阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士河怪」
[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。「□」は欠字。但し、底本では、二字の欠字は長方形である。]
「富士河怪《ふじがはのくわい》」 富士郡《ふじのこほり》富士川【富士川の渡瀨は、駿東《すんとうのこほり》・庵原《いはらのこほり》の兩郡に跨るといへども、源《みなもと》、富士郡より出《いづ》、故に當郡に記す。】にあり。
「明良洪範」云《いはく》、
『神君の姬君を、松平玄蕃頭《げんばのかみ》家淸へ遣《つかは》されし時、平松金次郞某《なにがし》事、御付《いんつき》に仰付《おほせつけ》られ御下りの時、富士川を御渡り有《あり》しに、川中《かはなか》にて、御船《おんふね》、すはりて、動かず。
船頭、申《まうす》は、
「是は、岩淵《いはぶち》の主《ぬし》の見込《みこみ》し也。是非なき事なれば、銘々、何にても印《しるし》を付《つけ》、川へ投入《なげいれ》、しづみたる物、則《すなはち》、主《ぬし》の見入《みいり》しなれば、一人《ひとり》、入水《じゆすい》有《ある》べし。」
とて、各《おのおの》鼻紙やうの物[やぶちゃん注:鼻紙入れ(江戸時代はこれは財布と同義である)のような物であろう。]を投入《なげいれ》しに、姬君の鼻紙ばかり、沈みしかば、皆々、驚き、
「いかヾはせん。」
と云へ共、船頭は、
「大勢に一人は替《かへ》がたし。」
と申《まうす》。
姬君の御召物、此度出來《しゆつたい》せし御上召《おんうへめし》、紅縮緬《くれなゐちりめん》なりしを、平松、申請《まうしうけ》、其外《そのほか》、付來《つけきた》りし者共に委細申合《まうしあはせ》、金次郞は御召物を羽織の樣に打《うち》かぶり、船より飛入《とびいる》とひとしく、御船《おんふね》は、動きたる。
姬には、船より御上り有《あり》しに、其一町計り水下《みなしも》[やぶちゃん注:川下。一町は百九メートル。]にて、紅《くれなゐ》の波、水底《みなそこ》より、はね上りしに、其後《そののち》は見えず成《なり》けり。
川下にて見し人は、
「暫くは、血の流るゝが如く、見えし。」
と云《いへ》り。
此《これ》以後、岩淵の主、絕《たえ》て人を取《とる》事なし、とぞ。
是までは、年每《としごと》に。三人は、きはめて、人を、とり、船を、くつがへしする事多かりしと也《なり》。云云』。
平松は御譜代の勇士にして、御懇《おんねんごろ》の者也。水中にして彼《かの》怪を討《うち》たる天晴《あつぱれ》の働き、感ずべし、賞すべし。
「松平主水淸良家記」云《いはく》、
『天正九年、神祖、上意を以て、御同腹の御妹君を玄蕃頭家淸に玉はりて室とす。三州竹谷《たけのや》に入輿《にふよ》、天正十八年十月十七日、逝去、時に二十二歲。法名天桂院殿月窓貞心。相州中島村□□山福巖寺に葬《はふる》、後三州西郡□[やぶちゃん注:底本では以上の通り、右寄りで小さい□である。但し、「近世民間異聞怪談集成」では、ここは二字分の通常脱字となっている。]山天桂院に改葬す。入輿《にうよ/こしいり》の月日、並《ならびに》、御名《おんな》知ず《しら》。云云』。
是を以《もつて》考《かんがふ》るに、富士川難《なん》の事、家淸が許《もと》に入輿の時には、あらざるべし。
[やぶちゃん注:主ロケーションは、「富士川の渡し」で、ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、この「姬君」=「天桂院」については、サイト「LocalWiki」の「小田原」の「天桂院の墓」がよい。全文を一部のリンクを生かして引用する。
《引用開始》
天桂院の墓
天桂院の墓天桂院の墓(てんけいいんのはか)は、中町の福厳寺境内の墓地にある、徳川家康の妹・天桂院(高瀬君)の墓。天桂院は、天正18年(1590)10月17日、数え年22歳のときに、今井の陣屋(寿町4丁目、今井権現社のあたり)で死去した。曹洞宗の寺院に葬って欲しいとの遺言により、福厳寺に埋葬されたという。法名「天桂院殿月窓貞心大禅定尼」。墓には宝塔が1基あり、五輪塔で高さ約1尺5寸(45cm)。(1)
天桂院は、天正9年(1581)に松平玄蕃頭家清の室となっていたため、その没後、福厳寺は毎年、松平家清の家(19世紀前半の子孫の家は旗本の松平主水清良)から仏供料を贈られ、また自身が東海道を通行するときに参拝を受けていた。毎年の忌日には小田原城主からの代拝もあった。(1)
葬地に関する疑義
『風土記稿』は、松平主水家の系譜には「号天桂院殿月窓貞心大姉、葬所武州八幡山、一寺起立仕、号月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同国西郡へ改葬、右寺も同所に移す、其後慶安二年(1649)、天桂院全栄寺を一箇寺に仕、龍台山天桂院と改」とあるため、武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市児玉町)八幡山に「天桂院」という寺院を建立して葬地とし、のちに三河国に改葬されたと考えられ、福厳寺が葬地とされていることには疑義がある、としている(1)。
しかし、福厳寺は19世紀前半に至るまで、松平主水の家や小田原藩主から香奠を受けているので、別に理由があるのだろう、として、国替えの際の旅行中に具合が悪くなるなどして、まだ今井の陣屋が破却されていなかったため、同書にしばらく滞在して養生するなどしたのではないか、と推測している(1)。
参考資料
1.『風土記稿』中島村 福厳寺[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像が視認出来る。]
《引用終了》
ウィキの「天桂院」によれば(一部のリンクを残した)、『天桂院(てんけいいん、永禄12年(1569年) - 天正18年10月17日(1590年11月14日))は戦国時代の女性。徳川家康の異父妹。名は於きんの方、留、高瀬君とも』。『久松俊勝の娘で母は於大の方。天正9年(1581年)、竹谷松平家6代当主・松平家清に嫁ぎ』、『松平忠清を産んだ。初め』、『竹谷城(蒲郡市)に住んだが、天正18年(1590年)より家康から竹谷松平家に与えられた武蔵八幡山に住んだ』。『お産のため死去。墓所は福巌寺(小田原市)の他』『蒲郡市』の『天桂院にも墓碑がある』とある。
「明良洪範」江戸中期成立の逸話・見聞集。十六世紀後半から十八世紀初頭までの徳川氏・諸大名その他の武士の言行、事跡等を七百二十余項目で集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?~宝永四(一七〇七)年:俗姓真田)の著。正編二十五巻・続編十五巻。成立年は不詳(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションで(明治四五・大正元(一九一二)年国書刊行会刊)視認でき、当該部はここ(左ページ上段四行目から)。最後のカットされた部分を以下に示す。
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右小田原氏の物語りに度々聞し事なり今平松金右衛門と云て主水家の長臣にて此家に右の記錄あり。金次郞兩人の內一人は子孫今に殘れる士は忠臣を第一とすべき事なり
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