見よ、彼等は生きよう。己を增すだらう。
時代に强ひられまい。
森の苺のやうに育つて
甘味で地を蔽ふだらう。
彼等は幸だ。一度も自己から遠ざからず、
屋根がなくて雨の中に立つてゐる。
彼等にこそ總べての收穫が來るだらう。
その果物は充實しよう。
彼等は總べての終を越えて續き、
意味の零れ消える富者よりも長く續かう。
そして總べての階級と
總べての國民の手の疲れ果てたとき、
休み盡した手のやうに上るだらう。
貧者の禮讃が社會的階級的意識にまで到達してゐることが解る。此處に於てもリルケはまた來る可きものを夙に豫感してゐたのである。彼が貧困を稱へたのは「屋根なく」して天の雨をうけ、「凡ての收穫が得らるる」からである。內在する生命を貧しくするのでないことは云ふ迄もあるまい。
既に我々の存在を神の一狀態一表現に過ぎないと信じ得る者にとつて、死はさして恐る可きことでは無い筈である。リルケの言を借りれば、我々の生活が花であり果實の肉であれば、死は卽ち實であり種子である。彼は又云つて居る。「我々が日每にその頭蓋骨を見下して居る死が、我々の憂愁や不幸であらうとは信じられない。」だから我々の念ず可きことは次ぎの祈禱でなくてはならない。
おお、主よ、各自に彼れ自らの死を與へ給へ、
彼が愛と、意義と、困厄とを持つた
その生活から出てゆく死を。
では我々の生は何うであらう。死が恐る可きもので無いならば、生も惜むに足らぬものであらうか。抑〻また我々の生に力を與へ、それに强い意義を附するものが他にあるであらうか。リルケは此處に「神の成熟」の思想を持つて來る。
リルケの考に從ふと、事物は單に神の狀態である許りでなく、更にまた神を成熟せしめ、神を發達せしめ、既に長い過去に於て偉大であつたものを一層偉大ならしめる任務を負うて居る。かうして
爾(神)の國は
熟しゆく。
我々の生活が邪路に迷ひ入らぬ限り、其處に內在する神は常に成熟しつつあるのである、空しく消えたやうに見える過去の事物も、一つとして今の我々を培つてゐないものはない。そして又現在の我々は少なからず未來の發育に與つて居る。換言すると過去は我々の父であり、未來は我々の子である。そして長い過去に養はれて居る現在は、正當なる狀態に於ては過去よりは大きくなくてはならない。
子は父よりは大きい。
父のあつた總べてであるのみか、
父のならなかつたものもまた子の中に生ひ育つ。
[やぶちゃん注:最後の一行は、底本では、『父のならなかつもたのもまた子の中に生ひ育つ。』となっている。誤植錯字であるので(岩波文庫の校注では、再版「詩集」で修正している)特異的に訂した。]
そして萬物に溢れて居る神は、無限の過去から現在を貫いて永遠の未來に生きてゐる。彼の視線は多く未來の神に向けられる故に、神は未來だといひ、神は我が子だとも歌ひ、
更に斯うも云つて居る。
お前は世嗣だ。
子等は世嗣だ、
何となれば父たちは死に
子等は立つて花を開く。
お前は世嗣だ。
そして我々の成熟と共に神も成熟するのであるから、永遠の末來に成熟を續ける神の偉大さは到底測り知ることは出來ない。「神は父なり」と云ふ思想は之に比較して、著しく神を有限的に見てゐることが解る。そして人の心の不思議さはこの無限永遠の神の姿をば、夢想と憧憬とに於て暗示し、藝術の三昧境に於て啓示する。
しかし時をり夢の中で
私はお前の部屋を見渡すことが出來る。
深く始から
屋根の黃金の尖頭(さき)まで。
それから又見る。私の感官が
最後の飾を
作り營むのを。
此處にリルケの思想の神祕な詩人的な飛躍がある。
六
個々の事物を注視して其内に隱れてゐる深い心を引出し、それ自體では怠惰である現實から、靈化され生命化された創造を遂げ、而も所謂一般象徵詩のやうに一種の思想、槪念、氣分、又はそれ等の雰圍氣の中に止まらないで、個々の對象を能ふ限り忠實に表現して居るものは實に一九〇二年に出た詩集『形象篇』である。痛ましい憧憬と逡巡とに充ちてゐた『我が祝に』から此集に移つて來れば、丁度少女の居間から出て、廣い、天井光線に照らされる彫刻展覽室に入つたやうな心持がする。戲曲『日常生活』や小說『最終の人々』に說かれた藝術家リルケの成熟した姿が此處には覗はれる。
リルケは一九〇三年の著『アウギュスト・ロダン』の中でロダンに就いて云つて居る。「彼の藝術は一つの大思想の上に建設されて居るのでは無い。良心に從つて行はれる小さい眞實化の上に建てられる。彼の中には傲慢はない。自分が見、呼び、判斷し得る目立たぬ重い美に加擔する。他の大なる美は、小なる美が總べて完成した時に來るのである。恰も夕暮に獸が水飮場へ來るやうに」と。又斯うも云って居る。「彼は廣く探る。第一印象をも正しいとはしない。第二印象及びそれ以下の印象をも正しいとはしない。彼は觀察し記錄する。云ふに値しない運動や、囘轉や、半囘轉や、四十の痙攣、八十の橫顏を記錄する。彼はモデルを疲勞した時、將に表情の成立しようとする時、努力の時に驚かして、習慣的なものと、偶然的なものとを探る。彼は顏面に於ける表情のあらゆる過渡を知つて居り、何處から微笑が來、何處へ消えてゆくかを知つて居る。彼は自分が與つてゐる舞臺のやうに顏面を體驗するのである。彼は其眞中に立つて居る。彼に起る事は一つとして何うでもよいことはない。又彼に見逃されもしない。彼は當事者には何も語つては貰はない。彼は自分の見るもの以外には何事も知らうとは思はない。しかし彼は凡てを見るのである」と。
私は之等の言葉をば移して又詩集『形象篇』に於けるリルケの說明としたい。リルケもまたその對象を最後の根抵まで見ないでは止まない。眼瞼の些細な上下、筋肉の幽かな脹らみ、內心の不安の微妙な顫動をも見てゐる。彼は慾情や神經末端の最後の發熱をも感得する。特に目立たないもの、手近にあるもの、凡眼には無意味に見える徵候を、全然新しい光の下に置いて見る。しかし此處には、浪漫的の空想とか、感覺の陶醉とか云ふ種類のものは絕無である。寧ろニイチェがディオニソス的の對照に置いたアポロン風がある。立體的の明晰がある。――序ながらパウル・ツェッヒは此リルケのアポロン風はロダン其他の影響ではなくして、リルケに先天的なものであり、彼が一步一步健實に步む道であると論じて居るのは首肯される。――そして物それ自體となつて現はれて來る。もつと精確に云へば、物それ自體であつて、而もそれだけではなく現はれてゐる。物が天の下、神の下に置かれて居る。大空の光と影とを宿してゐる平埜の木の葉のやうに現はされてゐる。そして此明晰と此暗示?との相矛盾した二要素を繋ぐものは實にリルケ獨得の音律であるが、それは項を改めて說くことにするとして、集中の『戀人』、『花嫁の歌』、『聲』數章、『嵐の夜』、『盲人』、『石像の歌』、『讀む人』等の諸作は、全く單に對象そのものの內面的眞實の姿を表現して遺憾のないものであつて、我々はその對象が微細な部分に至るまでも詩人によつて熟知され、透徹されて、如何に因襲の牢舍から開放されて、それ自らの光の中に輝いて居るかに驚くばかりではなく、全體として彼の所謂「他の大なる美」卽ち宇宙の奧深い心とでも云ふ可きものが、其の內面に匂つてゐることを感ぜずにはゐられない。
彼の詩が斯ういふ境地に進んで來たことは彼にとつて必然の結果であるとはいへ、同時にまたロダンの偉大な藝術が彼に多大な促進を與へたことは疑へない。ロダンは自分の知らなかつた幾多のことを敎へてくれた許りではなく、自分の既に知つてゐたことに明かな形を與へてくれたといふ意味をリルケは云つてゐる。周到な視と、銳敏な觀察と、犀利な直覺とはロダンとリルケの藝術を形成する共通な要素であるが、更に肝要で本質的の類似は、前にも云つた「手近なもの」から始める「良心に從つて行はれる眞實化」にある。此精神から生れる一種の單純化、又は個々事象の髙潮である。實際、人は種々の束縛に制せられて、個々の事象を正當に觀察し享受する自由を失つてゐる。計畫や利用の僻見から全く脫却してその眞實の本質を凝視する力が無くなつてゐる。其處に我々の誤謬が伏在し、不純不透明が橫はつている。リルケが小兒の一重心を尊重し、平野の簡明を喜ぶ所以も、この誤謬不純不透明を去らうとする爲に外ならない。例へば街頭の行人も、默想に耽る水邊の遊步者も、その步行が彼の全身を、――敢て云へば彼の精神をさへ――如何に變化せしめつつあるかを更に熟知してゐない。しかし一度ロダンの『步む人』を見れば、步行が全人の上に擴がつて居るのに驚かずには居られない。此像に於て步行でないものは何一つ見られない。それはただ足や手の筋肉のみではない。その唇にもその眼にもある。卽ち步行といふ一事象が完全にせられ、生命をえてゐるのである。步行と本來何等の關係の無い總べての環境や屬性は悉く排斥除外されて、唯々步行のみがある。『形象篇』に於けるリルケの詩もまた之と趣を一つにして居る。『戀人』は最早や『冠せられた夢』の中の戀人ではない。頭の上に垂れ下る葡萄の房や、近くに匂ふヤスミンの花で飾られる戀人ではない。「小川のせせらぎの石のやうに靜かで」あつた昨日の自分を「知らない何人かの手に、あはれな暖い運命が委ねられた」やうに感ずる「戀」に捕われた人間である。
夜をついて荒馬に騎りながら、
解いた髮のやうに、驅ける爲の
大風に靡く、炬火を持つてゆく
人々の一人になりたい。
私は眞先に立ちたい。舟の中のやうに、
そして擴げられた旗のやうに大きく。
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「靡く」は「なびく」と読む。]
と歌ひ始めてゐる『男童』は、服裝も身分も境遇も才能も知られない、ただ一人の赤裸の男の子として讀者の前に置かれてゐる。かうして『息子』も、『ツァア等』も、『視る人』も、『夜の人々』も、『噴水』も、『秋』も、『狂氣』もうたはれてゐる。
