阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「淸見關觀音告凶」
[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、記号などもふんだんに用いた。]
「淸見關觀音告凶《きよみがぜきの くわんのん きようを つぐ》」 庵原郡《いはらのこほり》奧津驛淸見關に有り。
傳云《つたへていふ》、
「某の年、武藏國の住人吉見二郞某、大番に當《あたり》て、其弟男衾三郞《おぶすまさぶらう》某と共に上京す。
途中、遠江國多賀志山《たがしやま》に於て、山賊と戰ひ、利なくして、二郞、討《う》たる。
郞等《らうだう》權守《ごんのかみ》家綱、主《あるじ》の首《くび》、幷に、形見の品々を携へ、本國に歸るとて、淸見關に至る時、海中より、觀世音菩薩、出現し、二郞が女《むすめ》、慈悲が身の成行《なりゆき》を告《つげ》給ふ。
後、果して然り。」。
「大須磨三郞繪卷物」云《いはく》、
『昔、東海道のすゑに武藏の大介といふ大名あり。其子に吉見二郞・をふすま三郞とて、ゆゝしき二人の兵《つはもの》ありけり。常に聖賢の敎をまもり侍《はべり》ければ、よの兵よりも、花族、榮耀、世にいみじくぞ聞えける。
吉見の二郞は、色をこのみたる男にて、みやつかへしけるある上﨟女房を迎《むかへ》て、たぐひなく、かしづきたてまつり、田舍の習《ならひ》には、ひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びわをひき、月花《げつくわ》に心をすまして、あかしくらし給ふほどに、なべてならず、うつくしき姬ぎみ、一人いでき給ヘり。
觀音に申《まうし》たりしかば、やがて、
「『慈悲』と、いはむ。」
とてこそ、なづけ給ける。
おとなしくなり玉ふまゝに、いとヾなまめき給へり。
八か國の中に聞及《ききおよび》て、こゝろをかけぬ大名・小名ぞ、なかりける。
其中に、
「上野(かうづけの)國難波の權守が子息・難波の太郞を、むこに、なさん。」
とて、難波より吉見へ、ふみを、つかはしければ、
「これをば、きらふべきに、あらず。」
とて、陰陽に吉日をみせられければ、占《うら》、申すやう、
「今三年と申《まうす》、八月十一日いぬの時よりこのかた、吉日、見へず候。」
といふに、この樣《やう》を返事したりければ、權守、
「いつまでも、約束、變改あるまじくは」
とぞ、悅びける。
をふすまの三郞、あにヽは、一樣、かはりたり。【中畧。】
かくて、八月下旬の頃、吉見二郞兄弟、大番つとめにとて、京上《きやうのぼり》せられけり。
み川[やぶちゃん注:三河。]の道の山賊ども、七百人、遠江の、たかし山にて、寄合《よりあひ》、
「たから、とらむ。」
とぞ、待《まち》うけたる。
「大勢は、宿々の煩《わづらひ》成《なる》べし。」
とて、をふすまの三郞は、一日、さきだちて、のぼらる。
山賊どもヽ、聞《きき》おそれてぞ、とをし[やぶちゃん注:ママ。「通(とほ)し」。]たてまつる。
後陣にさがりて、吉見二郞、一千餘騎にて、のぼり給ふ。【中畧。】
盜人の張本、尾張國にきこえ候、「へんはいしやうじ」と申《まうす》もの、
「『きみの御寶《おたから》を給はり侯はヾや。』とて、これに候。」
と、いひもはてさせで、吉見郞等《らうだう》權守家綱といふもの、つよくひきとりて、
「これ、ほしがり申《まうす》。たから、とらせん。」
とて、はなつ矢に、「へんはいしやうじ」、くびほね、ゐさせて、たふれにけり。
やぶれしやうじ[やぶちゃん注:ママ。やぶれし「しやうじ」の脱字であろう。]には、おとりたり。
其子、二郞太郞、おやを、うたれて、やすからず、
「寶をとりても、なにかはせむ。」
とて、ひきとり、ひきとり、はなつやに、吉見御曹司、よろひのひきあわせ、射《い》ぬかれて、馬より、さかさまに、おち給へば、「うとう太夫」、かたに、ひきかけたてまつりて、坂のしもへぞ、くだりける。
權守、是を見て、二郞太郞に打合《うちあひ》て、生取《いけどり》にして、くびを、きり、なぎなたのさきにぞ、つらぬきたる。
ほめぬものこそ、なかりける。
山賊共も、五百人は、みな、うたれぬ。
吉見の侍・郞等も、二百餘人はうたれにけり。
先陣にのぼるを、ふすま三郞のもとへ、早馬、たてたりければ、この事、聞《きき》て、いそぎ、立《たち》かへる。
吉見二郞、悅《よろこび》て、遺言をぞ、せられける。
「三十六所の所知をば、三郞殿にたてまつる。其中《そのうち》、一所と、吉見の家とは、女房と、ひめとに、たび給へ。正廣・家綱には、中田下鄕《なかたしものがう》を(あ)たふべし。各《おのおの》そ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、これを、たしかに、きけ。姬を、みはなち給ふんなよ。これぞ、この世に、おもひをく[やぶちゃん注:ママ。]事。」
