阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「人穴の怪」
[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。]
「人穴《ひとあな》の怪《くわい》」 富士郡《ふじのこほり》富士山にあり。人穴と號《なづく》く。
里人云《いふ》、
「或時、修行者【名を失す。】あり、穀を絕《たた》ん事を誓《ちかひ》て、富士の林間に隱れ、松葉を食して、凡《およそ》三日を過ぐ。
爰《ここ》に一人《ひとり》の老翁、何國《いづこ》ともなく來て、
「我、住所《すみどころ》に來《きた》れ。」
と、袖を携《たづさへ》て誘《さそひ》、行《ゆく》事、百步計《ばかり》にして、一《ひとつ》の朱門に至る。其《それ》、鮮明、云計《いふばかり》なし。
又、白沙《はくさ》を行く事、數《す》十町[やぶちゃん注:六掛けで、六・五四五キロメートル。]にして、水晶・珊瑚を以て造れる大殿あり。「欄葉閣」と號《なづ》く。內には雲母《うんも》の扉を儲《まう》け、玉花《ぎよくくわ》の簞[やぶちゃん注:ママ。「ひさご」(瓢箪)ではおかしい。「近世民間異聞怪談集成」では、『簟』とし、「たかむしろ」とする。竹又は葦で編んだ目のあらい筵・莚(むしろ)であるから、それで採る。「玉花の」は「華麗な」の意でとっておく。]を敷けり。
日《ひ》は南陸《なんりく》に行《ゆき》て暖《あたたか》に[やぶちゃん注:日差しはまるで遙か南の大陸に行ったように暖かで。]、蘭麝《らんじや》の香《かう》[やぶちゃん注:非常によい香り。]は四方に芬芳《ふんぱう》たり。
又、其《その》東には、金(こがね)の山を疊み、池には瑠璃の砂を敷き、珍魚、躍り、奇鳥、聯《つらな》る。
其觀《そのくわん》、譬《たとふ》るに、ものなく、心、忙然として、歸らん事を忘る。
時に、翁、告《つげ》て曰《いはく》、
「汝、此境に居る事、年久しといへども、故鄕、猶《なほ》、忘るべからず、まさに今、送り歸さんとす。其道を敎ゆべし。」
とて、行《ゆく》事、漸《やうや》く十步計り、忽《たちまち》、當國、鹿原《ししはら》と云《おふ》所に出《いで》たり。
爰《ここ》に於て、今年の支干《えと》を問へば、延寳三年卯の五月也。
往時、富士山に隱れしは、万治三年子五月某《なにがし》の日也。
星霜、已に十六年を經《へ》、其間、只、片時《へんじ》に過《すぎ》ざるの思《おもひ》をなせり。
奇なる哉《かな》、此人穴は、往昔《わうじやく》、將軍賴家卿の命《めい》に依《より》て、仁田四郞忠常《につたしらうただつね》の入《いり》たりし神仙の栖《すむ》穴也。云云」。
今、猶《なほ》、神仙の瑞《ずい》を現《あらは》す。實《げ》に、本朝無双の名山也。
[やぶちゃん注:「人穴」地名としては、富士宮市人穴(グーグル・マップ・データ)。
「鹿原」現在の静岡市清水区宍原(ししはら:グーグル・マップ・データ)であろう。
「延寳三年卯の五月」グレゴリオ暦一六七五年六月二十三日から七月二十二日相当。次も合わせて第四代将軍徳川家綱の治世。
「万治三年子五月某の日」同前で一六六〇年六月八日から七月七日相当。
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さても、最後に示された頼家の命令で仁田忠常が人穴に入った話は、私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郞富士人穴に入る」に詳しいので見られたい。十全なる私の注も附してある。また、同一の作者になると思われる、本篇と酷似した私の電子化注「伽婢子卷之九 下界の仙境」も、是非、読まれんことを、強くお薦めする。挿絵もある。]