阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「龍爪神異」
[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落を成形し、記号を大幅に附加した。本話は、必ず、前項の「龍落爪爲山名」をまず、読まれたい。]
「龍爪神異《りゆうさうしんい》」 庵原郡由井驛《ゆひえき》にあり。「※雜物語』云《いはく》。
[やぶちゃん注:「庵原郡」この郡(こおり)名の読み方は、二つ前の「孕女爲崇」を見られたい。
「由井驛」東海道の宿駅「由比」(ゆい)である。ここで、右中央に旧「由比宿」を、左中央に「竜爪山」(りゅうそうざん)をグーグル・マップ・データで配しておいた。
「爼」の(へん)+(つくり)「交」。但し、底本の異なる国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」では、『爼雑物語』となっている。国立国会図書館デジタルコレクションの「駿國雜志」の別の六冊のここには、「爼雑物語」で載る。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの全く別の本で確認出来るので、確かにある書物であるのだが、詳細は不詳である。識者の御教授を乞うものである。]
『庵原郡由井鄕《ゆひがう》、櫻野に藥師堂あり。
[やぶちゃん注:「櫻野」グーグル・マップでは探せなかったが、「ひなたGIS」で探し当てた。由比川の上流のここに「桜野」とある。国土地理院図の方には、「卍」「⛩」記号もあるので、ここであろうと思われる。但し、この寺、検索では掛かってこない。強度研究家の方の御教授を乞うものである。]
別當を「玄慈坊」と云《いふ》、時宗の僧也。此人、片鬢《かたびん》、禿《はげ》て、一方、赤く光りし故、異名して「光る玄慈坊」とぞ云けり。生《うま》れ付《つき》、愚直にして、善惡によらず、人の云《いふ》事を誠《まこと》と聞受《ききうけ》て、さらに違《たが》ふことなし。
あまりに正直成《なる》に依《より》て、里村の若者、うち寄合《よりあひ》、
「御僧《ごそう》は、朝夕の食事のしざま、よからず。總《すべ》て、食事と云ものは、まづ、食せんとする前、手をたゝきて、三度、膳を𢌞り、三度、禮拜して、食し終りて、又、斯《かく》の如くする物也。」
と欺《あざむ》けり。
此僧、
「扨は。左《さ》にこそ。」
とて、是より、敎《をしへ》の如くして、食事す。
或時、村老の云やう、
「一宇の別當と謂《いは》れん者、愚痴文盲にしては、いかゞ、御身は年も、よりぬ、人も免《ゆる》すべし。弟子の尊海は、せめて、學問させて、物の道理も知れかし。むかしより、叶《かなは》ぬ事は神佛に祈り、成就する事あり。同じくは、所の神社に祈《いのり》て、尊海を人となし給《たまへ》。」
と云。
僧、道理に思ひて、十四歲に成《なり》ける尊海を伴ひ、龍爪權現《りゆうさうごんげん》に日參し、道德の出家とならん事を祈り、是が爲に、水食《すいしよく》をも絕《たつ》が如し、朝暮《てうぼ》の信心怠《おこたり》なかりき。
其しるしや有けん、尊海、日々我儘にのみ振舞《ふるまひ》て、師の敎育に隨はず。
或時、此僧、近隣の村老及び農人、寺僧等を集め、尊海を眞中《まなか》に引居《ひきす》へ、或は叱《しつ》し、或は怖《おど》し、異見さまざま也。
然《しか》るに、尊海、俄然として氣色《きしよく》を損《そん》し、懷《ふところ》より硯筆《けんひつ》を取出《とりいだ》し、物、書《かき》、見るに、其筆勢、點畫《てんが》の美なる、恰《あたか》も、和漢高名の人の書に、ことならず。眞・草・行・假名字に至る迄、
「さらさら」
と、かきくだせり。
衆人、膽《きも》を消し、奇異の思《おもひ》を、しけり。
尊海、また、
「天竺の文字は、斯《かく》の如き物ぞ。」
とて、「あびらうんけん」の五字を書き、懷より、赤き頭巾の、角々《かどかど》に鈴《すず》付《つき》たるを出《いだ》して、頭《かしら》にいたゞき、劍《つるぎ》と、片齒《かたば》の鐵足駄《てつあしだ》を取出《とりいだし》、是を、はき、劍を携へ、
