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2025/03/02

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「一」

[やぶちゃん注:以下は、底本の末尾に配されてある茅野蕭々氏の九章から成る、リルケ論「ライネル・マリア・リルケ」である。

 なお、引用される詩篇は五字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて、一字下げとした。

 また、前回の後注で述べた通り、現在、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全とミス・タイプ、及び、注の検証という大仕事を行っているため、一日一章の電子化しか出来ない。注も必要最小限(調べるのに時間が掛かると思われたものは(例えば、以下の、『或る評家がリルケを名づけて婦人魂(フラウゼン・ゼエレ)』(“Frauen Seele”)『の所持者と云つた』という評論家が誰か等々)に限らせて頂くので、御了承方、お願い申し上げるものである。また、経歴・作品については、彼の邦文ウィキ、及び、最も詳しいドイツ語のウィキを見られたい。

 

   ライネル・マリア・リルケ

 

      

 

 ライネル・マリア・リルケは一八七五年十二月四日今のチェッコ・スラヺアの首府――-當時獨逸領ビョエメンの都市――プラアクに生まれた。古い貴族の後裔であるといふ。彼の寫眞を見ても、其中正な鼻と、瘠せぎすな上品な頰の線と、廣い額と、澄み極つて凄味さへある眼眸とは、明に彼が髙貴な血統であることを思はせる。小さな時から孤獨と平靜とを好んだことは、彼の自敍傳とも云ふ可き小說『最終の人々』にも覗はれる。名族の最終人としての自覺が夙うから彼の重荷となつてゐたやうである。彼の最も愛したものは、繪本、人形、銀糸、孔雀の羽根、靜に搖曳する白雲等であつたといふから、彼が如何に女らしい小兒であったかが想像される。或る評家がリルケを名づけて婦人魂(フラウゼン・ゼエレ)の所持者と云つたことも思ひ合はされる。父に就いては彼は多くを語らないけれども、蹉躓[やぶちゃん注:「さち」。人生に「つまずいたこと」・「失敗すること」を言う。]の人であったことは推測するに難くはない。そして稀に父に向けられている辭句も愛に溢れた調子を帶びて居ることは殆ど無く、唯一度基督降誕節に捧げられた子供らしい歌の中に「クリスマスの樹の下の我が良き父よ」と云われている位のものである。之に反して髯のあるその顏は折々實際に浮き上って、見知らぬ、敵意ある假面の象徵として『時禱篇』中に現はれる。

 一體人は父を愛するか。……

 彼れの枯れた言葉をば、稀に讀む

 古い書物の中に置きはしないか。

 

 人は分水地からのやうに、彼の心から

 離れて快樂と惱みとに流れはしないか。

 父は我々にはあつたものではないか。

 異つて考へられた過去の歲月、

 古ぼけた身振、死んだ衣裳、

 咲き衰へた兩手、白むだ髮ではないか。

 その上(みかみ)は英雄であつたにせよ、

 彼は、我々の育つ時、落ちる葉だ。

[やぶちゃん注:詩篇の八行目は、底本では、『古ぼけな身振、死んだ衣裳、』となっているが、意味が通らない。後の再版「詩集」でも、「古ぼけな」のままであるが、岩波文庫では、誤植と断じて、訂してある。そちらに、特異的に従った。

  彼の氣遣ひは我々には夢魔のやうだ、

  彼の聲は我々には石のやうだ。――

  我々は彼の話を聞きたいが、

  言葉は半ば聞えるのみだ。

  彼と我々との閒の大きな戲曲は

  互に理解するには騷がし過ぎる。

  我々は綴が落ちて消えてゆく、

  彼の口の形を見るばかり。

 云ふまでも無く此詩に於ける父は眞實の父を指して居るのではないが、かういふ象徵として父を用ふる處に、彼が父に對する暖かでない心を裏切るものがあるやうに思はれる。そしてそれは單にリルケの個人的の體驗によるばかりではなく、其後獨逸文學に於て極めて顯著になつた「父子の契機」(フアタア ゾオン モケイフ)、卽ち父に對する子の反抗と非難の先驅が既に隱約の間に認められるような氣がしないでもない。之に反して母に關する追憶は種々の作品に、優しくまた暖かく現はれてゐる。彼が常に切實な感謝と愛慕の情を母に寄せてゐるのを見れば、此の婦人が如何に豐かな愛をこの神經質な小兒に傾注してゐたかがわかる。「私は屢自分の母に憧れる。白髮を頭に戴く靜かな婦人に」と云ひ、母を聖母とも戀人とも思ひ、裳裙[やぶちゃん注:「もすそ」。]を長く曳き無限に優しく手を撫でてくれる天使のやうにも、また冷たく蒼ざめてゐる『受苦聖母(マアテル ドロロツサ)』とも、基督の死骸を抱いて泣くピエタの姿とも眺めた。「父」の中に敵を見出しながら、「母」に對しては槪して同情と理解とを示している新時代の風潮が、夙に此處にも動いてゐるやうに觀測される。