『形象扁』についで出た詩集は『時禱篇』であつたが、純藝術的の立場から、此集の續篇とも見るべきは寧ろ『新詩集』及び『新詩集別册』の二卷であらう。『形象篇』に於てはなほ幾分限られてゐた對象の範圍が、此二集に至つて一層擴大せられて來たことは、リルケの技能と共に人としての包容が漸く大きくなつて來たことを示すものとも云ひ得るであらう。その「手の屆く」事象が、希臘の諸神や、ヨズア、ザウル、ダビデ[やぶちゃん注:底本は「ダビテ」だが、再版「詩集」で「ダビデ」と訂しているので特異的に訂した。]、エリア等を始め遠く東洋の佛陀にまで及んで居る。また單一なもののみではなく、複雜煩瑣なものも大膽に又巧みに歌ひこなされるやうになつた許りか、あれほど排斥した都會の中にさへその題材を選んでゐるものが少くない。『公園』、『露臺』、『馬上環走』、『スペインの舞妓』等の外にも、パリ、ナポリ、ヹネチア等の都會をうたつて居るものが十數章ある。靜寂な地に純一素朴な物を愛していた詩人も、今や騷しく目まぐるしい四圍によつて心を亂し、複雜と紛糾とによつて蠱惑されずに、よく其の奧底に徹する餘裕を生じて來たのであらう。
嘗てゲオルグ・ヘヒトはリルケの詩を論じて次の如き意味を述べてゐた。曰く從來の詩は主として作者の感情や氣分を傳へる種類のものであつて、詩人は自己の經驗を暗示的に叙して、讀者をして共に詩人の感情を經驗する思ひあらしむれば十分であつた。そして詩が單に事物のみを歌はうと、その環境を描寫しようと、またその經驗が如何なる種類であらうと、要は詩人の感情情調瞑想等が最も重要の點であつた。しかしながら時勢は變轉して詩は漸く其の感情の重みに堪へ難くなつた。讀者も詩人も等しく詩に盛られた感情や氣分に飽いて來た。是に於て種々の試みが企てられた。先づ詩に盛られる感情氣分の種類に變化が行はれた。次ぎにその新感情を生む環境や事情を淸新なものにしようと試みた。けれどもその中樞であり主眼であるものは常に詩人その人の感情であつた。氣分であつた。リルケは之に反して全然別種の詩を創始した。彼は詩を全く感情の重荷から脫せさせた。勿論リルケの詩にも、作者の感情氣分が漂つてゐないのではない。しかしそれが詩の中樞ではない。重心ではない。焦點ではないのである。彼は對象を對象その物として表示しようとする。詩人の感情氣分は單にその雰圍氣とし背景として役立つに過ぎない。從つてリルケの詩で重要なのはその具象性と直觀性であると。私がこれ迄屢〻述べたリルケの詩の特色を捕へて、簡約に在來の詩と比較したものであるが、同じ事をリルケ自らも又云つてゐる。彼が屢〻引用するマルテ・ラウリッド・ブリッゲの言葉に從ふと、之等の詩は最早や感情ではなくして經驗(エルフアルング)である。之等の詩の中の意味と甘味とは全生涯を費して集められたものである。詩人は之等の詩の一つの爲にも多くの都會を見、人間や物や動物を知り感じた。如何に鳥が飛ぶか、如何なる身振で小さい野花が朝日にあつて開くかを學んだのである。しかしながら、ブリッゲの言を借りてリルケが要求する處に依ると、「人が記億を持つてゐるだけでは十分ではない。それが多くなれば人は記憶を忘れ得るに相違ない。そしてその再來を待つ大忍耐を持合せなくてはならない。何故かと云ふと記億そのものはそれではない。それが我々の中に血となり、視となり、身振となり、名も無く、最早や我々自身と區別せられなくなつて、其時始めて極めて稀な時間に詩の第一語が彼等の眞中に彼等の中から發生するのである。」
[やぶちゃん注:「マルテ・ラウリッド・ブリッゲ」通称「マルテの手記」の名で知られる、一九一〇年に発表された、リルケ唯一の長編小説「マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記」( Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge )の主人公。当該ウィキによれば、『デンマーク出身の青年詩人マルテが、パリで孤独な生活を送りながら街や人々、芸術、自身の思い出などについての断片的な随想を書き連ねていくという形式で書かれている。したがって、小説でありながら筋らしいものはほとんどなく散文詩に近い』。『主人公マルテのモデルとなっているのは、実際にパリで生活し、無名のまま若くして死んだノルウェーの詩人シグビョルン・オプストフェルダー』(Sigbjørn Obstfelder 一八六六年~一九〇〇年:英語のウィキに彼のページがあるので参照されたい)『である。もっとも』、『リルケは、この人物について』、『それほどくわしくは知らないとも語っており』、一九〇二年から一九一〇年の『間、妻子と離れてパリで生活していたリルケの生活や心情が、彼のプロフィールに重ね合わされる形で書かれている』ものである。『作品は』一九〇四年から六年の『の歳月をかけて書かれた』。本作『発表後のリルケは、長い間』、『まとまった著作を発表しておらず、後期作品の代表詩である『ドゥイノの悲歌』と、『オルフォイスへのソネット』が発表されるのは、十数年を経てからとなった』とある。
「經驗(エルフアルング)」ドイツ語“Erfahrung” 。音写「エアファールング」。写植以前のため、ルビの小文字化はなされていない。岩波文庫版では『エルファルング』となっているので、そう読み代えて問題ない。]
斯ういふ風に長く經驗し體驗しそして忘却し、記憶の中に物質性を失つて再び浮上つて來た事物に優しく親むに隨ひ、そして神經的に纖細な感性が銳くなればなる程、當初にあつては幾分その跡を見ることの出來た强いもの、優れたものに對する心の傾きは漸く消えて、軟いもの、深いもの、謙虛なもの、宗敎的なもの、弱いもの、色の褪せたもの、疲れたものに對する同情が著しく眼立つやうになつて來てゐる。デカダンの王樣やツァア等を愛し理解して微妙に歌い得てゐることで、恐らくリルケの右に出る詩人は一人も無いであろう。シュテファン・ゲオルゲの『アルガバアル』の燦爛として人の眼を眩ますのに比較すると、等しく王者を歌つても其差の如何に大きいかが明かになるであらう。『橙園の階段』のやうなどちらかと云へばゲオルゲに近い詩でさへ、其の結末のほのかに煙のやうな處、兩者の氣稟の著しい差が知られるであろう。又リルケは繰返し盲人を歌つて居るが、その洞察の深くて多面的なことは、恐らくマアテルリンクに比して數等であらうと思ふ。『盲ひつつある女』の如きは其證とするに足りよう。又夕暮と死とはホオフマンスタアルの常に好んで使つた題材であるが、そしてその情調に溢れる精妙な描寫は何人も驚異の眼を見張り、不知不識に其中へ引入れられる程の魅力に富んでゐるものであるが、その偏に[やぶちゃん注:「ひとへに」。]感覺的情況的の美に比べると、リルケの歌つた夕暮は、夕暮そのものの本質であり、内面から湧き出でる美であるやうに思はれる。特に死に就いては殆ど何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも嘗て見られなかつた程に美しい數章の詩があるが、それもまた如何に死が來るか、如何に人が死ぬか等の屬性的のものでなくして、直接に死そのものの深遠な意味に觸れる思ひがする。或る批評家はリルケの詩集を『事物の福音書』とさへ名づけて居るが、彼の歌ふ事物は決して單なる現實の事物ではなく、その靈化であり、その完成である。その靈化完成の精妙を示すものは實に『新詩集』二卷であつて、『形象鎬』には鑿[やぶちゃん注:「のみ」。]の匂がなお殘つて居るやうな太い線に圍まれたものが多い。それ故力の感じに於ては却つて『形象篇』の方が優つて居るとも云はれよう。
[やぶちゃん注:「ツァア」「ツァーリ」に同じ。ロシア語“car'” で、ローマ皇帝の称号「カエサル」に由来する語。帝政ロシアの皇帝の公式の称号で、イワンⅢ世が初めて用い、正式には、一五四七年、イワンⅣ世の戴冠から、一七二一年にピョートル大帝がインペラートルの称号をとるまでであるが、その後も併用された。音写は「ツァー」「ツァール」とも表記する(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「氣稟」「きひん」。生まれつき持っている気質。]
[やぶちゃん注:底本はここ。]
「釜領の怪」 有渡郡上原村にあり。「草枕」云。『上原に釜領といへる所あり。「爰にて馬いばゆれば、乘れる人も馬も、共に必《かならず》死する也けり」と、所の人の語りにける。いか成故にか有けん、いと覺束なし、云云』。今《いま》釜の段と云所の事成べし。
[やぶちゃん注:「有渡郡上原村」「釜の段」現在の清水区上原(うわはら:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。調べたところ、「大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ」というサイトの「家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて」のページの、『草薙神社』の項に、『清水区の草薙神社の道筋には、大御所時代に「御茶小屋」と呼ばれる小屋があった。近くには「釜の段」』(☜!)『の地名も残っているという。ここは将軍が上洛の折に立ち寄り、御茶を献上したともいう。また松並木もあったという(「駿国雑志」)。』と、本書からの引用があった。草薙神社はここで、現行の上原からは直線で一・四キロメートル弱で、一東海道を下って道路で実測すると、二キロメートル強離れるが、まあ、近いと言えるかと思ったが、さらに別に、rai-trout氏のブログ「れいんぼうの部屋」の『駿河の国で寄り道(37)「草薙 天皇原」(ヤマトタケルその7)』に、『「お茶小屋と釜の段」有度一里山新田にあり村の西はずれ南側の石鳥居は、式内草薙神社への道筋で「お茶小屋」という所あり寛永年中、将軍家上洛の時、お茶を差し上げた所で、松並木の内に有り。釜の段に茶臼塚という塚有り、この所に釜を据えて、お茶を立てお茶小屋にて将軍家に差し上げたと言われる。(現在は、第7中学の校庭になっている)』とあった。ここにある静岡市立清水第七中学校は、ここで、まさに東海道沿いにあって、上原からは、下ること、約八百メートルであるから、ここで決まりだ! 「釜領」というのは、将軍家所縁なる御料地の意で納得である!]
