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2025/04/24

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「毒龍受牲」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]

 

 「毒龍受牲《どくりゆう いけにへを うく》」  富士郡□□村[やぶちゃん注:底本では、二字分の長方形。]砂山の下、「牲淵《いけにへぶち》」にあり。里人云《いふ》。

「牲川は、吉田、依田橋川の下流にて、海渚《うみのなぎさ》に近し。又、うるゐ河、吉原川、三《みつ》の流《ながれ》、落《おち》て湊《みなと》となり、川船も往來す。牲淵は吉原砂山の西の方也。此砂山を天の香久山《あまのかぐやま》共《とも》云《いへ》り。吉原川は柏橋と云《いふ》。此川下、三俣と云《いふ》深き淵あり。

 むかし、此河の淵に毒龍ありて、洪水をなし、此鄕民のうちより、少女一人をとりて、牲に備ふ。

 或時、富士の麓、傳法村□□[やぶちゃん注:同前。]山保壽寺【曹】開山・芝源和尙、此事を歎き、牲を備ふるころ、和尙。彼《かの》淵に望み、咒《じゆ》を誦《じゆ》して敎化《きやうげ》し、毒龍の邪害《じやがい》をいましめけり。其夜、美女一人、和尙の許《もと》に來り、

「我は牲川の龍女なり。鄕民を害する事を止む。此後《こののち》は、每年、我を祭《まつり》て誦經し、食物を供せよ。」

と。

 和尙、聞《きき》て、

「善哉《よきかな》、汝、暴惡をひるがへし、善心におもむく。必《かならず》、佛果得脫せん。汝、我を欺《あざむか》ずんば、一《ひとつ》のしるしを殘して、誓《ちかひ》をなせ。」

と。

 時に、龍女、みどりの鱗《うろこ》三箇を殘して去《さり》けり。

 夫《それ》より、此村鄕、洪水の災《わざはひ》なく、牲も止《やみ》ぬ。

 其龍鱗《りゆうりん》、今に、此寺の什物《じふもつ》として、あり。是より、今に至《いたり》て、保壽寺の住僧、每年六月二十八日、此牲川の淵に望み、誦經、供養して供物を備ふ。云云」。

 事は當寺緣起に詳《つまびらか》也【或《あるいは》云《いふ》、「天香久山の麓に、牲池と云《いふ》淵あり。川上は陽明寺より流《ながれ》て、驛道《えきみち》に至る。橋あり、川井橋と云。是《これ》牲川也。云云」。】。

 又、云。

「下總國下河邊庄、古河《こが》より都へ登る「あち」と云《いふ》女《をんな》あり。此宿に泊りけるを、土民、捕へて、牲にせんとす。此事、遠く叡聞に達しけるに、敕命、有《あり》て、牲をとヾめ玉ふ。故に止みけり。云云」。

 又云、

「尾州熱田に住《すめ》る采女《うねめ》と云《いふ》女、貧にして、父母の爲に、其身、財にかへ、此《この》牲となる。時に、天神、彼《かの》采女が孝心を感じ、其身も障《さはり》なく、毒龍をも、失ひ玉ふ。今此川下にある社《やしろ》も、彼女を後に祭る所也。云云」。

 此說、種々あり、何れか是ならん。

 

[やぶちゃん注:まず、ウィキに「三股淵」(みつまたふち)がある。いろいろ書かれてあるが、この本文の伝承、及び、ロケーションとして重要な箇所と思われる部分を引くと(注記号はカットした)、『静岡県富士市に位置する和田川(生贄川)と沼川の合流地点を指す歴史的地名である』。『三股淵は他に「牲淵」「贄淵」「富士の御池」「牲池」「牲渕」「三ッ又」といった表記・呼称がある。三股淵は民間伝承の地であり、大蛇が住んでいるとされた場所で、大蛇に生贄(女子)を捧げる人身御供譚が伝わっている。特徴として、在地の者ではなく』、『旅人が生贄の対象となっている点が挙げられる』。『多くの地誌で言及されている他、歴史の中で能〈生贄〉といった三股淵を舞台とした芸能作品も成立した』。『この三股淵の伝承は主に民俗学の分野で研究対象とされてきた。古くは柳田國男が』明治四四(一九一一)『年の論考の中で能〈生贄〉と六王子神社に触れ、また』昭和二(一九二七)『年の論考にて』、『やはり』、『能〈生贄〉に言及しており、人身御供の考察の中で引き合いに出されている』。『阿字(阿兒)という少女が三股淵の大蛇に捧げる生贄となる伝承が様々な史料に伝わっている。各史料により異同があるが、大筋では共通している』(ここの『→詳細は「阿字神社」を参照』とある)。『例えば』、『駿河国の地誌である『駿河記』には以下のようにある』。『巫女六人、官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす。(中略)其婢阿字と云女これを嘆、里人に暫の暇を乞て皇都に至り、其由を朝に聞す。(中略)これより後永く生贄を取ることを止みぬ。依て里人其得を貴び功を追て、六人の巫女を神に斎祭る』(以上は『『駿河記』巻二十四富士郡巻之一「柏原新田」』に拠る)。『このように、柏原新田の里人が巫女を捕らえ生贄に備えるといった内容が記されている。この場合、阿字は巫女の下女としての立場である。また『田子の古道』には以下のようにある』。『三つ又、皆川上瀬となり水の巻め深き事を知らず。広き淵となりて悪れい住み、年々所の祭りとして人身御供を供えて生贄の□と富士の池と作りこの□の祝言に大日本国駿州富士郡下方の庄鱗蛇の御池にして、生贄の少女を備え、それを奉り作る(中略)又、一説に関東の御神子京都へ七人連れにて登る(中略)七人の神子の内、若き輩なるおあじという神子、御鬮取り当たり人身御供になる。残る六人の神子これより関東に引き帰るとて、柏原村まで来て所詮生きて帰る事を恥じて浮島の池へ身をなげ(中略)その翌日生贄に供えられたるおあじ、富士浅間の神力にて毒蛇しずまる(中略)この六人の事聞きて、これも同身をなげ死す。その時、見付老人この事を聞きて、その神子故に毒蛇しずまり、今よりして所の氏神と祭る。柏原新田、六の神子というこれなり』。(以上は『『田子の古道』天保』一五(一八四四)年『書写「野口脇本陣本」』に拠る)。『この場合、阿字は神子である。神子を氏神として祭った「見付(の)老人」の「見付」は現在の富士市鈴川一帯のことで阿字神社の鎮座地であり、また「柏原新田、六の神子というこれなり」とあるのは六王子神社のことである』(ここに『→詳細は「六王子神社」を参照』とある)。『江戸時代の「駿河国富士山絵図」によると、阿字神社付近を指す地名として「字 生贄」とある』。『三股淵には龍女にまつわる伝承もあり、『駿国雑志』等に記される』(本書のこと)。『あらすじは以下のようなものである』。『あるとき伝法村』『の保寿寺の芝源和尚は、三股淵に毒龍がおり』、『洪水を引き起こし』、『生贄を求めるなどしていたと聞き及んだ。芝源は民を守るため、三股淵で読経しこれを鎮めようとする。その夜、芝源の元に美女が現れ、「我は牲川の龍女なり」と述べる。龍女は続いて、毎年祭りを行い』、『読経し』、『食物を供奉すれば、厄災をもたらさないと述べる。芝源が誓いを求めると、龍女は「みどりの鱗三箇」を残して去った。それより洪水と生贄は止んだという』。『この伝承は保寿寺』(注釈に『『田子の古道』「野口脇本陣本」に「この寺所替して、伝法村の地へ上る。寺跡(中略)五輪石仏捨て残りありて、ここを仏原村という」とある。保寿寺が伝法村に所替し、五輪・石仏が残された寺跡は「仏原村」と呼ばれたとある』とあった)『に伝わる元禄』一五(一七〇二)年『の奥書を持つ縁起書にも記されている他、『田子の古道』に「蛇の鱗、厚原保寿寺の什物となりてあり」とある。同寺の口碑によると、この三股淵の毒龍調伏は徳川家康の命によるものであり、天正』十五(一五八七)年六『月のことであるという』。『津村淙庵『譚海』』(寛政七(一七九五)年跋)『には以下のようにある』として記すが、私は「譚海」を全文電子化注しているので、「譚海 卷之十 駿州富士郡法華寺の住持浮島ケ原いけにゑにて每年七月法事ある事」を見られたい。『また、この功により、家康の命で相模国鎌倉郡海宝院の住寺として之源が召呼されたという』。文化九(一八一二)年『の奥書を持つ相模国の地誌『三浦古尋録』には以下のようにある』。『東照宮ノ御差図ヲ以テ駿州保寿寺ノ之源和尚ヲ住持二召呼シ此寺建立有(中略)此和尚保寿住職ノ節富士川ノ大蛇ヲ化度致サレシヨシ故二保寿寺ノ宝物二大蛇ノ鱗幷蛇牙有ト云』(出典は『『三浦古尋録』中巻「沼間村」』とする)。『このように相模国側の伝承においても、大蛇(龍女)の鱗は保寿寺の宝物とある。また龍女の鱗は保寿寺に』七『片納められており、之源が海宝院の住寺となる際には村民より得た鱗』二『片を持参してきたというが、海宝院のものは伽藍焼失の際に失却したと伝わる。保寿寺の鱗』七『片については、現在も宝物として管理されている』。『三股淵は牲淵と呼称され、また吉原驛や青嶋の地一帯が「生贄郷(池贄)」と称されていたことから、『日本書紀』安閑天皇』二『年』五『月』九『日』の『条に見える「駿河国の稚贄屯倉」との関係性を指摘するものがある。稚贄が転じて生贄となったとして、鈴川(元吉原)を稚贄屯倉の所在地に比定する説がある』とあった。

「依田橋」は現在の静岡県富士市依田橋町(よだばしちょう:グーグル・マップ・データ)であり、ここの西橋を流れる川が、この「牲川」、現在の「和田川」である(「川の名前を調べる地図」)。而して、この地図を拡大すると、田子の浦湾に流れ込む河川名が、本文に出る川名が、悉く、一致するのである。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図を掲げておく。田子の浦港が開拓される以前の原形がよくわかり、ロケーションの附近には、四つの川が合流して、海に流れ込むが、最終的な河口には、東から流れてくる「沼川」(途中で「瀧川」が合流している)の名が示されており、これが主流河川名であったことが判明する。これだけの川が合流する、河口から少し上の附近は、洪水や河川氾濫が起こり易い地形であり、旧和田川交流地点辺りは、まさに「龍」が住む淵として、危険な地域であったことが明確に判るのである。

「保壽寺」富士市伝法ここに現存する。

「天香久山の麓に、牲池と淵あり」「ひなたGIS」の戦前の地図を拡大して見ると、まさに、このロケーションと思われる和田川が沼川に合流した直ぐ下流の右岸(西岸)に辺りに、池を確認出来た。

「陽明寺」不詳。

「川井橋と云。是牲川也」「ひなたGIS」で沼川の方に遡上すると、ここに、左右新旧図に「河合橋」を確認出来る。

「下總國下河邊庄、古河」八潮市立資料館のサイト「八潮の歴史文化ナビ」の「下河辺荘」(しもこうべのしょう)に、『江戸川西岸から古利根川東岸の地域に広がる荘園。その荘域は、八潮市域周辺にあり、幸手市・三郷市を含む埼玉県』『北葛飾郡のほぼ全域と越谷市・春日部市・旧岩槻市(現さいたま市岩槻区)などを含む南埼玉郡の一部、千葉県旧関宿町(現野田市)・野田市の一部、さらに茨城県旧総和町(現古河市)・五霞町及び古河市の一部などにまたがる極めて広大なものと推定される』(太字は私が附した)とあった。古河市はここ(グーグル・マップ・データ)。]

2025/04/22

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 桄榔子

 

Satouyasi

 

たかやさん   木名姑榔子木

        麪木 董椶

        䥫木

桄榔子

        俗云太加也左牟

クハン ラン ツウ

[やぶちゃん字注:木」は、「本草綱目」原本も、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版も、『鐵木』となっている。誤記か誤刻と思ったが、この「」は「テツ」で「かね」の意であるから、同義語と考え、そのままとした。

 

本綱桄榔子嶺南二廣州皆有之人家亦植之庭院閒其

木如棕櫚椰子檳榔無漏子而稍異大者四五圍髙五六

𠀋拱直無旁枝有節如竹紫黒色類花梨而多紋最堅重

刪利如鐵用作釤鋤代鎗鋒中濕更利惟中焦則易敗【物之

[やぶちゃん字注:「刪利」は意味に不審があったので、事前に「本草綱目」を見たところ、「剛利」の誤りであることが判明した。訓読文では訂した。

相伏如此】皮中有白粉似米粉及麥麪而赤黃色味甘大者至

數石彼土少穀常以牛酪食之其皮至柔堅靱可以作綆

其木巓頂生葉數十枚似棕櫚葉開花成穗結子綠色葉

下有鬚如粗馬尾采之以織巾子得鹹水浸卽粗脹而靭

人以縛海舶不用釘線

△按桄榔卽鐵樹也其橒色類花梨而堅以作噐或爲三

 絃棹及胴人以貴重之

 畫譜有鐵樹者其形狀與桄杭榔大異【出于喬木類】

 

   *

 

たがやさん   木を「姑榔子木《こらうしぼく》」と

        名づく。

        麪木《めんぼく》 董椶《とうそう》

        䥫木《てつぼく》

桄榔子

        俗、云ふ、「太加也左牟《たがやさん》」。

クハン ラン ツウ

 

「本綱」に曰はく、『桄榔子《くわうらうし》は嶺南≪の≫二廣州[やぶちゃん注:現在の広東・広西省。]に、皆、之れ、有り。人家にも亦、之れを庭院《ていゐん》の閒に植《うう》。其の木、棕櫚《しゆろ》・椰子(やしほ)・檳榔《びんらう》・無漏子《むろし》のごとくして、稍《やや》異《こと》なり。大なる者、四、五圍《まはり》、髙さ、五、六𠀋。≪手を≫拱《こまねく》≪きたる如く≫直《ちよく》にして、旁枝《ばうし》[やぶちゃん注:横に張り出す枝。]無く、節、有《あり》て、竹のごとし。紫黒色。花梨(くわりん)に類《るゐ》して[やぶちゃん注:似ていて。]、紋、多く、最も堅重≪にして≫、剛利《がうり》なること、鐵のごとし。用《もちひ》て、釤《サン/セン》[やぶちゃん注:長い柄の大きな鎌。]・鋤《シヨ/ジヨ/すき》を作り、鎗《やり》の鋒(ほさき)に代《か》ふ。濕《しつ》に中《あた》れば[やぶちゃん注:湿気を受けると。]、更に利(と)し。惟《ただし》、焦《しやう》[やぶちゃん注:火の気(け)。熱気。]に中《あた》れば、則《すなはち》、敗《くさり》易し【物の相伏《あひぶくすること》[やぶちゃん注:五行説に於ける相関関係を言う。]、此くのごとし。】。皮の中に、白≪き≫粉《こ》、有り。米の粉、及《および》、麥麪(むぎのこ)に似て、赤黃色。味、甘く、大なる者、數石《すこく》[やぶちゃん注:容積なら二百リットル。重量なら七十・八キロ。]に至る。彼《か》の土《ど》に、穀《こく》、少《すくな》し。常に牛酪《ぎうらく》を以《もつて》、之れを、食ふ。其の皮、至《いたつ》て柔《やはらか》なり。≪又、皮の質は≫堅く、靱《しなやか》≪に≫て、以《もつて》、綆《つるべなは》を作るべし。其の木の巓-頂(いたゞき)に、葉を生ず。數十枚。棕櫚《しゆろ》の葉に似て、花を開き、穗を成し、子《み》を結ぶ。綠色≪の≫葉の下に、鬚《ひげ》、有り、粗(ふと)き馬の尾《を》に《✕→の》ごとし。之れを采《とり》て、以《もつて》、巾-子《ぬの》を織《お》る。鹹水《えんすい》を得て、浸(ひた)せば、卽《すなはち》、粗《ふとく》、脹(ふく)れて、靭(しな)へる。人、以《もつて》、海舶《かいはく》を縛(くゝ)りて、釘-線(かすがい)を用い[やぶちゃん注:ママ。]ず。』≪と≫。

△按ずるに、桄榔は、卽ち、鐵樹《てつじゆ》なり。其の橒(もく《め》)・色、「花梨(くはりん)」に類《るゐ》して、堅《かたく》、以《もつて》、噐《うつは》を作《つくり》、或《あるい》は、三絃(さみせん)の棹、及《および》、胴と爲《なす》。人、以《もつて》、之れを貴重す。

 「畫譜」に『鐵樹』と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、有り。其の形狀、桄榔と大《おほい》に異なれり【「喬木類」に出づ。】。