とて、つひに、はかなくなり給ひぬ。
「さてしも、あるべきならねば。」
とて、三郞は京へのぼらる。
武藏へは、家綱かたみと、くびとを、ひたゝれに、つゝみて、もちつヽ、はせくだりける。
次の日のくれ程に、するがの國淸見關にぞ、はせつきたる。
馬より、おりて、しばらくやすむ程に、ひとつのふしぎぞ、いできたる。
夢ともなく、うつゝともおぼえずして、みぎはより、海の中ヘ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりありて、浪のうへに、觀音の靈像、現じ給ひて、ひたゝれにつゝみたるくびへ、ひかりを、さし給ひて、
「これは、慈悲がなげきのあはれにおぼゆれば、まづ、ふだらく山へ、むかふるなり。」
と、おほせらるヽ、とおもふほどに、程なく、かきけすやふにうせ給ひぬ。
たのもしさに、悅のなみだをぞ、ながしたる。
武藏の吉見には、かヽる事とも知《しり》玉はず、夜もすがら、くまなき月をながめて、女房たち、おはしけるに、姬君、のたまふやう、
「すぎぬる夜の夢に、家綱がきたりつるが、左の手に『たか』をすへて、右の手に、かぶとをもちてありつるが、鷹は、そりて、西のかたへ、とびゆき、かぶとは、つちに、おちつる。」
と、のたまへば、母うへ、聞《きき》給ひて、
「弓とりは、『たか』とみゆるは、魂《たましひ》にて、あんなり。かぶとゝみゆるは、頭《かしら》にてあるなるものを、何事のあるべきやらむ。」
と、むねのうちさはぎ給ふほどに、曉がたに、家綱、きたりて、淚をながしつヽ、
「これ、御覽侯へ、御館《おんたち》の、御ありさまよ。」
とて、くびと、かたみとを、椽《えん》に、さしをきて、庭にたふれぬる。
女房、おさなき人々、なみだにくれて、かなしみ給ふ事、かぎりなし。
家綱、ありつるありさま、淨見が關の事を申《まうす》にぞ、すこし、なぐさみ給ひける云云。」。
今、世に一卷を傳へ、中・下の二卷、失《う》す。故に事蹟、詳《つまびらか》ならず。
[やぶちゃん注:「衾三郞」「世界大百科事典」の「男衾三郎絵詞」(おぶすまさぶろうえことば)より引く(コンマは読点に代えた)。『鎌倉時代』、十三『世紀末ころの絵巻。後半を欠く』一『巻が現存するのみで全体の構成はわからないが、観音の霊験譚としてまとめられた恋愛物の一種であったと想定される。物語は、武蔵国で都ぶりの生活を送る吉見二郎と、あえて醜女をめとって武芸のみに生きる男衾三郎という地方武士の兄弟の対比から始まる。観音の申し子である吉見の美しい娘(おそらく主人公)は、父の死後、許婚とも引き離され、男衾のもとで虐待される。その後の物語展開は不明。絵には独特の強い筆癖があり、人物の容貌にも誇張がみられるが、随所に描き込まれた四季の風物によって、画面は趣豊かなものとなっている。画風から』「伊勢新名所歌合繪卷」『と同じ絵師の手になると思われ、鎌倉時代における絵画制作の状況を考えるうえで興味深い。他の物語絵巻に比べ、地方武士の生活を題材としている点で珍しく、史料としても貴重である』とあった。
「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津にある古代から鎌倉中期まであった関所。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が後に記した』「更級日記」『には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが窺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」・「平家物語」『の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み』、『軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』。『設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された』として、第六代鎌倉幕府将軍宗尊親王の「續(しよく)古今和歌集」より、
忘れずよ淸見が關の浪間より
かすみて見えしみほの浦松
の一首が掲げられてある。
「多賀志山」恐らくは、本文の周縁の地方名から、栃木県宇都宮市にある古賀志山(こがしやま)のことと思われる。
なお、以上に注した以外について、これと言ってソースがないので、これまでとする。]
阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「淸見關觀音告凶」
