茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「五」
五
以上を以て不完全ながら嚴肅の意味に於ける彼の第一詩集に就いて說明した私は、順序として次ぎの詩集『形象篇』に移る可きであるが、使宜上暫らく彼の自然及び神に關する詩想を先に述べて置きたい。
主觀的感情の高潮や奔騰によつて自他の限界を超躍しようとせずに、個々の事物を重んじて、之に滲透し徹底し、その本質を會得して、これを完全にすることを以て藝術の本義であるとしたリルケは、一面自己を明鏡のやうな平靜の境地に置いて、自己の中に映發する事物の姿を可及的に攬亂しないやうに力めると共に、他面事物そのものを能ふ限り本來の姿に於て眺めようと望んで居ることは既に說いた。それ故にあらゆる故意と作爲とに充ち、蠱惑と混亂とに支配されてゐる都會生活を遁れて、「自然の大寂寞」を戀慕つた。そこには事物が赤裸々の姿で橫はつてゐて、既成の槪念や因襲の重い影に蔽はれてゐない故である。それは先づ都市に對する厭離となつて現はれた。
大都會は眞ではない。
日を、夜を、動物を、小兒を彼等は詐いてゐる。
彼等の沈默は僞つてゐる。彼等はまた
騷音と……事物とで僞る
[やぶちゃん注:「あざむいてゐる」。]
物質の文明に勝誇り、外的知識と物慾の滿足とに惑はされ、恍惚として深い生命の力に觸れる暇もない生活はリルケの堪へ得る處ではなかつた。それ故「主よ、大都會は失われたもの、解體したもの」、「其處には人々は惡く生活し」、「小兒はいつも同じ陰影の中にある窗の側に生育って、戶外で花が呼ぶのを知らず」、「若い女らは知らない人の爲に花を開き……慄へながらまた萎えてゆき」、「鎖に繋がれた如く死に、乞食のやうに去る」と嘆いてゐる。
しかし都會は自分のものだけを欲し、
總べてを自分の步みに引摺り込む
動物をば空(うつろ)の樹のやうに毀(こぼ)ち、
多くの民衆を烈しく使ひへらす。
都會の人々は文明に仕へて、
平均と適度から深く墮落し、
その蝸牛の步みを進步と云つてゐる。
靜かに步むところを驅け走り、
娼婦のやうに感じ閃めき、
金屬と硝子とで聲高に騷ぐ。
日ごとの虛僞は彼等を弄び
最う自己の姿がない……
[やぶちゃん注:「蝸牛」「くわぎう」と音読みしていよう。]
斯うまで彼が都會を厭つて自然の懷に入らうとしたのは、既に說いたやうに、小兒の心に歸り、原始の姿を喜び、人生と自然とを全然新しい關係に於て結集しようと願つた爲であつたから、その所謂自然といふものも、從來の詩人藝術家の指す處と甚しく趣を異にしてゐた。浪漫的の人々が空想の中に理想化した自然とは異つて、實際眼前にある自然そのものでなくてはならないことは、第一章に於て述べて置いた。リルケは時代の推移に伴つて凝視される自然の側面にも自ら相違のあることを叙し、我々の祖先が自然精神の啓示を見、感情の濃淡思想の複雜化を味ひ來つた城塞や谿谷に飾られる所謂奇勝絕景の類は、自覺ある現代の靑年にとつては、單に「未來を考へることも出來ない古風な部屋の樣に感ぜられ」て、一種の倦怠を覺えさせられるのみか、時としては都會と同じに其の强い刺戟によつて人心を蠱惑して、著しく偏狹な信念に傾かせる危險を伴ふものとさへ考へてゐる。次に少し彼の語を引用しよう。
「我々の祖先が馬車の窗を閉ざし、退屈に苦しみながら、やつとの思ひで通過したやうな場處を我々は要求するのである。彼等が欠伸をする爲に目を開いた處で、我々は視る爲に眼を開く。何故かといふと、我々は平埜と天との表號の中に生きるからである。平野と天とは二つの言葉である。しかし元來唯一つの平野といふ體驗を包んでゐる。平野こそ我々がそれによつて生きる感情である。我々は平野を了解する。平野は我々にとつて手本となる可き或物を持つてゐる。其處では凡てが重要である。地平線の大きな圈も、單一に有意義に天に向つて立つて居る僅少な事物も。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]その天そのものからがさうである。その明るくなり暗くなることをば濯木の數千の葉が各〻異つた言葉で語つて居る。夜となると都會や森林や丘陵の上にあるよりは、更に多數の星を此處の空は持つてゐる。」
