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2025/03/08

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「七」

 

        

 

 『形象篇』、『新詩集』を以てリルケの藝術的完成を告げるものとすれば、一九〇五年に始めて上梓せられた『時禱篇』は、彼の內面生活が漸く圓熟の境地に入つて、個々事物の凝視から漸く統一的な神に到達したことを示す詩集である。此集は『僧侶生活の卷』、『巡禮の卷』、『貧困と死との卷』三部から成立つてゐるが、其の發生から云へば第一部は一八九九年、第二部は一九〇一年、第三部は一九〇三年であつて、市に出る迄には如何に推敲選練が重ねられたかを想像することが出來る。

 リルケの思想が此『時禱篇』のやうな信仰に到達することの必然なことは、彼の作品を閱讀する者の悉く首肯する處であつて、恰も春日を浴びて薔薇の育つやうに、順次『基督降誕節』以後その發達を示して來たが、その思想の中心に明瞭に「神」の名を與へたのは、實に一九〇〇年に出版された童話集『神の話及び其他』であつた。此數篇の童話は實に「事物の神に成る」ことを中心に持つてゐた。しかし時代に對する反抗や、小兒に對する讃美や、比喩の興味やに重心が傾いてゐる爲めに、的確に率直にリルケの信仰を我々に傳へる效果が稍稀薄である。しかし彼の神の話はドグマからも敎會からも十字架像からも出發してゐないで、「物」から始まつてゐる。其處にリルケらしい最大の特色がある。「どんな物でも神樣になれる。ただそれを物に云はなくてはいけない。動物にはそれが出來ない。あれは走つて行つてしまふから。しかし一つの物は、そらね、それは立つてゐる。晝でも夜でもお前が部屋へ歸つて來ると、幾時でも其處にゐる。それは神樣になれる。」彼は個々の事物の奧深く眺め入るに從つて、其中に普遍で等しい力の働いて居るのを認め、それによつて自己と萬物とが漸次親和融合するもののあるのを感じたのである。リルケはそれに「神」と云ふ名を與へた。それ故神という名に拘泥して、直ちにクリスト敎の神や、希臘の神々の一つを思い浮べるものがあればそれは大きな謬であろう。

 私が親しくし兄弟のやうな

 これ等總べての物に私はあなたを見出す。

 種子としては小さい物の中で日に照らされ

 大な物の中では大きく身を與へてゐられる。

 此句にも明かであるやうに、リルケの神は萬物の中に內在してゐる。歌の中にも、石の中にも、老人、嬰兒、乞食の中にも、幸福の中、死の中にも、又指拔きの如き小さな物にも。人はただそれを見出せばよい。それを云へばよい。「視は祈禱」であると云ひ、「視ることは解脫だ」と歌つてゐるのも、表面現象の奧にある神の存在を確實に知つてゐたからである。そして其の同じ神はまた自己の中にもある。

 此處の內心に我の生きてるものが、彼處にある。

 彼處とここと總べての物に限界はない。

 斯う事物と我とが漸く親和融合するのを感じたリルケは、最も近いものにも、最も遠いものにも自己が流通してゐるのを見たのである。嘗て

 誰かまた私に云ひ得る

 何處に私の生が行きつくかを。

 私もまた嵐の中に過ぎゆき、

 波として池に往むのではないか、

 また私は末だ春に蒼白く凍つてゐる

 白樺では無いのか。

 と『我の祝に』で問を發していたリルケは、今や「之等總べての物に神を見出す」と云ひ得るに至つたのである。神は露でもある、女、他人、母でもある。死でもある。鷄鳴でもあり、未來でもある。綠の樹でもある。

 根の中に育ち、莖の中へ消え。

 梢では再生のやうになる。

 船には岸と見え、陸には船と見えるやうに、視點の相違によつて絕えず其形を異にしてゐるものの、神は要するに「事物の深い含蓄」である。そして此深い含蓄である神は、光や形や名稱に執著するものの知り能わぬ所である。外面的狀態の關係變化等を整理規定する理知の作用のみでは會得せられない。小兒の如き謙虛敏感な心と、沙門のような靜寂とによつて始めて近づき得るのである。リルケの信念によれば神は到る所にある。我々がそれを見ないのは、これを凝視する用意と訓練と忍耐とが缺けて居るからである。我々は神は何處に在るかと問ふ可きではない。ただ眼を開いて凝視すればよい。「問ふ者に神は來ない」。リルケは明にさう云つて居る。彼は神の心に熟するのは、丁度藝術が藝術家の心に熟するのと同樣であつて、幾多の事物の凝視が「名無きもの」となり、血と肉とに溶け入つて、始めて中から湧き來るものであると云つて居る。

 斯ういふやうにリルケの信仰は著しく汎神的である。彼の神は物卽ち自然の本質であつて、神と萬物との關係は造物主と被造物との關係でもなく、原因と結果の關係でもない。本質と狀態、内容と外形との關係である。

 しかし人は各牢獄(ひとや)から遁れようとするに似て、

 自我から出ようと力めるらしい。――

 これは實に大きな不思議である。

 私は感ずる、凡ての生命は生きられてゐると。

 では誰がそれを生きてゐるのだ。

 夕ぐれの竪琴の中に籠るやうな

 奏でられない諧調に似たものか、

 水から吹く風か。

 うなづき合つてゐる枝か。

 薰を織る花であるか。

 もの古りた長い並樹か。

 步いてゆく暖かい獸か。

 驚いて立つ鳥であるか。

 一體誰だらうそれを生きるは。神よ、神であるか――

 その生命を生きるのは。

[やぶちゃん注:「力める」「つとめる」と読んでおく。]

