阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「諸貝化石」
[やぶちゃん注:底本はここ。]
庵 原 郡
「諸貝化石」 庵原郡蒲原驛城山にあり。里人云《いふ》、「當驛に城山あり、蒲原城と號す。永祿年中、北條新三郞氏堯《うぢたか》籠る所也。今猶石垣存せり。此石を破《やぶり》くだくに、石中より蛤・蜆・あさり等の諸貝出《いづ》。其貝、悉く石となりて、形全く存す。或は小魚の化石あり。鱗形《うろこがた》を顯《あらは》し、肉より割るは其半身骨の形あり。云云。石中《いしなか》にはさまれて小魚諸貝の石と化す、又奇ならずや。
[やぶちゃん注:「庵原郡」これは「いほはらのこほり・いはらのこほり」と読む。旧郡域は当該ウィキを見られたい。
「蒲原驛」現在の静岡県静岡市清水区庵原町(いはらちょう)の位置はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)だが、この地区には東海道の駅宿はないので、傍系街道のそれらしい。
「城山」これは、庵原(「庵原町」の表示を中央に配した)に、東で接する清水区草ヶ谷(くさやが:海抜十六メートル程)に「庵原城跡」(いはらじょうあと)があるが、これか。但し、この城跡については、サイト「城郭放浪記」の「駿河 庵原山城(するが いはらやまじょう)」には、『築城年代は定かではない。今川氏の家臣庵原氏の城と考えられているが定かではない』。『永禄』一一(一五六八)年、『駿河国に侵攻した武田信玄の城となると、今川の旧臣で武田氏についた朝比奈駿河守信置が庵原を領して庵原山城を居城とした。天正』一〇(一五八二)年、『武田氏滅亡の際に大軍に攻められ落城し、朝比奈信置父子は庵原館にて自刃したとも戦死したともいわれる』。『庵原山城は山切川の西岸にあり、川に沿って南へ伸びた尾根に築かれている』。『現在城山の西側に新しい高架橋の道路(新東名?)が建設されており、それによって一部破壊されているようである』。『西と北に堀切を設けていたようであるが、西側の堀切は道路建設によって残っていないようである。曲輪は南の尾根先に向かって伸びており、段は低い石塁によって区画されているようである』とあり、「北條新三郞氏堯」が籠った事実は見当たらない。次の注も参照。なお、この城跡ならば、縄文海進の際に海の中であった可能性が極めて高いので、貝や魚類の化石が出ても、なんら、おかしくない。私の家の近くの、この山(「ひなたGIS」。海抜六十メートル超)の崖で、私は少年期に、多量の貝や魚の化石を、多数、発掘している。
「北條新三郞氏堯」echigoya氏のサイト「戦国猛人」のこちらに、大永二(一五二二)年出生(『?』附き)とし、没年不詳として、『北条氏綱の四男。通称は竹王丸。左衛門佐。通説では北条氏康の六男または七男とされていたが、氏康嫡男の北条氏政らと比較しても明らかに年長であることから、氏康の実子ではなく養子とされたものと思われる』。『活動の初見は天文』二四年(=弘治元(一五五五)年)六月に、『上野国平井の統治に係る人事を差配したことであり、このとき』三十四『歳であったと思われる。かつ、叔父にあたる北条幻庵の後見を受けている。氏堯の活動開始が遅かった理由は不明だが、この翌月には一軍の将として安房国へ出陣している』。永禄元(一五五八)年四月、『古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮への参詣を終えて小田原城内の氏康亭を訪れた際、寝殿での給仕役の筆頭として饗応した』。永禄三(一五六〇)年七月、『幻庵の子で武蔵国小机城主であった北条三郎(宝泉寺殿)が没すると、小机城主に任じられた』。『同年』八『月末に越後国の上杉謙信が関東への侵攻』『を開始すると、永禄』四(一五六一)年二月『頃に防衛戦の最前線となっていた武蔵国河越城へ救援に赴き、その指揮を執った』。「小田原北條記」『等の軍記物語では、天正』九(一五八一)年の『の駿河国戸倉城』(現在の伊豆半島の西側の根にある静岡県駿東郡清水町徳倉のここ)『の戦いで、氏堯(ただし、官途が右衛門佐とされている)が武田氏に寝返った松田新六郎に敗れたことが記されているが、近年の研究では、氏堯の動向は永禄』五(一五六二)年十『月までしか確認できないこと、忌日が年次不詳ながらも』四月八日『であること、永禄』七(一五六四)年一『月の時点での河越城代が北条氏信で、この氏信は小机城主でもあり、つまりは氏堯の後任としての地位にあったことなどから勘案して、氏堯は』永禄六(一五六三)年四月八日に『没したとも考えられている』とあって、ここでも、この庵原山城に城主となった事実は、見当たらない。]
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