茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「六」
六
個々の事物を注視して其内に隱れてゐる深い心を引出し、それ自體では怠惰である現實から、靈化され生命化された創造を遂げ、而も所謂一般象徵詩のやうに一種の思想、槪念、氣分、又はそれ等の雰圍氣の中に止まらないで、個々の對象を能ふ限り忠實に表現して居るものは實に一九〇二年に出た詩集『形象篇』である。痛ましい憧憬と逡巡とに充ちてゐた『我が祝に』から此集に移つて來れば、丁度少女の居間から出て、廣い、天井光線に照らされる彫刻展覽室に入つたやうな心持がする。戲曲『日常生活』や小說『最終の人々』に說かれた藝術家リルケの成熟した姿が此處には覗はれる。
リルケは一九〇三年の著『アウギュスト・ロダン』の中でロダンに就いて云つて居る。「彼の藝術は一つの大思想の上に建設されて居るのでは無い。良心に從つて行はれる小さい眞實化の上に建てられる。彼の中には傲慢はない。自分が見、呼び、判斷し得る目立たぬ重い美に加擔する。他の大なる美は、小なる美が總べて完成した時に來るのである。恰も夕暮に獸が水飮場へ來るやうに」と。又斯うも云って居る。「彼は廣く探る。第一印象をも正しいとはしない。第二印象及びそれ以下の印象をも正しいとはしない。彼は觀察し記錄する。云ふに値しない運動や、囘轉や、半囘轉や、四十の痙攣、八十の橫顏を記錄する。彼はモデルを疲勞した時、將に表情の成立しようとする時、努力の時に驚かして、習慣的なものと、偶然的なものとを探る。彼は顏面に於ける表情のあらゆる過渡を知つて居り、何處から微笑が來、何處へ消えてゆくかを知つて居る。彼は自分が與つてゐる舞臺のやうに顏面を體驗するのである。彼は其眞中に立つて居る。彼に起る事は一つとして何うでもよいことはない。又彼に見逃されもしない。彼は當事者には何も語つては貰はない。彼は自分の見るもの以外には何事も知らうとは思はない。しかし彼は凡てを見るのである」と。
私は之等の言葉をば移して又詩集『形象篇』に於けるリルケの說明としたい。リルケもまたその對象を最後の根抵まで見ないでは止まない。眼瞼の些細な上下、筋肉の幽かな脹らみ、內心の不安の微妙な顫動をも見てゐる。彼は慾情や神經末端の最後の發熱をも感得する。特に目立たないもの、手近にあるもの、凡眼には無意味に見える徵候を、全然新しい光の下に置いて見る。しかし此處には、浪漫的の空想とか、感覺の陶醉とか云ふ種類のものは絕無である。寧ろニイチェがディオニソス的の對照に置いたアポロン風がある。立體的の明晰がある。――序ながらパウル・ツェッヒは此リルケのアポロン風はロダン其他の影響ではなくして、リルケに先天的なものであり、彼が一步一步健實に步む道であると論じて居るのは首肯される。――そして物それ自體となつて現はれて來る。もつと精確に云へば、物それ自體であつて、而もそれだけではなく現はれてゐる。物が天の下、神の下に置かれて居る。大空の光と影とを宿してゐる平埜の木の葉のやうに現はされてゐる。そして此明晰と此暗示?との相矛盾した二要素を繋ぐものは實にリルケ獨得の音律であるが、それは項を改めて說くことにするとして、集中の『戀人』、『花嫁の歌』、『聲』數章、『嵐の夜』、『盲人』、『石像の歌』、『讀む人』等の諸作は、全く單に對象そのものの內面的眞實の姿を表現して遺憾のないものであつて、我々はその對象が微細な部分に至るまでも詩人によつて熟知され、透徹されて、如何に因襲の牢舍から開放されて、それ自らの光の中に輝いて居るかに驚くばかりではなく、全體として彼の所謂「他の大なる美」卽ち宇宙の奧深い心とでも云ふ可きものが、其の內面に匂つてゐることを感ぜずにはゐられない。
彼の詩が斯ういふ境地に進んで來たことは彼にとつて必然の結果であるとはいへ、同時にまたロダンの偉大な藝術が彼に多大な促進を與へたことは疑へない。ロダンは自分の知らなかつた幾多のことを敎へてくれた許りではなく、自分の既に知つてゐたことに明かな形を與へてくれたといふ意味をリルケは云つてゐる。周到な視と、銳敏な觀察と、犀利な直覺とはロダンとリルケの藝術を形成する共通な要素であるが、更に肝要で本質的の類似は、前にも云つた「手近なもの」から始める「良心に從つて行はれる眞實化」にある。此精神から生れる一種の單純化、又は個々事象の髙潮である。實際、人は種々の束縛に制せられて、個々の事象を正當に觀察し享受する自由を失つてゐる。計畫や利用の僻見から全く脫却してその眞實の本質を凝視する力が無くなつてゐる。其處に我々の誤謬が伏在し、不純不透明が橫はつている。リルケが小兒の一重心を尊重し、平野の簡明を喜ぶ所以も、この誤謬不純不透明を去らうとする爲に外ならない。例へば街頭の行人も、默想に耽る水邊の遊步者も、その步行が彼の全身を、――敢て云へば彼の精神をさへ――如何に變化せしめつつあるかを更に熟知してゐない。