[やぶちゃん注:底本はここ。狐の謠いは、本文中にベタ一行であるが、改行し、ブラウザの不具合を考え、四行書きにした。]
「狐唄謠《きつねうたうたひ》」 有渡郡《うどのこほり》久能濱《くのうはま》にあり。「玉滴隱見」云《いはく》。『万治四年に駿州久能の濱にて、狐が小唄を謳ひけるが、其唱歌は、
今年の世の中は、三八廿四合で、
しやうべい八は、あしからう、
後はよかろう、市郞兵衞、
ことしばかりの安樂じや。
と謳《うたひ》しとなり。云云。
[やぶちゃん注:今年の米問屋の相場への不吉な予言であろう。
「久能濱」ここ(グーグル・マップ・データ)。久能山東照宮の正面の海岸。
「玉滴隱見」天正(一五七三年~一五九二年)の頃から、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱(同年逝去)・徳川綱吉の治世)に至る雑説を年代順に記した雑史で、作者は、江戸前期の儒者で林羅山の三男であった林鵞峰(はやし がほう 元和四(一六一八)年~延宝八(一六八〇)年)。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば、『斎藤道三が土岐家を逐う出世話・本能寺の変・関ヶ原の合戦・大坂の陣・島原の乱・慶安事件・承応事件・伊達騒動・浄瑠璃坂の敵討・末次平蔵の密貿易事件など』、『ほか』、『多くの逸事、 落書・落首を収めた近世期の生の史料』とある。「国書データベース」のここ(写本)で視認出来る。
「万治四年」一六六一年。]
五
以上を以て不完全ながら嚴肅の意味に於ける彼の第一詩集に就いて說明した私は、順序として次ぎの詩集『形象篇』に移る可きであるが、使宜上暫らく彼の自然及び神に關する詩想を先に述べて置きたい。
主觀的感情の高潮や奔騰によつて自他の限界を超躍しようとせずに、個々の事物を重んじて、之に滲透し徹底し、その本質を會得して、これを完全にすることを以て藝術の本義であるとしたリルケは、一面自己を明鏡のやうな平靜の境地に置いて、自己の中に映發する事物の姿を可及的に攬亂しないやうに力めると共に、他面事物そのものを能ふ限り本來の姿に於て眺めようと望んで居ることは既に說いた。それ故にあらゆる故意と作爲とに充ち、蠱惑と混亂とに支配されてゐる都會生活を遁れて、「自然の大寂寞」を戀慕つた。そこには事物が赤裸々の姿で橫はつてゐて、既成の槪念や因襲の重い影に蔽はれてゐない故である。それは先づ都市に對する厭離となつて現はれた。
大都會は眞ではない。
日を、夜を、動物を、小兒を彼等は詐いてゐる。
彼等の沈默は僞つてゐる。彼等はまた
騷音と……事物とで僞る
[やぶちゃん注:「あざむいてゐる」。]
物質の文明に勝誇り、外的知識と物慾の滿足とに惑はされ、恍惚として深い生命の力に觸れる暇もない生活はリルケの堪へ得る處ではなかつた。それ故「主よ、大都會は失われたもの、解體したもの」、「其處には人々は惡く生活し」、「小兒はいつも同じ陰影の中にある窗の側に生育って、戶外で花が呼ぶのを知らず」、「若い女らは知らない人の爲に花を開き……慄へながらまた萎えてゆき」、「鎖に繋がれた如く死に、乞食のやうに去る」と嘆いてゐる。
しかし都會は自分のものだけを欲し、
總べてを自分の步みに引摺り込む
動物をば空(うつろ)の樹のやうに毀(こぼ)ち、
多くの民衆を烈しく使ひへらす。
都會の人々は文明に仕へて、
平均と適度から深く墮落し、
その蝸牛の步みを進步と云つてゐる。
靜かに步むところを驅け走り、
娼婦のやうに感じ閃めき、
金屬と硝子とで聲高に騷ぐ。
日ごとの虛僞は彼等を弄び
最う自己の姿がない……
[やぶちゃん注:「蝸牛」「くわぎう」と音読みしていよう。]
斯うまで彼が都會を厭つて自然の懷に入らうとしたのは、既に說いたやうに、小兒の心に歸り、原始の姿を喜び、人生と自然とを全然新しい關係に於て結集しようと願つた爲であつたから、その所謂自然といふものも、從來の詩人藝術家の指す處と甚しく趣を異にしてゐた。浪漫的の人々が空想の中に理想化した自然とは異つて、實際眼前にある自然そのものでなくてはならないことは、第一章に於て述べて置いた。リルケは時代の推移に伴つて凝視される自然の側面にも自ら相違のあることを叙し、我々の祖先が自然精神の啓示を見、感情の濃淡思想の複雜化を味ひ來つた城塞や谿谷に飾られる所謂奇勝絕景の類は、自覺ある現代の靑年にとつては、單に「未來を考へることも出來ない古風な部屋の樣に感ぜられ」て、一種の倦怠を覺えさせられるのみか、時としては都會と同じに其の强い刺戟によつて人心を蠱惑して、著しく偏狹な信念に傾かせる危險を伴ふものとさへ考へてゐる。次に少し彼の語を引用しよう。
「我々の祖先が馬車の窗を閉ざし、退屈に苦しみながら、やつとの思ひで通過したやうな場處を我々は要求するのである。彼等が欠伸をする爲に目を開いた處で、我々は視る爲に眼を開く。何故かといふと、我々は平埜と天との表號の中に生きるからである。平野と天とは二つの言葉である。しかし元來唯一つの平野といふ體驗を包んでゐる。平野こそ我々がそれによつて生きる感情である。我々は平野を了解する。平野は我々にとつて手本となる可き或物を持つてゐる。其處では凡てが重要である。地平線の大きな圈も、單一に有意義に天に向つて立つて居る僅少な事物も。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]その天そのものからがさうである。その明るくなり暗くなることをば濯木の數千の葉が各〻異つた言葉で語つて居る。夜となると都會や森林や丘陵の上にあるよりは、更に多數の星を此處の空は持つてゐる。」
リルケが『時禱篇』の詩想を得たといふ露西亞で見た自然もこのやうな自然であつたに相違ない。彼が其後久しく住居したヺルプスヹエデも實に同じやうな平野であつた。「それは不思議な土地である。ヺルプスヹエデの小さい砂山の上に立つと、人は展開された周圍を見ることが出來る。それは暗色の地の四隅に花模樣の光つてゐる肩掛のやうに見えるのだ。皺は殆ど無い平面である。道路や水路が遠く地平線の中に沒してゐる。其處から始まつてゐる蒼穹は筆紙に盡し難い程の變化と偉大とを持つてゐる。そしてあらゆる樹木の葉の上に反映してゐる。凡ての物がその天と交涉してゐるやうに見える。」彼は斯ういふ平野の中の寒村にゐて、フオオゲラアの畫いた白樺の間や砂山の上を步きながら、朝に夕に貧しい泥炭掘の生活を眺め、人工によつて蔽はれることの少ない事物を凝視した。其處には何一つとして同じものはなかつた。一刻として同じ時はなかつた。「各自が自己の世界を自己の内に持ち、山のやうに闇黑に充ちてゐた。深い謙遜を持して己れを低くすることを少しも懼れてゐなかつた。凡てが敬虔であつた。」リルケは斯うして事物を洞察することによつて、漸次に自然の核心に喰入らうとした。「眞理は遠隔な處にある。忍耐する人々にのみ徐に近寄るものである」と信じてゐた彼は、一九〇六年の『自畫像に題する詩』にも告白して居るやうに、「蒔き散らされた事物で遠くから嚴肅なもの現實なものを企てる」人である。譬へリルケは創作的燃燒の瞬間に於て、萬物奧底の統一界を味ひ得たにしても、それ故に直ちに自然を一つの統一的なものとして愛したのではなくして、靜寂な自然の中にあつてのみ、個々の事物が瞭然と自己の本質を示し、その個々物質の中に永遠が指唆されてゐるのを喜んだ爲である。斯う考へて來れば、リルケを驅つて白然に赴かしめた要求は同時にまた彼の藝術上の要求と一致してゐることを發見するのである。すなわち個々の事物を離れずして、而もその後にある意味と價値とを把握し、其處に普遍的生命の流れを見るといふ一事が、あらゆるリルケの思想行動の中心であり根源であると思はれる。
[やぶちゃん注:「ヺルプスヹエデ」これは、現在のドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスターホルツ郡に属する町村であるヴォルプスヴェーデ (ドイツ語: Worpswede/低地ドイツ語:Worpsweed) 。当該ウィキによれば、『この町は、ブレーメンの北東、ハンメ川』『に面しており、トイフェルスモーア(泥湿地)の中に位置している。この町は州の保養地に指定されている。町は平地に囲まれた高さ』五十四・四メートル『の丘陵ヴァイヤーベルク沿いに位置する』。『この町は芸術家の生活・創作共同体としてのヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー』『で知れられている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「フオオゲラア」ドイツの画家・建築家ヨハン・ハインリヒ・フォーゲラー(Johann Heinrich Vogeler 一八七二年~一九四二年)。当該ウィキによれば、『ブレーメン出身』で『ヴォルプスヴェーデに住んでいた』とある。リルケのウィキによれば、『ロシア旅行に先立つ』一八九八『年に』、『リルケはイタリア旅行を行なったが、このとき』、『フィレンツェで』、この『フォーゲラーと知り合い』、『親交を結んだ。フォーゲラーは北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでおり、リルケは』一九〇〇『年』八『月に彼の招きを受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家のオットー・モーダーゾーン、女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家と交流を持った』。翌年四月、『リルケは彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた』とある。]
それから彼れが文人畫風の英雄的山水を愛しないで、平明普通な風景を選むで居るのは、彼れが自然から求めるところのものが特殊異常の場合でなく、且又感覺的の興奮や驚駭ではなくして、其內面に橫はつて居る心であつたことを說明してゐる。自然な平野やうに單純で透明であればある程、原始的に素朴であればあるほど、それを内面化すること、それを精神化すること、否な其內にある精神を抽出し、其の內部の力を發揮させることが容易に思はれた故である。そして自然風景に對するリルケの此の態度は、實に獨逸詩界に於ける最近の新風景感の淵源とも云ふべきであつて、オスカア・リョエルケにせよ、イナ・ザイデル女史にせよ、テオドオル・ドイブラアにせよ、リルケ無くしては彼等の精神化した新風景感を作ることは出來なかつたかも知れない。リリエンクロオンが『荒野の姿』の諸作でしたやうに、單に自然の風景の情景を克明に描寫するに止まらないのは勿論、ホオフマンスクアルやゲオルゲに於けるやうに風景を作者の魂の狀態として現はすのでもなく、人間そのものが自然となり、風景となつてしまふといふ如き、之等新風景感の發生には、どうしても客觀的な個々の事物を重ずると同時に、其の背後に共通普遍な靈の力を承認する汎神論的の信仰を藏してゐるリルケの如き詩人の出現が必要であつたらうと考へられる。