 

[やぶちゃん注:これは、

〇単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科クロツグ(中文名桄榔桄榔子)属サトウヤシ Arenga pinnata(シノニム:Arenga saccharifera

である。和名に「たがやさん」としてあるが、良安が指摘している通り、

✕双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科センナ属タガヤサン Senna siamea

とは、全く異なる別種である。良安が指示する通り、既に先行する『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 鐵刀木』に出ているのが、真正の「タガヤサン」である。

ウィキの「サトウヤシ」を引く(注記号はカットした)。『サトウヤシ』『は、インド東部からマレーシア、インドネシア、フィリピン東部までの熱帯アジアを原産地とするヤシ科クロツグ属のヤシで、経済的に重要な作物となっている。サトウヤシのほかアレン・パーム、カオン・パームなどとも呼ばれる』(同英文ウィキには、“sugar palm, areng palm (also aren palm or arengga palm), black sugar palm, and kaong palm,”とある)。『中型のヤシで、樹高は』二十『メートルほどになる。幹は古い葉の葉柄で覆われる。葉は長さ』六~十二『メートル、幅』一・五『メートルの羽状葉で、羽片は』一~六『列で長さ』四十~七十『センチメートル、幅』五『センチメートルほどである。果実は類球形で直径』七『センチメートルほど。未熟果では緑色だが、熟すにつれて』、『黒となる』。『絶滅危惧種にはなっていないが、分布域の一部ではまれにしか見られなくなっているところもある。クモネズミ』(齧歯(ネズミ)目ネズミ亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科ネズミ亜科ネズミ亜族PhloeomyiniBatomys Carpomys Crateromys Musseromys Phloeomys の五属があり、種数は二十一種。総てフィリピンの雲霧林帯に固有の種群で、樹上性・夜行性の草食齧歯動物群である。ここは英文の当該族の解説“Cloud rat”に拠った)『など、絶滅危惧種となっている動物の中にはサトウヤシを主な食餌としているものもある』。『東南アジアでは砂糖を得るために商業的に栽培され、サトウヤシから作った砂糖はインドではグル (gur)、インドネシアではグラ・アレン (gula aren) と呼ばれる。インドネシアでは樹液を使ったラハン』(lahang)『という冷たい甘味飲料が飲まれている他、樹液を発酵させて酢(フィリピンのスカン・カオン』(sukang kaong)『)やヤシ酒(フィリピンのトゥバ』(tubâ)『、マレーシアおよびインドネシアのトゥアク』(tuak)『)を作る』。『新鮮な樹液から砂糖(赤糖)を取る際には、発酵を防ぐために砕いた唐辛子あるいはショウガを採集容器に入れる。採集した樹液を煮詰めて濃厚なシロップを作り、乾燥して黒糖を得る。タラバヤシ』(或いは「グバンヤシ」で、ヤシ科 コリファ(コーリバヤシ)属 Corypha utan )『など他のヤシからも同じ方法で砂糖が得られる』。『生の果汁と果肉には腐食性がある。樹液に糖分が豊富な一方、地中深くに根を張るため急斜面にも植えることができるうえ干ばつにも耐え、肥料も不要なことから、樹液をバイオエタノールの原料とすることで森林保護と燃料生産を両立できる作物として有望視されている』。『未熟な果物はフィリピンやインドネシアで食用とされ、それぞれカオン(kaong)およびブア・コラン・カリン(buah kolang-kaling)またはブア・タップ (buah tap)と呼ばれる。砂糖シロップで煮たものを缶詰とする』。『黒っぽい繊維質の樹皮はインドでドー(doh)、インドネシアでイジュク(ijuk)、フィリピンでユモット(yumot)あるいはカボ・ネグロ(Cabo negro)と呼ばれ、紐にしたり』、『ブラシやほうきを作るほか、屋根葺き材などにする』。『ボロブドゥールなどのジャワ地方の古い寺院のレリーフに関する研究から、古代ジャワの土着建築では屋根をサトウヤシの樹皮で葺いていたことが分かっている。これは現在でもバリの寺院やミナンカバウ人の伝統家屋であるルマ・ガダン、あるいはパガルユン宮殿にみられるゴンジョン』『という水牛の角を模した尖塔をもつ建物にみられる』。『葉や中肋は編籠などを作るのに使われる他、家具類の寄木細工にも用いられる』。『インドネシアではサトウヤシからデンプンを取り、米粉の代わりとして麺類やケーキなどの料理に用いる』。『フィリピンのカヴィテ州インダンは同国屈指のサトウヤシの産地で、サトウヤシ酢やトゥバの主産地になっており、毎年イロック祭を行っている。このイロック(Irok)とは、フィリピン北西部でサトウヤシを指す言葉である』。『スンダ列島の伝承によれば、サトウヤシにはウェウェ・ゴンベル(Wewe Gombel)という妖精がおり、そこでさらってきた子供たちを養っているのだという』とあった。こういった最後の民俗伝承の記載は、非常に大切である。

 なお、引用は「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「桄榔子」([077-24b]以下)のパッチワークである。

「棕櫚《しゆろ》」先行する「卷第八十三 喬木類 椶櫚」を参照されたい。

「椰子(やしほ)」先行する「卷第八十八 夷果類 椰子」を参照されたい。

「檳榔《びんらう》」先行する「第八十八 夷果類 檳榔子」を参照されたい。

「無漏子《むろし》」先行する「卷第八十八 夷果類 無漏子」を参照されたい。

「桄榔は、卽ち、鐵樹《てつじゆ》なり」良安が、サトウヤシを知っていたとは、到底、思われない。異名に「䥫木」=「鐵木」があるから、良安は本邦で「鐵」の字がつく「樹」である「鉄楓」を、それと同種であると勘違いしたのではないか?

バラ亜綱ムクロジ目ムクロジ科カエデ属テツカエデ  Acer nipponicum

で、小学館「日本国語大辞典」の「てつかえで【鉄楓】」によれば、『カエデ科の落葉高木。本州の東北地方、四国・九州の山地に生える。高さ約五メートル。若枝には赤褐色の細毛がある。葉は太い柄を』持ち、『対生する。葉身は』、『ほぼ五角形で幅約』十五『センチメートル。浅く五裂し、重鋸歯』『があり、基部は心臓形。六~七月、枝先に長さ』十『センチメートルぐらいの細い円錐花序を直立し、径三~四ミリメートルの黄白色の五弁花を密につける。果実の翼は』、『ほぼ直角に開く。材は黒みを帯び』、『家具・細工物に利用。てつのき。』とある。当該ウィキによれば、『日本固有種』で、『本州の岩手県・秋田県以南、四国および九州に分布し、寒冷な山地の沢沿いから山地中腹に生育する』。『珍しいカエデで、雪が多い地方に生える』とある。但し、『三絃(さみせん)の棹、及、胴と爲。人、以、之れを貴重す』という用法は、ネット上では全く見当たらないので、これだとすると、その情報が現在の記事にないというのは、甚だ不審で、テツカエデであるとは、断定出来ない。しかし、黒みを帯びているというのは、三味線に使いたくなるものでは、あるな。

「花梨(くはりん)」これは――バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis ではない――ので、注意! 「どうして?」ってか? 良安はね、『世間が言っている「花梨」を「くはりん」(かりん)と読むのは誤りだ!』と言っているからなのである! 「どこでよ? じゃあ、何よ?」ってか? エラく困らせられた「卷第八十三 喬木類 華櫚木」を見て貰おうじゃねえか! これは――双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属ビルマカリン Pterocarpus macrocarpus ――なんだよ! ここでは成樹ではなく、木目と色のみを言っているのは、当時、中国経由で輸入された木材を彼が管見していることを意味するんだよ!

『「畫譜」に『鐵樹』と云ふ者、有り。其の形狀、桄榔と大に異なれり【「喬木類」に出づ。】』「畫譜」は東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とある。原画を見ることが出来ないので、何んとも言えない。]

2025/04/17

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「獵師殺鬼」

[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]

 

 「獵師殺鬼《りやうし おにを ころす》」  富士郡内野村足形【枝鄕《えだがう》也。】にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村に次兵衞と云《いふ》獵師あり。

 或夜、庚申待《かうしんまち》とて、內野に行《ゆく》途中、芝川の橋を過《よぎ》る時に、橋上に異形の鬼、立《たて》り。

 其名を問ふに、言《いは》ず。

 次兵衞、深く怪《あやしみ》て、携《たずさへ》る所の鐵炮に、鉄・銅の二たまを込《こめ》て、是をうつに、あやまたず、橋下《はしした》に打落《うちおと》して、家に歸れり。

 鬼、其夜、同郡人穴村《ひとあなむら》の□□山淸岸寺に徃《ゆき》て、住僧に疵藥《きずぐすり》をこへり。

 住僧、熖硝《えんしやう》を竹筒に入《いれ》、火繩を添《そへ》て與へて曰《いはく》、「是を富士の『三つ澤』と云《いふ》所に持行《もちゆき》て、此筒《このつつ》を疵に當《あて》て火を付《つけ》よ。速《すみやか》に愈《いえ》ん。」

と敎《をしへ》たり。

 鬼、欺《だまさ》れて、敎の如くす。

 時に火、疵より、腹中に發し、燒死す。云云」。

「今に鬼骨、此所《このところ》にあり。是より、此橋を「鬼橋《おにばし》」と唱へ、足形者《は》、節分に、豆蒔《まめまき》、せず。鬼打木《おにうちぎ》を出《いだ》さず。

次兵衞が子孫、七郞右衞門と號して、今にあり。云云」。

 

[やぶちゃん注:「内野村足形」現在の静岡県富士宮市内野足形(うつのあしがた:グーグル・マップ・データ)。グーグル・マップ・データ航空写真のここに今も「鬼橋」がある。左の「富士富士宮線の車道のある方が「新鬼橋」(ストリートビュー1)であり、その画像の向こう側に古い元の「鬼橋」があるのである。反対側から撮ったここにその橋にある「鬼橋」の文字を確認出来る(ストリートビュー2)。静岡新聞社の「SBS NES」の『「節分に豆まき…知らなかった」富士山麓に“鬼がいない村” 爆破した⁉から「退治いらない」』の動画附きの記事が、非常によい! 何んと!この橋下には「鬼の足形」とされる岩の凹みがあるのである(動画にもあり。まあ、甌穴ではある)。是非見られたい。実際に、この「足形」地区では、「鬼がいない」から、今も! 節分をしないのである!!!

「庚申待」ウィキの「青面金剛」をもとにしつつ、庚申信仰を概説しておくと、『インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる』。この「三尸」とは道教に由来する人間の体内に潜んでいるとする上尸・中尸・下尸の三匹の虫。これら三匹が六十日に一度巡って来る庚申(かのえさる/こうしん)の日、人が眠りに就くのを見計らって人の体内から抜け出し、天帝にその宿主である人物が六十日の間に成した悪業を総て報告し、その人の寿命を縮めると言い伝えられた(本来の道教には地獄思想はなく、その代わりに悪事を働くとその分プラグマティクに寿命が縮まると考えるのである)ことから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と呼んだ。参考にしたウィキの「三尸」によれば、『日本では平安時代に貴族の間で始まり』、一人では睡魔を堪えるのが難しいなどというのを口実として、村落や町単位で集団でこれを行うことを主目的とした庚申講が江戸時代におおいに盛んとなり、『会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまっ』て、夜通し酒宴を行うという庶民の一大イベントとともなったのであった。

「同郡人穴村」富士宮市人穴(グーグル・マップ・データ)。

「□□山淸岸寺」この寺は現存しないが、先の動画によれば、その跡地とされるものが現存するとあり、その場所も映る。

「富士の『三つ澤』」二つ、考えた。一つは、文字通り「三ッ澤」で、現在の富士市三沢(みつざわ)。「ひなたGIS」でここ。しかし、ここだと、再び、鬼形を経由して行くのが、どうも気になった。そこで、富士宮市で探してみたところ、富士宮市市街から南西位置の富士宮市大鹿窪に三沢寺(さんたくじ:寺名だが、「ひなたGIS」の戦前の地図では地名で出る)とあり、同じくその南東に「三澤」の小字名らしきものが、確認出来た。後者としたい気もするのだが、本文では明らかに「みつざは」で、「富士の」とあるわけで、ちょっと迷うものの、前者に同定しておく。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「大宮神木發煙」

[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。読点・記号を一部に打った。]

 

 「大宮神木發煙」  富士郡富士山大宮淺間《ふじさんおおみやせんげん》境內にあり。傳云《つたへいふ》、「天正七年春、富士大宮の神木老杉《おいすぎ》の梢より、煙立《けふりたつ》事、連日にして止《やま》ず。武田四郞勝賴、吉田守警齋《よしだしゆけいさい》を呼《よび》て、吉凶を占はしむ。守警齋、『不吉。』の由を述《のべ》て、いましむ。勝賴、聞《きか》ず。人、以て、武田家滅亡の前表《ぜんへう》とす。」

 

[やぶちゃん注:このシークエンスは、pip-erekiban氏のブログ「武田勝頼激闘録」の「甲相手切(六)」から、次の「湖畔の巨城(一)」に詳しい。

「富士山大宮淺間」現在の富士山本宮浅間大社の起源となる山宮淺間神社(やまみやせんげんじんじゃ:グーグル・マップ・データ)であろう。富士宮市観光協会公式サイト内のここによれば、一九〇〇『年以上の歴史を誇り、富士山をご神体として祀っています。社殿が存在せず、遙拝所から富士山を臨む参拝形式で、古の富士山信仰を今に伝える神社です。日本武命により』、『この地に移されたともいわれています』とある。

「天正七年」一五七九年。

「吉田守警齋」国立国会図書館デジタルコレクションの『日本秀歌 十二』の「戦国武将歌」(川田順・昭和三二(一九五七)年春秋社刊)のここに、『易の博士とのみ、他は不明』とある。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「雨灰」

[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。読点を一部に打った。]

 

        富  士  郡

 「雨灰」  富士郡《ふじのこほり》富士山下にあり。「續日本紀」云《いはく》、『光仁天皇天應元年秋七月癸亥《みづのとゐ》、駿河國言《まう》、富士山(フモト)、雨(フレ)リㇾ灰之所ㇾ及、木葉、彫萎《ほれ しぼむ》。云云。

 

[やぶちゃん注:「富士郡」当該ウィキによれば、『富士山の名は富士郡から来るという平安前期』九『世紀の詩がある』。『富士郡は歴史的に潤井川』(うるいがわ:ここ。グーグル・マップ・データ)『右岸の富士上方』『と潤井川左岸の富士下方』『とに分けられていた。富士郡の、特に富士上方と称された地域を富士氏が長きにわたって支配し続けていた。また、室町時代後期に今川氏親を後見した伊勢盛時(北条早雲)は富士下方を与えられたが、後に盛時が伊豆国を得て子孫が今川氏より自立して北条氏と称すると、この地域の支配権を巡って今川氏と北条氏の争いの一因となった』とある。

「光仁天皇天應元年秋七月癸亥」七月六日。ユリウス暦七八一年七月三十一日。グレゴリオ暦換算八月四日。これは、恐らく、公式の記録に載る、富士山の小噴火(降灰のみ)を記す最古の記録のようである。

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 無漏子

 

Natumeyasi

 

むろし     千年棗 海棗

        萬歲棗 畨棗

        波斯棗 金果

無漏子

        樹名鳳尾蕉

ウヽ レ゚ウ ツウ 又名海㯶

 

本綱無漏子生波斯國今嶺南皆有之其木無旁枝直聳

三四𠀋至巓四向共生十餘枝葉如鳳尾亦如㯶櫚皮如

龍鱗二月開花狀如蕉花有兩脚漸漸開罅中有十餘房

子長二寸黃白色狀如棗而大六七月熟則黒色味甘如

飴伹五三年一着子其子【甘溫】補中益氣令人肥健

 

   *

 

むろし     千年棗《せんねんさう》 海棗

        萬歲棗 畨棗《ばんさう》

        波斯棗《はしさう》 金果

無漏子

        樹を「鳳尾蕉《ほうびしやう》」と名づく。

ウヽ レ゚ウ ツウ 又、「海㯶《かいそう》」と名づく。

 

「本綱」に曰はく、『無漏子は、波斯國(ハルシヤ)に生ず。今、嶺南[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]に、皆、之れ、有り。其の木、旁枝《ばうし》[やぶちゃん注:横向きに生える枝。]、無く、直《ちよく》に聳《そびえ》、三、四𠀋。巓《いただき》に至《いたり》て、四(《よ》も)に向《むき》、共に生ずること、十餘枝。葉は、鳳≪の≫尾のごとく、亦、㯶櫚《しゆろ》のごとし。皮は、龍≪の≫鱗のごとし。二月、花を開く。狀《かたち》、蕉《しやう》[やぶちゃん注:芭蕉。単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo 。]の花のごとく、兩脚、有《あり》て、漸漸に開く。罅(ひゞ)の中に、十餘房、有り。子《み》の長さ、二寸。黃白色。狀、棗《なつめ》のごとくにして、大なり。六、七月、熟して、則《すなはち》、黒色≪たり≫。味、甘《あまく》、飴のごとし。伹《ただし》、五、三年に一たび、子を着く。其の子【甘、溫。】、中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方の「脾胃」。]を補《ほし》、氣を益し、人をして肥健ならしむ。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera

