和漢三才圖會卷第八十七 山果類 槲實
[やぶちゃん注:左下に殻斗附きの「どんぐり」の絵が一個、配されてある。]
どんぐり 櫟橿子
くぬき 俗云止牟久利
其木曰久奴木
槲實 日本紀用櫪木字
和名抄以擧樹釣樟
訓久奴木並誤也
本綱檞山林有之木髙𠀋餘有二種一種叢生小者名枹
[やぶちゃん注:「檞」とあるが、この「本草綱目」の引用部は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「槲實」([075-60a]以下)のパッチワークであるのだが、同項には「檞」は、どこにも、ないのである。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも「檞」であるが、おかしい。従って、これは、「檞」ではなく、「槲實」或いは「槲」の誤りである。東洋文庫は注無しで、訳文を『槲(ブナ科カシワ)は山林にある。』と始めている。訓読文は「槲」と書き変える。]
一種高者名大葉櫟樹葉俱似栗長大粗厚冬月凋落三
四月開花亦如栗花八九月結實似橡子而稍短小其蒂
亦有斗其實苦澀味惡荒歳人亦食之其木理粗不及橡
木雖堅而不堪充材止宜作柴爲炭
赤龍皮
槲木皮【苦澀】煎服除蟲及漏止赤白痢腸風下血煎湯洗
惡瘡 新六帖髙瀨さすさほの河原のくぬき原色つくみれは衣笠內大臣
秋の暮かも
△按【今云久沼木】其實【今云止牟久利】一物二名或二物有少異
枹【今云加之波】灌木而大葉婆娑者本草和名抄皆相混
註之今立各條解之
檞木葉似櫧子木而葉至深秋黃落其子似栗而小團故
俗呼名團栗蒂有斗【苦澀味惡】不可食其樹皮赤色粗厚名
赤龍皮者是也倭方與忍冬藤同煎用熊治癰疔其木
[やぶちゃん注:この「熊」はおかしい。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも「熊」とあるが、読めない。思うに、これは「能」の誤刻ではないかと思われる。東洋文庫は字自体を無視して訳しているが、それで訓読した。]
不堪爲柱材止宜爲薪爲炭攝州池田炭多槲也其樹
有髙大者乎日本紀云景行天皇十八年築石國有僵
樹長九百七十𠀋行人常蹈其樹有一老夫曰是樹櫪
木【久奴木】嘗未僵先朝日隱杵島山【肥前】夕日覆吾夫山【肥後】
詔曰是神木故名是國號御木國【今属筑後謂三毛者訛也云云】
*
どんぐり 櫟橿子《れききやうし》
くぬぎ 俗、云ふ、「止牟久利《どんぐり》」。
其の木を、「久奴木《くぬぎ》」と曰ふ。
槲實 「日本紀」、「櫪木」の字を用ふ。
「和名抄」に「擧樹《きよじゆ》」・
「釣樟《てうしやう》」を以つて、
「久奴木」と訓ず。並《ならび》に
誤りなり。
「本綱」に曰はく、『槲《コク》、山林に、之れ、有り。木の髙さ、𠀋餘。二種、有り。一種は叢生して、小なる者を「枹《フウ》」と名づく。一種は、高き者を「大葉櫟」と名づく。樹・葉、俱に、栗に似、長大、粗《あらく》、厚く、冬月、凋落す。三、四月、花を開く。亦た、栗の花のごとく、八、九月、實を結ぶ。橡《とち》の子《み》に似て、稍《やや》、短かく、小《ちさ》し。其の蒂《へた》も亦、斗《と》[やぶちゃん注:殼斗。]、有り。其の實、苦く澀《しぶく》して、味、惡し。荒歳《こうさい》[やぶちゃん注:飢饉の年。]には、人、亦た、之れを食ふ。其の木の理(きめ)、粗(あら)く、橡の木に及ばず。堅《かたし》と雖も、材に充つるに堪へず。止《た》だ、宜しく柴《しば》と作《なし》、炭《すみ》と爲すべし。』≪と≫。
『赤龍皮《せきりゆうひ》』
『槲木(くすき)の皮【苦、澀。】煎《せん》≪じて≫服すれば、蟲、及《および》、漏《らう》[やぶちゃん注:消化器の內出血であろう。]を除き、赤白痢・腸風[やぶちゃん注:出血性大腸炎。東洋文庫に拠った。]≪の≫下血を止む。煎じて、湯に惡瘡を洗ふ。』≪と≫。
「新六帖」
髙瀨さす
さほの河原の
くぬぎ原
色つくみれば
秋の暮かも 衣笠內大臣
△按ずるに、《槲》【今、「久沼木《くぬぎ》」と云ふ。】、其の實【今、「止牟久利《どんぐり》」と云ふ。】、一物、二名なり。或いは、二物、少異、有り。枹《はう》【今、「加之波《かしは》」と云ふ。】、灌木にして、大≪きなる≫葉、婆娑《ばさ》たる者、「本草≪綱目≫」・「和名抄」、皆、相混《あひこん》≪じて≫、之れを註す。今、各條を立《たて》て、之れを、解《かい》す[やぶちゃん注:糺して解明する。]。
