茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「八・九」・目次 / 茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版~完遂
八
リルケの作品の思想内容等に就いては以上で不完全ながら大體を述べた。彼は此内容を盛るに如何なる樣式を用ひ、如何なる手法技巧言語を使つたか。
先づ第一に氣づくことはリルケの詩の著しく感覺的なことである。彼が事物に對する洞察も直感も悉く精細微妙な感覺の中に溶解されて讀者の心に傳へられる。それ故粗大な精鍊されぬ感覺を持つてゐる人々の側からは、彼の詩は常に難解であり朦朧であるとの非雅を免れない。しかしながら感覺の纖細を誇り神經の遊戲に陷つて其處に美の源泉があると信ずる人々からも、彼の詩は眞の賞讃を酬いらる可きでは無い。リルケの詩は一見それ等の人々の詩風に似て居るものの、其本質に於て莫大な徑庭が橫はつて居るからである。
あらゆる因襲を斥けて新に生れた者のやうに事物に對するリルケに取つては、その感覺も全く淸新で少しの濁りも無いものでなくてはならない。其の銳感なことは云ふ迄もない。總べての傳習的な感情の影は出來得る限りこれを避けようとしてゐる。此點でホオフマンスタアルとは可なり激しい對照をしてゐる。ホオフマンスタアルの感情は極めて精細で選練されたものであるが、同時にまた人工的であり幾分の無理があるを免れない。云はば中年の女の神經病者を見るやうであつて、異常な銳さはあるが初々しさがない。リルケの感性もまた世紀末の空氣に觸れて稍〻病的に亢進して居るを免れないけれども、常に子供らしい新鮮さに溢れてゐる。實際それは單に新鮮といふ位の弱い言葉では云ひ現はし難い。卒然として彼を讀む人にとつては寧ろ奇異に感ぜられる程の新鮮さである。丁度小兒の感覺が動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば大人に不思議に思はれて、實は云ふ可からざる新味の盡きないものがあると同樣である。そして之は我々が屢〻マウリス・マアテルリンクに見出す特色であるが、マアテルリンクの感覺が何時も神祕な美に向けられて居るのに對して、リルケの感覺は遙に明るく且つ表現に向いて居る。時に淸新ではあるが、その幼稚さに微笑[やぶちゃん注:「ほほ」。]まれることのあるは兩者共通である。憧憬にふるへる少女のこころを、「クリスマスの雪のやうに感じながら、しかし燃える」と云ひ、寂しい森の中に啼く鳥の聲を聞いては、「圓い鳥の聲はその生れた瞬閒に大空のやうに廣く枯れた森の上に休む」と云ひ、秋の歌では、「主よ、爾の影を太陽の時計に投げよ」、噴水の美しい詩では
俄に私は噴水のことが澤山解る、
硝子で出來た不思議の樹々のことが。
私は大きな夢につかまれて
嘗て流した、そして忘れてゐた、
自分の淚のことのやうに語ることが出來る。
と云つて居る。「太陽の時計も」「硝子の樹」も「クリスマスの雪」も、決して理智が考え出した比喩ではなくして、子供らしい純粹の感覺でなくて何であらう。これ等はただ思ひ出す儘に二、三の例を擧げたのみで、もつと適當な例はなほ隨處に發見されるであらう。