である。「維基百科」の同種のページ「椰枣」(「」は「棗」の簡体字)の、別名の記載の中に「无漏子」(「无」は「無」の簡体字)とある。そこには、他に(簡体字を正字化して示す)「棗樹・海棗・棕棗・波斯棗・伊拉克蜜棗」(「伊拉克」は国名の「イラク」の漢名)「・無漏子・番棗」(標題下の「棗」と同字)「・海棕」(「棕」は「棕櫚」と同義)・仙棗」とあるので、種同定は完璧である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。一部を示さずに省略した。一部で他のウィキのリンクを張った)。『ナツメヤシ(棗椰子』『)は、ヤシ科に属する常緑の高木である。ナツメヤシの果実はデーツ(Date)と呼ばれ、北アフリカや中東では主要な食品の一つであり、ナツメヤシが広く栽培されている。デーツは乾燥させて保存食にできる』。『ナツメ』(双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis 『と名前や果実が似ているが』、全く縁のない『別種である』。『ナツメヤシは非常に古くから栽培されているため、本来の分布がどうであったかは定かではない。北アフリカか西南アジアのペルシャ湾沿岸が原産』(☜)『と考えられている』。『耐寒性は低いものの、乾燥には比較的強い。雌雄異株。樹高は』十五~二十五『メートル』『で、単独で生長することもあるが、場合によっては同じ根から数本の幹が生え群生する。幹は強靱であるが、植物学的には茎が完全に木質化していないので木本ではないという人もいる。幹の表面は古い葉柄の基部で覆われている。茎の頂部から長さ』五メートル『にもなる葉が』二十~三十『枚ほど出ている』。『葉は羽状で、長い葉柄は』三メートル『に達する。葉柄には棘が存在し、長さ』三十センチメートル、『幅』二センチメートル『ほどの小葉が』百五十『枚ほど付く。実生』五『年目くらいから実をつけ始める。樹の寿命は約』百『年程が普通であるものの、場合によっては樹齢』二百『年に達することもある。真夏の乾燥した大地でも、地下水や灌漑によって水を供給していれば』、百五十『年は生育することができる』。『雌雄異株であり、雄株の花粉が雌株の雌蕊に受粉すると、果実(デーツ)が実る。栽培ナツメヤシでは、風媒や虫媒に任せず、人力によって人工授粉が行われる』。『メソポタミアや古代エジプトでは紀元前』六『千年紀には既にナツメヤシの栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前』四『千年紀に栽培されていたことを示す考古学的証拠も存在する。例えば、ウルの遺跡(紀元前』四千五百『年代』~『紀元前』四百『年代)からは、ナツメヤシの種が出土している。シュメールでは「農民の木」とも呼ばれ、ハンムラビ法典にもナツメヤシの果樹園に関する条文がある。アッシリアの王宮建築の石材に刻まれたレリーフに、ナツメヤシの人工授粉と考えられる場面が刻まれていることはよく知られている』(グーグル画像検索「アッシリア 王宮 レリーフ ナツメヤシ」をリンクさせておく)。『紀元前』千『年ごろの古代ヘブライ語の文献、古代エジプトのパピルスにもナツメヤシは登場する』。『ナツメヤシはギルガメシュ叙事詩やクルアーンにも頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであると言われる。クルアーン第』十九『章「マルヤム」には、マルヤム(聖母マリア)がナツメヤシの木の下でイーサー(イエス)を産み落としたという記述がある。アラブ人の伝承では大天使ジブリール(ガブリエル)が楽園でアダムに「汝と同じ物質より創造されたこの木の実を食べよ」と教えたとされる。またムスリムの間では、ナツメヤシの実は預言者ムハンマドが好んだ食べ物の一つであると広く信じられている』。『なお、日本の文献において、聖書やヨーロッパの文献に登場するナツメヤシは、シュロ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus )『以外のヤシ科の植物が一般的ではなかった日本で紹介された時に、しばしば「シュロ」や「棕櫚」と誤訳されている』。二〇〇五『年、イスラエルの死海近くにあるマサダ城址から出土したナツメヤシの種子は、炭素年代測定によって約』二千『年前のものであることがわかった。少量の水とホルモン処理によって』、『この種子の一つが発芽に成功し、実生の雄株が古代イスラエル時代のナツメヤシの唯一の生きた標本だと考えられている。このナツメヤシの木はメトセラと名付けられ、ネゲブ砂漠のキブツに植えられた』。『ナツメヤシの木はアラブ世界の文化における重要なアイテムであるため』、二〇一九年と二〇二二『年に「ナツメヤシの知識、技能、伝統と慣習」はUNESCOの無形文化遺産に登録された』。『ナツメヤシの果実はデーツとよばれ、中東地域のあらゆる文化を象徴する果実であると同時に』三『分の』二『もの糖質を含む主食として多くの人々が砂漠で暮らすことを可能とし、歴史の流れを変えた。エジプトでは』千五百『万本ものナツメヤシが栽培され、毎年』百『万トン以上のデーツを生産しており、その内から輸出されているものは』三『%にすぎない』。『英語でナツメヤシの果実を指す「デーツ」の語源はギリシア語で「指」を意味する「ダクティロス(Dactylos)」であると言われているが、アラビア語の「ダカル(』ラテン文字転写(以下同じ:『daqal)」(ナツメヤシの』一『種)を含むセム諸語におけるデーツの実の呼称が由来であるとする民間語源的な説もある』。『ナツメヤシの果実はいくつもの品種があるほか、その熟度によっても区別がなされている。その代表例は以下の通りとなっている』。

・キムリー(kimrī)乃至はキームリー(kīmrī):(『デーツの実の成長期間の中でも最も長い日数を占める。まだ成長途中で緑色を帯び始めたもの』)

・ハラール(khalāl)乃至はハリール(khalīl):(『実が大きくなり』、『緑色が次第に黄色や赤を帯び始めたもの』)

・ルタブ(ruṭab):(『身の色が変化が進むとともに実の中の水分量が増し、熟して柔らかくなったもの』)

・タムル(tamr):(『完熟を迎え』、『水分が抜けて実が縮み、色もくすんだ暗い色に変わったもの』)

『ナツメヤシの果実は楕円球型をしており、短軸の直径が』二~三センチメートル、『長軸は』三~七センチメートル『程度である。この中に、長さ』二~二・五センチメートル『厚さ』六~八ミリメートル『程度の種子が』一『つだけ入っているのが本来の姿ながら、品種によっては種子の入っていないものもある。実が熟するまで少なくとも』六『か月を要する。熟すと、色は品種にもよるが』、『明るい赤から黄色になる。なお、デーツは保存のために乾燥させることもあるが、干すと濃褐色になる』。『デーツはグルコース、フルクトース、スクロースの含有量によって、ソフト、セミドライ、ドライの』三『種類に分類される。なお、約』四百『種の品種を持つデーツの中でも、イランの品種であるピアロム種』(Piarom)『が最高品種であると言われている』。『新鮮なデーツには豊富なビタミンCが含まれ』、百グラム『当たり』二百三十キロカロリー『ある。乾燥したものは』百グラム『当たり』三グラム『の食物繊維が含まれ』、二百七十キロカロリー『ある』。『デーツの』二〇〇四『年の全世界での生産量は』六百七十『万トンに達し、主な生産国はエジプト』・『イラン』・『サウジアラビア』『で』、四十一・五%を占める。『ナツメヤシは自然界では風によって受粉が行われ、自然に果実をつける。しかし、栽培農業としては完全に人工授粉を行う。この人工授粉の技術は古代アッシリアの時代から知られていたと考えられている。人工授粉することで』一『本の雄株から』五十『本の雌株に授粉でき、より多くの果実を生産できるようになる。雄株を全く栽培せずに、授粉の時期に雄花だけを市場で購入する生産者も存在する』。『受粉は労働者によって梯子の上で行われるが、現代では昇降機が使われている。古代アッシリアの彫刻には、雄花の房らしきものを雌花の房の上で振って花粉を振りかけている様子が刻まれている。単為結実する栽培品種も存在するが、種子のない果実は小さく、また品質も劣る』。『ナツメヤシの繁殖は、組織培養を行うか、根元周りに土を盛り上げて、出てきた根萌芽(ねほうが)を植え替えたりして行われる。これにより、実をつけない雄株の本数を最小限にし、多くの栽培品種をコントロールできるようにしている』。『デーツはイラクやアラブ諸国、西は北アフリカのモロッコまでの広い地域で、古くから重要な食物とされてきた。イスラム諸国では伝統的にラマダーン期間中の日没後、牛乳と共に最初に採る食事である。また、砂漠のような雨が少ない地域でも育つ上に、乾燥させると長期保存が可能であるため、乾燥地帯に住むサハラ砂漠の遊牧民やオアシスに住む人たちにとって、大切な食料の一つとなってきた。カロリーも高いため、主食として主たる炭水化物源食物とすることも容易であり、遊牧生活を送るアラブ人であるベドウィンは、伝統的に乾燥させたデーツと乳製品を主食としてきた』。『デーツは柔らかくなったものや干したものを』、『そのまま食べるか、あるいはジャムやゼリー、ハルヴァ、ジュース、菓子などに加工される。また、デーツは料理の材料として利用されることもある。チュニジアではデーツを小麦粉で包み揚げ、砂糖シロップに漬けて完成となるマクルードがある。レバント地域などではバタークッキーにデーツなどを詰めたマアムールが食されている』。『古代メソポタミアでは、デーツは穀物よりも安価であったこともあり、デーツのシロップは蜂蜜の代用品ともなった。現在でも、デーツシロップやデーツ糖としての生産・販売が行われている』。『デーツはフルクトースを多量に含むため、水に浸したものをアルコール発酵させて酒(アラック、モロッコの「マヒア (mahia) 」など)の醸造も行われ、さらに酢酸菌を作用させて食酢の醸造も行われる』。『また、乾燥させて粉状にしたデーツは、小麦粉と混ぜて保存食にする。この他にも、乾燥させたデーツは、サハラ砂漠付近においてラクダやウマ、イヌなどの餌(飼料)にもされる』。『日本では種子を抜いて乾燥させたものが市場に出回っていることが多い。また、ウスターソースの日本風アレンジとして日本で売られている豚カツ用のソースやオタフクソースのお好み焼き用ソースには、とろみや甘みを出すためにデーツを原材料の一つとして使っている製品もある。 また、欧米では健康志向の高まりから、砂糖の代替品として着目され、グリーンスムージーの材料として利用されたことをきっかけに広まりを見せており、日本にも』二〇一〇『年代後半より』、『健康目的でのデーツの消費が増えつつある。前述のオタフクソースも』二〇二〇『年にデーツを商品として売ったところ、大ヒットしたとされている』。『ナツメヤシの種子は、ラクダなどの動物の飼料とされ、また、種子から取れる油脂は、石鹸や化粧品として用いられる。さらに、種子は化学的な処理によってシュウ酸の原料ともなる。種子を炭化したものは銀細工に用いられ、またそのままネックレスにしたりもする』。『ナツメヤシの樹液は糖分を多く含むため、インドのベンガル地方では樹液を煮詰めて砂糖を作り、干菓子として利用する。またリビアでは、樹液を発酵させてラグビ (Laghbi) という酒を醸造する』。『株の先端の若い芽はジュンマール(Jummar)と呼ばれ、野菜として食用にされる。若い芽は成長点を含み、これを収穫されるとナツメヤシは死んでしまうので、若い芽の利用は主に果樹としての盛りを過ぎた木に限られている』。『ナツメヤシの葉は、北アフリカでは帽子の材料として一般的であり、敷物や仕切り布、籠、団扇などにも用いる。ナツメヤシの葉はキリスト教での「棕櫚の主日」』(=イエス・キリストのエルサレム入城の日)『の祭事に使用される。ユダヤ教では閉じたままの若い葉をルラヴ』(Lulav)『と呼び、「仮庵の祭り」で新年初めての降雨を祈願する儀式に用いる四種の植物の一つとする。イラクなどアラブ諸国には、祭日にナツメヤシの葉で家屋を飾る習慣がある』。『ナツメヤシの幹は、建材としたり、燃料としても用いる』とある。

 なお、引用は「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「無漏子」([077-23a]以下)のパッチワークである。]

2025/04/13

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 椰子

 

Yasi

 

[やぶちゃん注:樹の頂上に描かれている左(奥)と右の椰子の実は勝手な想像で、ヤシの実としてはアウトだ。中央のクラゲみたようなそれは、群花の形状としては、少しばかり、ヤシ・ナツメヤシのそれに似ているようには見えなくはないが、やっぱり、ちゃうで!……。

 

やしを  越王頭

     胥餘

椰子

     俗云夜之保

ヤアアツウ

 

本綱椰子嶺南有之果中之大者其樹初栽時用鹽置根

下則昜發木至斗大方結實大者三四圍髙五六𠀋木似

桄榔㯽榔之屬通身無枝其葉在木頂長四五尺直聳指

天狀如棕櫚勢如鳳尾二月開花成穗出於葉閒長二三

尺大如五斗噐仍連着實一穗數枚小者如栝樓大者如

寒瓜長七八寸徑四五寸懸着樹端六七月熟有粗皮包

之皮內有核圓而黒潤甚堅硬厚二三分殼內有白肉瓤

如凝雪味甘美如牛乳瓤肉空𠙚有漿數合鑚蔕傾出清

美如酒若久者則混濁不佳矣其殻磨光有斑纈㸃紋橫

破之可作壺爵縱破之可作瓢杓如酒中有毒則酒沸起

或此噐裂破者𣾰其裏卽失用椰子之意【林邑王與越王有怨使刺客乘其醉取其首懸于樹化爲椰子其核猶有兩眼が故俗謂之越王頭而其漿猶如酒也此說雖謬而俗傳以爲口實】

 

   *

 

やしを  越王頭《えつわうとう》

     胥餘《しよよ》

椰子

     俗、云ふ、「夜之保《やしほ》」。

ヤアアツウ

 

「本綱」に曰はく、『椰子は嶺南[やぶちゃん注:広東省・広西省。]に、之れ、有り。果中《くわちゆう》の大なる者なり。其の樹、初《はじめて》、栽《うう》る時、鹽《しほ》を用《もちひ》て、根の下に置けば、則《すなはち》、發し昜《やす》し。木、斗《とます》[やぶちゃん注:斗枡。]の大さ《✕→太さ》に至《いたり》て、方《まさ》に、實を結ぶ。大なる者、三、四圍《めぐり》、髙さ、五、六𠀋。木、桄榔《くわうらう》・㯽榔《びんらう》の屬に似て、通身、枝、無し。其の葉、木の頂《いただき》に在り。長さ、四、五尺。直《ちよく》に聳《そびへ》て、天を指す。狀《かたち》、棕櫚(しゆろ)のごとく、勢《いきおひ》、鳳《ほう》の尾のごとし。二月、花を開き、穗を成して、葉≪の≫閒より出づ。長さ、二、三尺。大いさ、五斗の噐《うつは》のごとし。仍《よつ》て、實を連(つら)ね着(つ)く。一穗、數枚。小なる者、栝樓《からう》のごとく、大なる者、寒瓜《かんか》のごとく、長さ、七、八寸。徑《わた》り、四、五寸。懸《かけ》て、樹の端に着(つ)く。六、七月、熟す。粗≪き≫皮、有《あり》て、之≪れを≫包《つつむ》。皮の內に、核《さね》、有《あり》、圓《まろく》して、黒く、潤≪ひて≫、甚だ堅硬なり。厚さ、二、三分。殼の內に、白≪き≫肉、有り。瓤《うりわた》、凝(こほ)れる雪のごとく、味、甘美にして、牛乳のごとし。瓤≪の≫肉、空なる𠙚に、漿(しる)、數合、有り。蒂《へた》を鑚(き)りて、傾《かたぶ》け、出《いだ》す。清美にして、酒のごとし。若《も》し、久《ひさし》き者は、則《すなはち》、混濁して佳ならず。其の殻(から)、磨(す)り《✕→れば》、光≪りありて≫、斑纈㸃《まだらのしぼり》≪の≫紋、有り。橫に、之れを破りて、壺・爵(さかづき)に作るべし。縱(たて)に、之れを破り、瓢杓《ひさごのしやくし》に作《な》すべし。酒≪の≫中に、毒、有る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、酒、沸(わ)き起《おこ》る。或いは、此の噐《うつは》、裂破する者≪なり≫。其《その》裏を𣾰(うる《し》)≪せ≫ば、卽ち、椰子を用《もちひ》るの意、失《しつ》す【林邑王《りんぱわう》、越王と、怨み、有り。刺客をして、其の醉《ゑひ》に乘じて、其の首を取《とり》て《✕→しめて》、樹に懸《かけ》たり。化《け》して、椰子と爲る。其の核、猶ほ、兩眼、有るがごとし。故に、俗、之れを「越王頭」と謂へり。而して、其の漿《しる》、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、酒のごときなり≪と≫。此の說、謬《あやまり》と雖も、俗傳、以つて、口實《こうじつ》[やぶちゃん注:語り草。]と爲す。】』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、訳文の本文冒頭の『椰子(やし)』の割注に、『(ヤシ科ヤシまたはココヤシ)』とする。「ヤシ」という種は存在しないので、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae

であり、「ココヤシ」は、

ヤシ科ココヤシ属ココヤシ Cocos nucifera

を指す。ココヤシには品種があるが、例えば、英語“Macapuno”(マカプノ)或いは、“coconut sport”という、胚乳の異常な発達を示す自然発生のココヤシの栽培品種があるが(英文の“Macapuno”のウィキを参照した)、正式な科学記載は一九三一年であるから(探してみたが、学名は見当たらない)、ここでは候補にならない。所持する第二版「世界大百科事典」の、まず、「ヤシ(椰子)」「ヤシ palm」の項を引く(コンマを読点に代えた)。『木本性の単子葉植物。日本では従来,ココヤシ』『を単にヤシと呼んでいたが,近年ではヤシ科の植物を総称してヤシ』と呼ぶ。『【ヤシ科 Palmaepalm family)】』『木本性の単子葉植物として、イネ科のタケ類とともに特異的な存在であるヤシ科の植物は、ほとんどの場合、幹は分枝せず』、『二次肥大生長もしないうえに、大きな葉を幹の頂端部に群がりつけ、熱帯の景観を特徴づける。いわゆるヤシ形の生活形になる。約』二百二十『属』二千五百『種を有し、それらの大部分は熱帯や亜熱帯に分布し、シュロのようなごく少数の種が暖温帯に生育する。また、この多数の属や種の多くは限定された狭い地域にのみ分布するという、固有性の強い植物群でもある』。『幹(茎)は単一で直立するものが多いが、シュロチクのように株立ちになるもの、トウのようにつる性のもの、あるいはニッパヤシ』『のように地表を横走するものもある。葉は葉比(ようしよう)、葉柄、葉身の三つの部分に分化しており、しばしば大型となり、ニッパヤシのように』十メートル『をこえることもある。葉比基部は』、『しっかりと茎を抱き、新葉と芽を包む。この葉比部の維管束が残ったのが、シュロのシュロ毛である。葉身は扇状の単葉から扇状あるいは羽状に切れ込んだ複葉まで、さまざまである。各小葉は、発生のときに単一の折りたたまれた葉身の折目の部分が切り離されるというヤシ科に特有の形態形成過程を経て、つくられる。またこの折りたたまれた下側の折目で切れるか、上側の折目で切れるかで、ヤシ科は大きく』二『群に分けられる。花は単性あるいは両性で小さく、黄色から黄緑色で目立たないが、多数が花軸の上に密集して肉穂花序を作り、それが大きな苞(仏索苞(ぶつえんほう))に包まれ、基本的には虫媒花である。開花期には多数のハナバチ類や甲虫などが集まる。葉腋(ようえき)あるいは茎頂から出る肉穂花序は、単純な棒状からシュロのように多数分枝するもの、あるいは短縮して球形(ニッパヤシ)になるものとさまざまである。花被は内・外それぞれ』三『枚の花被片からなり、両者にそれほど違いはない。おしべは通常』六『本、めしべの子房は』一『室または』三『室で、各室に』一『個の胚珠がある。果実は液果、核果あるいは堅果などで、大きさはさまざまであるが、比較的大型のものが多い。種子はよく発達した胚乳を有するが、その胚乳は油脂あるいはヘミセルロースであることが多い。前者の場合は油料植物として重要になるし、後者の場合は硬質で、ゾウゲヤシのように細工物に利用されることがある』。『ヤシ科は肉穂花序を有する点からサトイモ科に近縁と考えられたり、木質の幹や花序の形からタコノキ科に近いとされたりするが、すでに中生代から化石の出る古い植物群で、単子葉植物のなかでは独自に進化した系統群であろう』。『ヤシはそのエキゾチックな樹形からフェニックス、シュロ』、『カンノンチク、シュロチク、ビロウなど暖地で観賞用に栽植されるものも多いが、熱帯ではその他に多数のヤシ類が街路、庭園、公園の植栽に利用されている。木質化した幹は硬質で割裂しやすく、耐腐性があるものは建築材をはじめ細工物に、またトウのように柔軟なつる性のものではかごやマットあるいは結束料に多用される。大きな葉も、ニッパハウス(ニッパヤシの葉を編んで屋根や壁にした家)で代表されるように、屋根ふきや壁に利用される。シュロの葉比やココヤシの果実の殻のように、繊維を取り出して利用することも多い』。『食用植物としてのヤシの利用も多面的である。葉比につつまれた新芽は柔らかく、東南アジア・マレーシア地域には野菜として利用される種が多数ある。若い花序を切ると糖液を分泌する種(サトウヤシが代表的)では、糖みつを採取したり、アルコール飲料を作るのに用いられる。果実が食用あるいは油脂源とされるものは多いが、なかでもココヤシ、アブラヤシ、ナツメヤシ』『の』三『種が有名で、熱帯の重要な栽培作物となっている。サゴヤシ』『は幹からデンプンが採取され、サラッカは果実が果物になることで有名である。また』、『つや出しワックスで有名なカルナウバ駐(ろう)carnauba wax は南アメリカ産のカルナウバヤシ Copernicia cerifera の葉から採取される。アレカヤシ(ビンロウ)のように果実にアルカロイドを含有し、興奮性の嗜好料に使われるものもある。ヤシ類は工業社会の影響を受ける前の熱帯域では、それぞれの地方に特産するさまざまな種類が、その地域の人間の生活に深く結びついて利用されていた。現在でもアブラヤシやココヤシのように、工業原料としての油脂源植物として大規模なプランテーション栽培が行われている重要な作物を含む植物群である』とある。

 以下、同事典の「ココ椰子 」「ココヤシ coconut palm」の項。『 世界各地の熱帯の海浜や河口地域に栽培される代表的なヤシ科の高木』。『ココナッツともいう。栽培の歴史は古く,原産地や伝播(でんぱ)の歴史はつまびらかでない。インドへは』三千『年前にすでに渡来していたといわれる。中国の記録によると』、二九〇年~三〇七年頃(西普後末期)から、『中国南方やアンナンで栽培されていた。樹高』三十メートル『に達し、通常は単幹で直立する。頂部に長さ』五~七メートル『の壮大な羽状葉を群生し、幹上には輪状の葉痕を残す。葉腋』『から花序を出し、分枝した花穂の基部に』一個から『数個の雌花を、上部に多数の雄花をつける。おしべは』六『本、子房は』三『室からなり、通常そのうちの』一『室のみが成熟する。果実は直径』十~三十五センチメートル、『成熟につれ』、『緑、黄、橙黄から灰褐色となるが、品種により色調の変化は異なる。中果皮は繊維状、内果皮は堅く厚い殻となり』、三『個の発芽孔がある。繁殖は実生による』。三~六ヶ『月で発芽し』、七~八『年から収穫』、一『樹当り年間』四十~八十『個が得られる。品種が多くあり、セイロン島のキングヤシは早生で樹高が』二メートル『ほどの低さで、結実するので有名である』。『ココヤシの果実は、その成熟の過程でいろいろに利用されている。若いものは利用されることはほとんどないが、大きくなった半成熟果の胚乳は液状の胚乳液と内果皮に接した部分のゼラチン状の脂肪層とに分化し、胚乳液は飲用に、脂肪層は食用にされる。成熟果になると脂肪層は硬くなる。これを削り具でけずり、しぼったのがココナッツミルク coconut milk で、あらゆる食物の調味料として熱帯では多用される。また、この脂肪層をはぎ取って乾燥したのが、工業的な脂肪原料として重要なコプラ copra である。コプラはマーガリン、セッケン、ろうそく、ダイナマイトなどを作る油脂原料となる。なお、半成熟果の胚乳液は植物生長物質に富むため、植物の組織培養実験にしばしば用いられる。この場合にもココナッツミルクの呼称が用いられるので注意を要する。発芽が始まると、胚乳液の部分は油脂分に富むスポンジ状に変化し、これもやはり食用になる。花房を切り、切口からしみ出る甘い樹液は飲用とされる。またそれを発酵させたものはヤシ酒や酢となる。ヤシ酒はとくにミクロネシアで重要な嗜好品である。食物として以外にも、中果皮の繊維はヤシロープや燃料に、内果皮の殻はスプーン、飾りなどの日用品になる。葉は編料となり、籠、敷物、屋根ふきや壁材となる。若芽の柔らかい部分はココナットキャベツと呼ばれ野菜にされることがある』。『フィリピン、インドネシア、オセアニア地域で大規模なプランテーション栽培がおこなわれていて、重要な現金収入源となっている。このように原住民の生活に重要なココヤシは、コプラが商品化されることもあって個人の所有とされることが多い』とあった。邦文のウィキの「ヤシ」、及び、「ココヤシ」もリンクさせておく。

 なお、引用は、前項と同じで、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「椰子」([077-21a]以下)のパッチワークである。

「棕櫚(しゆろ)」先行する「椶櫚」の私の注の冒頭部の考証を参照されたい。

「栝樓《からう》」双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属 Trichosanthes kirilowii 変種キカラスウリ(黄烏瓜) Trichosanthes kirilowii var. japonica 。日中同じ。中文名は「日本栝樓」。なお、本邦でお馴染みの私の好きなカラスウリは、Trichosanthes cucumeroides で中国にも分布し、中文名は「王瓜」。

「寒瓜《かんか》」中国語ではスイカ(ウリ目ウリ科スイカ属スイカ Citrullus lanatus )を指す。本邦ではトウガン(冬瓜:ウリ科トウガン属 Benincasa pruriens 品種トウガン Benincasa pruriens f. hispida )を指し、現行の中文名は「冬瓜」。

「林邑王《りんぱわう》、越王と、怨み、有り。刺客をして、其の醉《ゑひ》に乘じて、其の首を取《とり》て《✕→しめて》、樹に懸《かけ》たり。化《け》して、椰子と爲る。其の核、猶ほ、兩眼、有るがごとし」昔、漢籍で、よくお世話になったサイトだが、HPが開けないので、お名前を示せない。とこかくも、このページに記されてある。そこでサイト主が、最後に『なるほどなあ。勉強になった』。『と思ったところ、明の李時珍が、「だまされてはいけませんなあ」と腕組みしておっしゃるのであった』。『「この「越王頭説話」は

『南人称其君長為爺、則椰名蓋取于爺之義也』。

『南人その君長を称して爺(ヤ)と為せば、すなわち「椰」の名は蓋し「爺」の義に取るなり』。

『南方のひとは、その首長のことを「爺」(ヤ)と呼んでおります。ただしこれは「年長者」の意じゃ。「椰」の「ヤ」を「爺」であろうと考えて作ったお話でしかないのですからな。」』。『なるほどなあ。勉強になりました。こんなのに騙されているようでは、「悲しき熱帯」を百回ぐらい読んで暗誦するぐらい勉強しないといけませんね』。『なお、前漢の時代には既にチュウゴク本土に知られており、「胥余」(ショヨ)あるいは「胥爺」(ショヤ)と呼ばれていたそうである』とあった。]

2025/04/12

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「淸見關觀音告凶」

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、記号などもふんだんに用いた。]

 

 「淸見關觀音告凶《きよみがぜきの くわんのん きようを つぐ》」  庵原郡《いはらのこほり》奧津驛淸見關に有り。

 傳云《つたへていふ》、

「某の年、武藏國の住人吉見二郞某、大番に當《あたり》て、其弟男衾三郞《おぶすまさぶらう》某と共に上京す。

 途中、遠江國多賀志山《たがしやま》に於て、山賊と戰ひ、利なくして、二郞、討《う》たる。

 郞等《らうだう》權守《ごんのかみ》家綱、主《あるじ》の首《くび》、幷に、形見の品々を携へ、本國に歸るとて、淸見關に至る時、海中より、觀世音菩薩、出現し、二郞が女《むすめ》、慈悲が身の成行《なりゆき》を告《つげ》給ふ。

 後、果して然り。」。

 「大須磨三郞繪卷物」云《いはく》、

『昔、東海道のすゑに武藏の大介といふ大名あり。其子に吉見二郞・をふすま三郞とて、ゆゝしき二人の兵《つはもの》ありけり。常に聖賢の敎をまもり侍《はべり》ければ、よの兵よりも、花族、榮耀、世にいみじくぞ聞えける。

 吉見の二郞は、色をこのみたる男にて、みやつかへしけるある上﨟女房を迎《むかへ》て、たぐひなく、かしづきたてまつり、田舍の習《ならひ》には、ひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びわをひき、月花《げつくわ》に心をすまして、あかしくらし給ふほどに、なべてならず、うつくしき姬ぎみ、一人いでき給ヘり。

 觀音に申《まうし》たりしかば、やがて、

「『慈悲』と、いはむ。」

とてこそ、なづけ給ける。

 おとなしくなり玉ふまゝに、いとヾなまめき給へり。

 八か國の中に聞及《ききおよび》て、こゝろをかけぬ大名・小名ぞ、なかりける。

 其中に、

「上野(かうづけの)國難波の權守が子息・難波の太郞を、むこに、なさん。」

とて、難波より吉見へ、ふみを、つかはしければ、

「これをば、きらふべきに、あらず。」

とて、陰陽に吉日をみせられければ、占《うら》、申すやう、

「今三年と申《まうす》、八月十一日いぬの時よりこのかた、吉日、見へず候。」

といふに、この樣《やう》を返事したりければ、權守、

「いつまでも、約束、變改あるまじくは」

とぞ、悅びける。

 をふすまの三郞、あにヽは、一樣、かはりたり。【中畧。】

 かくて、八月下旬の頃、吉見二郞兄弟、大番つとめにとて、京上《きやうのぼり》せられけり。

 み川[やぶちゃん注:三河。]の道の山賊ども、七百人、遠江の、たかし山にて、寄合《よりあひ》、

「たから、とらむ。」

とぞ、待《まち》うけたる。

「大勢は、宿々の煩《わづらひ》成《なる》べし。」

とて、をふすまの三郞は、一日、さきだちて、のぼらる。

 山賊どもヽ、聞《きき》おそれてぞ、とをし[やぶちゃん注:ママ。「通(とほ)し」。]たてまつる。

 後陣にさがりて、吉見二郞、一千餘騎にて、のぼり給ふ。【中畧。】

 盜人の張本、尾張國にきこえ候、「へんはいしやうじ」と申《まうす》もの、

「『きみの御寶《おたから》を給はり侯はヾや。』とて、これに候。」

と、いひもはてさせで、吉見郞等《らうだう》權守家綱といふもの、つよくひきとりて、

「これ、ほしがり申《まうす》。たから、とらせん。」

とて、はなつ矢に、「へんはいしやうじ」、くびほね、ゐさせて、たふれにけり。

 やぶれしやうじ[やぶちゃん注:ママ。やぶれし「しやうじ」の脱字であろう。]には、おとりたり。

 其子、二郞太郞、おやを、うたれて、やすからず、

「寶をとりても、なにかはせむ。」

とて、ひきとり、ひきとり、はなつやに、吉見御曹司、よろひのひきあわせ、射《い》ぬかれて、馬より、さかさまに、おち給へば、「うとう太夫」、かたに、ひきかけたてまつりて、坂のしもへぞ、くだりける。

 權守、是を見て、二郞太郞に打合《うちあひ》て、生取《いけどり》にして、くびを、きり、なぎなたのさきにぞ、つらぬきたる。

 ほめぬものこそ、なかりける。

 山賊共も、五百人は、みな、うたれぬ。

 吉見の侍・郞等も、二百餘人はうたれにけり。

 先陣にのぼるを、ふすま三郞のもとへ、早馬、たてたりければ、この事、聞《きき》て、いそぎ、立《たち》かへる。

 吉見二郞、悅《よろこび》て、遺言をぞ、せられける。

「三十六所の所知をば、三郞殿にたてまつる。其中《そのうち》、一所と、吉見の家とは、女房と、ひめとに、たび給へ。正廣・家綱には、中田下鄕《なかたしものがう》を(あ)たふべし。各《おのおの》そ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、これを、たしかに、きけ。姬を、みはなち給ふんなよ。これぞ、この世に、おもひをく[やぶちゃん注:ママ。]事。」