リルケが『時禱篇』の詩想を得たといふ露西亞で見た自然もこのやうな自然であつたに相違ない。彼が其後久しく住居したヺルプスヹエデも實に同じやうな平野であつた。「それは不思議な土地である。ヺルプスヹエデの小さい砂山の上に立つと、人は展開された周圍を見ることが出來る。それは暗色の地の四隅に花模樣の光つてゐる肩掛のやうに見えるのだ。皺は殆ど無い平面である。道路や水路が遠く地平線の中に沒してゐる。其處から始まつてゐる蒼穹は筆紙に盡し難い程の變化と偉大とを持つてゐる。そしてあらゆる樹木の葉の上に反映してゐる。凡ての物がその天と交涉してゐるやうに見える。」彼は斯ういふ平野の中の寒村にゐて、フオオゲラアの畫いた白樺の間や砂山の上を步きながら、朝に夕に貧しい泥炭掘の生活を眺め、人工によつて蔽はれることの少ない事物を凝視した。其處には何一つとして同じものはなかつた。一刻として同じ時はなかつた。「各自が自己の世界を自己の内に持ち、山のやうに闇黑に充ちてゐた。深い謙遜を持して己れを低くすることを少しも懼れてゐなかつた。凡てが敬虔であつた。」リルケは斯うして事物を洞察することによつて、漸次に自然の核心に喰入らうとした。「眞理は遠隔な處にある。忍耐する人々にのみ徐に近寄るものである」と信じてゐた彼は、一九〇六年の『自畫像に題する詩』にも告白して居るやうに、「蒔き散らされた事物で遠くから嚴肅なもの現實なものを企てる」人である。譬へリルケは創作的燃燒の瞬間に於て、萬物奧底の統一界を味ひ得たにしても、それ故に直ちに自然を一つの統一的なものとして愛したのではなくして、靜寂な自然の中にあつてのみ、個々の事物が瞭然と自己の本質を示し、その個々物質の中に永遠が指唆されてゐるのを喜んだ爲である。斯う考へて來れば、リルケを驅つて白然に赴かしめた要求は同時にまた彼の藝術上の要求と一致してゐることを發見するのである。すなわち個々の事物を離れずして、而もその後にある意味と價値とを把握し、其處に普遍的生命の流れを見るといふ一事が、あらゆるリルケの思想行動の中心であり根源であると思はれる。
[やぶちゃん注:「ヺルプスヹエデ」これは、現在のドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスターホルツ郡に属する町村であるヴォルプスヴェーデ (ドイツ語: Worpswede/低地ドイツ語:Worpsweed) 。当該ウィキによれば、『この町は、ブレーメンの北東、ハンメ川』『に面しており、トイフェルスモーア(泥湿地)の中に位置している。この町は州の保養地に指定されている。町は平地に囲まれた高さ』五十四・四メートル『の丘陵ヴァイヤーベルク沿いに位置する』。『この町は芸術家の生活・創作共同体としてのヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー』『で知れられている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「フオオゲラア」ドイツの画家・建築家ヨハン・ハインリヒ・フォーゲラー(Johann Heinrich Vogeler 一八七二年~一九四二年)。当該ウィキによれば、『ブレーメン出身』で『ヴォルプスヴェーデに住んでいた』とある。リルケのウィキによれば、『ロシア旅行に先立つ』一八九八『年に』、『リルケはイタリア旅行を行なったが、このとき』、『フィレンツェで』、この『フォーゲラーと知り合い』、『親交を結んだ。フォーゲラーは北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでおり、リルケは』一九〇〇『年』八『月に彼の招きを受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家のオットー・モーダーゾーン、女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家と交流を持った』。翌年四月、『リルケは彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた』とある。]
それから彼れが文人畫風の英雄的山水を愛しないで、平明普通な風景を選むで居るのは、彼れが自然から求めるところのものが特殊異常の場合でなく、且又感覺的の興奮や驚駭ではなくして、其內面に橫はつて居る心であつたことを說明してゐる。自然な平野やうに單純で透明であればある程、原始的に素朴であればあるほど、それを内面化すること、それを精神化すること、否な其內にある精神を抽出し、其の內部の力を發揮させることが容易に思はれた故である。そして自然風景に對するリルケの此の態度は、實に獨逸詩界に於ける最近の新風景感の淵源とも云ふべきであつて、オスカア・リョエルケにせよ、イナ・ザイデル女史にせよ、テオドオル・ドイブラアにせよ、リルケ無くしては彼等の精神化した新風景感を作ることは出來なかつたかも知れない。リリエンクロオンが『荒野の姿』の諸作でしたやうに、單に自然の風景の情景を克明に描寫するに止まらないのは勿論、ホオフマンスクアルやゲオルゲに於けるやうに風景を作者の魂の狀態として現はすのでもなく、人間そのものが自然となり、風景となつてしまふといふ如き、之等新風景感の發生には、どうしても客觀的な個々の事物を重ずると同時に、其の背後に共通普遍な靈の力を承認する汎神論的の信仰を藏してゐるリルケの如き詩人の出現が必要であつたらうと考へられる。
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