阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「獵師殺鬼」
[やぶちゃん注:底本はここ。訓点をかく再現した。段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]
「獵師殺鬼《りやうし おにを ころす》」 富士郡内野村足形【枝鄕《えだがう》也。】にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村に次兵衞と云《いふ》獵師あり。
或夜、庚申待《かうしんまち》とて、內野に行《ゆく》途中、芝川の橋を過《よぎ》る時に、橋上に異形の鬼、立《たて》り。
其名を問ふに、言《いは》ず。
次兵衞、深く怪《あやしみ》て、携《たずさへ》る所の鐵炮に、鉄・銅の二たまを込《こめ》て、是をうつに、あやまたず、橋下《はしした》に打落《うちおと》して、家に歸れり。
鬼、其夜、同郡人穴村《ひとあなむら》の□□山淸岸寺に徃《ゆき》て、住僧に疵藥《きずぐすり》をこへり。
住僧、熖硝《えんしやう》を竹筒に入《いれ》、火繩を添《そへ》て與へて曰《いはく》、「是を富士の『三つ澤』と云《いふ》所に持行《もちゆき》て、此筒《このつつ》を疵に當《あて》て火を付《つけ》よ。速《すみやか》に愈《いえ》ん。」
と敎《をしへ》たり。
鬼、欺《だまさ》れて、敎の如くす。
時に火、疵より、腹中に發し、燒死す。云云」。
「今に鬼骨、此所《このところ》にあり。是より、此橋を「鬼橋《おにばし》」と唱へ、足形者《は》、節分に、豆蒔《まめまき》、せず。鬼打木《おにうちぎ》を出《いだ》さず。
次兵衞が子孫、七郞右衞門と號して、今にあり。云云」。
[やぶちゃん注:「内野村足形」現在の静岡県富士宮市内野足形(うつのあしがた:グーグル・マップ・データ)。グーグル・マップ・データ航空写真のここに今も「鬼橋」がある。左の「富士富士宮線の車道のある方が「新鬼橋」(ストリートビュー1)であり、その画像の向こう側に古い元の「鬼橋」があるのである。反対側から撮ったここにその橋にある「鬼橋」の文字を確認出来る(ストリートビュー2)。静岡新聞社の「SBS NES」の『「節分に豆まき…知らなかった」富士山麓に“鬼がいない村” 爆破した⁉から「退治いらない」』の動画附きの記事が、非常によい! 何んと!この橋下には「鬼の足形」とされる岩の凹みがあるのである(動画にもあり。まあ、甌穴ではある)。是非見られたい。実際に、この「足形」地区では、「鬼がいない」から、今も! 節分をしないのである!!!
「庚申待」ウィキの「青面金剛」をもとにしつつ、庚申信仰を概説しておくと、『インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる』。この「三尸」とは道教に由来する人間の体内に潜んでいるとする上尸・中尸・下尸の三匹の虫。これら三匹が六十日に一度巡って来る庚申(かのえさる/こうしん)の日、人が眠りに就くのを見計らって人の体内から抜け出し、天帝にその宿主である人物が六十日の間に成した悪業を総て報告し、その人の寿命を縮めると言い伝えられた(本来の道教には地獄思想はなく、その代わりに悪事を働くとその分プラグマティクに寿命が縮まると考えるのである)ことから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と呼んだ。参考にしたウィキの「三尸」によれば、『日本では平安時代に貴族の間で始まり』、一人では睡魔を堪えるのが難しいなどというのを口実として、村落や町単位で集団でこれを行うことを主目的とした庚申講が江戸時代におおいに盛んとなり、『会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまっ』て、夜通し酒宴を行うという庶民の一大イベントとともなったのであった。
「同郡人穴村」富士宮市人穴(グーグル・マップ・データ)。
「□□山淸岸寺」この寺は現存しないが、先の動画によれば、その跡地とされるものが現存するとあり、その場所も映る。
「富士の『三つ澤』」二つ、考えた。一つは、文字通り「三ッ澤」で、現在の富士市三沢(みつざわ)。「ひなたGIS」でここ。しかし、ここだと、再び、鬼形を経由して行くのが、どうも気になった。そこで、富士宮市で探してみたところ、富士宮市市街から南西位置の富士宮市大鹿窪に三沢寺(さんたくじ:寺名だが、「ひなたGIS」の戦前の地図では地名で出る)とあり、同じくその南東に「三澤」の小字名らしきものが、確認出来た。後者としたい気もするのだが、本文では明らかに「みつざは」で、「富士の」とあるわけで、ちょっと迷うものの、前者に同定しておく。]
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