とて、つひに、はかなくなり給ひぬ。

「さてしも、あるべきならねば。」

とて、三郞は京へのぼらる。

 武藏へは、家綱かたみと、くびとを、ひたゝれに、つゝみて、もちつヽ、はせくだりける。

 次の日のくれ程に、するがの國淸見關にぞ、はせつきたる。

 馬より、おりて、しばらくやすむ程に、ひとつのふしぎぞ、いできたる。

 夢ともなく、うつゝともおぼえずして、みぎはより、海の中ヘ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりありて、浪のうへに、觀音の靈像、現じ給ひて、ひたゝれにつゝみたるくびへ、ひかりを、さし給ひて、

「これは、慈悲がなげきのあはれにおぼゆれば、まづ、ふだらく山へ、むかふるなり。」

と、おほせらるヽ、とおもふほどに、程なく、かきけすやふにうせ給ひぬ。

 たのもしさに、悅のなみだをぞ、ながしたる。

 武藏の吉見には、かヽる事とも知《しり》玉はず、夜もすがら、くまなき月をながめて、女房たち、おはしけるに、姬君、のたまふやう、

「すぎぬる夜の夢に、家綱がきたりつるが、左の手に『たか』をすへて、右の手に、かぶとをもちてありつるが、鷹は、そりて、西のかたへ、とびゆき、かぶとは、つちに、おちつる。」

と、のたまへば、母うへ、聞《きき》給ひて、

「弓とりは、『たか』とみゆるは、魂《たましひ》にて、あんなり。かぶとゝみゆるは、頭《かしら》にてあるなるものを、何事のあるべきやらむ。」

と、むねのうちさはぎ給ふほどに、曉がたに、家綱、きたりて、淚をながしつヽ、

「これ、御覽侯へ、御館《おんたち》の、御ありさまよ。」

とて、くびと、かたみとを、椽《えん》に、さしをきて、庭にたふれぬる。

 女房、おさなき人々、なみだにくれて、かなしみ給ふ事、かぎりなし。

 家綱、ありつるありさま、淨見が關の事を申《まうす》にぞ、すこし、なぐさみ給ひける云云。」。

 今、世に一卷を傳へ、中・下の二卷、失《う》す。故に事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「衾三郞」「世界大百科事典」の「男衾三郎絵詞」(おぶすまさぶろうえことば)より引く(コンマは読点に代えた)。『鎌倉時代』、十三『世紀末ころの絵巻。後半を欠く』一『巻が現存するのみで全体の構成はわからないが、観音の霊験譚としてまとめられた恋愛物の一種であったと想定される。物語は、武蔵国で都ぶりの生活を送る吉見二郎と、あえて醜女をめとって武芸のみに生きる男衾三郎という地方武士の兄弟の対比から始まる。観音の申し子である吉見の美しい娘(おそらく主人公)は、父の死後、許婚とも引き離され、男衾のもとで虐待される。その後の物語展開は不明。絵には独特の強い筆癖があり、人物の容貌にも誇張がみられるが、随所に描き込まれた四季の風物によって、画面は趣豊かなものとなっている。画風から』「伊勢新名所歌合繪卷」『と同じ絵師の手になると思われ、鎌倉時代における絵画制作の状況を考えるうえで興味深い。他の物語絵巻に比べ、地方武士の生活を題材としている点で珍しく、史料としても貴重である』とあった。

「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津にある古代から鎌倉中期まであった関所。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が後に記した』「更級日記」『には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが窺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」・「平家物語」『の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み』、『軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』。『設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された』として、第六代鎌倉幕府将軍宗尊親王の「續(しよく)古今和歌集」より、

 忘れずよ淸見が關の浪間より

   かすみて見えしみほの浦松

の一首が掲げられてある。

「多賀志山」恐らくは、本文の周縁の地方名から、栃木県宇都宮市にある古賀志山(こがしやま)のことと思われる。

 なお、以上に注した以外について、これと言ってソースがないので、これまでとする。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「淸見關觀音告凶」

[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、記号などもふんだんに用いた。]

 

 「淸見關觀音告凶《きよみがぜきの くわんのん きようを つぐ》」  庵原郡《いはらのこほり》奧津驛淸見關に有り。

 傳云《つたへていふ》、

「某の年、武藏國の住人吉見二郞某、大番に當《あたり》て、其弟男衾三郞《おぶすまさぶらう》某と共に上京す。

 途中、遠江國多賀志山《たがしやま》に於て、山賊と戰ひ、利なくして、二郞、討《う》たる。

 郞等《らうだう》權守《ごんのかみ》家綱、主《あるじ》の首《くび》、幷に、形見の品々を携へ、本國に歸るとて、淸見關に至る時、海中より、觀世音菩薩、出現し、二郞が女《むすめ》、慈悲が身の成行《なりゆき》を告《つげ》給ふ。

 後、果して然り。」。

 「大須磨三郞繪卷物」云《いはく》、

『昔、東海道のすゑに武藏の大介といふ大名あり。其子に吉見二郞・をふすま三郞とて、ゆゝしき二人の兵《つはもの》ありけり。常に聖賢の敎をまもり侍《はべり》ければ、よの兵よりも、花族、榮耀、世にいみじくぞ聞えける。

 吉見の二郞は、色をこのみたる男にて、みやつかへしけるある上﨟女房を迎《むかへ》て、たぐひなく、かしづきたてまつり、田舍の習《ならひ》には、ひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びわをひき、月花《げつくわ》に心をすまして、あかしくらし給ふほどに、なべてならず、うつくしき姬ぎみ、一人いでき給ヘり。

 觀音に申《まうし》たりしかば、やがて、

「『慈悲』と、いはむ。」

とてこそ、なづけ給ける。

 おとなしくなり玉ふまゝに、いとヾなまめき給へり。

 八か國の中に聞及《ききおよび》て、こゝろをかけぬ大名・小名ぞ、なかりける。

 其中に、

「上野(かうづけの)國難波の權守が子息・難波の太郞を、むこに、なさん。」

とて、難波より吉見へ、ふみを、つかはしければ、

「これをば、きらふべきに、あらず。」

とて、陰陽に吉日をみせられければ、占《うら》、申すやう、

「今三年と申《まうす》、八月十一日いぬの時よりこのかた、吉日、見へず候。」

といふに、この樣《やう》を返事したりければ、權守、

「いつまでも、約束、變改あるまじくは」

とぞ、悅びける。

 をふすまの三郞、あにヽは、一樣、かはりたり。【中畧。】

 かくて、八月下旬の頃、吉見二郞兄弟、大番つとめにとて、京上《きやうのぼり》せられけり。

 み川[やぶちゃん注:三河。]の道の山賊ども、七百人、遠江の、たかし山にて、寄合《よりあひ》、

「たから、とらむ。」

とぞ、待《まち》うけたる。

「大勢は、宿々の煩《わづらひ》成《なる》べし。」

とて、をふすまの三郞は、一日、さきだちて、のぼらる。

 山賊どもヽ、聞《きき》おそれてぞ、とをし[やぶちゃん注:ママ。「通(とほ)し」。]たてまつる。

 後陣にさがりて、吉見二郞、一千餘騎にて、のぼり給ふ。【中畧。】

 盜人の張本、尾張國にきこえ候、「へんはいしやうじ」と申《まうす》もの、

「『きみの御寶《おたから》を給はり侯はヾや。』とて、これに候。」

と、いひもはてさせで、吉見郞等《らうだう》權守家綱といふもの、つよくひきとりて、

「これ、ほしがり申《まうす》。たから、とらせん。」

とて、はなつ矢に、「へんはいしやうじ」、くびほね、ゐさせて、たふれにけり。

 やぶれしやうじ[やぶちゃん注:ママ。やぶれし「しやうじ」の脱字であろう。]には、おとりたり。

 其子、二郞太郞、おやを、うたれて、やすからず、

「寶をとりても、なにかはせむ。」

とて、ひきとり、ひきとり、はなつやに、吉見御曹司、よろひのひきあわせ、射《い》ぬかれて、馬より、さかさまに、おち給へば、「うとう太夫」、かたに、ひきかけたてまつりて、坂のしもへぞ、くだりける。

 權守、是を見て、二郞太郞に打合《うちあひ》て、生取《いけどり》にして、くびを、きり、なぎなたのさきにぞ、つらぬきたる。

 ほめぬものこそ、なかりける。

 山賊共も、五百人は、みな、うたれぬ。

 吉見の侍・郞等も、二百餘人はうたれにけり。

 先陣にのぼるを、ふすま三郞のもとへ、早馬、たてたりければ、この事、聞《きき》て、いそぎ、立《たち》かへる。

 吉見二郞、悅《よろこび》て、遺言をぞ、せられける。

「三十六所の所知をば、三郞殿にたてまつる。其中《そのうち》、一所と、吉見の家とは、女房と、ひめとに、たび給へ。正廣・家綱には、中田下鄕《なかたしものがう》を(あ)たふべし。各《おのおの》そ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、これを、たしかに、きけ。姬を、みはなち給ふんなよ。これぞ、この世に、おもひをく[やぶちゃん注:ママ。]事。」

とて、つひに、はかなくなり給ひぬ。

「さてしも、あるべきならねば。」

とて、三郞は京へのぼらる。

 武藏へは、家綱かたみと、くびとを、ひたゝれに、つゝみて、もちつヽ、はせくだりける。

 次の日のくれ程に、するがの國淸見關にぞ、はせつきたる。

 馬より、おりて、しばらくやすむ程に、ひとつのふしぎぞ、いできたる。

 夢ともなく、うつゝともおぼえずして、みぎはより、海の中ヘ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりありて、浪のうへに、觀音の靈像、現じ給ひて、ひたゝれにつゝみたるくびへ、ひかりを、さし給ひて、

「これは、慈悲がなげきのあはれにおぼゆれば、まづ、ふだらく山へ、むかふるなり。」

と、おほせらるヽ、とおもふほどに、程なく、かきけすやふにうせ給ひぬ。

 たのもしさに、悅のなみだをぞ、ながしたる。

 武藏の吉見には、かヽる事とも知《しり》玉はず、夜もすがら、くまなき月をながめて、女房たち、おはしけるに、姬君、のたまふやう、

「すぎぬる夜の夢に、家綱がきたりつるが、左の手に『たか』をすへて、右の手に、かぶとをもちてありつるが、鷹は、そりて、西のかたへ、とびゆき、かぶとは、つちに、おちつる。」

と、のたまへば、母うへ、聞《きき》給ひて、

「弓とりは、『たか』とみゆるは、魂《たましひ》にて、あんなり。かぶとゝみゆるは、頭《かしら》にてあるなるものを、何事のあるべきやらむ。」

と、むねのうちさはぎ給ふほどに、曉がたに、家綱、きたりて、淚をながしつヽ、

「これ、御覽侯へ、御館《おんたち》の、御ありさまよ。」

とて、くびと、かたみとを、椽《えん》に、さしをきて、庭にたふれぬる。

 女房、おさなき人々、なみだにくれて、かなしみ給ふ事、かぎりなし。

 家綱、ありつるありさま、淨見が關の事を申《まうす》にぞ、すこし、なぐさみ給ひける云云。」。

 今、世に一卷を傳へ、中・下の二卷、失《う》す。故に事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「衾三郞」「世界大百科事典」の「男衾三郎絵詞」(おぶすまさぶろうえことば)より引く(コンマは読点に代えた)。『鎌倉時代』、十三『世紀末ころの絵巻。後半を欠く』一『巻が現存するのみで全体の構成はわからないが、観音の霊験譚としてまとめられた恋愛物の一種であったと想定される。物語は、武蔵国で都ぶりの生活を送る吉見二郎と、あえて醜女をめとって武芸のみに生きる男衾三郎という地方武士の兄弟の対比から始まる。観音の申し子である吉見の美しい娘(おそらく主人公)は、父の死後、許婚とも引き離され、男衾のもとで虐待される。その後の物語展開は不明。絵には独特の強い筆癖があり、人物の容貌にも誇張がみられるが、随所に描き込まれた四季の風物によって、画面は趣豊かなものとなっている。画風から』「伊勢新名所歌合繪卷」『と同じ絵師の手になると思われ、鎌倉時代における絵画制作の状況を考えるうえで興味深い。他の物語絵巻に比べ、地方武士の生活を題材としている点で珍しく、史料としても貴重である』とあった。

「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津にある古代から鎌倉中期まであった関所。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が後に記した』「更級日記」『には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが窺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」・「平家物語」『の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み』、『軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』。『設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された』として、第六代鎌倉幕府将軍宗尊親王の「續(しよく)古今和歌集」より、

 忘れずよ淸見が關の浪間より

   かすみて見えしみほの浦松

の一首が掲げられてある。

「多賀志山」恐らくは、本文の周縁の地方名から、栃木県宇都宮市にある古賀志山(こがしやま)のことと思われる。

 なお、以上に注した以外について、これと言ってソースがないので、これまでとする。]

2025/04/08

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 檳榔子

[やぶちゃん注:ここで出る「檳榔」の「」の字は、実は、総てが、「檳」の異体字である「」である。しかし、私は、どうもこの異体字が生理的に好きでない(具体的には「賓」の異体字「」が厭なのである)。しかも、説明の際に、いちいち、同じものなのに、分けて表記しなければならないのは、面倒なだけで一利もない。されば、「」は「檳」で統一した。但し、項目標題下の注に出る「」は、それでちゃんと示してある。悪しからず。

 

Birou

 

[やぶちゃん注:右下方に「檳榔子」と記したものの実が二個、左下方に「大腹子」と記したものが(実は「檳榔子」の皮)が一つ、添えてある。しかし、見た目は巨大な「松ぼっくり」のような外形で、凡そ、この種――単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceaeのビンロウ Areca catechu ――の実のようには、見えない。これ、実物を写したものではないのではないか?

 

びんらうし  賓門 仁頻

       洗瘴丹

檳榔子

       賔與郞皆貴

       客之稱

 

本綱檳榔子生南方初生若筍竿積硬引莖直上莖幹頗

似桄榔椰子而有節旁無枝柯條從心生端頂有葉如甘

蕉條沠開破風至則如羽扇掃天之狀三月葉中腫起一

房因自折裂出穗凡數百顆大如桃李又生剌重累于下

以護衞其實五月成熟剝去其皮煮其肉而乾之皮皆筋

絲與大腹皮同也其樹大者三圍髙者九𠀋伹其子作雞

心狀正穩心不虛破之作錦文者爲佳

嶺南人常食當果代茶交州廣州人凡有貴客必先呈之

若邂逅不設用相嫌恨則檳榔名義取于此南方地濕不

食此無以祛瘴癘也生食味苦澀與蠣蚌蚶等灰同咀嚼

之則柔滑甘美也

檳榔子【苦辛溫澀】 下一切氣通關節利九竅下水腫治瀉痢

 後重療諸瘧泄胸中至髙之氣使之下行性如鐵石之

 沉重治蚘厥腹痛其功有四一曰醒能使之醉葢食之

 久則𤋱然頰赤若飮酒然二曰醉能使之醒葢酒後嚼

之則寛氣下痰餘酲頓解三曰饑能使之飽四日飽能

[やぶちゃん注:「一日」「二日」「三日」「四日」は上付きにしたが、原本では、そこまで小さくなく、右半分位置にやや小さく配されている。訓読では〔 〕で本文と同ポイントで示した。]

 使之饑盖空腹食之則𭀚然氣盛如飽飽後食之則飮

 食快然昜消


たいふくし  大腹檳榔 豬檳榔

太腹子

本綱此卽檳榔中一種腹大形扁而味澀者不似檳榔尖

長味良耳與檳榔皆可通用但力稍劣耳

たいふくひ

大腹皮

本綱此卽大腹子之皮外黒色皮內皆筋絲如椰子皮葢

鴆鳥多集檳榔樹上凡用此宜先以酒洗後以大豆汁再

洗過乾入灰火煨用

大腹皮【辛微溫】 下一切氣止霍亂通大小腸消浮腫治胎

 氣惡阻


やまひんらう  蒳子

山檳榔

本綱山檳榔生日南【在廣州之南】其樹似栟櫚而小與檳榔同

狀一叢十餘幹一幹十餘房一房數百子子長寸餘

 

   *

 

びんらうじ  賓門 仁頻《じんぴん》

       洗瘴丹《せんしやうたん》

檳榔子

       「賔《ひん》」と「郞」、皆、

       「貴客」の稱。

 

