阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「孕女爲崇」
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点を追加し、直接話法部分に鍵括弧を添えた。]
「孕女爲崇《はらみめ たたりを なす》」 庵原郡《いほはらのこほり/いはらのこほり》中河內村《なかがうちむら》にあり。傳云《つたへいふ》。
徃昔《わうじやく》、當村に帶金甚藏某《なにがし》と云《いふ》鄕吏あり。私欲深く、上を畧し、民を貪る事、年あり。
里民、連署して公《おほやけ》に訴へ、帶金が一命を絕《たた》ん事を乞ひ、かの人支配する所の村々より、十五歲を始とし、六十歲迄の農夫を集め、河原に柱を建《たて》て、手足を結付《むつびつけ》、手每《てごと》に石をうち、終《つひ》に嬲殺《なぶりごろし》にす。
其妻、一子、十郞某を背負ひ、布澤村《ぬのざはむら》の方に逃《のがれ》んとす。
時に、追人《おつて》、頻《しきり》にして、迚も遁《のがれ》まじきを知り、一子に敎《をしへ》て曰《いはく》、
「今日《けふ》の怨《うらみ》、必《かならず》、報《むくふ》べし。」
と言畢《いひをはり》て、傍《かたはら》の瀧に投入《とびいり》て、殺しつ【今《いま》其瀧を「十郞の瀧」と云《いへ》り】。
里民、遙《はるか》に後《おく》れて、漸《やうや》く尋來《たづねきた》り、妻を捕へて夫の死地に殺さんとす。
其妻、歎じて云《いふ》、
「吾、既に臨月也《なり》。願くは、此子を產《うみ》て後《のち》、殺せ。」
と。
聽《きか》ずして、石を以《も》て、打殺《うちころ》す。
是より、此村、婦女子、產前後、病《やまひ》、多く、死する者、勝《かつ》て計《おあぞ》ふべからず。
依《よつ》て、帶金が屋敷を點《てん》じ、社《やしろ》を建《たて》て、帶金權現と崇《あが》む。
また、是より、奧の村里、小兒、四、五歲にして、災《わざはひ》多きは、其妻、逃《にぐ》る時、十郞に敎《をしへ》し憤《いきどほり》による也《なり》。
これ、近代の靈社にして、步を運ぶ者、最《もつとも》多し。云云。
[やぶちゃん注:「中河內村」現在の静岡県静岡市清水区中河内(なかごうち:グーグル・マップ・データ航空写真)。興津川支流、中河内川の流域に位置し、北は駿甲国境峠越えで、甲斐国巨摩(こま)郡福士(ふくし)村(現在の旧山梨県富沢町。この附近:グーグル・マップ・データ)に通じた。山間部である。
「帶金甚藏」「おびかねじんざう」或いは「おびがねじんざう」。サイト「苗字由来net」の「帶金」によれば、『現山梨県である甲斐国八代郡帯金村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏族』で、『近年、千葉県、神奈川県にみられる。』とある。
「上を畧し」この場合の「りやくす」は、「攻略す」で、「上役を上手くおだてて、己が自由を恣にし」の意であろう。
「布澤村」「ひなたGIS」のここ。
「十郞の瀧」不詳。逃げ道の方向と、瀧があると思われる辺りを、「ひなたGIS」で示しておいた。
「點じ」地を占って。
「近代の靈社にして、步を運ぶ者、最多し」というのだから、現存していて、おかしくない。それとなく探してみたが、『これかも?』と感ずる神社は、あったが、忌まわしい惨殺と祟りを根っことするものであるから、その伝承があっても、隠されてあるものであろうからして、ここは不詳としておき、これ以上、穿鑿はしない。]