四
私は詩集『我の祝に』にもう一度立歸りたい。それは初めて生れたもの、待つてゐるものとしてのリルケの姿が極めて明瞭に覗はれると思ふからである。『日常生活』や『最終の人々』で語つて居るやうな瞬間的な神の啓示に至る迄のリルケが此集に於て最も直接に出てゐると見られるからである。
[やぶちゃん注:初行の「にもう」は、底本では「に」がないが、おかしい。脱字か誤植であろう。再版「詩集」で「に」が補われたことが、岩波文庫の校注で判明したので、補った。]
彼が自我探求の結果、原始への復歸を必要とし、其處に先づ切實な憧憬の念を見出したことは前に說いた。『少女の歌』、『マリアヘ少女の祈禱』等はそれであるが、更にまたリルケは鋭敏な感覺と、微妙な直覺とを根本的なものと見た。
傾聽と、驚きのみで、靜かであれ、
私の深い深い生命よ。
風が欲することを、
白樺もふるへぬ先に知るために。
そして若し沈默がお前に語つたら
お前の官能にうち勝たせろ。
凡ての氣息に身を與へろ、從へ。
氣息はお前を愛し搖るだらう。
さうしたらまた私の魂よ、廣くなれ、廣くなれ、
お前に人生が成功するやうに。
晴著のやうにひろげろ、
ものを思ふ事物の上へ。
感覺を銳利にし、直覺を精細にするだけでは彼には十分ではなかつた。それと同時に自己の心を鏡のやうな靜寂な境地に置いて、外物によつて蕩搖攬亂されないやうにしなくてはならなかつた。彼の知らうとする處は、變化する事物の外形ではない。紛糾を極める生活の諸相ではない。あらゆる屬性を離脫した本質的のものである。そして其の本質的なものは事物そのものの持つてゐる魔力にあり、決して封鎖されない變轉性にあり、名狀し難い處にある。事物は例へば願へる絃である。それを荒い手で摑めば其の音は消え、生命は失はれる。「離れ居よ。私は物の歌ふをきくを好む」といい、「人生を理解しようとするな。すると人生は祭のやうになる」と歌ひ、落花の下を行きながら、その花片を集め貯へることをせずして、徐に髮にかかる葩[やぶちゃん注:「はなびら」。]を拂つて、更に新しいものに兩手を差出す子供を禮讃して居るのも蓋し同じ心である。事物そのものでなくして、事物を繞る騷がしいもの、事物の置かれて居る環境に心を勞することはリルケの性情に適しない處である。進んで複雜な人世の大河に飛入つて、自から社會の波をあげ、事業の嵐を呼ぶことを斷念して、事物の奧底に橫たはる生命を念とする詩人としての自覺に至つた彼は、事物その物をも成るべく簡素單一な姿のものを愛したのである。それ故にリルケは又好んで追放された者、斥けられたもの、貧しい者、瀕死の者等に對して無限の同感と、周密な注意とを持つて居る。地位財產階級門地等、複雜な外面的裝飾に支配されない之等の人々に、赤裸の人性の發露を見たからである。そしてリルケが其處に見たものは人間と動物とを等しなみに壓迫してゐる物理的機制の力ではなくして、その正反對の精神の世界、生命の世界であつた。この卑しきもの、貧しき者、惱める者の禮讃についてはなほ詳しく後章に述べたいと思ふが、シュテファン・ゲオルゲが好んで壯麗豪奢を歌つたのと面白い對象を爲すものであつて、彼が騷擾と紛雜とを囘避するのは決して貴族的な態度でもなく、また「藝術册子」一派の美の僧院への遁世でもなくて、物それ自體を重んずる根本的詩想の上に立つものであることを立證してゐると云へるであらう。
[やぶちゃん注:『「藝術册子」一派』見当外れであるなら指摘されたいが、これは、ドイツ詩に於ける象徴主義を代表する詩人シュテファン・アントン・ゲオルゲ(Stefan Anton George 一八六八年~一九三三年)が、一九〇二年に芸術至上主義の『芸術草紙』を創刊し、そこに集ったフーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal)を筆頭とする所謂、「ゲオルゲ派」のことを指すように思われる。]
思ふに少女のやうに銳感な神經と纖細な感覺とを重んじ、蕪雜な現實から脫出し、軟いもの、さだかならぬもの、夕ぐれと夜とを愛するのは獨逸新浪漫派の精神であつて、その點に於てリルケもまた傾向を同じくして居る。しかしザムエル・ルブリンスキイが『近代の末路』で論じてゐるやうに、新浪漫派の病弊は感受性の過重である。彼等は早計にも銳敏な神經を以て既に新主觀であり新世界であると信じて居る。その爲め高潮された其內部生命といふものも、實質が甚だしく空疎無力であつて、單なる美、單なる感覺の滿足、形式上の修飾以外に出でない憾みが多い。之に反してリルケにあつては感覺の世界、神經の世界が決して總べてではない。彼はそれによつて大きな生命を感得しようとし、永遠の神を招來しようとしてゐる。云はば手段に過ぎない。隨つて彼の藝術は單なる美を求めて居るのではない。各〻の對象の中に藏されてる永遠を啓示するにある。その事は彼の著『ダルプスヱエデ』の中にも明言されている處である。
私の筆は思はず滑つて、また既に說いたリルケの藝術の本質に歸つて來たが、詩集『我が祝に』に見られるリルケは、生れた許りのやうな新鮮で精細な感受性を持つて、尙「常に待ちつつある人」である。「人生の外に立つ人」である。そして沙門のやうな虔(つつまし)さと、少女のやうな憧憬を以て、將に來らんとするものの前に震へ戰いてゐる。『少女の歌』はその象徵とも見られるであらうが、「私は一つの園でありたい。」「私は晝と夢との間に往む」等の詩は最もよく彼の姿を現はすものである。
詩集『我が祝に』はまた其用語と手法と形式と音律とに於て、漸く因襲的なもの、學習によつて得たものを離れて、自己獨得なものを示して居る。强いて範を先蹤に求めればノヷアリスと一味の通ずるものが無いではないが、それも勿論決定的に云はる可き程では無い。「リルケの比喩形象は神祕化された肉感から滴つてゐる。典型化された(卽ち束縛された)欲望ではなくして、芽ぐみつつある、羞らつて震へて居る欲望である」とツェッヒの評して居るのは、稍〻穿ち過ぎて居る觀がないではないが、リルケの淸新で豐冨な感覺の處女性をよく指摘して居る言であらう。彼の視點は全く在來の詩人とは異つた處に向けられて居る。其の感情の方向は末だ嘗て一度も觸れられなかつた處を指して居る。しかも決して我々に未知のものでもなく、奇異なものでもない。彼れは使い古され、塵まみれになつて居る言葉に數千種の新しい美を見出し、その本來の意義を再生させてゐる。
日常の中に滅びたあはれな言葉、
眼だたぬ言葉を私は愛する。
私の宴から私がそれに色を與へると、
言葉は微笑むで、徐に喜びだす。
彼等が臆病に內へ押入れた本性が
はつきりと新たになつて、誰にでも見えてくる。
一度もまだ歌の中で步まなかつたのが、
震へながら私の小曲の中で步いてゐる。
此詩集以後のリルケの詩を讀む者は、何人と雖も彼の此言を其儘受入れざるを得ないであらう。そして彼の新しい用語例は其後の靑年詩人に著しい影響を與えて、その恩澤に浴しないものは殆どないと云つても過言ではない位である。
三
『人生に沿ひゆく』は詩集『家神奉幣』に現はれて居るやうなリルケの素質を語つて居る點で興味のある短篇又はスケツチ集であるが、彼が無偏無黨に周圍の事物、出來事を受入れ、それを理解し、愛さうとする態度は寧ろ一層鮮明に現はれて居る。此點では『プラアク二話』も同樣であるが、技能の上から見ると末熟の跡の蔽ふ可からざるものがある。彼が一八九九年の序文に「自分は今日だつたら斯うは書かなかつたであらう。隨つて槪して書かずにしまつたらう」と云つて居るのも肯かれる。ただ其中にも優しい軟い愛情が、燒くやうな强さでは勿論ないが、稍〻感傷的に、しかし眞底から各の作品に溢れて居る。最初は貧しい者、疲れたもの、悲み惱むものに對する同情となつて―例へば一八九三年の作といわれる『子の基督』に於けるやうに―現はれ、後には一般の事物や人間に對する愛として出て居る。短篇『白い幸福』の如きは藝術的に最も成功して居るものであらうし、スケッチ『聲』は事件、出來事を描寫しないで、物それ自體の本質に滲透しやうとするリルケの大きな特性を裏切つて居る作であらう。ゲオルグ・ヘヒトが之等の作品を通ずる精神はホレエショの叡智 Aurea mediocritas 卽ち黃金の中正道であると云つて居るのは當らずと雖も遠くない批判であらう。
[やぶちゃん注:「ゲオルグ・ヘヒト」不詳。
「Aurea mediocritas」ラテン語。音写「アウレア・メディオクリタース」。サイト「山下太郎のラテン語入門」のこちらに拠れば、古代ローマ時代の南イタリアの詩人クィントゥス・ホラティウス・フラックス(ラテン語:Quintus Horatius Flaccus 紀元前六五年~紀元前八年)『の言葉です』(「詩集」2.10.5)。『日頃「心のバランス」という言葉を耳にすることがあります。キケローも「人生を通じて心のバランスを保つことは素晴らしい。いつも変わらぬ表情と顔つきをしていられることもまた素晴らしい」と言っています。ローマの格言をいろいろ見ていると、心の激しい浮き沈みを戒める言葉がたいへん多いです』。『「心のバランス」と言えば、ホラーティウスの「黄金の中庸」(アウレア・メディオクリタース)がもっとも有名です。「なにごともほどほどが一番」というくらいの意味です。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」とも言われるように、何事にせよバランスを取るのは大切です』。『ホラーティウスは、逃れられない死の定めについて、また人生の無常について、繰り返し詩の中で語っています。権力や富への過度の欲望にとらわれるべきでないこと、今ある質素な暮らしに満足し、「今日この日を楽しめ」と歌います。「Carpe diem. カルペ・ディエム」の詩でも有名ですね』。『英語でも「中庸」のことをゴールデン・ミーンと言いますが、ホラーティウスの「アウレア・メディオクリタース」に遡ると考えられます。アクセントは「アウ」と「オ」に落ちます。二語から成る言葉なので覚えやすく、それでいて重みのある言葉なので、座右の銘にお勧めです』。『ホラーティウスは、死という逃れられない定めについて、また人生の無常について、繰り返し説いています。そこから、権力や富への過度の欲望にとらわれるべきでないこと、今ある質素な暮らしに満足し、「今日この日を楽しめ」と歌うのです』。『ある意味で、エピクロス派の幸福観を想わせます』。『ホラーティウスは、中庸の徳を大切にした人です』として、以下に詩篇が示されてある。]
しかしリルケの自己摸索の有樣を示し、詩人的自覺の内容を語るものは、小說『最終の人々』と、戲曲『日常生活』であると思ふ。