「本綱」に曰はく、『檳榔子(《びんらう》じ)は、南方に生ず。初生、筍竿《たけのこ》のごとく、積硬《しやくかう》[やぶちゃん注:積み上がって堅いこと。]にして、莖《くき》を引《ひきて》、莖、直《ちよく》に上《のぼ》る。莖・幹、頗《すこぶる》、桄榔《くわうらう》[やぶちゃん注:双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科センナ属タガヤサン Senna siamea を指す。詳しくは、先行する「鐵刀木」を見られたい。]・椰子《やし》に似て、節《ふし》、有り。旁《かたはら》に、枝、無≪く≫、柯條《かでう》、心[やぶちゃん注:芯。主幹。]より、生じて、端-頂(いたゞき)、甘蕉(ばせを)[やぶちゃん注:ここは「バナナ」の漢名。]のごとき葉、有り。條沠《でうは》[やぶちゃん注:直立して途中には枝を持たない幹の頂上から、葉を持った枝が分岐して叢生したものを指す。]、開破《かいは》[やぶちゃん注:四方にばさっと開くこと。]し、風、至る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、羽扇、天を掃《はらふ》の狀《かたち》≪の≫ごとし。三月、葉≪の≫中≪に≫、一房《ひとふさ》を腫《はれ》起《おこ》し、因て、自《おのづか》ら折《をれ》裂《さけ》して、穗を出《いだ》す。凡《およそ》數百顆、大いさ、桃李《たうり/づばいもも》[やぶちゃん注:良安は「和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 李」で文末に出る「桃李」に「ツハイモモ」とルビを振っている。双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種(突然変異)ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina で、ネクタリンの標準和名であり、日中共通である。]のごとく、又、刺(はり)を生《しやうじ》、下に重累《じゆうるい》して、以《もつて》、護衞す。其《その》實、五月、成熟す、其皮を剝去(はぎ《さ》)り、其肉を煮て、之を乾《ほ》す。皮、皆、筋絲《すぢいと》≪を呈し≫、「大腹皮《だいふくひ》」[やぶちゃん注:後に「大腹子」・「大腹皮」と罫線を挟んで二項の附属項があって、そこでは、まず、「大腹子」を「檳榔の一種」とし、「大腹皮」には「大腹子の皮である」とはっきりと記載されてあるのであるが、これは、時珍の言うような別種や亜種ではなく、同じビンロウの果皮を製した漢方名である。疑う方は、ビンロウの「維基百科」の「榔」(=檳榔)の「文化俗」(「」は「習」の簡体字)の最後の一行を見られたい。そこには、『榔的干燥果皮用作中药时,称大腹皮』と明確に記してあるからである。]と同じなり。其樹、大なる者、三圍《みまわり》、髙き者、九𠀋。伹《ただし》、其子《み》、雞《にはとり》の心[やぶちゃん注:心臓。所謂、「ヤキトリ」の「ハツ」。]の狀《かたち》を作《なす》。正穩《せいをん》にして、心は、虛ならず。之≪を≫破るに、錦≪の≫文《もん》を作す者、佳と爲《なす》。』≪と≫。

『嶺南[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]の人、常に食《しよくし》、果に當《あ》て、茶に代(か)ふ。交州[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・廣州[やぶちゃん注:現在の広東・広西省。]の人、凡《およそ》、貴客、有れば、必《かならず》、先づ、之れを、呈す。若(も)し、邂-逅(たまさか)に、設用≪せ≫ざれば、相《あひ》、嫌恨《けんこん》[やぶちゃん注:機嫌を損ねること。]≪す≫。則ち、檳榔の名義、此《これ》に取る。南方の地、濕(しめ)り、此れを食はざれば、以《もつて》、瘴癘《しやうれい》[やぶちゃん注:中国で古代から言われた特殊の気候や風土によって起こる伝染性の熱病。風土病。マラリアや象皮病(Elephantiasis)等が代表的。当時は、土や水から生ずる「瘴気」に拠るものと信じられていた。]を祛《とりさ》ること、無《ければ》なり。生にて、食へば、味、苦《にがく》澀《しぶ》し。蠣《かき》・蚌《どぶがひ/からすがひ》・蚶《あかがひ》等の灰と同《おなじ》く≪して≫、之≪と≫、咀嚼≪すれば≫、則《すなはち》、柔滑≪にして≫甘美なり。』≪と≫

『檳榔子【苦、辛、溫。澀《しぶし》。】』『一切の氣を下《くだ》し、關節を通し、九竅《きゆうけつ》[やぶちゃん注:人の身体にある九つの穴。口・両眼・両耳・両鼻孔・尿道口・肛門の総称。]を利し、水腫を下し、瀉痢・後重《こうじゆう》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『便意はあるが』、『腹部が重く』、『痛みがあるもの』とある。]を治し、諸瘧《しよぎやく》[やぶちゃん注:各種のマラリア。]療じ、胸中至髙の氣《き》を泄《せつ》し、之れを使《し》[やぶちゃん注:主薬の使用際して、補助促進効果を持つ薬を言う。]≪と≫して、下行《かかう》ならしむ。性、鐵石《てつせき》の沉重《ちんちやう》[やぶちゃん注:沈着で重厚なさま。]なるがごとし。蚘厥腹痛《かいけつふくつう》[やぶちゃん注:ヒト寄生(或いは日和見感染寄生)する寄生虫によって発症すると考えられていた腹痛。但し、中医学では、寄生虫によるものではない内臓疾患も含まれていた。]を治す。其の功、四《よつつ》、有。〔一《いつ》に曰はく〕、醒《さめ》て≪をりながら≫、之れをして、能《よく》醉《ゑは》しむ。葢し、之≪れを≫食《くひ》、久《ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、𤋱然《くんぜん》として、頰、赤、酒を飮むがごとく、然《しかり》。〔二に曰はく〕、醉《ゑひ》て、能《よく》之れを使して、醒《さめ》せしむ。葢し、酒≪の≫後《のち》に之《これを》、嚼《の》≪めば≫、則《すなはち》、氣を寛《くつろ》≪げ≫、痰を下し、餘酲《よてい》[やぶちゃん注:悪酔い。]、頓《とみに》解《かい》す。〔三《みつ》に曰はく〕、饑《うゑ》、能《よく》、之れをして、飽《あ》かしむ。〔四に日はく〕、飽《あきたる》を、能《よく》、之《これ》をして、饑《う》へせしむ[やぶちゃん注:満腹感にある状態を、正常な空腹感に変えさせて呉れる。]。盖《けだ》し、空腹に、之れを食へば、則《すなはち》、𭀚然《じゆうぜん》として、氣、盛《さか》んに[やぶちゃん注:正常な充足感を与えて、正常な気が活性化させ。]、飽《あきたる》がごとく、飽《あき》て[やぶちゃん注:尋常なる満腹感がやってきて。]、後《のち》に、之≪れを≫食へば、則《すなはち》、飮食、快然と≪ないて≫、消し昜《やす》し。』≪と≫。


たいふくし 『大腹檳榔』『豬檳榔』

『太腹子』

「本綱」に曰はく、『此れ、卽ち、檳榔の中の一種。腹、大にして、形、扁《ひらた》んして、味、澀《しぶ》る者なり。檳榔の尖《とがり》、長《ながく》して、味、良《よき》に似ざるのみ。檳榔と、皆、通用すべし。但《ただし》、力《りよく》[やぶちゃん注:効力。]、稍《やや》、劣《おとれ》るのみ。』≪と≫。

たいふくひ

大腹皮

「本綱」に曰はく、『此れ、卽ち、大腹子の皮なり。外、黒色。皮の內、皆、筋絲《すぢいと》、椰子の皮のごとし。葢《けだし》、

鴆鳥(ちん《てう》)、多く、檳榔の樹の上に集《あつま》る。凡そ、此を用《もちひ》るには、宜《よろし》く、先《ま》づ、酒を以《もつ》て、洗《あらひ》て後、大豆汁《だいづじる》を以て、再たび、洗過《あらひすぐ》し、乾《ほ》し、灰火《はひくわ》に入《いれ》て、煨《うづめやき》して用ふ。

大腹皮【辛微溫】 一切の氣を下し、霍亂を止め、大・小腸を通じ、浮腫を消し、胎氣惡阻《たいきおそ》[やぶちゃん注:所謂、「つわり」。]を治す。


やまひんらう  蒳子《なうし》

山檳榔

「本綱」に曰はく、『山檳榔は、日南《にちなん》[やぶちゃん注:紀元前一一一年に前漢の武帝が置いた中国最南の旧郡名。南越征服後、現在のヴェトナムに設置された三郡の最南部に相当する。隋の文帝楊堅により廃止された。ユエ(フエ)付近が中心。]【廣州の南に在り。】に生ず。其の樹、栟櫚(しゆろ)に似て、小《ちさ》く、檳榔と狀《かたち》を同《おなじ》≪くす≫。一叢≪に≫十餘≪の≫幹≪たり≫。一幹≪に≫十餘房≪にして≫、一房≪に≫數百≪の≫子≪生る≫。子の長さ、寸餘≪たり≫。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:既に示した通り、「檳榔子」は、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『太平洋・アジアおよび東アフリカの一部で見られるヤシ科』Arecaceae『の植物』で、『種子は嗜好品として、噛みタバコに似た使われ方をされ、ビンロウジ(檳榔子、英: areca nutbetel nut)という場合は通常この種子を指すが、発』癌『性が指摘されており、「死の実」とも呼ばれる。マレー語では pinang と呼び、ペナン島の名の由来となった植物である』。『単幹で高さ』十~十七『メートル』、『まれに』三十メートル『に達する。高さの割にはほっそりした樹形をしており、幹には葉痕である横縞がある。雌雄同株であり』、一『つの花序に雌雄の花をそれぞれつける。果実は長楕円形、長さ』五『センチメートル』『前後で』、『オレンジ色から深紅色に熟す。果実は』一『本の幹に大量につくが』、一『個の果実の中にはマーブル模様の種子が』一『個入っている』。『ビンロウジと呼ばれる果実と、そこに含まれる化学物質をとるため、インドから熱帯アジア、フィジーまで、大規模農場で栽培されている』。『ビンロウジを噛むことはアジアの広い地域で行われている。ビンロウジの味は、「コウスイガヤ』(単子葉類植物綱イネ目イネ科オガルカヤ属コウスイガヤ Cymbopogon nardus )『やクローブ』(=双子葉植物綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum )『に消毒剤の臭いを足し、タンニンで思いっきり渋くしたよう」だと表現される。ビンロウジを細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ(Piper betle;コショウ科の植物)の葉にくるみ、少量の消石灰を加えたパーン(Paan)と一緒に噛む。消石灰を加えるのは、混合物をアルカリ性にすると、薬物成分が出やすくなるためである』(☜:本文に出る「蠣・蚌・蚶は同じ効果を生じさせるためである)。『しばらく口の中で噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。吐き出すと口の中はさっぱりするが、しばらくするとアルカロイド成分が口内の粘膜を通じて吸収されて、軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す』。『タイのバンコクから』三十~八十『キロメートル』『北方では、農民は水田耕土中の酸性度を吐き出した実の色の変化で測定する。口の中で赤色をしていたものが、土の酸性が強いと黒色に変化し、酸性が弱いと赤い色のままで変化しない性質を利用したものである。黒色だとまだ耕作するのは早いということであり、赤のままであったら播種してよいという判断をする』。『また、ビンロウジの粉は単独では歯磨剤や虫下しに使用される。漢方方剤では、女神散(にょしんさん)、九味檳榔湯(くみびんろうとう)などに配合される。日本では薬局方にも記載されている。日本への生果実の輸入はミカンコミバエ種群(ミバエ)の発生地域からは不可』である。『一方、韓国などミカンコミバエ種群が発生していない地域からなら可能。また、ミカンコミバエが死滅していると考えられる製法(瓶詰、真空パック、十分に乾燥させたもの)を用いていれば、ミカンコミバエ種群の発生地域からも輸入可能である。「ビンロウは麻薬であるから日本に持ち込むことができない」という認識は誤りである』。『マレーシアやインドネシアに見られるビンロウ酒は、ビンロウジの実を搾った汁液を発酵させた酒で』「古今圖書集成」(清代の類書(百科事典)。全一万巻)『には』、「南蠻傳馬留人、取檳榔瀋爲酒」『(南蛮のマレー人は、酒を造るために檳榔を採った)と記されている』。『仮名垣魯文の』滑稽本「西洋道中膝栗毛」(明治三(一八七〇)年から明治九年刊)の「五編」「上」『では、セイロン島で北八が現地人と相撲を取る際に、同行の通訳がビンロウの葉を軍配代わりにして行司を務め』ている。『一般的なビンロウ(この他にも葉巻タイプなどもある)』では、『ビンロウジにはアレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、タバコのニコチンと同様の作用(興奮、刺激、食欲の抑制など)を引き起こすとされる。石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加える』。『ビンロウジには依存性があり、また国際』癌『研究機関(IARC)は』、『ヒトに対して発癌性(主に喉頭ガンの危険性)を示すことを認めている』。『ビンロウジは古来から高級嗜好品として愛用されてきた。アジア全域で数百万人の人がビンロウジを日常的に摂取しているといわれる。多くは社交場の潤滑剤としての使用であるが、長距離トラックの運転手が眠気覚ましの薬として習慣的に使うこともある。ビンロウジとキンマ』(被子植物綱コショウ目コショウ科コショウ属キンマ Piper betleウィキの「キンマ」によれば、薬効の他に嗜好品として『ビンロウジを薄く切って乾燥させたものとキンマの葉に、水で溶いた石灰を塗り、これを口に含み噛む』とある)『は夫婦の象徴とされ、現在でもインドやベトナム、ミャンマーなどでは、結婚式に際して客に贈る風習がある』。『床にビンロウジを噛んだ唾液を吐き捨てると、足下に血液が付着したような赤い跡ができ、見るものを不快にさせる。そのためか』、『低俗な人々の嗜好品として、近年では愛好者が減少している傾向にある』。『インドで口紅がなかった時代には、唇を赤く染めるのに使われていたが、使いすぎると歯の色がくすんで、最終的に黒くなってしまう』。十九『世紀のシャム(現在のタイ)では、黒い歯が好まれたという』。『インドの街頭には、ビンロウジを削ったものをキンマの葉で包み、消石灰を少量加えた「パーン」を専門に売るパーンワラー(Paanwallah)という売り子がいる。パーンワラーは、壺や飲み物を載せた盆を目の前に置き、愛想よく対応しながら、カルダモン、シナモン、ショウノウ、タバコなどのフレーバーのパーンを客に勧めてくる。台湾では、露出度の高い服装をした若い女性(檳榔西施)がビンロウジを販売している光景が見られる。風紀上の問題から』二〇〇二『年に規制法が制定され、台北市内から規制が始まり、桃園県もこれに追従した。以降、台中市、台南市、高雄市など大都市では姿を消した。依然として高速道路のインターチェンジ付近や、地方では道端に立つ『檳榔西施』が見られるが、過激な服装は影を潜めるようになった』。『台湾では現在、道路にビンロウジを噛んだ唾液を吐き捨てると罰金刑が課せられるため、中心街では路上に吐き出す習慣は無くなったが、少し離れると』、『吐き捨てた跡や、噛み尽くしたカスが見られる。購入時にエチケット袋(紙コップとティッシュペーパーの場合が多い)が共に渡される』とあった。

 なお、引用は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「海松子」([077-21a]以下)のパッチワークである。

「蠣」カキの生物学的な範疇は、斧足綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目イタボガキ科 Ostreidaeと、ベッコウガキ科Gryphaeidaeである。カキ・フリークの私でも、中国での分布には手古摺った。しかし乍ら、ここは「殻」を指すのであってみれば、裾野が格段に広がって、以上の二つの科タクソンで構わないことになる。それで、ここは十分だが、私の脱線した矜持が、そこでは、満足出来なかった。「食用に限るものを特定せずんがあらず!」となるのは私の宿命である! されば、探ってみたところ、「百度百科」の「牡蛎」が図に当たった(以下、カキに関心のない方はスルーされたい。私のマニアックな脱線ディグに附き合う必要は、ない)。その「主要品種」の項に、五種が、驚くべき詳細解説を伴って、挙がっていた!(こんなん、日本の一般サイトじゃ、まんず、ないぞッツ! 簡体字は正字化した)

   *

長牡蛎 Crassostrea gigas

近江牡蛎 Crassostrea ariakensis

牡蛎 Ostrea denselamellosa

香港牡蛎 Magallana hongkongensis

福建牡蛎 Crassostrea gigas angulata

   *

この内、頭の三種は、本邦に分布する、

イタボガキ亜目カキ上科イタボガキ科マガキ亜科マガキ属の

マガキ Crassostrea gigas 

スミノエガキ Crassostrea ariakesis 

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa 

と一致する。

 しかし、最後の――福建牡蛎 Crassostrea gigas angulata ――というのは、学名のシノニムとしては、世界レベルで見出せないので、

✕――勝手なマガキの品種への嘘学名――

である。その証拠に、解説には、『西太平洋沿岸、中国の揚子江以南の沿岸、台湾、日本などの国々に自然に分布している』とあるからである! そないな学名を持ったマガキの亜種・品種は! 儂(わし)は知らんでッツ!!!