 リルケは萬物の中に內在する神を知り得たけれども、個々の事物を以て直に完全な神の現れと考へることは出來なかつた。彼は萬物の生命を生き甲斐あるものとは感じながらも、各個體はその與へられた形體の故に、圈圓の中に呻吟するような嵯嘆と憧憬とを持つて居ることをも認めずには居られなかつた。「我を爾(神)の側に置けば、我は殆ど無きに等しい程爾は大きい。爾は暗い。爾の緣(へり)にあると我が小さい明りは無意味だ。爾の意志は波の如くに行き、日每の日はその中に溺れ死ぬ。ただ我が憧憬のみが爾の顎の邊まで聳えてゆく」と歌つてゐるのも、一面微小な個體に囚はれた生活のみじめさを嘆いたものである。そして斯うした個體の囮囘を開いてその憧憬の中に解放する。それが卽ちリルケの藝術的創作であつたのである。彼の神の思想と藝術觀とは實に密接にして離るべからざる關係を持して居る。

 リルケは個體を囹圄[やぶちゃん注:「れいご」。牢屋・獄舎。]と見てゐる。しかし既にその內に神の存在を信じて居る故に、外的自我の貧弱微小は必ずしも意に介する處ではなかつた。寧ろそれは貧しければ貧しい程よかつた。『時禱篇』第三部に於て專ら貧者を讃美してゐるのは全く此處に由來する。彼が弱い者、惱む者、苦しむ者に多大の同情と暖い心を寄せたことは既に述べた。それが今は

 貧者の家は聖檀の龕のやうだ、

 その中では永遠なものが食物となる。

 といふ禮讃に高まつて居る。而も貧者は倨傲な富者の閒に苦しむで、熱病の發作に見るやうな惡寒に慄へながら燃えてゐる。あらゆる家から逐はれて見知らぬ白痴のやうに夜中に彷徨してゐる。でも「貧こそは內部からの偉大な光耀である。」

 見よ、彼等は生きよう。己を增すだらう。

 時代に强ひられまい。

 森の苺のやうに育つて

 甘味で地を蔽ふだらう。

 彼等は幸だ。一度も自己から遠ざからず、

 屋根がなくて雨の中に立つてゐる。

 彼等にこそ總べての收穫が來るだらう。

 その果物は充實しよう。

 彼等は總べての終を越えて續き、

 意味の零れ消える富者よりも長く續かう。

 そして總べての階級と

 總べての國民の手の疲れ果てたとき、

 休み盡した手のやうに上るだらう。

 貧者の禮讃が社會的階級的意識にまで到達してゐることが解る。此處に於てもリルケはまた來る可きものを夙に豫感してゐたのである。彼が貧困を稱へたのは「屋根なく」して天の雨をうけ、「凡ての收穫が得らるる」からである。內在する生命を貧しくするのでないことは云ふ迄もあるまい。

 既に我々の存在を神の一狀態一表現に過ぎないと信じ得る者にとつて、死はさして恐る可きことでは無い筈である。リルケの言を借りれば、我々の生活が花であり果實の肉であれば、死は卽ち實であり種子である。彼は又云つて居る。「我々が日每にその頭蓋骨を見下して居る死が、我々の憂愁や不幸であらうとは信じられない。」だから我々の念ず可きことは次ぎの祈禱でなくてはならない。

 おお、主よ、各自に彼れ自らの死を與へ給へ、

 彼が愛と、意義と、困厄とを持つた

 その生活から出てゆく死を。

 では我々の生は何うであらう。死が恐る可きもので無いならば、生も惜むに足らぬものであらうか。抑また我々の生に力を與へ、それに强い意義を附するものが他にあるであらうか。リルケは此處に「神の成熟」の思想を持つて來る。

 リルケの考に從ふと、事物は單に神の狀態である許りでなく、更にまた神を成熟せしめ、神を發達せしめ、既に長い過去に於て偉大であつたものを一層偉大ならしめる任務を負うて居る。かうして

 爾(神)の國は

 熟しゆく。

 我々の生活が邪路に迷ひ入らぬ限り、其處に內在する神は常に成熟しつつあるのである、空しく消えたやうに見える過去の事物も、一つとして今の我々を培つてゐないものはない。そして又現在の我々は少なからず未來の發育に與つて居る。換言すると過去は我々の父であり、未來は我々の子である。そして長い過去に養はれて居る現在は、正當なる狀態に於ては過去よりは大きくなくてはならない。

 子は父よりは大きい。

 父のあつた總べてであるのみか、

 父のならなかつたものもまた子の中に生ひ育つ。

[やぶちゃん注:最後の一行は、底本では、『父のならなかつもたのもまた子の中に生ひ育つ。』となっている。誤植錯字であるので(岩波文庫の校注では、再版「詩集」で修正している)特異的に訂した。]

 そして萬物に溢れて居る神は、無限の過去から現在を貫いて永遠の未來に生きてゐる。彼の視線は多く未來の神に向けられる故に、神は未來だといひ、神は我が子だとも歌ひ、

更に斯うも云つて居る。

 お前は世嗣だ。

 子等は世嗣だ、

 何となれば父たちは死に

 子等は立つて花を開く。

 お前は世嗣だ。

 そして我々の成熟と共に神も成熟するのであるから、永遠の末來に成熟を續ける神の偉大さは到底測り知ることは出來ない。「神は父なり」と云ふ思想は之に比較して、著しく神を有限的に見てゐることが解る。そして人の心の不思議さはこの無限永遠の神の姿をば、夢想と憧憬とに於て暗示し、藝術の三昧境に於て啓示する。

 しかし時をり夢の中で

 私はお前の部屋を見渡すことが出來る。

 深く始から

 屋根の黃金の尖頭(さき)まで。

 それから又見る。私の感官が

 最後の飾を

 作り營むのを。

 此處にリルケの思想の神祕な詩人的な飛躍がある。

 

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