阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「北條氏堯現靈」
[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落を成形した。]
「北條氏堯現靈」 庵原郡蒲原驛城山にあり。傳云、永祿十二年十二月六日、武田信玄當城を攻落し、城主北條新三郞氏堯《うぢたか》以下七百餘人を殺す。時に氏堯、靈を此山に止《とどめ》て祟《たたり》をなす。見る者、往々あり。
「草枕」云《いはく》、『昔小田原の北條より、此うしろ成《なる》城山に、北條新三郞と云《いふ》武勇の士をこめ置《おか》れしに、永祿十二年極月五日、武田信玄此濱路を小田原へうち越えんとせしを、新三郞、上なる山よりかけ出《いで》、信玄の先陣小山田備中と合ひ戰《たたかひ》、すでに小山田を追ひなびけしに、城の後《うしろ》にあたりぬる道場山より、四郞勝賴、密《ひそか》にまはりて、さうなく城を乘取《のつとり》ぬれば、新三郞、前後の敵にかこまれ、終《つひ》に討《うた》れはべりぬ。其手のつわもの、舍弟少將、其外淸見・笠原・荒川・多目、以上侍大將六人、雜兵《ざいひやう》七百餘人討死してけり。其妄念や殘りけん、一眼《ひとつめ》の靈鬼と成《なり》て、常に此山をさすらへありく。是を見る野人《やじん》・村老おぢおのヽく事限りなし。天正の末つ方、三浦海法院の住僧、此山に庵を結び、松門《しやうもん》獨《ひとり》閉《とっぢ》て年月《としつき》を送る。坐禪繩床《なはどこ》の庵の內には、本尊持經の外《hか》なくして、身を孤山の嵐の袖にやどし、心を淨域の雲の外にすます。常に讀經のおりおり[やぶちゃん注:ママ。「をりをり」。]、けしかる姿の者見えきたりぬれば、
「いか成物ぞ」
と尋《たづぬ》るに、
「昔此山の城主なりしが、最期の一念に引れて、永く惡趣墮《おち》ずして、かゝる鬼となれり。いと有難き御經《おきやう》のくりきにて、此苦を免《まぬがれ》んとす。猶も御經讀み給へ」
とて、行方知らず成にけりと語る。まことにふしぎ成ける物語りなり。』
[やぶちゃん注:ロケーションや「北條新三郞氏堯」については、前の「諸貝化石」を参考にされたい。「北條新三郞氏堯」事績が事実として確認出来ないので、その他の武将なども注さない。悪しからず。
「草枕」前にも出たが、不詳。]
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