小說『最終の人々』の主人公ハラルトはリルケと等しく古い貴族の末裔である。彼の祖先には將軍あり、國王もあり、僧正もあつた。ハラルトは之等祖先の基礎の上に立つてゐる。彼の背後に橫はつて居る數百年の發達は彼の上に悉く其影を落して居る。それ故の彼の戀人マリイの語を借りて云へば、「何人も氣づかぬ程の人生の出來事でも彼を見れば直ぐ解る。彼の言葉も、眼眸も、身振も、直ちに一つの出來事を意味する」のである。斯うしたリルケの考へ方を見ると、彼もまた自然主義の人生觀と等しく、自我又は個人の中に幾多の祖先が嚴然として生存して居ることを信じてゐるやうである。遺傳の事實を否定しない一人であるらしく思はれる。そして外的生活で嘗て支配者であつた祖先のことを屢〻その詩作の中で語ることは、フリイトリッヒ・ニイチエが自分の祖先をポオランドの貴族として一種の誇を禁じ得なかつたことと思ひ合せると中々面白い。しかしながらリルケと自然主義者との相違は、其遺傳の力に全然屈伏するか、それを凌いでそれ以上に出るかにある。『旗手クリストオフ・フォン・リルケ』等を見れば、彼が自我を訊ねて祖先へ遡ることは祖先によっての決定を信ずる悲觀的定命論者とは異つて、嘗てあったものが滅びないことを證明しようとし、引いては可死者に永遠の命を與へる樂觀者であり、變轉と發達とを信ずる理想主義の面影を持つてゐることがわかる。彼が祖先の中に見るものは決して單なる物的肉體的のものではなく、其の中に籠つてゐる靈性であり、變轉と發達とを信ずる理想主義の面影を持つてゐることがわかる。彼が祖先に中に見るもの決して單なる物的肉體的のものではなく、其の中に籠つてゐる靈性であり、力であることは、リルケが物に卽しながら其の形骸と物理的機械的作用にみ捕へられなかつたと同樣であつた。此點は特に注意して置かなくてはならない處である。
さて主人公ハラルトは社會改良事業の爲に日夜營々として、種々の困難に遭遇しながら奮鬪を續けて數年を經た。そして彼の爲には最後の一滴の血まで惜むまいと思つてゐるマリイの助けをも得た。しかしやがて彼は自己の努力の無益なことを覺醒した。世人は蒙昧、偏見、貪婪等あらゆる罪惡の中に浸つてゐて、却つてそれに執著している。過去の羈絆[やぶちゃん注:「きはん」。「牛馬をつなぐ」の意から、「足手纏(まと)いとなる身辺の物事」の意。]に捕へられて之を脫する努力を缺いてゐる。不治愚鈍な怠慢である。彼は自己の生活を顧みて、其の效果は老母が沈默の間に編み上げた一枚の卓布にも及ばないことを感じた。彼の生活は愛の浪費に過ぎなかった。
「私は愛を熟させなかつた。私は餓ゑて居る人々に靑い果物を投げ與へた。」
彼は斯うした悔恨を抱いて重い病の床に橫はつた。ハラルトの此告白が我々に告げる處は、外面的物的生活の革新は先づ我々の内面生活の充實を得て後でなくてはならないとの意味である。内にある愛を熟さしめる、その考は實に大戰後の獨逸文檀に澎湃として潮のやうに高まつたものであつたが、それに先立つこと二十年、末だ一種の夢想家の如く思かれてゐた靑年詩人リルケによつて道破せられたところであつた。そして其內なる愛を養ふには何うしたらよいか。ハラルトは死に隣つてゐる病床にゐて少年時代を回顧する。
「私は最う一度子供時代から始める。子供時代は全く總べてのものから獨立した國である。國王たちの住む唯一の國である。我々は何故其處から追放されるのだらう。何故あの國で年を重ねて成熟しないのだらう。何故他人の信ずるものに自分を馴らさなくてはならないのだらう。それが純一な子供心に信じてゐたものよりは、幾分でも多い眞理を含むでゐる故であらうか。私は今でも思ひ出すことが出來る。……あの頃には一々のものが特殊の意味を持つてゐた。そして無數のものがあつた。何れも價値は同じであつた。それ等のものの上には公平があった。各〻のものが唯〻一つに見えた。運命であり得た。」
彼は斯うして「全く手本のない生活」をし、あらゆる因襲から得て來た知識を自分に應用せずに、「始めて人間として生れて來たやうに振舞はう」と思つた。其處には「無數のものが同價値であり、個々の物が唯一つに見え」なくてはならなかつた。短篇『一致』の主人公が「十年の努力は唯〻全く生れた元のところへ歸つて來る爲に費されたのです」と叫んでゐるのも同じ心持に外ならない。それ故リルケにあっては自我の探求は殆ど自我の解體であり消滅であつた。否な自我の本質、總べての原始への復歸であつた。根本的に最初から、始めて人間として生れて來たやうに、感じ、味ひ、愛し、考へ、表現する。其處に眞の藝術の母胎がある。此覺醒からリルケは主人公ハラルトをして、外面生活の支配者であつた種族の「最終人」として、人間の內部生活にたづさわる詩人としての任務を決定的に負はせたのであつた。云はば自傳小說とも云ふべき此作で、リルケは自己の詩人としての覺醒を語ると共に、その詩作の如何なるものである可きかを規定してゐるやうに思はれる。「我々は多くの藝術を持つてゐるが、實は一つも持つてゐない。多くの憧憬はある。そして一つの充足もない。」何故といふと「世界のあることを知るのは藝術では無くして、それは一つの世界を作ることで無くてはならない。見出すものを破壞することではなくして、「單に未完成なもの」を見つけることにある。可能性のみ、願望のみ。そして突如として滿足があり、夏があり、太陽を持つ……」其處に藝術の不可思議があるのである。在來の總べてのものは唯〻神へまで導いたに過ぎなかつた。「常に惟〻神へ迄至つて、それを越えたことが無い。恰も神が岩ででもあるやうに。」しかし其處に新しいものが覗はれなくてはならない。神は越え難い岩ではない。「彼は花園であり、海であり、非常に大きな森である。」――「人は神の罷む處、疲れたところから始めなくてはならない。其處で進入しなくてはならない。」その能力あるものが、その惠まれたものが卽ち藝術家である。リルケが神を如何に考へたかは後章の說明に讓るとして、彼れがかうした永遠と生命との交感とも云ふ可き藝術創作の刹那の感激的禮讃は、戲曲『日常生活』にも見ることが出來る。
此戱曲の女圭人公ヘレエネは戀愛と藝術的靈感とを同樣であるとして、戀愛から結婚に進もうとする靑年畫家に告げて云ふ。「近代の藝術家は、一つ一つの閱歷にそれ相當の調子を與へて、それを一つ一つの完全なものにし、一つ一つの生活にし」なくてはならない。斯くの如き人にして始めて「一生の間に千萬の生活を閱し、千萬の死を死しながら千萬の死を凌ぐ」ことが出來る。此異常事を爲遂げる素質と能力とを持つてゐるものが眞の藝術家であつて、藝術家が靈感に打たれてゐる一時間は決して唯の一時間ではない。彼の過去未來に於ける數千百日が此一時間に折り重なつてゐるのである。云ふベくんば彼の永劫さへ此一時一刻に縮まつてゐる。而もその一刻は規則と便宜とに支配されてる世界の眞中で、又此の高い交合と受胎とを見ることも感ずることも出來ない人々の眞中で、突如として詩人を襲ふこと、戀愛が電のやうに人の頭上に落ちるに似てゐるのである。そしてかういふ燃燒の時間は譬へ數時間繼續するにしても、其後に來る時間に比すると眞に瞬間である。後に來る時間とは卽ち日常生活であり、期待であり、勞作であり、無理な行爲であり、敬虔であり、謙遜であり、困難な始めであると。
どうされます神樣、私が死んだら、
私はあなたの瓶、(若し私が碎けたら、)
私はあなたの飮物、(若し私が腐つたら、)
あなたの著物だ、あなたの蝶鉸(てふつがひ)だ。
私と共にあなたの意味は失はれる。
私の後には、近い暖い言葉で
あなたに話しかける家もないでせう。
あなたの疲れた足からは天鷲絨の鞋(サンダアル)が落ちる。私はそれだ。
又リルケは或る詩で「我は神の口だ」とも云つて居る。斯ういふ瞬間の體驗から、彼は萬物の後に活らゐて[やぶちゃん注:「はたらゐて」。]ゐる永遠者の存在の信念へ導かれた。主觀的ではなくて客觀的であり、個性的だといふよりは卽物的であつた彼としては、明かに一つの神祕的飛躍である。今やリルケに取つて眞に人生的意義のあるものは、萬物の深い心であつた。ものそれ自身であつた。その名や形等外面的なものではなくて、其の本體であつた。彼が自己の周圍のみを照らして截然[やぶちゃん注:「せつぜん」。]たる區別を敢てする小さな光よりは、總べてのものの一樣に溶け入つて區々の差異から脫出する闇と夕暮とを喜んだのも其爲であろう。「私は人間の語を恐れる。人々は皆これは犬、彼は家、此處に始があり、彼處に終があると」いふ、しかし名は例へば牆壁である。
言葉はただ牆壁、
その背後の常磐の山にこそ深い心は輝くのだ。
詩人が其常磐の山に突入する「未聞の異常事を爲す」瞬間を持ち、「本來沈默としてのみ考へらるる或事を語り、」「恰もその言葉無くしては餓死せずにはゐられない數千の人々が眼前に立つてゐるかの如く、熱して、聲髙く、息もつがずに呼ば」ずにはゐられない者であることを體驗し、其れを藝術の本義であるとした事は、リルケを知る上に於て重大な點であつて、彼のあらゆる詩作を解く鍵であるが、更にまた彼が「日常生活」と呼ぶところの、その燃燒的境地に對する憧憬と期待、準備と勞作、敬虔と祈禱こそ、一層人としてのリルケの特性を示すものであるやうに思はれる。
[やぶちゃん注:左下方に実の殻斗(ドングリの基部についているもの。いわゆる「皿」、「椀」「帽子」などと呼ばれる部分)を持つ「どんぐり」が一個、描いてある。これは、実の丸さと殼斗を見ても、百%、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属 Cerris 亜属Cerris節クヌギ Quercus acutissimaのそれであり、絶対に、良安が以下で頻りに記している「トチ」と呼んでいるムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinataの実ではない。]
とち 皂斗 櫟梂
柞子【音作】杼【茅同】
橡【様同】 栩【音許】
【和名止知】
ヤン 【俗用栃字】
[やぶちゃん注:標題下の割注にある「様」は「樣」と同じで、実は、「樣」という字は異体字「橡」の正字であり、「樣」の第一義は「橡實」=「どんぐり」=「クヌギ(の実)」を指すのである(大修館書店「廣漢和辭典」に拠る)。]
本綱有二種一種不結實其木心赤名之曰棫結實者曰
栩其實爲橡盛實之房爲梂【音求】二者樹小則聳枝大則偃
蹇其葉如櫧葉而文理皆斜勾四五月開花如栗花黃色
結實如荔枝核而有尖其蒂有斗包其半截其仁如老蓮
肉山人儉歳拾采以爲飯或擣浸取粉食其木髙二三𠀋
堅實而重有班文㸃㸃大者可作柱棟小者可爲薪炭他
木皆不及其實之壳煑汁可染皂也若曾經雨水者其色
[やぶちゃん注:「壳」は「殼」の異体字。]
淡其嫩葉可𤋎飮代茶也
橡子【苦微温】止瀉痢厚膓胃浸水淘去澀味蒸極熟食之
西行
山家山深み岩にせかるる水ためんかつかつ落るとちひろふほと
[やぶちゃん注:以上の一首は「岩にせかるる」は「岩にした(だ)るる」が正しい。訓読文では訂した。]
△按栩葉大者可七八寸有蹙縮實大於栗其様裹半亦
竒也木心亦有蹙縮橒美而膚濃用作飯盌及箱案之
類不減於欅也
凡櫧槲櫟之屬皆有梂其狀似飯盌之蓋盞殊櫟之梂
大而包半故立櫟梂之名然倭名抄以櫟爲甜櫧之訓
者訛必焉
*
とち 皂斗《さうと》 櫟梂《れききう》
柞子《さくし》【音「作」。】
杼《しよ》【「茅」に同じ。】
橡【「様」と同じ。】
栩《く》【音「許」。】
【和名、「止知《とち》」。】
ヤン 【俗、「栃」の字を用ふ。】
[やぶちゃん注:標題下の割注にある「様」は「樣」と同じで、実は、「樣」という字は異体字「橡」の正字であり、「樣」の第一義は「橡實」=「どんぐり」=「クヌギ(の実)」を指すのである(大修館書店「廣漢和辭典」に拠る)。]