さても。因みに、本邦産の一般的な食用種は、

マガキ Crassostrea gigas

イワガキ Crassostrea nippona

スミノエガキ Crassostrea ariakesis 

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa

の四種である(ヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis の移入は近代以降と考えられるので除外する)。読んで呉れた奇特な貴方には、心より御礼申し上げる。

「蚌」この漢語は、狭義に第一義的には、「カラスガイ」と「ドブガイ」に当てる。現行の日本では、ドブガイが二種に分離しており、

斧足綱イシガイ(石貝)目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata

イシガイ科ドブガイ(溝貝)属ヌマガイ(沼貝)

(ドブガイA型/大型になる)

ドブガイ属タガイ(田貝) Sinanodonta japonica(ドブガイB型/小型)

の三種となる。中文の学術的記載では、ドブガイの分離は記されており、中国に分布すると考えられる記載があるので、問題ない。

「蚶」この漢語は、広義には、腹足綱翼形亜綱フネガイ目 Arcidaの総称であるが、日中ともに、フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii が代表種であるし、フネガイという種はないので、かく、読みを振った。

「山檳榔」は単子葉植物綱ヤシ目ピナンガ属ソアグアシ(正式和名かどうか疑問)Pinanga tashiroi で、台湾南東部の沖合にある孤島の蘭嶼(らんしょ:グーグル・マップ・データ)にのみ植生する台湾固有種である。絶滅寸前種に指定されている。]

2025/04/05

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「大般若經の奇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。]

 

 「大般若經の奇怪」  庵原郡瀨名村、戶倉社に有り。里人云《いふ》、

「庵原郡龍爪山に『般若沙』と云所、有り。是、推古天皇二十八年四月、『大般若經』、天より降《くだ》りし事、有り。故に此名、有り。或云、『推古天皇十八年、聖德太子、令を傳へ、小野妹子を隋國に遣《やり》り、前生《ぜんせい》に持《じ》する處の「法華經」を求め給ふ。此時、衡山寺に天竺將來の「大般若經」有り。妹子、卽《すなはち》、彼《かの》寺に至り、乞《こひ》得て、歸朝し、太子に奉る。太子、深く尊《たつと》み給ふの餘り、

「帝都近きは失火の災《わざはひ》、計り難し。しかじ、遠境に置《おか》むには。」

とて、此山に納め給ひしを、いつの頃よりか、龍爪山《りゆうさうざん》の南麓、瀨名村の戸倉明神の社《やしろ》に、こめたり。此經は、黃紙《きがみ》に梵字に書《かけ》り。朱塗足付の箱に入《いれ》、二箱、有り。內《うち》に「守護神」と號《なづけ》て、一尺計りの赤き蛇一《ひとつ》、蟠《わだかま》れり。二箱とも、然《しか》り。經箱は、雨に濡《ぬるる》をも厭《いとは》ず、社壇の外に居《す》へたりしが、近頃は社內に納《をさめ》て、見る者、なし。此神社は、古くより、いますにや、今川家再建の棟札《むねふだ》、今に存す。」云云。

佛經の降る事、赤蛇の經を守護する事、共に前代未聞の奇怪と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:この話、どうも、ディグする気が起こらない。以下の注は、お茶濁しである。悪しからず。

「庵原郡瀨名村、戶倉社」現在の静岡市葵区瀬名にある戸倉神社(グーグル・マップ・データ)であろう。「静岡ミステリー倶楽部(シズミク)」のブログに「竜爪山の般若経伝説を追う 【竜爪登山 編】」があり、『竜爪山は昔から山岳信仰、修行の山として有名でした』、『山伏のような人や、それこそ忍者、天狗伝説など、もっぱら“険しい山”として恐れられ親しまれていたのでしょう』とあり、『穂積神社は竜爪権現と言われ、空海が作らせたと思われる経文が発見されていることから、平安時代に建立され現在に至るのではないかと言われています。高野山のように山岳信仰という点からも、空海や真言宗との関わりが深いと考えられています』と続き、『昔から、信仰心が強い人たちが昼夜を問わず行き来していたと言われ、参道(山道)は松明の灯りで灯され続けていたと言われています』、『竜爪山の般若平には』六百『巻の大般若経が舞い落ち、三方に分けて祀られているという伝説があります』とあった。この前のスレに、「竜爪山探索 【概要】」があり、『推古天皇の時代、竜爪山の山頂に大般若経』六百『巻が天から舞い落ちたという伝説があります』。六百『巻の内』二百『巻は般若嶽という場所に、また』二百『巻は竜宮(?)へ納めた後に盗まれ、残りの』二百『巻は戸倉大明神の森に納めたと言われています』。また、『別の説では、般若平という場所に』六百『巻が舞い落ち』、二百『巻は石の祠?棺?に納め、埋めた⇒般若嶽とも言う』。二百『巻は利倉明神社に朱塗りの箱に入れて納めた』。二百『巻はその辺(どの辺?)に寺を立てて納めたが、地域住民が火を焚き煙にして天上に返そうとしたところ、空中で二つに分かれた』とされ、別に、百『巻は北沼上に落ち、そこに寺を立てた(良富院)』、また、百『巻は浅畑北村に落ち、そこに寺を立てた(竜禅寺)』という伝承があることが記されてあった。生憎、後の「般若沙」はなかった。

「龍爪山」以前にも出たが、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「般若沙」修験道絡みなら、「はんにやしや」か。]

2025/04/03

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 海松子

 

Tyousengoyou

 

[やぶちゃん注:左下方に五個の種子のような図が添えてある。]

 

からまつのみ 新羅松子

       俗云朝鮮松子

海松子

 

ハイ ソン ツウ

 

本綱海松子樹與中國松樹同惟五葉一叢者毬內結子

大如巴豆而有三稜一頭尖久收亦有油雲南亦有之而

新羅國者肉甚香美當果食之伹中國松子大如栢子亦

可入藥不堪果食

海松子【甘溫】補不足潤皮膚肥五臟久服輕身不老昔仙

 人等好食松子者卽此也

△按海松子凡出於中國外者皆稱海某如海紅豆亦然

 矣此松子多來於朝鮮以爲果食栽其種生者徃徃有

 之葉長而與日本松大異也然結子者希也

 

   *

 

からまつのみ 新羅松子

       俗云朝鮮松子

海松子

 

ハイ ソン ツウ

 

「本綱」に曰はく、『海松子《かいしようし》は、樹、中國の松の樹と同じ。惟《ただ》、五葉一叢の者なり。毬(ちゝり)の內に、子《み》を結ぶ。大いさ、「巴豆《はづ》」のごとし。三稜、有り、一頭、尖る。久《ひさし》く收《をさめ》て、亦、油、有り。雲南にも亦、之れ、有れども、新羅の國の者、肉、甚だ、香美なり。果に當《あて》て、之れを食ふ。伹《ただし》、中國の松の子は、大いさ、栢(かゑ[やぶちゃん注:ママ。])の子(み)のごとし。亦、藥に入《いる》べし。≪而れども、≫果食《くわしよく》に堪へず。』≪と≫。

『海松子《かいしようし》【甘、溫。】不足を補い[やぶちゃん注:ママ。]、皮膚を潤《うるほ》し、五臟を肥(こ)やし、久《ひさしく》服すれば、身を輕くし、老《おい》ず。昔、仙人等《など》、好んで、松の子《み》を食《くふ》と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]は、卽ち、此れなり。

△按ずるに、海松子は、凡そ、中國の外より出《いづ》る者、皆、「海某《かいなにがし》」と稱す。「海紅豆《かいこうづ》」云ふごときも、亦、然《しか》り。此の松子《まつのみ》、多《おほく》、朝鮮より來り、以《もつて》、果と爲《なして》、食ふ。其の種を栽《うゑ》て、生《しやうず》る者、徃徃≪にして≫、之れ、有り。葉、長《ながく》して、日本の松と大《おほき》に異《ことなれる》なり。然≪れども≫、子を結ぶ者、希《まれ》なり。

 

[やぶちゃん注:これは、「松の実」が知られる、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ Pinus koraiensis

である。良安も本邦の松の種ではないと認識して書いている。但し、以下の引用で判る通り、本邦にも僅かな隔離分布はある(以下の☜部分を見よ)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『学名』の『の種小名 koraiensis は「高麗の」という意味』で、『別名でチョウセンマツ(朝鮮松)ともよばれている。中国名は紅松や果松、ロシア語名は Корейский кедр』(音写「ガリィエスキ・スリャコプ」『(韓国のマツ)や Маньчжурский кедр』(同「マンジュスキイィ・スリャコプ」『(満州の松)という』。『我々の身近なマツであるアカマツ』(マツ属 Pinus亜属アカマツ Pinus densiflora )『やクロマツ』(マツ属Pinus亜属クロマツ Pinus thunbergii )『とは亜属単位で異なりStrobus亜属、いわゆる五葉マツの仲間に分類される』。『北東アジア地域原産。朝鮮半島、中国東北部、ロシア極東部(ウスリー川流域)と日本に自然分布する。日本では本州中部の福島県南部から岐阜県にかけてと四国の東赤石岳にもわずかな群落が隔離分布しているが、比較的稀な種で山で見かけることは少ない』(☜)。『花粉化石の分析などから、最終氷期には現在よりはるかに広い範囲で繁栄していたことが知られている』。『成木は樹高』三十『30メートル』『以上、直径』一・五メートル『に達する。樹皮は灰褐色で幼齢時は平滑、成長するにつれて薄く鱗状にはがれる』。『針葉は名前の示すように五葉であり、短枝に』五『本が束生する。葉は濃い緑色で白い気孔がよく目立ち、遠目には青緑色に見える。長さは』六~十『センチメートル』『で縁には鋸歯があり、ざらざらした触り心地である。葉の断面の樹脂道は同じく日本産五葉松のゴヨウマツ( Pinus parviflora )の』二『本に対して本種は』三『本ある』。『球果(松かさ)は』八~十六センチメートル『と五葉松のなかまでは最も大形で、枝の先に』三、四『個がまとまって出来ることが多い。他のマツ同様多数の鱗片から構成される。色は若い時は緑色だが熟すと黄褐色に変わる。球果の鱗片は熟すにつれて外側に反り返る。マツ属の球果は一般に成熟後』、『しばらく樹上に留まり、空気中の湿度に反応して開閉を繰り返し』、『中の種子を散布する。しかしながら、本種及び近縁種は成熟後も決して開かないままに落果する。熟した球果は比較的分解しやすい他の五葉松類のものと比べても非常に脆く、素手で分解することも簡単である。球果の』一『つの鱗片には』二『つの種子が入っている。種子は』二センチメートル『弱ある大型のもので、他のマツと違い翼を持たない』。『日本では比較的稀な種であり、純林を構成することはなく』、『広葉樹林に混生する形をとることが多い』(☜)。『一方、シベリアではトウヒ属( Picea )やカラマツ属( Larix )などの針葉樹と共に森林の主要な構成種の一つである』。『種子はネズミやリスなどの小さな哺乳類や、カケス、イスカ、ホシガラス、ライチョウなどの鳥類によって伝搬され、特にネズミやリスによって集められ、移動されて各地で発芽する』。『本種はマツノザイセンチュウ(』線形動物門双腺綱葉線虫(ヨウセンチュウ)目アフェレンクス科Bursaphelenchus属『 Bursaphelenchus xylophilus )に感受性が高く、寄生されるとマツ材線虫病を発症して枯死に至ることが多い。ただし、本種は線虫接種試験に対する感受性自体は強いものの、実際の森林ではあまり被害を受けていないようである。マツ材線虫病が徐々に広がりつつある韓国においても』、『日本産アカマツやクロマツに比べて本種の被害報告は遅かった』。『材は建築、パルプなどに用いる。庭園木、盆栽にする。種子は可食でいわゆる「松の実」として利用される。種子は海松子と呼ばれ漢方薬に利用される。韓国では葉も利用するようである』。『材は本種の主要産地の一つである中国での名を採って紅松(ホンソン)などと呼ばれる。気乾比重は在来の二葉松類よりやや軽い』〇・四五~〇・五〇である。『シベリアでも伐採が盛んである』が、『シベリアでは絶滅の恐れのあるアムールトラ』(ネコ目ネコ科ヒョウ属トラ亜種アムールトラ Panthera tigris altaica )『やアムールヒョウ』(ヒョウ属ヒョウ亜種アムールヒョウ Panthera pardus orientalis )『といった大型肉食哺乳類を保護すること、経済価値の高い本種の違法伐採が後を絶たないことなどから本種の保護が叫ばれていた』二〇一〇年十月『付でマツ属としては初めて』、『ロシア産の本種をワシントン条約に登録する措置が採られている』とあった。

 なお、引用は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「海松子」([077-14a]以下)のパッチワークである。

「巴豆《はづ》」双子葉植物綱キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium 。先行する「巴豆」を見よ。

「栢(かゑ[やぶちゃん注:ママ。])」これは、一言では言えない。最初回の「柏」の私の注を見られたい。

「海紅豆《かいこうづ》」マメ科Adenanthera 属海紅豆(アデランステラ・ミクロスペルマ)Adenanthera microsperma 。和名は、ない。インド・東南アジア(フィリピンは除く)・中国に分布する。用途は木材。若芽は野菜として食用にされ、種子は装飾品に用いられる。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「菊女爲祟」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「菊女爲祟《きくぢよ たたりを なす》」  庵原郡高橋村、東の路傍にあり。傳云、「當村の路傍に一小塚あり。上に石の祠を建《たて》て、稻荷を祭れり。里俗、『於菊稻荷』と云《いへ》り【是、菊が鎭守共《とも》、靈を祭る共云也《いふなり》。】。是、往昔、此地往還《わうくわん》たりし時、菊と云《いふ》女《をんな》、和會物《あへもの》【壺なり。】を賣《うり》て渡世とす。或時、旅行の士某、いか成《なる》謂《いはれ》有《あり》てか、菊を殺す。其後《そののち》、菊が靈、旅客に祟りをなす事、止《やま》ず。故に、祭りて、祠《ほこら》を建つ。里人《さとびと》、『あひなんじやう』と號す。諸人、願《ぐわん》を祈るに、和會物を苞《つと》にして賽《まつり》するは、此緣也。今に此所《このところ》を『和會物所《あへものどころ》』と云り。云云」。

 

[やぶちゃん注:「庵原郡高橋村」郡から推して、現在の静岡県静岡市清水区高橋と思われる(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、集落があるものの、周囲は田圃と桑畑である。東海道の内側であるが、近く、また側道の北海道が高橋を横切っている。本文では、「往昔、此地往還たりし時」とあることから、これは、江戸時代より前か、東海道が整備されるごく初期の殺害事件であったと読むべきであろう。但し、現行では、「於菊稻荷」は見当たらず、ネット検索でも、ヒットしない。

「和會物《あへもの》【壺なり。】」「あへもの」は「近世民間異聞怪談集成」のルビに拠ったが、所持する小学館「日本国語大辞典」でもこの「壺」の意味は載らない。識者の御教授を乞う。

「あひなんじやう」不詳。「會難場」か。]

2025/04/02

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 榧

 

Kaya_20250402050501

 

[やぶちゃん注:右下方に二個の実の図が添えてある。]

 

かや   柀子  赤果

     玉榧 玉山果

【音斐】

     【和名加倍

      俗云加也】

     榧字亦作棑

 

本綱榧生深山中人呼爲野杉其木如栢而微軟其理似

松有文采堪爲噐用其葉似杉絕難長木有牝牡牡者𬜻

而牝者實冬月開黃圓花結實大小如棗其核長如橄欖

核有尖者不尖者無稜而殼薄黃白色其仁有一重黒粗

衣中白色嚼久漸甘美可生啖亦可焙收以小而心實者

爲佳一樹不下數十斛

榧實【甘平濇】 常食治五痔療寸白蟲小兒黃瘦有蟲積者

 宜食之以豬脂炒榧黒皮自脫榧子同甘蔗食其渣自

 軟【榧子皮反菉豆能殺人也】

△按榧和州吉野之產最良其木理細宻而有文采芬香

 用爲棊局又能埋土水不朽用堪浴室之材𤋱火以可

 避蚊蚊惡其香去蜈蚣喜其香慕來凡好不好之異如

 此者多又有不結實樹【俗呼倍倍榧】凡榧子殼頭近於尖𠙚

 有小肬目以指甲押之則能破其中子有紫黒衣此與

 栗子衣同味甚澀濇俗呼曰澀皮難脫連殼微焙則澀

 皮昜脫甘香美山人摘榧子糝灰經日販之

 古今醫統云榧子陳者浸一宿以烈火烘皮皆砧其殼

 食之如新

榧油 取中子微炒搾之以其油煎諸果麪及豆腐香味

 勝於麻油然本草不言榧油何哉

〇柀子 神農本草以爲別物汪頴爲粗榧蘇恭時珍等

 以爲榧異名倭名抄以上柀訓未木異說紛紜恐倭名

 抄可爲是

 又倭名抄以柏爲榧異名而柏與栢同字故俗多以栢

 爲榧訓用皆其誤起于和名抄【柏卽松柏之柏也其木葉似榧而異】

 