[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、記号などもふんだんに用いた。]
「淸見關觀音告凶《きよみがぜきの くわんのん きようを つぐ》」 庵原郡《いはらのこほり》奧津驛淸見關に有り。
傳云《つたへていふ》、
「某の年、武藏國の住人吉見二郞某、大番に當《あたり》て、其弟男衾三郞《おぶすまさぶらう》某と共に上京す。
途中、遠江國多賀志山《たがしやま》に於て、山賊と戰ひ、利なくして、二郞、討《う》たる。
郞等《らうだう》權守《ごんのかみ》家綱、主《あるじ》の首《くび》、幷に、形見の品々を携へ、本國に歸るとて、淸見關に至る時、海中より、觀世音菩薩、出現し、二郞が女《むすめ》、慈悲が身の成行《なりゆき》を告《つげ》給ふ。
後、果して然り。」。
「大須磨三郞繪卷物」云《いはく》、
『昔、東海道のすゑに武藏の大介といふ大名あり。其子に吉見二郞・をふすま三郞とて、ゆゝしき二人の兵《つはもの》ありけり。常に聖賢の敎をまもり侍《はべり》ければ、よの兵よりも、花族、榮耀、世にいみじくぞ聞えける。
吉見の二郞は、色をこのみたる男にて、みやつかへしけるある上﨟女房を迎《むかへ》て、たぐひなく、かしづきたてまつり、田舍の習《ならひ》には、ひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びわをひき、月花《げつくわ》に心をすまして、あかしくらし給ふほどに、なべてならず、うつくしき姬ぎみ、一人いでき給ヘり。
觀音に申《まうし》たりしかば、やがて、
「『慈悲』と、いはむ。」
とてこそ、なづけ給ける。
おとなしくなり玉ふまゝに、いとヾなまめき給へり。
八か國の中に聞及《ききおよび》て、こゝろをかけぬ大名・小名ぞ、なかりける。
其中に、
「上野(かうづけの)國難波の權守が子息・難波の太郞を、むこに、なさん。」
とて、難波より吉見へ、ふみを、つかはしければ、
「これをば、きらふべきに、あらず。」
とて、陰陽に吉日をみせられければ、占《うら》、申すやう、
「今三年と申《まうす》、八月十一日いぬの時よりこのかた、吉日、見へず候。」
といふに、この樣《やう》を返事したりければ、權守、
「いつまでも、約束、變改あるまじくは」
とぞ、悅びける。
をふすまの三郞、あにヽは、一樣、かはりたり。【中畧。】
かくて、八月下旬の頃、吉見二郞兄弟、大番つとめにとて、京上《きやうのぼり》せられけり。
み川[やぶちゃん注:三河。]の道の山賊ども、七百人、遠江の、たかし山にて、寄合《よりあひ》、
「たから、とらむ。」
とぞ、待《まち》うけたる。
「大勢は、宿々の煩《わづらひ》成《なる》べし。」
とて、をふすまの三郞は、一日、さきだちて、のぼらる。
山賊どもヽ、聞《きき》おそれてぞ、とをし[やぶちゃん注:ママ。「通(とほ)し」。]たてまつる。
後陣にさがりて、吉見二郞、一千餘騎にて、のぼり給ふ。【中畧。】
盜人の張本、尾張國にきこえ候、「へんはいしやうじ」と申《まうす》もの、
「『きみの御寶《おたから》を給はり侯はヾや。』とて、これに候。」
と、いひもはてさせで、吉見郞等《らうだう》權守家綱といふもの、つよくひきとりて、
「これ、ほしがり申《まうす》。たから、とらせん。」
とて、はなつ矢に、「へんはいしやうじ」、くびほね、ゐさせて、たふれにけり。
やぶれしやうじ[やぶちゃん注:ママ。やぶれし「しやうじ」の脱字であろう。]には、おとりたり。
其子、二郞太郞、おやを、うたれて、やすからず、
「寶をとりても、なにかはせむ。」
とて、ひきとり、ひきとり、はなつやに、吉見御曹司、よろひのひきあわせ、射《い》ぬかれて、馬より、さかさまに、おち給へば、「うとう太夫」、かたに、ひきかけたてまつりて、坂のしもへぞ、くだりける。
權守、是を見て、二郞太郞に打合《うちあひ》て、生取《いけどり》にして、くびを、きり、なぎなたのさきにぞ、つらぬきたる。
ほめぬものこそ、なかりける。
山賊共も、五百人は、みな、うたれぬ。
吉見の侍・郞等も、二百餘人はうたれにけり。
先陣にのぼるを、ふすま三郞のもとへ、早馬、たてたりければ、この事、聞《きき》て、いそぎ、立《たち》かへる。
吉見二郞、悅《よろこび》て、遺言をぞ、せられける。
「三十六所の所知をば、三郞殿にたてまつる。其中《そのうち》、一所と、吉見の家とは、女房と、ひめとに、たび給へ。正廣・家綱には、中田下鄕《なかたしものがう》を(あ)たふべし。各《おのおの》そ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、これを、たしかに、きけ。姬を、みはなち給ふんなよ。これぞ、この世に、おもひをく[やぶちゃん注:ママ。]事。」
とて、つひに、はかなくなり給ひぬ。