「本綱」に曰はく、『《橡實は》二種、有り。一種は實を結ばず、其の木の心《しん》[やぶちゃん注:「芯」に同じ。]、赤し。之れを名づけて、「棫《ヨク》」と曰ふ。實を結ぶ者を「栩《ク》」と曰ふ。其の實を「橡(とちのみ)」と爲《なす》、實を盛《も》るの房[やぶちゃん注:「殻斗(かくと)」。既に述べた「どんぐりの帽子」のこと。]を、「梂(かさ)」と爲す。【音、「求」。】二《ふたつ》の者≪、ともに≫、樹、小なる時は[やぶちゃん注:「時は」は、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の送り仮名で補った。]、則《すなはち》、枝を聳ゆ。大なる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、偃蹇《えんけん》≪たり≫[やぶちゃん注:(木自体の幹が)高く聳える。]。其の葉、櫧(かし)の葉のごとくにして、文理《すぢめ》、皆、斜(なゝめ)に勾(まが)る。四、五月、花を開《ひらき》、栗の花にごとく、黃色≪なり≫。實を結ぶ。≪それ、≫荔枝《れいし》の核《さね》のごとくにして、尖り、有り。其の蒂《へた》に、「斗《と》」[やぶちゃん注:前掲の「殻斗」。]、有りて、其の半《なかば》を包む。其の仁《にん》を截《き》れば、老≪いたる≫蓮肉《れんにく》[やぶちゃん注:ハスの種子を乾燥させた生薬。]のごとし。山人、儉(きゝん[やぶちゃん注:飢饉。])の歳(とし)には、拾ひ采《とり》て、以《もつて》、飯と爲《なす》。或いは、擣《つき》、≪水に≫浸《ひたして》、粉を取《とり》て、食ふ。其の木の髙さ、二、三𠀋。堅實にして、重く、班文《はんもん》の㸃、有り。㸃、大なる者、柱《はしら》・棟《むね》に作るべし。小なる者、薪《たきぎ》・炭《すみ》と爲すべし。他木《たぼく》、皆、及ばず。其の實の壳《から》、汁に煑て、皂(くろ)きを染《そむべし》。若《も》し、曾《かつ》て、雨水≪を≫經《へ》る者は、其の色、淡し。其の嫩葉《わかば》、𤋎《せん》じ、飮(の)みて、茶に代《か》ふなり。』≪と≫。
橡子《しやうし》【苦、微温。】瀉痢を止《とめ》、膓胃《ちやうい》を厚《あつくす》。水に浸《ひたし》、澀味《しぶみ》を淘去《よなぎさりて》[やぶちゃん注:水洗いをして、不純物を去って。]、蒸《むし》、極《ごく》、熟≪さして≫、之れを食ふ。
「山家」
山深み
岩にしだるる
水ためん
かつがつ落《おつ》る
とちひろふほど 西行
△按ずるに、「栩《きよ》」の葉、大なる者、七、八寸ばかり。蹙-縮(しゞら)[やぶちゃん注:縮まって変形していること。]、有り。實は、栗《くり》より大なり。其の様(なり)、半《なかば》を裹《つつ》むも亦、竒なり。木の心にも、亦、蹙縮、有り。橒(もくめ)、美(うつく)しく、膚(はだ)、濃(こまや)かなり。用《もちひ》て、飯盌(めしわん)、及び箱(はこ)・案(つくえ[やぶちゃん注:ママ。机。])の類《るゐ》に作《つくる》。欅(けやき)に減(をと[やぶちゃん注:ママ。])らざるなり。
凡《およそ》、櫧(かし)・槲(どんぐり)・櫟(とち)の屬、皆、梂(かさ)、有《あり》。其の狀《かたち》、飯-盌(わん[やぶちゃん注:二字へのルビ。])の蓋-盞(かさ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])に似たり。殊に、櫟《とし》の梂《かさ》、大にして、半《なかば》を包む。故に、「櫟梂《とちのかさ》」の名を立つ。然《しか》るに、「倭名抄」、櫟を以て、「甜櫧(いちひ)」の訓を爲すは、訛《あやまり》、必《ひつ》せり[やぶちゃん注:絶対的に誤謬であることは、最早、明白である!]。
[やぶちゃん注:特異的に判読に苦しみ、更に、良安が「橡」に和名を「とち」と読みを振っておき――しかも、評言の冒頭では、一番馴染みのない「栩《きよ》」を名として挙げやがって――そのくせ、挿絵にはクヌギの実を堂々と確信犯で描いている――見事に「どうするヤブちゃん?」状態に追い込んで呉れたわい!……他の作業に忙しく、暫く、更新を怠っていた「祟り」ってカ? さて、まずは、珍しく、東洋文庫訳の後注が、要めとしての一つの示唆を与えてくれていたので、引用しておく。
《引用開始》
注一 和名は止知 中国の橡はブナ科のクヌギ。日本のトチはトチノキ科である。良安は中国の橡(櫟・栩・杼・柞も同じ)をトチとしているが、和名はクヌギである。ただし、わが国ではトチにも橡の字を充当している。例えば『原色牧野植物大図鑑』(北隆館)のクヌギの項には、漢名は櫟・橡とあり、トチノキの項には、栃・橡は俗字とある。混同のおこるゆえんである。
《引用終了》
ここで、訳者竹島淳夫氏は、中国で――「橡」――という漢字は、
○双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属 Cerris 亜属 Cerris 節クヌギ Quercus acutissima
に同定比定され、一方、本邦で一般に「トチ」と呼び、漢字表記では「橡」及び「栃」で表記するところの、
✕ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata
ではないと断定されていたである。一方、私は、それ以前に、原本の冒頭の挿絵で、そこいに描いた実を、見た瞬間。間違いなく
「こりゃあ、トチノキの実ではなくって、――クヌギの実だゼ!?!」
と口に出して独語し、既に断定してはいたのである。ここで、細かな私個人の考証過程をここに示す精力は、もう六十八になった老いぼれには、ない。まんず、
と
✕ウィキの「トチノキ」にある「実」の写真(そもそもが、私個人は、それを「どんぐり」と呼んだことはなく、私は枝の先にキンタマのみたようにブラ下がるエゲつない蒴果を――「殻斗=「どんぐりの帽子」のない「そ奴」を――死んで生き変わったとしても――決して――「どんぐり」とは、呼ばない!)
を比較されたい。今回は、精神的に疲弊したので、ウィキの「クヌギ」の引用はカットする。前記のリンクで見られたい。
なお、「本草綱目」の記載は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「橡實」([075-56b]以下)のパッチワークである。
『栩《く》【音「許」。】』「許」には「ク」の音がある。さらに言えば、現行の中国語では「栩」も「許」も、「xǔ」(シュィー)で同音である。
「《橡實は》二種、有り。一種は實を結ばず」「橡實」という項名なのに、実がならないのは「名にし負わぬ」謂いであり、おかしいだろ! 時珍!
「棫《ヨク》」「廣漢和辭典」によれば、第一義を、たらのき・『とりとまらず』とする。これは、天ぷらやみそ和えにして美味い、セリ目ウコギ科タラノキ属タラノキAralia elata である。異名は幹・枝・葉に鋭い棘(とげ)が密にあるからであろう。而して、第二義を「ほお」・「くぬぎ」とする。前者は、モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ(朴の木)節ホオノキ Magnolia obovata である。
「大なる者、柱《はしら》・棟《むね》に作るべし。小なる者、薪《たきぎ》・炭《すみ》と爲すべし。他木《たぼく》、皆、及ばず」特にウィキの「クヌギ」の「木材」を引く。『材質は硬く、材は建築材や器具材、家具材、車両、船舶に使われるほか、伐採しても萌芽再生力により繰り返し収穫できるところが重宝されて薪や薪炭、シイタケの原木栽培の榾木(ほだぎ)として用いられる』。『落葉は腐葉土として作物の肥料に利用される。クヌギは成長が早く植林から』十『年ほどで木材として利用でき、木材生産には効率がよいとされてきた』。『病気も少なく、手入れをしなくても育つので人気があったが、もっぱら薪や炭用の利用が多かったため、その後はだんだんと植える人も減っていった』とある。その前にある「燃料」も引こう。『薪炭材としては落葉ブナ科樹木、いわゆるナラ類の中でも別格で非常に評価が高い。特に木炭に加工される場合、殆ど黒炭に加工される。燃焼時のにおいが少なく、火持ちがいいことの他にも、断面に菊の花の模様が現れ見た目もよく「菊炭」などと呼ばれ』、『茶の湯用の高級木炭である。大阪府北部の能勢・池田地域が代表的な産地であったことから』、『産地を採って「池田炭」とも呼ばれる。別名「一庫炭」とも呼ばれる』とあった。
「其の實の壳《から》、汁に煑て、皂(くろ)きを染《そむべし》。若《も》し、曾《かつ》て、雨水≪を≫經《へ》る者は、其の色、淡し」同じく「クヌギ」より引く。『樹皮やドングリの殻は、つるばみ染め(橡染め)の染料として用いられる』。『つるばみ染めは、実の煮汁をそのまま使うと黄褐色が得られ、灰汁を媒染剤とすると黄色が強くなってこれがツルバミ色とよんでいる』。『さらに媒染材に鉄を加えると、染め上がりは黒から紺色になる』とある。
「其の嫩葉《わかば》、𤋎《せん》じ、飮(の)みて、茶に代《か》ふなり」ネットを管見したが、見当たらない。但し、クヌギの葉には「タンニン鉄」が含まれているとは、あったから、或いは、地方では、残っているのかも知れない。
「山家」「山深み岩にしだるる水ためんかつがつ落《おつ》るとちひろふほど」「西行」「山家集」下の「雜」(一二〇二番)、
*
山深み
岩に垂(しだ)るる
水溜めん
かつがつ落つる
橡拾ふ程
*
先行する「栗」で詳しく記した、寂然との歌のやり取りに出た。見られたい。なお、lasciatesperanza氏のブログ記事「西行の足跡14」で、この一首を示され、『高野山は間が深いので、秋が深まるのも早い。凍ってしまう前に岩から滴り落ちる水をためておこう。早くも落ち始めた橡の実を冬の食料として拾ったりするこの時期の内に。』と解釈を示しておられる。
『然《しか》るに、「倭名抄」、櫟を以て、「甜櫧(いちひ)」の訓を爲すは、訛《あやまり》、必《ひつ》せり』
「和名類聚鈔」の「卷第十七」の「菓蓏部第二十六」の「菓類第二百二十一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本を参考に訓読する。
*
櫟子(いちひ) 崔禹錫「食經」に云はく、櫟子(いちひ)【上の音「歷」。和名「以知比」。】。相ひ似て、椎子《しひ》より大なる者なり。
*
……でもさ、良安先生、これって――裸子植物門イチイ(一位)綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata でイチイ――じゃないんだぜ? 判かってますか?
双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属イチイガシ(一位樫:歴史的仮名遣「いちゐがし」)Quercus gilva
だぜ。当たらずとも遠からず――「どんぐり」の仲間だからね――、というよりさ、「訛、必せり」は、御自身の今までのブイブイ「明後日カン違い」を棚上げしておいて(先行する「鉤栗」の私の注を参照されたい)、それは、ネエでげショウ!!!]