「我に、龍爪權現の乘付《のりつか》せ玉ひぬ。凡夫の族《やから》、願《ねがひ》・望《のぞみ》あらば、卽時に叶ふべし。」
と、飛揚《とびあが》り、飛揚りする事、一、二丈、其《その》する事、元より、知らざる所也。
かく、口走る事、止《やま》ず、
「早く、御湯《みゆ》、奉れ。」
となり。
卽《すなはち》、御湯を捧《たてまつ》るに、託《たく》して曰《いはく》、
「病《やまひ》ある者、望《のぞみ》ある者は、來《きた》れ。」
と云《いふ》。
近里遠村、これを傳へ、藥師の堂前、群《むれ》をして、是を祈り、悉く、望み、足れり。
故に、人、あがめて、尊海を「一《いち》の森《もり》」とぞ、稱しける。
其《その》諸願祈念の時は、火を改め、身を淸淨にす。
婦人は、是を、いとはず、唯《ただ》、賑《にぎや》か成《なる》を、此神は、悅び玉ひける。云云。』。
「巡村記《じゆんそんき》」云《いはく》。[やぶちゃん注:書不詳。]
『庵原郡平山村、龍爪山權現の事を尋《たづぬ》るに、延享年、奧樽村に、權兵衞と云《いふ》樵夫《きこり》あり。
[やぶちゃん注:「延享年」一七四四年から一七四八年まで。徳川吉宗・徳川家重の治世。
「奧樽村」「ひなたGIS」の「樽」がそれであろう。龍爪山の東北方向の山間地である。サイト「やちまた工房」の「Ⅰ 龍爪山開創のこと(―樽の権兵衛の話―)」にこの伝承が、恐ろしく詳しく検証されてあるので(本篇も引用されてある)、見られたい。]
或時、物付《ものつき》の如く、狂《くるひ》て曰《いはく》、
「吾は龍爪權現也。願《ねがひ》あらば、吾に告《つげ》よ。」
と云《いひ》て、日々、濱に出《いで》、髮を洗ひ、身を淸む。
[やぶちゃん注:「濱」これは、恐らく、「樽」のローケーションからは、海の浜ではなく、中河内川の川辺の謂いであろうと思われる。]
病《やまひ》ある者、路頭に迎《むかへ》て、是を祈るに、大《おほき》に驗《しるし》あり。
是より、流行して、「瀧紀伊《りゆうきい》」と號す。云云。』。
按《あんず》るに、「奧樽名寄牒《おくたるなよりてう》」に、なし。小地名ならん。
[やぶちゃん注:「瀧紀伊《りゆうきい》」の読みは、あてずっぽである。
「奧樽名寄牒」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションでもヒットしない。]
又云《いふ》。
「徃昔の夏、雲たな引《びき》、一龍《いちりゆう》下《くだ》り、誤《あやまり》て、梢上《こづえがみ》に爪《つめ》を落《おと》す。人、是を、拾ひ取れり。是より、此山を龍爪山《りゆうさうざん》と云。もとの名は「時雨峯《しうみね》」と號《がうす》。云云。」。
「玉滴隱見」云《いはく》。
『寬文元年九月、駿州由比の櫻野といふ云所に、希有の事ありけり。所謂、櫻野の藥師堂の別當を「玄慈坊」と云《いひ》て、時宗の僧也。此玄慈坊、片小髮《かたこがみ》、駁(はげ)て、きらきらと、しければ、時の人、異名を付《つけ》て、「光る源氏坊」とぞ、云《いひ》ける。云云。』。
已下の文、前に同じ。故に是を畧す。
[やぶちゃん注:「玉滴隱見」天正(一五七三年~一五九二年)の頃から、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱(同年逝去)・徳川綱吉の治世)に至る雑説を年代順に記した雑史で、作者は、江戸前期の儒者で林羅山の三男であった林鵞峰(はやし がほう 元和四(一六一八)年~延宝八(一六八〇)年)。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば、『斎藤道三が土岐家を逐う出世話・本能寺の変・関ヶ原の合戦・大坂の陣・島原の乱・慶安事件・承応事件・伊達騒動・浄瑠璃坂の敵討・末次平蔵の密貿易事件など』、『ほか』、『多くの逸事、 落書・落首を収めた近世期の生の史料』とある。「国書データベース」のここ(写本)で視認出来る。
「寬文元年九月」万治四(一六六一)年四月二十五日に改元している。]
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