檞木(くすのき)の葉、櫧子木(かしの《き》)に似て、葉、深秋に至《いたり》て、黃(きば)み、落(を[やぶちゃん注:ママ。])つ。其の子《み》、栗に似て、小く、團《まろ》き故、俗、呼んで、「團栗(どんぐり)」と名づく。蒂《へた》に、「斗」、有り【苦、澀。味、惡し。】食ふべからず。其の樹皮、赤色、粗厚《そあつ》≪にして≫、「赤龍皮」と名づく者、是れなり。倭方に、忍冬藤(すいかづら)と同じく煎用《せんじもちひ》、能《よく》、癰疔《ようちやう》[やぶちゃん注:悪性のできもの。]を治す。其の木、柱材と爲《す》るに堪へず。止(たゞ)、宜しく薪と爲《し》、炭と爲《す》るに《✕→るべし》。攝州、「池田炭《いけだずみ》」、多くは、槲(くぬぎ)なり。其の樹、髙大なる者、有るか。「日本紀」に云はく、『景行天皇十八年、築石(つくし)の國に、僵(たをれ[やぶちゃん注:ママ。])樹《ぎ》、有り。長《ながさ》九百七十𠀋、行人(みちゆくひと)、常に其の樹を蹈む。一《ひと》りの老夫、有りて、曰はく、「是の樹は、櫪木(くぬ《ぎ》)なり【久奴木。】。嘗て、未だ僵《たふ》れざる先き、朝日には、杵島山(きしま《やま》)【肥前。】を隱し、夕日には、吾夫山(あそさん)【肥後。】覆へり。」≪と≫。詔《のり》して曰はく、「是れ、神木なり。故に、是の國を名《なづけ》て、『御木國(みきの《くに》)』と號す。」≪と≫【今、筑後に属し、「三毛《みけ》」と謂ふ者、訛《あやまり》なり云云。】。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「槲實」は、文字列から判るように、樹種ではなく、所謂、「どんぐり」を指す。ウィキの「ドングリ」によれば、『広義にはブナ科』(双子葉植物綱ブナ目 Fagalesブナ科 Fagaceae)『の果実の俗称』とし、次いで、『狭義には』、『クリ、ブナ、イヌブナ以外のブナ科の果実』、而して、『最狭義には』、『ブナ科のうち』、『特にカシ・ナラ・カシワなど』、『コナラ属』 Quercus の『樹木の果実の総称をいう』とある。これは、現代中国でも同じであることは、「維基百科」の「橡子」で確認出来る。但し、時珍が、厳密にそれと同じであったかどうかは、確定は出来ないが、上記の広義の「どんぐり」と採っておけば、まずは、一応は、問題はない、と推定出来ると思われる。但し、全然、異なる複数種が含まれている可能性は高いので、一律には言えない。
但し、東洋文庫訳では、「一物、二名なり」の訳に、竹島淳夫氏は、『一物で名が二つある 良安のいうところは、槲には枹と大葉櫟の兩方の名があるということであろうか。良安は中國の槲をクヌギとしているが、カシワとするのが妥当かと思われる。』と後注するので、ここは、取り敢えず、時珍が独立項(種或いは種群)として並べている関係上からは、狭義には、竹島氏の支持される、
ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata
に比定同定しておくこととする。これは、掲げられた挿絵に描かれている実と殼斗からも首肯出来る(ウィキの「カシワ」の実の写真を見られたい)。
カシワについては、詳しくは当該ウィキを見られたい。ここでは、「日本大百科全書」の「カシワ かしわ/柏 槲 檞 daimyo oak」「Quercus dentata Thunb.」を引いておく(読みは一部を除き、カットした)。『ブナ科(APG分類:ブナ科)の落葉高木。太い枝を出し、通常は』十五『メートル以下。樹皮は厚く、深い割れ目がある。新枝も太く黄褐色の短い毛を密生する。頂芽は大きく卵状円錐形で』五『稜がある。葉は倒卵形で基部は耳状となり、長さ』十五~三十『センチメートル、幅』六~十八『センチメートルで、裏面は灰白色の軟らかい毛を密生する。縁(へり)は波形の深い鋸歯がある。枯れ葉は翌春まで枝に残るものが多い』。四~五『月、新枝の基部から黄褐色の多数の雄花穂を下垂し、雌花は上部の葉腋に小さな花序をつける。殻斗は』三『ミリメートルほどの柄があり、褐色、広線形の多数の鱗片を螺旋状につけた椀形で堅果の半分以上を包む。堅果は卵形ないし卵状球形で長さ』一・七~二・五『センチメートル。