しかし一度ロダンの『步む人』を見れば、步行が全人の上に擴がつて居るのに驚かずには居られない。此像に於て步行でないものは何一つ見られない。それはただ足や手の筋肉のみではない。その唇にもその眼にもある。卽ち步行といふ一事象が完全にせられ、生命をえてゐるのである。步行と本來何等の關係の無い總べての環境や屬性は悉く排斥除外されて、唯々步行のみがある。『形象篇』に於けるリルケの詩もまた之と趣を一つにして居る。『戀人』は最早や『冠せられた夢』の中の戀人ではない。頭の上に垂れ下る葡萄の房や、近くに匂ふヤスミンの花で飾られる戀人ではない。「小川のせせらぎの石のやうに靜かで」あつた昨日の自分を「知らない何人かの手に、あはれな暖い運命が委ねられた」やうに感ずる「戀」に捕われた人間である。
夜をついて荒馬に騎りながら、
解いた髮のやうに、驅ける爲の
大風に靡く、炬火を持つてゆく
人々の一人になりたい。
私は眞先に立ちたい。舟の中のやうに、
そして擴げられた旗のやうに大きく。
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「靡く」は「なびく」と読む。]
と歌ひ始めてゐる『男童』は、服裝も身分も境遇も才能も知られない、ただ一人の赤裸の男の子として讀者の前に置かれてゐる。かうして『息子』も、『ツァア等』も、『視る人』も、『夜の人々』も、『噴水』も、『秋』も、『狂氣』もうたはれてゐる。
『形象扁』についで出た詩集は『時禱篇』であつたが、純藝術的の立場から、此集の續篇とも見るべきは寧ろ『新詩集』及び『新詩集別册』の二卷であらう。『形象篇』に於てはなほ幾分限られてゐた對象の範圍が、此二集に至つて一層擴大せられて來たことは、リルケの技能と共に人としての包容が漸く大きくなつて來たことを示すものとも云ひ得るであらう。その「手の屆く」事象が、希臘の諸神や、ヨズア、ザウル、ダビデ[やぶちゃん注:底本は「ダビテ」だが、再版「詩集」で「ダビデ」と訂しているので特異的に訂した。]、エリア等を始め遠く東洋の佛陀にまで及んで居る。また單一なもののみではなく、複雜煩瑣なものも大膽に又巧みに歌ひこなされるやうになつた許りか、あれほど排斥した都會の中にさへその題材を選んでゐるものが少くない。『公園』、『露臺』、『馬上環走』、『スペインの舞妓』等の外にも、パリ、ナポリ、ヹネチア等の都會をうたつて居るものが十數章ある。靜寂な地に純一素朴な物を愛していた詩人も、今や騷しく目まぐるしい四圍によつて心を亂し、複雜と紛糾とによつて蠱惑されずに、よく其の奧底に徹する餘裕を生じて來たのであらう。
嘗てゲオルグ・ヘヒトはリルケの詩を論じて次の如き意味を述べてゐた。曰く從來の詩は主として作者の感情や氣分を傳へる種類のものであつて、詩人は自己の經驗を暗示的に叙して、讀者をして共に詩人の感情を經驗する思ひあらしむれば十分であつた。そして詩が單に事物のみを歌はうと、その環境を描寫しようと、またその經驗が如何なる種類であらうと、要は詩人の感情情調瞑想等が最も重要の點であつた。しかしながら時勢は變轉して詩は漸く其の感情の重みに堪へ難くなつた。讀者も詩人も等しく詩に盛られた感情や氣分に飽いて來た。是に於て種々の試みが企てられた。先づ詩に盛られる感情氣分の種類に變化が行はれた。次ぎにその新感情を生む環境や事情を淸新なものにしようと試みた。けれどもその中樞であり主眼であるものは常に詩人その人の感情であつた。氣分であつた。リルケは之に反して全然別種の詩を創始した。彼は詩を全く感情の重荷から脫せさせた。勿論リルケの詩にも、作者の感情氣分が漂つてゐないのではない。しかしそれが詩の中樞ではない。重心ではない。焦點ではないのである。彼は對象を對象その物として表示しようとする。詩人の感情氣分は單にその雰圍氣とし背景として役立つに過ぎない。從つてリルケの詩で重要なのはその具象性と直觀性であると。私がこれ迄屢〻述べたリルケの詩の特色を捕へて、簡約に在來の詩と比較したものであるが、同じ事をリルケ自らも又云つてゐる。彼が屢〻引用するマルテ・ラウリッド・ブリッゲの言葉に從ふと、之等の詩は最早や感情ではなくして經驗(エルフアルング)である。之等の詩の中の意味と甘味とは全生涯を費して集められたものである。詩人は之等の詩の一つの爲にも多くの都會を見、人間や物や動物を知り感じた。如何に鳥が飛ぶか、如何なる身振で小さい野花が朝日にあつて開くかを學んだのである。しかしながら、ブリッゲの言を借りてリルケが要求する處に依ると、「人が記億を持つてゐるだけでは十分ではない。それが多くなれば人は記憶を忘れ得るに相違ない。そしてその再來を待つ大忍耐を持合せなくてはならない。何故かと云ふと記億そのものはそれではない。それが我々の中に血となり、視となり、身振となり、名も無く、最早や我々自身と區別せられなくなつて、其時始めて極めて稀な時間に詩の第一語が彼等の眞中に彼等の中から發生するのである。」
