阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「藥師佛乘蟹出現」
[やぶちゃん注:底本はここ。]
「藥師佛乘蟹出現《やくしぶつ かにに のりて しゅつげんす》」 庵原郡大內村《おほうちむら》、富谷山《ふこくざん》保蟹寺《ほうかいじ》【曹洞、桂山長光寺末、寺領一石二斗八升】にあり。「駿州古跡畧」云。『大內村蟹藥師寺の藥師は、池中より蟹に乘《のり》て出現し玉ふ。云云』。「巡村記」云。『此藥師は乘蟹の金佛也。巴河《ともへがは》より出現す。云云』。靈佛、蟹に乘《のり》て水中に出現す、また奇ならずや。
[やぶちゃん注:「富谷山保蟹寺」現在の静岡県静岡市清水区大内にある曹洞宗富谷山保蟹寺(グーグル・マップ・データ)。この寺は梶原景時・景季・景高と、源頼朝・頼家の位牌を安置する「梶原堂」で知られるが、「森田いそべ会計」公式サイト内の「1.保蟹寺(ほうかいじ)を訪ねて (清水歴史探訪より)」に詳しい。そこに、『住職の日沢義孝』氏の話として、蟹を本尊とする寺院は日本に三寺あり、『京都・木津川の蟹満寺』、『岐阜県可児(かに)郡御嵩(みたか)町の願興寺』と、この保蟹寺とあり(その前の二つの縁起も記載されてある)、以下、『『昔々、この村に疫病がものすごく流行った』ということが言われています。『その疫病でバタバタ、バタバタ・・』というと極端ですけれど、亡くなる人が多くて、村人が非常に困っていたような物語があります』。『そうしたところがね、うちの方のこの保蟹寺の下の方に巴川っていう川が流れているんですけれども、今は改修されて立派な巴川ですけど、その頃の巴川というのは、うねうねと蛇行した巴川』(先行する「幽靈火」で既出既注)『なんですが、その巴川へ、蟹に乗った何かが流れてきたというのを見つけたんですよね』。『それが、いわゆる蟹薬師さんだったんです。そして、薬師さんに陸へ上がってもらって、そこへお堂を建てたんでしょうね。だから、その近くにね、大内地区なんですけど、『薬師堂』という地名が今も残っております。薬師堂へいわゆるお堂をつくってお祀りしたんじゃないですかね』。『その薬師さんを、このお寺の裏に来ていただいて、『薬師平(やくしだいら)』というその地名もこのお寺の裏にあるんです。ある程度の名跡のある平(たいら)がありまして、そこのことを未だに『薬師平、薬師平』と呼んでおります』。『それからここへ下りてきたという風に世の中では言われています、現在のお寺のあるところへ。それがこの保蟹寺の謂れなんです』。『ここの開基』『さんというのは、名前で言うと設楽四郎左衛門(したらしろうざえもん)っていう人が』、『この保蟹寺の開基さんということになっているんです』。この寺の『横に川が、沢が流れておりますけれど、その川を『薬師沢(やくしざわ)』というんです。今は改修されてコンクリになっちゃいましたので、蟹はいませんけれども、その昔の川の時代は、蟹がたくさんいたんですね。このお寺の関係する、『この薬師沢の蟹はとってはいけない、とって食べてはいけない』という、私たちが子供のころからそういう風に言われていますね』。『とにかくここは、『保蟹寺』、名前の示す通りに、蟹に関係したお寺さんなんです』。『本尊さんが乗っておりますが、普通の蟹ですよ、この、何というか』、『足』、『広げた』『その上へ立っているんですよ。台というか、蟹の上へ本当に立っている、そういうお薬師さんです』。『いわゆるお薬師さんというと、お医者さんの関係ですから、いろいろ健康を願ってお参りに来る人たちも、ここにはおるんですけれど、そういう謂れのあるお寺でございます』。『本尊さんですから、写真もありますけれどね』(写真有り)、『小さいんですよ、本尊さんといって祀ってあるのは。30センチないかな、それぐらいのもんですよ。立っている仏さんなんです。蟹の上へこう直立に立っている、そういう仏さんです。それが乗るようになった蟹が、蟹もちゃんと台座があるんです。両方に足を広げた蟹ですよ、そういう形ですね』とあって、次の「2.保蟹寺(ほうかいじ)由緒」に、『保蟹寺由緒』の原文が載る(「高部村誌」からの引用)。