    *

 

かや   柀子《ひし》   赤果

     玉榧《ぎよくひ》 玉山果

【音「斐」。】

     【和名、「加倍《かへ》」

      俗、云ふ、「加也《かや》」。】

     「榧」の字、亦、「棑」に作る。

 

「本綱」に曰はく、『榧は、深山の中に生ず。人、呼んで、「野杉《やさん》」と爲《なす》。其の木、栢《はく》のごとくにして、微《やや》軟なり。其の理(きめ)、松に似て、文采《もんさい》、有り。噐《うつは》の用と爲るに、堪《たへ》たり。其の葉、杉に似、絕(たゞ)、長《ちやう》≪ずる≫に難《なん》≪あ≫り。木に、牝・牡、有り、牡は、𬜻《はな》さいて、牝は、實(みの)る。冬月、黃≪なる≫圓《まろき》花を開き、實を結ぶ。大≪いさ≫、小≪さく≫、棗《なつめ》のごとく、其の核《さね》、長《ながく》して、橄欖の核のごとし。尖る者、尖らざる者、有り。稜《かど》、無《なく》して、殼、薄く、黃白色。其≪の≫仁《にん》、一重《ひとへ》の黒≪き≫粗き衣《ころも》、有り。中は、白色。嚼(か)みて久《ひさしく》すれば、漸《やうや》く、甘美なり。生《なま》にて啖《く》ふべし。亦、焙(い)り、收《たくはふ》べし。小にして、心《しん》[やぶちゃん注:芯。]、實《じつ》する者[やぶちゃん注:しっかりと詰まっているもの。]を以《もつて》、佳と爲《なす》。一樹、數十斛に下《くだ》らず。』≪と≫。

『榧《かし》≪の≫實【甘、平、濇《しぶし》。】』 『常に食《くひ》て、五痔を治す。寸白《すはく》≪の≫蟲を療し、小兒、黃≪にして≫、瘦《やせ》、蟲積《ちゆうしやく》有る者、宜《よろ》し≪く≫、之れを食ふべし。豬(ぶた)の脂(あぶら)を以《もつて》、榧を炒れば、黒皮、自《おのづか》ら、脫(ぬ)ぐ。榧の子と、甘蔗(さたうきび)と同《おなじ》く[やぶちゃん注:一緒に。]食へば、其の渣(かす)、自《おのづと》、軟≪かになれり≫【榧の子の皮、「菉豆《ろうとう》」に反《はん》す。能く、人を殺すなり。】≪と≫。』≪と≫。

△按ずるに、榧は、和州吉野の產、最も良し。其の木理(きめ)、細にして、宻《みつ》にして、文采《もんさい》・芬香《ふんかう》、有り。用《もちひ》て、棊局(ごばん)[やぶちゃん注:碁盤。]と爲《なす》。又、能《よく》、土・水に埋《うづめ》て、朽ちず。用て、浴室の材に堪《たへ》たり。火に𤋱《くん》じて、以《もつて》、蚊を避くべし。蚊は、其の香を惡《にく》んで、去る。≪然れども、≫蜈蚣(むかで)は、其《その》香を喜《よこび》て慕(した)ひ來《きた》る。凡そ、好(すき)・不好(ぶすき)の異、此《かく》のごとくなる者、多《おほし》。又、實を結ばざる樹、有り【俗、呼んで、「倍倍榧」と名づく。】。凡そ、榧の子≪の≫殼の頭《かしら》、尖りに近き𠙚、小《ちさ》き肬《いぼ》≪の≫目《め》、有り、指の甲(つめ)を以《もつ》て、之れを押せば、則《すなはち》、能《よく》、破(わ)れる。其《その》中、子、紫黒《しこく》≪の≫衣《ころも》、有り。此《これ》と、栗≪の≫子《み》の衣と、同《おなじ》く、味、甚だ澀-濇《しぶし》。俗、呼んで、「澀皮」と曰ふ。脫《はぎ》難し。殻を連《つらね》て、微《やや》、焙《あぶ》れば、則《すなはち》、澀皮、脫《はぎ》昜く、甘く、香《か》、美なり。山人、榧の子を摘(つま)みて、灰に糝(まぶ)して、日を經て、之れを販《ひさ》ぐ。

「古今醫統」に云はく、『榧≪の≫子の陳《ふる》者、浸すこと、一宿、烈火を以《もつて》、皮を烘《やく》。皮、皆、其殼(から)≪を≫、砧《たたき》、之≪れを≫食へば、新《あらた》なるがごとし。』≪と≫。

榧の油《あぶら》 中子《なかご》を取《とり》て、微《やや》、炒り、之≪れを≫搾(しぼ)り、其油を以《もつて》、諸果・麪《めん》、及《および》、豆腐を煎(い)る。香味、麻油に勝れり。然《しか》るに、「本草≪綱目≫」、榧≪の≫油を言はざるは、何ぞや。

〇柀子《ひし》 「神農本草」に、以《もつて》、『別物』と爲《なす》。汪頴《わうえい》は、『粗き榧』と爲《なし》、蘇恭・時珍等、以《もつて》、『榧の異名』と爲《なす》。「倭名抄」に柀を以《もつて》「未木(まき)」と訓ず。異說、紛紜《ふんうん》たり[やぶちゃん注:物事の入り乱れているさま。]。恐くは、「倭名抄」を、是《ぜ》と爲《なす》べし。

 又、「倭名抄」、「柏(かへ)」を以《もつて》、『榧の異名』と爲《なす》。而≪して≫、「柏」と「栢」と同字なり。故、俗、多《おほく》、「栢」を以《もつて》、「榧」の訓と爲して、用《もちひる》。皆、其《その》誤《あやまり》は「和名抄」に起れり【「柏」は、卽ち、「松柏」の「柏」なり。其の木の葉、榧に似れども、異なり。】。

 

[やぶちゃん注:本邦の「榧」は、

裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera

であるが、当該ウィキによれば、『日本の本州(宮城県以西)、四国、九州、屋久島にかけての地域』、及び、『朝鮮半島に分布する』とあって、中国には分布しない。東洋文庫訳の後注にも、『中国の榧も日本のカヤもイチイ科』Taxaceae『であるが、日本のカヤと同種のものは中国にない。しかし、香榧などカヤ属』 Torreya 『のものはあるとされている。』とあった。

 そこで、「維基百科」で「香樹」を調べてみると、「榧がヒットし、そこの学名は、イチイ科ではあり、繁体字では「榧樹」であるものの、本文で「香榧」とし、学名も、

 Torreya grandis (和名は「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「カヤ」によって「シナガヤ」(支那榧)であることが判明した)

で、通称で「中国榧」とあって、『主に中国南部の比較的湿度の高い地域で植生する。現在、同種は、浙江省の東陽・諸曁(しょき)・富陽、安徽省の黟県で、ごく一般的である。 同種の成長と成熟期間は 年である。一年目に開花し、二年目で結実し、三 年目に成熟する。果実はオリーブ型で、殻は硬く、淡黄色の身は黒い皮で包まれている。可食で、栄養価も高い。東アジア諸国では、将棋盤を作るのに使われる高級木材である。模式標本は浙江省で採集されたものである。』といった内容が記されてあり、「別名」の項には、『香榧・小果榧・凹叶榧・榧』(☜)『小果榧樹・鈍叶榧樹・榧・野杉』(☜)『大榧・細か圓榧・栾泡榧・米榧・了木榧・芝麻榧・』とあった。これによって、

「本草綱目」の「榧」と、良安が評言している「榧」は、同科の別種である

ことが明確となった。但し、

中国には恐らく、Torreya grandis ではない、Torreya 属は他にもありそうに思われる。「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「カヤ」を見るに、

Torreya fargesii(巴山榧樹・球果杉・球果榧・崖頭杉・箆子杉)

チャボガヤ Torreya grandis var. radicans nucifera

ヒダリマキガヤ Torreya grandis var. macrosperma

コツブガヤ Torreya grandis var. igaensis

ハダカガヤ Torreya grandis var. nuda

雲南榧樹Torreya yunnanensis

が掲げられてあるが、この内、

「チャボガヤ」(矮鶏榧)は、本邦のカヤが、本州の日本海側の多雪地帯に適応した変種

であるから中国産ではなく(当該ウィキを参照)、ヒダリマキガヤ・コツブガヤ ・ハダカガヤも、学名は本邦のカヤの変種であり、岐阜県「東白川村」公式サイト内の「東白川村の文化財」の「天然記念物」の「邦好(くによし)の大カヤ」の解説を見る限り、本邦産と思われるが、最後の「雲南榧樹」は中文名(「維基百科」の「云南榧)から見て、中文名が雲南省由来であるから、中国産カヤ属の一種であることは疑いない。そこで、「拼音百科」を調べたところ、「榧属」があり、そこに、「下級分類」の項で、

巴山榧 Torreya fargesii

 巴山榧(原亜種)Torreya fargesii subsp. fargesii

 四川榧(亜種)Torreya fargesii subsp. parvifolia

があり、同百科の当該ページで、分布を『陝西省虹陽溝、双河、宣陽、陝西省黄白山、河南省上城、湖北省英山桃花城森林農場、湖南省石門市』、『四川省西部』とあった。少なくとも、以上の太字の種は、中国に分布するカヤ属の種であることは明らかである。

 良安は、残念ながら、無論、別種とは考えていない。

 なお、引用は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「五斂子」([077-11b]以下)のパッチワークである。

「棗」双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ(黒梅擬)科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis 。先行する「棗」を見られたい。

「橄欖」再三、言っているが、オリーブと早まってはいけない。全くの別種である、双子葉植物綱ムクロジ目カンラン科 Burseraceaeカンラン属ウオノホネヌキ(正式和名だが、「カンラン」でないと、通じないな) Canarium album 。先行する「橄欖」を見られたい。

「數十斛」「槲」は「石」に同じで、「一槲」は「十斗」。明代の「一斗」は、現在の一斗(十八・〇三九リットル)より少し低い、十七・〇三七リットルであるので、百七十・三七リットル。

「五痔」複数回既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫訳の割注には、『五痔 内痔(脈痔・腸痔・血痔)、外痔(牡痔・牝痔)。』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、確かに「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げているが、やはり具体に病態を記さない。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。

「寸白《すはく》≪の≫蟲」ヒト寄生性の条虫・回虫・蟯虫等を指す。

「小兒、黃≪にして≫、瘦《やせ》」小児性黄疸であろう。

「蟲積《ちゆうしやく》」同じくヒト寄生虫病による諸症状を指すが、「疳の虫」等という言い方を考えれば、そうでない内臓疾患・精神疾患・神経疾患等も、誤認も含めて、含まれていることも大いにあったろう。

「豬(ぶた)」中国では、この漢字は「豚」を指す。

「甘蔗(さたうきび)」単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum 。物自体が奈良時代に齎されているものの、栽培となると、近世で(但し、琉球王国では行われていた)、「日本大百科全書」によれば、中国では、カラサトウキビ(チュウゴクサトウキビ)S. sinensis を唐時代から栽培しており、その栽培技術や砂糖の製法は厳重な管理下に置かれていた。これが日本へ伝えられたのは明代で、一説によると、船が難破して福建省に漂着した奄美大島の直川智(すなおかわち)という人物が、密かに製法を学び取り、慶長一五(一六一〇)年に三本の苗を隠して持ち帰ったのが最初と伝えられる。奄美大島の大和(やまと)村には、直川智を祀る開饒(ひらとみ)神社がある。また江戸後期には、サトウキビは薩摩藩(琉球王国を密かに支配していた)の重要な財源となり、明治維新を裏で支えた、とあった。

「菉豆《ろうとう》」「綠豆」で、これは双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ Vigna radiata の種子の名である。「維基百科」の同種は「绿豆」である。要は、我々が食べている「もやし」の種である。詳しくは、先行する「𮅑樹」の私の注を見られたい。

「反《はん》す」食い合わせが禁忌であること。

「蚊は、其の香を惡《にく》んで、去る。≪然れども、≫蜈蚣(むかで)は、其《その》香を喜《よこび》て慕(した)ひ來《きた》る。凡そ、好(すき)・不好(ぶすき)の異、此《かく》のごとくなる者、多《おほし》」個人サイト「感動樹木」の「樹木の見所」

の「榧」のページに、「名前の由来」の項に、『昔、カヤの枝葉を燻して蚊を追い払ったことから、「蚊遣り」→「カヤリ」→「カヤ」となったとの説がある』とある。夏山で、実際に蚊やりに燃やした経験があるが、逆にムカデが好いて寄ってくるというのは、ホンマかいな? 識者の御教授を乞う。

「倍倍榧」不詳。『カヤ属の木の二倍体で不実性になるのかな?』などと安易に妄想させる名だな。

「古今醫統」複数回、既出既注

「榧の油」高知の「榧工房 かやの森」公式サイト内の「榧の実油(100mL) 希少な榧の実から搾った、日本古来の最高級油」がよい。『現在では榧の実油(榧油)の生産はほとんど行われていないため、その存在はあまり知られていません。しかし、この油は徳川家康が食べた天ぷらにも使われ、大正時代の文献では「最高級の植物油」として紹介されるなど、日本の伝統に根付いた貴重な逸品です』とあり、製油過程も詳しい。

『然《しか》るに、「本草≪綱目≫」、榧≪の≫油を言はざるは、何ぞや』何故かは、判らない。

「柀子《ひし》」サイト「家庭の中医学」の「ヒシ・・榧子」には、『イチイ科 Texaceae 榧樹 Terreya grandis Fort. (カヤ)の成熟種子を乾燥したもの』とするが、おかしいだろ? 「産地」の項に『中国』とあるが、それじゃ、本邦と朝鮮半島にしか分布せんぜ? 「臨床応用」には、『薬性がおだやかで薬力が充分であるから、腸管内寄生虫の駆除に広く用いる。 鈎虫には、百部などを配合して、たとえば榧子殺虫丸を用いると確実な効果がある(条虫の駆虫作用もある)。』とある。

「神農本草」漢代に書かれた最古の本草書「神農本草經」のこと。

「汪頴」各種食品の薬効と料理方法などが記載された中国の本草書に「食物本草」があるが、この書は成立に不審な点があり、一つには、古く、元の李杲(りこう:号は東垣(とうえん))著とされるものの、名借りた別人である、この汪頴なる人物が明の一六二〇年に刊行したものともされる。全七巻。

「蘇恭」蘇敬(五九九年~六七四年)の別称。初唐の官人で本草家。

『「倭名抄」に柀を以《もつて》「未木(まき)」と訓ず』「和名類聚抄」の「卷第二十」「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」の「柀」。国立国会図書館デジタルコレクションの当該部を参考に訓読する。

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柀(マキ)  「玉篇」に云はく、『柀【音「彼」。「日本紀私記」に云はく、『末木、今、案ずるに、又、杉の一名なり。「爾雅注」に見ゆ。】は木の名。柱に作る。之れを埋《うづみ》て、能く、腐ちざる者なり。』。

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『「倭名抄」、「柏(かへ)」を以《もつて》、『榧の異名』と爲《なす》。而≪して≫、「柏」と「栢」と同字なり。故、俗、多《おほく》、「栢」を以《もつて》、「榧」の訓と爲して、用《もちひる》。皆、其《その》誤《あやまり》は「和名抄」に起れり【「柏」は、卽ち、「松柏」の「柏」なり。其の木の葉、榧に似れども、異なり。】』同前で、「卷第十七」の「菓蓏部第二十六」の「菓類第二百二十一」にある「榧子」。同前で示す。《 》は私が補ったもの。

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榧子(カヘ《ノミ》) 「本草」に云はく、『柏実【「柏」、音「百」。】、一名は榧子【「榧」は音「匪」。和名「加倍」。】』。

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……でもね……良安さんよ……あんたは、鬼の首捕ったようにブイブイ言ってるがね、あんたが始めた植物部の冒頭の「柏」、日中の「柏」の違いを認識せずに大誤解の無限ループに嵌まり込んでしまっていた踏み出しから悪魔の左足から入り込んじまったことを……知らねえよな?……その高々の鼻……最後にゃ……腐って、落ちるゼ…………

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