二
ライネル・マリア・リルケの人及び藝術家としての素質、その發達成熟の迹を知ろうとするには、彼の作品を點檢するに越した方法は無いやうに思はれる。彼は外面的の運動や社會的活動を事とする人ではなくて、一心に内面生活の開拓と、詩作の完成とに沒入している純粹の詩人であるからである。
彼の第一の詩集『人生と小曲』及びその以前に知人の間に配つたという小册子『きくぢしや草』は末だ見る機會に接しない故、それに就いて何も云う事は出來ない。しかし『家神奉幣』といい、『人生に沿い行く』といい、獨立した藝術的價値から判斷して、勿論取立てて論ずる程のものでは無いようである。しかし最も正直に最もあらわに彼の性情が流露している點に於て、後のリルケを知つているものに取つては、少からぬ興味を牽くものがある。彼の精細な語感、母音の音樂、特殊な手法象徵、淸新な感覺等、後年の作品で顯著になるものが既に此處に芽ぐんで居るばかりではなく、後の進路を規定する重要な素質が可なり純粹な形で現はれてゐる。それは虔ましい愛と安靜の心とである。末だ二十歲にも足りない血氣の靑年には珍しい客觀性である。個性的(ベルゼヨエンリツヒ)でなくて著しく物的(デイングリツヒ)なことである。恰も『プラアクの話』の中のボフシュ王のように、他人の重大な或ものを知るに滿足して、それ以上何等の要求を持たない處である。斯ういふ風に不羈奔放な空想に驅られ勝ちな少年期からして、主として自己の直接經驗に觸れたもののみを歌ひ描くという實證的な行き方は、消極的な客觀性を尊重したその當時の時代精神に負ふ處があつたにしても、またリルケの受動的な所謂婦人魂の根ざしの深いことを語るものであつて、彼が自己を高潮し、個性を周圍の世界に光被[やぶちゃん注:「くわうひ」。光を広く行き亙らせること。]せしめようとするよりは、靜につつましく事象を感受し、理解し、愛し、其內の生命に觸れずには止まない傾向が、彼の素質の奧底に橫はつてゐる事を證明するものではないか。「視は愛である」と云ひ、「觀察は祈禱である」と言つて居るリルケの信條は、全く後天的の努力精神からのみ生れたものではないと思はれる。
[やぶちゃん注:「きくぢしや草」エンダイブ(ドイツ語:Endivie)。双子葉植物綱キク目キク科タンポポ亜科キクニガナ属エンダイブ Cichorium endivia のこと。和名「菊萵苣」(キクジシャ)・「苦萵苣」(ニガヂシャ)。但し、この名の「小册子」なるものは、ドイツ語のリルケのウィキにも記載はなく、不詳。
「『プラアクの話』の中のボフシュ王」(「二つのプラークの物語」:‘ Zwei Prager Geschichten ’:一八九九年)は散文。その第一の物語「ボーフシュ王」を指す。未見だが、「八戸工業大学学術リポジトリ」の水沼和夫氏の論文「リルケとプラーク(その2)」(PDFで入手可能)が参考になる。]
詩集『家神奉幣』は、古い獨逸風の遺跡と、スラヴ風によつて破られた近代風との混淆してゐる故鄕プラアク市を歌つたものである。古風と新樣との烈しい矛盾は、世間を怖れる保守的な靑年詩人の心に强い感銘を與へたやうであるが、彼は固結した記念的な過去に對しても、嵐のやうに逼迫する近代文明の殺風景に對しても、同じように穩やか愛を注いで、その何れにも偏してはゐない。家、殿堂、僧院、禮拜處、祭の行列、聖者の像、「硝子の背後にあるような街路」、そこに住む人々、晝夜、風景が主要な材題であつて、其間に往々民謠の響がきかれる。丁度パステルの色を以て畫かれた繪のやうな詩である。上品に美しいけれども、氣息のやうに消えさうな心もとなさが無いでもない。
物的であり客觀的であつたリルケを自己に眼ざめさしたものは女性と時代思潮との力であつた。詩集『冠せられた夢』は卷頭の一篇『王の歌』を除いては全卷五十扁悉く夢と戀愛とをうたつたものである。しかし作者の夢は軟かでほのかなものが多く、其の戀は單一で純粹である。素直に來るものを受人れ、靜に自分の性情の發達に從つて居る樣を見ることが出來る。しかし一方彼が諸處の大學に聽講し、ミュンヒェンに行きベルリンに出た頃の文壇の風潮は如何であつたらう。さしもに隆盛を極めた自然主義も漸くその氣勢を挫かれて、フィスマン[やぶちゃん注:不詳。]の反旗、イブセン、ストリンドベルクの變化は云ふまでもなく、自我に還れの聲は獨逸國內に於ても既に諸處に聞かれたのである。バアルの『自然主義脫却論』の出た翌年、卽ち一八九二年の四月にはミュンヒェンで出る『ゲゼルシャフト』誌上にデエメルは長論文を揭げて自我の權威を提唱した。腐爛した汚物の中から靑い花の咲く日が來た。荒い生活の浪に觸れることを好まなかつたリルケも、此新思潮の敎ふる處を最も嚴肅に受入れたやうに見える。
自我とは何であるか。リルケは先づそれを知らうと思つた。自我を以て肉體的個人と考えた人々は遂に鄕土藝術へ赴いた。感覺の微妙な魔術に捕へられたものはホオフマンスタアル等のやうに「美の僧院」に遁世して、新しい夢に沒入して行つた。リルケも暫く之等幾多の方向の間に彷徨した。詩集『基督降誕節』は明にこの間の消息を示すものである。『父』、『ペエタア・イャコプセン』、『ペエタア・アルテンペルグ』、『ハンス・トオマ』、『リリエンクロオン』、『リヒャルト・デエメル』等への獻詩を持つてゐる此の詩集は、詩想の上に於て種々多樣なものの混入を裏切つて居るのみではなく、また調子の上でも『家神奉幣』の純一を破つて、他人から幾多の影響をうけたことを語つて居る。
何か花園の中へ入つて來た、
栅は軋(きし)る音もしなかつたが、
總べての花檀の中の薔薇は
それが居るので戰いでゐる。
[やぶちゃん注:「戰いで」。「そよいで」。]
斯ういう隱喩も用ひられる。またハイネ風の律動も屢〻目立つ上に、ほのかに優しかつたものが、聲高く叫びをあげる心の逼迫に襲はれる。「お前達の中にちろちろと啼くお前達は魂と云ふのか。……私には永遠の一片を胸の中に擔つてゐるやうに思はれる。それは放蕩し叫喚する。……これこそは魂だ。」
當時のことを囘顧したのであらう。彼は時禱篇の中で歌つてゐる。
私は蒔き散らされました。敵によつて
私の自我は片々に分たれました。
ああ、神よ、凡ての笑ふ者は私を笑ひ、
あらゆる飮むものは私を飮みました。
………………
私は火事の後の一軒家でした。
そこには殺人者だけがをりをり、
飢餓の罰に追はれて
外へ出てゆくまで眠つてゐました。
また疫病の迫つて來た
海邊の町のやうでした。……
總べての自己を求める者の苦しみが彼の上に來たのである。そして事物の凝視者であつた彼はまた自己の分裂崩潰をも凝視するの外はなかつた。その一つ一つの異つた姿を深く極めて、其奧底に唯一普遍なものを求めようとするのが彼の戰であつた。自作の聖像の悉くが皆な異つた容貌を持つて居るのに慊らずして[やぶちゃん注:「あきたらずして」。]、「一つの中に總べて」を收めようとして、終に忘我の中に我と我が肉體を鑿[やぶちゃん注:「のみ」。]で刻む短篇『彫刻家』の主人公ヱルネルは、實に當時のリルケ其人であつたらう。彼はこれ迄自我として賴つてゐたものが、多くは他人によつて作られた因襲であり槪念であることを學んだ。そしてそれ等一切を斥けて眞の自我を建てようとするのが、彼の切なる願であつた。
これが私の爭だ。
憧憬に身をささげて、
每日を步み過ぎる。
それから、强く廣く、
數千の根の條で
深く人生に摑み入る――
惱みを經て
遠く人生の外に熟す。
時代の外に。
詩集『基督降誕節』の基調はそれ故に著しく憂鬱であつた。上には重く暗い雲が懸つており、下には暴い吹雪が狂つていた。しかし降誕祭を飾る若い樅は既に森の片隅に來るべき目の輝きを待つてゐた。それは詩想の上のみについてではなかつた。此詩集によつて、リルケの詩人的才能、辭句を練り、諧調を驅使し、律動を與へる手腕が、同時代者の間に交つて遜色なきことが證明され、近づく祭日が期待されたのであつた。そして其期待に答えたものが次ぎの詩集『我が祝に』であつた。實に此集は上述のやうな意味で眞のリルケの第一詩集であると云つてもよい。『冠せられた夢』や『基督降誕節』の中にあつた、種々の不純なものが今や一掃されて、再び此處には眞にリルケ的なもののみが新しい光を發してゐる。しかし此處には末だ『少女の歌』、『マリアヘ少女の祈禱』等の示すやうな、目標のない寂しさがあつた。
[やぶちゃん注:「來るべき目の輝きを待つてゐた」は、底本では、「來るべき目の輝きを待つたゐた」である。誤植。岩波文庫版で特異的に訂した。]
お前たち少女は四月の夕の
花園のやうだ。
春は數多の路の上にあるが
なほ何處と目あてもない。
という『少女の歌』の序詩は、ただ少女の本質を的確に表現してゐるばかりではなく、同時にまたリルケが當時の僞らない心境の表白ではなからうか。「遠く人生の外、時の外に」永遠を求めて「成熟しよう」とするリルケの憧憬には、既に目的があつて末だどの路を選む可きかといふ定かな目標がなかつたのである。永遠は虛無にもある、死にもある、愛にもある、神にもある。
みそなはせ、私等の日はこんなに狹く、
夜の室は氣づかはしい。
私等は皆な倦みたわまず、
紅い薔薇を願つてゐます。
マリアよ、あなたは私等にやさしくしなくてはなりませぬ。
私たちはあなたの血から花咲いたのです。
また憧憬のどんなに痛いかは
あなただけが知ることが出來まする。
實に魂の少女の痛みを
あなたはみづから知つてゐられます。
魂はクリスマスの雪の如く感じながら、
それで全く燃えてゐる。……
「赤い薔薇を願ふ」憧憬の悲しさには、「平な國では待ちもうけてゐた、一度も來なかつた客をば」といふ哀音さへ時に交つて居るが、全體に於てリルケの中の詩人が自覺に到達して、
……生命を求めて打ちふるひ、
また高い處へ行かうと思つてゐる。
歌のやうに光耀のやうに。
といふ明るさに充ちて居ることは蔽はれない。云はばリルケは此集によつて詩人としての自己の降誕を祝つてゐるらしく思はれる。『我が祝に』といふ命名も恐らくその心持であらう。その邊の消息を一層明瞭に知る爲に、我々の視線を暫く彼の小說戲曲の方へ向けてみたい。
[やぶちゃん注:『我が祝に』底本では、『我の祝に』であるが、前記の標題指示に従い、特異的に訂した。再版「詩集」でも茅野は訂正している。]
[やぶちゃん注:以下は、底本の末尾に配されてある茅野蕭々氏の九章から成る、リルケ論「ライネル・マリア・リルケ」である。
なお、引用される詩篇は五字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて、一字下げとした。
また、前回の後注で述べた通り、現在、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全とミス・タイプ、及び、注の検証という大仕事を行っているため、一日一章の電子化しか出来ない。注も必要最小限(調べるのに時間が掛かると思われたものは(例えば、以下の、『或る評家がリルケを名づけて婦人魂(フラウゼン・ゼエレ)』(“Frauen Seele”)『の所持者と云つた』という評論家が誰か等々)に限らせて頂くので、御了承方、お願い申し上げるものである。また、経歴・作品については、彼の邦文ウィキ、及び、最も詳しいドイツ語のウィキを見られたい。]
ライネル・マリア・リルケ
一
ライネル・マリア・リルケは一八七五年十二月四日今のチェッコ・スラヺアの首府――-當時獨逸領ビョエメンの都市――プラアクに生まれた。古い貴族の後裔であるといふ。彼の寫眞を見ても、其中正な鼻と、瘠せぎすな上品な頰の線と、廣い額と、澄み極つて凄味さへある眼眸とは、明に彼が髙貴な血統であることを思はせる。小さな時から孤獨と平靜とを好んだことは、彼の自敍傳とも云ふ可き小說『最終の人々』にも覗はれる。名族の最終人としての自覺が夙うから彼の重荷となつてゐたやうである。彼の最も愛したものは、繪本、人形、銀糸、孔雀の羽根、靜に搖曳する白雲等であつたといふから、彼が如何に女らしい小兒であったかが想像される。或る評家がリルケを名づけて婦人魂(フラウゼン・ゼエレ)の所持者と云つたことも思ひ合はされる。父に就いては彼は多くを語らないけれども、蹉躓[やぶちゃん注:「さち」。人生に「つまずいたこと」・「失敗すること」を言う。]の人であったことは推測するに難くはない。そして稀に父に向けられている辭句も愛に溢れた調子を帶びて居ることは殆ど無く、唯一度基督降誕節に捧げられた子供らしい歌の中に「クリスマスの樹の下の我が良き父よ」と云われている位のものである。之に反して髯のあるその顏は折々實際に浮き上って、見知らぬ、敵意ある假面の象徵として『時禱篇』中に現はれる。
