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2025/03/27

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「蛸化爲僧」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、記号も附した。化生(けしょう)ではないが、転生(てんしょう)の怪異で前話になんとなく連関し、ロケーションも同じである。]

 

 「蛸化爲僧《たこ けして そうと なる》」  庵原郡興津驛にあり。「草枕」、「興津」の條云《いはく》。

『名に愛《めで》し淸見寺《せいけんじ》も、こゝ成《なり》けり。此寺の開山、開聖と聞へ[やぶちゃん注:ママ。]しは、海中の蛸の變化《へんげ》也とかや。此寺、上古は天台の宗旨たりしが、住僧、常に「法華經」を讀誦するに、海中より、大き成《なる》蛸、あがりて、此經を聽聞《ちやうもん》す。里人、是を、おぢおのゝき、艪・櫂を以て是を殺す。其丈、二丈餘りもや有《あり》けん。

「かゝるいぶかしき物、食ふべきにあらず。」

とて、あたりの岳《たけ》に埋《うづ》めにけり。

 程へて後《のち》、此所《ここ》より、野草、生出《おいいで》たるを、此里の蜑《あま》の、何となく、つみて、食《くひ》てけり。

 やがて、身たゞならず成《なり》て、一人の男子《なんし》を、うむ。

 年ふるまゝに、いと、よく生立《おいたち》、あやしの蜑の子とも覺へず。

 七歲の年、同じ國、久能寺の住僧、此所を通り給ふに、母の蜃、しかじかと語りて、

「かゝる覺束なき子成《なり》ければ出家の望《のぞみ》。」

とて、彼《かの》僧の弟子となす。

 誠に、尋常の人には、かはりて、聰明容智にして、學ずといふ事なし。

 年たけて後、東福寺の聖一國師の弟子となり、嗣法《しほふ》してより、此淸見寺巨鼇山《こがうさん》を開きしとかや。

 

[やぶちゃん注:「此寺の開山、開聖」清見寺の開山は公式サイトのこちらに、「関聖上人」とあるので、この「開聖」は「關聖(くわんせい)」の誤記であろう。ウィキの「清見寺」によれば、『臨済宗妙心寺派の寺院。山号は巨鼇山(こごうさん)、正式には「巨鼇山 求王院 清見興国禅寺」(こごうさん ぐおういん せいけんこうこくぜんじ)と称する』(「鼇」はカメの「スッポン」の類を指す漢語である)。『寺伝では奈良時代の創建と伝える。平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった』。『鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてであったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により』、『戦わずして駿府城に撤退している』。『江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた』。『また、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている』とある。

「草枕」本電子化で三度目だが、不詳。]

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