 しかしリルケの詩作の中で重要の役目を演じて居るものは、獨り血族の中の最も近しい者のみではない。否な寧ろ距離によつて一層强められたもののやうに、遠い祖先が屢その對象に選ばれて居る。これは後に梢詳細に述べたいと思ふ彼の自我模索の一階梯としてではあったが、彼の視線は未來に向けられずして先づ過去に延びた。そして最も幸福な時間にあつてさへ、祖先等の生活にそれとパラレルを成すもののあることを指摘せずにはゐられなかった。パウル・ツェッヒの云ふやうに、「彼はただ總べての現在の中の過去を生きて居る」とも考へられる。「私は父の家を持たず、また失ひもしなかった。……私は幸福を持ち悲哀を持つ。そして總べてを獨りで持つてゐる。それでもなほ私は色々のものの相續者だ。私の族(やから)は二つの枝となつて森の中の七つの城で花を開いた。そして紋章に疲れて、最う古くなり過ぎてゐる」と彼が云つて居るやうに、リルケは自己の祖先であつた異敎的國王の生活に自己自身を見出したのであつた。それは前述の小說『最終の人々』の他に『ランゲナウの主、旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道』を讀む者の、必ず心づく處であろう。

[やぶちゃん注:「パウル・ツェッヒ」ドイツの作家パウル・ツェッヒ(Paul Zech 一八八一年(西プロイセンのブリーゼン生まれ)~一九四六年ブエノスアイレス没)であろう。ドイツ語の彼のウィキを参照。

[やぶちゃん注:「ランゲナウの主、旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道」但し、小説の正式名は、‘ Die Weise von Liebe und Tod des Cornets Christoph Rilke ’である。一九〇六年刊。茅野の訳の「ランゲナウの主」というのは、物語の発端部分で、一六六三年の「第四次オーストリア・トルコ戦争」で戦死したリルケの先祖クリストフ・リルケの財産分与が弟のオットーに譲るという文書に始まり、そのクリストフ・リルケ(Christoph Rilke von Langenau)のランゲナウからハンガリーへの旅と、そこでの死の物語が語られている(同書のドイツ語のウィキを参考にした)。]

 さて兩親の離別は强ひて彼を幼年學校へ入れた。しかし粗暴と喧騷と抑壓とに充ちた軍隊的生活は、到底リルケの堪へ得る處ではなかつた。士官となる希望を放擲した彼は、五年在學の後其處を去つて、全力を盡して働いていたが、一八九四年からは諸處の大學の講義を聽いて步いた。しかし何處にも長く止ることが出來なかつた。リルケの期待するものを與へる處が無かつたからである。此頃から彼の精神の奧底に橫わつている詩人的素質は漸く鏡のやうに輝いて來た。『人生に沿いて行く』の中に收められた短篇『子の基督』は既に一八九三年に出來てゐた。『人生と小曲』(一八九四年)、『家神奉幣(らあれんおつぷヘル)』(一八九五年)、『冠せられたる夢』(一八九六年)等の詩集、『今と我等が死滅する時に』と題する戲曲的のスケッチが相前後して出版されたが、勿論未だ世間の注意を牽くに足りるものは無かつた。

 一八九六年から翌年へかけてミュンヒェンに滯在したリルケは、やがて首府ベルリンを訪れて、所謂中央文壇の人々と交誼を結んだけれど、蕪雜と蠱惑と焦噪との他には何物も無いやうな大都會の生活は、當時のリルケのよく堪へる處ではなかつた。間もなく彼は旅途の人となつた。フィレンツェを始めトスカナの諸市は大いに詩人の心に叶つて、『新詩集』二卷の中には水都ヹネチアを始め之等[やぶちゃん注:「これら」。]の諸市を歌つた作が少くないが、伊太利から轉じて露西亞に入つた彼は、人間と自然との率直な交涉をつくづくと眺めて深い感銘を受けたのであつた。現代に於ける唯一の祈禱詩集であり、リルケの到達した神の思想を明示する重要な記錄である『時禱篇』も、その起源を露西亞の旅に發していると云はれてゐる。

 露西亞から歸つて來た詩人は北獨逸のディットマルシェンの荒野にある一寒村ヺルプスヹヱデに居をト[やぶちゃん注:「ぼく」。]して、長らく身を「自然の大寂寞」の中に委ねようと思つた。當時其處に屯[やぶちゃん注:「たむろ」。]してゐたマッケンゼン、モオデルスゾオン、ハンス・アム・エンデ及びフォオゲラア等の靑年畫家と共に深く精しく自然の姿を見、萬象の背後にある永遠なるものに滲透[やぶちゃん注:「しんとう」。]しようと思つた。彼の著『ヺルプスヱエデ』の序に次ぎの言葉がある。

