阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「大般若經の奇怪」
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。]
「大般若經の奇怪」 庵原郡瀨名村、戶倉社に有り。里人云《いふ》、
「庵原郡龍爪山に『般若沙』と云所、有り。是、推古天皇二十八年四月、『大般若經』、天より降《くだ》りし事、有り。故に此名、有り。或云、『推古天皇十八年、聖德太子、令を傳へ、小野妹子を隋國に遣《やり》り、前生《ぜんせい》に持《じ》する處の「法華經」を求め給ふ。此時、衡山寺に天竺將來の「大般若經」有り。妹子、卽《すなはち》、彼《かの》寺に至り、乞《こひ》得て、歸朝し、太子に奉る。太子、深く尊《たつと》み給ふの餘り、
「帝都近きは失火の災《わざはひ》、計り難し。しかじ、遠境に置《おか》むには。」
とて、此山に納め給ひしを、いつの頃よりか、龍爪山《りゆうさうざん》の南麓、瀨名村の戸倉明神の社《やしろ》に、こめたり。此經は、黃紙《きがみ》に梵字に書《かけ》り。朱塗足付の箱に入《いれ》、二箱、有り。內《うち》に「守護神」と號《なづけ》て、一尺計りの赤き蛇一《ひとつ》、蟠《わだかま》れり。二箱とも、然《しか》り。經箱は、雨に濡《ぬるる》をも厭《いとは》ず、社壇の外に居《す》へたりしが、近頃は社內に納《をさめ》て、見る者、なし。此神社は、古くより、いますにや、今川家再建の棟札《むねふだ》、今に存す。」云云。
佛經の降る事、赤蛇の經を守護する事、共に前代未聞の奇怪と云《いふ》べし。
[やぶちゃん注:この話、どうも、ディグする気が起こらない。以下の注は、お茶濁しである。悪しからず。
「庵原郡瀨名村、戶倉社」現在の静岡市葵区瀬名にある戸倉神社(グーグル・マップ・データ)であろう。「静岡ミステリー倶楽部(シズミク)」のブログに「竜爪山の般若経伝説を追う 【竜爪登山 編】」があり、『竜爪山は昔から山岳信仰、修行の山として有名でした』、『山伏のような人や、それこそ忍者、天狗伝説など、もっぱら“険しい山”として恐れられ親しまれていたのでしょう』とあり、『穂積神社は竜爪権現と言われ、空海が作らせたと思われる経文が発見されていることから、平安時代に建立され現在に至るのではないかと言われています。高野山のように山岳信仰という点からも、空海や真言宗との関わりが深いと考えられています』と続き、『昔から、信仰心が強い人たちが昼夜を問わず行き来していたと言われ、参道(山道)は松明の灯りで灯され続けていたと言われています』、『竜爪山の般若平には』六百『巻の大般若経が舞い落ち、三方に分けて祀られているという伝説があります』とあった。この前のスレに、「竜爪山探索 【概要】」があり、『推古天皇の時代、竜爪山の山頂に大般若経』六百『巻が天から舞い落ちたという伝説があります』。六百『巻の内』二百『巻は般若嶽という場所に、また』二百『巻は竜宮(?)へ納めた後に盗まれ、残りの』二百『巻は戸倉大明神の森に納めたと言われています』。また、『別の説では、般若平という場所に』六百『巻が舞い落ち』、二百『巻は石の祠?棺?に納め、埋めた⇒般若嶽とも言う』。二百『巻は利倉明神社に朱塗りの箱に入れて納めた』。二百『巻はその辺(どの辺?)に寺を立てて納めたが、地域住民が火を焚き煙にして天上に返そうとしたところ、空中で二つに分かれた』とされ、別に、百『巻は北沼上に落ち、そこに寺を立てた(良富院)』、また、百『巻は浅畑北村に落ち、そこに寺を立てた(竜禅寺)』という伝承があることが記されてあった。生憎、後の「般若沙」はなかった。
「龍爪山」以前にも出たが、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「般若沙」修験道絡みなら、「はんにやしや」か。]