「さてしも、あるべきならねば。」
とて、三郞は京へのぼらる。
武藏へは、家綱かたみと、くびとを、ひたゝれに、つゝみて、もちつヽ、はせくだりける。
次の日のくれ程に、するがの國淸見關にぞ、はせつきたる。
馬より、おりて、しばらくやすむ程に、ひとつのふしぎぞ、いできたる。
夢ともなく、うつゝともおぼえずして、みぎはより、海の中ヘ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりありて、浪のうへに、觀音の靈像、現じ給ひて、ひたゝれにつゝみたるくびへ、ひかりを、さし給ひて、
「これは、慈悲がなげきのあはれにおぼゆれば、まづ、ふだらく山へ、むかふるなり。」
と、おほせらるヽ、とおもふほどに、程なく、かきけすやふにうせ給ひぬ。
たのもしさに、悅のなみだをぞ、ながしたる。
武藏の吉見には、かヽる事とも知《しり》玉はず、夜もすがら、くまなき月をながめて、女房たち、おはしけるに、姬君、のたまふやう、
「すぎぬる夜の夢に、家綱がきたりつるが、左の手に『たか』をすへて、右の手に、かぶとをもちてありつるが、鷹は、そりて、西のかたへ、とびゆき、かぶとは、つちに、おちつる。」
と、のたまへば、母うへ、聞《きき》給ひて、
「弓とりは、『たか』とみゆるは、魂《たましひ》にて、あんなり。かぶとゝみゆるは、頭《かしら》にてあるなるものを、何事のあるべきやらむ。」
と、むねのうちさはぎ給ふほどに、曉がたに、家綱、きたりて、淚をながしつヽ、
「これ、御覽侯へ、御館《おんたち》の、御ありさまよ。」
とて、くびと、かたみとを、椽《えん》に、さしをきて、庭にたふれぬる。
女房、おさなき人々、なみだにくれて、かなしみ給ふ事、かぎりなし。
家綱、ありつるありさま、淨見が關の事を申《まうす》にぞ、すこし、なぐさみ給ひける云云。」。
今、世に一卷を傳へ、中・下の二卷、失《う》す。故に事蹟、詳《つまびらか》ならず。
[やぶちゃん注:「衾三郞」「世界大百科事典」の「男衾三郎絵詞」(おぶすまさぶろうえことば)より引く(コンマは読点に代えた)。『鎌倉時代』、十三『世紀末ころの絵巻。後半を欠く』一『巻が現存するのみで全体の構成はわからないが、観音の霊験譚としてまとめられた恋愛物の一種であったと想定される。物語は、武蔵国で都ぶりの生活を送る吉見二郎と、あえて醜女をめとって武芸のみに生きる男衾三郎という地方武士の兄弟の対比から始まる。観音の申し子である吉見の美しい娘(おそらく主人公)は、父の死後、許婚とも引き離され、男衾のもとで虐待される。その後の物語展開は不明。絵には独特の強い筆癖があり、人物の容貌にも誇張がみられるが、随所に描き込まれた四季の風物によって、画面は趣豊かなものとなっている。画風から』「伊勢新名所歌合繪卷」『と同じ絵師の手になると思われ、鎌倉時代における絵画制作の状況を考えるうえで興味深い。他の物語絵巻に比べ、地方武士の生活を題材としている点で珍しく、史料としても貴重である』とあった。
「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津にある古代から鎌倉中期まであった関所。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中』(六七三年~六八六年)『に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている』。寛仁四(一〇二〇)年、『上総国から京への旅の途中』、『この地を通った菅原孝標女が後に記した』「更級日記」『には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが窺える』。『その後、清見関に関する記述は』「吾妻鏡」・「平家物語」『の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し』、『経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み』、『軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった』。『設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された』として、第六代鎌倉幕府将軍宗尊親王の「續(しよく)古今和歌集」より、
忘れずよ淸見が關の浪間より
かすみて見えしみほの浦松
の一首が掲げられてある。
「多賀志山」恐らくは、本文の周縁の地方名から、栃木県宇都宮市にある古賀志山(こがしやま)のことと思われる。
なお、以上に注した以外について、これと言ってソースがないので、これまでとする。]