[やぶちゃん注:「マルテ・ラウリッド・ブリッゲ」通称「マルテの手記」の名で知られる、一九一〇年に発表された、リルケ唯一の長編小説「マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記」( Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge )の主人公。当該ウィキによれば、『デンマーク出身の青年詩人マルテが、パリで孤独な生活を送りながら街や人々、芸術、自身の思い出などについての断片的な随想を書き連ねていくという形式で書かれている。したがって、小説でありながら筋らしいものはほとんどなく散文詩に近い』。『主人公マルテのモデルとなっているのは、実際にパリで生活し、無名のまま若くして死んだノルウェーの詩人シグビョルン・オプストフェルダー』(Sigbjørn Obstfelder 一八六六年~一九〇〇年:英語のウィキに彼のページがあるので参照されたい)『である。もっとも』、『リルケは、この人物について』、『それほどくわしくは知らないとも語っており』、一九〇二年から一九一〇年の『間、妻子と離れてパリで生活していたリルケの生活や心情が、彼のプロフィールに重ね合わされる形で書かれている』ものである。『作品は』一九〇四年から六年の『の歳月をかけて書かれた』。本作『発表後のリルケは、長い間』、『まとまった著作を発表しておらず、後期作品の代表詩である『ドゥイノの悲歌』と、『オルフォイスへのソネット』が発表されるのは、十数年を経てからとなった』とある。
「經驗(エルフアルング)」ドイツ語“Erfahrung” 。音写「エアファールング」。写植以前のため、ルビの小文字化はなされていない。岩波文庫版では『エルファルング』となっているので、そう読み代えて問題ない。]
斯ういふ風に長く經驗し體驗しそして忘却し、記憶の中に物質性を失つて再び浮上つて來た事物に優しく親むに隨ひ、そして神經的に纖細な感性が銳くなればなる程、當初にあつては幾分その跡を見ることの出來た强いもの、優れたものに對する心の傾きは漸く消えて、軟いもの、深いもの、謙虛なもの、宗敎的なもの、弱いもの、色の褪せたもの、疲れたものに對する同情が著しく眼立つやうになつて來てゐる。デカダンの王樣やツァア等を愛し理解して微妙に歌い得てゐることで、恐らくリルケの右に出る詩人は一人も無いであろう。シュテファン・ゲオルゲの『アルガバアル』の燦爛として人の眼を眩ますのに比較すると、等しく王者を歌つても其差の如何に大きいかが明かになるであらう。『橙園の階段』のやうなどちらかと云へばゲオルゲに近い詩でさへ、其の結末のほのかに煙のやうな處、兩者の氣稟の著しい差が知られるであろう。又リルケは繰返し盲人を歌つて居るが、その洞察の深くて多面的なことは、恐らくマアテルリンクに比して數等であらうと思ふ。『盲ひつつある女』の如きは其證とするに足りよう。又夕暮と死とはホオフマンスタアルの常に好んで使つた題材であるが、そしてその情調に溢れる精妙な描寫は何人も驚異の眼を見張り、不知不識に其中へ引入れられる程の魅力に富んでゐるものであるが、その偏に[やぶちゃん注:「ひとへに」。]感覺的情況的の美に比べると、リルケの歌つた夕暮は、夕暮そのものの本質であり、内面から湧き出でる美であるやうに思はれる。特に死に就いては殆ど何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも嘗て見られなかつた程に美しい數章の詩があるが、それもまた如何に死が來るか、如何に人が死ぬか等の屬性的のものでなくして、直接に死そのものの深遠な意味に觸れる思ひがする。或る批評家はリルケの詩集を『事物の福音書』とさへ名づけて居るが、彼の歌ふ事物は決して單なる現實の事物ではなく、その靈化であり、その完成である。その靈化完成の精妙を示すものは實に『新詩集』二卷であつて、『形象鎬』には鑿[やぶちゃん注:「のみ」。]の匂がなお殘つて居るやうな太い線に圍まれたものが多い。それ故力の感じに於ては却つて『形象篇』の方が優つて居るとも云はれよう。
[やぶちゃん注:「ツァア」「ツァーリ」に同じ。ロシア語“car'” で、ローマ皇帝の称号「カエサル」に由来する語。帝政ロシアの皇帝の公式の称号で、イワンⅢ世が初めて用い、正式には、一五四七年、イワンⅣ世の戴冠から、一七二一年にピョートル大帝がインペラートルの称号をとるまでであるが、その後も併用された。音写は「ツァー」「ツァール」とも表記する(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「氣稟」「きひん」。生まれつき持っている気質。]
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