言葉に對する彼の感覺の細かさ新しさは既に前に說いた通りである。彼の用ふる單語は決して所謂詩語ではない。寧ろ我々が日常の會話に於て使ひ古されたものが大半である。しかしそれが一度彼の詩の中に用ひられると、其の一語一語が悉く從來隱してゐた本來の意義と色彩と調子とを發揮して、全く別な語であるかと思はれる。物、時間、祈禱、歌、樹、池、手等、我々が平素何の氣もなく使用してゐる言葉が、彼の詩の中では特殊な響を帶びて聞える。思ふにこれには二つの原因がある。その一つは一語一語の持つ音樂的效果が嚴密に感受せられてゐるからである。就中リルケの詩で最も顯著なのは母音の配列法である。出來得る限り母音を生かして響かせることは純一明快な感じを讀者に與へるものであるが、其の細心な工夫と成功とに於ては近代の獨逸詩人中全くその比を見ないと云つてよい。脚韻は勿論、久しく近代の詩に用ひられなかつた頭韻、句中韻を復活按排したのも其爲であらうと思ふ。その二は語と語との連繋法である。凡そ何處の國語に於ても一つの語には他の語と連繋すべき幾つかの絲が出て居る。そして其の何れの絲で他に繋がるかといふことによつて、その語の意義の傾向は勿論、色彩も陰影も形狀も規定されるものである。これは今此處で詳論するまでもなく、少しく言葉の性質を考へた人には殆ど自明なことであらう。リルケは此點に至大な注意を拂つて居るやうに見える。そして成る可く日常普通に用ゐられる語の連繋絲を避けて、新しい連繋絲、久しく忘られてゐた連繋絲を用ゐる。その爲め彼に取つては特に詩語を選ぶ必要は毫末[やぶちゃん注:「がうまつ」。]もなく、手近にある語が悉く自在に詩の中に入れられたのである。その點に於ては彼は殆ど第一人者であると云つてよからうと思うふ。
更に彼の詩に於て驚異に値することは、其の比喩象徵の創意的で、而もよく物の本質を剔抉する力に富むことと、其の律動の自在で且つ根原的なことである。リルケは語と語の全く新しい連繋を試みたやうに、比喩するものと比喩せられるものとを繋ぐのにも從來の詩人と全く其の趣を異にして居る。彼は一見して到底比較し得ざるようなものを比喩として用ふる。しかも兩者を相互に聯關させ、完全に統一感を呼起させる原因は、何時も其の内面的な解剖にある。彼は外面的な類似で比喩象徵を用ひない。比較される二つの物を分解して、其の最も內面的本質的に接近してゐる點で繋ぎ合せる。それ故その比喩の感能上の效果は決して喩へられるものと平行せずして、それの補充となり深めるものとなつてゐる。或は比喩されるものを征服し、それが爲に比喩されるものが解體して、一層價値の高いものに高まるのは、リルケの詩に於て屢〻出逢ふ處である。彼の比喩象徵はインテレクトからではなく、想像力から來てゐる。それを理解しようとする者もまた想像力を必要とする。一例を擧げてみよう。[やぶちゃん注:「インテレクト」(英語:intellect)は「知性・知恵・理知」。ここは「理知」がよかろう。]
鎖に繋がれて搖らぐ小舟のやうに、
花園は不確になつて、懸つてゐる、
風に搖られるやうに黃昏の上に。
誰がそれを解くのだらう。
「しかし之等の比喩の眞實は決して拒否することは出來ない。それは淚ぐましい程に尖つた神經生活を示してゐる。詩人をしてファウストの母の最深の祕密への長い洞察を可能ならしめた、受苦の魂の驚嘆すべき構造編成の先覺的な心理生理的作用を語つてゐる。これは人をして魂のヒステリイを信ぜしめる程に尖らせられてゐる。」ツェッヒの此言は少しく極端に失する懼[やぶちゃん注:「おそれ」。]がないではないが、『新詩集』の中の數章は、全くこの評を至言だと思はしめる程に微に入り細に入つて、遂に痙攣に終つてゐるかと思はれる。
大多數がソネットである『新詩集』を除いて、其他の集に於てリルケは、殆どあらゆる詩形と律動とを試みて居る。イャムブスは常に基調をなして居るけれども、そこには種々の變形が使用され、或は長短句を按排し、或は一聯の行數を自由にし、中世戀愛曲の風格に交へるに騷人調の手法を以てし、或は古詩の長所を學び、時に新詩の長所を攝取する等、工夫選練の刻苦は眞に言語に絕して居ると思ふ。就中同時代の詩人としては、矢張りゲオルゲ、ホオフマンスタアル等の影響を指摘することが出來、マアテルリンクにも一味の相通ずるものがあることは前にも述べた通りである。