 「獨逸の浪漫派の人々の中には自然に對する大きな愛があつた。しかし彼等が自然を愛するは、丁度ツルゲニエフの小說の主人公があの娘を愛したのに似てゐた。その主人公は斯う云つてゐる。「ソフィアが特に私に氣に入つたのは、私が坐つて彼の女に背を向けていた時、すなわち私が彼の女のことを思つてゐた時、心の中で自分の前に居るあの女を見た時である。わけて夕暮に高臺の上で云……」と。恐らく彼等の中自然と面接したものは唯一人である。それはハンブルグの人フィリップ・オットオ・ラングである。……」

 之を以て見ると、リルケは自然を空想の中に於て愛しようとする態度に慊らず[やぶちゃん注:「あきたらず」。]して、直接これに觸れ、深くこれを摑むことを望んでゐることは明かである。彼はマッケンゼンを讃へて云つて居る。「彼にあつては視は卽ち愛である」と。恐らくこれはまたリルケの場合でもあつたであらう。斯うして『時禱扁』に現れてゐる汎神論的思想の成熟は、此の平凡無奇な一寒村と、その周圍の平野とに負ふところがあつたことは疑ふ餘地が無い。その事に就いてはなほ後に說きたいと思ふ。「平野と天、これこそは我々の生活の表號である」とリルケは云つてゐる。

 此時リルケをこの自然の懷から拔き取つて、あれ程嫌つてゐた大都會の眞中に移したものは、實にロダンの偉大な藝術であつた。彼は終にロダンの許に走つて一種の祕書役を勤めることになつた。藝術が自然に勝つたのか、抑もリルケにあつては自然の精神が卽ち藝術の精神であつて、神、自然、藝術の三位一體が顯現したのであるか。これは彼を硏究するものに取つて興味ある問題でなくてはならない。

 一八九八年以來、リルケの作は相續いて公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]にせられて、其名も漸く世に知られて來たのみか、リヒャルト・デエメル、シュテファン・ゲオルゲ等と共に、今日にあつては一流の抒情詩人として、其の功績はあらゆる文學史家によつて認められるに至つた。すなわち小說類では『プラアク二話』、『人生に沿いゆく』(一八九八年)、『神の話其他』(一九〇〇年)、『最終の人々』(一九〇〇年)、『旗手クリストオフ・フォン・リルケの愛と死の道』(一九〇七年)、『マルテ・ラウリッド・ブリッゲの略記』(一九〇七年)。戲曲には『早寒』(一八九七年)、『現在無し』(一八九八年)、等初期未成熟の作二、三の外に、『日常生活』(一九〇一年)、『白衣の夫人』(一九一〇年)。詩集には『家神奉幣』(一八九五年)、『冠せられたる夢』(一八九六年)、『基督降誕節』(一八九八年)。――以上は後年『第一詩集』として一緖に纏めて公にされた――『我が祝に』(一九〇一年、後改題『舊詩集』)、『形象篇』(一九〇二年)、『時禱扁』(一九〇三年)等の他に一九〇七、八年に跨つて刊行された『新詩集』及び『新詩集別卷』がある。彼の詩作は其の發表の當時にあつては、女性らしい弱々しさの爲めに、その新味と才能とは稱讃されながら、時代を指導する力なきものとして、常に文藝批評家の滿足を得ることを得なかつたやうであるが、歲月の經過は之等批評家の短見を暴露して、彼が新時代の靑年詩家に對して、どれ程大きな影響を及ぼしたかを實證した。そしてそれは單に用語形式の上ばかりではなく、實に詩想の方向に係はつてゐるのであつて、此點ではリルケは、繪畫界に於けるセザンヌのやうに、丁度分水嶺の役目を演じて居るやうに見える。彼の言葉を借用するならば、彼は實に敎會の塔上に立つ風見旗のようなもので、街上の人々の末だ感じない時代の風を敏感して、將に來らんとする嵐を告げたものだといふことが出來る。なお彼の及ぼした影響については後段別に述べたいと思ふ。が、徹頭徹尾謙遜を以て終始して居るやうに思はれる彼の事業が、豫期されなかつた大きな波紋を起したのを見て、昨冬五十年の祝祭を迎へた彼は如何に感じたであろう。恐らくは彼が嘗てロダンに就いて云つたやうに、「聲名の加はるに從つて愈孤獨になつてゆく」彼であるかもわからない。

 

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