厚い葉と厚い樹皮があるため』、『風衝地や火山周辺地域、山火事跡地に低木状の純林を』、『よく』、『つくる。また寒暖の差の大きい内陸気候の地域にもよく生える。日本全土、とくに関東地方以北に多く、関西地方では同様の立地にナラガシワ』( Quercus aliena :樹皮は厚く、不規則な裂け目がある。葉は長さ十~二十五センチメートルで、日本産ブナ科では最大。葉柄は一~三センチメートルで、縁は大形の波状鋸歯があり、下面は灰白色の星状毛を密生する。柏餅に用いるカシワの葉は本種のものである。堅果はミズナラ Quercus crispula に似るが、微毛が一面に生え、殻斗の三角状の小鱗片が明瞭である。中部地方以西の本州の里山にみられ、朝鮮半島・中国・インドシナからヒマラヤまで分布する。以上は同書に拠った)『が多い。台湾、朝鮮、モンゴルまで分布する。樹皮はタンニンの含有率がブナ科でもっとも高く、染色や革なめしとして用いられた。カシワは炊(かしい)葉の意味で柏餅に、また神事に用いられ柏手となり』、『残っている。漢字の柏は』、『中国ではヒノキ科』(裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae)『の植物をさす』(既に先行する初回の「柏」で、十全に考証しておいた)。『槲・檞も俗字である。葉形や樹形がヨーロッパのoakに類似するためdaimyo oakの英名が一般的であるが、daimyoの意味には諸説がある』。以下、「文化史」の項。『今日』、『カシワの種子は食用とされないが、縄文時代にはなんらかの方法で渋を抜き、食されていたのであろう。長野県の有明(ありあけ)山社大門北遺跡からは、種子が出土している』。「古事記」に『出る』「御綱柏(みつながしは)」『の正体については、カクレミノ、フユイチゴ、オオタニワタリなどとする諸説があり、さだかではない。またカシワの名は、「炊(かし)く葉」から由来したとする説が有力で、古くは蒸し焼きに使われた葉の総称であったと思われる。現在でも柏餅にサルトリイバラ科のサルトリイバラ』(猿捕茨・菝葜:単子葉植物門ユリ目サルトリイバラ科 Smilacaceaeシオデ(牛尾菜)属サルトリイバラ Smilax china )『の葉を用いる所がある』とある。
「枹《フウ》」「百度百科」の「枹」には、「現代釈義」の項に、『枹树。有的地区叫小橡树 [glandbearing oak;Japanese silkworm oak]』とあった。これは、ブナ科コナラ属 Quercus 、及び、コナラ Quercus serrata を指す。
「大葉櫟」これは、和名のない、Quercus griffithii を指す。「維基百科」の同種「大叶栎」(「栎」は「櫟」の簡体字)によれば、『スリランカ・ミャンマー・インド、雲南省・貴州省・四川省・チベットなどの中国大陸に分布し、標高七百~二千八百メートルの地域の、主に森林に植生する。人工的に栽培されたことはない』とあった。
「赤龍皮」コナラの樹皮の漢方名。サイト「くすきの杜」の「くすきの杜 薬木図鑑」の「小楢」に(一部の記号を句読点や中黒に代えた)、生薬名を、『①樸樕(ボクソク)』『・赤龍皮(セキリュウヒ)、②赤龍葉(セキリュウヨウ)』とあり(葉も薬用とする)、『樹皮・葉、駆瘀血(体の血の滞りを消す)・止瀉(下痢止め)・解毒作用・腫瘍・痔・下血・打ち身・下痢などに用いる。漢方処方では、樹皮が十味敗毒湯,治打撲一方などに配合』されるとあった。
「新六帖」「髙瀨さすさほの河原のくぬぎ原色つくみれば秋の暮かも」「衣笠內大臣」「新六帖」鎌倉中期に成った類題和歌集「新撰六帖題和歌集」(全六巻)。藤原家良(彼が「衣笠內大臣」)・藤原為家(定家の次男)・藤原知家・藤原信実・藤原光俊の五人が、仁治四・寛元(一二四三)年頃から翌年頃にかけて詠んだ和歌二千六百三十五首が収められてある。奇矯・特異な歌風を特徴とする(ここは東洋文庫版書名注に拠った)。当該和歌集は所持しないので校訂不能だが、日文研の「和歌データベース」(全ひらがな濁点なし)で同歌集を確認したところ、「第六 木」で(ガイド・ナンバー「02466」)確認出来た。