又リルケが好んで『時禱扁』で用ひて居る數行或は十數行に亙る長句は、ゲオルゲに見る外、在來餘り多く見ない處であつて、しかもリルケ以後の靑年詩人によつては往々路襲されてゐるものである。[やぶちゃん注:この最後の句点は、底本では、読点になっている。後の再版「詩集」で句点に訂しているので、特異的に修正した。]其他、用語、語感、手法、律動の上でリルケが現代靑年詩人に及ぼした絕大な影響は、短い紙數のよく盡し得ない程であつて、表現主義の抒情詩人の第一人者を以て許されるフランツ・ヅェルフェルの詩なぞも如何にリルケに負ふ處が多いかは、既に識者の等しく認める處である。
[やぶちゃん注:「イャムブス」ドイツ語“Jambus”。音写「イャァムブゥス」。詩学用語で抑揚(短長・弱強)格を指す。
「騷人調」中世ヨーロッパで。恋愛歌や民衆的な歌を歌いながら。各地を遍歴した吟遊詩人の詠んだ、風流染みた読み方の意か。
「フランツ・ヅェルフェル」オーストリアの小説家・劇作家・詩人のフランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel 一八九〇年~一九四五年)。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、『グスタフ・マーラーの未亡人アルマの最後の結婚相手としても知られる』。一九二〇『年代にはジュゼッペ・ヴェルディの多くのオペラをドイツ語に翻訳し、ドイツ語圏におけるヴェルディ・ブーム、いわゆる「ヴェルディ・ルネサンス」に貢献した』したとある。]
九
ライネル・マリア・リルケに就いて述ぶべきことは以上で盡されたとは云ひ難い。特に彼が獨逸抒情詩史上に於ける意義と貢獻とに就いてはなほ云ひたいことが少くないが、彼が同時代者との關係、及び後進に與へた影響については、極めて槪略ではあるが既に處々で觸れて置いた故に、改めて書くまい。リルケの人と藝術とを說明して其理解の一助としたいのが此論文の主眼であつて、批判評價するのは他目に讓らうと思ふからである。唯〻しかしながらリルケが二十世紀初頭の獨逸詩壇に於ける生れながらの先覺者であつて、十九世紀が殘したものと、二十世紀が齎らすものとを一身に集め、相續者であつて同時に祖先であつた事實は、自分の特に指摘したいと思ふ處であつて、此意味から云つてもリルケの硏究は實に興味の津々たるものがある。實證主義的卽物的であると共に、靈性を高唱し神に祈禱し、近代的神經質であつて、而も原始と素朴を愛してゐる。その汎神論的な展 開の思想は可なり科學的でありながら、其の根抵には詩人的空想と憧憬とを藏してゐる。事物の靜觀に沒入してゐる沙門のよやうであつて、貧者の禮讃は往々社會的階級打破の叫びに似たものがある。そして之等種々の矛盾と見えるものが不思議な統一をなして渾然たる趣をなしてゐる。それは西歐羅巴の血と、スラヴ卽ち東洋の血とが彼の中に一つとなつて流れてゐるに似てゐるのである。
[やぶちゃん注:以下、「目次」。リーダーとノンブルは省略した。ポイントは、各所で、かなり異なるが、面倒なのと、ポイント違いでは、却って読み難くなると判断し、私の注を除き、総て12ポイントで揃えた。]
リルケ詩集目次
小 序
第一詩集
家神奉幣
古い家
若い彫塑家
冬の朝
夢
夕の王
大學へ入つた時
民謠
中部ビョエメンの風景
私の生家
冠せられた夢
夢みる(四章)
私の心は忘られた禮拜堂に等しい
あの上に漂ふことの出來る
一體私はどうしたのかしら
灰白な天
愛する(五章)
それから愛は
それは白菊の日であつた
我々は考込むで
春に、それとも夢に
長いことだ――
基督降誕節
基督降誕節
贈 物(五章)
これが私の爭だ
私は好く
塵まみれな飾のついた