一體人は父を愛するか。……
彼れの枯れた言葉をば、稀に讀む
古い書物の中に置きはしないか。
人は分水地からのやうに、彼の心から
離れて快樂と惱みとに流れはしないか。
父は我々にはあつたものではないか。
異つて考へられた過去の歲月、
古ぼけた身振、死んだ衣裳、
咲き衰へた兩手、白むだ髮ではないか。
その上(みかみ)は英雄であつたにせよ、
彼は、我々の育つ時、落ちる葉だ。
[やぶちゃん注:詩篇の八行目は、底本では、『古ぼけな身振、死んだ衣裳、』となっているが、意味が通らない。後の再版「詩集」でも、「古ぼけな」のままであるが、岩波文庫では、誤植と断じて、訂してある。そちらに、特異的に従った。]
又
彼の氣遣ひは我々には夢魔のやうだ、
彼の聲は我々には石のやうだ。――
我々は彼の話を聞きたいが、
言葉は半ば聞えるのみだ。
彼と我々との閒の大きな戲曲は
互に理解するには騷がし過ぎる。
我々は綴が落ちて消えてゆく、
彼の口の形を見るばかり。
云ふまでも無く此詩に於ける父は眞實の父を指して居るのではないが、かういふ象徵として父を用ふる處に、彼が父に對する暖かでない心を裏切るものがあるやうに思はれる。そしてそれは單にリルケの個人的の體驗によるばかりではなく、其後獨逸文學に於て極めて顯著になつた「父子の契機」(フアタア ゾオン モケイフ)、卽ち父に對する子の反抗と非難の先驅が既に隱約の間に認められるような氣がしないでもない。之に反して母に關する追憶は種々の作品に、優しくまた暖かく現はれてゐる。彼が常に切實な感謝と愛慕の情を母に寄せてゐるのを見れば、此の婦人が如何に豐かな愛をこの神經質な小兒に傾注してゐたかがわかる。「私は屢〻自分の母に憧れる。白髮を頭に戴く靜かな婦人に」と云ひ、母を聖母とも戀人とも思ひ、裳裙[やぶちゃん注:「もすそ」。]を長く曳き無限に優しく手を撫でてくれる天使のやうにも、また冷たく蒼ざめてゐる『受苦聖母(マアテル ドロロツサ)』とも、基督の死骸を抱いて泣くピエタの姿とも眺めた。「父」の中に敵を見出しながら、「母」に對しては槪して同情と理解とを示している新時代の風潮が、夙に此處にも動いてゐるやうに觀測される。
しかしリルケの詩作の中で重要の役目を演じて居るものは、獨り血族の中の最も近しい者のみではない。否な寧ろ距離によつて一層强められたもののやうに、遠い祖先が屢〻その對象に選ばれて居る。これは後に梢〻詳細に述べたいと思ふ彼の自我模索の一階梯としてではあったが、彼の視線は未來に向けられずして先づ過去に延びた。そして最も幸福な時間にあつてさへ、祖先等の生活にそれとパラレルを成すもののあることを指摘せずにはゐられなかった。パウル・ツェッヒの云ふやうに、「彼はただ總べての現在の中の過去を生きて居る」とも考へられる。「私は父の家を持たず、また失ひもしなかった。……私は幸福を持ち悲哀を持つ。そして總べてを獨りで持つてゐる。それでもなほ私は色々のものの相續者だ。私の族(やから)は二つの枝となつて森の中の七つの城で花を開いた。そして紋章に疲れて、最う古くなり過ぎてゐる」と彼が云つて居るやうに、リルケは自己の祖先であつた異敎的國王の生活に自己自身を見出したのであつた。それは前述の小說『最終の人々』の他に『ランゲナウの主、旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道』を讀む者の、必ず心づく處であろう。
[やぶちゃん注:「パウル・ツェッヒ」ドイツの作家パウル・ツェッヒ(Paul Zech 一八八一年(西プロイセンのブリーゼン生まれ)~一九四六年ブエノスアイレス没)であろう。ドイツ語の彼のウィキを参照。
[やぶちゃん注:「ランゲナウの主、旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道」但し、小説の正式名は、‘ Die Weise von Liebe und Tod des Cornets Christoph Rilke ’である。一九〇六年刊。茅野の訳の「ランゲナウの主」というのは、物語の発端部分で、一六六三年の「第四次オーストリア・トルコ戦争」で戦死したリルケの先祖クリストフ・リルケの財産分与が弟のオットーに譲るという文書に始まり、そのクリストフ・リルケ(Christoph Rilke von Langenau)のランゲナウからハンガリーへの旅と、そこでの死の物語が語られている(同書のドイツ語のウィキを参考にした)。]
さて兩親の離別は强ひて彼を幼年學校へ入れた。しかし粗暴と喧騷と抑壓とに充ちた軍隊的生活は、到底リルケの堪へ得る處ではなかつた。士官となる希望を放擲した彼は、五年在學の後其處を去つて、全力を盡して働いていたが、一八九四年からは諸處の大學の講義を聽いて步いた。しかし何處にも長く止ることが出來なかつた。リルケの期待するものを與へる處が無かつたからである。此頃から彼の精神の奧底に橫わつている詩人的素質は漸く鏡のやうに輝いて來た。『人生に沿いて行く』の中に收められた短篇『子の基督』は既に一八九三年に出來てゐた。『人生と小曲』(一八九四年)、『家神奉幣(らあれんおつぷヘル)』(一八九五年)、『冠せられたる夢』(一八九六年)等の詩集、『今と我等が死滅する時に』と題する戲曲的のスケッチが相前後して出版されたが、勿論未だ世間の注意を牽くに足りるものは無かつた。
一八九六年から翌年へかけてミュンヒェンに滯在したリルケは、やがて首府ベルリンを訪れて、所謂中央文壇の人々と交誼を結んだけれど、蕪雜と蠱惑と焦噪との他には何物も無いやうな大都會の生活は、當時のリルケのよく堪へる處ではなかつた。間もなく彼は旅途の人となつた。フィレンツェを始めトスカナの諸市は大いに詩人の心に叶つて、『新詩集』二卷の中には水都ヹネチアを始め之等[やぶちゃん注:「これら」。]の諸市を歌つた作が少くないが、伊太利から轉じて露西亞に入つた彼は、人間と自然との率直な交涉をつくづくと眺めて深い感銘を受けたのであつた。現代に於ける唯一の祈禱詩集であり、リルケの到達した神の思想を明示する重要な記錄である『時禱篇』も、その起源を露西亞の旅に發していると云はれてゐる。
露西亞から歸つて來た詩人は北獨逸のディットマルシェンの荒野にある一寒村ヺルプスヹヱデに居をト[やぶちゃん注:「ぼく」。]して、長らく身を「自然の大寂寞」の中に委ねようと思つた。當時其處に屯[やぶちゃん注:「たむろ」。]してゐたマッケンゼン、モオデルスゾオン、ハンス・アム・エンデ及びフォオゲラア等の靑年畫家と共に深く精しく自然の姿を見、萬象の背後にある永遠なるものに滲透[やぶちゃん注:「しんとう」。]しようと思つた。彼の著『ヺルプスヱエデ』の序に次ぎの言葉がある。
「獨逸の浪漫派の人々の中には自然に對する大きな愛があつた。しかし彼等が自然を愛するは、丁度ツルゲニエフの小說の主人公があの娘を愛したのに似てゐた。その主人公は斯う云つてゐる。「ソフィアが特に私に氣に入つたのは、私が坐つて彼の女に背を向けていた時、すなわち私が彼の女のことを思つてゐた時、心の中で自分の前に居るあの女を見た時である。わけて夕暮に高臺の上で云〻……」と。恐らく彼等の中自然と面接したものは唯一人である。それはハンブルグの人フィリップ・オットオ・ラングである。……」
之を以て見ると、リルケは自然を空想の中に於て愛しようとする態度に慊らず[やぶちゃん注:「あきたらず」。]して、直接これに觸れ、深くこれを摑むことを望んでゐることは明かである。彼はマッケンゼンを讃へて云つて居る。「彼にあつては視は卽ち愛である」と。恐らくこれはまたリルケの場合でもあつたであらう。斯うして『時禱扁』に現れてゐる汎神論的思想の成熟は、此の平凡無奇な一寒村と、その周圍の平野とに負ふところがあつたことは疑ふ餘地が無い。その事に就いてはなほ後に說きたいと思ふ。「平野と天、これこそは我々の生活の表號である」とリルケは云つてゐる。
此時リルケをこの自然の懷から拔き取つて、あれ程嫌つてゐた大都會の眞中に移したものは、實にロダンの偉大な藝術であつた。彼は終にロダンの許に走つて一種の祕書役を勤めることになつた。藝術が自然に勝つたのか、抑もリルケにあつては自然の精神が卽ち藝術の精神であつて、神、自然、藝術の三位一體が顯現したのであるか。これは彼を硏究するものに取つて興味ある問題でなくてはならない。
一八九八年以來、リルケの作は相續いて公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]にせられて、其名も漸く世に知られて來たのみか、リヒャルト・デエメル、シュテファン・ゲオルゲ等と共に、今日にあつては一流の抒情詩人として、其の功績はあらゆる文學史家によつて認められるに至つた。すなわち小說類では『プラアク二話』、『人生に沿いゆく』(一八九八年)、『神の話其他』(一九〇〇年)、『最終の人々』(一九〇〇年)、『旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道』(一九〇七年)、『マルテ・ラウリッド・ブリッゲの略記』(一九〇七年)。戲曲には『早寒』(一八九七年)、『現在無し』(一八九八年)、等初期未成熟の作二、三の外に、『日常生活』(一九〇一年)、『白衣の夫人』(一九一〇年)。詩集には『家神奉幣』(一八九五年)、『冠せられたる夢』(一八九六年)、『基督降誕節』(一八九八年)。――以上は後年『第一詩集』として一緖に纏めて公にされた――『我が祝に』(一九〇一年、後改題『舊詩集』)、『形象篇』(一九〇二年)、『時禱扁』(一九〇三年)等の他に一九〇七、八年に跨つて刊行された『新詩集』及び『新詩集別卷』がある。彼の詩作は其の發表の當時にあつては、女性らしい弱々しさの爲めに、その新味と才能とは稱讃されながら、時代を指導する力なきものとして、常に文藝批評家の滿足を得ることを得なかつたやうであるが、歲月の經過は之等批評家の短見を暴露して、彼が新時代の靑年詩家に對して、どれ程大きな影響を及ぼしたかを實證した。そしてそれは單に用語形式の上ばかりではなく、實に詩想の方向に係はつてゐるのであつて、此點ではリルケは、繪畫界に於けるセザンヌのやうに、丁度分水嶺の役目を演じて居るやうに見える。彼の言葉を借用するならば、彼は實に敎會の塔上に立つ風見旗のようなもので、街上の人々の末だ感じない時代の風を敏感して、將に來らんとする嵐を告げたものだといふことが出來る。なお彼の及ぼした影響については後段別に述べたいと思ふ。が、徹頭徹尾謙遜を以て終始して居るやうに思はれる彼の事業が、豫期されなかつた大きな波紋を起したのを見て、昨冬五十年の祝祭を迎へた彼は如何に感じたであろう。恐らくは彼が嘗てロダンに就いて云つたやうに、「聲名の加はるに從つて愈〻孤獨になつてゆく」彼であるかもわからない。
戀人の死
死は我々を取つて沈默の中へ押入れると
萬人の知ることだけを彼は死について知つてゐた。
しかし彼女が彼から引奪(ひつたく)られはせずに、
そつと彼の眼から解きほどかれ
未知の蔭へ滑り去つたとき、
そして彼方の人々は今
月のやうに彼女の微笑で
彼等の習(ならは)しをよくするのを感じた時、
その時死者たちは彼の知己となつた。
恰も彼女によつて一人一人と
全く近い親戚になつたやうに。
[やぶちゃん注:本詩篇を以って、底本の詩篇部は終わっている。
以下、訳者に拠る「ライネル・マリア・リルケ」と標題する全九章から成る論考がある。これも無論、電子化するが、現在、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全とミス・タイプ、及び、注の検証という大仕事を行っているため、一日一章の電子化しか出来ない。悪しからず。]