『「本草≪綱目≫」・「和名抄」、皆、相混《あひこん》≪じて≫、之れを註す。今、各條を立《たて》て、之れを、解《かい》す』東洋文庫訳の後注に、『『和名抄』(草木部木類)には、釣樟の和名は久沼木。槲の和名は加之波。『唐韻』では柏という。挙樹の和名は久沼木、とある。なお、『和名抄』では枹は太鼓のばち(術芸部雑芸具)である。』とあった。「和名類聚鈔」の、「卷第二十」の「草木部第三十二」・「木類第二百四十八」に(以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本を視認して独自に訓読した。ここと、ここである)、
*
釣樟(クヌキ) 「本草」云はく、『釣樟《てうしやう》、一名は鳥樟《てうしやう》【音、「章」。和名「久沼木《くぬぎ》」】』≪と≫。
*
その少し後に、
*
槲(カシハ) 「本草」に云はく、『槲【音「斗」。斛の「斛」、和名「加之波《かしは》」。】は、「唐韻」に云はく、『柏【音、「帛《はく》」。和名、上に同じ。】は木の名なり。』≪と≫』≪と≫。
*
とあった。東洋文庫後注には、『『和名抄』(草木部木類)には、釣樟の和名は久沼木。槲の和名は加之波。『唐韻』では柏という。挙樹の和名は久沼木、とある。なお、『和名抄』では枹は太鼓のばち(術芸部雑芸具)である。』とあった。序でに、その「枹」は、同じく、ここで、「卷第四」の「音樂部第十」・「鐘鼓類第四十六」の以下。
*
大鼓(ヲホツヽミ)【枹(ツヽラハチ)附《つけたり》】「律書樂圖」に云はく、『「爾雅」に大皷、之れを「鼖(フン)」と謂ふ【音、「墳」。和名、「於保豆々美《おほつづみ》」。一《いつ》に云ふ、「四乃豆々美《しのつづみ》」。今、案ずるに、「細腰鼓」、一・二・三の名、有り。皆、以つて、節《ふし》に應ず。次第に名を取るなり。】卽ち、「建鼓」なり。「兼名苑」に云はく、『槌(ツイ)の一名は「枹(フ)」。【音、「浮」。字、亦、「桴」に作る。俗に云ふ、「豆々美乃波知《つづみのばち》」。】大鼓を擊つ所以《ゆゑん》なり。』≪と』。
*
なお、「枹」には「フ」の音もある。
「櫧子木(かしの《き》)」「本草綱目」と良安のルビは同一種を指さない。先行する「櫧木」を見られたい。
「忍冬藤(すいかづら)」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の漢方生薬名は「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を天日で乾燥したもの。
『攝州、「池田炭《いけだずみ》」』「池田市立図書館」公式サイト内の「池田炭」に、『池田炭は、奥郷と呼ばれた猪名川』(兵庫県川辺郡猪名川町(いながわちょう:グーグル・マップ・データ)を貫流する川)『上流域の山間部で生産されたもので、集散地となった池田の名をとってこう呼ばれるようになりました。佐倉(千葉県)の白炭などとともに日本を代表する炭として広く知られています。クヌギ材を使用した火もちのよい良質な炭で、切り口が菊の花のように美しいことから「菊炭」ともいい、茶の湯では今日でも珍重されています』とある。
『「日本紀」に云はく、『景行天皇十八年、築石(つくし)の國に、僵(たをれ[やぶちゃん注:ママ。])樹《ぎ》、有り。長《ながさ》九百七十𠀋、行人(みちゆくひと)、常に其の樹を蹈む。一《ひと》りの老夫、有りて、曰はく、「是の樹は、櫪木(くぬ《ぎ》)なり【久奴木。】。嘗て、未だ僵《たふ》れざる先き、朝日には、杵島山(きしま《やま》)【肥前。】を隱し、夕日には、吾夫山(あそさん)【肥後。】覆へり。」≪と≫。詔《のり》して曰はく、「是れ、神木なり。故に、是の國を名《なづけ》て、『御木國(みきの《くに》)』と號す。」≪と≫』「筑石」は「筑紫」の誤記。原文は以下。良安のものは、かなりカットがある。少し前から引く。
*
六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑、時殺其處之土蜘蛛津頰焉。丙子、到阿蘇國、其國也郊原曠遠、不見人居、天皇曰、「是國有人乎。」。時有二神、曰阿蘇都彥・阿蘇都媛、忽化人以遊詣之曰「吾二人在、何無人耶。」。故號其國曰阿蘇。秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後國御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、