私は最う一度
私の神聖な孤獨よ
母たち(二章)
私は折々一人の母に
痛みと憂とが
舊 詩 篇
[やぶちゃん注:以上の「舊詩篇」はママ。本文中の冒頭の表紙では、「舊詩集」である。]
序 詩
日常の中に滅びた憐れな言葉
私は今いつまでも
私は晝と夢との間に住む
お前は人生を理解してはならない
傾聽と驚きのみで
はじめての薔薇が眼ざめた
平な國では期待てゐた
幾度か深い夜に
少女の歌(八章)
序 詩
今彼等はもうみんな人妻
女王だ、お前らは
波はお前らに默つては
少女らは見てゐる
お前ら少女は小舟のやうだ
少女等がうたふ
一人の少女が歌ふ
マリアヘ少女の祈禱(十一章)
序 詩
みそなはせ、私等の目は
多くのことの意味が
最初私はあなたの園となり
マリアよ
何うして、どうしてあなたの膝から
私には明るい髮が
それから昔はいつも
皆は云ひます
この激しい荒い憧れが
祈りの後
我々の夢は大理石の兜
高臺にはなほ日ざしがある
これは私が自分を見出す時間だ
夕ぐれは私の書物
屢〻臆病に身震ひして
そして我々の最初の沈默は
しかし夕ぐれは重くなる
私は人間の言葉を恐れる
誰が私に言ひ得る
形 象 篇
第 一 卷
四月から
少女の憂鬱
少 女
石像の歌
花 嫁
隣 人
最終の人
ものおぢ
愁 訴
孤 獨
秋の日
追 憶
秋
進 步
豫 感
嚴肅な時
第 二 卷
自殺者の歌
孤兒の歌
侏儒の歌
嵐の夜から(二章)
こんな夜々には、私の前に居て
こんな夜々にお前は街の上で
[やぶちゃん注:底本では、「嵐の夜から(二章)」の最後の丸括弧閉じるがないが、誤植と断じて、補った。]
時 禱 篇
修道院生活
時間は傾いて
物の上にひかれてゐる
隣人の神樣
若したつた一度
私が生れて來た闇黑よ
私は總べての未だ云はれなかつた事を信ずる
我々は慄ふ手で
私の生活は
私が親しくし兄弟のやうな
若き兄弟の聲
どうなさります、神樣
番人が葡萄畑に
[やぶちゃん注:「どうなさります、神樣」ママ。同無題の冒頭は「何うなさります、神樣、私が死にましたら、」である。]
巡禮の歌
私は嵐の重壓に驚かない
今お前はお前のところへ
閣下よ
永遠者よ
彼の氣遣は
お前は世嗣だ
私の眼を消せ
あなたを推測る噂が
あなたを求める人は皆
この村に最後の家が
あなたは未來だ
神よ、私は數多の巡禮でありたい
深夜に私はお前を掘る
[やぶちゃん注:「あなたを求める人は皆」で始まるそれは、冒頭は「あなたを求める人は皆な」である。]
貧困と死
おお主よ
私に二つの聲を伴はし給へ
私は彼を褒めたたへよう
大都會は眞ではない
彼等はそれではない
何故なら貧は
知る者よ
見よ、彼等を
彼等の手は女の手のやうで
彼等の口は胸像の口のやうで
ああ、何處に彼の明かなる者は鳴消えたぞ
新詩集
第 一 卷
前のアポロ
戀 歌
犧 牲
PIETÀ
女等が詩人に與へる歌
豹
詩 人
盲ひつつある女
夏の雨の前
私の父の若い肖像
一九〇六年の自像
橙園の階段
佛 陀
西班牙の舞妓
第 二 卷
アポロの考古學的トルソオ
鍊金術者
衰へた女
露 臺
海の歌
ピアノの練習
愛する女
薔薇の內部
鏡の前の夫人
戀人の死
ライネル・マリア・リルケ(譯者)
[やぶちゃん注:以下、ここに奥附があるが、リンクに留める。言っておくと、本詩集には、特装版があることが「定價三圓八十錢」の右肩に記されてあり、そこに『特製は初版限り 口繪一枚。』とあるが、本書はそれではなく、挿絵はない。なお、第一刷は『昭和二年』(一九二七年)『五月七日發行』『千五百部』とある。]
« ハーンが見なかった大社の稲荷神社について | トップページ | 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「諸貝化石」 »