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保蟹寺由緒
大内村 字寺の前にあり。当寺は安倍郡桂山村長光寺末にして、曹洞宗なり。境内広く889坪ありて、なお境外反別1町4反5畝25歩半を有せり。本堂大にして(間口9間半・奥行6間半)。その中に、本尊蟹薬師如来を安置せらる。その由緒左の如し。
当寺開基は人皇52代桓武天皇5世の孫 平親王将門の後裔 設楽四郎左衛門なり。初め永禄年中三河国設楽郡設楽村より、本国庵原郡大内村へ来たりて居住す。後慶長12丁未年に至り四郎左衛門、わが地内なる字富東と言う所に1つの庵室を造営し知識を請し、以て村民教化の道場を開かんと欲し、既に土工を起こさんとするの際、折節遠江国より関山派の僧介翁長老来たりて、四郎左衛門と共に尽力して、同年4月1宇を建立す。是に於いて介翁長老四郎左衛門の請に応じ直ちに入院す。これを創立開祖とす。
時に本尊未だ定まらず。この時村民の言えらく『村内北街道の側に蟹薬師あり、これは行基菩薩の正作にして、普く世間に利益を施し恭敬信仰するもの少なからず、然りといえども道路辺鄙にして、只農民のみ終日糞桶を担い、或いはその臭気の甚だしきより、遂に、その尊像の威を汚さんことを恐る。故に以前さらに位置を改め、村の東北隅字富東と言う所の山上に移して信仰すること今に然り。又是の山たる今は四郎左衛門の所有地なり。然れば今これを該寺の本尊と称し供養せば、村内安全の基たらん』と是に於いて四郎左衛門、介翁長老に請い右薬師如来を安置して、本尊と称し、改めて保蟹寺と号す。この因縁を以て旧安置したる所の字を薬師堂、又薬師平と称す。後、元和3巳年10月17日、四郎左衛門75才にして卒す。法名保蟹寺殿茂林祐繁居士と称す。介翁長老遷化の後、祖鯨長老。宗的長老相次いで入院す。この2代の中久しく衰頽に及びしか。承応年間に至り、当国安倍郡桂山村長光寺より名翁和尚入院し、絶えたるを継ぎ法門を挙揚し、始めて寺を法地と改む。是を法地開闢開山とす。その後数代を経、延享2年に至り堂宇悉く大破、5代当儀和尚その凋弊を憂い、十方檀越を化し、以て同年8月堂宇再建す。右開闢より歴世今日に至り10有2代、従前は御綸旨拝戴色衣着用の寺格なり。創立今明治17年に至り星霜を経ること278年なり。境内竹木左の通り。
目通り 9尺以上 樅1本
同 4尺以上 槙1本
同 3尺以上 杉6本
竹林 50本
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とあった。以下、本文に割注で出る「天桂山長光寺」(てんけいざんちょうこうじ)の詳細な解説が載るので見られたい。而して、さらに次の記事、「3.蟹の上に乗った薬師如来像を拝見して」があって、記事を書かれた方が、実際に見(写真有り)、また、住職と会話した記事が続く。そちらは、御自身で見られたい。
「駿州古跡畧」何度か出たが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けると、本「駿國雜志」、及び、静岡の地誌書等に三十四件ヒットするが、当該書自体はネット検索でも見当たらない。
「巡村記」再三、出るが、不詳。]