阿佐志毛能 瀰槪能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮 瀰開能佐烏麼志
爰天皇問之曰「是何樹也。」。有一老夫曰、「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」。天皇曰、「是樹者神木、故是國宜號御木國。」。丁酉、到八女縣。則越前山、以南望粟岬、詔之曰、「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言、「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」。故八女國之名、由此而起也。八月、到的邑而進食。是曰、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞曰浮羽。
*
国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和6(一九三一)年岩波文庫刊)の当該部を視認して参考とし、訓読を示す。
*
六月辛酉朔癸亥、高來(たかく)の縣(あがた)より、杵名(たまきな)の邑(むら)に渡り玉(ま)す。時に、其の處の土蜘蛛「津頰(つつら)」を殺したまふ。
丙子、阿蘇の國に到ります。其の國や、郊原(のはら)、曠く遠くて、人の居(いへ)を見ず。天皇(すめらみこと)曰(のたま)はく、
「是の國に、人、有りや。」。
時に、二神、有り、阿蘇都彥(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)と曰ふ。忽ちに、人に化(な)り、以つて、遊-詣(いた)りて曰はく、
「吾れ、二人、在り、何ぞ、人、無からむや。」
と。故(か)れ、其の國を號づけて、「阿蘇」と曰ふ。
秋七月辛卯朔甲午、筑紫の後りの國の御木(みけ)に到り、高田の行宮(あんぐう)に居(ゐ)ます。時に、僵(すぐ)れたる樹、有り、長さ、九百七十丈(ここのほつゑあまりななそつゑ)。百寮(ももちのつかさ)、其の樹を蹈(ほ)むで、往-來(かよ)ふ。時の人、歌ひて曰はく、
阿佐志毛能(あさしもの)
瀰槪能佐烏麼志(みけのさをはし)
魔幣菟耆瀰(まへつきみ)
伊和哆羅秀暮(いわたらすも)
瀰開能佐烏麼志(みけのさをはし)
爰(ここ)に、天皇、問ひて曰はく、
「是れ、何の樹ぞ。」
一(ひとり)の老夫(おきな)、有りて曰く、
「是の樹は歷木(くぬぎ)なり。嘗つて未だ、僵(たふ)れざる先に、朝日の暉(ひかり)、當りては、則ち、杵嶋(きしま)の山を隱しき。夕日の暉に當りては、亦、阿蘇山を覆(かく)しき。」と。
天皇曰はく、
「是の樹は神木(あやしきき)なり。故(か)れ、是の國を、宜(よろ)しく、「御木の國」と號(なづ)くべし。」と。
丁酉、八女(やめ)の縣に到ります。則ち、前山を越えて、以つて、南のかた、粟岬(あはのさき)を望(おせ)ちたまふ。
詔(のり)して曰はく、
「其の山の峯(みね)の岫(くき)、重-疊(あさな)りて、且つ、美-麗(うるは)しきこと、甚し。若(も)し、神、其の山に有るか。」と。
時に、水沼(みぬま)の縣主(あがたぬし)、猨大海(さるおほあま/さるおほみ)、奏して言ふさく、
「女神(ひめがみ)、有り、名を八女津媛(やめつひめ)と曰ふ。常に山中に居る。」
と。故れ、八女國の名、此れに由りて起これり。
八月、的(いくは)の邑に到りまして、進-食(みをし)す。
是の日に、膳夫等、盞(うき)を遺(わす)る。故れ、時の人、其の盞を忘れし處を號けて、「浮羽(うくは)」と曰ふ。今、「的(いくは)」と謂ふは、訛(あやま)れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)、盞を號づけて、「浮羽」と曰ふ。
*
『今、筑後に属し、「三毛《みけ》」と謂ふ者、訛《あやまり》なり云云。】。』「御木」を「三毛」と誤ったということである。これについては、私の南方熊楠「巨樹の翁の話(その「五」)」を見られたい。]
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